第4章 第2話:教師推薦枠
朝の掲示板に、自分の名前が貼られている。
それは、リゼ・グレイスにとって奇妙な感覚だった。
戦場では、名前は命令書に載るものだった。
派遣名簿。
作戦参加者一覧。
負傷者報告。
戦功記録。
死亡確認。
どの紙にも、名前は役割として記される。
どこへ行き、何を行い、どれだけ生き残り、どれだけ殺し、どれだけ役に立ったか。
紙の上の名前に、感情はなかった。
だからリゼは、名前が紙に載ること自体には慣れている。
しかし、王立アークレイン学園の掲示板に貼られた自分の名前は、戦場のそれとは違った。
リゼ・グレイス。
第一学年基礎剣術大会。
教師推薦候補者。
それは、戦功でも命令でもなく、学園行事への推薦だった。
生徒たちはその紙を見上げ、誰が強いのか、誰が勝つのか、今年は面白くなりそうだと声を弾ませている。
楽しみにしている。
競い合うことを。
剣を振るうことを。
勝敗が、死に直結しない場所で。
リゼはその光景を理解できる。
頭では。
だが、体の奥が少し遅れていた。
剣を抜く。
相手を見る。
間合いを測る。
踏み込む。
それらはリゼにとって、学園行事より先に戦場を呼び起こす。
木剣でも、模擬剣でも、安全術式があっても、相手の重心が崩れれば急所が見える。腕の角度が開けば脇腹が見える。足運びが甘ければ膝が見える。剣筋が遅れれば喉が空く。
見えてしまう。
そういうふうに生き残ってきたから。
リゼは掲示板の前で、呼吸を一つ整えた。
朝の鐘が鳴る前の中庭。
昨日よりもさらに剣術大会の話題は広がっている。
教師推薦候補者一覧が貼り出されたことで、生徒たちはより具体的に名前を挙げるようになった。
「ラウルは当然だよな」
「セレナも入ってる」
「ロックハートって誰?」
「カイだよ。声でかい男子」
「グレイスさんって、あの静かな子?」
「授業で目立たないのに推薦?」
静かな子。
授業で目立たない。
それは、現状維持として望ましい評価だったはずだ。
しかし、その横に教師推薦候補者という文字が並ぶと、意味が変わる。
目立たないのに推薦されている。
なぜ。
何を隠しているのか。
そういう視線が生まれる。
リゼはそれを正確に感じ取った。
斬れない視線。
斬ってはいけない視線。
背中ではなく、紙の上の名前へ集まる視線。
隣でアルト・レインフォードが小さく息を吸った。
リゼはすぐに視線を向ける。
アルトは左手首を布の上から押さえていた。
強い反応ではない。
だが、掲示板のざわめきと自分の名前が結びついたことを、彼も感じている。
「痛みは」
リゼは低く尋ねた。
「ない」
「熱は」
「少し」
「声は」
「なし」
「現在地は」
アルトは掲示板を見上げたまま答える。
「学園中庭。朝。掲示板前。リゼさん、ミリアさん、カイといる」
ミリア・ファルネーゼが優しく尋ねた。
「感情は」
アルトは少し考えた。
「心配。あと、昨日より大会のことが現実になった感じ」
「良好です」
リゼは答えた。
アルトがこちらを見た。
「リゼさんは?」
「私ですか」
「うん。体調確認じゃなくて……気持ち」
気持ち。
リゼは少し沈黙した。
カイ・ロックハートが横から覗き込む。
「出る気になったか?」
「まだ判断前です」
「気持ちは?」
カイまで同じことを聞く。
ミリアは何も言わない。
ただ、リゼが答えるのを待っている。
リゼは掲示板の自分の名前を見た。
リゼ・グレイス。
教師推薦候補者。
「警戒しています」
まず、それが出た。
事実だった。
「正体露見の危険。王宮監察官来訪時期との重複。アルトさんの護衛体制への影響。観衆の視線。複数の不確定要素があります」
カイが顔をしかめた。
「それ、気持ちか?」
「気持ちに近い危険評価です」
「近いだけじゃねえか」
ミリアが少し笑った。
「では、警戒の下にあるものは?」
リゼは考えた。
警戒の下。
危険評価の奥。
任務判断の前。
自分の中にある、まだ名前をつけていないもの。
「……不明です」
そう答えるしかなかった。
アルトは責めなかった。
ただ、頷いた。
「不明なら、これから一緒に考える?」
リゼは少し目を瞬いた。
一緒に考える。
アルトが、自分にそう言った。
第3章で何度も彼に向けた言葉。
本人抜きで決めない。
