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灰銀の戦乙女は、制服を知らない  作者: 最後に残った形


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第4章 第6話:監察官オルド


 朝、アルト・レインフォードは自分の左手首が光る前に目を覚ました。


 窓の外はまだ薄暗い。


 夜と朝の境目にある、灰色の時間だった。


 男子寮の部屋は静かで、廊下からも足音は聞こえない。机の上には昨夜書いた紙片がまだ置かれている。引き出しへしまったはずだと思い、アルトは一瞬だけ驚いたが、よく見るとそれは別の紙だった。


 昨日の夜、最後に書こうとして、書けなかった紙。


 王宮監察官に言うこと。


 その題だけが、薄い字で残っていた。


 アルトは布の巻かれた左手首を胸の上に置いた。


 まだ光っていない。


 痛みもない。


 熱もない。


 声もない。


 けれど、胸の奥はもう重かった。


 今日、オルド・ハイマンと話す。


 王宮監察局の人。


 丁寧だが、本人の不安を「保護対象の混乱」として処理する可能性がある、とユリウスは言っていた。


 学園長とロウ教師とクラウスは、現時点で移送反対の姿勢を示してくれている。


 アルト自身の意思表明文も提出済みだ。


 本人の意思確認なしの移送には同意しない。


 学園に残りたい。


 保護の名のもとに本人の意思が扱われないことを拒否する。


 その言葉は紙に書いた。


 でも、今日は自分の口で言わなければならない。


 紙よりも声の方が怖い。


 声は震える。


 止まる。


 相手に聞かれる。


 返される。


 否定されるかもしれない。


 未成年の不安だと言われるかもしれない。


 危険だから王宮へ、と言われるかもしれない。


 アルトはゆっくり息を吸った。


「現在地は、男子寮の自室。夜明け前。今日は監察官と話す。怖い。でも、僕は学園に残りたい」


 その言葉に反応したように、左手首が淡く光った。


 痛みはない。


 熱は少し。


 声はない。


 アルトは起き上がり、机に向かった。


 紙を一枚広げる。


 ペンを持つ。


 王宮監察官に言うこと。


 一、僕は学園に残りたい。


 二、銀環反応はまだある。でも学園で安定する手順ができている。


 三、リゼさん、ミリアさん、カイ、先生たちと一緒にいることで落ち着く。


 四、本人の意思確認なしの移送には同意しない。


 五、保護が必要だとしても、僕抜きで決めないでほしい。


 六、怖いという気持ちも、判断材料から消さないでほしい。


 六番を書いたところで、アルトはペンを止めた。


 怖いという気持ちも、判断材料から消さないでほしい。


 それを言えるだろうか。


 王宮の大人に。


 監察官に。


 怖いです、と。


 それでも残りたいです、と。


 アルトは紙を折らず、そのまま制服の内ポケットに入れた。


 持っていく。


 読まなくてもいい。


 でも、言葉があることを、自分で確認できるように。


 朝食の食堂へ行くと、カイ・ロックハートはすでにいた。


 パンを二つ、スープを一杯、焼き野菜を皿に乗せている。


 昨日の稽古の疲れが残っているのか、肩の動きは少し重そうだったが、目は起きていた。


「おはよう」


 アルトが声をかけると、カイは顔を上げた。


「おはよう」


 声量は控えめ。


 ただ、今日はいつもより少しだけ慎重な声だった。


「今日だな」


「うん」


「王宮のやつ」


「うん」


 アルトは席に座る。


 カイはパンを一つ、アルトの皿の方へ少し押し出しかけて止めた。


「いるか?」


「食べられそうなら、あとで」


「わかった」


 押しつけない。


 それだけのことが、少し嬉しかった。


 カイは自分のパンを千切りながら言った。


