第4章 第1話:剣術大会の告知
朝の中庭は、いつもより少し早く目を覚ましていた。
王立アークレイン学園の鐘楼が朝の光を受け、白い校舎の壁に淡い影を落としている。噴水の水音は変わらない。花壇の白い花も、風に揺れる木々も、昨日と同じようにそこにあった。
けれど、人の流れだけが違った。
第一校舎へ向かう生徒たちが、いつものようにまっすぐ教室へ入らない。何人もが中庭東側の掲示板の前で足を止め、紙を見上げ、隣の友人と顔を寄せ合っている。
笑い声。
驚きの声。
誰が出るのか、誰が勝つのか、今年は首席候補が多いらしい、という弾んだ声。
それらが朝の空気に混ざっていた。
アルト・レインフォードは、男子寮から中庭へ出てすぐ、そのざわめきに気づいた。
最初に胸をよぎったのは、噂だった。
第3章のあいだ、アルトは噂という見えない敵に何度も息を詰まらせた。
リゼと自分の関係。
左手首の布。
王宮との関わり。
誰かがこちらを見て、声を潜める。それだけで、左手首は熱を持ち、胸は冷たくなった。
だから、今朝のざわめきにも一瞬だけ体が強ばった。
しかし、すぐに違うとわかった。
こちらを刺すような視線ではない。
囁きはあるが、陰っていない。
むしろ、空気は熱を帯びていた。
学園行事の前にだけ生まれる、少し浮き立った熱。
アルトは掲示板の方を見た。
人垣の隙間から、大きな紙の上部だけが見える。
太い文字で、こう書かれていた。
王立アークレイン学園
第一学年基礎剣術大会開催告知
剣術大会。
その言葉を読み取った瞬間、後ろから足音が近づいてきた。
「おはよう」
カイ・ロックハートの声だった。
いつもより抑えられている。
それでも、声の中に眠気はほとんどなかった。
「おはよう」
アルトが振り返ると、カイはすでに掲示板へ目を向けていた。
赤茶色の髪が朝日に照らされ、瞳がわかりやすく輝いている。
「剣術大会?」
カイの声が少し大きくなる。
すぐに、左側から冷静な声が飛んだ。
「声量」
リゼ・グレイスだった。
灰銀の髪を朝風に揺らし、いつものようにアルトの左側へ立つ。制服のリボンは今日も整っている。表情は平静だが、掲示板へ向けた目には警戒があった。
ミリア・ファルネーゼもその隣にいる。金色の髪を片側へ流し、穏やかな笑みを浮かべているが、彼女も周囲の空気を見ていた。
カイは口元を押さえた。
「抑えたつもりだった」
「通常時よりは改善しています」
リゼは言った。
「しかし、興奮時に上昇します」
「剣術大会だぞ。上がるだろ」
「上がることと周囲へ響かせることは別です」
「はいはい」
カイは一応頷いたが、視線は完全に掲示板へ釘付けになっている。
ミリアが微笑んだ。
「今年もこの時期なのね」
「ミリアさんは知ってるんですか」
アルトが尋ねると、ミリアは頷いた。
「ええ。毎年、一年生の基礎剣術履修者を中心に行われる大会よ。正式な騎士選抜試験ではないけれど、成績評価にも関わるし、首席候補の顔見せにもなるわ」
「首席候補」
アルトはその言葉を繰り返した。
首席。
学年で最も優秀な生徒。
剣術大会で評価されるということは、ただの遊びではない。
カイが一歩前へ出る。
「出る」
まだ掲示内容を全部読んでもいないのに、断言した。
リゼが淡々と言う。
「参加条件を確認してから判断してください」
「剣術大会だろ。出る」
「希望参加制か、推薦制か、授業成績による制限があるか不明です」
「出る」
「カイさん」
ミリアが呆れたように笑う。
「何も聞いていないわ」
「剣術大会って聞いた」
「それだけで十分なの?」
「十分だろ」
カイの迷いのなさに、アルトは思わず笑った。
その笑いにつられるように、左手首が布の下で少し温かくなる。
