第3章 第11話:白鐘礼拝堂の地下
朝の鐘が鳴る前、アルト・レインフォードは夢の続きを思い出そうとしていた。
男子寮の自室。
窓の外はまだ薄い青に沈んでいる。夜と朝の境目のような空だった。遠くの鐘楼は静かで、校舎の屋根も、木々も、まだ完全には目覚めていない。
机の上には昨夜書いた紙片が置かれている。
夢の中でも、僕はアルトと答えられた。
その一文を、アルトは何度も読み返した。
白鐘礼拝堂。
ひび割れた鐘。
銀の床。
奥の扉。
母かもしれない女の人の影。
エルディアと呼ばれたこと。
そして、自分で「今はアルト」と答えたこと。
目覚めてからも、その感覚はまだ胸の奥に残っていた。
怖い。
でも、以前のようにただ引きずられる怖さではない。
あの夢の中で、自分は立ち止まれた。
名前を選べた。
戻ってこられた。
それは確かに、自分の中で何かが変わったという証拠だった。
けれど同時に、昨日クラウスが話した言葉も胸に残っている。
白鐘礼拝堂の地下には、古い王権封印の小規模な環が存在していた。
学園の銀環室が中心なら、白鐘礼拝堂は分枝。
血統反応を確認、抑制、あるいは隠蔽するための場所。
出生直後から、アルトはそこに反応していた。
生まれた時から。
その言葉は、静かに重い。
鍵という呼び方は、周囲が与えた役割。
クラウスはそう言った。
自分の全てではない。
それもわかる。
でも、自分が物心つく前から何かに反応し、記録され、監察され、名前を変えられ、王都へ運ばれたという事実は消えない。
自分の人生は、自分の知らない場所で始まっていた。
白鐘礼拝堂の地下。
そこに、何があったのか。
自分の母は、そこにいたのか。
なぜ自分をアルトと呼んだのか。
なぜ、エルディアという正式な名前が必要だったのか。
知りたい。
怖いのに、知りたい。
アルトは左手首に触れた。
布の下にある銀環痕は、今朝も少し温かい。
痛みはない。
声もない。
ただ、夢の余韻のような熱が残っている。
朝の鐘が鳴った。
学園の鐘楼から、澄んだ音が広がる。
左手首が淡く光った。
アルトは目を閉じなかった。
窓の外の鐘楼を見ながら、自分で言う。
「痛みなし。熱、少し。声なし」
息を吸う。
「現在地は、男子寮の自室。朝。ここは王立アークレイン学園。白鐘礼拝堂じゃない」
少し迷ってから、もう一言足した。
「でも、いつか白鐘礼拝堂のことを知りたい」
銀環の光が、ほんの少しだけ強まった。
痛みはない。
それは拒絶ではなく、どこか遠くの扉が反応したような光だった。
中庭では、リゼたちがいつもの場所で待っていた。
リゼ・グレイスは朝の光を受けて、灰銀の髪を淡く輝かせている。制服のリボンは整っているが、表情はやや硬い。昨日の夢とクラウスの話を受けて、彼女も考えていたのだろう。
ミリア・ファルネーゼは穏やかな顔をしている。けれど、目だけはアルトの顔色を丁寧に見ていた。
カイ・ロックハートは腕を組みかけて、途中でやめたらしい。両手を所在なさげに腰へ当てている。
アルトは三人に近づいた。
「おはよう」
「おはようございます」
リゼが返す。
一拍。
「体調は」
「眠れた。夢は見なかったと思う。昨日の夢のことは、まだよく覚えてる。朝鐘で少し光った。痛みなし、熱少し、声なし。朝食はパン一つとスープ半分。気分は……知りたいことが増えた」
リゼの目が少し動いた。
「白鐘礼拝堂のことですか」
「うん」
ミリアが静かに言った。
「昨日は、途中で止められたものね」
「止めたかったから止めた。でも、聞きたくないわけじゃない」
アルトは左手首に触れた。
「怖いけど、知りたい」
カイが短く言う。
