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灰銀の戦乙女は、制服を知らない  作者: 最後に残った形


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第4章 第7話:出場する理由


 朝の掲示板の前に、いつもより多くの生徒が集まっていた。


 王立アークレイン学園の中庭には、薄い朝霧がまだ少し残っている。噴水の水音は変わらず澄んでいて、白い校舎の窓は朝日を受けて淡く光っていた。


 けれど、掲示板の前だけは空気が違った。


 そこには、剣術大会の出場者仮一覧が貼り出されていた。


 昨日までは申請者と推薦候補者が別々に掲示されていたが、今朝の紙はより正式な形に近い。希望参加者、教師推薦枠、確認中の者。その分類が整えられ、名前の横には小さな印が付いている。


 生徒たちはその紙を見上げ、声を潜めたり、弾ませたりしていた。


「ラウル、正式に出るって」


「セレナも推薦受けたらしいよ」


「ロックハートの名前もある」


「ダリオもだ」


「グレイスさんは?」


「まだ確認中になってる」


 確認中。


 その言葉が、リゼ・グレイスの名前の横にあった。


 リゼ・グレイス 教師推薦枠 確認中


 アルト・レインフォードは、その文字を見て胸の奥が小さく揺れるのを感じた。


 昨日、王宮監察官オルド・ハイマンと面談した。


 即時移送は保留になった。


 今すぐ王宮へ連れていかれることはない。


 それだけなら、安堵してもよかったのかもしれない。


 けれど、王宮の目は消えなかった。


 むしろ強まった。


 オルド監察官は、リゼの護衛能力と影響力を追加評価対象にした。


 剣術大会を視察する可能性もあるという。


 つまり、リゼが出場すれば見られる。


 出場しなくても、推薦を受けたのに辞退した理由を見られる。


 もう、完全に隠れることはできない。


 アルトは左手首に触れた。


 朝鐘では少し光った。


 今は落ち着いている。


 痛みなし。


 熱、微弱。


 声なし。


 現在地は、学園中庭。


 朝。


 掲示板前。


 リゼさん、ミリアさん、カイといる。


 リゼさんの名前が、確認中になっている。


 そう心の中で確認すると、呼吸が少し整った。


 隣に立つリゼは、掲示板を静かに見上げていた。


 灰銀の髪が朝風に揺れている。制服のリボンは今日もきちんと整っている。表情はほとんど変わらない。


 けれど、アルトにはわかった。


 彼女は平気ではない。


 視線の動きが細かい。


 掲示板だけでなく、周囲の生徒、廊下に立つ生徒会補佐、第一校舎二階の窓、訓練場へ向かう道、全部を確認している。


 警戒している。


 そして、たぶん怖い可能性も否定していない。


 ミリア・ファルネーゼが隣で小さく息を吐いた。


「確認中、ね」


 カイ・ロックハートは腕を組みかけ、リゼに視線で止められて、腕を下ろした。


「もう出ろよ」


「朝一番にそれですか」


 リゼが言う。


「昨日も言っただろ。出ても見られる。出なくても見られる。だったら出ろ」


「判断が単純です」


「でも間違ってるか?」


 カイの声は、いつもより少し低かった。


 リゼはすぐには答えなかった。


 カイは続ける。


「王宮のやつが見るから出ないってなったら、あいつのせいで決めたことになるだろ」


 その言葉に、リゼの目がわずかに動いた。


 ミリアもカイを見る。


 アルトも少し驚いた。


 カイが、王宮の圧力とリゼの意思を分けて考えている。


 昨日の面談。


 保護。


 影響。


 依存。


 王宮はきっと、自分たちの関係をそういう言葉で整理しようとする。


 その王宮の目を恐れて、リゼが出場をやめるなら。


 それもまた、王宮に決めさせられる形になるのかもしれない。


 もちろん、危険なら出ない選択もある。


 出ないことも本人の意思なら大事だ。


 だが、王宮に見られるから、危険だから、アルトの護衛だから、という理由だけで決めるなら、そこにリゼ自身はいない。


 ロウ教師の言葉が蘇る。


 出ないなら、君自身の理由で出ないと言いなさい。


 推薦は命令ではない。


 だが、逃げ道でもない。


 リゼは掲示板の自分の名前を見つめたまま言った。


「王宮監察官の視察可能性は、出場判断における重要な危険要素です」


「わかってる」


 カイが答える。


「でも、それだけで決めるなってことだろ」


 ミリアが柔らかく微笑んだ。


「カイさん、今日はとても大事なことを言っているわ」


「今日はって何だよ」


