表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
灰銀の戦乙女は、制服を知らない  作者: 最後に残った形


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

49/128

第4章 第4話:カイの敗北予習


 カイ・ロックハートは、朝から機嫌が悪かった。


 本人は隠しているつもりらしい。


 だが、隠せていなかった。


 男子寮から中庭へ向かう道で、いつもなら売店の方角を一度は確認する。朝食を食べた後でも、昼に何を買うか、焼き菓子の新しい用途はないか、そういうことを考えている顔をする。


 けれど、今朝のカイは売店を見なかった。


 歩幅が大きい。


 肩に力が入っている。


 拳を握ったり開いたりしている。


 何より、黙っている。


 カイが朝から黙っているという事実は、それだけで異常だった。


 アルト・レインフォードは、少し後ろからその背中を見ていた。


 昨日の訓練場。


 ラウル・ヴァレンシュタインに短時間で二度崩されたカイの顔が、まだ頭に残っている。


 あれは正式な試合ではなかった。


 授業中の基礎確認。


 教師も勝敗を目的にしていないと言っていた。


 それでも、差ははっきりしていた。


 カイは強い。


 踏み込みも速い。


 力もある。


 けれど、ラウルはそれを正面から受けず、流し、外し、崩した。


 まるでカイの行き先を最初から知っていたかのように。


 その悔しさが、今朝のカイの背中に張りついている。


 アルトは左手首に触れた。


 朝鐘で少し光ったが、今は落ち着いている。


 痛みなし。


 熱、微弱。


 声なし。


 現在地は、男子寮から中庭へ向かう道。


 朝。


 前にカイがいる。


 これからリゼさんとミリアさんに会う。


 怖いことではない。


 でも、カイが心配。


 言葉にすると、左手首の熱が少しだけ柔らかくなる。


「カイ」


 アルトは声をかけた。


 カイは振り返らないまま答える。


「何だ」


「昨日のこと、まだ悔しい?」


 カイの足が一瞬止まった。


 振り返る。


 眉が寄っている。


「悔しくねえわけないだろ」


 正直な答えだった。


 アルトは頷いた。


「うん」


「何か言うのか」


「ううん。聞いただけ」


 カイは少し拍子抜けしたような顔をした。


「慰めるとか、次は勝てるとか言わねえのか」


「言った方がよかった?」


「いや」


 カイは少し考え、首を横に振る。


「たぶん、今言われたら腹立つ」


「じゃあ、言わなくてよかった」


 アルトがそう言うと、カイは少しだけ口元を緩めかけた。


 だが、すぐにまた不機嫌な顔へ戻る。


「でも、次は勝つ」


「うん」


「今すぐは無理かもしれねえけど、近づく」


「うん」


「だから、今日はリゼに教わる」


「リゼさん、まだ正式に引き受けたわけじゃないよ」


「昨日、短時間なら確認するって言った」


「うん」


「それは、ほぼ引き受けたってことだ」


 アルトは少し笑った。


「カイらしい解釈だね」


「前向きな解釈だ」


「リゼさんに言ったら、早計ですって言われそう」


「言われるな」


 カイは少しだけ笑った。


 朝の中庭には、いつもの四人の場所があった。


 噴水から少し離れた木陰。


 リゼ・グレイスはすでにそこに立っていた。灰銀の髪が朝日に淡く光り、制服のリボンはきちんと整っている。表情はいつも通り冷静だが、カイを見る目には昨日からの情報が乗っている。


