第4章 第3話:首席候補たち
訓練場の空気は、朝から少し硬かった。
王立アークレイン学園の第一訓練場は、第一校舎の西側にある。白い石壁に囲まれた広い空間で、床には衝撃吸収の魔術が薄く敷かれている。壁際には模擬剣、練習槍、木盾が整然と並び、天井のない空には薄い雲が流れていた。
普段なら、基礎剣術の授業前には軽い雑談や準備運動の声が多い。
だが今日は違う。
生徒たちは同じように話しているのに、その声の下に別の熱がある。
誰が出場するのか。
誰が教師推薦枠に入るのか。
ラウル・ヴァレンシュタインはやはり強いのか。
セレナ・アイゼンベルグの魔剣術はどこまで認められるのか。
カイ・ロックハートは勢いでどこまで行けるのか。
そして、リゼ・グレイスは本当に強いのか。
そういう問いが、訓練場のあちこちで小さく揺れていた。
アルト・レインフォードは見学用の位置に立ち、その空気を肌で感じていた。
今日の基礎剣術授業は、大会前の実技確認を兼ねている。
アルト自身は、体調と銀環反応の管理を優先し、模擬戦には参加しない。だが、基礎動作の見学と記録、必要に応じた軽い補助は行うことになっていた。
左手首にはいつもの布。
朝鐘で少し光ったが、今は落ち着いている。
痛みなし。
熱、微弱。
声なし。
現在地は、第一訓練場。
午前。
リゼさん、ミリアさん、カイがいる。
アルトは心の中で確認した。
それだけで、足元が少し安定する。
隣にはミリア・ファルネーゼが立っていた。
彼女も今日は見学側に近い。制服の袖を少しだけ上げ、手には小さな記録板を持っている。剣術そのものより、参加者の様子や周囲の反応を見ているようだった。
「今日は、かなり見られているわね」
ミリアが小さく言った。
アルトは頷く。
「リゼさん?」
「ええ。もちろんカイさんもだけれど」
カイ・ロックハートは訓練場の中央近くで肩を回していた。
朝からわかりやすく気合いが入っている。昨日のうちに参加申請書を出したらしく、今日からすでに大会に向けて戦闘状態に入っているようだった。
その近くで、ダリオ・エルムが笑いながら話しかけている。
「ロックハート、今日は飛ばしすぎて先生に怒られるなよ」
「怒られない程度に飛ばす」
「それができたら苦労しないんだよな」
「できる」
「本当か?」
「たぶん」
「たぶんなのかよ」
二人のやり取りに周囲の生徒が笑う。
カイはそれを気にしていない。
というより、気づいていない。
アルトは少しだけ笑った。
その笑いに、左手首の熱がわずかに柔らかくなる。
ミリアが視線で確認する。
アルトは小さく頷いた。
「大丈夫」
「よかった」
その時、訓練場の入口側で空気が変わった。
ラウル・ヴァレンシュタインが入ってきた。
騒がしいわけではない。
彼はただ、静かに歩いているだけだった。
だが、周囲の生徒たちが自然に目を向ける。
背筋は真っ直ぐ。
肩に無駄な力はない。
腰の位置、足の運び、視線の高さ。
制服姿でも、その歩き方だけで剣士だとわかる。
名門騎士家の子息。
首席候補筆頭。
ラウルは壁際の模擬剣を一本取り、軽く重さを確かめた。
その動きすら整っている。
カイがそれを見て、低く言った。
「あいつ、やっぱ強いな」
近くにいたリゼ・グレイスが反応する。
灰銀の髪を後ろで揺らし、彼女は模擬剣を手にしていた。今日も表情は平静だが、周囲を確認する目は鋭い。
「観察精度は上がっています」
「だろ?」
「ただし、声量も上がっています」
「おっと」
カイは口元を押さえた。
リゼは視線をラウルへ戻す。
アルトはその横顔を見ていた。
リゼはラウルをどう見ているのだろう。
敵ではない。
少なくとも今は。
同級生。
大会の首席候補。
しかし、強い剣士であることは間違いない。
ラウルもまた、リゼを見ていた。