「嫌なこと言われたら、言えよ」


「うん」


「俺、突撃前に確認する」


 アルトは少し笑った。


「ちゃんと覚えてる」


「昨日も言われたからな」


「突撃しないでいられる?」


「わからん」


「わからないんだ」


「でも確認はする」


 カイは真剣だった。


 それだけで、アルトは少し安心した。


 食堂を出る頃には、朝鐘が鳴った。


 左手首が光る。


 いつもより少し強い。


 アルトは廊下の壁際で立ち止まり、布の上から手首を押さえた。


「痛みなし。熱、中。声なし。現在地は男子寮の廊下。朝。カイといる。今日は監察官と話す」


 カイが横で言った。


「感情は?」


 アルトは少し驚いた。


 その質問は、いつもミリアがすることが多い。


「怖い」


「うん」


「逃げたい。でも、逃げたら王宮に連れていかれる気がするから、逃げたくない」


 カイは眉を寄せた。


「難しいな」


「うん」


「でも、言えたな」


「うん」


「じゃあ行こうぜ」


 カイは歩き出した。


 いつもより半歩だけゆっくり。


 アルトがついてこられる速さだった。


 中庭には、リゼ・グレイスとミリア・ファルネーゼが待っていた。


 リゼはアルトを見るなり、顔色、歩幅、左手首、呼吸の順に確認した。いつもの流れだが、今日の目は少し鋭い。


「おはようございます」


「おはよう」


 アルトが返す。


「体調は」


「眠れました。夢は見なかったと思う。朝鐘で光った。痛みなし、熱中、声なし。朝食はパン半分とスープ少し。気分は、怖い。監察官に言うことを書いた紙を持っています」


 リゼが頷く。


「確認しました。紙は使用可能です」


 ミリアが柔らかく言う。


「言葉が飛んだら、読んでもいいのよ」


「うん」


「読めなくなったら、渡してもいい」


「うん」


「渡すのも、自分の意思を出す方法だから」


 アルトは少し息を吐いた。


「そっか」


 リゼが言う。


「本日の面談予定を確認します。午前授業後、第二応接室。出席者は、オルド・ハイマン監察官、学園長、ロウ先生、クラウス卿、ユリウス先輩、エレオノーラ先輩、アルトさん。私とミリアさん、カイさんは隣室待機の予定です」


 カイがすぐに言う。


「隣か」


「はい」


「近いな」


「声量によっては聞こえる距離ですが、聞こうとしないでください」


「聞こえたら?」


「内容次第で対応します」


「突撃前に確認」


「はい」


 ミリアが少し笑った。


「よくできました」


「子ども扱いするな」


「褒めたのよ」


「ならいい」


 アルトはそのやり取りを聞いて、少しだけ肩の力が抜けた。


 でも、完全には抜けない。


 中庭の向こう、第一校舎の廊下に白い制服の生徒会補佐が数人立っている。


 さらに奥、学園長室の方へ向かう大人の姿が見えた。


 紺色の外套。


 王宮式の襟章。


 アルトは遠目にその人物を見ただけで、左手首が熱を持つのを感じた。


 あれが、オルド・ハイマンだろうか。


 リゼも同じ方向を見ている。


 灰銀の瞳が細くなった。


「王宮監察官と思われます」


 アルトは喉を鳴らした。


 遠い。


 まだ遠い。


 でも、近づいてくる。


 ミリアがそっと言う。


「今、ここで全部考えなくていいわ」


「うん」


「午前の授業を受ける。昼食を取る。面談に行く。一つずつね」


「うん」


 リゼが確認する。


「現在地は」


「学園中庭。朝。リゼさん、ミリアさん、カイといる。監察官らしい人が見えた」


「感情は」


「怖い。でも、まだここにいる」


「良好です」


 午前の授業は、いつもより長く感じた。


 ロウ教師は王国史の授業を淡々と進めたが、今日は教室全体が少し落ち着かなかった。王宮から監察官が来ていることを知っている生徒もいるのだろう。廊下を歩く大人の足音に何人かが反応し、窓の外を見た。


