第4章 第4話:カイの敗北予習
カイ・ロックハートは、朝から機嫌が悪かった。
本人は隠しているつもりらしい。
だが、隠せていなかった。
男子寮から中庭へ向かう道で、いつもなら売店の方角を一度は確認する。朝食を食べた後でも、昼に何を買うか、焼き菓子の新しい用途はないか、そういうことを考えている顔をする。
けれど、今朝のカイは売店を見なかった。
歩幅が大きい。
肩に力が入っている。
拳を握ったり開いたりしている。
何より、黙っている。
カイが朝から黙っているという事実は、それだけで異常だった。
アルト・レインフォードは、少し後ろからその背中を見ていた。
昨日の訓練場。
ラウル・ヴァレンシュタインに短時間で二度崩されたカイの顔が、まだ頭に残っている。
あれは正式な試合ではなかった。
授業中の基礎確認。
教師も勝敗を目的にしていないと言っていた。
それでも、差ははっきりしていた。
カイは強い。
踏み込みも速い。
力もある。
けれど、ラウルはそれを正面から受けず、流し、外し、崩した。
まるでカイの行き先を最初から知っていたかのように。
その悔しさが、今朝のカイの背中に張りついている。
アルトは左手首に触れた。
朝鐘で少し光ったが、今は落ち着いている。
痛みなし。
熱、微弱。
声なし。
現在地は、男子寮から中庭へ向かう道。
朝。
前にカイがいる。
これからリゼさんとミリアさんに会う。
怖いことではない。
でも、カイが心配。
言葉にすると、左手首の熱が少しだけ柔らかくなる。
「カイ」
アルトは声をかけた。
カイは振り返らないまま答える。
「何だ」
「昨日のこと、まだ悔しい?」
カイの足が一瞬止まった。
振り返る。
眉が寄っている。
「悔しくねえわけないだろ」
正直な答えだった。
アルトは頷いた。
「うん」
「何か言うのか」
「ううん。聞いただけ」
カイは少し拍子抜けしたような顔をした。
「慰めるとか、次は勝てるとか言わねえのか」
「言った方がよかった?」
「いや」
カイは少し考え、首を横に振る。
「たぶん、今言われたら腹立つ」
「じゃあ、言わなくてよかった」
アルトがそう言うと、カイは少しだけ口元を緩めかけた。
だが、すぐにまた不機嫌な顔へ戻る。
「でも、次は勝つ」
「うん」
「今すぐは無理かもしれねえけど、近づく」
「うん」
「だから、今日はリゼに教わる」
「リゼさん、まだ正式に引き受けたわけじゃないよ」
「昨日、短時間なら確認するって言った」
「うん」
「それは、ほぼ引き受けたってことだ」
アルトは少し笑った。
「カイらしい解釈だね」
「前向きな解釈だ」
「リゼさんに言ったら、早計ですって言われそう」
「言われるな」
カイは少しだけ笑った。
朝の中庭には、いつもの四人の場所があった。
噴水から少し離れた木陰。
リゼ・グレイスはすでにそこに立っていた。灰銀の髪が朝日に淡く光り、制服のリボンはきちんと整っている。表情はいつも通り冷静だが、カイを見る目には昨日からの情報が乗っている。
ミリア・ファルネーゼも隣にいた。彼女はカイの顔を見た瞬間、少しだけ眉を上げた。
「おはようございます」
リゼが言う。
「おはよう」
アルトが返す。
カイも短く言った。
「おはよう」
声量は抑えられていた。
ただし、声の圧が強い。
リゼは即座に確認する。
「声量は改善。圧は高めです」
「圧ってどう下げるんだよ」
「呼吸です」
「剣の前に呼吸か」
「全ての前に呼吸です」
ミリアが微笑む。
「今日は、朝から戦闘態勢ね」
「昨日の続きだ」
カイはそう言った。
リゼはカイの姿勢を観察した。
「肩に力が入っています。踏み込み前の状態に近いです」
「歩いてるだけだぞ」
「歩行にも出ています」
「嫌だな、癖って」
「はい。癖は相手にも見えます」
カイの顔が少し険しくなった。
昨日、ラウルに言われたこと。