遠くから。
ほんの短い時間。
けれど、その視線は明らかに、普通の同級生を見るものではなかった。
見ている。
測っている。
リゼが何を隠しているのかを。
アルトの左手首が少し熱を持った。
痛みはない。
声もない。
心配。
アルトは布の上から軽く押さえた。
ミリアが小さく尋ねる。
「熱?」
「少し。ラウルさんがリゼさんを見てたから」
「ええ。気づいたのね」
「うん」
「今日は、その視線が増えるわ」
「リゼさん、大丈夫かな」
「大丈夫かどうかも、リゼさん自身が確認していくことになるわね」
ミリアの声は柔らかい。
けれど、甘くはなかった。
リゼが剣術大会へ出るかどうか。
それはまだ決まっていない。
だが、推薦候補に載った時点で、すでに見られる側に立っている。
出なくても注目される。
出ても注目される。
だから、今日の授業は第4章に入って初めて、リゼが本格的にその視線を受ける場になる。
続いて、セレナ・アイゼンベルグが入ってきた。
ラウルとは違う空気だった。
ラウルが正面から整った剣士なら、セレナは静かに刃を隠した観察者に見える。
淡い銀灰色の髪。
規則通りの制服。
細い手首。
姿勢は美しいが、ラウルのように騎士家らしい堂々とした印象ではない。
むしろ、余計なものを削ぎ落とした精密な道具のようだった。
彼女は模擬剣を取る前に、訓練場全体を見た。
ラウル。
カイ。
リゼ。
教師。
見学席。
そして、一瞬だけアルトの左手首。
アルトは思わず手首を押さえた。
痛みなし。
熱、少し上昇。
声なし。
リゼが離れた位置からでもそれに気づいた。
彼女の視線がセレナへ向く。
セレナはすでに別の方向を見ていた。
見ていないふりではない。
見終えた、という感じだった。
アルトの胸が少しざわつく。
セレナは、何に気づいているのだろう。
左手首の布だけか。
それとも、銀環反応の何かか。
ミリアが静かに言った。
「彼女は、よく見る人ね」
「怖い人?」
「まだわからないわ。ただ、何も考えずに見る人ではない」
訓練場に剣術教師が入ってきた。
生徒たちの声が少しずつ静まる。
教師は中央へ立ち、全体を見渡した。
「今日は大会前の実技確認を行う。基礎型、受け、払い、足運び。その後、希望者および推薦候補者数名の模擬戦形式確認を行う」
ざわめき。
推薦候補者。
その言葉に、生徒たちの視線がいくつか動く。
ラウル。
セレナ。
カイ。
リゼ。
リゼは表情を変えなかった。
ただ、模擬剣の柄を握る右手が、ほんのわずかに調整された。
アルトにはそれが見えた。
緊張ではない。
準備。
何かが来た時に、すぐ動けるための形。
教師が言う。
「大会は勝敗だけを競うものではない。基礎をどれだけ正しく扱えるかを見る。派手な一撃より、姿勢、距離、制御を評価する」
制御。
その言葉に、リゼの目が少しだけ動いた。
昨日、教師はリゼへ「良い制御だ」と言った。
アルトも覚えている。
戦場の反射が出かけた瞬間、それを止めた。
リゼは、自分で戻った。
それを見て、アルトは怖いだけではないと思った。
授業は基礎型から始まった。
全員が模擬剣を構え、教師の号令に合わせて動く。
踏み込み。
受け。
払い。
後退。
反転。
いつもなら単調に見える動作が、今日は人によって大きく違って見えた。
カイは踏み込みが強い。
前へ出る力がある。
だが、後退が少し遅い。
下がる時も、体が前へ行きたがっている。
ダリオは安定している。
大きく目立つわけではないが、剣と足がきちんとつながっている。
ラウルは美しかった。
一つ一つの動きが正確で、余計な力がない。
剣を振るというより、剣が決められた道を通っているようだった。
セレナは静かだった。
動きの幅が小さい。
だが、足元の魔力制御がわずかに揺れている。
