第3章 第9話:名前を話す日
朝、アルト・レインフォードは机の引き出しを開けた。
中には、折りたたんだ紙片が何枚も入っている。
銀環が光った日。
初めてリゼと一緒に中庭を歩いた日。
白鐘礼拝堂の夢を見た日。
クラウス・ヴァイゼルから本当の名前を聞いた日。
友達という言葉を受け取った日。
人目の中で昼食を食べた日。
リゼが同じ部屋にいない課題会へ行った日。
どの紙片にも、今の自分が少しずつ残っている。
アルトは、その中から一枚を取り出した。
クラウスと面会した日の紙片だった。
震えた文字で、そこに書いてある。
出生名。
エルディア・レインフォード。
アルトという名は、母が呼んでいた幼名。
今はアルト。
でも、エルディアでもある。
名前を見た瞬間、左手首がわずかに熱を持った。
痛みはない。
声もない。
けれど、胸の奥が静かに揺れる。
エルディア。
その名を、いつか誰かに言う日が来るのだろうか。
リゼ、ミリア、カイは知っている。
クラウスも、ロウ教師も、学園長も、ユリウスとエレオノーラも知っている。
王宮には、おそらく記録がある。
敵も、どこまでかはわからないが知っている可能性がある。
けれど、ノエルやティナ、リリア、ダリオは知らない。
彼らにとって自分は、アルト・レインフォードだ。
少し事情があり、左手首に布を巻いていて、リゼたちと仲がよく、ノートをまとめるのが得意な同級生。
そのままでいい。
そう思う。
でも、それは嘘なのだろうか。
エルディアという名を隠したまま、アルトとして笑うことは、彼らを騙していることになるのだろうか。
アルトは紙片を見つめたまま、長い息を吐いた。
朝の鐘が鳴る。
左手首が淡く光った。
「痛みなし。熱、少し。声なし」
自分で言う。
「現在地は、男子寮の自室。朝。僕の名前はアルト・レインフォード。エルディア・レインフォードでもある。でも、今はアルト」
銀環の光は強くならなかった。
それでも、胸の揺れは残った。
アルトは紙片を折り直し、制服の内ポケットに入れた。
今日は、三人に相談しよう。
名前のことを。
誰に、どこまで話していいのかを。
中庭へ行くと、リゼたちはいつもの場所にいた。
リゼは今日も左側の位置を空けている。ミリアは穏やかに微笑み、カイは売店の方を見ている。たぶん朝から何を食べるか考えているのだろう。
その見慣れた光景に、少し安心する。
アルトは三人へ近づいた。
「おはよう」
「おはようございます」
リゼは挨拶を返す。
一拍。
「体調は」
「眠れた。夢は見たけど、よく覚えてない。朝鐘で少し光った。痛みなし、熱少し、声なし。朝食はパン一つとスープ半分。気分は……相談したいことがある」
リゼの目が少し鋭くなる。
「緊急性は」
「高くはないと思う。でも、大事」
ミリアが柔らかく言った。
「では、昼に時間を取りましょうか」
「うん」
カイがこちらを見る。
「今じゃなくていいのか?」
「授業前に話すには、少し重いかも」
「なら昼だな」
カイは頷いた。
リゼはアルトの左手首を見た。
「その相談により、銀環反応はありますか」
「少し熱い。でも、痛くはない」
「内容の分類は」
アルトは少し迷った。
「名前」
三人の表情が変わった。
リゼはすぐに周囲を確認した。
近くに生徒はいるが、会話を聞ける距離ではない。
ミリアの表情は穏やかなままだが、目が真剣になる。
カイは少しだけ声を落とした。
「エルディアのことか」
アルトは頷いた。
「うん」
リゼは短く言った。
「昼に、場所を選んで話しましょう」
「うん」
その日の午前、アルトは授業に集中しきれなかった。
王国史の授業では、古い貴族家の継承名について扱われた。
家名、洗礼名、幼名、隠し名。
貴族家では、政治的理由で名前を使い分けることがある。幼い頃だけ呼ばれる名、正式文書に記される名、家族だけが使う名、外交上隠される名。
ロウ教師は淡々と説明していた。
「名前は、単なる呼称ではない。家、血統、相続権、政治的立場、時には呪術的な結びつきを持つ。ゆえに、古い貴族社会では名前を隠すこともまた、自衛の一種であった」
隠すことも、自衛の一種。
アルトの左手首が淡く光った。