危険も、怖さも、言葉にする。
今度は、それが自分へ返ってきている。
「はい」
リゼは答えた。
「検討します」
カイがにやりと笑った。
「検討って、やっぱり出る方向だろ」
「その解釈は早計です」
「でも出そう」
「未確定です」
「じゃあ、俺は出る前提で鍛える」
「あなたは出場が確定しています」
「そうだな」
カイは満足げに頷いた。
朝の鐘が鳴った。
中庭のざわめきが少しずつ校舎へ流れていく。
四人も第一校舎へ向かった。
リゼはいつものようにアルトの左側を歩く。
だが、今日の自分の位置取りには、いつもと別の意味が混ざっていた。
護衛対象の左側。
友人の左側。
そして、掲示板に名前を貼られた生徒として、周囲から見られる位置。
視線がある。
昨日より多い。
ラウル・ヴァレンシュタインの視線。
セレナ・アイゼンベルグの観察。
同級生たちの好奇心。
王宮追加監察官オルド・ハイマンの到着予定。
すべてが、剣術大会という学園行事の周囲に集まり始めている。
リゼは胸の奥に小さな違和感を覚えた。
嫌悪ではない。
恐怖とも少し違う。
剣を握る前の緊張に近い。
ただし、戦場へ出る前のそれほど鋭くない。
もっと曖昧で、扱いにくい。
リゼは心の中で記録した。
感情分類、不明。
警戒、強。
興味、微量の可能性。
その「興味」という単語を思い浮かべた瞬間、リゼは足をわずかに止めそうになった。
興味。
自分は、剣術大会に興味があるのか。
剣を振るう場に。
勝敗を競う場に。
死なない戦いに。
リゼは答えを出せなかった。
午前の授業は、普段より落ち着かなかった。
アルトは王宮監察官の件もあり、時折左手首へ触れていたが、大きな反応はなかった。ノートも取れている。リゼはそれを確認しながら、自分の右手の指先が何度も机の上で止まるのに気づいた。
剣を握っていない手。
だが、掲示板に名前が貼られて以来、指先が柄を探すように動く。
習慣。
反射。
戦場の残り。
授業の終わり際、ロウ教師が黒板に「推薦」と書いた。
王国史の授業の流れだった。
貴族家における推薦状制度について。
「推薦とは、他者が本人の能力、適性、信頼性を保証する行為である」
ロウ教師の声は淡々としている。
「だが、推薦には二つの側面がある。機会を与える面と、本人を表舞台へ押し出す面だ」
リゼはペンを止めた。
教室の空気が、少しだけこちらへ寄った気がした。
ロウ教師は続ける。
「推薦された者は、必ずしも従う義務を負うわけではない。しかし、推薦を受けたという事実は、周囲の見方を変える。ゆえに推薦を行う側には責任があるし、推薦を受ける側にも、自分の意思を確認する必要がある」
自分の意思。
昨日から何度も出ている言葉。
アルトの意思。
リゼの意思。
守る側の正しさではなく、本人の意思。
リゼはノートの端に短く書いた。
推薦は命令ではない。
しかし無視しても影響は残る。
授業後、ロウ教師は教卓の書類をまとめながら言った。
「グレイス。昼休みに資料室へ来なさい」
教室の中で、数人がリゼを見た。
剣術大会の推薦の件だろうと、誰もが思ったはずだ。
リゼは立ち上がり、短く返す。
「了解しました」
カイが小声で言う。
「来たな」
「声量」
「小さいだろ」
「内容が大きいです」
アルトは少し心配そうにこちらを見る。
「僕も行った方がいい?」
リゼはすぐには答えなかった。
護衛としては、アルトを同席させる必要はない。
むしろ、ロウ教師との面談なら単独で問題ない。
だが、友人としては。
いや、出場の判断は自分の問題だ。
アルトがいると、彼の安全や希望を優先してしまう可能性がある。
それでは、本人意思ではなくなる。
「まず、私一人で聞きます」
リゼは言った。
アルトは少しだけ驚いた顔をしたが、すぐに頷いた。
「うん」
「内容は、共有可能範囲で後ほど共有します」
「わかった」
ミリアが微笑む。
「それがいいと思うわ」
カイが少し不満そうに言った。
「俺も聞きたい」
「あなたが同席すると、出場前提の圧力が増加します」
「そんなことねえだろ」
三人が黙ってカイを見た。
カイは少し目を逸らした。
「……少しはあるか」
「はい」
リゼは頷いた。
昼休み。
リゼは一人でロウ教師の資料室へ向かった。