模擬剣に魔力を乗せるのではなく、体の位置を微調整するために使っているようだった。
そしてリゼ。
リゼは、目立たないように動いていた。
速すぎない。
鋭すぎない。
力を出しすぎない。
基礎剣術の型として、整いすぎない程度に整える。
だが、アルトは見ているうちに気づいた。
リゼの動きには、揺れがない。
他の生徒が少しずつ重心を移し、体を修正しながら動いているのに対し、リゼは最初から終わりの位置を知っているように動く。
動作をなぞっているのではない。
必要な位置に、必要な時だけ体を置いている。
それは派手ではない。
けれど、空気が違った。
「リゼさん、目立たないようにしてるのに」
アルトは小さく言った。
「ええ」
ミリアが答える。
「でも、隠すことそのものが見える人には見えてしまう」
「ラウルさんとか?」
「ええ。セレナさんも、おそらく」
基礎型の後、ペア練習に移った。
カイはダリオと組む。
ラウルは教師に指名され、数人の生徒と順に組むことになった。
セレナも同様に、魔剣術の基礎制御を確認される。
リゼはまず一般生徒の一人と組んだ。
その相手は緊張していた。
教師推薦候補者という名前が効いている。
リゼはそれに気づき、剣を少し下げた。
「基礎確認です。速度は合わせます」
「あ、うん」
相手の男子生徒は頷いた。
開始。
相手が打つ。
リゼが受ける。
受ける位置は正確だが、強すぎない。
相手が払う。
リゼが半歩下がる。
下がる距離も最小限。
相手が少し姿勢を崩す。
リゼは追撃しない。
待つ。
「今、足が先に出ています」
リゼは淡々と指摘した。
「剣より足が先行すると、胴が開きます」
「え?」
「もう一度」
再開。
相手は少し修正する。
リゼはまた受ける。
今度は少し頷いた。
「改善しています」
相手の顔が少し明るくなる。
アルトはそれを見て、少し意外な気持ちになった。
リゼの指導は、もっと厳しいものになると思っていた。
実際、カイには厳しい。
だが、相手に合わせている。
戦場式ではなく、授業の中に収めようとしている。
その制御もまた、リゼが学園にいる証なのかもしれない。
カイとダリオのペア練習は、予想通り熱があった。
「行くぞ!」
「声量!」
リゼが離れた場所から言った。
「行くぞ」
カイが言い直す。
「戦う時までそんなに小さくしなくていいって!」
ダリオが笑いながら受ける。
カイの踏み込みは鋭い。
だが、まっすぐだ。
ダリオは横に流し、剣を合わせる。
カイは力で押す。
ダリオが少し後ろへ下がる。
カイがさらに追う。
その瞬間、ダリオが足を引き、カイの剣先を空へ逃がした。
カイの体が前へ流れる。
「くそ」
「また前に出すぎ」
ダリオが言う。
「もう一回」
「いいけど、同じだとまた流すぞ」
「流されねえ」
カイはまた踏み込む。
速い。
強い。
だが、やはり読まれる。
ダリオは完全には勝てないが、カイの勢いを逸らすことには慣れている。
数回の打ち合いの後、教師が声をかけた。
「ロックハート。前進の力は良い。だが、重心が常に前へ偏る。大会では読まれるぞ」
「はい!」
「声量」
「はい」
少し小さくなる。
周囲が笑った。
カイは悔しそうだが、怒ってはいない。
アルトはその様子を見ていた。
カイは強い。
真っ直ぐで、迷わない。
でも、ラウルのような相手にそれが通じるのだろうか。
その答えはすぐに示された。
教師がラウルを呼んだ。
「ヴァレンシュタイン。基礎確認を行う。相手は……ロックハート」
訓練場がざわついた。
カイの顔が一気に明るくなる。
「おう」
「返事」
リゼが言う。
「はい」
カイは模擬剣を構え、中央へ出た。
ラウルも同じく中央へ。
二人が向かい合う。
カイは獣のような熱を持っている。
ラウルは澄んだ水のように静かだった。
教師が言う。