机の下で布に触れる。
痛みなし。
熱、少し。
声なし。
感情、揺れている。
リゼが視線だけで確認する。
アルトは小さく頷いた。
隠すこと。
嘘をつくこと。
自分を守ること。
それらの違いは何だろう。
昼休み、四人は図書館塔二階の奥にある小さな閲覧席へ向かった。
完全に密室ではない。
けれど、人通りは少なく、声を落とせば会話は届かない。
窓からは中庭が見える。
昨日、人目の中で昼食を食べた場所も見えた。
今日は先に軽く昼食を済ませてから、話すことにした。
ミリアが「空腹で名前の話はよくないわ」と言ったからだ。
カイはそれに強く同意した。
食事後、アルトは内ポケットから紙片を取り出した。
テーブルの上に置く。
エルディア・レインフォード。
その文字を見た瞬間、リゼの表情が少し引き締まる。
ミリアは静かに見守る。
カイは腕を組まず、両手を膝に置いていた。
たぶん、圧を抑えている。
アルトは口を開いた。
「この名前のこと、誰にどこまで話していいのか、わからなくなった」
リゼはすぐに問わず、待った。
アルトは続ける。
「ノエル君やティナさんたちは、僕のことをアルトって呼んでくれる。それは嬉しい。でも、僕にはエルディアって名前もある。隠していると、嘘をついているみたいに感じる時がある」
左手首が熱を持つ。
「痛みは」
リゼが静かに尋ねる。
「なし」
「熱は」
「少し」
「声は」
「なし」
「続けられますか」
「うん」
アルトは紙片を指で押さえた。
「僕は、アルトでいたい。でも、エルディアをなかったことにしたいわけじゃない。母が呼んでくれたアルトも、出生名のエルディアも、どっちも僕なんだと思う。でも、誰かに話すと、また何かが変わる気がする」
ミリアが優しく言った。
「怖いのね」
「うん」
「何が一番怖い?」
アルトは少し考えた。
「名前を話したら、相手が僕を見る目が変わること」
その答えは、胸の奥から出てきた。
「アルト君じゃなくて、何か古い家の人とか、王宮に関係ある人とか、危ない人みたいに見られるかもしれない」
カイが少し眉を寄せる。
でも、黙って聞いている。
「あと、話さなかったら、後で知った時に“どうして隠してたの”って思われるかもしれない。それも怖い」
リゼは静かに言った。
「情報開示範囲の問題です」
「うん」
「私の安全判断では、エルディアという名は秘匿すべき情報です」
アルトの胸が少し冷えた。
予想していた答えだ。
リゼならそう言う。
けれど、少しだけ寂しかった。
リゼは続けた。
「理由は三つ。第一に、王宮内の引き渡し派がこの名を政治的根拠として利用する可能性。第二に、王の影側が名に反応する術式を用いる可能性。第三に、噂と結びつけば、アルトさんの学園生活が著しく不安定化する可能性」
「うん」
アルトは頷く。
正しい。
とても正しい。
「ただし」
リゼの声が少し柔らかくなった。
「秘匿すべき情報であることと、あなたがその名を大事にしてはいけないことは別です」
アルトは顔を上げた。
「別?」
「はい。私は公開に反対します。しかし、あなたがエルディアという名を自分の一部として扱うことには反対しません」
ミリアが微笑む。
「とても大事な違いね」
カイが少し考えて言った。
「つまり、みんなに言いふらす必要はないけど、自分では持ってていいってことだろ」
「はい」
リゼが頷く。
アルトは紙片を見る。
自分では持っていていい。
その言葉は、思ったより深く胸に落ちた。
ミリアが言った。
「隠すことと、嘘をつくことは同じではないわ」
アルトはミリアを見る。
「違うの?」
「ええ。誰に、いつ、何を渡すかを選ぶことも、自分を守る方法よ」
「選ぶこと」
「そう。すべてを全員に渡す必要はない。友達だからといって、すべての秘密をすぐ話さなければならないわけでもない」
「でも、隠されたら嫌じゃない?」
ミリアは少しだけ考えた。
「内容によるわね。でも、その人にとってまだ話す準備ができていないことなら、待ちたいと思うわ」
アルトはリゼを見る。
「リゼさんは?」
リゼは少し沈黙した。
「私は、情報の非開示には不安を覚えます」
正直な答えだった。