アルトたちは先に中庭で昼食を取ることになった。完全に離れることに少し抵抗はあったが、資料室は第一校舎内であり、短時間。ミリアとカイがアルトの近くにいる。加えて、ユリウスとエレオノーラにも朝の時点で王宮文書関連の動きがあり、校舎内の目は増えている。
危険は低い。
許容範囲。
リゼはそう判断した。
資料室の扉を叩く。
「入れ」
ロウ教師の声。
リゼは入室し、扉を閉めた。
室内には古い紙と魔術インクの匂いが満ちている。壁際には地図、封印札、壊れた術式具が並んでいる。第3章で白鐘礼拝堂について話した時と同じ部屋。
ただ、今日は机の上に白鐘礼拝堂の図はない。
代わりに、剣術大会の要項と推薦書が置かれていた。
ロウ教師は椅子に座り、リゼへ視線を向ける。
「座りなさい」
「はい」
リゼは向かいに座った。
背筋を伸ばす。
手は膝の上。
いつでも立てる姿勢。
ロウ教師が眉を上げた。
「面談だ。尋問ではない」
「姿勢を修正します」
リゼはわずかに力を抜いた。
ロウ教師は机上の紙を一枚、リゼの前へ滑らせた。
「正式な教師推薦通知だ」
リゼは紙を見る。
リゼ・グレイス。
第一学年基礎剣術大会。
教師推薦枠。
推薦理由。
基礎剣術授業における重心制御、間合い認識、防御反応、模擬剣運用において著しく高い能力を確認。
その文字列を、リゼは静かに読んだ。
戦功記録ではない。
殺害数でもない。
作戦成功率でもない。
重心制御。
間合い認識。
防御反応。
模擬剣運用。
学園の言葉で、自分の剣が評価されている。
「推薦理由に異議はありますか」
ロウ教師が尋ねる。
「事実と大きな齟齬はありません」
「では、推薦そのものに異議は」
「あります」
リゼは即答した。
ロウ教師は頷く。
「理由は」
「私は目立つべきではありません」
「それは誰の判断だ」
リゼは少し沈黙した。
「護衛任務上の判断です」
「王宮の判断か」
「王宮は私に護衛と観察を命じました。正体を隠す必要があります」
「私が聞いているのは、王宮がそう判断したかではない。君が、そう判断しているのかだ」
リゼはロウ教師を見る。
ロウ教師の目は鋭い。
だが、怒っているわけではない。
問いを逃がさない目だった。
「私は、アルトさんの安全上、目立つべきではないと判断しています」
「それは妥当な面がある」
「では」
「だが、全部ではない」
ロウ教師は推薦書を指で叩いた。
「推薦された以上、辞退しても目立つ。出場しても目立つ。ならば、問題は目立つかどうかだけではない」
「出場した場合、実力露見の危険があります」
「辞退した場合、“なぜ推薦された者が辞退したのか”という疑念が生まれる」
「はい」
「どちらにも危険がある。なら、危険評価だけでは結論が出ない」
リゼは黙った。
その通りだった。
昨日から何度も考えた。
出れば目立つ。
辞退しても目立つ。
推薦候補者一覧に載った時点で、完全な非注目状態には戻れない。
なら、出るか出ないかを決める軸は別に必要になる。
ロウ教師は言った。
「推薦は命令ではない。だが、逃げ道でもない」
リゼの指先が膝の上で止まる。
「出ないなら、君自身の理由で出ないと言いなさい」
「私自身の理由」
「そうだ。任務だから、王宮が、アルトのために、目立つべきではないから。その言葉は間違いではないかもしれない。だが、そこに君自身がいない」
リゼは息を吸った。
自分自身。
リゼ・グレイス。
傭兵。
英雄。
護衛。
生徒。
友人。
どの自分で判断するのか。
「剣術大会へ出場することに、教育上の意味はありますか」
リゼは尋ねた。
「ある」
ロウ教師は即答した。
「君にとってか、周囲にとってか」
「両方だ」
「私にとっての意味は」
「君が、剣を戦場以外の場で扱う経験を得ること」
リゼは言葉を失った。
ロウ教師は続ける。
「君の剣は戦場のものだ。否定はしない。生き残るために研ぎ澄まされた剣だ。だが、今の君は学園にいる。学園の剣術大会では、相手を殺さず、勝敗を受け入れ、観衆の前で制御し、終われば礼をする」
「それが教育ですか」
「少なくとも、君には必要な教育だと思っている」
リゼは手元を見る。
剣を戦場以外の場で扱う。
自分の剣を、命令ではなく、殺害ではなく、逃走ではなく、学園の中で制御する。