 剣術大会の話題も消えてはいない。


 休み時間にはカイがダリオに声をかけられ、昨日の受け身稽古について聞かれていた。


「転がってたって本当か?」


「転がってねえ。受け身だ」


「同じじゃないのか?」


「違う。地面と戦わないやつだ」


「何だそれ」


「俺もまだ半分しかわかってねえ」


 ダリオは笑った。


 だが、その笑いには馬鹿にする響きはなかった。


「今度教えてくれよ」


「リゼに聞け」


「グレイスさん、教えてくれるかな」


「基礎範囲なら共有可能って言ってた」


「言い方まで真似るなよ」


 カイは少しだけ得意げだった。


 アルトはその様子を見ながら、左手首の熱を確かめる。


 王宮の不安はある。


 でも、同じ教室で、カイが昨日の稽古を話している。


 学園生活は止まっていない。


 それが少しだけ助けになった。


 授業後、第二応接室へ向かう前に、四人は中庭で短く昼食を取った。


 アルトはパン半分、スープ半分。


 喉は通りにくかったが、ミリアが「食べられる分だけでいいわ」と言い、リゼが「摂取量は許容範囲です」と言い、カイが何も言わずに焼き菓子の袋を卓の端へ置いた。


 今日の焼き菓子には、カイが札を付けていた。


 面談後用。


 アルトはそれを見て、少し笑った。


「面談前じゃないんだ」


「前に食えなかったら困るだろ」


「うん」


「終わったら食え」


「うん」


 ミリアが微笑む。


「よく考えたわね」


「考えた」


 カイは短く答えた。


 リゼが時刻を確認する。


「移動します」


 第二応接室は、第一校舎の二階奥にあった。


 普段、生徒が使う場所ではない。


 廊下の空気は静かで、壁に掛けられた古い学園長の肖像画が、こちらを見下ろしている。


 応接室の扉の前には、ユリウスとエレオノーラがいた。


 ユリウスはアルトを見ると、すぐに表情を和らげた。


「来たね」


「はい」


「面談の途中で中止したくなったら、言っていい。これは確認済みだ」


 アルトは頷いた。


「中止できますか」


「できるようにした」


 その言い方に、アルトは少し胸が温かくなった。


 できる、ではなく。


 できるようにした。


 ユリウスもまた、こちらの意思を入れようとしてくれている。


 エレオノーラが記録板を持ち直す。


「本日の記録範囲。面談開始時刻、出席者、本人意思表明、監察官応答、銀環反応。ただし、出生名、白鐘礼拝堂、夢内容は本人同意なしに記録しません」


「はい」


 リゼが言った。


「私は隣室待機でよいのですね」


 ユリウスは頷く。


「オルド監察官は護衛者の同席を不要とした。学園長とロウ先生が、本人負荷を考慮して隣室待機を認めさせた」


 カイが眉を寄せる。


「何で同席駄目なんだよ」


「監察官は本人単独の意思確認を重視すると言っている」


 ミリアが静かに言う。


「本人意思を確認する名目で、支えを外す形にもなりますね」


 ユリウスの目がわずかに険しくなる。


「その懸念はある」


 アルトの左手首が熱を帯びる。


 リゼがすぐに確認する。


「痛みは」


「なし」


「熱は」


「中」


「声は」


「なし」


「現在地は」


「第一校舎二階。第二応接室前。リゼさん、ミリアさん、カイ、ユリウス先輩、エレオノーラ先輩がいる」


「感情は」


 ミリアが聞く。


「怖い。支えが隣にいないのが怖い。でも、隣室にはいる」


 カイが言う。


「壁一枚だ」


「うん」


「突撃前に確認する」


「それは安心なのか不安なのか、少しわからない」


「安心にしろ」


 アルトは少し笑った。


 リゼが静かに言う。


「アルトさん」


「はい」


「あなたは保護対象である前に、本人です」


 その言葉が、胸に深く入った。


 リゼは続ける。


「保護の話をされても、あなたの意思は消えません」


「うん」


「言葉が詰まったら、紙を見てください」


「うん」


「紙も見られなければ、現在地を言ってください」


「うん」


「それでも難しければ、中止を申告してください」


「うん」


 ミリアがそっとアルトの肩に触れた。


「怖いまま入って大丈夫よ。怖くないふりをしなくていい」


「はい」


 アルトは息を吸った。


 そして、扉を見た。


 ユリウスが軽くノックする。


 中から、学園長の声がした。


「入りなさい」


 扉が開いた。


 第二応接室は、重い木の机と深い青の絨毯が敷かれた部屋だった。


 窓から入る光は柔らかいが、部屋の空気は硬い。


 学園長は奥の椅子に座っている。


 ロウ教師はその右側。


 クラウス・ヴァイゼルは壁際に立っていた。表情は相変わらず読みにくいが、アルトを見る目には以前よりわずかな気遣いがあった。


 そして、中央の席に、その男は座っていた。


 オルド・ハイマン。


 年齢は四十代ほどだろうか。


