第4章 第5話:灰銀の稽古
朝の鐘が鳴った時、アルト・レインフォードは左手首ではなく、カイ・ロックハートの顔を見ていた。
男子寮の食堂。
焼きたてのパンの匂いと、温かいスープの湯気が朝の空気に混ざっている。いつもならカイは一番に席へ着き、パンを取り、スープを取り、ついでに昼用の焼き菓子の話を始める。
だが、今朝のカイは違った。
食べている。
量はいつも通り多い。
けれど、ただ食べているのではなく、どこか考えながら食べていた。
パンを千切る。
噛む。
飲み込む。
手元を見る。
足元を見る。
またパンを千切る。
その間、視線が何度も自分の右足へ落ちていた。
「カイ」
アルトが声をかけると、カイは顔を上げた。
「何だ」
「朝食中も足見てる」
「ああ」
カイは自分の足を見た。
「昨日から、右足に重心が寄ってる気がする」
「リゼさんに言われたから?」
「言われたから気づくようになった。気づくと、気になる」
カイは少し不満そうに眉を寄せる。
「歩いてても、立ってても、飯食ってても、前に出ようとしてる気がする」
「飯食ってても?」
「気持ちは前に出てる」
「それはカイらしいね」
「笑うな」
アルトは少し笑った。
左手首が淡く温かくなる。
朝鐘の光はすでに弱まっている。
痛みなし。
熱、少し。
声なし。
感情は、少し楽しい。
カイはスープを一口飲み、低く言った。
「昨日、一回だけ崩れなかっただろ」
「うん」
「あれ、もう一回できる気がしねえ」
「そうなの?」
「できた時の感じは少し覚えてる。でも、やろうとすると力が入る。力が入ると前に行く。前に行くと流される」
カイは深刻な顔で言った。
「難しい」
その一言に、昨日からの変化があった。
以前のカイなら、できる、勝つ、やる、と言ったかもしれない。
でも今は、難しいと言える。
自分の届かない場所を、届かないと認めている。
それは悔しさでもあるが、成長でもあるように見えた。
「今日もリゼさんに教わるの?」
「頼む」
「頼むって言えるようになった」
「うるせえ」
カイは少しだけ照れたようにパンを口へ押し込んだ。
「でも、今日はたぶんもっと転ぶ」
「昨日は転んでないって言ってた」
「崩れた。転んではない」
「今日は?」
「転ばない」
そう言い切った瞬間、食堂の入口から冷静な声がした。
「予測では転びます」
リゼ・グレイスだった。
灰銀の髪を朝の光に透かし、制服姿できちんと立っている。隣にはミリア・ファルネーゼもいた。女子寮から男子寮の食堂前まで来る用件があったらしく、二人は廊下側から顔を出していた。
カイはパンを飲み込んで言う。
「何で朝からいるんだよ」
「本日放課後の訓練計画を伝達に来ました」
「計画?」
「はい」
リゼは小さな紙を取り出した。
そこには、きっちりした文字で項目が並んでいた。
一、準備運動。
二、重心確認。
三、後退動作。
四、横移動。
五、模擬剣による接触確認。
六、転倒時受け身。
カイの目が止まった。
「六」
「はい」
「転倒時受け身って書いてある」
「必要です」
「転ぶ前提じゃねえか」
「可能性が高いため、先に安全な転び方を確認します」
ミリアが笑みをこらえながら言った。
「安全管理よ、カイさん」
「俺は転ばない」
「昨日、膝をつきました」
「転倒未満だろ」
「本日は未満で済まない可能性があります」
リゼは淡々としている。
カイは少し不服そうだったが、紙を受け取った。
そして、六番をしばらく見つめる。
「受け身、覚えたら転んでもいいのか」
「転ぶことが目的ではありません」
「でも、転んでもすぐ立てるなら、少し怖くないかもな」
その言葉に、リゼが少しだけ目を細めた。
「正しい理解です」
アルトも、その言葉を胸の中で受け止めた。
