第3章 第10話:夢の中の返事
夢の中で、鐘が鳴っていた。
それは王立アークレイン学園の鐘楼の音ではなかった。
もっと遠い。
もっと古い。
石の奥深くから響くような、低く、澄んで、どこか割れた音。
ひびの入った銀杯を指で弾いた時のように、音の輪郭が途中でかすかに震える。
アルト・レインフォードは、白い霧の中に立っていた。
足元は石畳だった。
見覚えがあるようで、ない。
けれど、胸の奥は知っていると言っている。
白鐘礼拝堂。
夢に何度も出てきた場所。
白い壁。
高い天井。
細長い窓。
風に揺れる白布。
そして、中央に吊るされた、ひび割れた鐘。
その鐘は、鳴っていた。
誰も触れていない。
風もない。
それでも、鐘は鳴る。
ひとつ、ひとつ。
音が鳴るたび、アルトの左手首が銀色に光った。
夢の中なのに、布の感触がある。
布の下で、銀環痕が熱を持つ。
痛みはない。
でも、熱い。
まるで名前を呼ばれる前の息継ぎのように、手首の奥が震える。
霧の向こうから、声がした。
「エルディア」
その声を聞いた瞬間、アルトの足が一歩前へ出た。
自分の意思ではなかった。
鐘の音に引かれるように、足が動いた。
白い床。
長い礼拝堂。
奥にある扉。
その扉の向こうに、誰かがいる。
誰かが呼んでいる。
エルディア。
呼ばれるたびに、胸の奥が痛いほど懐かしくなる。
知らない声なのに。
覚えていないはずなのに。
忘れていたものが、霧の向こうで手を伸ばしているようだった。
アルトはまた一歩、進みかけた。
その時、遠くで別の声がした。
現在地は。
冷静な声。
リゼの声。
アルトは足を止めた。
夢の中で、足を止めた。
鐘は鳴り続けている。
白い霧は流れ、床の上に薄く広がっている。
奥の扉が、わずかに開いている。
その隙間から、銀の光が漏れていた。
「エルディア」
声がまた呼ぶ。
今度は少し近い。
優しい声だった。
怖くはない。
けれど、その優しさが逆に怖かった。
このまま進めば、戻れなくなる気がした。
アルトは左手首を押さえた。
夢の中の布は、現実よりも少し薄かった。
銀の文字が、布越しに浮かび上がっている。
痛みなし。
熱、強い。
声、聞こえる。
感情、怖い。懐かしい。行きたい。でも、戻りたい。
アルトは息を吸った。
夢の中なのに、呼吸ができる。
肺に入る空気は冷たく、礼拝堂の石の匂いがした。
湿った石。
古い紙。
花の香り。
そして、少しだけ焦げた匂い。
白鐘紙工房。
焼けた記録。
父祖の名。
母が呼んだ幼名。
アルトはもう一度、足元を見た。
石畳に、水のような銀の光が流れている。
それは学園の銀環室で見た光に似ていた。
けれど、もっと細い。
もっと古い。
地下から伸びる根のような光。
白鐘礼拝堂と、学園の銀環室はつながっている。
夢の中で、アルトはそう思った。
思ったというより、知っていた。
ここは影。
本体ではなく、影。
学園の銀環室が大きな輪なら、ここはその欠けた小さな輪。
白い鐘は、割れていても鳴る。
呼ぶために。
鍵を呼ぶために。
「エルディア」
声が、また呼んだ。
アルトは顔を上げた。
奥の扉の隙間に、人影があった。
輪郭はぼやけている。
長い髪。
白い衣。
こちらへ伸ばされた手。
女の人。
アルトの胸が強く鳴った。
母。
そう思った瞬間、左手首が強く光る。
足が勝手に動きかける。
行きたい。
その人の声を聞きたい。
アルトと呼んでほしい。
自分のことを覚えているのか聞きたい。
なぜ手放したのか、なぜ名前を隠したのか、なぜ自分は王都へ送られたのか。
聞きたい。