痛みはない。
声もない。
怖さの熱ではなかった。
アルトは自分で小さく確認する。
痛みなし。
熱、少し。
声なし。
感情は、少し楽しい。
リゼが視線だけで気づき、アルトへ目を向ける。
アルトは小さく頷いた。
大丈夫。
リゼもほんの少しだけ頷き返した。
四人は掲示板の方へ近づいた。
生徒たちはまだ集まっているが、カイが近づくと自然に少し隙間ができた。本人は気づいていないが、体格と熱量が前へ出すぎている。
リゼが小声で言う。
「圧が強いです」
「圧?」
「周囲が避けています」
「便利だな」
「目的外の効果です」
アルトは笑いそうになった。
掲示板の紙には、詳細が記されていた。
第一学年基礎剣術大会。
開催目的。
一年生における基礎剣術履修成果の確認。
安全術式下における模擬戦経験の付与。
首席候補選抜における参考評価。
参加資格。
一年生。
基礎剣術履修者。
希望参加制。
ただし、授業成績優秀者および教師推薦者は出場を求められる場合あり。
試合形式。
模擬剣使用。
急所保護術式あり。
過度な魔術補助は禁止。
魔剣術は基礎範囲に限り認可。
アルトは一行ずつ読んでいった。
試合、模擬剣、安全術式。
学園行事のはずなのに、紙面にはどこか戦場に似た言葉が並んでいる。
隣でカイはすでに参加申請の欄を探していた。
「希望参加制。出られるな」
「申請書は本日午後から配布です」
リゼが指摘する。
「午後か」
「今は出られません」
「気持ちはもう出てる」
「それは確認済みです」
ミリアが掲示の下部を見て、少し眉を上げた。
「首席候補評価対象、ね。今年はかなり注目されそう」
その言葉に、近くにいた男子生徒が振り返った。
「ああ。今年はラウル・ヴァレンシュタインがいるからな」
ダリオ・エルムだった。
赤茶色の髪を短く切った、剣術基礎の授業でよく目立つ生徒だ。カイとは何度か組んだことがあり、最近では声量訓練の件でも笑っていた。
ダリオは掲示板に肩を寄せるように立ち、カイを見てにやりと笑った。
「ロックハート、お前出るだろ?」
「出る」
「だと思った」
「お前も出るのか」
「出る。お前に負けたままじゃ気分悪いしな」
「負けた?」
カイが眉を寄せる。
「基礎剣術の時、お前が突っ込みすぎて先生に止められただろ。あれ、俺は勝ったと思ってる」
「勝ってねえ」
「じゃあ大会で決めようぜ」
「いいぞ」
二人の間に、学園の男子らしい単純な火花が散った。
ミリアが小さく笑う。
「楽しそうね」
「剣術大会ですから」
リゼが淡々と言った。
「競争心が発生するのは自然です」
ダリオはリゼを見る。
「グレイスさんは出ないの?」
問いは軽かった。
しかし、アルトの胸が少しだけ緊張した。
カイも、ミリアも、リゼを見る。
リゼはすぐに答えた。
「未定です」
「未定?」
「はい」
「グレイスさん、授業であんまり目立たないけど、たぶん強いよな」
ダリオの言葉に、周囲の生徒がちらりとリゼを見る。
リゼの表情は変わらない。
「基礎範囲内で履修しています」
「その言い方、強いやつのやつだろ」
ダリオは笑った。
悪意はない。
けれど、リゼの肩がほんの少しだけ硬くなるのを、アルトは見逃さなかった。
リゼは目立つべきではない。
彼女はそう言っていた。
戦争で活躍した英雄。
灰銀の戦乙女。
その正体を隠しながら、学園にいる。
剣術大会は、学園生活の大きな行事だ。
でも、リゼにとっては危険でもある。
強さを隠すか。
学園の生徒として参加するか。
その選択が、朝の掲示板の前に突然現れた。
アルトは左手首へ触れた。
熱はない。
でも、胸が少しざわつく。
リゼさんが戦うところを見たい。
第3章の終わりに、自分はそう言った。
