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灰銀の戦乙女は、制服を知らない  作者: 最後に残った形


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第4章 第8話:予選開始


 第一訓練場は、朝から別の場所のようだった。


 普段の授業では広すぎると感じる石畳の床も、今日は人で満ちている。壁際には模擬剣が整然と並べられ、試合用の白線が床に引かれ、安全術式の淡い青い光が円形の試合場を包んでいた。


 観覧用の仮設席も設けられている。


 一年生だけでなく、上級生の姿もある。教師たちが試合表を確認し、生徒会の補佐が観客の誘導をしていた。訓練場の端には医務班の机も置かれ、包帯や冷却符、簡易治癒具が並んでいる。


 剣術大会。


 その言葉が、ついに紙の上から現実へ降りてきた。


 アルト・レインフォードは観覧席の端に座り、左手首を布の上からそっと押さえた。


 朝鐘で少し光った。


 訓練場へ入った時にも、青い安全術式の光に反応したのか、手首が一度だけ熱を持った。


 今は落ち着いている。


 痛みなし。


 熱、少し。


 声なし。


 現在地は、第一訓練場。


 午前。


 剣術大会予選の日。


 隣にミリアさんがいる。


 少し離れた出場者待機位置に、リゼさんとカイがいる。


 そう確認すると、足元の感覚が少し戻る。


 訓練場は熱気で満ちていた。


 笑い声。


 緊張した息。


 模擬剣を握り直す音。


 誰かが名前を呼ぶ声。


 観覧席のざわめき。


 それらが重なって、胸の奥を揺らしてくる。


 怖くはない。


 でも、いつもより身体の内側が敏感になっている。


 ミリア・ファルネーゼが隣で静かに尋ねた。


「熱は?」


「少し。痛みなし。声なし」


「現在地は?」


「第一訓練場。午前。剣術大会予選。ミリアさんと観覧席。リゼさんとカイは待機位置」


「感情は?」


 アルトは少し考えた。


「緊張。少し楽しみ。少し怖い。人が多いから」


「良好ね」


 ミリアは微笑んだ。


「今日は、人の熱も銀環に影響するかもしれないわ。強くなったら、すぐ言ってね」


「はい」


 アルトは頷いた。


 視線を出場者待機位置へ向ける。


 カイ・ロックハートは、すでに落ち着きなく足を動かしていた。模擬剣を握り、右足、左足、後ろ足、戻る足、と何かを確認している。昨日までの稽古で叩き込まれた半歩を、必死に体へ留めようとしているのだろう。


 その横で、リゼ・グレイスは静かに立っていた。


 灰銀の髪を短く結び、制服ではなく大会用の軽装を着ている。学園支給の白い訓練上着に、動きやすい黒の下衣。腰には模擬剣。


 剣を帯びたリゼは、やはり空気が違った。


 本人は目立たないようにしている。


 姿勢も、呼吸も、表情も、必要以上に鋭くならないよう制御している。


 けれど、彼女の周囲だけ、少し静かだった。


 周囲の出場者が興奮したり、緊張したり、話したりしている中で、リゼはまるでそこに深く根を張った木のように動かない。


 それが逆に、目を引く。


 アルトは昨日の夜の言葉を思い出した。


 本人同意済。


 リゼ・グレイス。


 戦場の命令ではなく、自分で出場を決めた名前。


 その名前が、今日、試合表の中にある。


 観覧席の少し離れた場所では、ラウル・ヴァレンシュタインが静かに準備をしていた。


 濃い藍色の髪を後ろで軽く整え、支給された大会用上着を隙なく着ている。模擬剣を握る手にも、立つ姿にも、余計な力がない。


 さらに反対側には、セレナ・アイゼンベルグ。


 彼女は座ったまま、試合場ではなく出場者たちを見ていた。淡い銀灰色の髪が肩先で揺れ、冷静な目が一人一人の動きを拾っている。


 その視線が、一瞬だけアルトの左手首へ向いた。


 アルトは手首を押さえた。


 熱が少し強くなる。


「セレナさん?」


 ミリアが低く尋ねる。


「うん。見られた」


「痛みは?」


「なし。熱、少し上がった。声なし」


「現在地」


「第一訓練場。観覧席。ミリアさんといる。セレナさんが少し見た」


「良好。目を逸らしたい?」


 アルトは少し迷い、首を横に振った。


「大丈夫。今日は、僕も見ます」


 ミリアは静かに頷いた。


「ええ」


 教師が試合場中央へ立った。


 ざわめきが少しずつ静まる。


「これより、第一学年基礎剣術大会予選を開始する」


 声が訓練場全体に響いた。


「本大会は、基礎剣術履修成果の確認を目的とする。勝敗だけでなく、姿勢、間合い、制御、礼節を評価対象とする。安全術式下で行うが、無理な打撃、過度な魔術補助、故意の危険動作は即時失格とする」


