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灰銀の戦乙女は、制服を知らない  作者: 最後に残った形


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第4章 第1話:剣術大会の告知


 朝の中庭は、いつもより少し早く目を覚ましていた。


 王立アークレイン学園の鐘楼が朝の光を受け、白い校舎の壁に淡い影を落としている。噴水の水音は変わらない。花壇の白い花も、風に揺れる木々も、昨日と同じようにそこにあった。


 けれど、人の流れだけが違った。


 第一校舎へ向かう生徒たちが、いつものようにまっすぐ教室へ入らない。何人もが中庭東側の掲示板の前で足を止め、紙を見上げ、隣の友人と顔を寄せ合っている。


 笑い声。


 驚きの声。


 誰が出るのか、誰が勝つのか、今年は首席候補が多いらしい、という弾んだ声。


 それらが朝の空気に混ざっていた。


 アルト・レインフォードは、男子寮から中庭へ出てすぐ、そのざわめきに気づいた。


 最初に胸をよぎったのは、噂だった。


 第3章のあいだ、アルトは噂という見えない敵に何度も息を詰まらせた。


 リゼと自分の関係。


 左手首の布。


 王宮との関わり。


 誰かがこちらを見て、声を潜める。それだけで、左手首は熱を持ち、胸は冷たくなった。


 だから、今朝のざわめきにも一瞬だけ体が強ばった。


 しかし、すぐに違うとわかった。


 こちらを刺すような視線ではない。


 囁きはあるが、陰っていない。


 むしろ、空気は熱を帯びていた。


 学園行事の前にだけ生まれる、少し浮き立った熱。


 アルトは掲示板の方を見た。


 人垣の隙間から、大きな紙の上部だけが見える。


 太い文字で、こう書かれていた。


 王立アークレイン学園

 第一学年基礎剣術大会開催告知


 剣術大会。


 その言葉を読み取った瞬間、後ろから足音が近づいてきた。


「おはよう」


 カイ・ロックハートの声だった。


 いつもより抑えられている。


 それでも、声の中に眠気はほとんどなかった。


「おはよう」


 アルトが振り返ると、カイはすでに掲示板へ目を向けていた。


 赤茶色の髪が朝日に照らされ、瞳がわかりやすく輝いている。


「剣術大会?」


 カイの声が少し大きくなる。


 すぐに、左側から冷静な声が飛んだ。


「声量」


 リゼ・グレイスだった。


 灰銀の髪を朝風に揺らし、いつものようにアルトの左側へ立つ。制服のリボンは今日も整っている。表情は平静だが、掲示板へ向けた目には警戒があった。


 ミリア・ファルネーゼもその隣にいる。金色の髪を片側へ流し、穏やかな笑みを浮かべているが、彼女も周囲の空気を見ていた。


 カイは口元を押さえた。


「抑えたつもりだった」


「通常時よりは改善しています」


 リゼは言った。


「しかし、興奮時に上昇します」


「剣術大会だぞ。上がるだろ」


「上がることと周囲へ響かせることは別です」


「はいはい」


 カイは一応頷いたが、視線は完全に掲示板へ釘付けになっている。


 ミリアが微笑んだ。


「今年もこの時期なのね」


「ミリアさんは知ってるんですか」


 アルトが尋ねると、ミリアは頷いた。


「ええ。毎年、一年生の基礎剣術履修者を中心に行われる大会よ。正式な騎士選抜試験ではないけれど、成績評価にも関わるし、首席候補の顔見せにもなるわ」


「首席候補」


 アルトはその言葉を繰り返した。


 首席。


 学年で最も優秀な生徒。


 剣術大会で評価されるということは、ただの遊びではない。


 カイが一歩前へ出る。


「出る」


 まだ掲示内容を全部読んでもいないのに、断言した。


 リゼが淡々と言う。


「参加条件を確認してから判断してください」


「剣術大会だろ。出る」


「希望参加制か、推薦制か、授業成績による制限があるか不明です」


「出る」


「カイさん」


 ミリアが呆れたように笑う。


「何も聞いていないわ」


「剣術大会って聞いた」


「それだけで十分なの?」