転ばないことだけが強さではない。
転んでも立てる準備。
それは、カイの剣だけではなく、自分の銀環にも似ている気がした。
痛まないようにするだけではない。
痛んだ時、熱くなった時、声が聞こえた時、戻ってくる方法を覚える。
現在地を言う。
誰かに話す。
ひとりで決めない。
転んでも、戻る。
カイの訓練は、どこかアルト自身の訓練にも重なっていた。
ミリアがアルトへ視線を向ける。
「アルトさん、今日の体調は?」
「眠れました。夢は見なかったと思う。朝鐘で少し光った。痛みなし、熱少し、声なし。朝食はパン一つとスープ半分。気分は……今日はカイの稽古が気になります」
「王宮監察官のことは?」
その言葉に、胸が少し冷える。
そうだ。
昨日の夜、紙片に書いた。
今日、王宮監察官が来る。
オルド・ハイマン。
王宮監察局所属。
アルトの銀環反応を確認し、学園保護体制を評価し、王都移送の必要性を検討する人物。
怖いことは、ちゃんと残っている。
「怖い」
アルトは正直に言った。
「でも、朝はまだ来ていないから、今は朝食を食べて、授業に行く」
リゼが頷く。
「良好です。現時点で未来の不安を全処理しようとしない判断は有効です」
「リゼさんらしい言い方」
「はい」
ミリアが微笑む。
「今日は、王宮のことと稽古のことが重なるわね。どちらかだけにしないようにしましょう」
「うん」
カイが紙を畳みながら言った。
「王宮のやつが来ても、俺は訓練するからな」
「あなたは王宮監察官の面会対象ではありません」
リゼが言う。
「でもアルトが嫌なこと言われたら、突撃するかもしれない」
「突撃前に確認」
三人の声が揃った。
カイは少し目を逸らした。
「……確認する」
「良好です」
朝の空気に、少しだけ笑いが戻った。
午前の授業は、表面上はいつも通り進んだ。
けれど、校舎全体の空気は落ち着いていない。
王宮監察官が来る。
その情報は教師や生徒会の上級生の間にはすでに広がっているらしい。廊下を歩く白い制服の生徒が増え、通信塔へ向かう教師の足取りがいつもより速い。
一方で、剣術大会の熱も増している。
掲示板には出場申請者の仮一覧が貼られ始め、昼休み前には生徒たちが何度も見に行っていた。
ラウル・ヴァレンシュタイン。
セレナ・アイゼンベルグ。
カイ・ロックハート。
ダリオ・エルム。
他にも何人もの名前。
そして、教師推薦候補者欄にはまだ、リゼ・グレイスの名前がある。
正式出場ではない。
だが、消えてもいない。
アルトは授業中、何度かリゼの横顔を見た。
リゼは通常通り授業を受けている。
ノートも取っている。
アルトの反応も確認している。
だが、時折、自分の右手を見る。
剣を握る手。
昨日、記録帳に何を書いたのかは知らない。
ただ、彼女も考えているのだとわかる。
出るのか。
出ないのか。
剣を握りたいのか。
握りたくないのか。
警戒だけで決めないと言えるのか。
王国史の授業で、ロウ教師は古い戦場記録について語った。
「戦場で生き残った者の技術は、しばしば美談として語られる。しかし、技術の裏には必ず理由がある。なぜその足運びになったのか。なぜその角度で受けるのか。なぜ一撃を捨て、半歩下がるのか。美しいからではない。必要だったからだ」
アルトはペンを止めた。
必要だったから。
リゼの剣。
昨日の戦場反射。
カイに教えた死なない準備。
それは美しいというより、生き残るために必要だったもの。
アルトはノートの端に書いた。
リゼさんの剣は、美しいというより、生き残った剣。
書いた後、胸が少し痛くなった。
美しいとだけ言えば、たぶん簡単だった。
リゼの動きは無駄がなく、静かで、確かに美しく見える。
でも、その美しさの奥にあるものを知らないまま褒めるのは、何かが違う気がした。