 ミリア・ファルネーゼも隣にいた。彼女はカイの顔を見た瞬間、少しだけ眉を上げた。


「おはようございます」


 リゼが言う。


「おはよう」


 アルトが返す。


 カイも短く言った。


「おはよう」


 声量は抑えられていた。


 ただし、声の圧が強い。


 リゼは即座に確認する。


「声量は改善。圧は高めです」


「圧ってどう下げるんだよ」


「呼吸です」


「剣の前に呼吸か」


「全ての前に呼吸です」


 ミリアが微笑む。


「今日は、朝から戦闘態勢ね」


「昨日の続きだ」


 カイはそう言った。


 リゼはカイの姿勢を観察した。


「肩に力が入っています。踏み込み前の状態に近いです」


「歩いてるだけだぞ」


「歩行にも出ています」


「嫌だな、癖って」


「はい。癖は相手にも見えます」


 カイの顔が少し険しくなった。


 昨日、ラウルに言われたこと。


 方向が読みやすい。


 あの言葉が、また刺さったのだろう。


 アルトは横で見ていて、何か言いたくなった。


 でも、すぐには言わない。


 昨日ミリアに言われた。


 悔しさを急いで慰めると、本人のものではなくしてしまうことがある。


 カイの悔しさは、カイのものだ。


 軽く奪ってはいけない。


 リゼが尋ねる。


「本日の希望は」


「下がる剣を教えろ」


 カイは即答した。


 リゼは一拍置く。


「言い換えてください」


「え?」


「教えろ、は命令です」


 カイは少し顔をしかめた。


 ミリアが横でにこにこしている。


 アルトも少し笑いそうになる。


 カイは息を吐いた。


「下がる剣を、教えてくれ」


「検討します」


「またかよ」


「指導は可能です。ただし、剣術基礎授業後、放課後の訓練場で行います。午前中は通常授業を受けてください」


「午前からやればいいだろ」


「授業を放棄して特訓することは推奨されません」


「くそ、正論だ」


 ミリアが笑った。


「カイさん、今日は午前の授業も訓練の一部と思いましょう」


「王国史もか?」


「集中力の訓練よ」


「一番きつい」


 アルトは笑った。


 その笑いに、左手首が少し温かくなる。


 リゼが視線を向ける。


「痛みは」


「なし」


「熱は」


「少し。楽しい方」


「声は」


「なし」


「現在地は」


「学園中庭。朝。リゼさん、ミリアさん、カイといる。カイが下がる剣を教えてくれって言えた」


 カイが眉を寄せる。


「そこ記録するのかよ」


「重要です」


 リゼが言う。


「依頼形式の改善は人間関係上、有効です」


「俺、そんなにひどかったか?」


 三人が黙った。


 カイは少し目を逸らす。


「……改善する」


「良好です」


 リゼが頷いた。


 午前の授業中、カイは予想通り落ち着かなかった。


 王国史の授業では、ロウ教師が古い騎士団の戦術変遷について話していた。


「騎士剣術は、単に前へ進む技術ではない。戦列の中で下がること、受け流すこと、踏み留まること、味方の位置を保つこと。それらが崩れた時、どれほど強い個人でも戦場では孤立する」