「十分だろ」


 カイの迷いのなさに、アルトは思わず笑った。


 その笑いにつられるように、左手首が布の下で少し温かくなる。


 痛みはない。


 声もない。


 怖さの熱ではなかった。


 アルトは自分で小さく確認する。


 痛みなし。


 熱、少し。


 声なし。


 感情は、少し楽しい。


 リゼが視線だけで気づき、アルトへ目を向ける。


 アルトは小さく頷いた。


 大丈夫。


 リゼもほんの少しだけ頷き返した。


 四人は掲示板の方へ近づいた。


 生徒たちはまだ集まっているが、カイが近づくと自然に少し隙間ができた。本人は気づいていないが、体格と熱量が前へ出すぎている。


 リゼが小声で言う。


「圧が強いです」


「圧?」


「周囲が避けています」


「便利だな」


「目的外の効果です」


 アルトは笑いそうになった。


 掲示板の紙には、詳細が記されていた。


 第一学年基礎剣術大会。


 開催目的。


 一年生における基礎剣術履修成果の確認。


 安全術式下における模擬戦経験の付与。


 首席候補選抜における参考評価。


 参加資格。


 一年生。


 基礎剣術履修者。


 希望参加制。


 ただし、授業成績優秀者および教師推薦者は出場を求められる場合あり。


 試合形式。


 模擬剣使用。


 急所保護術式あり。


 過度な魔術補助は禁止。


 魔剣術は基礎範囲に限り認可。


 アルトは一行ずつ読んでいった。


 試合、模擬剣、安全術式。


 学園行事のはずなのに、紙面にはどこか戦場に似た言葉が並んでいる。


 隣でカイはすでに参加申請の欄を探していた。


「希望参加制。出られるな」


「申請書は本日午後から配布です」


 リゼが指摘する。


「午後か」


「今は出られません」


「気持ちはもう出てる」


「それは確認済みです」


 ミリアが掲示の下部を見て、少し眉を上げた。


「首席候補評価対象、ね。今年はかなり注目されそう」


 その言葉に、近くにいた男子生徒が振り返った。


「ああ。今年はラウル・ヴァレンシュタインがいるからな」


 ダリオ・エルムだった。


 赤茶色の髪を短く切った、剣術基礎の授業でよく目立つ生徒だ。カイとは何度か組んだことがあり、最近では声量訓練の件でも笑っていた。


 ダリオは掲示板に肩を寄せるように立ち、カイを見てにやりと笑った。


「ロックハート、お前出るだろ?」


「出る」


「だと思った」


「お前も出るのか」


「出る。お前に負けたままじゃ気分悪いしな」


「負けた?」


 カイが眉を寄せる。


「基礎剣術の時、お前が突っ込みすぎて先生に止められただろ。あれ、俺は勝ったと思ってる」


「勝ってねえ」


「じゃあ大会で決めようぜ」


「いいぞ」


 二人の間に、学園の男子らしい単純な火花が散った。


 ミリアが小さく笑う。


「楽しそうね」


「剣術大会ですから」


 リゼが淡々と言った。


「競争心が発生するのは自然です」


 ダリオはリゼを見る。


「グレイスさんは出ないの?」


 問いは軽かった。


 しかし、アルトの胸が少しだけ緊張した。


 カイも、ミリアも、リゼを見る。


 リゼはすぐに答えた。


「未定です」


「未定?」


「はい」


「グレイスさん、授業であんまり目立たないけど、たぶん強いよな」


 ダリオの言葉に、周囲の生徒がちらりとリゼを見る。


 リゼの表情は変わらない。


「基礎範囲内で履修しています」


「その言い方、強いやつのやつだろ」


 ダリオは笑った。


 悪意はない。


 けれど、リゼの肩がほんの少しだけ硬くなるのを、アルトは見逃さなかった。


 リゼは目立つべきではない。


 彼女はそう言っていた。


 戦争で活躍した英雄。


 灰銀の戦乙女。


 その正体を隠しながら、学園にいる。


 剣術大会は、学園生活の大きな行事だ。


 でも、リゼにとっては危険でもある。


 強さを隠すか。


 学園の生徒として参加するか。


 その選択が、朝の掲示板の前に突然現れた。


 アルトは左手首へ触れた。


 熱はない。