「短時間確認だ。勝敗より基礎を見る。始め」
カイが踏み込んだ。
速い。
一撃目から強い。
周囲の生徒が息を呑む。
だが、ラウルは動じなかった。
剣を斜めに置き、カイの力を受け止めるのではなく、流した。
カイの剣が横へ滑る。
次の瞬間、ラウルの足が一歩入る。
軽く、しかし正確に。
カイの肩に模擬剣が触れた。
「一本」
教師が言う。
あまりに速かった。
カイが目を見開く。
「もう一回」
教師は少し迷ったが、頷いた。
「短く」
再開。
今度のカイは少し慎重だった。
だが、慎重になっても前へ出る癖は消えない。
ラウルは二歩下がり、三歩目で角度を変えた。
カイが追う。
そこへラウルの剣が下から入る。
カイの模擬剣が浮いた。
胴に軽く触れる。
「一本」
「くそ」
カイの声が漏れる。
怒鳴らない。
だが、悔しさははっきり見えた。
ラウルは構えを解き、礼をする。
「力は強い。踏み込みも速い。ただ、方向が読みやすい」
カイは歯を食いしばった。
「次は読ませねえ」
「楽しみにしている」
ラウルはそう言った。
見下しではない。
事実として、課題を伝えている。
だからこそ、カイには余計に刺さったのだろう。
カイは一礼して下がった。
顔は悔しさで赤い。
ダリオが肩を叩こうとしたが、カイは一瞬それを避けかけた。
すぐに止まり、自分から息を吐く。
「悪い」
「いや、今のは悔しいだろ」
ダリオは言った。
カイは何も答えなかった。
アルトは胸が少し痛くなった。
カイが負けた。
正式な試合ではない。
短い確認。
それでも、はっきり差があった。
力だけでは届かない相手。
アルトは何と言えばいいのかわからなかった。
頑張って、でいいのか。
次は勝てる、でいいのか。
どちらも軽い気がした。
ミリアが隣で静かに言う。
「言葉を急がなくていいわ」
「うん」
「悔しさをすぐ慰めると、本人のものではなくしてしまうことがあるから」
アルトは頷いた。
見守る。
それも、友達のやり方なのだろう。
次に、セレナが呼ばれた。
相手は教師ではなく、魔剣術基礎を履修している女子生徒だった。
模擬剣の周囲に淡い光がまとわる。
魔力補助は大会規定では基礎範囲に限られる。
派手な魔術は使えない。
だが、セレナの動きはその制限内でも異質だった。
開始の合図。
相手が魔力を剣に乗せ、横薙ぎに振る。
セレナは剣で受けない。
足元にほんのわずかな魔力を流し、立ち位置を半歩ずらした。
相手の剣は空を切る。
その瞬間、セレナの剣先が相手の手首に触れた。
「一本」
教師が告げる。
相手の女生徒が呆然とする。
セレナは表情を変えない。
「魔力を剣に集めすぎ。足が遅れる」
「は、はい」
「もう一度」
二度目。
相手は今度こそ足を意識する。
しかし、セレナはそれも読んでいた。
魔力を剣に流すふりをして、実際には体幹へ回す。
踏み込みが一瞬だけ速くなる。
剣先が相手の肩へ触れる。
「一本」
静か。
圧倒的なのに、ラウルのような華やかさはない。
精密。
相手の選択肢を先に潰している。
アルトは背筋が少し冷たくなった。
「セレナさんの剣、静かですね」
ミリアが頷く。
「観察して、相手に動かせてから取る剣ね」
「怖い」
「ええ。正しく怖いわ」
セレナは模擬戦を終え、剣を下ろした。
その視線がまた一瞬、アルトの左手首へ向く。
今度は、リゼも完全に気づいた。
リゼの目が細くなる。
セレナは何も言わず、ただ視線を外した。
教師が最後に言った。
「グレイス。確認を行う。相手は私が指定する」
訓練場の空気がまた変わる。
生徒たちの視線がリゼへ集まった。
教師推薦候補者。
昨日、教師相手に良い制御を見せた生徒。
だが、まだ誰も彼女の本当の実力を知らない。
リゼは模擬剣を持って中央へ出た。
表情は変わらない。
足取りも静か。