それは本当だ。
友達として、リゼのことをもっと知りたい。
でも、そのせいで彼女が危険に近づくなら。
それは自分が言っていい願いなのだろうか。
アルトが黙っていると、ミリアがそっと声をかけた。
「アルトさん?」
「うん。大丈夫」
リゼが視線を向ける。
「痛みは」
「ない」
「熱は」
「ない。少し考えてただけ」
「内容は」
アルトはリゼを見る。
ここで言うべきか迷った。
でも、第3章で学んだ。
危険に関わることや、相手の意思を勝手に決めそうになることは、黙って抱えない。
「リゼさんが出るかどうか、僕が見たいって言ったことが重荷になったら嫌だと思った」
リゼは少し目を瞬いた。
カイが首を傾げる。
「何で重荷なんだ?」
「リゼさんは目立つべきじゃないかもしれない。でも、僕は見たいって思ったから」
リゼは少し黙った。
それから、静かに言う。
「アルトさんの発言だけで、私の判断は決まりません」
「うん」
「ただし、判断材料にはなります」
「材料」
「はい。友人が私のことを知りたいと思っている。その事実は、無視すべきではありません」
アルトの胸が少し温かくなる。
リゼは続けた。
「しかし、出場の可否は危険評価、正体露見リスク、護衛任務、本人意思を総合して判断します」
「本人意思も?」
「はい」
ミリアが微笑む。
「大事ね」
カイは腕を組みかけ、リゼに視線で止められてやめた。
「俺は出てほしいけどな」
「あなたの希望も判断材料です」
リゼが言う。
「お、入るのか」
「ただし比重は未定です」
「そこは大きくしろよ」
「検討します」
ダリオが二人のやり取りを見て笑った。
「グレイスさん、真面目だな」
「はい」
「そこは否定しないんだ」
「事実です」
その時、掲示板前のざわめきが少し変わった。
人垣の向こうから、一人の男子生徒が歩いてきた。
背が高く、姿勢が美しい。
濃い藍色の髪を後ろで軽く整え、学園の制服を隙なく着こなしている。歩き方に無駄がなく、周囲の生徒が自然に道を空けた。
彼が近づくと、数人が小声で名前を呼んだ。
「ラウルだ」
「ヴァレンシュタイン家の」
「今年の首席候補筆頭だろ」
ラウル・ヴァレンシュタイン。
名門騎士家の子息。
カイが小さく息を吐いた。
「あいつか」
「知ってるの?」
アルトが尋ねる。
「剣術基礎で見た。綺麗な剣使う」
カイがそう言うのは珍しい。
彼が素直に認めるほどの相手なのだろう。
ラウルは掲示板の前で足を止め、内容を一読した。
表情はほとんど変わらない。
しかし、その目には確かな戦意があった。
彼はカイに気づくと、軽く会釈した。
「ロックハート君。君も出るのか」
「出る」
「だろうね」
ラウルの声は落ち着いていた。
見下しているわけではない。
ただ、自分の中に揺るぎない基準がある人の声だった。
カイが笑う。
「当たったら勝つ」
「楽しみにしている」
ラウルはそう言ってから、リゼへ視線を向けた。
一瞬。
ほんの一瞬だった。
だが、アルトにはわかった。
ラウルの目が、リゼの立ち姿を測った。
肩の位置。
足の置き方。
重心。
手の位置。
剣を持っていない人間を、剣士として見た。
リゼもそれに気づいたはずだ。
だが、表情は変えなかった。
ラウルは穏やかに言う。
「君も出場するのかな、グレイスさん」
「未定です」
「そうか」
ラウルは一拍置いた。
「出るなら、楽しみにしている」
「なぜですか」
リゼが尋ねた。
ラウルは少しだけ目を細める。
「君は、立ち方が基礎剣術の生徒ではない」
空気が、わずかに止まった。
カイが眉を上げる。
ミリアの微笑みが、ほんの少しだけ薄くなる。
アルトの左手首が淡く熱を持った。