 でも、胸が少しざわつく。


 リゼさんが戦うところを見たい。


 第3章の終わりに、自分はそう言った。


 それは本当だ。


 友達として、リゼのことをもっと知りたい。


 でも、そのせいで彼女が危険に近づくなら。


 それは自分が言っていい願いなのだろうか。


 アルトが黙っていると、ミリアがそっと声をかけた。


「アルトさん?」


「うん。大丈夫」


 リゼが視線を向ける。


「痛みは」


「ない」


「熱は」


「ない。少し考えてただけ」


「内容は」


 アルトはリゼを見る。


 ここで言うべきか迷った。


 でも、第3章で学んだ。


 危険に関わることや、相手の意思を勝手に決めそうになることは、黙って抱えない。


「リゼさんが出るかどうか、僕が見たいって言ったことが重荷になったら嫌だと思った」


 リゼは少し目を瞬いた。


 カイが首を傾げる。


「何で重荷なんだ?」


「リゼさんは目立つべきじゃないかもしれない。でも、僕は見たいって思ったから」


 リゼは少し黙った。


 それから、静かに言う。


「アルトさんの発言だけで、私の判断は決まりません」


「うん」


「ただし、判断材料にはなります」


「材料」


「はい。友人が私のことを知りたいと思っている。その事実は、無視すべきではありません」


 アルトの胸が少し温かくなる。


 リゼは続けた。


「しかし、出場の可否は危険評価、正体露見リスク、護衛任務、本人意思を総合して判断します」


「本人意思も?」


「はい」


 ミリアが微笑む。


「大事ね」


 カイは腕を組みかけ、リゼに視線で止められてやめた。


「俺は出てほしいけどな」


「あなたの希望も判断材料です」


 リゼが言う。


「お、入るのか」


「ただし比重は未定です」


「そこは大きくしろよ」


「検討します」


 ダリオが二人のやり取りを見て笑った。


「グレイスさん、真面目だな」


「はい」


「そこは否定しないんだ」


「事実です」


 その時、掲示板前のざわめきが少し変わった。


 人垣の向こうから、一人の男子生徒が歩いてきた。


 背が高く、姿勢が美しい。


 濃い藍色の髪を後ろで軽く整え、学園の制服を隙なく着こなしている。歩き方に無駄がなく、周囲の生徒が自然に道を空けた。


 彼が近づくと、数人が小声で名前を呼んだ。


「ラウルだ」


「ヴァレンシュタイン家の」


「今年の首席候補筆頭だろ」


 ラウル・ヴァレンシュタイン。


 名門騎士家の子息。


 カイが小さく息を吐いた。


「あいつか」


「知ってるの?」


 アルトが尋ねる。


「剣術基礎で見た。綺麗な剣使う」


 カイがそう言うのは珍しい。


 彼が素直に認めるほどの相手なのだろう。


 ラウルは掲示板の前で足を止め、内容を一読した。


 表情はほとんど変わらない。


 しかし、その目には確かな戦意があった。


 彼はカイに気づくと、軽く会釈した。


「ロックハート君。君も出るのか」


「出る」


「だろうね」


 ラウルの声は落ち着いていた。


 見下しているわけではない。


 ただ、自分の中に揺るぎない基準がある人の声だった。


 カイが笑う。


「当たったら勝つ」


「楽しみにしている」


 ラウルはそう言ってから、リゼへ視線を向けた。


 一瞬。


 ほんの一瞬だった。


 だが、アルトにはわかった。


 ラウルの目が、リゼの立ち姿を測った。


 肩の位置。


 足の置き方。


 重心。


 手の位置。


 剣を持っていない人間を、剣士として見た。


 リゼもそれに気づいたはずだ。


 だが、表情は変えなかった。


 ラウルは穏やかに言う。


「君も出場するのかな、グレイスさん」


「未定です」


「そうか」


 ラウルは一拍置いた。


「出るなら、楽しみにしている」


「なぜですか」


 リゼが尋ねた。


 ラウルは少しだけ目を細める。


「君は、立ち方が基礎剣術の生徒ではない」


 空気が、わずかに止まった。


 カイが眉を上げる。


 ミリアの微笑みが、ほんの少しだけ薄くなる。