 前へ進む技術ではない。


 下がること。


 踏み留まること。


 カイの肩がぴくりと動いた。


 ロウ教師の視線が一瞬、カイへ向く。


 気づいているのかもしれない。


 アルトはノートに書いた。


 下がることも、剣術。


 カイは字を書くのがいつもより雑だった。


 だが、今日は居眠りしなかった。


 彼なりに、授業を剣につなげようとしているのだろう。


 休み時間、カイはすぐにリゼの席へ来た。


「下がるのって、逃げじゃないんだな」


 唐突だった。


 リゼはペンを置く。


「はい」


「ロウ先生も言ってた」


「戦術上、後退は位置調整です。逃走とは異なります」


「でも、前に出ないと負けるだろ」


「前に出るために下がる場合があります」


「意味わかんねえ」


「放課後、体で確認します」


「転ぶやつか」


「転ぶ可能性があります」


「今日は転ばない」


「予測では転びます」


「予測を外す」


「それも訓練です」


 カイは少しだけ口元を上げた。


 悔しさはまだ消えていない。


 だが、昨日の痛みが、少しずつ前へ向かう力へ変わっている。


 アルトはそれを見て、胸が少し温かくなった。


 昼休み、四人は中庭で昼食を取った。


 今日の席はいつもの噴水近く。


 剣術大会の話題はあちこちから聞こえてくる。


 誰が申請した。


 ラウルは当然出る。


 セレナも教師推薦らしい。


 ダリオはカイに勝つと言っていた。


 リゼ・グレイスはどうするのか。


 その名前が聞こえるたび、アルトは少しリゼを見る。


 リゼは表情を変えない。


 だが、昨日より視線に慣れようとしているのがわかった。


 逃げてはいない。


 ただ、記録している。


 周囲の反応。


 視線の方向。


 名前が呼ばれた頻度。


 たぶん、全部。


 ミリアが昼食の包みを開きながら言った。


「今日は、カイさんの訓練に集中しましょう」


「おう」


 カイはすぐに頷く。


「ただし、午後の授業後よ。今は食べる」


「わかってる」


 そう言いながら、カイはパンをかなり速い速度で食べ始めた。


 リゼが即座に言う。


「速度過多です」


「飯の速度もか」


「午後の運動前に急いで食べると、体調に影響します」


「なるほど」


 カイは少しだけ速度を落とした。


 アルトはその様子を見て笑った。


「カイ、今日はちゃんと聞くね」


「勝つためだからな」


 ミリアが首を傾げる。


「勝つためだけ?」


 カイはパンを噛みながら黙った。


 少し考えている。


 いつもなら「勝つためだろ」と即答しそうなところだ。


 だが、昨日のラウルとの確認と、今朝の授業が何か引っかかっているのかもしれない。


「負けっぱなしが嫌だから」


 カイはまずそう言った。


「うん」


 アルトが頷く。


「あと、あいつに届きたい」


「ラウルさん?」


「そうだ」


 カイは少しだけ視線を落とす。


「昨日、全然届かなかった。力入れても、速く行っても、流された。何か、俺だけ前に突っ込んでて、あいつはもう横にいた」


 言葉にしながら、悔しさが戻っているようだった。


 でも、怒鳴らない。


 食べ物も投げない。


 カイは自分の悔しさを、どうにか言葉にしている。


「だから、届きたい」


 カイは続けた。


「勝つかどうかはその先だ。まず、あいつにちゃんと剣を届かせたい」


 リゼが静かに頷いた。


「目的が具体化しました」


「そうなのか」


「はい。勝つ、だけでは訓練内容が広すぎます。ラウルさんに剣を届かせる、であれば必要な要素を分解できます」


「分解するな、怖い」


「分解します」


 ミリアが微笑む。


「でも、良い目標ね」


 アルトも頷いた。


「うん。僕もそう思う」


 カイは少し照れくさそうに顔を逸らした。


「お前ら、今日は褒めすぎだろ」


「昨日、悔しかったから」


 アルトは言った。


 カイがこちらを見る。


「悔しかったことを、ちゃんと言ってるのがすごいと思った」


「すごくねえよ」


「僕は、すごいと思う」


 カイはしばらく黙った。


 それから、少し乱暴にパンをちぎった。


「そうかよ」


 声は少しだけ照れていた。


 午後の授業が終わる頃には、カイの集中は完全に放課後へ向いていた。


 訓練場へ行く前、彼は一度売店へ寄ろうとした。


 リゼが止める。


「訓練直前の焼き菓子摂取は避けてください」


「訓練前用だぞ」


「訓練後にしてください」


「終わった後、絶対いるだろ」


「はい。必要になる可能性は高いです」