「いつも大事ではあるけれど、今日は特に」


「ならいい」


 カイは少しだけ照れくさそうに顔を逸らした。


 アルトはリゼを見た。


「リゼさん」


「はい」


「僕も、そう思います」


 リゼの視線がこちらへ向く。


 アルトは少し緊張した。


 リゼの出場に、自分の言葉が影響する。


 それはわかっている。


 だからこそ、慎重に言いたかった。


「僕は、リゼさんが戦うところを見てみたいって思っています」


「はい」


「でも、それは僕の希望です」


 左手首が少し温かくなる。


 痛みはない。


「だから、リゼさんが僕のためだけに出るのは嫌です」


 リゼの目が少し揺れた。


 アルトは続けた。


「僕を守るために出る、とか、僕が見たいと言ったから出る、とか、それだけで決めないでほしいです」


 言いながら、胸が痛んだ。


 見たい。


 出てほしい。


 そう思っている。


 けれど、アルトは第3章で学んだ。


 守りたいからといって、相手の意思を奪ってはいけない。


 友達を遠ざけるかどうかを、自分一人で決めてはいけない。


 それと同じだ。


 リゼが出るかどうかも、アルトが決めてはいけない。


「出ないなら、リゼさんの理由で出ないでほしい。出るなら、リゼさんの理由で出てほしい」


 声は少し震えた。


「僕は、それを待ちたいです」


 掲示板前のざわめきが遠くなる。


 リゼはしばらく黙っていた。


 灰銀の瞳が、アルトを見ている。


 やがて、静かに言った。


「確認しました」


「うん」


「あなたの希望は、私の判断材料です」


「うん」


「しかし、決定理由の全体にはしません」


「はい」


 リゼは掲示板へ視線を戻した。


「検討を継続します」


 カイが小さく言う。


「今日も検討か」


「期限は明日です」


「ぎりぎりまで考えるのか」


「はい」


 ミリアが言った。


「今日の放課後、少し時間を取りましょう。リゼさんのための話し合いを」


「私のため」


「ええ。いつもアルトさんの状態を確認しているでしょう? 今日は、リゼさんの状態も確認する日」


 リゼは少し戸惑ったように瞬きをした。


「私は状態確認対象ですか」


「もちろん」


 ミリアの声は優しかった。


「友達ですもの」


 その言葉に、リゼは返答を一拍遅らせた。


「了解しました」


 朝の鐘が鳴った。


 アルトの左手首が淡く光る。


 掲示板のざわめきと、鐘の音と、リゼの名前。


 いくつものものが重なる。


 リゼが尋ねる。


「痛みは」


「なし」


「熱は」


「少し」


「声は」


「なし」


「現在地は」


「学園中庭。朝。掲示板前。リゼさん、ミリアさん、カイといる。リゼさんの名前は確認中」


 ミリアが聞く。


「感情は」


「心配。見たい気持ちもある。でも、リゼさんに自分で決めてほしい」


「良好です」


 リゼが言った。


 その声はいつも通りだった。


 けれど、アルトには、ほんの少しだけ柔らかく聞こえた。


 午前の授業は、剣術大会前の空気と王宮監察官の気配が混ざっていた。


 廊下では生徒たちが出場者仮一覧について話している。


 教室ではノエル・バートンがアルトに小声で尋ねた。


「グレイスさん、出るのかな」


「まだ確認中」


 アルトは答えた。


「そっか。出たら、すごそうだね」


「うん」


「でも、出ないならそれも理由があるんだろうね」


 ノエルはそれ以上踏み込まなかった。


 その優しさがありがたかった。


 ティナ・ベルは少し離れた席から明るく言った。


「カイ君は絶対出るんでしょ?」


「出る」


 カイが即答した。


 教室の何人かが笑う。


 ティナも笑った。


「返事早いね」


「迷う理由がない」


 リリア・ノースが静かに言った。


「迷わない人と、迷う人がいる」


 その言葉に、アルトはリゼを見る。


 リゼはノートに目を落としていた。


 聞こえていたかはわからない。


 でも、その横顔は少しだけ深く考えているように見えた。


 王国史の授業で、ロウ教師は王家直属騎士団の儀礼試合について話した。


「儀礼試合は、戦争ではない。だが、戦争を知る者が参加することもある。その時、重要になるのは技量の高さではなく、場の意味を理解して剣を制御できるかどうかだ」


 アルトはペンを止めた。


 リゼも、ほんの一瞬だけ顔を上げた。


 ロウ教師は続ける。


「同じ剣でも、戦場で振るうのと、学園の試合で振るうのとでは意味が違う。剣は持ち主の過去を消さない。しかし、持ち主は今どこで、誰の前で、何のために剣を握るかを選ぶことができる」