「なら聞こう」
単純な答えだった。
でも、アルトはその単純さに少し安心した。
リゼはすぐに確認する。
「本日、クラウス卿へ追加説明を求めますか」
「うん。白鐘礼拝堂の地下構造について。母のことは……まだ少しだけ」
「範囲を決めましょう」
ミリアが言う。
「朝のうちに全部決めなくていいわ。昼までに、聞きたいことと、今日はまだ聞かないことを分けましょう」
「うん」
リゼは頷いた。
「質問リストを作成します。ただし、本人の希望を最優先」
カイが言う。
「質問リストって、また作戦みたいだな」
「今回は有効です」
アルトは少し笑った。
「僕もそう思う。今日はリストがほしい」
朝の中庭の空気は澄んでいた。
噂の気配はまだある。
だが、ここ数日で少しずつ形が変わっている。
アルトは視線を感じても、以前ほどすぐに胸が冷えなくなっていた。
リゼたちがいる。
ティナやノエルも、普通に声をかけてくれるようになった。
完全に怖くなくなったわけではない。
けれど、噂だけで自分の居場所が全部奪われるわけではないと、少しずつわかってきている。
四人は第一校舎へ向かった。
午前の授業中、リゼは普段の授業ノートとは別に、小さな紙へ質問項目を書いていた。
アルトは休み時間ごとにそれを確認した。
白鐘礼拝堂地下の構造。
学園銀環室との関係。
分枝とは何か。
ひび割れた鐘の役割。
奥の扉の意味。
出生直後の反応記録。
母が関わっていた範囲。
今日聞くか保留。
この最後の欄が、アルトには重要だった。
全部を聞く必要はない。
全部を今日受け止める必要もない。
知ることを自分で選ぶ。
止めることも自分で選ぶ。
それが、少しずつできるようになってきた。
王国史の授業中、ロウ教師が古い礼拝施設について触れた。
「王国各地には、古い王権儀礼に由来する礼拝堂が点在していた。現在は宗教施設としての意味を失ったものも多いが、かつては血統、誓約、封印に関わる役割を持っていたとされる」
血統。
誓約。
封印。
その単語に、アルトの左手首が微かに光る。
痛みはない。
熱は少し。
声はない。
リゼが視線だけで確認する。
アルトは小さく頷いた。
ロウ教師は、まるでこちらの反応を知っているかのように一拍置いた。
そして、授業を続ける。
「ただし、現代においてそれらの施設の多くは記録が失われ、正確な機能は不明である。失われた記録を、後世の人間が都合よく解釈することも少なくない」
アルトはその言葉を書き留めた。
失われた記録。
都合よく解釈。
白鐘紙工房の焼けた記録も、誰かに都合よく扱われてきたのだろうか。
自分の名前も。
自分の出生も。
アルトはペンを握る手に力が入るのを感じた。
その時、ミリアが隣の席から小さく紙を滑らせてきた。
呼吸。
ただそれだけ書いてあった。
アルトは息を吸い、吐いた。
左手首の熱が少し下がった。
昼休み。
四人は今日は中庭ではなく、資料室へ向かった。
昼食は先に軽く済ませた。
カイは「聞く前用」と言って焼き菓子を配ったが、ミリアに「食べすぎない」と釘を刺された。
資料室には、ロウ教師がいた。
そして、クラウス・ヴァイゼルも。
昨日の小会議室より狭く、本と紙の匂いが濃い部屋だった。
壁際の棚には古い地図や封印札、壊れた術式具が並んでいる。窓から入る光は柔らかく、机の上に白鐘礼拝堂周辺の古地図が広げられていた。
アルトはその地図を見た瞬間、胸が少し強く鳴った。
見覚えはない。
けれど、夢の白い石畳と、地図の小さな線が重なる。
クラウスは立ち上がった。
「アルト君」
「こんにちは」
アルトは座る前に言った。
「今日は、聞く範囲を決めてきました」