聞きたいことが多すぎて、胸が苦しくなる。
でも。
アルトは唇を噛んだ。
夢の中の痛みは少し遠い。
けれど、確かにあった。
現在地は。
リゼの声。
怖い時は言って。
ミリアの声。
戻ってきたら、おかえりって言う。
カイの声。
名前を話さないことは、名前を捨てることではない。
自分で書いた言葉。
アルトは胸の前で拳を握った。
白い霧が揺れる。
鐘の音が大きくなる。
奥の影が、また呼ぶ。
「エルディア」
アルトは、震える声で答えた。
「僕は」
鐘が止まった。
礼拝堂の空気が、ぴたりと固まる。
銀の光が床の上で波打つ。
「僕は、エルディア・レインフォードでもある」
言葉にした瞬間、左手首が強く光った。
銀環の文字が熱を持つ。
けれど、痛みはない。
アルトは続けた。
「でも」
喉が震える。
声が潰れそうになる。
それでも、言う。
「今は、アルト」
白い霧が大きく揺れた。
奥の影が、少しだけ動いた。
泣いているようにも、笑っているようにも見えた。
アルトは自分の胸に手を当てた。
「僕は、アルト・レインフォード」
銀環の光が、一瞬だけ強く広がった。
礼拝堂の白い床を照らし、ひび割れた鐘を照らし、奥の扉の隙間まで届く。
鐘はもう鳴っていなかった。
代わりに、遠くから別の音がした。
学園の鐘。
王立アークレイン学園の、朝の鐘。
白鐘礼拝堂の景色が、少しずつ薄れていく。
奥の影も、霧の中へ沈んでいく。
消える前に、その影が何かを言った気がした。
音にはならない。
でも、唇の形だけが見えた。
アルト。
そう呼んだように見えた。
次の瞬間、アルトは目を覚ました。
天井が見えた。
男子寮の自室。
朝の薄い光。
窓の外で、学園の鐘が鳴っている。
現実の鐘。
白鐘礼拝堂ではない。
王立アークレイン学園の朝鐘。
左手首が光っていた。
布の下から、銀の光が淡く漏れている。
いつもより強い。
でも、暴れてはいない。
アルトは布の上から手首を押さえ、ゆっくり息を吸った。
「痛みなし」
声が少し震れていた。
「熱、中。声は……もう聞こえない」
胸の奥が大きく鳴っている。
涙は出ていない。
でも、目の奥が熱い。
「現在地は、男子寮の自室。朝。今は学園。夢で白鐘礼拝堂を見た。呼ばれた。でも、戻ってきた」
銀環の光が少しずつ弱まる。
アルトはベッドの上で体を起こした。
汗をかいている。
寝間着の背中が少し冷たい。
息は浅いが、苦しくはない。
夢の内容は鮮明だった。
白い霧。
ひび割れた鐘。
銀の床。
奥の扉。
母らしき影。
そして、自分の声。
今は、アルト。
アルトは机に向かい、紙片を取り出した。
手が少し震える。
それでも、忘れる前に書いた。
夢。
白鐘礼拝堂。
ひび割れた鐘。
銀の光が床を流れていた。
学園の銀環室に似ているが、小さい。影のような場所。
奥の扉。
女の人の影。
母かもしれない。
エルディアと呼ばれた。
行きたくなった。
でも、現在地を思い出した。
僕は、エルディアでもある。
でも、今はアルトと答えた。
鐘が止まった。
最後に、その人がアルトと呼んだ気がした。
アルトはそこまで書いて、ペンを置いた。
左手首の熱はまだ残っている。
けれど、怖さだけではなかった。
自分で答えた。
夢の中で。
それが、胸の奥に静かに残っていた。
中庭に着くと、リゼたちはすぐに異変に気づいた。
リゼの視線が一瞬でアルトの顔、左手首、歩幅、呼吸へ向かう。
ミリアの表情も柔らかいまま、目だけが心配そうになる。
カイは眉を寄せたが、声を抑えた。
「おはよう」
アルトは先に言った。
「おはようございます」
リゼは返す。