リゼは静かに答える。
「私は基礎剣術を履修しています」
「履修していることと、身についているものは別だ」
ラウルの声は礼儀正しい。
だからこそ、鋭かった。
「失礼だったなら謝る。ただ、興味がある」
「興味」
「強い剣士に」
リゼは黙った。
朝の掲示板前。
学園の生徒たちの前。
誰も灰銀の戦乙女とは言っていない。
けれど、ラウルはリゼの強さを見抜きかけている。
アルトは胸がざわついた。
自分はリゼの剣を見たい。
カイも戦いたがっている。
ラウルも興味を持った。
それは学園の行事としては自然なことかもしれない。
でも、リゼにとっては危険が増えている。
その時、別の声がした。
「朝からずいぶん賑やかね」
振り向くと、セレナ・アイゼンベルグが立っていた。
すらりとした体つきの女生徒で、銀に近い淡い灰色の髪を短く整えている。制服は規則通りだが、立っているだけで周囲との温度が少し違った。
冷静な目。
観察する目。
彼女は掲示板を一瞥し、ラウル、カイ、リゼの順に視線を移した。
最後に、アルトの左手首へほんの一瞬だけ目を向けた。
アルトは反射的に布の上から手首を押さえた。
痛みはない。
熱が少し上がる。
声はない。
リゼがすぐに気づき、アルトの左側へ半歩寄った。
セレナはそれ以上見なかった。
ただ、淡々と言う。
「今年の首席候補は騒がしくなりそうね」
ラウルが静かに返す。
「君も出るのだろう、アイゼンベルグさん」
「推薦が来るなら」
「来るだろう」
「あなたにもね」
「おそらく」
会話は穏やかだが、そこには確かに張り詰めたものがあった。
カイがアルトへ小声で言う。
「あの二人、強い」
「見ただけでわかるの?」
「何となく」
リゼが横から言った。
「おそらく正しいです」
「だろ」
セレナがその声を聞いて、わずかに口元を動かした。
「ロックハート君も出るのね」
「出る」
「わかりやすい返事」
「悪いか?」
「悪くないわ。大会にはそういう人も必要だもの」
カイは少し怪訝そうにしたが、深く考えなかったらしい。
その様子にダリオが笑った。
「今年、面白くなりそうだな」
周囲の生徒たちも同じことを感じているようだった。
剣術大会。
首席候補。
ラウル。
セレナ。
カイ。
リゼ。
学園全体が、少しずつ大会へ向けて熱を持ち始めている。
その熱の中心に、四人も巻き込まれつつあった。
だが、熱だけではなかった。
掲示板から少し離れた場所に、白い制服の生徒が二人立っていた。
生徒会の腕章。
その奥から、ユリウス・エインズワースとエレオノーラ・ヴィンスフェルトが歩いてくる。
ユリウスの顔は、剣術大会を楽しみにしているものではなかった。
エレオノーラも記録板を抱え、表情を引き締めている。
リゼが即座に反応した。
「王宮の件ですか」
ユリウスは周囲を確認した。
ラウルとセレナは、少し離れているが聞こえない距離ではない。
ユリウスは声を抑える。
「正式文書が届いた」
アルトの胸の奥が冷えた。
剣術大会の熱が、一瞬で遠ざかる。
「王宮追加監察官の派遣。到着は明後日午前予定。目的は、君の銀環反応の確認、学園保護体制の評価、王都移送の必要性検討」
王都移送。
その言葉に、左手首が強く光った。
布の下から淡い銀の光が漏れる。
アルトはすぐに手首を押さえた。
痛みはない。
熱は中。
声はない。
でも、周囲の生徒がこちらを見た。
リゼが自然にアルトの左側へ立ち、視線を遮る。
ミリアが柔らかな笑顔で周囲へ目を向けた。
「掲示板の前は混みますから、少し移動しましょう」
社交的な声。
だが、有無を言わせない。
カイもアルトの背側へ回った。
四人とユリウス、エレオノーラは、掲示板から少し離れた噴水脇へ移動した。