方向が読みやすい。
あの言葉が、また刺さったのだろう。
アルトは横で見ていて、何か言いたくなった。
でも、すぐには言わない。
昨日ミリアに言われた。
悔しさを急いで慰めると、本人のものではなくしてしまうことがある。
カイの悔しさは、カイのものだ。
軽く奪ってはいけない。
リゼが尋ねる。
「本日の希望は」
「下がる剣を教えろ」
カイは即答した。
リゼは一拍置く。
「言い換えてください」
「え?」
「教えろ、は命令です」
カイは少し顔をしかめた。
ミリアが横でにこにこしている。
アルトも少し笑いそうになる。
カイは息を吐いた。
「下がる剣を、教えてくれ」
「検討します」
「またかよ」
「指導は可能です。ただし、剣術基礎授業後、放課後の訓練場で行います。午前中は通常授業を受けてください」
「午前からやればいいだろ」
「授業を放棄して特訓することは推奨されません」
「くそ、正論だ」
ミリアが笑った。
「カイさん、今日は午前の授業も訓練の一部と思いましょう」
「王国史もか?」
「集中力の訓練よ」
「一番きつい」
アルトは笑った。
その笑いに、左手首が少し温かくなる。
リゼが視線を向ける。
「痛みは」
「なし」
「熱は」
「少し。楽しい方」
「声は」
「なし」
「現在地は」
「学園中庭。朝。リゼさん、ミリアさん、カイといる。カイが下がる剣を教えてくれって言えた」
カイが眉を寄せる。
「そこ記録するのかよ」
「重要です」
リゼが言う。
「依頼形式の改善は人間関係上、有効です」
「俺、そんなにひどかったか?」
三人が黙った。
カイは少し目を逸らす。
「……改善する」
「良好です」
リゼが頷いた。
午前の授業中、カイは予想通り落ち着かなかった。
王国史の授業では、ロウ教師が古い騎士団の戦術変遷について話していた。
「騎士剣術は、単に前へ進む技術ではない。戦列の中で下がること、受け流すこと、踏み留まること、味方の位置を保つこと。それらが崩れた時、どれほど強い個人でも戦場では孤立する」
前へ進む技術ではない。
下がること。
踏み留まること。
カイの肩がぴくりと動いた。
ロウ教師の視線が一瞬、カイへ向く。
気づいているのかもしれない。
アルトはノートに書いた。
下がることも、剣術。
カイは字を書くのがいつもより雑だった。
だが、今日は居眠りしなかった。
彼なりに、授業を剣につなげようとしているのだろう。
休み時間、カイはすぐにリゼの席へ来た。
「下がるのって、逃げじゃないんだな」
唐突だった。
リゼはペンを置く。
「はい」
「ロウ先生も言ってた」
「戦術上、後退は位置調整です。逃走とは異なります」
「でも、前に出ないと負けるだろ」
「前に出るために下がる場合があります」
「意味わかんねえ」
「放課後、体で確認します」
「転ぶやつか」
「転ぶ可能性があります」
「今日は転ばない」
「予測では転びます」
「予測を外す」
「それも訓練です」
カイは少しだけ口元を上げた。
悔しさはまだ消えていない。
だが、昨日の痛みが、少しずつ前へ向かう力へ変わっている。
アルトはそれを見て、胸が少し温かくなった。
昼休み、四人は中庭で昼食を取った。
今日の席はいつもの噴水近く。
剣術大会の話題はあちこちから聞こえてくる。
誰が申請した。
ラウルは当然出る。
セレナも教師推薦らしい。
ダリオはカイに勝つと言っていた。
リゼ・グレイスはどうするのか。
その名前が聞こえるたび、アルトは少しリゼを見る。
リゼは表情を変えない。
だが、昨日より視線に慣れようとしているのがわかった。
逃げてはいない。
ただ、記録している。
周囲の反応。
視線の方向。
名前が呼ばれた頻度。
たぶん、全部。
ミリアが昼食の包みを開きながら言った。
「今日は、カイさんの訓練に集中しましょう」
「おう」