 整えられた黒髪に、細い銀縁の眼鏡。王宮式の濃紺の外套を羽織り、襟元には監察局の徽章がある。姿勢は端正で、表情は穏やかだった。


 穏やかすぎるほどに。


 彼は立ち上がり、丁寧に一礼した。


「アルト・レインフォード君ですね。王宮監察局のオルド・ハイマンです」


 声は柔らかい。


 丁寧。


 だが、アルトの左手首が強く熱を持った。


 この人は、自分を見ている。


 人としてではなく、まず状態として。


 そんな感覚がした。


 アルトは布の上から左手首を押さえた。


 痛みなし。


 熱、中から強。


 声なし。


 現在地は、第二応接室。


 学園長、ロウ先生、クラウス卿、ユリウス先輩、エレオノーラ先輩、オルド監察官がいる。


 リゼさんたちは隣室。


 壁一枚向こう。


 アルトは一礼した。


「アルト・レインフォードです」


 声は少し震えた。


 だが、出た。


 オルドは微笑む。


「どうぞ、座ってください。緊張しなくて構いません。今日はあなたを責める場ではありませんから」


 その言葉に、アルトの胸が少し詰まった。


 責める場ではない。


 優しい言葉のはずだ。


 でも、責めるか責めないかを決める側に、彼がいるように聞こえた。


 アルトは椅子に座る。


 ユリウスは少し後ろに立った。


 エレオノーラは記録板を開く。


 オルドは机の上の書類を整えた。


「まず、あなたの意思表明文は拝読しました。非常に丁寧に書かれていましたよ」


「ありがとうございます」


「学園に残りたい、本人の意思確認なしの移送には同意しない。そう記されていましたね」


「はい」


「率直な希望として受け止めています」


 希望。


 アルトはその単語に引っかかった。


 希望。


 意思ではなく。


 オルドは続ける。


「ただ、あなたはまだ未成年であり、銀環反応という特殊な状態にあります。強い不安や環境への依存が、判断に影響することも十分考えられます」


 左手首が熱くなる。


 アルトは息を吸った。


 言葉を思い出す。


 怖いという気持ちも、判断材料から消さないでほしい。


「不安はあります」


 アルトは言った。


 オルドは微笑む。


「ええ。ですから」


「でも、不安があるから判断できない、とは思っていません」


 自分でも驚くほど、言葉が先に出た。


 オルドの目が少しだけ動いた。


 ロウ教師は黙っている。


 クラウスも。


 学園長も、見守っている。


 アルトは内ポケットの紙に触れた。


 まだ出さない。


 言える。


 今は。


「僕は怖いです。王宮へ行くのも、銀環のことも、白……」


 白鐘礼拝堂、と言いかけて止まる。


 エレオノーラの記録範囲を思い出した。


「自分の過去のことも、怖いです」


 言い換える。


「でも、学園で少しずつ安定する方法を覚えています。現在地確認、体調確認、授業、昼食、課題会、友達といること。そういうものがあります」


 オルドは指を組んだ。


「友達、ですか」


 その声に、アルトは少し警戒した。


「はい」


「リゼ・グレイス嬢、ミリア・ファルネーゼ嬢、カイ・ロックハート君。報告書に名前があります」


 名前を読まれただけで、胸が少し冷える。


 オルドは書類を見た。


「あなたの銀環反応は、彼らとの接触によって一時的に安定する傾向がある。しかし同時に、特定の学園内関係者への依存が進んでいるとも見られる」


「依存」


 アルトは小さく繰り返した。


「はい。保護対象が特定の人物に強く結びつくと、判断が偏ることがあります。王宮管理下では、より中立的で専門的な保護が可能です」


 中立的。


 専門的。


 保護。


 きれいな言葉が並ぶ。


 でも、そこにはリゼたちの顔がない。


 ミリアの手。


 カイの焼き菓子。


 リゼの現在地確認。


 それらが「依存」という一語にまとめられていく気がした。


 アルトの左手首が強く光る。


 エレオノーラが記録する音がする。


 ユリウスが一歩動きかけた。


 ロウ教師が視線で止めた。


 アルトは息を吸う。


「痛みなし。熱、強。声なし。現在地は第二応接室。僕はアルト。リゼさんたちは隣室にいる」


 自分で言う。


 部屋の空気が少し止まった。


 オルドは興味深そうに見る。


「それが現在地確認ですか」


「はい」


「なるほど。よく訓練されていますね」


 訓練。


 褒め言葉のようで、違う。


 アルトは紙を取り出した。


 手が震えている。


 でも、紙がある。


 そこに書いた自分の字がある。


「僕は、友達といることを依存だけで見られたくありません」


 オルドの微笑みが少し薄くなる。


「依存だけ、と言いましたか」


「はい。僕は助けられています。でも、ただ頼っているだけではありません。自分で現在地を言う練習もしています。言えないことを言う練習もしました。友達を遠ざけたいと思った時、勝手に決めない練習もしました」