「じゃあ買っておく」


「保管はミリアさんへ」


「何でだよ」


「あなたが訓練前に食べる可能性があるためです」


 カイは反論しようとして、できなかった。


 ミリアが笑顔で袋を受け取る。


「預かります」


「信用がない」


「あるから預かるのよ」


「どういう意味だ」


「説明すると長いわ」


 アルトは笑いながら見ていた。


 今日の訓練場は、授業後でも人が残っていた。


 大会前だからだ。


 出場予定の生徒たちが自主練をしている。


 ダリオもいた。


 ラウルも、少し離れた場所で教師と短く話していた。


 セレナは壁際で模擬剣の重さを確認している。


 人が多い。


 リゼはすぐに周囲を確認した。


「場所を選びます」


 彼女は訓練場の端、壁に近いが完全に隠れない場所を選んだ。


 人目はある。


 だが、会話の内容は届きにくい。


 アルトとミリアは少し離れた見学位置に立つ。


 カイは中央に立ち、模擬剣を握った。


 リゼはまだ剣を持たない。


「まず足です」


「剣は?」


「足です」


「昨日も足だった」


「今日も足です」


「剣術なのに?」


「剣は足で運びます」


 カイは少し不満そうだったが、今回は文句を飲み込んだ。


 リゼはカイの足元を指した。


「構え」


 カイが構える。


「右足に重心が寄っています」


「またか」


「昨日より少し改善。ただし、踏み込み意思が強すぎます」


「意思って消せるのか」


「消す必要はありません。隠すか、使います」


「どうやって」


「まず、自分で気づくことです」


 リゼはカイの前に立った。


 剣を持たず、ただ手を上げる。


「私が手を上げたら前へ出てください」


「おう」


「声量」


「おう」


 少し抑えた。


 リゼが手を上げる。


 カイが踏み込む。


 速い。


 だが、リゼは半歩横にずれただけだった。


 カイの体が前へ流れる。


 リゼは手を伸ばし、彼の肩を軽く押した。


 カイはたたらを踏む。


「一回」


「まだ転んでねえ」


「崩れました」


「転んでねえ」


「記録上、崩れ一回」


「くそ」


 リゼは淡々と続ける。


「もう一度」


 二回目。


 カイは少し警戒して踏み込む。


 リゼは今度は動かない。


 カイは警戒しすぎて踏み込みが浅くなる。


 リゼの手が彼の額に軽く触れた。


「届いていません」


「今のは避けると思ったんだよ」


「相手は常に同じ反応をしません」


「わかってる」


「体がわかっていません」


「言い方」


「事実です」


 三回目。


 カイは再び勢いを戻す。


 リゼは今度、ほんの少し後ろへ下がった。


 カイが追う。


 その瞬間、彼の足元が乱れた。


 前へ出るための足が、前に相手がいなくなったことで空回りしたのだ。


 リゼは剣も持たず、彼の腕を軽く引いた。


 カイは膝をついた。


「二回」


「だから転んでねえ!」


「膝接地。転倒未満」


「未満なら数えるな」


「崩れとして記録します」


 見ていたダリオが笑いをこらえきれず吹き出した。


「ロックハート、めちゃくちゃ崩されてるな」


「うるせえ」


「声量」


 リゼが言う。


「うるせえ」


 少し小さい。


 ダリオは笑った。


 アルトも思わず笑ったが、そのすぐ後でカイの顔を見て、笑いすぎないようにした。


 カイは悔しそうだ。


 でも、昨日と違い、怒りで周りが見えなくなってはいない。


 リゼに崩されるたび、彼は自分の足元を見ている。


 なぜ崩れたのか。


 どうすればよかったのか。


 考えようとしている。


 リゼは言った。


「あなたは相手へ届こうとする時、体全部を前へ投げています」


「投げてねえ」


「比喩です」


「リゼが比喩を使った」


 カイが驚いたように言う。


 リゼは一瞬止まった。


「不適切でしたか」


「いや、わかりやすかった」


「では採用します」


 ミリアが小さく笑った。


 リゼは続ける。


「体全部を前へ投げると、相手が横へずれた時、戻れません。ラウルさんはそれを利用しました」


 カイの表情が真剣になる。


「あいつ、俺が前に出るの待ってたのか」


「はい」


「じゃあ、前に出ない方がいいのか」


「違います」


 リゼは即答した。


「あなたの前進力は強みです。消すと弱くなります」


 カイは少しだけ目を見開いた。


 褒められると思っていなかったのだろう。


「ただし、前に出るために、戻る足を残してください」


「戻る足」


「はい。死なない準備です」