カイはすぐに頷く。
「ただし、午後の授業後よ。今は食べる」
「わかってる」
そう言いながら、カイはパンをかなり速い速度で食べ始めた。
リゼが即座に言う。
「速度過多です」
「飯の速度もか」
「午後の運動前に急いで食べると、体調に影響します」
「なるほど」
カイは少しだけ速度を落とした。
アルトはその様子を見て笑った。
「カイ、今日はちゃんと聞くね」
「勝つためだからな」
ミリアが首を傾げる。
「勝つためだけ?」
カイはパンを噛みながら黙った。
少し考えている。
いつもなら「勝つためだろ」と即答しそうなところだ。
だが、昨日のラウルとの確認と、今朝の授業が何か引っかかっているのかもしれない。
「負けっぱなしが嫌だから」
カイはまずそう言った。
「うん」
アルトが頷く。
「あと、あいつに届きたい」
「ラウルさん?」
「そうだ」
カイは少しだけ視線を落とす。
「昨日、全然届かなかった。力入れても、速く行っても、流された。何か、俺だけ前に突っ込んでて、あいつはもう横にいた」
言葉にしながら、悔しさが戻っているようだった。
でも、怒鳴らない。
食べ物も投げない。
カイは自分の悔しさを、どうにか言葉にしている。
「だから、届きたい」
カイは続けた。
「勝つかどうかはその先だ。まず、あいつにちゃんと剣を届かせたい」
リゼが静かに頷いた。
「目的が具体化しました」
「そうなのか」
「はい。勝つ、だけでは訓練内容が広すぎます。ラウルさんに剣を届かせる、であれば必要な要素を分解できます」
「分解するな、怖い」
「分解します」
ミリアが微笑む。
「でも、良い目標ね」
アルトも頷いた。
「うん。僕もそう思う」
カイは少し照れくさそうに顔を逸らした。
「お前ら、今日は褒めすぎだろ」
「昨日、悔しかったから」
アルトは言った。
カイがこちらを見る。
「悔しかったことを、ちゃんと言ってるのがすごいと思った」
「すごくねえよ」
「僕は、すごいと思う」
カイはしばらく黙った。
それから、少し乱暴にパンをちぎった。
「そうかよ」
声は少しだけ照れていた。
午後の授業が終わる頃には、カイの集中は完全に放課後へ向いていた。
訓練場へ行く前、彼は一度売店へ寄ろうとした。
リゼが止める。
「訓練直前の焼き菓子摂取は避けてください」
「訓練前用だぞ」
「訓練後にしてください」
「終わった後、絶対いるだろ」
「はい。必要になる可能性は高いです」
「じゃあ買っておく」
「保管はミリアさんへ」
「何でだよ」
「あなたが訓練前に食べる可能性があるためです」
カイは反論しようとして、できなかった。
ミリアが笑顔で袋を受け取る。
「預かります」
「信用がない」
「あるから預かるのよ」
「どういう意味だ」
「説明すると長いわ」
アルトは笑いながら見ていた。
今日の訓練場は、授業後でも人が残っていた。
大会前だからだ。
出場予定の生徒たちが自主練をしている。
ダリオもいた。
ラウルも、少し離れた場所で教師と短く話していた。
セレナは壁際で模擬剣の重さを確認している。
人が多い。
リゼはすぐに周囲を確認した。
「場所を選びます」
彼女は訓練場の端、壁に近いが完全に隠れない場所を選んだ。
人目はある。
だが、会話の内容は届きにくい。
アルトとミリアは少し離れた見学位置に立つ。
カイは中央に立ち、模擬剣を握った。
リゼはまだ剣を持たない。
「まず足です」
「剣は?」
「足です」
「昨日も足だった」
「今日も足です」
「剣術なのに?」
「剣は足で運びます」
カイは少し不満そうだったが、今回は文句を飲み込んだ。
リゼはカイの足元を指した。
「構え」
カイが構える。
「右足に重心が寄っています」
「またか」
「昨日より少し改善。ただし、踏み込み意思が強すぎます」
「意思って消せるのか」
「消す必要はありません。隠すか、使います」