 ロウ教師の目が少しだけ柔らかくなる。


 クラウスは静かにアルトを見ている。


「王宮にいたら、専門的な保護があるのかもしれません。でも、僕はここで、自分で戻る方法を覚えています」


 オルドは沈黙した。


 アルトは続ける。


「保護が必要ないとは言っていません。でも、保護のために、今できていることを全部切るのは怖いです」


「怖い、という感情は理解します」


 オルドは丁寧に言った。


「しかし、安全性を考えれば、感情より優先されるべき判断もあります」


 アルトの胸が冷たくなる。


 感情より優先されるべき判断。


 きっと王宮は、そう言う。


 安全。


 管理。


 保護。


 正しそうな言葉。


 でも。


「怖いという気持ちも、判断材料から消さないでください」


 アルトは紙を見ながら言った。


 声は震えていた。


 でも、言った。


「僕が怖いと思う移送は、銀環にも影響します。学園で安定しているものを壊すなら、それも安全性の問題だと思います」


 オルドの目が少し細くなる。


「なかなかよく考えていますね」


「皆と考えました」


「皆、とは」


「リゼさん、ミリアさん、カイ、先生たち、ユリウス先輩、エレオノーラ先輩。全部を一人で考えたわけではありません」


「それを、周囲に誘導されたとは考えませんか」


 その言葉に、ユリウスの表情が険しくなった。


 だが、アルトは先に答えた。


「考えました」


 オルドが少し意外そうにする。


「考えた上で、僕の言葉だと思っています」


「なぜそう言えるのですか」


「嫌だと思ったところを、嫌だと言えたからです」


 アルトは紙を握った。


「前は、僕抜きで決められるのが嫌でも、言えませんでした。でも今は言えます。本人の意思確認なしの移送には同意しません」


 部屋に沈黙が落ちた。


 左手首が強く光っている。


 熱い。


 でも痛みはない。


 声もない。


 オルドはしばらくアルトを見ていた。


 やがて、書類を一枚めくる。


「わかりました。あなたの意思は記録します」


 記録。


 その言葉に、エレオノーラが静かに目を上げた。


 オルドは続ける。


「ただし、監察官としては、学園内の関係者があなたへ及ぼす影響も評価しなければなりません。特に、リゼ・グレイス嬢」


 アルトの胸が跳ねた。


「リゼさん?」


「彼女は教師推薦枠で剣術大会の出場候補に挙がっていますね。昨日の訓練記録も確認しました。非常に優秀な護衛者のようだ」


 護衛者。


 リゼの名前が、また役割として扱われる。


 オルドは微笑む。


「あなたの安定に大きく寄与している一方で、彼女自身の背景は不明瞭です。王宮としては、保護体制を評価する上で、護衛者の能力と影響力も確認する必要があります」


 アルトは手首を押さえた。


 リゼまで、見られている。


 自分のせいで。


 そう思いかけた瞬間、リゼの声が記憶の中で響いた。


 あなたのせいではありません。


 まだ言われていない。


 でも、きっと言われる。


 アルトは息を吸った。


「リゼさんのことを、僕のせいで調べるんですか」


 オルドは首を傾げる。


「あなたのせい、という表現は適切ではありません。保護体制全体の評価です」


「でも、僕の周りにいるから」


「それが保護対象に近い者の責任です」


 その言葉は丁寧だった。


 でも、冷たかった。


 近い者の責任。


 リゼがまた、役割にされる。


 アルトの左手首が熱くなる。


 強い。


 痛みが少し混ざる。


「痛み、少し。熱、強。声なし」


 自分で言う。


 ロウ教師が低く言った。


「休止するか」


 アルトは首を横に振った。


「続けます」


 オルドは書類を閉じる。


「無理をする必要はありませんよ」


「無理かどうかは、僕が言います」


 声が少し強くなった。


 自分でも驚いた。


 オルドの表情が、初めて少しだけ変わった。


 アルトは続ける。


「リゼさんは、僕の近くにいるから責任があるんじゃありません。自分で選んで近くにいてくれています。王宮の命令もあったけど、それだけじゃないって、僕は知っています」


「それも彼女から聞いたのですか」


「見てきました」


 アルトは答えた。


「リゼさんが、僕の意思を確認するようになったこと。僕を囲い込まないようにしていること。カイに剣を教える時、自分の戦場の剣を学園の中で変えようとしていること。見てきました」