その意味は、理解できる。
だが、危険も大きい。
「アルトさんの安全を損なう可能性があります」
「ある」
ロウ教師は否定しなかった。
「だから、出場しろとは命じない。出ない選択も尊重する」
「では、なぜ推薦したのですか」
「推薦しないこともまた、君への配慮という名の囲い込みになる可能性があるからだ」
リゼは顔を上げた。
ロウ教師は静かに言う。
「君は実力がある。基礎剣術授業の評価として、推薦に値する。そこで私が“この子は事情があるから推薦しない”と判断すれば、私は君を守ったつもりで、君から選択の機会を奪うことになる」
選択の機会を奪う。
アルトの件と同じ構造だった。
守るために、本人抜きで決める。
自分はそれをアルトにしてはいけないと考えてきた。
だが、今度はロウ教師が、自分に対してそれを避けようとしている。
リゼは小さく息を吐いた。
「理解しました」
「なら、改めて聞く。君は出たいのか。出たくないのか」
単純な問い。
しかし、リゼには非常に難しかった。
出たい。
出たくない。
その二つの言葉が、危険評価の下に埋もれている。
剣を握りたいのか。
握りたくないのか。
見られたいのか。
見られたくないのか。
勝ちたいのか。
勝つことに意味を感じるのか。
リゼは長く黙った。
資料室の時計の音が聞こえる。
遠くから昼休みの生徒たちの声が聞こえる。
中庭では今頃、アルトがミリアとカイと昼食を取っているはずだ。
アルトは今朝、待つと言った。
カイは出てほしいと言った。
ミリアは、自分の気持ちも一緒に見てと言った。
リゼはゆっくり答えた。
「不明です」
ロウ教師は頷いた。
「それでいい」
「よいのですか」
「今すぐ答えが出るなら、そもそも面談は要らない」
リゼは少し意外だった。
「出場申請の期限は」
「三日後だ。教師推薦枠の正式回答も同じだ」
「三日」
「考えなさい。ただし、考える時には、任務と危険だけでなく、君自身を入れろ」
「はい」
「そして、もう一つ」
ロウ教師の声が少し低くなる。
「王宮監察官は、君の出場可否にも関心を持つだろう」
「はい」
「出ても、辞退しても、見られる。なら、見られることを前提に対策を立てろ」
「了解しました」
「グレイス」
「はい」
「君は護衛者だが、護衛対象の周囲に立つ影ではない。君自身も、王宮から見られ、使われる可能性がある」
リゼの胸がわずかに冷える。
王宮から見られる。
使われる。
灰銀の戦乙女として。
アルトの護衛として。
学園の首席候補として。
「警戒します」
「警戒だけでなく、選べ」
ロウ教師は短く言った。
「警戒は必要だ。だが、警戒だけで人生を組むな」
リゼはその言葉をすぐに記録できなかった。
胸の中で、少し遅れて響いた。
警戒だけで人生を組むな。
戦場では、それで生き残ってきた。
警戒し、疑い、先に動き、危険を排除する。
それが自分だった。
だが、学園では。
友達がいて。
昼食があり。
課題会があり。
剣術大会がある。
警戒だけでは、そこに立てない。
「……努力します」
リゼは答えた。
資料室を出ると、廊下の空気が少し軽く感じた。
中庭へ戻る途中、リゼは掲示板を一度見た。
教師推薦候補者一覧。
リゼ・グレイス。
もう消えてはいない。
出ても、辞退しても、この名前は見られる。
なら、どうするか。
リゼはまだ答えを持っていなかった。
中庭の席では、アルトたちが待っていた。
ミリアは昼食の包みを整え、カイは焼き菓子の袋を手で押さえている。アルトは少しだけ不安そうだったが、リゼが近づくと顔を上げた。
「おかえり」
その言葉に、リゼは一瞬返答が遅れた。
おかえり。
戦場ではほとんど聞かなかった言葉。
戻ることを前提にした言葉。
「戻りました」
リゼは答えた。
カイがすぐに尋ねる。
「で、出るのか?」
「未定です」
「まだか」
「回答期限は三日後です」
「長いな」
「必要な検討期間です」
ミリアが尋ねる。
「ロウ先生は何と?」
リゼは席に座り、面談内容を共有した。
推薦は命令ではない。
しかし逃げ道でもない。
出ないなら自分自身の理由で出ないと言うこと。
剣を戦場以外の場で扱う経験。
推薦しないことも選択の機会を奪う可能性があること。
王宮監察官は出ても辞退しても見るだろうということ。