「どうやって」
「まず、自分で気づくことです」
リゼはカイの前に立った。
剣を持たず、ただ手を上げる。
「私が手を上げたら前へ出てください」
「おう」
「声量」
「おう」
少し抑えた。
リゼが手を上げる。
カイが踏み込む。
速い。
だが、リゼは半歩横にずれただけだった。
カイの体が前へ流れる。
リゼは手を伸ばし、彼の肩を軽く押した。
カイはたたらを踏む。
「一回」
「まだ転んでねえ」
「崩れました」
「転んでねえ」
「記録上、崩れ一回」
「くそ」
リゼは淡々と続ける。
「もう一度」
二回目。
カイは少し警戒して踏み込む。
リゼは今度は動かない。
カイは警戒しすぎて踏み込みが浅くなる。
リゼの手が彼の額に軽く触れた。
「届いていません」
「今のは避けると思ったんだよ」
「相手は常に同じ反応をしません」
「わかってる」
「体がわかっていません」
「言い方」
「事実です」
三回目。
カイは再び勢いを戻す。
リゼは今度、ほんの少し後ろへ下がった。
カイが追う。
その瞬間、彼の足元が乱れた。
前へ出るための足が、前に相手がいなくなったことで空回りしたのだ。
リゼは剣も持たず、彼の腕を軽く引いた。
カイは膝をついた。
「二回」
「だから転んでねえ!」
「膝接地。転倒未満」
「未満なら数えるな」
「崩れとして記録します」
見ていたダリオが笑いをこらえきれず吹き出した。
「ロックハート、めちゃくちゃ崩されてるな」
「うるせえ」
「声量」
リゼが言う。
「うるせえ」
少し小さい。
ダリオは笑った。
アルトも思わず笑ったが、そのすぐ後でカイの顔を見て、笑いすぎないようにした。
カイは悔しそうだ。
でも、昨日と違い、怒りで周りが見えなくなってはいない。
リゼに崩されるたび、彼は自分の足元を見ている。
なぜ崩れたのか。
どうすればよかったのか。
考えようとしている。
リゼは言った。
「あなたは相手へ届こうとする時、体全部を前へ投げています」
「投げてねえ」
「比喩です」
「リゼが比喩を使った」
カイが驚いたように言う。
リゼは一瞬止まった。
「不適切でしたか」
「いや、わかりやすかった」
「では採用します」
ミリアが小さく笑った。
リゼは続ける。
「体全部を前へ投げると、相手が横へずれた時、戻れません。ラウルさんはそれを利用しました」
カイの表情が真剣になる。
「あいつ、俺が前に出るの待ってたのか」
「はい」
「じゃあ、前に出ない方がいいのか」
「違います」
リゼは即答した。
「あなたの前進力は強みです。消すと弱くなります」
カイは少しだけ目を見開いた。
褒められると思っていなかったのだろう。
「ただし、前に出るために、戻る足を残してください」
「戻る足」
「はい。死なない準備です」
昨日も聞いた言葉。
だが、今日はそれが少し具体的に見えた。
前へ出る。
でも、戻る足を残す。
力を全部投げない。
自分が空にならないように。
カイは足元を見た。
「どうやる」
「半歩です」
リゼは自分の足で示した。
前に出る。
だが、後ろ足が完全には浮かない。
重心を乗せ切らず、戻れる余地を残す。
それは見た目には小さな違いだった。
しかし、カイが真似するとすぐに崩れた。
「難しい」
「はい」
「地味だ」
「はい」
「でも、これできないとラウルに届かねえ?」
「届かない可能性が高いです」
「じゃあやる」
カイは言った。
その声に、昨日までの勢いだけとは違うものがあった。
アルトは見ていた。
カイが半歩を練習する。
前へ出たい体を抑え、戻る足を残す。
何度も失敗する。
時々、リゼに肩を押されて崩れる。
ダリオに笑われる。
それでも続ける。
ラウルは少し離れた場所でその様子を見ていた。
真剣な目だった。
笑ってはいない。
セレナもまた、壁際から一瞬だけこちらを見る。