 オルドは黙った。


「だから、リゼさんを僕から切り離せば安全になる、とは思いません」


 切り離す。


 その言葉を自分で言って、胸が痛くなった。


 オルドがそこまで明言したわけではない。


 だが、彼の言葉の奥にその可能性が見えた。


 保護対象。


 護衛者の影響。


 専門的管理。


 学園内関係者への依存。


 それらは、リゼたちを遠ざける理由になる。


 アルトはそれを拒みたかった。


 オルドは穏やかに言った。


「あなたは非常に情緒的な結びつきを重視しているようですね」


「はい」


 アルトは答えた。


「重視しています」


 否定しなかった。


「それが僕を安定させています」


「情緒的結びつきは、失われた時の反動も大きい」


「だから、失わないように話し合っています」


「それでも失う時はあります」


「はい」


 アルトの声が少し震えた。


「でも、失うかもしれないから最初から全部切るのは、違うと思います」


 部屋の空気が静まった。


 エレオノーラのペンが止まり、再び動く。


 ユリウスは黙っているが、拳を握っている。


 ロウ教師は少しだけ目を伏せた。


 クラウスが、初めて口を開いた。


「監察官」


 オルドが視線を向ける。


「本人の銀環反応は上昇していますが、発話内容は明瞭です。混乱ではありません」


 オルドは穏やかに頷いた。


「承知しています」


「記録には、そのように」


「もちろん」


 その「もちろん」が、本当にそうなのか、アルトにはわからなかった。


 だが、エレオノーラが静かに言った。


「記録します。銀環反応上昇中も本人発話は明瞭。意思表明継続可能。混乱兆候なし」


 アルトは少しだけ安心した。


 記録が、味方になる時もある。


 オルドは机の上の書類を揃えた。


「本日の面談はここまでにしましょう。あなたの意思は確認しました。即時移送を判断する材料としては、慎重な検討が必要です」


「即時移送は」


 アルトは息を呑む。


 オルドは微笑んだ。


「現時点では、私一人で決定するものではありません。ただ、王宮へは報告を上げます」


「僕の言葉も入りますか」


「入れます」


 アルトはエレオノーラを見る。


 彼女は頷いた。


「学園側記録にも入ります」


 アルトはようやく息を吐いた。


 面談終了が告げられ、アルトは立ち上がった。


 足元が少し揺れる。


 ユリウスが一歩近づくが、触れる前に止まった。


「歩ける?」


「はい」


 アルトは答えた。


「自分で歩きます」


 扉が開く。


 廊下に出た瞬間、隣室の扉が開いた。


 リゼがいた。


 ミリアがいた。


 カイがいた。


 三人とも、すぐこちらへ来なかった。


 駆け寄りたい気持ちを抑えているように見えた。


 アルトが自分で歩いて出てくるのを待っていた。


 それを見た瞬間、胸の奥が熱くなった。


「終わりました」


 アルトは言った。


 声は少し掠れていた。


 リゼがすぐに確認する。


「痛みは」


「少し」


「熱は」


「強から中に下がってきた」


「声は」


「なし」


「現在地は」


「第一校舎二階。第二応接室前。リゼさん、ミリアさん、カイ、ユリウス先輩、エレオノーラ先輩がいる。面談が終わった」


 ミリアが聞く。


「感情は」


 アルトは言葉を探した。


「怖かった。嫌だった。怒った。リゼさんのことを護衛者とか、影響とか言われるのが嫌だった。でも、言えた。学園に残りたいって。友達を依存だけで見られたくないって」


 リゼの目が少し揺れた。


「アルトさん」


「あと」


 アルトはリゼを見た。


「リゼさんのこと、僕のせいで調べられるのかと思った」


 リゼは即座に言った。


「あなたのせいではありません」


 予想通りの言葉。


 でも、実際に聞くと胸が詰まった。


「王宮が私を見るのは、王宮の判断です。あなたの責任ではありません」


「でも」


「責任分離が必要です」


 リゼはまっすぐ言った。


「私があなたの近くにいることを選んだ部分があります。王宮がそれを利用しようとするなら、責任は王宮側にあります」