クラウスの目がわずかに揺れた。
「聞かせてくれ」
リゼが質問リストを机に置く。
「本日の確認範囲。白鐘礼拝堂地下構造。学園銀環室との関係。ひび割れた鐘の役割。奥の扉の可能性。出生直後の反応については概要のみ。母親に関する詳細は、本人が求めた場合のみ一問まで」
クラウスはリストを読み、頷いた。
「わかった」
「途中停止は本人の一言で即時」
「承知している」
ロウ教師も頷く。
「必要なら私が止める」
アルトは席に座った。
左にリゼ。
右にミリア。
カイは少し後ろ。
いつもの配置。
ただし今日は、クラウスと向き合うための配置でもあった。
アルトは左手首へ触れる。
「痛みなし。熱、少し。声なし。感情は、怖い。でも、聞く」
リゼが頷く。
「確認しました」
クラウスは古地図の上に指を置いた。
「ここが白鐘礼拝堂だ」
地図の北東部、小さな丘の上に礼拝堂の印がある。
その周囲には工房、倉庫、水路、細い道、避難館の文字。
白鐘紙工房。
白鐘礼拝堂。
領主家の避難館。
アルトは地図を見つめた。
「ここで、僕は生まれたんですか」
「正確には、礼拝堂に隣接する避難館だ」
クラウスは避難館の位置を示す。
「ここで君は生まれた。出生記録は白鐘紙工房で作成された」
「そして、地下で反応した」
「そうだ」
クラウスは礼拝堂の印を指で軽く叩いた。
「白鐘礼拝堂の地下には、古い環状術式があった。王立学園の銀環室のような大規模施設ではない。だが、術式の系統は同じだ」
ロウ教師が補足する。
「銀環室は中心、白鐘礼拝堂は分枝。そう考えるのが現時点では妥当だ」
アルトは問う。
「分枝って、何のためにあるんですか」
クラウスは少し考えてから答えた。
「中心の封印に直接触れず、遠隔地で血統反応を測るため。あるいは、反応の強い者を一時的に落ち着かせるため。さらに、記録上は“隠す”ためともある」
「隠す」
「王宮に知られたくない血統反応を、礼拝堂側で受け止め、中心へ伝わるのを弱める」
アルトの左手首が熱くなる。
「僕を隠すための場所だったんですか」
クラウスはすぐには答えなかった。
アルトは待つ。
自分の問いを、途中で引っ込めなかった。
「可能性は高い」
クラウスは言った。
「君の母親とレインフォード家は、君が生まれた時点で、王宮に全てを知られることを避けようとしていた」
「それは、僕を守るためですか」
「守るためでもあり、利用されないためでもある」
「僕に聞かずに」
思わず出た言葉だった。
生まれた時の話なのだから、聞けるはずもない。
それでも、口から出た。
クラウスはそれを笑わなかった。
「そうだ。君に聞かずに、多くのことが決められた」
アルトは唇を結んだ。
怒りではない。
いや、少し怒りはある。
でも、それだけではない。
自分を守ろうとした人たちがいた。
自分を隠そうとした人たちがいた。
自分を利用しようとした人たちもいた。
その全部が、自分の知らないところで動いていた。
「続けてください」
アルトは言った。
クラウスは頷く。
「地下への入口は、礼拝堂の祭壇裏にあった。表向きは古い納骨堂への通路とされていたが、実際には環状の小広間へ続いていた」
クラウスは別の紙を広げた。
それは地下構造の簡略図だった。
中央に円形の部屋。
周囲に細い通路。
奥に小さな扉。
その手前に、鐘の印。
アルトは息を呑んだ。
「夢と似ています」
リゼが即座に問う。
「どの部分が」
「円形の床。銀の光が流れていたところ。それと、奥の扉。鐘の位置」
クラウスの表情が険しくなる。
「君が見た夢は、旧記録とかなり一致している」
「旧記録には、何と?」