アルトは歩きながら、昨日作った言葉を思い出した。
本人の意思確認なしの移送には同意しない。
学園に残りたい。
保護の名のもとに本人の意思が扱われないことを拒否する。
怖い。
でも、言葉がある。
リゼが小声で確認する。
「痛みは」
「なし」
「熱は」
「中。少し下がってきた」
「声は」
「なし」
「現在地は」
アルトは息を吸った。
「学園中庭。朝。噴水脇。リゼさん、ミリアさん、カイ、ユリウス先輩、エレオノーラ先輩がいる。王宮から正式文書が来た」
「感情は」
ミリアが聞く。
「怖い。怒ってる。でも、昨日よりは言葉がある」
ユリウスはアルトを見て、少しだけ表情を和らげた。
「学園長、ロウ先生、クラウス卿は現時点で移送反対をまとめている。君の意思表明文も王宮への返答に添えられる」
「監察官は、僕と話しますか」
「おそらく話すことになる」
「なら、僕も自分で言います」
アルトは言った。
声は少し震えていた。
だが、言えた。
「学園に残りたいって」
エレオノーラが記録板を開く。
「本人が監察官へ意思表示する意向あり。記録してよろしいですか」
「はい」
「夢、出生名、白鐘礼拝堂関連は記録しません」
「お願いします」
リゼはユリウスを見る。
「監察官の氏名は」
「オルド・ハイマン。王宮監察局所属。表向きは穏健派とされているが、保護体制評価ではかなり厳格だ」
「移送推進派ですか」
「明確には不明。ただし、“王宮管理下の方が安全”という立場に傾きやすい人物だ」
カイが低く言った。
「また本人抜きで安全とか言うやつか」
「その可能性がある」
ユリウスは否定しなかった。
ミリアは静かに言う。
「剣術大会の時期に合わせて来るのは偶然でしょうか」
ユリウスは少し黙った。
「偶然ではないかもしれない」
リゼがすぐに整理する。
「大会期間中は学園外部者の出入り、教師の移動、生徒の注目が増えます。監察官の行動も紛れやすい。さらに、私やカイさんが大会に関われば護衛体制にも影響が出ます」
カイが眉を寄せる。
「俺が出るのも影響すんのか」
「はい。あなたは現在、アルトさん周辺の非公式防衛要員として機能しています」
「何だそれ」
「要するに、友達として近くにいる戦力です」
「最初からそう言え」
「今言いました」
アルトは少しだけ笑った。
怖さは消えていない。
王宮監察官。
移送。
リゼの出場問題。
剣術大会。
全部が同じ朝に重なっている。
それでも、カイとリゼのやり取りで少し呼吸が戻る。
ミリアがアルトへ言った。
「今日はまず、剣術大会の話と王宮の話を分けましょう」
「分ける?」
「ええ。全部を一つにすると、とても大きな不安になるわ。王宮監察官は王宮監察官。剣術大会は剣術大会。ただし、交わる部分は注意する」
リゼが頷く。
「分類は有効です」
アルトは頷いた。
「うん。そうする」
朝の鐘が鳴った。
授業開始を告げる鐘。
アルトの左手首がまた光る。
王宮の話を聞いた後だからか、いつもより少し強い。
「痛みなし。熱、中。声なし」
リゼがすぐに尋ねる。
「現在地は」
「学園中庭。朝。これから授業。王宮のことは怖い。でも、僕は学園にいる」
「良好です」
リゼは言った。
ユリウスは短く頷く。
「詳しい打ち合わせは放課後に。君は授業を受けていい」
アルトは一瞬、ユリウスを見る。
いい、ではなく。
自分で決める。
ユリウスもすぐに気づいたようだった。
「いや、訂正する。授業を受けるかどうか、君が決めてくれ」
アルトは少し驚き、それから頷いた。
「受けます。普通にしていたいので」
「わかった」
エレオノーラが静かに記録する。
ミリアは微笑んだ。
「普通に授業を受けることも、対抗策ね」
「はい」