しかし、アルトは胸の奥が少し緊張した。
リゼさんが、また遠い場所に行ってしまわないように。
そう思った瞬間、左手首が淡く光る。
痛みなし。
熱、少し。
声なし。
現在地は、第一訓練場。
リゼさんを見る。
アルトは自分で言い聞かせた。
教師が相手として指名したのは、ラウルでもセレナでもなかった。
剣術基礎で成績上位の男子生徒。
体格はよく、基礎も整っている。
リゼにとっては、実力を隠すにはちょうどよい相手とも言える。
だが、周囲は期待している。
リゼがどう動くのかを。
教師が合図する。
「始め」
相手の男子生徒が慎重に構えた。
リゼは基礎姿勢。
相手が踏み込む。
リゼは受ける。
模擬剣が軽く鳴る。
相手は角度を変えて二撃目。
リゼは半歩下がる。
下がり方が小さい。
ほんの半歩。
それだけで相手の剣が届かない。
三撃目。
リゼは剣を合わせ、軽く払った。
相手の剣先がわずかに外れる。
リゼは攻めない。
待つ。
相手が焦れる。
もう一歩踏み込む。
その瞬間、リゼの模擬剣が相手の剣の根元へ触れた。
強く叩いたわけではない。
ただ、正しい場所に置いただけ。
相手の剣が止まる。
次の瞬間、リゼの剣先が胸元に軽く触れていた。
「一本」
教師の声。
訓練場が静かになった。
速くなかった。
派手でもなかった。
だが、相手は何もできなかった。
リゼは一礼し、すぐに下がろうとした。
教師が止める。
「もう一度。今度は、相手を変える」
周囲がざわつく。
リゼの目が教師へ向いた。
教師はラウルを見た。
「ヴァレンシュタイン。軽く確認だ」
カイが息を呑んだ。
アルトの左手首が熱を持つ。
ラウルとリゼ。
ここで。
正式な試合ではない。
だが、二人が向かい合えば、何かが見えてしまうかもしれない。
ラウルは静かに中央へ出た。
「よろしくお願いします」
彼は礼をした。
リゼも礼を返す。
「よろしくお願いします」
二人の間に、静かな緊張が張る。
教師が言う。
「短時間。基礎範囲。無理に勝敗を決めない。始め」
ラウルが先に動いた。
今までより少し速い。
カイ相手の時より、慎重で鋭い。
リゼは受ける。
基礎通り。
ラウルは剣を引かず、角度を変える。
正統派の連続。
無駄がない。
リゼは下がる。
半歩。
さらに半歩。
観客から見れば、押されているようにも見える。
だが、アルトには違うように見えた。
リゼは追い込まれているのではない。
場所を選んでいる。
ラウルが踏み込む。
リゼが剣を合わせる。
ラウルの剣筋が一瞬、外へ流れる。
その瞬間、リゼの剣が相手の内側へ入ろうとした。
ほんのわずか。
喉元へ向かう角度。
アルトの胸が強く鳴った。
「リゼさん」
声は小さかった。
だが、リゼに届いたのかもしれない。
リゼの剣先が寸前で止まる。
基礎型へ戻る。
ラウルの肩へ軽く触れるはずだった軌道を、彼女はあえて外し、模擬剣同士を合わせた。
乾いた音が鳴る。
教師が鋭く言った。
「そこまで」
訓練場が静まり返った。
勝敗は告げられなかった。
しかし、見ていた者にはわかった。
何かが、出かけた。
そして、止まった。
ラウルはリゼを見ていた。
その目は、先ほどまでよりさらに深くなっている。
「君」
彼は低く言った。
「本当に基礎剣術の生徒か?」
リゼは静かに答える。
「私は授業範囲内で動いています」
「だからこそ、不自然だ」
周囲の生徒たちが息を呑む。
リゼの表情は変わらない。
だが、アルトには彼女の空気がわずかに硬くなるのがわかった。
教師が二人の間に入る。
「確認は終了だ。ヴァレンシュタイン、下がれ。グレイスも」
「はい」
ラウルは礼をし、下がった。
リゼも一礼し、訓練場の端へ戻る。
アルトはすぐに駆け寄りたくなった。
だが、授業中だ。
今ここで動けば、さらに注目を集める。