 昨日も聞いた言葉。


 だが、今日はそれが少し具体的に見えた。


 前へ出る。


 でも、戻る足を残す。


 力を全部投げない。


 自分が空にならないように。


 カイは足元を見た。


「どうやる」


「半歩です」


 リゼは自分の足で示した。


 前に出る。


 だが、後ろ足が完全には浮かない。


 重心を乗せ切らず、戻れる余地を残す。


 それは見た目には小さな違いだった。


 しかし、カイが真似するとすぐに崩れた。


「難しい」


「はい」


「地味だ」


「はい」


「でも、これできないとラウルに届かねえ?」


「届かない可能性が高いです」


「じゃあやる」


 カイは言った。


 その声に、昨日までの勢いだけとは違うものがあった。


 アルトは見ていた。


 カイが半歩を練習する。


 前へ出たい体を抑え、戻る足を残す。


 何度も失敗する。


 時々、リゼに肩を押されて崩れる。


 ダリオに笑われる。


 それでも続ける。


 ラウルは少し離れた場所でその様子を見ていた。


 真剣な目だった。


 笑ってはいない。


 セレナもまた、壁際から一瞬だけこちらを見る。


 彼女の目は、カイではなくリゼを見ているようだった。


 リゼが教えている内容。


 死なない準備。


 戦場の言葉を、学園の訓練に変換している様子。


 それを観察している。


 アルトの左手首が少し熱を帯びた。


 ミリアがすぐに気づく。


「熱?」


「少し。セレナさんが見てる」


「ええ」


「リゼさんのこと、気づかれますか」


「すでに何かは気づいているでしょうね」


 ミリアの声は静かだった。


「でも、完全に隠すことだけではもう難しい。これからは、どう見られるかも整えていく必要があるわ」


「整える」


「ええ。リゼさんが戦場の人ではなく、学園の生徒として剣を扱っているように見えること。あるいは実際にそうなっていくこと」


 アルトはリゼを見た。


 カイに足運びを教えているリゼ。


 冷静で、厳しくて、でも相手を壊さないようにしている。


 それは戦場の英雄ではなく、確かに学園の中にいるリゼだった。


 訓練は次の段階へ進んだ。


 リゼが模擬剣を手に取る。


 カイの目が輝いた。


「やっと剣か」


「まず受けません」


「え?」


「私は攻撃しません。あなたが前へ出ます。私は避けます。あなたは崩れないように止まる。それだけです」


「地味だな」


「基礎です」


「大会、剣術大会だろ」


「剣を当てる前に、体が流れないことが必要です」


「わかった」


 カイが構える。


 リゼも構える。


 場の空気が少し変わった。


 リゼが剣を持つだけで、周囲の生徒がちらりと見る。


 彼女はそれを気にせず、カイへ言った。


「開始」


 カイが踏み込む。


 模擬剣が前へ出る。


 リゼは半歩横へ。


 カイは剣を止めようとする。


 だが、体が流れる。


 リゼの模擬剣がカイの背中に軽く触れた。


「背面を取られました」


「くそ」


「もう一度」


 二度目。


 カイは止まろうとしすぎて剣が届かない。


「届いていません」


「わかってる!」


「声量」


「わかってる」


 三度目。


 少しだけ良くなる。


 リゼは横へずれ、カイは完全には崩れなかった。


 だが、剣先は空を切った。


「改善しています」


「本当か」


「はい。ただし、まだ相手には届いていません」


「くそ」


 四度目。


 リゼが今度は横ではなく、少し後ろへ下がる。


 カイは追う。


 だが、戻る足を残そうとしたため、いつもより伸びない。


 剣先がリゼの手前で止まる。


 リゼは剣を上げ、カイの肩に軽く触れた。


「一本取られます」


「今の、前なら届いてただろ」


「はい。そしてその後、崩されます」


 カイは歯を食いしばった。


「届かせるのと崩れないの、両方やるのか」


「はい」


「難しすぎる」


「はい」


「ラウルはそれやってんのか」


「はい」


 リゼは言った。


「ラウルさんは、届く距離と戻れる距離を同時に管理しています。だから、あなたを流せます」


 カイはラウルの方を見た。


 ラウルは遠くで別の生徒と軽く剣を合わせている。


 その動きはやはり美しい。


 前へ出ても、後ろに戻れる。


 受けても、次へ移れる。


 剣と足が一つにつながっている。


 カイは小さく息を吐いた。


「遠いな」


 その言葉は、いつものカイにしては珍しく弱かった。


 アルトの胸が少し痛む。


 でも、今度はすぐに慰めなかった。