リゼが答える。
「孤立化と移送圧力への対抗として、通常生活の維持は有効です」
カイが言う。
「つまり授業だな」
「はい」
「王国史、眠いけどな」
「ロウ先生に聞こえます」
「今はいないだろ」
その瞬間、遠くからロウ教師がこちらを見ていた。
カイは固まった。
アルトは笑いをこらえた。
リゼは真面目に言った。
「聞こえていなくても、見られていました」
「何でいつもいるんだよ」
ミリアが笑った。
その笑いに、朝の重さが少しだけ薄まった。
午前の王国史の授業は、奇妙なほど今の状況に重なっていた。
ロウ教師は黒板に「保護と統治」と書いた。
「王国史において、保護という言葉は多く使われる。王が民を保護する。貴族が領地を保護する。学園が未成年を保護する。しかし、保護はしばしば管理と隣り合う」
アルトはノートに書く。
保護は管理と隣り合う。
左手首が淡く光った。
痛みはない。
熱は少し。
声はない。
リゼが視線で確認する。
アルトは小さく頷いた。
ロウ教師は続ける。
「守る側が正しいと信じている時ほど、守られる側の意思は見落とされる。歴史は、その失敗の繰り返しでもある」
昨日、自分たちが話したことと同じだった。
友達を守りたい。
でも、本人の意思を聞かずに遠ざけるなら、それは王宮と同じ形になるかもしれない。
アルトはペンを握る。
王宮監察官が来る。
相手はきっと、保護と言うだろう。
安全と言うだろう。
王宮管理下が望ましいと言うかもしれない。
その時、自分は言わなければならない。
保護の名のもとに、本人の意思が扱われないことを拒否します。
ノートの端に、その文を書いた。
文字は少し震えていた。
でも、書けた。
昼休みになると、四人は中庭のいつもの席へ向かった。
今日も完全に隠れはしない。
だが、中央寄りすぎる場所でもない。
普通の席。
ミリアが選んだ。
「今日は、情報の整理をしながら食べましょう。空腹で王宮と剣術大会を同時に考えると、倒れるわ」
「倒れるのは困ります」
リゼが即座に同意する。
カイは売店へ行く前に宣言した。
「王宮に負けない用と剣術大会用、両方いるな」
「焼き菓子の用途ですか」
アルトが尋ねる。
「そうだ」
ミリアが少し笑った。
「今日は一人一つまで」
「二つの用途なのに?」
「一つで両方兼用」
「なるほど」
カイは納得して売店へ向かった。
昼食中、剣術大会の話題が戻ってきた。
カイは参加する。
それはもう確定のようだった。
ダリオも出る。
ラウルとセレナは推薦されるだろう。
問題はリゼだった。
「リゼさんは、どうするの?」
アルトは尋ねた。
聞いてから、すぐに補足する。
「今すぐ決めなくていいです。ただ、聞いてもいいですか」
リゼはスープの杯を置いた。
「未定です」
「目立つのが危ないから?」
「はい」
即答だった。
「王宮監察官が来る時期と重なるため、私の実力露見は望ましくありません」
カイがパンを頬張りながら言う。
「でも推薦されたら?」
「推薦内容を確認してから判断します」
「出たら戦えるぞ」
「それはあなたの利点です」
「お前の利点は?」
リゼは一瞬黙った。
アルトはその沈黙に気づいた。
利点。
リゼにとって、出場する利点。
カイと戦えること。
学園の生徒として評価を受けること。
自分の剣を、戦場ではなく学園の中で扱うこと。
でも、リゼはそれを利点としてすぐに言葉にできない。
ミリアが静かに言う。
「リゼさん」
「はい」
「危険評価はもちろん必要よ。でも、出るか出ないかを決める時に、自分の気持ちも一緒に見てね」
「自分の気持ち」
「ええ。出たいか。出たくないか。怖いか。嫌か。少し興味があるのか」
「興味」
リゼはその言葉を繰り返す。