 今どこで。


 誰の前で。


 何のために。


 アルトはノートの端に書いた。


 剣を握る理由。


 リゼは何のために剣を握るのだろう。


 護衛のため。


 王宮に疑われないため。


 カイと戦うため。


 学園の中で制御するため。


 アルトが見たいと言ったから。


 それらのどれも、完全に間違いではない。


 でも、全部を並べた時、リゼ自身の理由はどこにあるのだろう。


 休み時間、ロウ教師は教室を出る前にリゼへ短く言った。


「グレイス。放課後、資料室に来なさい」


 リゼは立ち上がる。


「了解しました」


 カイが小声で言う。


「また推薦の話だな」


「おそらく」


 リゼが答える。


 ミリアが言った。


「一人で行く?」


 リゼは少し考えた。


「最初は一人で行きます。内容共有後、話し合いをお願いします」


「わかったわ」


 アルトも頷いた。


「待ってます」


 リゼは一拍置いて言った。


「ありがとうございます」


 昼休みになると、中庭には剣術大会の話題がさらに広がっていた。


 カイはダリオに声をかけられ、昨日の受け身についてまた質問されていた。


「倒れても起きる練習、俺もやりたい」


 ダリオが言うと、カイは少し得意げに腕を組みかけ、リゼに視線で止められた。


「リゼに聞け。俺はまだ教えられねえ」


「お前が教えてくれてもいいんだけど」


「俺が教えたら、たぶんお前を転ばせるだけになる」


「それは嫌だな」


「だろ」


 カイは真面目だった。


 以前なら勢いで「教えてやる」と言いそうなところだが、今は自分がまだ覚えている途中だとわかっている。


 リゼが横から言った。


「基礎受け身であれば、放課後の短時間に共有可能です。ただし、教師に許可を取ります」


 ダリオの顔が明るくなる。


「本当に? ありがとう、グレイスさん」


「安全確保のためです」


「それでも助かる」


 近くにいた数人の生徒も興味を示した。


 リゼの稽古が、少しずつ周囲に広がっていく。


 アルトはそれを見ていた。


 昨日ラウルに言われた。


 君の剣は学園の剣じゃない。


 でも、今日のリゼは、学園の中で誰かに安全な倒れ方を教えようとしている。


 それは、学園の剣ではないのだろうか。


 少なくとも、学園の中で息をし始めた剣だ。


 ミリアがアルトの表情を見て微笑んだ。


「嬉しそうね」


「うん。リゼさんの稽古、怖いだけじゃないって、周りにも伝わるかもしれない」


「ええ」


「でも、目立ちますよね」


「目立つわ」


 ミリアは否定しなかった。


「だからこそ、どう目立つかが大事になるの」


「どう目立つか」


「危険な人としてではなく、基礎を教えられる人として。戦場の影だけではなく、学園の中で制御できる人として」


 アルトはリゼを見る。


 彼女はダリオに受け身練習の注意事項を淡々と説明している。


 カイが横で「手首を痛めるなよ」と付け加え、ダリオが「お前に言われると不安だな」と笑っている。


 その光景は普通の学園生活のようで、少しだけ奇跡のようにも見えた。


 昼食後、ユリウスが中庭へ来た。


 表情は昨日ほど硬くないが、疲れは残っている。


「オルド監察官が、午後に訓練場の設備確認を行う可能性がある」


 その言葉に、リゼの目が細くなる。


「剣術大会視察の前段階ですか」


「おそらく。学園保護体制の一環という名目だ」


 カイが顔をしかめる。


「今日も見に来るのか」


「来る可能性がある」


 アルトの左手首が少し熱くなる。


 リゼがすぐに確認する。


「痛みは」


「なし」


「熱は」


「少し」


「声は」


「なし」


 ミリアが尋ねる。


「感情は」


「心配。リゼさんがまた見られる」


 リゼは静かに言った。


「見られることは確定ではありません。ただし、準備します」


 ユリウスはリゼを見る。


「グレイスさん。監察官は君の大会出場可否にも関心を持っている」


「はい」


「出場すれば能力を見られる。辞退すれば辞退理由を問われる可能性がある」


「認識しています」


「学園としては、君の意思を尊重する。ロウ先生も同じだ」


 リゼは小さく頷いた。


「ありがとうございます」


 ユリウスは少し迷い、続けた。


「それと、監察官は君の経歴についても探りを入れている。現時点で学園側は、個人情報の開示を拒否している」


 リゼの表情は変わらなかった。


 だが、空気が一段硬くなる。


「了解しました」


 アルトは胸が冷たくなった。


 リゼの経歴。


 灰銀の戦乙女。


 戦争の英雄。


 王宮は、その名前に近づいている。


「リゼさん」


「はい」


「大丈夫、じゃないですよね」


 リゼは少しだけ沈黙した。


 いつもの「問題ありません」が出るかと思った。


 しかし、彼女は言わなかった。


「警戒しています」


「うん」


「怖い可能性もあります」


 ミリアが静かに頷く。


「ええ」


「しかし、判断不能ではありません」