 生徒たちが息を呑む。


 教師は続ける。


「剣は相手を傷つけるためだけのものではない。自分を制御し、相手を見て、場に応じるためのものでもある。各自、そのことを忘れないように」


 アルトはリゼを見た。


 リゼは教師の言葉を静かに聞いていた。


 自分を制御する。


 場に応じる。


 その言葉は、今日のリゼのためにもあるように聞こえた。


 そして、カイのためにも。


 予選の組み合わせが読み上げられていく。


 出場者は多い。


 最初は二つの試合場を並行して使い、短時間の一本勝負で進めることになっていた。


 第一試合、第二試合。


 名前が呼ばれるたび、出場者が前へ出る。


 模擬剣を合わせ、礼をし、教師の合図で動き出す。


 観覧席から歓声が上がる。


 模擬剣がぶつかる音が響く。


 安全術式が淡く光り、強すぎる衝撃を吸収していく。


 アルトは初めて、学園行事としての剣を見ていた。


 戦場ではない。


 相手を殺さない。


 倒れても医務班がいる。


 観客が拍手する。


 それでも、剣がぶつかる瞬間の空気は鋭い。


 怖さと熱が混ざる。


 しばらくして、カイの名前が呼ばれた。


「カイ・ロックハート。第一試合場へ」


 カイが息を吐いた。


 遠くからでも、肩が一瞬上がるのがわかった。


 リゼが隣で何か短く言う。


 おそらく、声量か、呼吸か、戻る足か。


 カイは頷いた。


 模擬剣を握り、試合場へ向かう。


 観覧席の一部から声が上がった。


「ロックハート、頑張れ!」


 ダリオだった。


 彼は別の組で、まだ待機中らしい。


 カイは振り返らず、片手だけ上げた。


 声を出さない。


 リゼの訓練が効いている。


 アルトは少し笑った。


 カイの相手は、体格の似た男子生徒だった。


 名前はバルド・メイスン。


 基礎剣術授業で見たことがある。


 大きな盾を使う授業が得意で、模擬剣でも防御を固めるタイプだった。


 教師が二人を確認する。


「礼」


 二人が礼をする。


 カイの礼は少し硬い。


 だが、以前より乱暴ではない。


「始め」


 合図と同時に、カイが踏み込んだ。


 速い。


 いつものカイの速さ。


 観覧席から歓声が上がる。


 相手のバルドは剣を縦に構え、受ける。


 重い音が響いた。


 カイの一撃は強い。


 バルドの足がわずかに下がる。


 カイがさらに追おうとする。


 その瞬間、アルトの胸がひやりとした。


 前に出すぎる。


 昨日まで何度も見た動き。


 リゼも待機位置でわずかに目を細めている。


 カイは追いかけた。


 だが、完全には体を投げなかった。


 後ろ足が、わずかに残った。


 バルドが横へ剣を流そうとする。


 カイの体が前へ流れかける。


 しかし、カイは踏みとどまった。


 半歩。


 戻る足。


 それでも、まだ粗い。


 バルドの剣がカイの肩へ伸びる。


 カイは無理に押し返そうとして、剣が少し浮いた。


 危ない。


 アルトは思わず拳を握った。


 カイはそこで昨日の稽古を思い出したのか、押し返すのをやめた。


 剣を少し引き、半歩下がる。


 相手の剣が空を切る。


 観覧席から「おお」と声が漏れた。


 カイはその瞬間を逃さなかった。


 前へ。


 今度は体全部を投げるのではなく、剣だけを先に出す。


 バルドの胸元へ模擬剣が軽く触れた。


 安全術式が青く光る。


「一本。勝者、カイ・ロックハート」


 歓声が上がった。


 カイは一瞬、叫びそうになった。


 口が開く。


 しかし、途中で止めた。


 拳を握り、深く息を吐く。


「よし」


 小さい。


 それでも、アルトには聞こえた気がした。


 カイは礼をして、試合場を出る。


 歩き方は誇らしげだ。


 だが、少し危うかった。


 勝った。


 でも、かなり危なかった。


 ミリアが隣で言った。


「勝ったわね」


「うん」


「危なかったわね」


「うん」


 アルトは左手首を押さえた。


 痛みなし。


 熱、少し。


 声なし。


 感情は、嬉しい。心配。応援してよかった。