 アルトの左手首が淡く熱を持った。


 リゼは静かに答える。


「私は基礎剣術を履修しています」


「履修していることと、身についているものは別だ」


 ラウルの声は礼儀正しい。


 だからこそ、鋭かった。


「失礼だったなら謝る。ただ、興味がある」


「興味」


「強い剣士に」


 リゼは黙った。


 朝の掲示板前。


 学園の生徒たちの前。


 誰も灰銀の戦乙女とは言っていない。


 けれど、ラウルはリゼの強さを見抜きかけている。


 アルトは胸がざわついた。


 自分はリゼの剣を見たい。


 カイも戦いたがっている。


 ラウルも興味を持った。


 それは学園の行事としては自然なことかもしれない。


 でも、リゼにとっては危険が増えている。


 その時、別の声がした。


「朝からずいぶん賑やかね」


 振り向くと、セレナ・アイゼンベルグが立っていた。


 すらりとした体つきの女生徒で、銀に近い淡い灰色の髪を短く整えている。制服は規則通りだが、立っているだけで周囲との温度が少し違った。


 冷静な目。


 観察する目。


 彼女は掲示板を一瞥し、ラウル、カイ、リゼの順に視線を移した。


 最後に、アルトの左手首へほんの一瞬だけ目を向けた。


 アルトは反射的に布の上から手首を押さえた。


 痛みはない。


 熱が少し上がる。


 声はない。


 リゼがすぐに気づき、アルトの左側へ半歩寄った。


 セレナはそれ以上見なかった。


 ただ、淡々と言う。


「今年の首席候補は騒がしくなりそうね」


 ラウルが静かに返す。


「君も出るのだろう、アイゼンベルグさん」


「推薦が来るなら」


「来るだろう」


「あなたにもね」


「おそらく」


 会話は穏やかだが、そこには確かに張り詰めたものがあった。


 カイがアルトへ小声で言う。


「あの二人、強い」


「見ただけでわかるの?」


「何となく」


 リゼが横から言った。


「おそらく正しいです」


「だろ」


 セレナがその声を聞いて、わずかに口元を動かした。


「ロックハート君も出るのね」


「出る」


「わかりやすい返事」


「悪いか?」


「悪くないわ。大会にはそういう人も必要だもの」


 カイは少し怪訝そうにしたが、深く考えなかったらしい。


 その様子にダリオが笑った。


「今年、面白くなりそうだな」


 周囲の生徒たちも同じことを感じているようだった。


 剣術大会。


 首席候補。


 ラウル。


 セレナ。


 カイ。


 リゼ。


 学園全体が、少しずつ大会へ向けて熱を持ち始めている。


 その熱の中心に、四人も巻き込まれつつあった。


 だが、熱だけではなかった。


 掲示板から少し離れた場所に、白い制服の生徒が二人立っていた。


 生徒会の腕章。


 その奥から、ユリウス・エインズワースとエレオノーラ・ヴィンスフェルトが歩いてくる。


 ユリウスの顔は、剣術大会を楽しみにしているものではなかった。


 エレオノーラも記録板を抱え、表情を引き締めている。


 リゼが即座に反応した。


「王宮の件ですか」


 ユリウスは周囲を確認した。


 ラウルとセレナは、少し離れているが聞こえない距離ではない。


 ユリウスは声を抑える。


「正式文書が届いた」


 アルトの胸の奥が冷えた。


 剣術大会の熱が、一瞬で遠ざかる。


「王宮追加監察官の派遣。到着は明後日午前予定。目的は、君の銀環反応の確認、学園保護体制の評価、王都移送の必要性検討」


 王都移送。


 その言葉に、左手首が強く光った。


 布の下から淡い銀の光が漏れる。


 アルトはすぐに手首を押さえた。


 痛みはない。


 熱は中。


 声はない。


 でも、周囲の生徒がこちらを見た。


 リゼが自然にアルトの左側へ立ち、視線を遮る。


 ミリアが柔らかな笑顔で周囲へ目を向けた。


「掲示板の前は混みますから、少し移動しましょう」


 社交的な声。


 だが、有無を言わせない。


 カイもアルトの背側へ回った。


 四人とユリウス、エレオノーラは、掲示板から少し離れた噴水脇へ移動した。