アルトはそっと言った。
「僕は、リゼさんがどうしたいのか知りたいです」
リゼがこちらを見る。
「前に、リゼさんが僕に言ってくれたみたいに。僕抜きで決めないって。だから、リゼさんのことも、リゼさん抜きで決めたくない」
カイが頷く。
「俺は出てほしい」
「それは知っています」
リゼが言う。
「でも決めるのはお前だろ」
カイは少し照れくさそうに言った。
ミリアが微笑む。
「成長したわね」
「何がだよ」
「今のはとてもよかったわ」
カイは少しだけ顔を逸らした。
リゼは三人を見た。
そして、短く言う。
「検討します」
カイが笑う。
「出る可能性あるな」
「検討です」
「それは第3章からの流れで、かなり前向きだ」
「分析が雑です」
アルトは笑った。
昼休みの終わり頃、ノエルが課題用紙を持って近づいてきた。
「アルト君、今日の課題会だけど」
アルトは少し迷った。
王宮の件もある。
剣術大会の話もある。
でも、普通を続けることも大事だ。
「短い時間なら行ける」
ノエルはほっとしたように笑った。
「ありがとう。見出しでまた悩んでて」
ティナが後ろから顔を出す。
「ノエル、見出しに弱すぎるんだよ」
「構成は大事なんだ」
リリアも小さく頷いた。
「でも、長くなる」
その普通の会話に、アルトは少し救われた。
「じゃあ、放課後二十分だけ」
「うん」
リゼはそのやり取りを見ていた。
王宮監察官が来る。
剣術大会も始まる。
リゼの出場問題もある。
それでも、アルトは課題会へ行く。
普通の学園生活を続ける。
それは、第3章で積み重ねた成果だった。
放課後、アルトは予定通り課題会に二十分だけ参加した。
リゼは廊下。
ミリアは少し離れた閲覧席。
カイは階段近くで剣術大会の申請書を手にしていた。
カイは参加申請欄に自分の名前を書いた後、何度も紙を見ていた。
まるでそれだけで試合が始まったかのようだった。
アルトは課題会を終えると、リゼたちの元へ戻った。
「戻りました」
「確認しました」
リゼがいつものように言う。
「体調は」
「疲れた。でも大丈夫。痛みなし、熱少し、声なし。課題会は普通だった」
「良好です」
カイが申請書を掲げた。
「出した」
「早いね」
「午後から配布だったからな」
「午後すぐ出したの?」
「当然だろ」
ミリアが笑う。
「カイさんらしいわ」
その時、掲示板前で少し騒ぎが起きた。
新しい紙が貼られていた。
生徒たちが集まり、名前を見ている。
カイが即座に反応する。
「何だ?」
四人が近づくと、そこには「教師推薦候補者一覧」と書かれていた。
まだ正式出場者ではない。
だが、教師推薦を検討している生徒名が並んでいる。
ラウル・ヴァレンシュタイン。
セレナ・アイゼンベルグ。
ダリオ・エルム。
カイ・ロックハート。
そして。
リゼ・グレイス。
その名前を見た瞬間、アルトの胸が強く鳴った。
周囲の生徒たちがざわめく。
「グレイスさん?」
「あの静かな子?」
「剣術、強いの?」
「教師推薦ってことは、相当じゃない?」
リゼの表情は変わらない。
しかし、アルトにはわかった。
彼女の警戒が一段上がった。
カイは少しだけ嬉しそうに言った。
「来たな」
「正式決定ではありません」
リゼが答える。
「でも候補だろ」
「はい」
「出ろよ」
「検討します」
ミリアが掲示を見て、静かに息を吐いた。
「思ったより早かったわね」
「はい」
リゼは掲示板を見上げる。
自分の名前。
学園の中で貼り出された名前。
灰銀の戦乙女ではない。
リゼ・グレイス。
一年生の基礎剣術大会、教師推薦候補者。
それは普通の学園行事のようでいて、彼女にとってはとても重いものに見えた。
アルトは隣で言った。