彼女の目は、カイではなくリゼを見ているようだった。
リゼが教えている内容。
死なない準備。
戦場の言葉を、学園の訓練に変換している様子。
それを観察している。
アルトの左手首が少し熱を帯びた。
ミリアがすぐに気づく。
「熱?」
「少し。セレナさんが見てる」
「ええ」
「リゼさんのこと、気づかれますか」
「すでに何かは気づいているでしょうね」
ミリアの声は静かだった。
「でも、完全に隠すことだけではもう難しい。これからは、どう見られるかも整えていく必要があるわ」
「整える」
「ええ。リゼさんが戦場の人ではなく、学園の生徒として剣を扱っているように見えること。あるいは実際にそうなっていくこと」
アルトはリゼを見た。
カイに足運びを教えているリゼ。
冷静で、厳しくて、でも相手を壊さないようにしている。
それは戦場の英雄ではなく、確かに学園の中にいるリゼだった。
訓練は次の段階へ進んだ。
リゼが模擬剣を手に取る。
カイの目が輝いた。
「やっと剣か」
「まず受けません」
「え?」
「私は攻撃しません。あなたが前へ出ます。私は避けます。あなたは崩れないように止まる。それだけです」
「地味だな」
「基礎です」
「大会、剣術大会だろ」
「剣を当てる前に、体が流れないことが必要です」
「わかった」
カイが構える。
リゼも構える。
場の空気が少し変わった。
リゼが剣を持つだけで、周囲の生徒がちらりと見る。
彼女はそれを気にせず、カイへ言った。
「開始」
カイが踏み込む。
模擬剣が前へ出る。
リゼは半歩横へ。
カイは剣を止めようとする。
だが、体が流れる。
リゼの模擬剣がカイの背中に軽く触れた。
「背面を取られました」
「くそ」
「もう一度」
二度目。
カイは止まろうとしすぎて剣が届かない。
「届いていません」
「わかってる!」
「声量」
「わかってる」
三度目。
少しだけ良くなる。
リゼは横へずれ、カイは完全には崩れなかった。
だが、剣先は空を切った。
「改善しています」
「本当か」
「はい。ただし、まだ相手には届いていません」
「くそ」
四度目。
リゼが今度は横ではなく、少し後ろへ下がる。
カイは追う。
だが、戻る足を残そうとしたため、いつもより伸びない。
剣先がリゼの手前で止まる。
リゼは剣を上げ、カイの肩に軽く触れた。
「一本取られます」
「今の、前なら届いてただろ」
「はい。そしてその後、崩されます」
カイは歯を食いしばった。
「届かせるのと崩れないの、両方やるのか」
「はい」
「難しすぎる」
「はい」
「ラウルはそれやってんのか」
「はい」
リゼは言った。
「ラウルさんは、届く距離と戻れる距離を同時に管理しています。だから、あなたを流せます」
カイはラウルの方を見た。
ラウルは遠くで別の生徒と軽く剣を合わせている。
その動きはやはり美しい。
前へ出ても、後ろに戻れる。
受けても、次へ移れる。
剣と足が一つにつながっている。
カイは小さく息を吐いた。
「遠いな」
その言葉は、いつものカイにしては珍しく弱かった。
アルトの胸が少し痛む。
でも、今度はすぐに慰めなかった。
リゼもすぐに否定しなかった。
遠い。
それは事実なのだろう。
今のカイから見れば、ラウルは遠い。
リゼは静かに言った。
「遠いです」
カイは顔をしかめた。
「そこは近いって言えよ」
「事実ではありません」
「くそ」
「ただし、距離が見えたなら、進む方向も見えます」
カイの目が少し動いた。
「方向」
「はい。昨日までは、あなたは自分がなぜ届かないのか見えていませんでした。今日は、少し見えています」
リゼは模擬剣を下げる。
「これは敗北予習です」
「何だそれ」
「本番で負ける前に、負ける理由を学ぶことです」
「嫌な名前だな」
「有効です」
「もっと格好いい名前にしろ」
「敗北予習が最も正確です」