リゼが問う。
クラウスは図の鐘の印を指した。
「ひび割れた鐘。正式名称は不明だが、監察班の古い記録には“封音鐘”とある」
「音を封じる鐘?」
ミリアが尋ねる。
「おそらく。王権術式において、鐘は呼び出しと封印の両方に使われる。鳴らすことで開き、鳴らさないことで閉じる。白鐘礼拝堂の鐘は、強すぎる血統反応を外へ漏らさないための装置だった可能性がある」
アルトは夢の鐘を思い出す。
ひび割れていても鳴っていた。
鳴ってはいけないものが、鳴っている。
そんな感じがした。
「夢では、鐘が鳴っていました」
「ひび割れていたからだろう」
ロウ教師が低く言う。
「封じるための鐘が破損している。だから、逆に呼び声を漏らしている可能性がある」
「つまり、僕を呼んでいる?」
アルトが尋ねると、部屋が少し静かになった。
ロウ教師は慎重に答える。
「君だけを、とは限らない。だが、君の銀環反応が白鐘礼拝堂地下と共鳴している可能性は高い」
「学園の銀環室とも?」
「そうだ」
リゼが問いを重ねる。
「学園銀環室、白鐘礼拝堂地下、アルトさんの銀環痕。三者が連動していると?」
ロウ教師は頷いた。
「可能性は高い。中心、分枝、鍵。そういう構造に見える」
鍵。
その言葉に、アルトの手首が強く光る。
リゼがすぐに確認する。
「痛みは」
「なし」
「熱は」
「中」
「声は」
「なし」
「現在地は」
「資料室。昼。リゼさん、ミリアさん、カイ、ロウ先生、クラウスさんがいる」
「感情は」
アルトは少し迷った。
「嫌だ。鍵って言葉は、まだ嫌だ」
クラウスが静かに言った。
「なら、使い方を改める」
アルトはクラウスを見る。
「え?」
「君が嫌だと言った。なら、この場では極力使わない」
アルトは少し驚いた。
ただそれだけのこと。
でも、以前のクラウスなら、必要な用語だからと言って続けたかもしれない。
リゼも少しだけ目を細めている。
記録する価値がある、という顔だった。
「ありがとうございます」
アルトは小さく言った。
クラウスは目を伏せた。
「当然の配慮を、私は長く欠いていた」
その言葉に、アルトはすぐには返せなかった。
許すかどうかではない。
ただ、今は聞く。
そう決めている。
「奥の扉は何ですか」
アルトは問う。
クラウスは図の奥を示した。
「白鐘礼拝堂地下の最奥には、封鎖扉があった。監察班の記録では“血統反応者以外開かず”とある」
「僕が夢で見た扉」
「可能性が高い」
「その向こうには何が?」
クラウスは沈黙した。
アルトの左手首が少し熱くなる。
リゼがクラウスを見る。
「回答可能範囲で」
クラウスは重く息を吐いた。
「正確には不明だ。私も実際に開いたところは見ていない。記録上は、王権術式の記憶層、あるいは血統記録の保管層とされている」
「記憶層」
ミリアが繰り返す。
「人の記憶ですか」
「人だけではない。血統、誓約、封印、儀礼。そうしたものの残響を術式として蓄積する場所だと考えられていた」
残響。
またその言葉。
母の残響。
アルトは少し息が浅くなる。
「僕の母の残響も、そこにあるかもしれない?」
クラウスは静かに答えた。
「可能性はある」
リゼが即座に問う。
「続けられますか」
アルトは目を閉じた。
胸が痛い。
でも、痛いだけではない。
知りたい。
あの影が誰なのか。
アルトと呼んだのか。
何を伝えようとしているのか。
「続けられる。でも、母の名前はまだ聞かない」
「了解しました」
リゼが記録する。
クラウスはそれ以上踏み込まなかった。
代わりに、地下構造の説明へ戻る。