そして、いつもより少し早く続けた。
「体調は」
「眠れた。でも、夢を見た。重要だと思う」
リゼの顔が引き締まる。
「緊急性は」
「高い。でも、今すぐ倒れる感じじゃない」
「痛みは」
「なし」
「熱は」
「中。朝鐘の時よりは下がった」
「声は」
「今はなし」
「感情は」
アルトは少し考えた。
「怖い。驚いた。でも、少し……できたって思ってる」
ミリアが静かに言う。
「夢の中で何かできたの?」
アルトは頷いた。
「呼ばれた。エルディアって。でも、僕は今はアルトって答えた」
三人の表情が変わった。
リゼは一歩近づきかけ、止まった。
近づきすぎないように。
だが、目には明らかな驚きがあった。
「夢の中で、自己認識を保持できたのですね」
「たぶん」
カイが短く言った。
「すげえじゃん」
その言葉が、まっすぐ胸に届いた。
アルトは少し照れたように笑う。
「そうなのかな」
「そうだろ。夢の中でも言い返したんだろ?」
「言い返したというか、答えた」
「ならすげえ」
ミリアが優しく頷いた。
「とても大切なことだと思うわ。夢の中で、名前を選べたのね」
アルトは左手首を押さえた。
「うん。エルディアを否定したわけじゃない。でも、今はアルトって」
リゼは静かに言った。
「記録が必要です。ただし、授業前に詳細を話すと負荷が高い可能性があります」
「うん」
「昼に、ロウ先生にも相談すべきです」
「クラウスさんにも?」
アルトが尋ねると、リゼは少し考えた。
「白鐘礼拝堂の構造に関わる可能性があります。クラウス卿にも情報を求める必要があります。ただし、本人同席と本人確認を条件に」
「うん」
朝の鐘の余韻はもう消えている。
それでも、アルトの左手首には微かな熱が残っていた。
四人は第一校舎へ向かった。
授業中、アルトは何度も夢の景色を思い返した。
白い霧。
銀の床。
奥の扉。
母らしき影。
エルディアと呼ぶ声。
アルトと呼んだように見えた唇。
忘れてはいけない。
でも、思い返すたび左手首が少し熱くなる。
リゼはそれに気づき、休み時間ごとに短く確認した。
痛みなし。
熱、微弱から少し。
声なし。
感情、揺れているが安定。
ミリアは無理に話を聞こうとせず、昼まで待ってくれた。
カイはいつもより静かだったが、昼休み前に焼き菓子を多めに買うと宣言した。
「夢で頑張った用」
用途はまた増えた。
昼休み、四人はロウ教師の資料室へ向かった。
ロウ教師は事前にリゼが短く伝えていたため、すでに席を用意していた。
資料室には乾いた紙と魔術インクの匂いがする。
机の上には、白紙の記録用紙と、簡易の封音札が置かれている。
ロウ教師はアルトを見て、静かに言った。
「無理に全てを話す必要はない」
「はい。でも、話したいです」
「なら聞こう」
リゼ、ミリア、カイが同席する。
エレオノーラはいない。
記録は、まずリゼが本人許可の範囲で取ることになった。
アルトは紙片を取り出し、机の上に置いた。
「夢で、白鐘礼拝堂にいました」
ロウ教師の目が細くなる。
「続けなさい」
「白い霧があって、ひび割れた鐘が鳴っていました。床に銀の光が流れていて、学園の銀環室に似ていました。でも、もっと小さいというか、影みたいな感じでした」
ロウ教師はすぐには口を挟まない。
リゼが記録するペンの音だけがする。
「奥に扉がありました。そこから女の人の影が見えました。母かもしれないと思いました。でも、はっきりは見えません」
ミリアの目が少し揺れる。
カイは息を詰める。
アルトは左手首を押さえた。