 リゼは続けた。


「本日、ロウ先生との面談後に整理します」


 ユリウスはそれを聞き、深く頷いた。


「必要なら僕も協力する」


「ありがとうございます」


 ユリウスが去った後、カイは低く言った。


「王宮、嫌な見方するな」


「王宮は価値を見ます」


 リゼが言う。


「人を見るのではなく?」


 アルトが聞いた。


 リゼは少しだけ視線を伏せる。


「場合によります」


 その答えが、逆に重かった。


 午後の授業を終えると、リゼは一人でロウ教師の資料室へ向かった。


 アルトたちは中庭で待つことになった。


 待つ。


 それは第3章から何度も練習していることだ。


 アルトが言えない夢を抱えた時、三人が待ってくれた。


 リゼが出場を決められない今、今度はアルトたちが待つ。


 中庭のベンチに座り、アルトは左手首に触れた。


 痛みなし。


 熱、少し。


 声なし。


 現在地は中庭。


 リゼさんは資料室。


 ミリアさんとカイがいる。


 待っている。


 カイはじっと座っていられず、足元で半歩の練習をしていた。


 前へ出る。


 止まる。


 戻る。


 前へ出る。


 止まる。


 戻る。


 ミリアが笑う。


「落ち着かないのね」


「落ち着かない」


「でも、突撃しない」


「資料室には突撃しない」


「良好ね」


 カイは少し不服そうにしながらも、半歩の練習を続けた。


 アルトはそれを見て、少しだけ笑った。


 リゼが資料室へ入ると、ロウ教師はすでに机の上に推薦書を置いていた。


 昨日と同じ紙。


 だが、今日はその横に別の書類があった。


 王宮監察官からの照会文。


 リゼはその文字を見ただけで、内容をある程度理解した。


「私に関する照会ですか」


「そうだ」


 ロウ教師は答えた。


「オルド監察官が、君の護衛能力、学園内での影響、剣術大会推薦理由について確認を求めている」


「経歴照会は」


「拒否した。学園が保有する生徒個人情報は、本人同意または正式命令なしには開示しない」


「ありがとうございます」


「礼はまだ早い。王宮は別経路で探るだろう」


「認識しています」


 リゼは椅子に座った。


 ロウ教師は推薦書を指で叩く。


「さて、回答期限は明日だ。出るか、辞退するか」


 単刀直入だった。


 リゼは机の上の推薦書を見た。


 リゼ・グレイス。


 教師推薦枠。


 基礎剣術授業における重心制御、間合い認識、防御反応、模擬剣運用において著しく高い能力を確認。


 リゼは昨日、自室で記録した項目を思い出す。


 危険要素。


 正体露見。


 王宮監察官。


 アルト護衛体制。


 ラウルの看破。


 セレナの観察。


 出場する意味の可能性。


 剣を戦場以外の場で扱う経験。


 戦場反射の制御訓練。


 学園生徒としての評価を受ける機会。


 カイの競争意欲に応答する機会。


 アルトが自分を知る機会。


 そして、感情。


 警戒、強。


 不安、中。


 興味、微量。


 拒否感、低から中。


 緊張、中。


 アルトに見られることへの抵抗、低。


 アルトに見られることへの不明な感覚、あり。


 カイと戦う可能性への予測困難な感覚、あり。


 ロウ教師が言う。


「昨日、君はまだ不明だと言った」


「はい」


「今日はどうだ」


 リゼはすぐには答えなかった。


 答えはまだ完全ではない。


 だが、昨日より輪郭はある。


「出場しない理由は、多数あります」


「そうだな」


「出場する理由も、あります」


「そうだな」


「王宮監察官の視察可能性により、出場の危険は増加しました」


「事実だ」


「一方、辞退しても王宮の関心は消えません」


「その通りだ」


「出場すれば、実力露見の危険があります。辞退すれば、隠していると判断される危険があります」


「どちらも危険だ」


 ロウ教師は淡々と受ける。


 リゼは続けた。


「ならば、危険の少ない方だけでなく、制御可能な方を選ぶ必要があります」


 ロウ教師の目が少し鋭くなる。


「制御可能な方」


「はい。辞退した場合、理由を他者が解釈します。王宮は、私が何かを隠したと見る可能性が高い。学園内でも疑念が残ります」


「出場した場合は」


「見られます。しかし、見せる内容をある程度制御できます」


 リゼは自分の右手を見た。


「私は、戦場の剣をそのまま出さない。基礎剣術の範囲で、学園の中で制御して見せる」


「それが君の理由か」


 リゼは沈黙した。


 制御して見せる。


 それは危険対策だ。


 だが、自分の理由でもあるのか。


 ロウ教師は待っている。


 急かさない。


 リゼはゆっくり息を吸った。


「昨日、カイさんに稽古をしました」


「ああ」


「死なない一歩を、学園の基礎に変換しました」


「見ていた。良い稽古だった」


「ラウルさんに、私の剣は学園の剣ではないと言われました」


「それも聞いた」


「正確な指摘です」


 リゼは静かに言った。