警戒だけで人生を組むな。
その最後の言葉を口にした時、ミリアの表情が少し柔らかくなった。
「ロウ先生らしいわね」
カイは眉を寄せた。
「警戒だけで人生を組むな、か」
「あなたは警戒が少なすぎます」
リゼが言う。
「今それ言うか?」
「対比として適切です」
アルトはリゼを見ていた。
「リゼさんは、どう思ったんですか」
リゼは昼食のパンへ手を伸ばしかけ、止めた。
どう思ったか。
また、その問い。
だが、今朝より少しだけ答えやすい。
「出場すべきでない理由は、多数あります」
「うん」
「出場する意味も、提示されました」
「うん」
「剣を戦場以外の場で扱う経験、という言葉は……無視できません」
アルトは頷いた。
「リゼさんにとって、必要かもしれない?」
「不明です」
リゼは正直に答えた。
「ですが、考える必要があります」
ミリアが言った。
「出るか出ないかを決める前に、剣を握ることがリゼさんにとって何なのかを考える、ということね」
「はい」
カイが焼き菓子を一つリゼの前に置いた。
「考える用」
リゼは焼き菓子を見た。
「私にも用途が付与されるのですか」
「今日はお前の話だろ」
「なるほど」
リゼはそれを受け取った。
甘い匂いがする。
カイの焼き菓子は、いつの間にか四人の中で多用途支援物資になっていた。
リゼは一口食べる。
甘い。
戦場の保存食とは違う。
学園の売店の味。
アルトが少し笑った。
「リゼさんが焼き菓子を食べて考えてるの、少し不思議です」
「不自然ですか」
「ううん。いいと思う」
リゼは咀嚼しながら考えた。
焼き菓子を食べながら剣術大会の出場可否を考える。
戦場では発生しなかった状況。
分類、学園生活。
午後の剣術基礎の授業は、大会前ということもあり、明らかに熱気を帯びていた。
訓練場には一年生たちが集まり、いつもより声が多い。
模擬剣が配られ、教師が安全術式の確認を行う。
カイは開始前から肩を回している。
ダリオが隣でにやにやしている。
ラウル・ヴァレンシュタインは少し離れた場所で静かに剣を確認している。
セレナ・アイゼンベルグは無駄な動きを一切せず、周囲を観察していた。
アルトは今日は見学側だった。
基礎剣術の実技は体調と銀環の影響を考慮し、軽い動作確認のみで、模擬戦には出ない。ミリアも同じく見学寄りで、記録と応援の位置にいる。
リゼは模擬剣を手にした。
木ではなく、安全術式を組み込んだ練習用剣。
軽い。
殺傷力は低い。
だが、剣の形をしている。
握った瞬間、指が勝手に重心を測った。
持ち手の癖。
刃に当たる部分の重み。
間合い。
相手の喉までの距離。
リゼは息を止め、ゆっくり吐いた。
ここは戦場ではない。
王立アークレイン学園の訓練場。
午後。
授業。
周囲には同級生。
アルトは見学席。
ミリアもいる。
カイは前方で模擬剣を振っている。
現在地確認。
対象、自分。
リゼは心の中でそう記録した。
授業は基礎の型確認から始まった。
踏み込み。
受け。
払い。
後退。
反転。
リゼはあえて教科書通りに動いた。
速すぎず、鋭すぎず、癖を隠す。
基礎剣術の授業範囲内。
安全。
目立たない。
そう意識していた。
しかし、教師の視線が時折こちらへ来る。
ラウルも見ている。
セレナも、一瞬だけこちらを見た。
隠すという行為そのものが、不自然になる。
リゼはそれを感じていた。
カイはペア練習でダリオと組んでいた。
「行くぞ!」
「声量!」
リゼとミリアの声がほぼ同時に飛んだ。
カイは一瞬詰まり、それから小声で言い直す。
「行くぞ」
「いや、戦う時まで小声じゃなくていいだろ」
ダリオが笑う。
「調整が難しいんだよ」
カイは踏み込んだ。
速い。
力もある。
ただし、まっすぐすぎる。
ダリオはそれを横へ流し、カイの肩を軽く押した。
カイは踏ん張ったが、少し体勢が崩れる。
「おい」
「また前に出すぎ」
ダリオが言う。
カイは悔しそうに笑った。
「大会までに直す」
リゼはそれを見ていた。
前に出ることしか知らない剣。
カイの弱点は明確だ。
ただ、そこには強さもある。
迷わない。
守りたいと思った時、彼は必ず前へ出る。
その強さを潰さず、死なない一歩を教える必要がある。
リゼはまだ出場を決めていない。