 リゼもすぐに否定しなかった。


 遠い。


 それは事実なのだろう。


 今のカイから見れば、ラウルは遠い。


 リゼは静かに言った。


「遠いです」


 カイは顔をしかめた。


「そこは近いって言えよ」


「事実ではありません」


「くそ」


「ただし、距離が見えたなら、進む方向も見えます」


 カイの目が少し動いた。


「方向」


「はい。昨日までは、あなたは自分がなぜ届かないのか見えていませんでした。今日は、少し見えています」


 リゼは模擬剣を下げる。


「これは敗北予習です」


「何だそれ」


「本番で負ける前に、負ける理由を学ぶことです」


「嫌な名前だな」


「有効です」


「もっと格好いい名前にしろ」


「敗北予習が最も正確です」


 アルトは少し笑ってしまった。


 カイはそれを見て、少しだけ不満そうにする。


「笑うなよ」


「ごめん。でも、リゼさんらしいと思って」


「負ける前提みたいで嫌だ」


 ミリアが静かに言った。


「負けるためじゃなくて、負け方を知るためでしょう」


「負け方?」


「ええ。何で負けるかを知れば、そこを変えられる。知らないまま負けるより、ずっといいわ」


 カイはミリアを見る。


 しばらく黙る。


「負ける前に、負け方を知る」


「そう」


「悔しいな、それ」


「ええ。でも、強くなる人は、たぶんそこから逃げないわ」


 カイは模擬剣を握り直した。


 悔しさが、また顔に出る。


 だが、今度は逃げない顔だった。


「もう一回」


 リゼは頷く。


「はい」


 それから、カイは何度も崩された。


 横へ流される。


 後ろへ下がられる。


 止まれずに肩を押される。


 止まりすぎて届かない。


 戻る足を残そうとして踏み込みが弱くなる。


 踏み込みを強めると、また流れる。


 失敗ばかりだった。


 だが、二十回を超えた頃、一度だけ、カイの剣先がリゼの袖の手前まで届いた。


 当たってはいない。


 だが、リゼが避けた後、カイは崩れなかった。


 その場に残っていた。


 リゼが止まる。


「今の一歩」


 カイが息を荒げながら顔を上げる。


「駄目か」


「悪くありません」


 その言葉に、カイの目が見開かれた。


「本当か」


「はい。届いてはいませんが、崩れていません。次へつながります」


 カイの顔に、今日初めてはっきりした喜びが浮かんだ。


 ほんの一瞬。


 すぐに悔しさへ戻ったが、アルトには見えた。


「もう一回」


 カイは言った。


 リゼは頷く。


「もう一回」


 そこからさらに続けた。


 夕方の光が訓練場に差し込む。


 周囲の自主練習組も少しずつ片付け始める。


 それでもカイはやめようとしなかった。


 リゼが時間を確認する。


「終了です」


「あと一回」


「終了です」


「あと一回だけ」


「疲労により動作精度が低下しています。これ以上は悪い癖が強化されます」


「でも」


「終了です」


 カイは不満そうにしたが、肩で息をしていた。


 自分でも限界に近いことはわかっているのだろう。


「……わかった」


 珍しく素直だった。


 リゼは模擬剣を下ろす。


「本日の成果」


「あるのか」


「あります」


 カイが顔を上げる。


「一、前重心への自覚が発生。二、後退と逃走の違いを理解し始めました。三、戻る足を残す動作に一度成功。四、崩された際に怒りだけでなく原因確認へ移行しました」


 カイは少し照れくさそうにする。


「結構あるな」


「はい」


「じゃあ、俺、少しは強くなったか」


「今日の時点で試合に勝てるほどではありません」


「そこまでは聞いてねえ」


「しかし、強くなる方向へ動きました」


 カイは黙った。


 それから、模擬剣を肩に乗せようとして、リゼに視線で止められ、壁際へ戻しに行った。


「次も頼む」


「検討します」


「そこは、はいでいいだろ」


「訓練量、体調、私の予定、アルトさんの護衛体制を考慮します」


「じゃあ、考慮して頼む」


「はい」


 ミリアが預かっていた焼き菓子の袋を取り出した。


「訓練後用ね」


 カイの顔が少し明るくなる。


「いる」


「一つだけ」


「今日かなり動いたぞ」


「だからこそ、夕食も食べられるように一つ」


「ミリアは厳しいな」


「健康管理よ」


 カイは焼き菓子を受け取り、一口で半分食べた。


 そして、急に静かになった。


 アルトは隣へ行く。


「カイ」


「何だ」


「お疲れさま」


 カイは少しだけ眉を寄せた。


「負けっぱなしだったけどな」