アルトは少し笑ってしまった。
カイはそれを見て、少しだけ不満そうにする。
「笑うなよ」
「ごめん。でも、リゼさんらしいと思って」
「負ける前提みたいで嫌だ」
ミリアが静かに言った。
「負けるためじゃなくて、負け方を知るためでしょう」
「負け方?」
「ええ。何で負けるかを知れば、そこを変えられる。知らないまま負けるより、ずっといいわ」
カイはミリアを見る。
しばらく黙る。
「負ける前に、負け方を知る」
「そう」
「悔しいな、それ」
「ええ。でも、強くなる人は、たぶんそこから逃げないわ」
カイは模擬剣を握り直した。
悔しさが、また顔に出る。
だが、今度は逃げない顔だった。
「もう一回」
リゼは頷く。
「はい」
それから、カイは何度も崩された。
横へ流される。
後ろへ下がられる。
止まれずに肩を押される。
止まりすぎて届かない。
戻る足を残そうとして踏み込みが弱くなる。
踏み込みを強めると、また流れる。
失敗ばかりだった。
だが、二十回を超えた頃、一度だけ、カイの剣先がリゼの袖の手前まで届いた。
当たってはいない。
だが、リゼが避けた後、カイは崩れなかった。
その場に残っていた。
リゼが止まる。
「今の一歩」
カイが息を荒げながら顔を上げる。
「駄目か」
「悪くありません」
その言葉に、カイの目が見開かれた。
「本当か」
「はい。届いてはいませんが、崩れていません。次へつながります」
カイの顔に、今日初めてはっきりした喜びが浮かんだ。
ほんの一瞬。
すぐに悔しさへ戻ったが、アルトには見えた。
「もう一回」
カイは言った。
リゼは頷く。
「もう一回」
そこからさらに続けた。
夕方の光が訓練場に差し込む。
周囲の自主練習組も少しずつ片付け始める。
それでもカイはやめようとしなかった。
リゼが時間を確認する。
「終了です」
「あと一回」
「終了です」
「あと一回だけ」
「疲労により動作精度が低下しています。これ以上は悪い癖が強化されます」
「でも」
「終了です」
カイは不満そうにしたが、肩で息をしていた。
自分でも限界に近いことはわかっているのだろう。
「……わかった」
珍しく素直だった。
リゼは模擬剣を下ろす。
「本日の成果」
「あるのか」
「あります」
カイが顔を上げる。
「一、前重心への自覚が発生。二、後退と逃走の違いを理解し始めました。三、戻る足を残す動作に一度成功。四、崩された際に怒りだけでなく原因確認へ移行しました」
カイは少し照れくさそうにする。
「結構あるな」
「はい」
「じゃあ、俺、少しは強くなったか」
「今日の時点で試合に勝てるほどではありません」
「そこまでは聞いてねえ」
「しかし、強くなる方向へ動きました」
カイは黙った。
それから、模擬剣を肩に乗せようとして、リゼに視線で止められ、壁際へ戻しに行った。
「次も頼む」
「検討します」
「そこは、はいでいいだろ」
「訓練量、体調、私の予定、アルトさんの護衛体制を考慮します」
「じゃあ、考慮して頼む」
「はい」
ミリアが預かっていた焼き菓子の袋を取り出した。
「訓練後用ね」
カイの顔が少し明るくなる。
「いる」
「一つだけ」
「今日かなり動いたぞ」
「だからこそ、夕食も食べられるように一つ」
「ミリアは厳しいな」
「健康管理よ」
カイは焼き菓子を受け取り、一口で半分食べた。
そして、急に静かになった。
アルトは隣へ行く。
「カイ」
「何だ」
「お疲れさま」
カイは少しだけ眉を寄せた。
「負けっぱなしだったけどな」
「でも、逃げなかった」
「逃げるわけねえだろ」
「うん。知ってる」
アルトは笑った。
「それが、すごいと思った」
カイは焼き菓子を口に入れたまま、しばらく何も言わなかった。
飲み込んでから、小さく言う。
「お前、今日は褒めすぎだ」
「そうかな」
「そうだ」
「じゃあ、半分だけにする」