 ミリアも頷く。


「ええ。あなたが全部背負う話ではないわ」


 カイが低く言う。


「あいつ、嫌なやつか」


 アルトは少し考えた。


「丁寧だった」


「丁寧な嫌なやつか」


「たぶん」


 カイは拳を握りかけて、深呼吸した。


「突撃は」


 リゼが言う。


「しない」


 カイが答える。


「確認は」


「今してる」


「良好です」


 ミリアが焼き菓子の袋を差し出した。


「面談後用」


 アルトはそれを見て、少し笑った。


「本当に使うんだ」


「今日は必要でしょう?」


「うん」


 アルトは焼き菓子を一つ受け取った。


 手が少し震えていた。


 甘い匂いがする。


 一口食べると、口の中に温かい甘さが広がった。


 左手首の熱が、少しずつ下がっていく。


 リゼが言う。


「医務室へ行きますか」


「今は大丈夫。少し座りたい」


「了解しました」


 四人は中庭へ移動した。


 第二応接室の硬い空気から離れ、噴水の音が聞こえる場所へ。


 午後の授業は免除された。


 ロウ教師がそう判断したらしい。


 カイは少し不満そうにしたが、今日ばかりは訓練を要求しなかった。


 中庭のベンチに座ると、アルトは大きく息を吐いた。


「疲れた」


 ミリアが隣で頷く。


「ええ。よく頑張りました」


「頑張れたのかな」


「頑張ったわ」


 リゼが言う。


「発話内容は明瞭でした。意思表明は成功しています」


 カイが言う。


「焼き菓子食えたから成功だ」


「それは別指標です」


 リゼが言う。


「でも重要だろ」


「重要です」


 アルトは笑った。


 笑うと、少し涙が出そうになった。


 泣くほどではない。


 でも、胸がいっぱいだった。


「リゼさん」


「はい」


「オルド監察官、リゼさんのことも見ていました」


「はい」


「剣術大会の名簿も見ていると思います」


「その可能性は高いです」


「怖くないですか」


 リゼは少し黙った。


 そして、正直に答えた。


「警戒しています」


「怖い、じゃなくて?」


「怖い、も含まれる可能性があります」


 ミリアが柔らかく笑う。


「少し進んだわね」


 リゼは静かに頷いた。


「はい。怖い可能性を否定しません」


 カイが言う。


「じゃあ、出場するかどうか余計難しいな」


「はい」


「でも、出るなら俺は応援する」


「戦うのではなく?」


「当たるまでは応援する。当たったら勝つ」


「矛盾はありません」


「だろ」


 アルトはその会話を聞きながら、左手首に触れた。


 痛みはもう消えていた。


 熱は少し。


 声はない。


 現在地は中庭。


 四人でいる。


 面談は終わった。


 王宮の圧力は消えていない。


 オルド監察官は、きっと報告を書く。


 リゼのことも、学園の関係者のことも、アルトの友達のことも。


 でも、今日、自分は言えた。


 友達を依存だけで見られたくない。


 学園に残りたい。


 怖い気持ちも判断材料から消さないでほしい。


 全部ではない。


 まだ足りないかもしれない。


 でも、言った。


 夕方近く、ユリウスが中庭へ来た。


 表情は少し疲れている。


「暫定報告だ」


 四人が顔を上げる。


「オルド監察官は、即時移送判断を保留した。王宮へ追加報告を上げるが、現時点で強制移送を主張する文書は出さない」


 アルトは息を止めた。


「今すぐは」


「ない」


 ユリウスは頷いた。


「ただし、学園内関係者の影響が強いこと、特にグレイスさんの護衛能力と影響力については、追加評価対象になる」


 リゼは静かに頷いた。


「予想範囲内です」


 カイが低く言う。


「つまり、リゼも見られるってことだろ」


「そうなる」


 ミリアの表情も少し硬い。


 アルトは胸が痛んだ。


 だが、リゼが先に言う。


「責任分離」


 アルトはリゼを見る。


「はい」


 リゼはまっすぐこちらを見ていた。


「これは王宮の評価行動です。アルトさんの責任ではありません」


 アルトはゆっくり頷いた。