 アルトは歩きながら、昨日作った言葉を思い出した。


 本人の意思確認なしの移送には同意しない。


 学園に残りたい。


 保護の名のもとに本人の意思が扱われないことを拒否する。


 怖い。


 でも、言葉がある。


 リゼが小声で確認する。


「痛みは」


「なし」


「熱は」


「中。少し下がってきた」


「声は」


「なし」


「現在地は」


 アルトは息を吸った。


「学園中庭。朝。噴水脇。リゼさん、ミリアさん、カイ、ユリウス先輩、エレオノーラ先輩がいる。王宮から正式文書が来た」


「感情は」


 ミリアが聞く。


「怖い。怒ってる。でも、昨日よりは言葉がある」


 ユリウスはアルトを見て、少しだけ表情を和らげた。


「学園長、ロウ先生、クラウス卿は現時点で移送反対をまとめている。君の意思表明文も王宮への返答に添えられる」


「監察官は、僕と話しますか」


「おそらく話すことになる」


「なら、僕も自分で言います」


 アルトは言った。


 声は少し震えていた。


 だが、言えた。


「学園に残りたいって」


 エレオノーラが記録板を開く。


「本人が監察官へ意思表示する意向あり。記録してよろしいですか」


「はい」


「夢、出生名、白鐘礼拝堂関連は記録しません」


「お願いします」


 リゼはユリウスを見る。


「監察官の氏名は」


「オルド・ハイマン。王宮監察局所属。表向きは穏健派とされているが、保護体制評価ではかなり厳格だ」


「移送推進派ですか」


「明確には不明。ただし、“王宮管理下の方が安全”という立場に傾きやすい人物だ」


 カイが低く言った。


「また本人抜きで安全とか言うやつか」


「その可能性がある」


 ユリウスは否定しなかった。


 ミリアは静かに言う。


「剣術大会の時期に合わせて来るのは偶然でしょうか」


 ユリウスは少し黙った。


「偶然ではないかもしれない」


 リゼがすぐに整理する。


「大会期間中は学園外部者の出入り、教師の移動、生徒の注目が増えます。監察官の行動も紛れやすい。さらに、私やカイさんが大会に関われば護衛体制にも影響が出ます」


 カイが眉を寄せる。


「俺が出るのも影響すんのか」


「はい。あなたは現在、アルトさん周辺の非公式防衛要員として機能しています」


「何だそれ」


「要するに、友達として近くにいる戦力です」


「最初からそう言え」


「今言いました」


 アルトは少しだけ笑った。


 怖さは消えていない。


 王宮監察官。


 移送。


 リゼの出場問題。


 剣術大会。


 全部が同じ朝に重なっている。


 それでも、カイとリゼのやり取りで少し呼吸が戻る。


 ミリアがアルトへ言った。


「今日はまず、剣術大会の話と王宮の話を分けましょう」


「分ける?」


「ええ。全部を一つにすると、とても大きな不安になるわ。王宮監察官は王宮監察官。剣術大会は剣術大会。ただし、交わる部分は注意する」


 リゼが頷く。


「分類は有効です」


 アルトは頷いた。


「うん。そうする」


 朝の鐘が鳴った。


 授業開始を告げる鐘。


 アルトの左手首がまた光る。


 王宮の話を聞いた後だからか、いつもより少し強い。


「痛みなし。熱、中。声なし」


 リゼがすぐに尋ねる。


「現在地は」


「学園中庭。朝。これから授業。王宮のことは怖い。でも、僕は学園にいる」


「良好です」


 リゼは言った。


 ユリウスは短く頷く。


「詳しい打ち合わせは放課後に。君は授業を受けていい」


 アルトは一瞬、ユリウスを見る。


 いい、ではなく。


 自分で決める。


 ユリウスもすぐに気づいたようだった。


「いや、訂正する。授業を受けるかどうか、君が決めてくれ」


 アルトは少し驚き、それから頷いた。


「受けます。普通にしていたいので」


「わかった」


 エレオノーラが静かに記録する。


 ミリアは微笑んだ。


「普通に授業を受けることも、対抗策ね」


「はい」


 リゼが答える。


「孤立化と移送圧力への対抗として、通常生活の維持は有効です」