彼女は戦場でそれを覚えた。
覚えなければ、残れなかった。
その事実を見ないまま「すごい」と言うのは、少し怖い。
休み時間、アルトがノートを閉じると、リゼが視線を向けた。
「銀環反応は」
「少し熱い。痛みなし。声なし」
「原因は」
「ロウ先生の話で、リゼさんの剣のことを考えた」
リゼは少しだけ沈黙した。
「私の剣ですか」
「うん。美しいって言葉だけじゃ足りないと思った」
「美しい、ですか」
リゼはその言葉を少し不思議そうに繰り返した。
「そう見える場合があるのですか」
「うん。でも、それだけじゃないと思う」
アルトは少し迷い、ノートの端を見せた。
リゼさんの剣は、美しいというより、生き残った剣。
リゼの目が、その文字の上で止まった。
長い沈黙。
アルトは不安になった。
「嫌だった?」
「いいえ」
リゼはゆっくり答えた。
「適切です」
「適切?」
「はい。美しいかどうかは私には判断できません。しかし、生き残った剣、という表現は事実に近いです」
その声は静かだった。
だが、いつもより少し低かった。
「覚えなければ、残れませんでした」
アルトの胸が痛くなる。
「リゼさん」
「問題ありません」
リゼはすぐに言った。
「ただし、放課後の稽古では、カイさんに戦場の剣そのものを教えるわけではありません」
「うん」
「死なない一歩を、学園の中で扱える形に変換します」
「変換」
「はい」
リゼは自分の右手を見た。
「それができるか、試します」
アルトは頷いた。
「僕、見てます」
「はい」
リゼは一拍置いた。
「見ていてください」
その言葉は小さかった。
しかし、アルトには確かに届いた。
昼休みになると、王宮監察官到着の報せが正式に入った。
ユリウス・エインズワースが中庭へ来た。
白い制服姿で、表情は硬い。隣にはエレオノーラ・ヴィンスフェルトが記録板を持っている。
「アルト君」
ユリウスは周囲を確認してから声を落とした。
「オルド・ハイマン監察官が学園に到着した。今日は学園長、ロウ先生、クラウス卿との面談が中心になる。君との直接面談は明日になる見込みだ」
アルトの左手首が淡く光った。
リゼが即座に確認する。
「痛みは」
「なし」
「熱は」
「中」
「声は」
「なし」
「現在地は」
「学園中庭。昼。リゼさん、ミリアさん、カイ、ユリウス先輩、エレオノーラ先輩がいる。監察官が来た」
「感情は」
ミリアが聞く。
「怖い。でも、今日はまだ直接話さないって聞いて、少し息ができた」
ユリウスが頷く。
「君の意思表明文は学園長から提示される予定だ。無視はさせない」
「ありがとうございます」
「ただ、油断はできない。オルド監察官は丁寧だが、本人の不安を“保護対象の混乱”として処理する可能性がある」
カイが低く言う。
「嫌な言い方だな」
「そうだね」
ユリウスは否定しない。
エレオノーラが言った。
「本日の記録範囲を確認します。監察官到着、本人反応、直接面談は明日予定。ここまで記録してよろしいですか」
「はい。夢や白鐘礼拝堂のことは書かないでください」
「承知しています」
リゼが問う。
「監察官の行動範囲は」
「今日は学園長室、資料室、医務室、通信塔の確認。訓練場へは行かない予定だ」
その言葉に、カイが少し息を吐いた。
「じゃあ訓練できるな」
「あなたは本当に訓練のことしか考えていませんね」
リゼが言う。
「今日考えるって決めたからな」
ミリアが微笑む。
「それはそれで大事よ。王宮が来ても、私たちの生活を全部止めないこと」
アルトは頷いた。
王宮監察官が来た。
怖い。
だが、今日は訓練場へ行く。
カイが稽古を受ける。
リゼが剣を教える。
自分はそれを見る。
それも、学園に残りたいという意思の一部なのかもしれない。