「うん」


 ユリウスは続ける。


「もう一つ。オルド監察官は剣術大会を視察する可能性がある」


 空気が変わった。


 リゼの目が細くなる。


 カイが顔をしかめる。


「王宮のやつが大会見に来るのか」


「学園保護体制の確認という名目だ」


 ミリアが小さく息を吐いた。


「リゼさんの出場判断にも影響するわね」


「はい」


 リゼは静かに答えた。


 出れば見られる。


 出なくても見られる。


 そして今度は、王宮監察官の目も加わる。


 だが、リゼの表情は昨日ほど硬くなかった。


 警戒はある。


 怖い可能性もある。


 それでも、彼女は逃げるように目を伏せなかった。


「情報共有ありがとうございます」


 リゼはユリウスへ言った。


「対応を検討します」


 カイが小声で言う。


「また検討」


「重要です」


 リゼが答える。


「今度の検討はかなり重いな」


「はい」


 アルトは四人の間に流れる空気を感じていた。


 王宮監察官は来た。


 面談は終わった。


 即時移送は避けられた。


 だが、王宮の目は強まった。


 剣術大会は、ただの大会ではなくなりつつある。


 それでも、カイは出る。


 リゼはまだ考えている。


 ミリアは支える。


 アルトは、見届ける。


 夜。


 男子寮の自室で、アルトは紙片を書いた。


 今日は王宮監察官オルド・ハイマンと話した。


 朝から怖かった。


 紙に言うことを書いて、内ポケットに入れていった。


 第二応接室で会ったオルド監察官は、とても丁寧だった。


 でも、僕を人というより状態として見ている感じがした。


 僕の意思表明文を、希望と言った。


 未成年の不安と言われそうになった。


 友達といることを、依存と見られた。


 リゼさん、ミリアさん、カイのことを、僕への影響として見られた。


 嫌だった。


 僕は、友達といることを依存だけで見られたくないと言った。


 学園で現在地確認や体調確認を覚えていると言った。


 保護が必要ないとは言っていない。


 でも、保護のために今できていることを全部切るのは怖いと言った。


 怖いという気持ちも、判断材料から消さないでほしいと言った。


 本人の意思確認なしの移送には同意しないと言った。


 途中で左手首が強く光った。


 痛みも少しあった。


 でも、声はなかった。


 現在地確認を自分で言えた。


 面談後、リゼさんたちが隣室から出てきた。


 すぐ駆け寄らず、僕が歩くのを待ってくれていた。


 リゼさんは、僕のせいではありませんと言った。


 責任分離と言った。


 ミリアさんも、僕が全部背負う話ではないと言った。


 カイは、丁寧な嫌なやつかと言った。


 突撃はしなかった。


 面談後用の焼き菓子を食べた。


 即時移送は保留になった。


 今すぐ王宮へ連れていかれることはない。


 でも、オルド監察官は王宮へ報告を上げる。


 リゼさんのことも、追加評価対象になる。


 剣術大会も視察するかもしれない。


 怖いことは終わっていない。


 でも、今日は言えた。


 アルトはペンを止めた。


 手はまだ少し震えていた。


 だが、朝より呼吸は深い。


 窓の外には夜の鐘楼。


 その向こうに、王宮があるわけではない。


 けれど、王宮の影は確かに学園へ届いている。


 アルトは最後に、一行を書いた。


 僕は保護対象かもしれない。


 でも、それだけじゃない。


 僕は、僕の意思を言える人でいたい。


 紙片を折り、引き出しへしまう。


 左手首を胸の上に置く。


 今日は疲れた。


 とても疲れた。


 でも、何も言えずに終わった日ではなかった。


「現在地は、男子寮の自室。夜。僕はアルト。今日は王宮の人に、学園に残りたいと言った」


 銀環は淡く光った。


 痛みはなかった。


 その光は、誰かに管理されるための輪ではなく、自分の声がまだここにあると確かめるための小さな灯のように、静かに手首の奥で揺れていた。


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