 待機位置へ戻ったカイに、リゼが何かを言っている。


 カイは最初、嬉しそうにしていたが、すぐに真面目な顔になった。


 おそらく、「勝ちましたが危険な勝ち方です」とでも言われているのだろう。


 少し離れていても、リゼの表情でわかる。


 そして、カイの返事も想像できる。


 勝ちは勝ちだろ。


 でも、次は直す。


 たぶん、そんな感じだ。


 次の試合場で、ダリオ・エルムの名前が呼ばれた。


 ダリオはカイに親指を立ててから、試合場へ向かった。


 彼の戦い方は、カイほど派手ではない。


 踏み込みも出力もカイには劣る。


 だが、安定している。


 相手の剣を受け、無理に押さず、足を使って角度を変える。


 最後は相手の剣を外へ流し、肩へ軽く当てた。


「一本。勝者、ダリオ・エルム」


 観覧席から拍手が起こる。


 カイが待機位置で悔しそうにしている。


 ダリオの方が危なげなく勝ったのが少し気に入らないのかもしれない。


 アルトは小さく笑った。


 次々と試合が進む。


 ラウル・ヴァレンシュタインの名前が呼ばれると、訓練場全体の空気が変わった。


 首席候補筆頭。


 名門騎士家。


 正統派騎士剣術。


 彼が試合場へ立つだけで、観客の姿勢が少し前へ出る。


 相手は緊張していた。


 それでも、ラウルは礼儀正しく礼をした。


「始め」


 合図。


 相手が先に打つ。


 ラウルは受けない。


 ほんの半歩、剣の軌道からずれる。


 相手の剣が空を切る。


 次の瞬間、ラウルの模擬剣が相手の胸元へ触れていた。


 速い。


 だが、乱暴ではない。


 まるで試合が始まる前から終わりの形を知っていたようだった。


「一本。勝者、ラウル・ヴァレンシュタイン」


 観覧席から大きな拍手が起こる。


 相手の生徒も、悔しそうではあるが、どこか納得した顔で礼を返した。


 カイは待機位置でラウルを見ていた。


 拳を握っている。


 ただし、昨日とは違う。


 遠いな、と言った顔ではない。


 遠い。


 でも、見えている。


 そんな顔だった。


 ミリアが小さく言う。


「カイさん、見方が変わったわね」


「うん。前より、ちゃんと見てる気がする」


「負ける前に負け方を知る、だったわね」


「リゼさんの言葉、嫌な名前だけど効いてる」


 ミリアが笑った。


「確かに、名前は少し厳しいわ」


 セレナ・アイゼンベルグの試合は、ラウルとは違う意味で静かだった。


 相手は魔剣術基礎を扱う女子生徒。


 開始直後、相手は剣に薄く魔力を乗せ、速度を上げようとした。


 だが、セレナはそれを見ていないようにすら見えた。


 彼女の足元に、ほんのわずかな魔力の揺れ。


 体の位置が半歩ずれる。


 相手の剣が空を切る。


 セレナの剣先が、相手の手首へ軽く触れる。


 安全術式が青く光った。


「一本。勝者、セレナ・アイゼンベルグ」


 静かすぎる勝利。


 観客は一拍遅れて拍手した。


 何が起きたのか、理解するのに少し時間がかかったのだろう。


 アルトは背筋が冷えるのを感じた。


 セレナの剣は、派手ではない。


 でも、相手が何をしたいかを先に読んで、そこを消す。


 見られているという感覚が、彼女の剣そのものにもある。


 セレナは試合場を出る時、またアルトの方を一瞬見た。


 今度は左手首だけではない。


 アルトの顔。


 ミリア。


 待機位置のリゼ。


 それらを順に見た。


 ミリアが静かに言う。


「彼女は、剣だけを見ていないわね」


「うん」


 アルトは左手首に触れた。


「痛みなし。熱、少し。声なし。セレナさんが、僕たちの関係を見てる気がする」


「その感覚は大事にしましょう」


「怖いです」


「ええ。でも、怖いとわかった上で見ていれば、ただ怯えるよりは戻りやすいわ」


 アルトは頷いた。


 予選はさらに進み、いよいよリゼの名前が呼ばれた。


「リゼ・グレイス。第二試合場へ」


 訓練場の空気が、はっきり変わった。


 ざわめきが広がる。


 教師推薦枠。


 確認中から本人同意済になった生徒。


 授業では目立たないのに、教師推薦された少女。