昼食後、午後の授業を終え、四人は第一訓練場へ向かった。
夕方前の訓練場には、すでに何人もの生徒が残っていた。
大会前の自主練習。
模擬剣の音。
足音。
短い掛け声。
笑い声。
悔しそうな声。
学園らしい熱気がそこにあった。
リゼは入口で一度立ち止まり、周囲を確認した。
「本日の稽古は、昨日より人目があります」
ミリアが頷く。
「大会前だから仕方ないわね」
「内容を調整します」
カイが眉を寄せる。
「弱くするのか」
「いいえ。危険な表現を避けます」
「表現?」
「戦場由来の動きをそのまま見せると、観察対象になります」
アルトはすぐにセレナのことを思い出した。
今日も壁際にいる。
セレナ・アイゼンベルグ。
彼女は模擬剣を手にしているが、練習しているというより、場全体を見ているようだった。
ラウルもいた。
彼はダリオと軽く剣を合わせていたが、こちらに気づくと一瞬視線を向けた。
カイも気づいた。
「見られてるな」
「はい」
リゼが言う。
「だから、学園の稽古として行います」
「でも俺は強くなりたい」
「強くなることと、無用に危険を見せることは別です」
「わかった」
カイは今度は素直に頷いた。
リゼは訓練場の端、壁際から少し離れた場所を選んだ。
完全に隠れない。
だが、中央ほど目立たない。
アルトとミリアは見学位置に立つ。
ミリアは焼き菓子の袋を持っている。
今日も訓練後用として預かっているのだ。
カイはリゼの前に立った。
「今日は何からだ」
「受け身です」
「いきなり六番かよ」
「転倒前に学ぶ必要があります」
「転ばないって言った」
「転ぶ可能性が高いです」
リゼは淡々と告げ、訓練場の床に片膝をついた。
「まず、倒れる時に腕だけで支えようとしないでください。手首を痛めます」
「転ぶ練習って、何か格好悪いな」
「手首を痛めて大会に出られない方が格好悪いです」
「それは嫌だ」
「では覚えてください」
カイは素直に膝をついた。
リゼは床に手をつき、体を横へ逃がす動作を見せる。
戦場のような鋭さはない。
ゆっくり、わかりやすく。
体の側面で衝撃を逃がし、顎を引き、すぐに起き上がる。
「倒れる時、地面と戦わないでください」
「地面と戦う?」
「勝てません」
「それはそうだな」
「衝撃を逃がします。受け止めるのではなく、流す」
「ラウルにやられたのと同じか」
「概念は近いです」
カイは少し嫌そうな顔をした。
「地面までラウルか」
「地面はラウルさんではありません」
「わかってる」
アルトは見ていた。
リゼが受け身を教える。
声は淡々としている。
だが、彼女の動きには無駄がない。
倒れ方を知っている。
倒れた後、どう起きるかも知っている。
それは、訓練場で覚えたものだけではないのだろう。
戦場で倒れたことがあるのか。
倒れた誰かを見たことがあるのか。
倒れ方を間違えて、起き上がれなくなった人を知っているのか。
アルトの胸が少し重くなる。
左手首が温かくなる。
リゼがすぐに視線を向けた。
アルトは自分で言う。
「痛みなし。熱、少し。声なし。リゼさんの動きのことを考えた」
「続行可能ですか」
「うん」
「感情は」
「少し悲しい。でも、見ていたい」
リゼは短く頷いた。
「確認しました」
カイの受け身練習は、思ったより苦戦した。
前へ進むことには慣れているが、倒れることを受け入れるのが苦手らしい。
倒れそうになると、無理に踏ん張る。
腕で支えようとする。
体を硬くする。
そのたび、リゼが止める。
「硬いです」
「倒れたくねえんだよ」
「倒れる時に硬くなると、痛みが増えます」
「嫌なこと言うな」
「事実です」
「じゃあ、柔らかく倒れるのか」
「はい」
「ますます格好悪い」
「倒れて起き上がる姿は、格好悪くありません」