それでも、カイを鍛える必要はあるかもしれないと考え始めていた。
授業の後半、教師が簡易模擬戦を組んだ。
大会前の確認として、短時間だけ数組が前に出る。
ラウルと別の男子生徒。
セレナと女子生徒。
カイとダリオ。
そして、リゼにも声がかかった。
「グレイス。軽く確認する。相手は私だ」
剣術教師が言った。
周囲の視線が集まる。
教師相手。
生徒ではない。
リゼは模擬剣を握り直した。
「了解しました」
アルトが見学席で姿勢を正すのが見えた。
ミリアも静かにこちらを見ている。
カイは目を輝かせていた。
教師が構える。
リゼも基礎姿勢を取る。
開始の合図。
教師が一歩踏み込んだ。
授業用の速度。
だが、生徒相手よりは速い。
リゼは受けた。
受け流したのではない。
あくまで基礎通りに受ける。
次の一撃。
払い。
後退。
反転。
踏み込み。
基礎。
基礎。
基礎。
リゼは自分に言い聞かせた。
教師の剣が右上から入る。
ほんのわずかに胴が空いた。
リゼの体が反射で動きかける。
そこを取れば、教師の呼吸を止められる。
違う。
ここは戦場ではない。
リゼは踏み込みを止め、教科書通りに剣を合わせた。
模擬剣が軽く鳴る。
教師の目が少し細くなった。
気づかれた。
だが、リゼは最後まで基礎範囲を崩さなかった。
「そこまで」
教師が止めた。
短い模擬戦。
勝敗はつかない。
しかし、周囲の空気は変わっていた。
「今の、先生相手に普通に受けてた?」
「グレイスさん、やっぱり強いんじゃ」
「動き、地味なのに崩れない」
ざわめき。
リゼは剣を下ろし、一礼した。
教師も頷く。
「良い制御だ」
その言葉が、リゼの胸に微かに残った。
良い制御。
強いでも、速いでも、鋭いでもない。
制御。
戦場の反射を止めたことを、評価されたのだろうか。
見学席のアルトと目が合った。
アルトは少し緊張した顔をしていた。
だが、逃げるような目ではなかった。
見ていた。
最後まで。
リゼはなぜか、そこに小さな安堵を覚えた。
授業後、訓練場の端でカイが興奮気味に近づいてきた。
「やっぱ出ろよ」
「まだ未定です」
「今の見たら余計出てほしくなった」
「あなたの希望は確認済みです」
「先生相手にあれだけ動けるなら、絶対強いだろ」
「基礎範囲内です」
「その言い方、もう強いやつのやつなんだよ」
ダリオも寄ってきた。
「グレイスさん、大会出るなら結構注目されるぞ」
「望ましくありません」
「でも推薦候補だしなあ」
ラウルが少し離れた場所から歩いてきた。
彼は模擬剣を片手に、礼儀正しく会釈する。
「先ほどの動き、見事だった」
「授業範囲内です」
「だからこそ見事だった。余計なことをしなかった」
リゼはラウルを見る。
彼は見抜いている。
リゼが何かをしなかったことを。
力を出したのではなく、抑えたことを。
「大会で君と当たりたい」
ラウルは言った。
その言葉は昨日より明確だった。
周囲の生徒が少しざわつく。
リゼは即答しなかった。
カイが横から言う。
「俺とも当たれよ」
「もちろんだ」
ラウルは笑わずに答えた。
「君とも戦いたい」
「なら俺が先に勝つ」
「楽しみにしている」
ラウルは再びリゼを見る。
「グレイスさん。君が出場するかどうかは君の自由だ。ただ、もし出るなら、僕は歓迎する」
自由。
また、その言葉。
出る自由。
出ない自由。
見られる危険。
選ぶ責任。
リゼは短く答えた。
「検討します」
「良い返事を期待している」
ラウルは去っていった。
セレナは遠くからそのやり取りを見ていた。
彼女の目は、ラウルよりも静かで、もっと細かく何かを測っているようだった。
アルトの左手首にも一瞬視線が向いた気がした。
リゼはその視線を記録した。
注意対象、セレナ・アイゼンベルグ。
放課後、四人は噴水横のベンチへ戻った。
カイは訓練の熱がまだ残っているらしく、立ったまま模擬剣の素振りをしたそうにしている。
ミリアに「ここでは駄目」と言われ、しぶしぶ座った。
アルトはリゼの隣ではなく、少し正面に座った。
今日はリゼの顔を見て話したいのだろう。
リゼはそれを察し、姿勢を整えた。
「リゼさん」
「はい」
「授業で、先生の剣を受けていた時」
「はい」
「途中、一瞬だけ、空気が変わった気がしました」