「その人か、誰かが、エルディアって呼びました。何度も。僕は行きたくなりました。でも、リゼさんの声を思い出しました。現在地は、って」
リゼのペンが一瞬止まった。
すぐにまた動く。
「それで、僕は答えました。僕はエルディア・レインフォードでもある。でも、今はアルトって」
資料室に沈黙が落ちた。
ロウ教師は長くアルトを見ていた。
やがて、静かに言う。
「夢の中で、それを自分の意思で?」
「はい」
「呼び声に引かれながら?」
「はい」
「その後、鐘は」
「止まりました」
ロウ教師は椅子の背へ軽く体を預けた。
「重要だな」
リゼが問う。
「銀環反応の進行ですか」
「進行でもあり、制御でもある」
「制御」
アルトが繰り返す。
ロウ教師は頷いた。
「これまで君は、呼ばれる側だった。鐘、名、夢、術式。それらに反応していた。しかし今回、夢の中で自分の名を選び、応答した。これは受動反応から能動応答への移行と考えられる」
リゼは記録する。
受動反応から能動応答。
アルトはその言葉を頭の中で繰り返した。
呼ばれるだけではなく、答える。
それは少し怖い。
でも、少し嬉しい。
ロウ教師は続けた。
「ただし、油断はできない。応答できるということは、向こう側との接続が強くなっているという意味でもある」
「危険も増える」
リゼが言う。
「そうだ」
ミリアが尋ねる。
「白鐘礼拝堂の床の銀の光は、学園の銀環室と同じものですか」
「同じ系統だろう。学園の銀環室を本体とするなら、白鐘礼拝堂は分枝、残響、あるいは補助輪のようなものかもしれない」
補助輪。
アルトは白い床を思い出す。
地下から伸びる根のような光。
「なぜ白鐘礼拝堂にそんなものがあるんですか」
アルトが聞く。
ロウ教師は少しだけ目を伏せた。
「その答えは、私だけでは不十分だ。クラウス卿を呼ぶ必要がある」
リゼの表情が硬くなる。
「情報開示の条件を設定します」
「もちろんだ」
ロウ教師は頷いた。
「本人同席、本人確認、記録範囲を限定。話す内容は白鐘礼拝堂地下構造に限定し、血統や母親の詳細へ踏み込みすぎない。必要なら途中で停止」
ミリアがアルトを見る。
「大丈夫?」
「怖い。でも、聞きたい」
カイが言った。
「俺たちもいる」
「うん」
アルトは頷いた。
昼休みの残り時間で、ロウ教師はクラウスへ連絡を取った。
クラウス・ヴァイゼルは午後の授業後、学園長室近くの小会議室で会うことを承諾した。
その日の午後の授業は、さらに長く感じられた。
夢の話。
白鐘礼拝堂。
クラウス。
母らしき影。
聞きたいことが増えていく。
でも、アルトは授業を受けた。
ノートも取った。
ノエルに短く「今日、課題会は休む」と伝えると、彼はすぐに「わかった。無理しないで」と言ってくれた。
普通の関係がある。
それだけで、少し現実に足がつく。
放課後、小会議室に入ると、クラウスはすでにいた。
灰色の髪。
整った服装。
疲れの残る目。
彼はアルトを見ると、立ち上がった。
「アルト君」
エルディアとは呼ばなかった。
そのことに、アルトは少し安心した。
「クラウスさん。夢のことで、聞きたいことがあります」
「ロウ先生から概要は聞いた」
クラウスは静かに言った。
「白鐘礼拝堂の地下構造について、話す必要があるようだ」
リゼが即座に条件を確認する。
「話す範囲は、白鐘礼拝堂地下構造、銀環室との関係、アルトさんの夢との関連に限定。本人が停止を求めた場合、即停止。記録は本人許可範囲。よろしいですか」
クラウスは頷いた。
「構わない」
アルトは席に座った。
リゼは左隣。
ミリアは右側。
カイは少し後ろ。
ロウ教師は扉近く。
クラウスは向かい。