リゼの声が少しだけ低くなった。
カイが黙る。
リゼは続ける。
「起き上がれないことが問題です」
その言葉に、訓練場の空気が一瞬だけ変わった気がした。
カイは真剣な顔になった。
「わかった」
もう一度、倒れる。
今度は腕で支えようとせず、肩から背中へ衝撃を逃がす。
不格好だった。
だが、起き上がれた。
リゼが頷く。
「改善しています」
「痛い」
「最初よりは軽減されています」
「まあ、そうかも」
「もう一度」
「やっぱりか」
「はい」
何度も倒れる。
何度も起きる。
カイの制服に土がつき、髪が乱れ、額に汗が滲む。
それでも、彼はやめなかった。
周囲の生徒が時折こちらを見る。
ダリオが近づいてきた。
「ロックハート、今日は転がってるのか?」
「訓練だ」
「何の?」
「倒れても起きる訓練」
カイは真面目に答えた。
ダリオは少し驚いたように目を丸くする。
「それ、大事そうだな」
「大事だ」
カイは言った。
「たぶん」
「たぶんかよ」
「今覚えてる」
ダリオは笑った。
「俺も後で教えてもらおうかな」
リゼがダリオを見る。
「希望があれば基礎範囲で共有可能です」
「本当に?」
「はい。ただし、カイさんの個別訓練後です」
「じゃあ後で頼む」
ダリオは去っていった。
アルトは少し驚いた。
リゼの稽古が、カイだけでなく周囲へ広がろうとしている。
戦場の言葉を、そのままではなく、学園の基礎として。
死なない準備を、倒れても起きる練習として。
それは、リゼの剣が少しずつ違う形になっているように見えた。
受け身の後、足運びに移った。
昨日と同じ、戻る足を残す練習。
だが今日は、受け身を先にしたせいか、カイの体から少しだけ硬さが抜けていた。
「前へ出ます」
リゼが言う。
「ただし、後ろ足を完全に捨てない」
「捨てない」
「相手が横へずれた時、止まる」
「止まる」
「相手が後ろへ下がった時、追うか追わないかを選ぶ」
「選ぶ」
カイが繰り返す。
まるで呪文のようだった。
開始。
カイが踏み込む。
リゼが横へずれる。
カイの剣先は空を切る。
だが、今日は完全には流れない。
足が残る。
カイは止まった。
リゼの剣が肩へ触れる前に、カイは半歩引いた。
それは小さな動きだった。
勝ってはいない。
届いてもいない。
だが、崩れていない。
リゼが言う。
「今の一歩は良好です」
カイの顔が明るくなる。
「本当か」
「はい。昨日より再現性があります」
「再現性」
「もう一度できる可能性が上がっています」
「じゃあもう一回」
「はい」
次は失敗した。
前へ出すぎて流れる。
リゼの剣が背中に触れる。
「背面」
「くそ」
「原因は」
「前に出すぎた」
「なぜ」
「当てたかった」
「改善案は」
「戻る足を残す」
「実行してください」
「はい」
カイが返事をする。
声量は大きすぎない。
そのことにアルトは少し感心した。
リゼの稽古は厳しい。
だが、ただ失敗を指摘するだけではない。
原因を言わせる。
改善案を言わせる。
本人に自分の体を考えさせる。
昨日のカイなら苛立っていたかもしれない。
でも、今日は食らいついている。
ラウルに剣を届かせたい。
その目標があるからだ。
稽古が進むにつれ、周囲の視線が増えていった。
ラウルは途中から完全に手を止め、少し離れた場所で見ていた。
セレナも壁際にいる。
彼女は声をかけない。
ただ、観察している。
カイの足運び。
リゼの指導。
リゼがあえて見せない動き。
その全てを。
アルトの左手首がまた熱くなる。
「痛みなし。熱、少し。声なし」
自分から言う。
ミリアが頷く。
「セレナさん?」
「うん。見られてる感じがする」
「ええ。見ているわ」
「怖い」
「怖いわね」
ミリアは否定しなかった。