 ラウルに興味を持たれ、セレナにも観察され、王宮監察官の視察対象にもなっているリゼ。


 彼女が、試合場へ歩いていく。


 アルトは息を止めた。


 リゼの足取りは静かだった。


 速くも遅くもない。


 普通。


 普通に見せようとしている。


 しかし、普通を作るための制御が、アルトには見えた。


 剣を持つ右手に力は入りすぎていない。


 肩も上がっていない。


 視線は相手だけを見すぎず、試合場の白線、安全術式、教師、観覧席の位置を確認している。


 相手は、基礎剣術で中位ほどの男子生徒だった。


 体格はリゼより大きい。


 彼は緊張しているようだったが、リゼを侮ってはいなかった。


 礼。


 リゼも礼をする。


 その礼は、美しいほど正確だった。


 だが、リゼ自身は美しく見せようとはしていない。


 ただ、場に必要な形を取っている。


「始め」


 相手が先に踏み込んだ。


 強めの一撃。


 観覧席が少し息を呑む。


 リゼは受けた。


 いや、受けたように見えた。


 模擬剣が触れる瞬間、ほんのわずかに角度が変わる。


 相手の力はそのまま下へ落ちた。


 リゼは踏み込まない。


 相手が二撃目を出す。


 リゼは半歩下がる。


 カイに教えていたものと同じ。


 戻る足を残す半歩。


 だが、精度が違った。


 相手の剣先が、リゼの訓練上着の前で止まる。


 届かない。


 リゼはその場から、ほんの少し剣を上げた。


 相手の手首に軽く触れる。


 安全術式が青く光る。


「一本。勝者、リゼ・グレイス」


 あまりに短い。


 あまりに静か。


 観覧席が一瞬、反応に遅れた。


 それから拍手が起こる。


 だが、その拍手には戸惑いが混ざっていた。


「え、今の?」


「何した?」


「相手、自分で崩れた?」


「グレイスさん、ほとんど動いてなくない?」


「でも勝ったよな」


 アルトは胸が熱くなるのを感じた。


 リゼさん、勝った。


 それは嬉しい。


 でも、同時にわかった。


 目立たない勝ち方が、逆に目立っている。


 派手に打ち込めば、強いで終わったかもしれない。


 だが、リゼはほとんど動かなかった。


 それなのに勝った。


 それは見る人に、なぜ、と思わせる。


 リゼは礼をし、試合場を出る。


 表情は変わらない。


 勝利の喜びも、誇りも、ほとんど見せない。


 それもまた、目立つ。


 待機位置へ戻る途中、ラウルがリゼを見ていた。


 セレナも見ていた。


 カイは目を輝かせている。


 ダリオは口を開けていた。


 そして、観覧席の上段。


 王宮式の濃紺の外套を着た男が立っていた。


 オルド・ハイマン。


 アルトの胸が一気に冷えた。


 オルド監察官は、静かに拍手していた。


 大きな音ではない。


 周囲に合わせる程度の拍手。


 だが、彼の目はリゼから離れていなかった。


 アルトの左手首が強く熱を持つ。


 ミリアがすぐに手を添えるように近づいた。


「痛みは」


「なし」


「熱は」


「中」


「声は」


「なし」


「現在地は」


 アルトは息を吸う。


「第一訓練場。観覧席。ミリアさんといる。リゼさんが勝った。オルド監察官が見てる」


「感情は」


「嬉しい。怖い。リゼさんが勝って嬉しい。でも、見られて怖い」


「良好。両方あっていいわ」


 アルトは頷いた。


 オルドの視線は、今度は一瞬だけアルトへ向いた。


 穏やかな微笑み。


 昨日の第二応接室と同じ表情。


 丁寧で、柔らかくて、何を記録しているのかわからない顔。


 アルトは逃げずに視線を下げた。


 真正面から見返すことはできなかった。


 でも、左手首を隠してうずくまることもしなかった。


 現在地を言う。


 自分で戻る。


 今日はリゼさんの試合を見に来た。


 それを忘れない。


 予選は続いた。


 カイは自分の初戦後、リゼの試合を見て何か言いたそうだったが、次の出場者の邪魔にならないよう我慢している。


 リゼは待機位置で静かに水を飲んでいた。


 勝った後も、呼吸が乱れていない。