配置は自然に決まった。
アルトは左手首へ触れた。
「痛みなし。熱、少し。声なし。感情は、怖い。でも、聞く」
クラウスはその自己確認を聞き、少しだけ目を伏せた。
「君は、随分強くなった」
アルトは首を横に振った。
「強いかはわかりません。でも、戻り方は少し覚えました」
「それは強さだ」
クラウスの声は静かだった。
アルトは答えず、まっすぐ尋ねた。
「白鐘礼拝堂の地下には、学園の銀環室と似たものがあるんですか」
クラウスは深く息を吐いた。
「ある」
部屋の空気が重くなる。
「正確には、あった。今も完全に残っているかは確認できていない。白鐘礼拝堂の地下には、古い王権封印の小規模な環が存在していた」
「環」
「学園の銀環室ほど巨大ではない。だが、系統は近い。白鐘礼拝堂のものは、封印本体ではなく、血統反応を受けるための補助施設だったと考えられている」
ロウ教師が低く言う。
「分枝か」
「そうだ」
クラウスは頷く。
「王立学園の銀環室が中心なら、白鐘礼拝堂は遠く離れた場所に設けられた分枝。王家分流の血統反応を確認、抑制、あるいは隠蔽するための場所だった可能性が高い」
アルトの左手首が熱くなる。
「僕は、そこで反応したんですか」
「出生直後から、反応があった」
クラウスの答えは静かだった。
予想していた。
それでも、実際に聞くと胸が締めつけられる。
「僕は、生まれた時から鍵だったんですか」
クラウスはすぐには答えなかった。
リゼの視線が鋭くなる。
ミリアはアルトの手元を見ている。
カイは拳を握っている。
クラウスはゆっくり言った。
「君は、生まれた時から反応を持っていた。だが、鍵という呼び方は、周囲が君へ与えた役割だ」
アルトは顔を上げた。
「役割」
「そうだ。君自身の全てではない」
アルトは胸の奥で、その言葉を受け止める。
鍵は役割。
自分の全てではない。
第2章から何度も聞いたこと。
でも、出生直後から反応していたと知った後で聞くと、また違う重みがあった。
リゼが問う。
「白鐘礼拝堂地下は、現在も接続していますか」
「完全には不明だ。ただ、アルト君が夢で見た銀の床、割れた鐘、奥の扉。その描写は、旧記録と一致する部分がある」
「旧記録」
アルトが言う。
クラウスは頷いた。
「白鐘礼拝堂地下には、鐘を模した封音装置があった。ひび割れた鐘、と呼ばれていた記録がある」
アルトの手首が強く光った。
リゼが即座に問う。
「痛みは」
「なし」
「熱は」
「中」
「声は」
「なし」
「現在地は」
「小会議室。放課後。リゼさん、ミリアさん、カイ、ロウ先生、クラウスさんがいる」
「感情は」
「怖い。でも、夢がただの夢じゃないってわかった」
クラウスは静かに言った。
「君の夢は、記憶と術式反応が混ざったものかもしれない」
「母らしき人影は」
アルトの声は少し震えた。
クラウスの表情が変わる。
「それは」
リゼがすぐに言う。
「範囲外です。母親の詳細へ踏み込みすぎる場合、停止を」
「待って」
アルトは言った。
リゼが口を閉じる。
「名前は聞かない。まだ。でも、その人が母かもしれないかだけ、聞きたい」
クラウスはアルトを見た。
長い沈黙。
「可能性はある」
アルトは息を止めた。
「君の母親は、白鐘礼拝堂地下の封印に深く関わっていた。夢に出た影が彼女の記憶、または術式に残った残響である可能性は否定できない」
残響。
母の残響。
アルトは左手首を押さえた。
熱い。
でも、痛くはない。
「その人が、最後にアルトって呼んだ気がしました」
声がかすれる。
クラウスは目を伏せた。