「私の剣は、学園の剣ではありません。戦場で形成されました」


「それで?」


「しかし、昨日アルトさんが言いました。今ここで、学園の剣にしようとしているのだと思う、と」


 その言葉を口にすると、胸の奥が少し揺れた。


 自分だけでは出なかった言葉。


 アルトが見て、言った言葉。


 学園の剣にしようとしている。


「私は、それを否定できませんでした」


 ロウ教師は静かに聞いている。


「私は、剣を完全に置くことができません。護衛としても、過去としても、体に残った反射としても」


「そうだろうな」


「なら、隠すだけではなく、制御する必要があります」


 リゼは顔を上げた。


「戦場の命令で振るうのではなく、王宮に価値を測られるためでもなく、アルトさんを守るためだけでもなく、私自身が、今いる場所で剣をどう扱うかを試す必要があります」


 ロウ教師の表情がわずかに変わった。


「それは、出場する理由に聞こえる」


「はい」


 リゼは答えた。


 声は静かだった。


 だが、迷いは昨日より少なかった。


「私は出場を希望します」


 言った。


 その瞬間、胸の奥に小さな緊張が走った。


 怖い。


 警戒している。


 王宮に見られる。


 ラウルに見抜かれる。


 セレナに観察される。


 アルトの銀環に影響するかもしれない。


 それでも。


「ただし、条件があります」


 ロウ教師は頷いた。


「言いなさい」


「一、出場中もアルトさんの護衛体制を別途確保すること」


「当然だ」


「二、王宮監察官の接触範囲を制限すること」


「学園長へ要求する」


「三、私の経歴に関する質問には回答しないこと」


「君の権利だ」


「四、試合中、戦場反射が強く出た場合、中止可能とすること」


 ロウ教師は少し黙った。


 それから頷いた。


「安全上、認められる。教師陣にも共有する」


「五」


 リゼは少しだけ言葉を止めた。


「五、私が出場理由を見失った場合、止めること」


「誰が」


「ロウ先生、ミリアさん、アルトさん、カイさん。可能なら」


 ロウ教師は短く息を吐いた。


「友人を安全装置にするのか」


「はい」


 リゼは正直に答えた。


「ただし、責任を押しつける意図ではありません。私が戻るための現在地として、必要です」


 ロウ教師はしばらくリゼを見ていた。


 やがて、わずかに口元を緩める。


「君もずいぶん変わったな」


「変化中です」


「そうか」


 ロウ教師は推薦書を取り上げた。


「では、教師推薦枠、リゼ・グレイス。本人同意ありとして手続きする」


「はい」


「グレイス」


「はい」


「出るなら、勝つことだけを考えるな」


「了解しました」


「そして、負けることだけも恐れるな」


 リゼは一拍置いて頷いた。


「はい」


「君は剣を握る理由を選んだ。なら、最後までその理由を忘れるな」


「努力します」


「努力では弱い」


 ロウ教師は言った。


「忘れそうになったら、戻れ」


 戻る。


 リゼはその言葉を胸の中で受け止めた。


 アルトが言う現在地。


 カイが学んでいる戻る足。


 ミリアが教える関係。


 自分も戻る場所を持つ。


「はい。戻ります」


 資料室を出ると、廊下の空気が少し違って感じられた。


 出場を決めた。


 その事実が、リゼの足元に新しい重さを与えている。


 軽くなったわけではない。


 むしろ、危険は明確になった。


 だが、曖昧な確認中の位置から、一歩動いた。


 自分で。


 中庭へ戻ると、アルトたちはベンチに座っていた。


 カイは半歩の練習を中断し、すぐにこちらを見る。


 ミリアも立ち上がった。


 アルトは少し緊張した顔で待っている。


 リゼは三人の前に立った。


「面談結果を共有します」


 カイが身を乗り出す。


「出るのか」


 リゼはカイを見た。


 そして、静かに言った。


「出場を希望しました」


 一瞬、空気が止まった。


 次の瞬間、カイの顔がぱっと明るくなる。


「よし!」


「声量」


「よし」


 少し小さく言い直した。


 ミリアが微笑む。


「決めたのね」


「はい」


 アルトはリゼを見ていた。


「リゼさんの理由で?」


「はい」


 リゼは答えた。


「あなたの希望も、カイさんの希望も、ミリアさんの助言も、判断材料です。しかし、決定理由の中心は私自身です」


 アルトの胸が少し熱くなった。


 左手首が淡く光る。


 痛みなし。


 熱、少し。


 声なし。


「理由を聞いてもいいですか」


「はい」


 リゼは息を整えた。


「私は剣を完全に置くことができません。護衛としても、過去としても、体に残った反射としても。ならば、隠すだけではなく、学園の中で制御する必要があります」


 三人は黙って聞く。


「王宮に見られる危険はあります。ラウルさん、セレナさん、周囲の生徒に見られる危険もあります。しかし、辞退しても疑念は残ります。出場すれば、見せる内容をある程度制御できます」