アルトは自分の左手首を押さえた。
痛みなし。
熱、中。
声なし。
現在地は、第一訓練場。
リゼさんは戻った。
止まった。
大丈夫。
たぶん。
ミリアがそっと隣で言う。
「今、よく止まったわね」
「リゼさんが?」
「ええ。あなたも」
「僕も?」
「すぐ駆け寄らなかったでしょう」
アルトは息を吐いた。
「行きたかった」
「でも、今は待てた」
待つ。
第3章で、三人が自分にしてくれたこと。
今度は、自分がリゼにしている。
授業が終わると、訓練場は一気にざわついた。
ラウルとリゼの短い確認は、明らかに生徒たちの話題になっていた。
「今の見た?」
「グレイスさん、何か止めたよな」
「ラウルが本気っぽかった」
「いや、先生が止めたし」
「大会で当たったらどうなるんだろ」
噂になりかけている。
リゼはそれを聞きながら、表情を変えずに模擬剣を戻した。
カイが近づいてきた。
「グレイス」
「はい」
「今の、何だ」
「基礎確認です」
「違うだろ」
カイの声は珍しく低かった。
「お前、今一瞬、すげえ怖いところ狙った」
リゼは沈黙した。
アルトの胸が少し痛む。
カイも気づいた。
ラウルだけではない。
友達も、リゼの戦場の反射を見た。
リゼは静かに言った。
「戦場反射です。出かけました」
カイは顔をしかめた。
「止めたんだよな」
「はい」
「なら、よかった」
その言い方が、カイらしかった。
怖いものを見た。
でも、止めたならよかった。
複雑な説明を飛び越えて、必要なところだけ掴む。
リゼは少しだけ目を伏せた。
「はい」
ミリアが近づく。
「リゼさん、少し座りましょう」
「体調に異常はありません」
「心の方よ」
リゼは一瞬黙り、頷いた。
「了解しました」
訓練場の端に四人で移動した。
人目はあるが、会話がそのまま届くほどではない。
アルトはリゼの正面に立った。
「リゼさん」
「はい」
「怖かったです」
リゼの目がわずかに揺れた。
アルトは続ける。
「でも、リゼさんが怖かったんじゃなくて、リゼさんが遠くに行きそうで怖かった」
リゼは言葉を失ったように黙った。
アルトは左手首に触れる。
「痛みなし。熱、中。声なし。感情は、怖い。でも、戻ってくれて安心した」
ミリアが静かに頷く。
カイも黙っている。
リゼは少し時間を置いて答えた。
「戻りました」
「うん」
「アルトさんの声が聞こえました」
アルトは目を上げた。
「あの小さい声?」
「はい」
「聞こえたんですか」
「聞こえました」
リゼは自分の右手を見た。
「効果がありました」
その言い方はいつものリゼらしい。
でも、アルトにはその奥にある揺れが見えた気がした。
「よかった」
アルトは言った。
リゼは小さく頷く。
カイが腕を組む。
「で、出るのか?」
「この流れで聞きますか」
リゼが言う。
「大事だろ」
「大事ですが、今すぐの判断は適切ではありません」
「まあ、そうか」
カイは珍しく引いた。
ミリアが言う。
「今日は、首席候補たちを見た日ね」
「はい」
リゼは頷く。
「ラウル・ヴァレンシュタイン。正統派騎士剣術。基礎精度が高く、観察力あり。私の抑制に気づきました」
「セレナさんは?」
アルトが尋ねる。
「魔力制御による位置調整。相手の選択肢を先に潰す剣。観察眼が高い。アルトさんの左手首を複数回確認」
アルトは左手首を押さえた。
「やっぱり見てましたよね」
「はい。注意が必要です」
カイが不満そうに言う。
「俺は?」
「前進力、踏み込み、出力は高いです」
「おう」
「ただし、方向が読みやすく、重心が前へ偏りすぎています。ラウルさんのような相手には崩されます」
「わかってる」
カイは悔しそうに言った。
「わかってるけど、悔しい」
ミリアが優しく言う。
「悔しいと言えたのはいいことよ」
「いいことか?」