「君の母親は、君をアルトと呼んでいた」
「はい」
「なら、その残響が君をそう呼ぶことは、あり得る」
ミリアがそっとアルトの右手に触れていいか視線で尋ねた。
アルトは小さく頷く。
ミリアの手が、右手を包む。
温かい。
現実の手。
夢の中の影ではない。
アルトは息を吐いた。
「今日は、ここまでにしたい」
クラウスはすぐに頷いた。
「わかった」
リゼも言う。
「停止確認。以後、追加情報なし」
ロウ教師が封音札を解除した。
小会議室の空気が少し軽くなる。
クラウスはアルトへ向き直った。
「アルト君。君が夢の中で名前を選べたことは、おそらく重要だ。だが、同時に接続も強まっている。今後、白鐘礼拝堂の夢が増える可能性がある」
「はい」
「怖いだろうが、ひとりで抱えないこと」
アルトは少しだけ笑った。
「それは、最近何度も言われています」
「なら、何度でも聞いてくれ」
クラウスの声は、少しだけ苦かった。
「私たちは昔、それをさせなかった」
アルトは答えなかった。
許すとは言えない。
でも、聞くことはできた。
夕方、四人はいつもの噴水横へ戻った。
今日は風が弱く、水音が静かだった。
アルトはベンチに座り、長く息を吐く。
「疲れた」
「高負荷でした」
リゼが言う。
「でも、聞けた」
ミリアが隣で頷く。
「ええ」
カイが焼き菓子を差し出す。
「夢で言い返した用と、聞けた用」
「二つ?」
「今日は二つだろ」
アルトは笑って、ひとつ受け取った。
「ありがとう」
夕鐘が鳴った。
アルトの左手首が光る。
朝よりは穏やか。
「痛みなし。熱、少し。声なし」
「現在地は」
リゼが尋ねる。
「学園中庭。夕方。噴水横。リゼさん、ミリアさん、カイといる」
「感情は」
ミリアが聞く。
アルトは少し空を見上げた。
「怖い。悲しい。少し嬉しい。夢の中でも戻れたことが、まだ信じられない」
カイが言った。
「信じとけ。できたんだから」
「うん」
リゼも静かに言う。
「記録上も、できています」
「記録上」
「はい。夢の中で呼び声に対し、自己名を選択。銀環暴走なし。現実復帰後も自己確認可能」
アルトは少し笑った。
「リゼさんらしい」
「褒めていますか」
「うん。安心する」
リゼの表情が少しだけ緩んだ。
夜。
男子寮の自室で、アルトは紙片を書いた。
夢の中で、エルディアと呼ばれた。
白鐘礼拝堂にいた。
ひび割れた鐘が鳴っていた。
銀の床があった。
奥に女の人の影がいた。
母かもしれない。
僕は行きたくなった。
でも、現在地を思い出した。
僕はエルディアでもある。
でも、今はアルトと答えた。
鐘が止まった。
最後に、その人がアルトと呼んだ気がした。
ロウ先生は、受動反応から能動応答への移行と言った。
クラウスさんは、白鐘礼拝堂地下に小さな環があったと言った。
学園の銀環室の分枝かもしれない。
母は、そこに関わっていたかもしれない。
今日はここまでにした。
自分で止めた。
夕鐘で光った。
痛みなし。
熱、少し。
声なし。
怖い。
悲しい。
少し嬉しい。
アルトはペンを止めた。
最後に、一行だけ書き足す。
夢の中でも、僕はアルトと答えられた。
紙片を折り、引き出しへしまう。
窓の外には夜の鐘楼がある。
今日は、鐘が少し違って見えた。
自分を呼ぶもの。
怖いもの。
でも、答えられないものではないかもしれない。
アルトはベッドに横になり、左手首を胸の上に置いた。
「現在地は、男子寮の自室。夜。僕はアルト。エルディアでもある。でも、今はアルト」
銀環は淡く光った。
痛みはなかった。
その光は、すぐに静かに薄れていった。