「白鐘礼拝堂地下の環は、君が王都へ移送された後、封鎖された。公式には、礼拝堂周辺の火災で地下部も損傷したことになっている」
「実際は?」
アルトが聞く。
「完全には焼けていない」
クラウスは言った。
部屋の空気が変わる。
リゼの目が鋭くなる。
「旧領は全面焼失ではなかった。白鐘紙工房、北倉庫、避難館の一部は焼けた。礼拝堂本体も損傷した。だが、地下の環状施設は一部残った可能性がある」
アルトの胸が強く鳴った。
「まだ、あるかもしれないんですか」
「あるかもしれない」
「白鐘礼拝堂も?」
「地上部は損傷しているはずだが、完全崩落の記録はない」
アルトは地図を見た。
そこに印がある。
白鐘礼拝堂。
自分が生まれた避難館。
白鐘紙工房。
焼けたはずの場所。
消えたはずの場所。
でも、完全には消えていないかもしれない。
「行きたい」
言葉が、自然に口から出た。
リゼがアルトを見る。
ミリアも。
カイも。
クラウスの表情が硬くなる。
「今すぐは無理だ」
クラウスは言った。
「危険が大きすぎる。旧領周辺は今も監視が必要な区域だ。王宮内の派閥、王の影側、旧王権派、複数の勢力が関心を持つ」
「わかっています」
アルトは言った。
声は震えていた。
でも、止まらなかった。
「今すぐ行くとは言っていません。でも、いつか行きたい。白鐘礼拝堂を、自分の目で見たい」
左手首が光る。
強いが、痛くない。
「僕が生まれた場所を知りたい。母がいたかもしれない場所を知りたい。僕を隠そうとした場所を知りたい」
言っているうちに、胸が熱くなった。
「怖いです。でも、ずっと王宮の記録や誰かの説明だけで知るのは嫌です」
部屋は静かだった。
リゼは少しの間黙っていた。
やがて、静かに言う。
「本人意思として記録します」
アルトはリゼを見る。
「白鐘礼拝堂への将来的訪問希望。現時点で即時実行不可。ただし、本人が故郷を知る権利に関わる重要事項」
ミリアが頷いた。
「ええ。これは大事にしましょう」
カイが言った。
「行く時は、俺たちも行く」
あまりにも自然な言葉だった。
アルトは息を呑む。
「危ないよ」
「だろうな」
「それでも?」
「お前が行きたいんだろ」
カイはまっすぐ言った。
「なら、行く時は一人で行かせねえ」
ミリアも微笑む。
「もちろん、準備をしてからね」
リゼは少しだけ視線を伏せた。
「私は、危険評価を行います。現時点では反対です」
アルトは少しだけ胸が沈みかけた。
だが、リゼは続けた。
「ただし、将来的に安全条件が整った場合、同行します」
アルトは顔を上げた。
「同行?」
「はい。あなたが故郷を知ることを、完全に止めるべきではないと判断します」
リゼの声は静かだった。
「私は、あなたの世界を狭める者であってはならないので」
その言葉に、アルトは胸の奥が温かくなるのを感じた。
第3章に入ってから、何度も繰り返してきたこと。
守ること。
狭めること。
広げること。
今日、それは故郷にまで届いた。
クラウスは四人を見ていた。
長く、静かに。
そして言った。
「君たちは、本当に彼を外へ連れ出すつもりなのだな」
「外へ連れ出すのではありません」
リゼが答えた。
「アルトさんが行くなら、同行します」
クラウスは目を閉じた。
痛みをこらえるような表情。
「昔、それができていればよかった」
誰もすぐには答えなかった。
クラウスは地図を丁寧に畳んだ。
「今日、話すべきことはここまでにしよう」
「はい」
アルトは頷いた。
左手首の熱はまだ残っている。
けれど、嫌な熱ではなかった。
怖い。
悲しい。
知りたい。
行きたい。
いくつもの感情が混ざっている。
リゼが確認する。
「痛みは」
「なし」