 カイが言う。


「つまり授業だな」


「はい」


「王国史、眠いけどな」


「ロウ先生に聞こえます」


「今はいないだろ」


 その瞬間、遠くからロウ教師がこちらを見ていた。


 カイは固まった。


 アルトは笑いをこらえた。


 リゼは真面目に言った。


「聞こえていなくても、見られていました」


「何でいつもいるんだよ」


 ミリアが笑った。


 その笑いに、朝の重さが少しだけ薄まった。


 午前の王国史の授業は、奇妙なほど今の状況に重なっていた。


 ロウ教師は黒板に「保護と統治」と書いた。


「王国史において、保護という言葉は多く使われる。王が民を保護する。貴族が領地を保護する。学園が未成年を保護する。しかし、保護はしばしば管理と隣り合う」


 アルトはノートに書く。


 保護は管理と隣り合う。


 左手首が淡く光った。


 痛みはない。


 熱は少し。


 声はない。


 リゼが視線で確認する。


 アルトは小さく頷いた。


 ロウ教師は続ける。


「守る側が正しいと信じている時ほど、守られる側の意思は見落とされる。歴史は、その失敗の繰り返しでもある」


 昨日、自分たちが話したことと同じだった。


 友達を守りたい。


 でも、本人の意思を聞かずに遠ざけるなら、それは王宮と同じ形になるかもしれない。


 アルトはペンを握る。


 王宮監察官が来る。


 相手はきっと、保護と言うだろう。


 安全と言うだろう。


 王宮管理下が望ましいと言うかもしれない。


 その時、自分は言わなければならない。


 保護の名のもとに、本人の意思が扱われないことを拒否します。


 ノートの端に、その文を書いた。


 文字は少し震えていた。


 でも、書けた。


 昼休みになると、四人は中庭のいつもの席へ向かった。


 今日も完全に隠れはしない。


 だが、中央寄りすぎる場所でもない。


 普通の席。


 ミリアが選んだ。


「今日は、情報の整理をしながら食べましょう。空腹で王宮と剣術大会を同時に考えると、倒れるわ」


「倒れるのは困ります」


 リゼが即座に同意する。


 カイは売店へ行く前に宣言した。


「王宮に負けない用と剣術大会用、両方いるな」


「焼き菓子の用途ですか」


 アルトが尋ねる。


「そうだ」


 ミリアが少し笑った。


「今日は一人一つまで」


「二つの用途なのに?」


「一つで両方兼用」


「なるほど」


 カイは納得して売店へ向かった。


 昼食中、剣術大会の話題が戻ってきた。


 カイは参加する。


 それはもう確定のようだった。


 ダリオも出る。


 ラウルとセレナは推薦されるだろう。


 問題はリゼだった。


「リゼさんは、どうするの?」


 アルトは尋ねた。


 聞いてから、すぐに補足する。


「今すぐ決めなくていいです。ただ、聞いてもいいですか」


 リゼはスープの杯を置いた。


「未定です」


「目立つのが危ないから?」


「はい」


 即答だった。


「王宮監察官が来る時期と重なるため、私の実力露見は望ましくありません」


 カイがパンを頬張りながら言う。


「でも推薦されたら?」


「推薦内容を確認してから判断します」


「出たら戦えるぞ」


「それはあなたの利点です」


「お前の利点は?」


 リゼは一瞬黙った。


 アルトはその沈黙に気づいた。


 利点。


 リゼにとって、出場する利点。


 カイと戦えること。


 学園の生徒として評価を受けること。


 自分の剣を、戦場ではなく学園の中で扱うこと。


 でも、リゼはそれを利点としてすぐに言葉にできない。


 ミリアが静かに言う。


「リゼさん」


「はい」


「危険評価はもちろん必要よ。でも、出るか出ないかを決める時に、自分の気持ちも一緒に見てね」


「自分の気持ち」


「ええ。出たいか。出たくないか。怖いか。嫌か。少し興味があるのか」


「興味」


 リゼはその言葉を繰り返す。


 アルトはそっと言った。


「僕は、リゼさんがどうしたいのか知りたいです」


 リゼがこちらを見る。