「リゼさん」
「はい」
「僕は、出てほしいとも、出ないでほしいとも、まだ言いません」
リゼがこちらを見る。
「でも、リゼさんが決めるまで、ちゃんと待ちます」
リゼは少しだけ目を伏せた。
「ありがとうございます」
カイが横から言う。
「俺は出てほしいって言うけどな」
「知っています」
ミリアが笑った。
「それぞれの待ち方ね」
夕鐘が鳴った。
掲示板前に集まっていた生徒たちの声が、鐘の音に少しだけ静まる。
アルトの左手首が淡く光った。
今日は何度も反応した。
王宮。
移送。
剣術大会。
リゼの名前。
たくさんのことが一日に重なった。
でも、今は倒れそうではなかった。
「痛みなし。熱、少し。声なし」
リゼが尋ねる。
「現在地は」
「学園中庭。夕方。掲示板前。リゼさん、ミリアさん、カイといる」
ミリアが聞く。
「感情は」
アルトは掲示板を見上げた。
自分の名前はそこにない。
でも、友達の名前がある。
王宮の文書にも、自分の名前がある。
学園と王宮。
日常と政治。
剣術大会と銀環。
全部が重なっていく。
「怖い。でも、少し楽しみもある。カイが出ること。リゼさんがどうするのか。僕が、応援できるかもしれないこと」
リゼは静かに頷いた。
「良好です」
カイが拳を握った。
「俺は勝つぞ」
「まず一回戦を確認してください」
リゼが言う。
「誰でも勝つ」
「過信は危険です」
「自信だ」
「調整が必要です」
ミリアが微笑む。
「大会前から課題が多いわね」
アルトは笑った。
その笑いの中で、左手首の光が少しだけ柔らかくなった。
夜。
男子寮の自室で、アルトは紙片を書いた。
今日は剣術大会の告知があった。
カイは出ると即答した。
ダリオ君も出る。
ラウル・ヴァレンシュタインという首席候補がいた。
綺麗な剣を使うらしい。
セレナ・アイゼンベルグという人もいた。
左手首を見られた気がして、少し怖かった。
リゼさんにも出るか聞かれた。
リゼさんは未定と言った。
目立つべきではないから。
でも、教師推薦候補者一覧にリゼさんの名前が載った。
リゼ・グレイス。
掲示板に名前があった。
僕は、リゼさんがどうしたいのかを待つと言った。
カイは出てほしいと言った。
ミリアさんは、それぞれの待ち方と言った。
王宮から正式文書も届いた。
追加監察官が明後日来る。
王都移送の必要性検討。
怖かった。
でも、僕は学園に残りたいと言うつもりだ。
今日も課題会に二十分行けた。
普通のこともできた。
夕鐘で光った。
痛みなし。
熱、少し。
声なし。
怖い。
でも、少し楽しみもある。
アルトはペンを止めた。
今日の紙片は、いつもより内容が多い。
それだけ、一日の中にたくさんのものが詰め込まれていた。
王宮監察官。
剣術大会。
首席候補。
リゼの名前。
カイの出場。
自分の意思。
どれも、これからのことだ。
まだ何も終わっていない。
むしろ始まったばかりだ。
アルトは最後に、一行を書いた。
学園には、怖いことだけじゃなくて、応援したいこともある。
紙片を折り、引き出しへしまう。
窓の外には夜の鐘楼が立っている。
白鐘礼拝堂の夢は、今夜も来るかもしれない。
王宮監察官は明後日来る。
剣術大会の申請は始まった。
リゼはまだ決めていない。
カイはもう走り出している。
ミリアはきっと、全部を見ながら言葉を整えてくれる。
アルトはベッドに横になり、左手首を胸の上に置いた。
「現在地は、男子寮の自室。夜。僕はアルト。明日も学園にいる。怖いけど、応援したいことがある」
銀環が淡く光った。
痛みはなかった。
その光は、遠くの扉ではなく、明日の中庭へ続く小さな灯のように、静かに手首の奥で揺れていた。