「熱は」
「中から少し下がった」
「声は」
「なし」
「現在地は」
「資料室。昼。みんながいる」
「感情は」
アルトは少し考えた。
「怖い。知りたい。いつか行きたい」
「確認しました」
夕方、四人は噴水横のベンチへ戻った。
空は少し赤くなり始めている。
中庭にはいつものように生徒たちの声がある。
噂の気配はまだ完全には消えていないが、今日はそれよりも白鐘礼拝堂の地図が頭から離れなかった。
アルトはベンチに座り、空を見上げた。
「白鐘礼拝堂、まだあるかもしれないんだね」
ミリアが隣で頷く。
「ええ」
「怖いけど、少し嬉しい」
「なくなったと思っていたものが、残っているかもしれないから?」
「うん」
カイが焼き菓子を差し出す。
「いつか行く用」
アルトは思わず笑った。
「それ、今食べるの?」
「今決めたからな」
「決定用と似てる」
「近い」
リゼが真面目に言った。
「将来的訪問希望確認用」
「長いな」
カイが言う。
ミリアが笑った。
アルトも笑った。
笑いながら、左手首が淡く光る。
夕鐘が鳴った。
鐘の音が中庭に広がる。
今日は、その音が白鐘礼拝堂のひび割れた鐘と少し重なった。
けれど、アルトは引かれなかった。
自分で言う。
「痛みなし。熱、少し。声なし」
リゼが尋ねる。
「現在地は」
「学園中庭。夕方。噴水横。リゼさん、ミリアさん、カイといる」
ミリアが聞く。
「感情は」
アルトは目を閉じた。
「怖い。嬉しい。寂しい。あと、いつか行きたい」
「良好です」
リゼは言った。
カイが頷く。
「行く時は、ちゃんと飯持っていこうな」
「遠足じゃないよ」
アルトが笑う。
「でも、必要だろ」
ミリアが言う。
「準備物としては必要ね」
リゼも頷く。
「長距離移動時の携行食は必須です」
「ほらな」
カイは得意げだった。
アルトは三人を見た。
自分が生まれた場所。
自分が隠された場所。
母がいたかもしれない場所。
そこへ行きたいと言った時、三人は危険を無視しなかった。
でも、行きたい気持ちも消さなかった。
それが嬉しかった。
夜。
男子寮の自室で、アルトは紙片を書いた。
今日は白鐘礼拝堂の地下について聞いた。
地下には小さな環があった。
学園の銀環室の分枝かもしれない。
血統反応を測る、落ち着かせる、隠すための場所だったかもしれない。
地下には、ひび割れた鐘があった。
封音鐘と記録されていた。
夢の鐘と似ていた。
奥には扉があった。
血統反応者以外開かない扉。
記憶層、血統記録の保管層かもしれない。
母の残響があるかもしれない。
礼拝堂地下は、完全には壊れていないかもしれない。
白鐘礼拝堂も、まだあるかもしれない。
僕は、いつか行きたいと言った。
今すぐは無理。
危険。
でも、いつか自分の目で見たい。
リゼさんは、現時点では反対だけど、将来的に安全条件が整えば同行すると言った。
ミリアさんも、カイも、一緒に行くと言った。
怖い。
でも、嬉しかった。
夕鐘で光った。
痛みなし。
熱、少し。
声なし。
感情は、怖い、嬉しい、寂しい、いつか行きたい。
アルトは最後に、一行を書いた。
僕の故郷は、記録の中だけではないかもしれない。
紙片を折り、引き出しへ入れる。
窓の外には、夜の鐘楼がある。
学園の鐘。
白鐘礼拝堂の鐘ではない。
それでも、今夜は二つの鐘がどこかで細くつながっているように感じた。
アルトはベッドに横になり、左手首を胸の上に置く。
「現在地は、男子寮の自室。夜。僕はアルト。いつか、白鐘礼拝堂へ行きたい」
銀環が淡く光った。
それは呼び声の光ではなく、返事を受け取ったような、静かな光だった。