 だが、視線が一度だけ観覧席上段へ向いた。


 オルドを確認したのだろう。


 その後、彼女はアルトの方を見た。


 アルトは左手首を押さえたまま、小さく頷いた。


 大丈夫。


 痛みはない。


 熱はあるけど、戻れる。


 リゼはほんのわずかに頷き返した。


 それだけで、胸が少し落ち着いた。


 昼近くまでに、予選の第一段階は終わった。


 カイ、ダリオ、ラウル、セレナ、リゼは全員勝ち上がった。


 他にも数名が残っている。


 訓練場には興奮が満ちていた。


 観客席では、生徒たちが口々に試合の感想を話している。


「ラウル、強すぎるだろ」


「セレナ、何したのかわからなかった」


「ロックハート、危なかったけど勢いあるな」


「ダリオは安定してる」


「グレイスさん、何なの?」


「ほとんど動いてないのに勝ったよな」


「教師推薦って本当だったんだ」


 名前が広がっていく。


 リゼ・グレイス。


 これまで静かだった名前が、訓練場のあちこちで語られている。


 アルトは心配になった。


 でも、同時に思った。


 これはリゼが自分で選んだ出場だ。


 怖い。


 でも、彼女は逃げでなく、命令でもなく、自分の理由で出た。


 なら、自分はそのことを忘れずに見届けなければならない。


 休憩時間になり、出場者たちが観覧席横の休憩場所へ戻ってきた。


 カイは真っ先にアルトたちのところへ来た。


「勝った」


 声量は少し大きい。


 リゼが後ろから言う。


「声量」


「勝った」


 少し小さくなる。


 アルトは笑った。


「おめでとう」


「危なかったけどな」


 カイは自分で言った。


 リゼが頷く。


「危険な勝ち方です」


「自分で言ったんだから、少し柔らかくしろよ」


「次戦までに修正が必要です」


「わかってる」


 カイは少し悔しそうにしながらも、逃げなかった。


「でも、半歩はできた」


「一度成功しました」


「だろ」


「ただし、一度だけです」


「次は二度やる」


「良い目標です」


 カイは少し嬉しそうにした。


 リゼも近づいてきた。


 アルトは彼女を見る。


「リゼさん、勝利おめでとうございます」


「ありがとうございます」


「すごかったです」


 言ってから、少しだけ言葉を直したくなる。


 すごい。


 それだけでは足りない気がした。


「ほとんど動いていないように見えました。でも、相手の力が消えたみたいでした」


 リゼは静かに答える。


「相手の力を落としました。基礎範囲内です」


 カイが言う。


「絶対基礎の顔してないやつだろ」


「基礎です」


「基礎を極めるとああなるのか?」


「一部は」


「怖いな、基礎」


 ミリアが笑った。


 アルトはリゼへ小声で尋ねる。


「オルド監察官、見ていました」


「確認しました」


「大丈夫ですか」


 リゼは少しだけ考えた。


「警戒しています。怖い可能性もあります」


「うん」


「しかし、出場理由は維持しています」


 その言葉に、アルトは少し安心した。


 リゼは戻れている。


 出場理由を忘れていない。


 学園の中で制御する。


 そのために、ここにいる。


 その時、近くから静かな声がした。


「あなた、あの人の剣を怖いと思わないの?」


 アルトは振り向いた。


 セレナ・アイゼンベルグが立っていた。


 いつの間に近づいていたのか、足音がほとんどなかった。


 彼女はリゼではなく、アルトを見ている。


 その目は冷静で、揺れがない。


 ミリアがわずかに姿勢を整える。


 リゼの視線もセレナへ向く。


 カイは反射的に一歩前へ出そうになり、途中で止まった。


 突撃前に確認。


 覚えている。


 アルトは左手首に触れた。


 痛みなし。


 熱、少し上昇。


 声なし。


 現在地は、第一訓練場の休憩場所。


 セレナさんがいる。


 リゼさん、ミリアさん、カイもいる。


 セレナはもう一度、同じように尋ねた。


「リゼ・グレイスの剣。あれを見て、怖くないの?」


 アルトはすぐに答えられなかった。


 リゼの剣は怖い。