「前に、リゼさんが僕に言ってくれたみたいに。僕抜きで決めないって。だから、リゼさんのことも、リゼさん抜きで決めたくない」


 カイが頷く。


「俺は出てほしい」


「それは知っています」


 リゼが言う。


「でも決めるのはお前だろ」


 カイは少し照れくさそうに言った。


 ミリアが微笑む。


「成長したわね」


「何がだよ」


「今のはとてもよかったわ」


 カイは少しだけ顔を逸らした。


 リゼは三人を見た。


 そして、短く言う。


「検討します」


 カイが笑う。


「出る可能性あるな」


「検討です」


「それは第3章からの流れで、かなり前向きだ」


「分析が雑です」


 アルトは笑った。


 昼休みの終わり頃、ノエルが課題用紙を持って近づいてきた。


「アルト君、今日の課題会だけど」


 アルトは少し迷った。


 王宮の件もある。


 剣術大会の話もある。


 でも、普通を続けることも大事だ。


「短い時間なら行ける」


 ノエルはほっとしたように笑った。


「ありがとう。見出しでまた悩んでて」


 ティナが後ろから顔を出す。


「ノエル、見出しに弱すぎるんだよ」


「構成は大事なんだ」


 リリアも小さく頷いた。


「でも、長くなる」


 その普通の会話に、アルトは少し救われた。


「じゃあ、放課後二十分だけ」


「うん」


 リゼはそのやり取りを見ていた。


 王宮監察官が来る。


 剣術大会も始まる。


 リゼの出場問題もある。


 それでも、アルトは課題会へ行く。


 普通の学園生活を続ける。


 それは、第3章で積み重ねた成果だった。


 放課後、アルトは予定通り課題会に二十分だけ参加した。


 リゼは廊下。


 ミリアは少し離れた閲覧席。


 カイは階段近くで剣術大会の申請書を手にしていた。


 カイは参加申請欄に自分の名前を書いた後、何度も紙を見ていた。


 まるでそれだけで試合が始まったかのようだった。


 アルトは課題会を終えると、リゼたちの元へ戻った。


「戻りました」


「確認しました」


 リゼがいつものように言う。


「体調は」


「疲れた。でも大丈夫。痛みなし、熱少し、声なし。課題会は普通だった」


「良好です」


 カイが申請書を掲げた。


「出した」


「早いね」


「午後から配布だったからな」


「午後すぐ出したの?」


「当然だろ」


 ミリアが笑う。


「カイさんらしいわ」


 その時、掲示板前で少し騒ぎが起きた。


 新しい紙が貼られていた。


 生徒たちが集まり、名前を見ている。


 カイが即座に反応する。


「何だ?」


 四人が近づくと、そこには「教師推薦候補者一覧」と書かれていた。


 まだ正式出場者ではない。


 だが、教師推薦を検討している生徒名が並んでいる。


 ラウル・ヴァレンシュタイン。


 セレナ・アイゼンベルグ。


 ダリオ・エルム。


 カイ・ロックハート。


 そして。


 リゼ・グレイス。


 その名前を見た瞬間、アルトの胸が強く鳴った。


 周囲の生徒たちがざわめく。


「グレイスさん?」


「あの静かな子?」


「剣術、強いの?」


「教師推薦ってことは、相当じゃない?」


 リゼの表情は変わらない。


 しかし、アルトにはわかった。


 彼女の警戒が一段上がった。


 カイは少しだけ嬉しそうに言った。


「来たな」


「正式決定ではありません」


 リゼが答える。


「でも候補だろ」


「はい」


「出ろよ」


「検討します」


 ミリアが掲示を見て、静かに息を吐いた。


「思ったより早かったわね」


「はい」


 リゼは掲示板を見上げる。


 自分の名前。


 学園の中で貼り出された名前。


 灰銀の戦乙女ではない。


 リゼ・グレイス。


 一年生の基礎剣術大会、教師推薦候補者。


 それは普通の学園行事のようでいて、彼女にとってはとても重いものに見えた。


 アルトは隣で言った。


「リゼさん」


「はい」


「僕は、出てほしいとも、出ないでほしいとも、まだ言いません」


 リゼがこちらを見る。