「だから、出る?」


 カイが聞く。


「はい。ただし、それだけではありません」


 リゼは少しだけ目を伏せた。


「私は、自分の剣を戦場の命令ではなく、今いる場所でどう扱うかを試したい」


 アルトは息を止めた。


 それは、リゼの言葉だった。


 任務でも、護衛でも、王宮対策でもない。


 リゼ・グレイス自身の言葉。


「出場理由は、学園の中で制御するためです」


 リゼは続けた。


「勝利のみを目的にしません。正体露見を避けつつ、基礎剣術の範囲で戦います。戦場反射が強く出た場合、中止を申告します」


 カイが少しだけ眉を寄せた。


「本気で戦わないってことか」


「戦場の本気は出しません」


「でも、勝つ気はあるんだろ」


 リゼは少し考えた。


「勝敗は結果です」


「そういう答え、ずるい」


「事実です」


「でも俺と当たったら勝つ気で来いよ」


 カイの声は真剣だった。


「俺は勝つ気で行く」


 リゼはカイを見る。


「あなたが相手であれば、基礎剣術の範囲内で全力を尽くします」


 カイの目が輝いた。


「それならいい」


 ミリアが小さく笑う。


「カイさん、嬉しそう」


「嬉しいに決まってるだろ」


 アルトも笑った。


 その笑いの中で、左手首の光が少し柔らかくなる。


 リゼが確認する。


「痛みは」


「なし」


「熱は」


「少し。嬉しい方だと思う」


「声は」


「なし」


「現在地は」


「学園中庭。夕方前。リゼさん、ミリアさん、カイといる。リゼさんが出場を決めた」


 ミリアが聞く。


「感情は」


「心配。怖い。でも、嬉しい。リゼさんが自分の理由で決めたから」


 リゼは静かに頷いた。


「良好です」


 そこへ、ユリウスとエレオノーラがやってきた。


 ユリウスはリゼの顔を見て、何か察したようだった。


「決めたのか」


「はい。出場を希望しました」


 ユリウスは一拍置いて頷く。


「学園側として、条件を整える」


 エレオノーラが記録板を開く。


「記録範囲を確認します。教師推薦枠への本人同意。出場理由は、剣術制御訓練および学園行事参加。王宮関連の詳細、戦場由来の反射については非公開記録扱いでよろしいですか」