 昨日も、一昨日も、怖いと思った。


 戦場の反射が出かけた時も。


 倒れ方を教える時の重い言葉も。


 今日、ほとんど動かず相手を制した剣も。


 怖い。


 でも、怖いだけではない。


 そう言いたかった。


 けれど、言葉がまだ形にならない。


 リゼは黙っている。


 ミリアも、アルトが答えるのを待っている。


 カイは口を開きかけたが、やはり閉じた。


 セレナの目が、アルトの左手首へ一瞬だけ下りる。


「その反応を見る限り、怖いのでしょうね」


 アルトの胸が少し冷える。


 見られている。


 銀環の反応まで。


 でも、逃げたくない。


 アルトは息を吸った。


「怖いです」


 リゼの目がわずかに揺れた。


 アルトは続けようとした。


 だが、言葉はそこで一度止まった。


 怖い。


 その先にあるものを、まだうまく言えない。


 セレナは静かに見ている。


 急かさない。


 ただ、観察している。


 アルトは左手首を押さえ、自分で確認した。


「痛みなし。熱、中。声なし。感情は、怖い。でも、言いたいことがあります」


 ミリアが小さく頷いた。


 リゼは黙って待っている。


 カイも。


 アルトはセレナを見る。


「怖いです。でも、怖いだけじゃありません」


 その言葉を、やっと出した。


 セレナの目が少し細くなる。


「怖いだけじゃない?」


「はい」


 アルトはリゼを見る。


「リゼさんは、今ここで止めています。戦場の剣かもしれないけど、今日の試合では相手を壊さなかった。カイに教える時も、倒れても起きるために教えていました」


 胸が熱い。


 でも、言葉は続いた。


「だから、怖いけど、見ていたいです」


 セレナは黙った。


 その沈黙は長く感じた。


 やがて、彼女は小さく言った。


「そう」


 それだけだった。


 だが、その目には明らかに興味が深まっていた。


「あなたたちは、面白い関係ね」


 ミリアの表情が少しだけ警戒を帯びる。


 セレナは踵を返した。


「次の試合、呼ばれそうだから戻るわ」


 去り際、彼女はリゼを一度だけ見た。


「あなたの剣も、まだ全部見えない」


 リゼは静かに答えた。


「全部を見せる予定はありません」


「でしょうね」


 セレナはわずかに口元を動かし、去っていった。


 アルトは息を吐いた。


 左手首の熱がゆっくり下がる。


 リゼがすぐに確認する。


「痛みは」


「なし」


「熱は」


「中から少し下がってきた」


「声は」


「なし」


「現在地は」


「第一訓練場。休憩場所。リゼさん、ミリアさん、カイといる。セレナさんと話した」


 ミリアが聞く。


「感情は」


「怖かった。でも、言えた。リゼさんの剣は怖いだけじゃないって」


 カイが腕を組みかけて、また下ろした。


「俺もそう思う」


 リゼは少しだけ目を伏せた。


「確認しました」


 その声は静かだったが、どこかいつもより柔らかかった。


 午後の予選後半へ向けて、教師が集合を告げた。


 出場者たちは再び待機位置へ戻っていく。


 カイは模擬剣を握り直し、リゼは静かに歩き出す。


 ラウルは二人を見ている。


 セレナは自分の試合場へ向かっている。


 オルド監察官は観覧席上段で書類を見ていた。


 アルトは左手首を押さえたまま、試合場を見た。


 剣術大会は始まったばかりだ。


 予選の一日だけで、いくつもの視線が集まった。


 カイは勝ったが、危なかった。


 リゼは勝ったが、目立った。


 ラウルは圧倒し、セレナは静かに制した。


 オルドは見ている。


 セレナも見ている。


 そして、自分も見ている。


 怖くても。


 見届けるために。


 夕方、予選一日目が終了した。


 正式な本戦進出者は翌朝掲示されるが、勝ち残った者たちはほぼ決まっている。


 カイは一勝。


 リゼも一勝。


 ラウル、セレナ、ダリオも勝ち上がり。


 訓練場を出る頃には、観客席の熱がまだ体に残っていた。


 中庭へ出ると、夕方の風が少し涼しかった。


 アルトの左手首は、ようやく落ち着いてきている。


「痛みなし。熱、少し。声なし」