「半分?」
「お疲れさま。ちょっとすごかった」
カイは一瞬ぽかんとし、それから吹き出した。
「何だよ、それ」
アルトも笑った。
リゼが不思議そうに見る。
「褒め言葉の分量調整ですか」
「たぶん」
「有効性は不明ですが、カイさんの反応は改善しました」
「記録するな」
「記録します」
ミリアが笑った。
夕鐘が鳴った。
訓練場の空気が少し静かになる。
アルトの左手首が淡く光った。
今日は、王宮の話はほとんどしなかった。
それでも、明日には監察官が来る。
その現実は消えていない。
だが、今この瞬間は、カイが転び、立ち上がり、半歩だけ下がることを覚えようとしていた。
「痛みなし。熱、少し。声なし」
アルトは自分で言った。
リゼが尋ねる。
「現在地は」
「第一訓練場。夕方。リゼさん、ミリアさん、カイといる。カイの敗北予習が終わった」
カイがすぐに言う。
「その名前やめろ」
「リゼさんが言ったから」
「だからって採用するな」
ミリアが尋ねる。
「感情は」
アルトは少し考えた。
「心配だった。でも、今は少し安心。カイが悔しさで壊れなくてよかった。あと、応援したい」
カイは目を逸らした。
「勝ったら応援しろ」
「負けても応援するよ」
カイは一瞬、言葉に詰まった。
そして、少し乱暴に言う。
「負けねえよ」
「うん」
アルトは笑った。
リゼはそのやり取りを見て、静かに言った。
「良好です」
夜。
男子寮の自室で、アルトは紙片を書いた。
今日はカイの敗北予習の日だった。
カイは朝から機嫌が悪かった。
昨日ラウルさんに崩されたことが、すごく悔しかったから。
でも、ちゃんと悔しいと言った。
慰められたら腹立つとも言った。
僕は、次は勝てるとは言わなかった。
昼、カイはラウルさんに剣を届かせたいと言った。
勝つより前に、まず届きたいと言った。
それは、とてもカイらしいけど、いつものカイより少し考えている言葉だった。
放課後、リゼさんがカイに足運びを教えた。
前に出るために、戻る足を残す。
下がるのは逃げじゃない。
死なない準備。
カイは何度も崩された。
転んでないと言ったけど、たぶんかなり崩れていた。
リゼさんは、あなたの剣は前に出ることしか知らないと言った。
カイは、じゃあ後ろに下がる剣を教えてくれと言った。
リゼさんは、敗北予習と言った。
カイは嫌がったけど、最後には一度だけ、崩れない一歩ができた。
リゼさんは、悪くありませんと言った。
カイは嬉しそうだった。
夕鐘で光った。
痛みなし。
熱、少し。
声なし。
心配だった。
でも、カイが悔しさで壊れなくてよかった。
負けても応援すると言ったら、カイは負けねえよと言った。
アルトはペンを止めた。
紙片の上に、今日見たカイの姿が残っている。
強くて、真っ直ぐで、悔しがりで、負けず嫌いで、でも少しずつ人の言葉を聞けるようになっている友達。
アルトは最後に、一行を書いた。
友達が負けそうなところを見るのは怖い。
でも、負ける前に強くなろうとしているところを見るのは、少し眩しい。
紙片を折り、引き出しへしまう。
窓の外には夜の鐘楼が立っている。
明日、王宮監察官が来る。
そのことを思うと、胸は冷える。
でも、今日の訓練場の夕方も、同じ胸の中にある。
カイが何度も崩れて、それでも立ったこと。
リゼが戦場の言葉を、学園の訓練に変えていたこと。
ミリアが焼き菓子を預かって、ちゃんと訓練後に渡したこと。
自分が、友達を応援したいと思ったこと。
怖いことだけではない。
アルトは左手首を胸の上に置いた。
「現在地は、男子寮の自室。夜。僕はアルト。明日は王宮監察官が来る。でも今日は、カイが一歩下がる練習をした」
銀環は淡く光った。
痛みはなかった。
その光は、前へ進むために残した半歩の余白のように、静かに手首の奥で揺れていた。