「ですが、友人の秘密を強制的に開示させることは不適切だと学習しています」
「学習中?」
「はい」
アルトは少し笑った。
リゼも、ほんの少しだけ目元を緩めた。
「私があなたの友人であるなら、あなたが話す準備ができるまで待つべき場面があります。ただし、危険に直結する情報の場合は、確認が必要です」
「エルディアの名前は、危険に直結する?」
「はい」
リゼは即答した。
けれど、その後で言葉を補った。
「だからこそ、誰に話すかを一緒に決めたいです。あなた抜きではなく」
アルトの胸の奥が、少し温かくなった。
自分抜きではなく。
第2章から何度も繰り返してきた言葉。
今回も同じだった。
カイが言った。
「俺は、言いたいやつにだけ言えばいいと思うけどな」
「単純ですね」
リゼが言う。
「でも間違ってねえだろ」
「はい。方向性としては有効です」
「だろ」
カイは少し得意げだった。
アルトは笑う。
「言いたいやつにだけ」
「言いたくないやつには言わなくていい」
「あとで怒られたら?」
「怒られたら、その時話せばいいだろ。話せる範囲で」
「カイらしい」
「難しく考えすぎると飯がまずくなる」
ミリアが笑った。
「そこに戻るのね」
「大事だろ」
その時、閲覧席の向こうから静かな声がした。
「少し、よろしいですか」
エレオノーラ・ヴィンスフェルトだった。
白い制服姿で、手には記録板を持っている。
彼女は距離を取ったまま立ち止まり、まずアルトへ視線を向けた。
「会話内容は聞こえない距離にいました。近づいてよいか確認します」
アルトは少し驚いた。
以前なら、彼女はもっと自然に記録者として入ってきただろう。
今は確認している。
「大丈夫です」
アルトが答えると、エレオノーラは一礼して近づいた。
「名前の公開範囲について相談されていると推測しました。記録補佐として、一つだけ」
リゼが問う。
「記録しますか」
「許可があれば。なければ、一般論として話します」
アルトは少し考えた。
「一般論でお願いします」
「承知しました」
エレオノーラは記録板を閉じたまま言った。
「記録にも、公開範囲があります。すべての記録が全員に見られるわけではありません。機密記録、関係者限定記録、本人閲覧用記録、公開記録。それぞれ目的が違います」
「名前も、そういうふうに分けられる?」
アルトが尋ねる。
「はい。公に名乗る名前。信頼できる者だけが知る名前。自分だけが保管する名前。どれも、その人の一部です」
アルトは紙片を見る。
公に名乗る名前。
アルト。
信頼できる者だけが知る名前。
エルディア。
自分だけが保管する名前。
まだ知らない、自分の中の何か。
「隠すことは、記録を消すこととは違います」
エレオノーラは静かに続けた。
「保管場所を選ぶことです」
その言葉に、アルトは息を止めた。
記録を消す。
白鐘紙工房。
焼かれた記録。
王宮へ回収された控え。
クラウスが燃やしたもの。
消された名前。
保管場所を選ぶこと。
それは、燃やすこととは違う。
アルトは左手首へ触れた。
「痛みなし。熱、少し強くなった。声なし」
リゼがすぐに問う。
「感情は」
「少し悲しい。でも、少し安心した」
ミリアが頷く。
「そうね」
アルトはエレオノーラを見た。
「ありがとうございます」
「お役に立てたなら」
エレオノーラは静かに頭を下げた。
「この件は記録しません」
「はい」
「ただし、今後、公的な記録として必要になった場合は、必ず本人確認を取るべきだと私は考えます」
リゼが頷いた。
「同意します」
エレオノーラは一礼し、去っていった。
彼女の背中を見送りながら、アルトは少しだけ思った。
記録する人にも、変わることがあるのだ。
最初は怖かった。
記録されることは、王宮へ渡されることに近いと思っていた。
今も完全には安心できない。
でも、エレオノーラは確認するようになった。
自分も、何を記録していいか言えるようになった。
少しずつ、変わっている。
アルトは三人へ向き直った。
「決めたい」
リゼが頷く。
「はい」
「今は、エルディアという名前は公には話さない。ノエル君やティナさんたちにも、まだ話さない」
「理由は」