「ええ。怒りだけにしなかったもの」
カイは少し顔を逸らした。
「負けたわけじゃねえ。確認だった」
「はい」
リゼが頷く。
「ですが、現時点の差は明確です」
「はっきり言うな」
「必要な情報です」
カイはしばらく黙り、それからリゼを見た。
「じゃあ、教えろ」
「何を」
「俺がラウルに崩されないための剣」
リゼはカイを見た。
カイの目は真剣だった。
怒りだけではない。
悔しさを、前へ進むために使おうとしている。
「あなたの剣は、前に出ることしか知りません」
リゼは言った。
カイの眉が寄る。
「悪いか」
「悪くありません。強みです。しかし、それだけでは読まれます」
「じゃあ」
カイは模擬剣の柄を握り直した。
「後ろに下がる剣を教えろ」
リゼは一瞬、言葉を止めた。
アルトはその瞬間を見ていた。
リゼは今日、自分が出るかどうかを決められていない。
剣を握りたいのかもわからない。
それでも、カイに教えることはできるのだろうか。
いや、だからこそ。
戦場の剣を、学園の中で誰かへ伝える。
死なないための一歩として。
リゼは静かに答えた。
「検討します」
「また検討かよ」
「指導内容の構築が必要です」
「じゃあ構築しろ」
「命令口調です」
「頼む」
カイは言い直した。
ミリアが少し驚いたように笑う。
「今のは成長ね」
「何でも成長にするな」
「でも本当にそうよ」
リゼはカイを見た。
「放課後、短時間であれば確認します」
カイの顔が明るくなる。
「よし」
「ただし、三回は転ぶ可能性があります」
「何でだよ」
「重心確認のためです」
「転ばない」
「転びます」
「決めるな」
「予測です」
アルトは思わず笑った。
怖さと緊張で固くなっていた胸が、少しほぐれる。
ラウルの正統な強さ。
セレナの静かな怖さ。
リゼの隠しても漏れる戦場の剣。
カイの悔しさ。
全部が重い。
でも、四人で話すと、その重さは少し持てる形になる。
放課後、第一訓練場の端で、カイの短い確認が始まった。
まだ本格的な特訓ではない。
リゼはそう言った。
しかし、カイにとっては十分だった。
「まず、構えてください」
「おう」
「前に重心が寄っています」
「まだ何もしてねえ」
「構えの時点で寄っています」
「まじかよ」
「はい」
リゼはカイの足元を指した。
「右足の圧が強すぎます。踏み込む意思が出ています。相手に読まれます」
「意思って足に出るのか」
「出ます」
「嫌だな」
「出ます」
アルトとミリアは少し離れて見ていた。
リゼは模擬剣を持たず、まず足運びだけを見ている。
カイが一歩踏み込む。
リゼが言う。
「止まってください」
「何だよ」
「前に出る前提の足です」
「前に出るからな」
「下がる準備がありません」
「下がる準備って何だよ」
「死なない準備です」
その言葉に、カイが黙った。
アルトも息を止めた。
死なない準備。
リゼの口から出ると、それは授業の言葉ではなくなる。
戦場で得た言葉。
それでも、今はカイに向けられている。
殺すためではなく、倒れないために。
カイは少しだけ真面目な顔になった。
「もう一回」
「はい」
カイが構え直す。
リゼが足元を直す。
半歩下がる。
横へ逃げる。
前に出る前に、戻る場所を残す。
カイは何度も失敗した。
前へ出すぎる。
足が絡む。
勢いで誤魔化そうとする。
リゼに止められる。
「あなたはすぐ力で解決しようとします」
「駄目か」
「駄目な場面があります」
「全部じゃねえのか」
「全部ではありません。あなたの出力は武器です」
カイは少し嬉しそうにする。
「ただし、武器だけを前に投げると、本人が空になります」
「何か嫌な言い方だな」
「事実です」
ミリアが小さく笑う。
アルトはその光景を見ながら、今日の授業を思い返していた。
ラウルの剣は正しかった。