「でも、見られているからといって、全部やめるわけにはいかない。リゼさんも、カイさんも、今それを学んでいるのだと思うわ」
「見られながら続ける」
「ええ。学園で生きるって、少しそういうことかもしれないわね」
アルトは中庭で噂に苦しんだ日々を思い出した。
見られること。
言われること。
それでも昼食を取ること。
課題会へ行くこと。
友達といること。
今、訓練場でリゼとカイがやっているのも、それに似ている。
見られながら、続ける。
隠れるだけではなく。
目立つだけでもなく。
自分たちの場所で、必要なことをする。
稽古はさらに進んだ。
リゼが初めて、自分から攻撃を入れた。
ただし、遅い。
わかりやすい。
授業範囲内。
「受けて、下がる」
リゼが言う。
カイが受ける。
力で押し返そうとする。
リゼの剣が角度を変え、カイの剣を滑らせる。
カイの体が前へ出る。
リゼの足が少し動く。
次の瞬間、カイはまた膝をついた。
「三回」
「だから」
カイは言いかけて、止まった。
深呼吸。
それから言う。
「今のは、俺が押し返そうとした」
「はい」
「相手の力を使われた」
「はい」
「じゃあ、押し返さずに流す?」
「選択肢の一つです」
「やる」
カイが立ち上がる。
リゼが頷く。
「もう一度」
繰り返す。
受ける。
押し返さない。
少し下がる。
だが、下がりすぎる。
リゼの剣先がカイの胸元に軽く触れる。
「届かれました」
「下がりすぎた」
「はい」
「加減が難しい」
「はい」
カイは息を吐いた。
「剣って、こんなに考えるのか」
「考えなくても動けるまで、考えます」
「何だそれ」
「訓練です」
リゼの声は静かだった。
「戦場では、考えてからでは遅い場面があります。だから、考えなくても動けるようにします。ただし、学園では先に考えてください」
カイは一瞬黙った。
「お前は、考えなくても動けるのか」
「はい」
「それが、昨日の戦場反射か」
「はい」
「怖いな」
カイは正直に言った。
リゼは表情を変えない。
だが、アルトは少し緊張した。
カイの言葉はまっすぐすぎる。
でも、カイは続けた。
「でも、今は止めてるんだよな」
「はい」
「じゃあ、俺は止め方も覚えないと駄目だな」
リゼの目が少し揺れた。
「止め方」
「前に出るのを止める。押し返すのを止める。怒るのを止める。声量も止める」
ミリアが小さく笑う。
「最後も大事ね」
「大事らしいからな」
カイは真面目な顔で言った。
リゼは少しだけ視線を伏せた。
「そうです。止めることも、剣です」
その言葉は、リゼ自身にも向けられているように聞こえた。
戦場反射を止める。
急所を取る剣を止める。
灰銀の戦乙女としての動きを、リゼ・グレイスの学園の剣へ戻す。
稽古は、カイだけのものではなかった。
リゼ自身のものでもあった。
夕方近く、カイはついに一度、リゼの模擬剣を受け、半歩下がり、崩れずに剣先を戻した。
当たってはいない。
勝ってはいない。
だが、流されなかった。
リゼの目が細くなる。
「今の動作」
カイは肩で息をしながら言う。
「駄目か」
「良好です」
「よし」
カイは小さく拳を握った。
大きく叫ぼうとして、途中で止める。
「声量、だろ」
「はい」
リゼは頷いた。
「非常に良好です」
「非常に?」
カイが目を見開く。
「はい。動作と声量制御の両面で改善が見られます」
「そこ一緒にするのかよ」
アルトは笑った。
ミリアも笑う。
カイも、疲れた顔のまま笑った。
その笑いの中で、リゼの表情がほんの少しだけ柔らかくなった。
だが、その直後だった。
「見事な稽古だね」
声がした。
ラウル・ヴァレンシュタインが近づいてきていた。
彼は礼儀正しく距離を取り、模擬剣を下げている。
敵意はない。
しかし、目は真剣だった。