リゼは沈黙した。
アルトは続ける。
「怖いというより、すごく遠い場所に行きそうになったみたいな感じ」
ミリアの表情が少し真剣になる。
カイも黙った。
リゼは正直に答えた。
「戦場反射が出かけました」
アルトの左手首が淡く光る。
リゼはすぐに確認する。
「痛みは」
「なし」
「熱は」
「少し」
「声は」
「なし」
「続けられますか」
「うん」
アルトは頷く。
「止められたんですよね」
「はい」
「自分で?」
「はい」
アルトは少しだけ息を吐いた。
「よかった」
その言葉に、リゼは少し戸惑った。
「怖くありませんでしたか」
「怖かったです」
アルトは正直に言った。
「でも、止めたのを見ました。だから、怖いだけじゃなかった」
怖いだけじゃない。
第4章の最初の日、アルトがリゼの剣について感じ始めている言葉。
リゼは胸の奥に小さな揺れを覚えた。
ミリアが静かに言った。
「リゼさん。今日、剣を握ってどう感じた?」
リゼは夕方の噴水を見た。
水音。
校舎。
生徒たちの声。
訓練場ではない。
戦場ではない。
学園。
「警戒しました」
まず、その言葉。
いつものように。
「戦場反射が出る危険を感じました。周囲の視線も増えました。ラウルさんは、私の制御を見抜きかけています。セレナさんは、アルトさんの銀環反応に興味を示す可能性があります」
ミリアは黙って聞く。
「ですが」
リゼは続けた。
「教師から、良い制御だと言われました」
アルトが頷く。
「うん」
「アルトさんが、最後まで見ていました」
「うん」
「カイさんは、出ろと言いました」
「言った」
カイが即答する。
「ミリアさんは、自分の気持ちを見るように言いました」
「ええ」
リゼは自分の手を見た。
剣を握った手。
今は何も持っていない手。
「私は、剣を握ることを完全に嫌だとは感じていないようです」
言った瞬間、自分でも少し驚いた。
完全に嫌ではない。
それは、出たいという言葉ではない。
しかし、出たくないだけでもない。
ミリアは穏やかに微笑んだ。
「大事な発見ね」
カイが少し身を乗り出す。
「じゃあ出るか?」
「まだ未定です」
「でも前進だろ」
「はい。前進です」
カイは満足そうに笑った。
アルトも少し笑った。
「リゼさんが、自分のことを言ってくれて嬉しい」
「嬉しい?」
「うん。いつも僕のことを確認してくれるから。今日はリゼさんのことを少し聞けた」
リゼはその言葉を静かに受け止めた。
自分のことを聞かれる。
自分の気持ちを待たれる。
それは慣れない。
だが、拒否したいものではなかった。
夕鐘が鳴った。
鐘の音が中庭に広がる。
アルトの左手首が淡く光った。
今日は王宮監察官の話は大きく出なかったが、剣術大会の熱とリゼの推薦が、確かに一日を動かした。
リゼはいつものように尋ねる。
「痛みは」
「なし」
「熱は」
「少し」
「声は」
「なし」
「現在地は」
「学園中庭。夕方。噴水横。リゼさん、ミリアさん、カイといる」
ミリアが聞く。
「感情は」
アルトは少し考えた。
「心配。少し楽しみ。リゼさんのことをもっと知りたい」
リゼの胸が、ほんの少しだけ温かくなる。
「確認しました」
カイが焼き菓子の袋を開ける。
「考えた用」
「今日は何個用途があるの?」
アルトが笑う。
「リゼが考えた用。俺が出場申請した用。アルトが心配しすぎなかった用」
「三つ」
「でも一人一個だって言われたから兼用だ」
ミリアが満足そうに頷く。
「よく守りました」
「俺だって成長する」
リゼは焼き菓子を受け取った。
小さく、甘い。
訓練の後に食べるには不思議な味。
だが、悪くない。
夜。
女子寮三〇七号室。
リゼは机の前に座り、記録帳を開いた。
ミリアは隣の机で髪をほどいている。
部屋の空気は静かだった。
窓の外には夜の鐘楼が見える。
リゼはペンを取り、今日の記録を書き始めた。
剣術大会教師推薦通知、受領。
推薦理由、基礎剣術授業における重心制御、間合い認識、防御反応、模擬剣運用。
出場可否、未定。
危険要素。
一、正体露見。
二、王宮監察官来訪時期との重複。
三、アルトさん護衛体制への影響。
四、ラウル・ヴァレンシュタインによる実力看破の可能性。
五、セレナ・アイゼンベルグによる観察。