 リゼは頷いた。


「はい」


「公開掲示には、本人同意済みとして記載されます」


「承知しました」


 ユリウスは少し声を落とした。


「オルド監察官へも伝わる」


「はい」


「彼は興味を持つだろう」


「予想しています」


「それでも出るんだね」


「はい」


 ユリウスは静かに頷いた。


「なら、学園として守る」


 その言葉に、リゼは少しだけ目を伏せた。


「ありがとうございます」


 カイが横から言う。


「俺も守るぞ」


「あなたは大会で勝つ準備をしてください」


 リゼが言う。


「守るのも勝つのもやる」


「過負荷です」


「やる」


「訓練計画が必要です」


「じゃあ作れ」


「依頼形式」


「作ってくれ」


「検討します」


 ミリアが笑った。


 夕方、掲示板に新しい紙が貼られた。


 出場者仮一覧の更新。


 生徒たちがまた集まる。


 その中で、アルトはリゼの名前を見つけた。


 リゼ・グレイス 教師推薦枠 本人同意済


 確認中ではない。


 本人同意済。


 その文字が、掲示板の上で静かに光っているように見えた。


 周囲がざわめく。


「グレイスさん、出るんだ」


「教師推薦受けたんだ」


「どんな剣使うんだろ」


「ラウルと当たったら面白そう」


「セレナとも見たい」


 視線が増える。


 名前が呼ばれる。


 王宮の目も、きっとどこかにある。


 リゼは掲示板を見上げていた。


 表情は変わらない。


 だが、アルトには、その背筋が少しだけまっすぐになったように見えた。


 カイが隣で拳を握る。


「大会で会おうぜ」


 リゼは掲示板から視線を外し、カイを見た。


「組み合わせ次第です」


「そこは、ああって言えよ」


「組み合わせ次第です」


「真面目か」


「はい」


 カイは笑った。


 ミリアも微笑む。


 アルトはリゼへ言った。


「リゼさん」


「はい」


「出場、決めてくれて嬉しいです。でも、無理はしてほしくないです」


「はい」


「僕も、自分で銀環反応を管理します。リゼさんが戦う時、心配を増やさないように」


 リゼの目が少し揺れた。


「それは、あなた一人で負う必要はありません」


「うん。でも、僕も支えたい」


 リゼは静かにアルトを見る。


「確認しました」


 夕鐘が鳴った。


 掲示板前のざわめきが少し静まる。


 アルトの左手首が光る。


 痛みなし。


 熱、少し。


 声なし。


 リゼが尋ねる。


「現在地は」


「学園中庭。夕方。掲示板前。リゼさん、ミリアさん、カイといる。リゼさんの名前が本人同意済になった」


 ミリアが聞く。


「感情は」


 アルトは掲示板を見上げた。


「怖い。心配。でも、嬉しい。リゼさんが逃げじゃなくて、命令でもなくて、自分で決めたことだから」


 リゼは小さく頷いた。


「私も、怖い可能性があります」


 その言葉に、三人がリゼを見る。


 リゼは続けた。


「しかし、出場を希望します」


 カイが笑った。


「それでいいだろ」


 ミリアも頷く。


「ええ。それで十分よ」


 アルトも頷いた。


「はい」


 夜。


 女子寮三〇七号室で、リゼは記録帳を開いていた。


 机の上には、剣術大会の推薦同意書の控えがある。


 リゼ・グレイス。


 教師推薦枠。


 本人同意済。


 その文字を見て、リゼは少しだけ息を吸った。


 ミリアは隣の机で茶を淹れている。