カイが振り向く。
「見てたのか」
「途中から」
「笑ってたか?」
「いや」
ラウルはまっすぐ答えた。
「昨日の君より、今日の君の方が厄介だと思った」
カイの顔が一瞬固まった。
「本当か」
「ああ。まだ粗い。だが、昨日より次の選択肢がある」
カイは何か言おうとして、言葉が出ないようだった。
褒められると思っていなかったのかもしれない。
ラウルは次にリゼを見た。
「グレイスさん」
「はい」
「君の指導は、学園の剣術にしては少し重い」
空気が少し張った。
アルトの左手首が淡く熱を持つ。
リゼは表情を変えない。
「安全管理を含む基礎訓練です」
「そうだね。内容は基礎だ。だが、言葉の重さが違う」
ラウルは静かに言った。
「倒れないこと。死なない準備。戻る足。君は、そういうものを知っている」
カイが少しラウルを睨む。
ミリアの表情が静かに整う。
リゼは答えた。
「経験上、必要な内容です」
「どこで得た経験か、聞いても?」
「回答できません」
「だろうね」
ラウルは一歩も踏み込まなかった。
ただ、まっすぐにリゼを見る。
「君の剣は、学園の剣じゃない」
その言葉が、訓練場の夕方に落ちた。
アルトは息を止めた。
昨日も似たことを言われた。
だが、今日はさらに明確だった。
君の剣は、学園の剣じゃない。
リゼは沈黙した。
その顔には、否定も肯定もない。
けれど、アルトにはわかった。
その言葉は、リゼに刺さっている。
リゼ自身も、そう思っているから。
自分の剣は戦場のものだと。
学園にはふさわしくないかもしれないと。
アルトは左手首を押さえた。
痛みなし。
熱、中。
声なし。
怖い。
でも、黙っていたくない。
「でも」
アルトは気づけば声を出していた。
ラウルとリゼがこちらを見る。
アルトは少し緊張したが、続けた。
「今日のリゼさんの稽古は、学園の中でやっていました」
言葉を探す。
胸が熱い。
「死なない準備って言葉は重いです。でも、カイを壊すためじゃなくて、転んでも起きるために教えていました」
カイが黙ってこちらを見る。
ミリアも静かに見守っている。
「リゼさんの剣は、学園の剣じゃないかもしれない。でも、今ここで、学園の剣にしようとしているんだと思います」
言い終えた瞬間、左手首の熱が少し強まった。
だが、痛みはない。
リゼがアルトを見ている。
灰銀の目が、少しだけ揺れていた。
ラウルは長く黙った。
やがて、静かに言った。
「なるほど」
彼はリゼへ向き直る。
「失礼した。断定が早かった」
リゼは少し遅れて答える。
「いえ。指摘は一部正確です」
「一部?」
「私の剣は戦場由来です。しかし、現在は学園内で制御する努力をしています」
ラウルの目が少し細くなる。
「なら、やはり大会で見たい」
カイが横から言う。
「俺も見たい」
「あなたは何度も言っています」
リゼが言う。
「何度でも言う」
ラウルは少しだけ口元を緩めた。
「ロックハート君、君とは大会で当たりたいね」
「当たる前に、少しは届かせる」
「楽しみにしている」
ラウルは礼をし、去っていった。
その背中を見送りながら、アルトは息を吐いた。
左手首の熱が少し下がる。
リゼが近づいてきた。
「アルトさん」
「はい」
「先ほどの発言により、注目が増加した可能性があります」
「ごめんなさい」
「謝罪は不要です」
リゼは静かに言った。
「助かりました」
アルトは顔を上げた。
「助かった?」
「はい。私だけでは、あの指摘に対する回答が不足していました」
ミリアが微笑む。
「とてもよい言葉だったわ」
カイも頷く。
「俺もそう思う」
「本当?」
「俺、壊されてねえしな」
カイは腕を回して言った。
「転がされたけど」
「転倒訓練です」
リゼが訂正する。
「そう、それだ」
アルトは少し笑った。