 自分から言う。


 リゼが尋ねる。


「現在地は」


「学園中庭。夕方。第一訓練場の外。リゼさん、ミリアさん、カイといる」


 ミリアが聞く。


「感情は」


 アルトは少し考えた。


「疲れた。怖かった。でも、楽しかった。カイが勝って嬉しかった。リゼさんが勝って嬉しかった。セレナさんは怖い。オルド監察官も怖い。でも、今日は見ていられた」


「良好です」


 リゼが言った。


 カイが満足そうに焼き菓子の袋を取り出す。


「予選一勝用」


 ミリアが目を細める。


「いつ買ったの?」


「朝」


「食べなかったのは偉いわ」


「だろ」


 カイは袋を開け、一つをアルトへ、一つをリゼへ、一つをミリアへ渡した。


「俺の勝利用と、リゼの勝利用と、アルトが見てた用と、ミリアが管理してた用」


「用途が多いです」


 リゼが言う。


「一つで兼用だ」


「合理的です」


 アルトは焼き菓子を受け取り、笑った。


「ありがとう」


 甘い匂いが、夕方の空気に混ざった。


 王宮の目も、首席候補たちの視線も、消えたわけではない。


 でも、今は四人で焼き菓子を食べている。


 それが、今日の終わりに必要なことだった。


 夜。


 男子寮の自室で、アルトは紙片を書いた。


 今日は剣術大会予選一日目だった。


 第一訓練場は、いつもの授業とは全然違った。


 安全術式が光っていて、観覧席があって、たくさんの生徒が見ていた。


 カイは初戦で勝った。


 危なかった。


 前に出すぎそうになったけど、一度だけ戻る足を残せた。


 相手の剣を避けて、最後に胸元へ当てた。


 勝った後、大声を出しそうになって止めていた。


 リゼさんは、勝ちましたが危険な勝ち方です、と言いそうな顔をしていた。


 ダリオ君も勝った。


 安定していた。


 ラウルさんは、とても強かった。


 相手が動いた時には、もう勝っていたみたいだった。


 セレナさんは静かだった。


 何をしたのかわからないくらい静かに勝った。


 僕の左手首や、僕たちの関係を見ている気がする。


 リゼさんも勝った。


 ほとんど動いていないように見えた。


 相手の力が消えて、手首に剣が触れていた。


 すごかった。


 でも、目立った。


 目立たない勝ち方が、逆に目立っていた。


 オルド監察官も見ていた。


 拍手していた。


 怖かった。


 セレナさんに、あなたはあの人の剣を怖いと思わないの、と聞かれた。


 僕は怖いと言った。


 でも、怖いだけじゃないとも言った。


 リゼさんは、今ここで止めている。


 だから見ていたいと言った。


 左手首は何度も熱くなった。


 でも、痛みはなかった。


 声もなかった。


 現在地確認を何度もできた。


 予選一日目が終わって、カイが予選一勝用の焼き菓子をくれた。


 用途が多かった。


 でも、おいしかった。


 アルトはペンを止めた。


 今日の訓練場の音が、まだ耳に残っている。


 模擬剣の音。


 歓声。


 教師の声。


 安全術式の青い光。


 カイの小さな「よし」。


 リゼの静かな礼。


 セレナの問い。


 オルドの拍手。


 全部が混ざって、胸の奥に残っていた。


 アルトは最後に、一行を書いた。


 怖い剣を、怖いだけで終わらせずに見ていたい。


 それが今日、僕にできた応援だった。


 紙片を折り、引き出しへしまう。


 窓の外には、夜の鐘楼が立っている。


 剣術大会は始まったばかり。


 王宮の目も、首席候補たちの視線も、まだ続く。


 それでも今日、カイは一勝した。


 リゼも一勝した。


 自分は観覧席にいて、逃げずに見ていた。


 アルトは左手首を胸の上に置いた。


「現在地は、男子寮の自室。夜。僕はアルト。今日は剣術大会予選を見た。怖かった。でも、見ていた」


 銀環は淡く光った。


 痛みはなかった。


 その光は、試合場を包んでいた安全術式の青い光よりもずっと小さく、けれど確かに、手首の奥で静かに揺れていた。


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