「でも、リゼさんが決めるまで、ちゃんと待ちます」


 リゼは少しだけ目を伏せた。


「ありがとうございます」


 カイが横から言う。


「俺は出てほしいって言うけどな」


「知っています」


 ミリアが笑った。


「それぞれの待ち方ね」


 夕鐘が鳴った。


 掲示板前に集まっていた生徒たちの声が、鐘の音に少しだけ静まる。


 アルトの左手首が淡く光った。


 今日は何度も反応した。


 王宮。


 移送。


 剣術大会。


 リゼの名前。


 たくさんのことが一日に重なった。


 でも、今は倒れそうではなかった。


「痛みなし。熱、少し。声なし」


 リゼが尋ねる。


「現在地は」


「学園中庭。夕方。掲示板前。リゼさん、ミリアさん、カイといる」


 ミリアが聞く。


「感情は」


 アルトは掲示板を見上げた。


 自分の名前はそこにない。


 でも、友達の名前がある。


 王宮の文書にも、自分の名前がある。


 学園と王宮。


 日常と政治。


 剣術大会と銀環。


 全部が重なっていく。


「怖い。でも、少し楽しみもある。カイが出ること。リゼさんがどうするのか。僕が、応援できるかもしれないこと」


 リゼは静かに頷いた。


「良好です」


 カイが拳を握った。


「俺は勝つぞ」


「まず一回戦を確認してください」


 リゼが言う。


「誰でも勝つ」


「過信は危険です」


「自信だ」


「調整が必要です」


 ミリアが微笑む。


「大会前から課題が多いわね」


 アルトは笑った。


 その笑いの中で、左手首の光が少しだけ柔らかくなった。


 夜。


 男子寮の自室で、アルトは紙片を書いた。


 今日は剣術大会の告知があった。


 カイは出ると即答した。


 ダリオ君も出る。


 ラウル・ヴァレンシュタインという首席候補がいた。


 綺麗な剣を使うらしい。


 セレナ・アイゼンベルグという人もいた。


 左手首を見られた気がして、少し怖かった。


 リゼさんにも出るか聞かれた。


 リゼさんは未定と言った。


 目立つべきではないから。


 でも、教師推薦候補者一覧にリゼさんの名前が載った。


 リゼ・グレイス。


 掲示板に名前があった。


 僕は、リゼさんがどうしたいのかを待つと言った。


 カイは出てほしいと言った。


 ミリアさんは、それぞれの待ち方と言った。


 王宮から正式文書も届いた。


 追加監察官が明後日来る。


 王都移送の必要性検討。


 怖かった。


 でも、僕は学園に残りたいと言うつもりだ。


 今日も課題会に二十分行けた。


 普通のこともできた。


 夕鐘で光った。


 痛みなし。


 熱、少し。


 声なし。


 怖い。


 でも、少し楽しみもある。


 アルトはペンを止めた。


 今日の紙片は、いつもより内容が多い。


 それだけ、一日の中にたくさんのものが詰め込まれていた。


 王宮監察官。


 剣術大会。


 首席候補。


 リゼの名前。


 カイの出場。


 自分の意思。


 どれも、これからのことだ。


 まだ何も終わっていない。


 むしろ始まったばかりだ。


 アルトは最後に、一行を書いた。


 学園には、怖いことだけじゃなくて、応援したいこともある。


 紙片を折り、引き出しへしまう。


 窓の外には夜の鐘楼が立っている。


 白鐘礼拝堂の夢は、今夜も来るかもしれない。


 王宮監察官は明後日来る。


 剣術大会の申請は始まった。


 リゼはまだ決めていない。


 カイはもう走り出している。


 ミリアはきっと、全部を見ながら言葉を整えてくれる。


 アルトはベッドに横になり、左手首を胸の上に置いた。


「現在地は、男子寮の自室。夜。僕はアルト。明日も学園にいる。怖いけど、応援したいことがある」


 銀環が淡く光った。


 痛みはなかった。


 その光は、遠くの扉ではなく、明日の中庭へ続く小さな灯のように、静かに手首の奥で揺れていた。


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