セレナの剣は静かだった。
リゼの剣は、怖くて、でも制御されていた。
カイの剣は真っ直ぐで、危うかった。
強さには種類がある。
勝つための強さ。
読むための強さ。
隠すための強さ。
守るための強さ。
倒れないための強さ。
アルトは自分には剣がないと思っていた。
けれど、自分にも必要な強さがあるのかもしれない。
応援する強さ。
見届ける強さ。
左手首が熱くなっても、自分で現在地を言う強さ。
リゼが遠くへ行きそうになった時、小さく名前を呼ぶ強さ。
夕鐘が鳴った。
カイが三度目に足をもつれさせ、膝をついたところだった。
「転びました」
リゼが言う。
「今のは転んでねえ。膝ついただけだ」
「転倒未満。記録上は失敗です」
「くそ」
カイは悔しそうに立ち上がる。
だが、その顔は昼間ラウルに崩された時より少し前を向いていた。
アルトの左手首が淡く光る。
リゼがこちらへ視線を向ける。
アルトは自分で言った。
「痛みなし。熱、少し。声なし」
ミリアが尋ねる。
「現在地は」
「第一訓練場。夕方。リゼさん、ミリアさん、カイといる。カイが下がる練習をしてる」
カイが言う。
「失敗してる、じゃなくて練習してるって言え」
「練習してる」
「よし」
リゼが尋ねる。
「感情は」
アルトは少し考えた。
「今日は、怖い場面もあった。でも、いろんな強さを見た。ラウルさんも、セレナさんも、カイも、リゼさんも。僕は……見ていたいと思った」
リゼの目が少し揺れた。
「怖くてもですか」
「うん。怖くても」
ミリアが静かに微笑む。
「良好ね」
リゼも小さく頷いた。
「良好です」
夜。
男子寮の自室で、アルトは紙片を書いた。
今日は首席候補たちを見た。
ラウル・ヴァレンシュタイン。
正統派の剣。
すごく綺麗で、カイを短い確認で二回崩した。
カイは悔しそうだった。
でも、怒るだけじゃなくて、リゼさんに教えてほしいと言った。
セレナ・アイゼンベルグ。
静かな剣。
魔力で足元や体の位置を細かく変えていた。
相手が動く前から、どこへ動くか見ているみたいだった。
僕の左手首を何度か見た。
少し怖い。
リゼさん。
目立たないようにしていた。
でも、隠していることがわかる人にはわかるらしい。
ラウルさんと短く剣を合わせた時、一瞬だけ戦場の反射が出かけた。
僕は小さくリゼさんと呼んだ。
リゼさんは止まった。
聞こえたと言ってくれた。
怖かった。
でも、戻ってくれて安心した。
カイは、下がる剣を教えろと言った。
リゼさんは、死なない準備だと言った。
カイは何度も失敗していたけど、前より少し考えていた。
夕鐘で光った。
痛みなし。
熱、少し。
声なし。
今日は、いろんな強さを見た。
アルトはペンを止めた。
今日の訓練場の空気が、まだ体に残っている。
模擬剣の音。
ラウルの一歩。
セレナの静かな視線。
カイの悔しそうな顔。
リゼの剣先が、一瞬だけ遠い場所へ向かい、それから戻ってきた瞬間。
アルトは最後に、一行を書いた。
僕は剣を持たないけれど、見届けることも、応援することも、きっと強さの一つだと思いたい。
紙片を折り、引き出しへしまう。
窓の外には夜の鐘楼がある。
王宮監察官は明日来る。
剣術大会の出場申請は進んでいる。
リゼさんはまだ決めていない。
カイはもう転び始めている。
ラウルとセレナは、きっとこれから何度もこちらを見る。
怖いことは増えた。
でも、見たいものも増えた。
アルトはベッドに横になり、左手首を胸の上に置いた。
「現在地は、男子寮の自室。夜。僕はアルト。今日は、首席候補たちを見た。怖かった。でも、見ていたいと思った」
銀環は淡く光った。
痛みはなかった。
その光は、剣の火花ではなく、遠くから訓練場を照らす夕鐘の余韻のように、静かに手首の奥に残っていた。