 部屋には温かい香りが広がっていた。


 リゼはペンを取り、今日の記録を書き始める。


 剣術大会教師推薦枠、本人同意。


 出場理由。


 一、剣を戦場以外の場で制御するため。


 二、戦場反射を基礎剣術範囲内へ収める訓練。


 三、王宮監察官による観察に対し、見せる内容を制御するため。


 四、学園生徒として行事に参加するため。


 五、友人たちの前で、自分の剣をどう扱うか確認するため。


 危険要素。


 一、正体露見。


 二、王宮監察官オルド・ハイマンによる観察。


 三、ラウル・ヴァレンシュタインによる技量看破。


 四、セレナ・アイゼンベルグによる関係性および銀環反応観察。


 五、アルトさんの銀環反応への影響。


 対応。


 一、基礎剣術範囲を維持。


 二、戦場反射が強く出た場合、中止申告。


 三、アルトさん護衛体制を別途確保。


 四、王宮監察官との直接接触を制限。


 五、出場理由を見失った場合、戻る。


 リゼはそこでペンを止めた。


 戻る。


 どこへ。


 記録帳の空白を見つめる。


 現在地へ。


 学園へ。


 友人たちの声へ。


 アルトの「戻ってください」。


 ミリアの「自分の気持ちを見て」。


 カイの「出ろよ」と「当たったら勝つ」。


 ロウ教師の「戻れ」。


 リゼは新しい行を書いた。


 戻る場所。


 一、学園。


 二、基礎剣術。


 三、友人の声。


 四、リゼ・グレイスという名前。


 その四番を書いた時、胸の奥が静かに揺れた。


 灰銀の戦乙女ではなく。


 王宮の護衛者ではなく。


 教師推薦枠の生徒として掲示板に載った名前。


 リゼ・グレイス。


 ミリアが茶を置いた。


「書けた?」


「途中です」


「見ても?」


「はい」


 ミリアは記録帳を覗き込み、最後の欄で微笑んだ。


「戻る場所に、自分の名前が入ったのね」


「不適切ですか」


「いいえ。とても大事だと思うわ」


 リゼは記録帳を見た。


「私は、出場を決めました」


「ええ」


「怖い可能性があります」


「ええ」


「警戒しています」


「ええ」


「しかし、出場を希望します」


 ミリアは静かに頷いた。


「それがリゼさんの言葉ね」


「はい」


 リゼは茶を一口飲んだ。


 温かい。


 好きだと思います。


 その感情は、以前より少しだけ記録しやすくなった。


 リゼは最後に一行を書き足した。


 私は、私の剣を学園の中で制御してみせます。


 ペンを置く。


 窓の外には夜の鐘楼が立っている。


 王宮監察官は学園にいる。


 剣術大会は近づいている。


 危険は減っていない。


 むしろ増えた。


 だが、今日のリゼは昨日の自分より一つだけ明確なものを持っていた。


 出場する理由。


 命令ではなく。


 逃げでもなく。


 誰かのためだけでもなく。


 自分が今いる場所で、剣をどう扱うかを選ぶために。


 リゼは右手を軽く握った。


 そこに今、剣はない。


 しかし、握る理由はあった。


 夜の部屋は静かだった。


 ミリアが茶を飲む音が小さく響く。


 リゼは記録帳を閉じ、机の上の同意書をもう一度見た。


 リゼ・グレイス。


 本人同意済。


 その文字は、戦場の命令書とは違っていた。


 そこには、命令ではなく、自分の選択が記されていた。


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