夕鐘が鳴った。
訓練場に残っていた生徒たちが片付けを始める。
アルトの左手首が淡く光る。
今日も何度も反応した。
王宮監察官。
リゼの剣。
カイの稽古。
ラウルの言葉。
でも、今は自分で戻れる。
「痛みなし。熱、少し。声なし」
リゼが尋ねる。
「現在地は」
「第一訓練場。夕方。リゼさん、ミリアさん、カイといる。灰銀の稽古を見た」
ミリアが聞く。
「感情は」
アルトはリゼを見た。
「怖いところもあった。でも、見てよかった。リゼさんの剣が、学園の中で変わろうとしているのを見た気がする」
リゼは少しだけ目を伏せた。
「変化中です」
「うん」
カイが焼き菓子の袋へ手を伸ばす。
「訓練後用」
ミリアが一つ渡す。
「今日はよく頑張りました」
「だろ」
カイは受け取り、少し考えた後、もう一つをリゼに差し出した。
「指導後用」
リゼは少し驚いたように見た。
「私にもですか」
「今日はお前も疲れただろ」
リゼは一拍遅れて受け取った。
「ありがとうございます」
カイは照れくさそうに顔を逸らす。
「別に」
ミリアが嬉しそうに微笑む。
アルトも笑った。
夜。
男子寮の自室で、アルトは紙片を書いた。
今日は灰銀の稽古を見た。
朝、カイは食堂でも足を見ていた。
右足に重心が寄っている気がすると言っていた。
昨日から、自分の癖に気づくようになったらしい。
リゼさんは稽古計画を作っていた。
六番に転倒時受け身と書いてあって、カイは嫌がった。
でも、転んでも立てる準備だとわかった。
昼、王宮監察官オルド・ハイマンが学園に到着した。
僕との直接面談は明日になった。
怖い。
でも今日は、カイの稽古を見た。
放課後、第一訓練場でリゼさんがカイに受け身を教えた。
倒れる時、地面と戦わない。
衝撃を逃がす。
倒れて起き上がる姿は格好悪くない。
起き上がれないことが問題。
リゼさんの言葉は重かった。
でも、その重さを、カイのために学園の言葉へ変えていた。
カイは何度も倒れた。
何度も立った。
前へ出るために、戻る足を残す練習もした。
一度、リゼさんの剣を受けて、半歩下がって、崩れずに戻れた。
リゼさんは良好と言った。
カイは嬉しそうだった。
ラウルさんが見ていた。
リゼさんの剣は学園の剣じゃないと言った。
僕は、今ここで学園の剣にしようとしているんだと思う、と言った。
少し怖かったけど、言えた。
リゼさんは、助かりましたと言った。
夕鐘で光った。
痛みなし。
熱、少し。
声なし。
怖いところもあった。
でも、見てよかった。
アルトはペンを置き、少しだけ手を止めた。
今日のリゼの姿を思い出す。
倒れ方を教える手。
カイの足元を見る目。
戦場の言葉を、学園の稽古へ変えていく声。
ラウルに「学園の剣じゃない」と言われた時の静かな横顔。
そして、自分の言葉を聞いた後の揺れた瞳。
アルトは最後に、一行を書いた。
リゼさんの剣は、戦場で生き残った剣だ。
でも今日、少しだけ学園の中で息をしていた。
紙片を折り、引き出しへしまう。
窓の外には、夜の鐘楼が立っている。
明日、王宮監察官と話す。
そのことを思うと、胸は冷える。
けれど、今日の稽古の光景が、冷えた胸の中に残っていた。
カイが倒れても立ったこと。
リゼが教えながら、自分も何かを変えようとしていたこと。
ミリアが焼き菓子を訓練後まで守ったこと。
自分が、少しだけリゼを助ける言葉を言えたこと。
アルトは左手首を胸の上に置いた。
「現在地は、男子寮の自室。夜。僕はアルト。明日は王宮監察官と話す。でも今日は、リゼさんの稽古を見た。カイが倒れて、立った」
銀環は淡く光った。
痛みはなかった。
その光は、倒れても起き上がるために床へ置いた手の温度のように、静かに手首の奥へ残った。