「でも、逃げなかった」


「逃げるわけねえだろ」


「うん。知ってる」


 アルトは笑った。


「それが、すごいと思った」


 カイは焼き菓子を口に入れたまま、しばらく何も言わなかった。


 飲み込んでから、小さく言う。


「お前、今日は褒めすぎだ」


「そうかな」


「そうだ」


「じゃあ、半分だけにする」


「半分?」


「お疲れさま。ちょっとすごかった」


 カイは一瞬ぽかんとし、それから吹き出した。


「何だよ、それ」


 アルトも笑った。


 リゼが不思議そうに見る。


「褒め言葉の分量調整ですか」


「たぶん」


「有効性は不明ですが、カイさんの反応は改善しました」


「記録するな」


「記録します」


 ミリアが笑った。


 夕鐘が鳴った。


 訓練場の空気が少し静かになる。


 アルトの左手首が淡く光った。


 今日は、王宮の話はほとんどしなかった。


 それでも、明日には監察官が来る。


 その現実は消えていない。


 だが、今この瞬間は、カイが転び、立ち上がり、半歩だけ下がることを覚えようとしていた。


「痛みなし。熱、少し。声なし」


 アルトは自分で言った。


 リゼが尋ねる。


「現在地は」


「第一訓練場。夕方。リゼさん、ミリアさん、カイといる。カイの敗北予習が終わった」


 カイがすぐに言う。


「その名前やめろ」


「リゼさんが言ったから」


「だからって採用するな」


 ミリアが尋ねる。


「感情は」


 アルトは少し考えた。


「心配だった。でも、今は少し安心。カイが悔しさで壊れなくてよかった。あと、応援したい」


 カイは目を逸らした。


「勝ったら応援しろ」


「負けても応援するよ」


 カイは一瞬、言葉に詰まった。


 そして、少し乱暴に言う。


「負けねえよ」


「うん」


 アルトは笑った。


 リゼはそのやり取りを見て、静かに言った。


「良好です」


 夜。


 男子寮の自室で、アルトは紙片を書いた。


 今日はカイの敗北予習の日だった。


 カイは朝から機嫌が悪かった。


 昨日ラウルさんに崩されたことが、すごく悔しかったから。


 でも、ちゃんと悔しいと言った。


 慰められたら腹立つとも言った。


 僕は、次は勝てるとは言わなかった。


 昼、カイはラウルさんに剣を届かせたいと言った。


 勝つより前に、まず届きたいと言った。


 それは、とてもカイらしいけど、いつものカイより少し考えている言葉だった。


 放課後、リゼさんがカイに足運びを教えた。


 前に出るために、戻る足を残す。


 下がるのは逃げじゃない。


 死なない準備。


 カイは何度も崩された。


 転んでないと言ったけど、たぶんかなり崩れていた。


 リゼさんは、あなたの剣は前に出ることしか知らないと言った。


 カイは、じゃあ後ろに下がる剣を教えてくれと言った。


 リゼさんは、敗北予習と言った。


 カイは嫌がったけど、最後には一度だけ、崩れない一歩ができた。


 リゼさんは、悪くありませんと言った。


 カイは嬉しそうだった。


 夕鐘で光った。


 痛みなし。


 熱、少し。


 声なし。


 心配だった。


 でも、カイが悔しさで壊れなくてよかった。


 負けても応援すると言ったら、カイは負けねえよと言った。


 アルトはペンを止めた。


 紙片の上に、今日見たカイの姿が残っている。


 強くて、真っ直ぐで、悔しがりで、負けず嫌いで、でも少しずつ人の言葉を聞けるようになっている友達。


 アルトは最後に、一行を書いた。


 友達が負けそうなところを見るのは怖い。


 でも、負ける前に強くなろうとしているところを見るのは、少し眩しい。


 紙片を折り、引き出しへしまう。


 窓の外には夜の鐘楼が立っている。


 明日、王宮監察官が来る。


 そのことを思うと、胸は冷える。


 でも、今日の訓練場の夕方も、同じ胸の中にある。


 カイが何度も崩れて、それでも立ったこと。


 リゼが戦場の言葉を、学園の訓練に変えていたこと。


 ミリアが焼き菓子を預かって、ちゃんと訓練後に渡したこと。


 自分が、友達を応援したいと思ったこと。


 怖いことだけではない。


 アルトは左手首を胸の上に置いた。


「現在地は、男子寮の自室。夜。僕はアルト。明日は王宮監察官が来る。でも今日は、カイが一歩下がる練習をした」


 銀環は淡く光った。


 痛みはなかった。


 その光は、前へ進むために残した半歩の余白のように、静かに手首の奥で揺れていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