リゼはそこで一度ペンを止めた。
危険要素は書ける。
いくらでも書ける。
だが、ロウ教師に言われた。
警戒だけで人生を組むな。
リゼは少し迷い、次の項目を書いた。
出場する意味の可能性。
一、剣を戦場以外の場で扱う経験。
二、戦場反射の制御訓練。
三、学園生徒としての評価を受ける機会。
四、カイさんの競争意欲に応答する機会。
五、アルトさんが私を知る機会。
そこまで書いて、リゼはペン先を止めた。
五番。
アルトさんが私を知る機会。
これは、任務上必要だろうか。
護衛対象が護衛者を知ることは、信頼関係の形成に寄与する。
そう書くことはできる。
だが、それだけではない。
アルトは友達として、自分の剣を見たいと言った。
怖いだけではないと言った。
自分が制御できたことを見て、よかったと言った。
その言葉が、記録上の合理性だけでは分類できない場所に残っている。
ミリアが背後から声をかけた。
「進んでる?」
「危険要素と意味の可能性を整理しています」
「気持ちは?」
リゼは黙った。
ミリアは椅子を引き、向かいに座る。
「すぐ答えなくていいわ。でも、書いてみたら?」
「感情は不明です」
「不明でも書けるでしょう?」
リゼは少し考えた。
そして、記録帳の下に新しい欄を作った。
感情。
警戒、強。
不安、中。
興味、微量。
拒否感、低から中。
緊張、中。
アルトさんに見られることへの抵抗、低。
アルトさんに見られることへの不明な感覚、あり。
カイさんと戦う可能性への予測困難な感覚、あり。
ミリアはその文字を見て、口元を緩めた。
「ずいぶん進んだわね」
「これで進んでいますか」
「ええ。昨日なら“危険評価が必要です”で終わっていたもの」
リゼは記録帳を見る。
確かに。
昨日より項目が増えている。
危険だけではない。
意味と感情が並んでいる。
まだ整理されていない。
だが、存在は認めた。
ミリアが穏やかに言う。
「出ても、出なくてもいいのよ」
「はい」
「大事なのは、どちらにしてもリゼさん自身がそこにいること」
「私自身」
「ええ。護衛としてだけでなく、戦争の英雄としてだけでもなく、リゼ・グレイスとして」
リゼはペンを握ったまま、窓の外を見た。
リゼ・グレイス。
掲示板に貼られた名前。
教師推薦候補者。
自分の名前。
役割だけではない名前。
アルトが「リゼさん」と呼ぶ名前。
ミリアがリボンを直しながら呼ぶ名前。
カイが「グレイス」と呼ぶ名前。
ロウ教師が「グレイス」と呼び、推薦書に記した名前。
戦場で灰銀の戦乙女と呼ばれた名前とは、少し違う響き。
リゼは記録帳の最後に、ゆっくりと書いた。
私は、剣を握りたいのか。
その一文を書いた瞬間、胸の奥が静かに揺れた。
答えはまだない。
だが、問いは生まれた。
ミリアは何も言わなかった。
ただ、部屋の明かりを少し落とし、温かい茶を用意してくれた。
リゼは湯気の立つ杯を受け取る。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
茶の香りが、夜の部屋に広がる。
リゼは一口飲んだ。
温かい。
好きだと思います。
以前、自分はそう言った。
今もそう思う。
記録可能。
感情分類、好き。
剣については、まだわからない。
だが、わからないものを、わからないまま記録できるようになった。
リゼはもう一度、記録帳の最後の一文を見た。
私は、剣を握りたいのか。
窓の外で、夜の鐘楼が静かに立っている。
剣術大会の告知は、明日も掲示板に貼られているだろう。
推薦通知の回答期限は三日後。
王宮監察官は明日、学園へ来る。
アルトの銀環も、白鐘礼拝堂の夢も、消えたわけではない。
危険は多い。
警戒は必要だ。
それでも、リゼは記録帳を閉じる前に、最後にもう一行だけ書き足した。
警戒だけで、決めない。
ペンを置く。
部屋の中は静かだった。
ミリアが茶を飲む音だけが、小さく響く。
リゼは窓の外を見ながら、自分の右手を軽く握った。
そこには今、剣はない。
けれど、握るかどうかを考える時間がある。
命令ではなく。
戦場の反射ではなく。
自分の問いとして。
それはリゼにとって、まだ慣れない、けれど確かに学園でしか得られない時間だった。