「怖いから。あと、安全のため。まだ、僕がその名前を受け止めている途中だから」
「妥当です」
リゼが言う。
ミリアも頷く。
「とてもよい理由だと思うわ」
「でも、隠していることを嘘だと思いすぎないようにする」
アルトは紙片を見た。
「僕はアルトでもあるから。アルトって名乗るのは嘘じゃない」
カイがすぐに言った。
「当たり前だろ」
その即答に、アルトは少し笑った。
「うん」
リゼは静かに言う。
「公的呼称、アルト・レインフォード。限定共有情報、エルディア・レインフォード。本人意思により、当面非公開」
「記録みたい」
「記録です」
「でも、嫌じゃない」
アルトは頷いた。
「その書き方なら、僕が決めたって残るから」
「はい。本人意思として記録します」
左手首の熱が、少しずつ下がっていく。
昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴った。
アルトは紙片を折り直し、内ポケットへ戻した。
教室へ戻る途中、ティナが廊下で声をかけてきた。
「アルト君、今日の課題会だけど、来られそう?」
アルトは一瞬、内ポケットの紙片を意識した。
エルディア。
でも、今ここでティナが呼んだのは、アルト。
その名前に、胸がちゃんと反応した。
嫌ではない。
嘘ではない。
「うん。短い時間なら」
ティナは笑った。
「よかった。ノエルがまた見出しで悩んでた」
「また?」
「また」
アルトは少し笑った。
普通の会話。
その中で、自分はアルトとして返事をした。
それでいい。
今は。
放課後の課題会は、いつもより穏やかだった。
ノエルは本当に見出しで悩んでいた。
ティナは図の矢印を逆に書いて慌てた。
リリアは短い文章をさらに短くしすぎて、全員に「それだと先生に怒られる」と言われた。
アルトは笑いながら、課題を手伝った。
左手首は何度か温かくなったが、強い反応はなかった。
リゼは今日は隣の教室ではなく、廊下の少し離れた場所にいた。
昨日より表情は落ち着いている。
見守る距離。
少しずつ、二人とも慣れていく。
夕方、四人は噴水横へ戻った。
アルトはベンチに座り、内ポケットを軽く押さえた。
「今日は、少し楽になった」
ミリアが隣で微笑む。
「名前のこと?」
「うん。話さないって決めたのに、楽になったのは不思議だけど」
「自分で決めたからでしょうね」
リゼが言った。
「隠されたのではなく、保管場所を選んだ」
アルトは頷く。
「うん。そう思う」
カイが焼き菓子を差し出す。
「決定用」
「また用途が増えた」
「今日は名前をちゃんと持つって決めたんだろ。なら必要だ」
アルトは焼き菓子を受け取った。
「ありがとう」
夕鐘が鳴った。
アルトの左手首が光る。
今日は、柔らかい光だった。
「痛みなし。熱、少し。声なし」
「現在地は」
リゼが尋ねる。
「学園中庭。夕方。噴水横。リゼさん、ミリアさん、カイといる」
「感情は」
ミリアが聞く。
アルトは少し考えた。
「怖さはある。でも、落ち着いてる。アルトって呼ばれることが、前より少し大事に思える」
「良好です」
リゼは言った。
アルトは三人を見る。
「エルディアって名前も、なくさない。でも、今ここではアルトでいたい」
カイが即答する。
「じゃあ、アルトだ」
「うん」
ミリアが微笑む。
「ええ。アルトさん」
リゼも静かに言った。
「アルトさん」
その呼び方が、胸に温かく落ちた。
夜。
男子寮の自室で、アルトは紙片を書いていた。
今日は名前のことを相談した。
エルディアという名前を、誰に話すか。
今は、公には話さないと決めた。
ノエル君やティナさんたちにも、まだ話さない。
理由は、怖いから。
安全のため。
まだ僕がその名前を受け止めている途中だから。
でも、アルトと名乗るのは嘘じゃない。
アルトは母が呼んでいた名前。
今の僕が選んでいる名前。
エルディアは消さない。
でも、保管場所を選ぶ。
左手首は夕鐘で光った。
痛みなし。
熱、少し。
声なし。
感情は、怖い、落ち着いた、少し安心。
アルトは最後に、ゆっくり書いた。
名前を話さないことは、名前を捨てることではない。
僕は、アルト。
エルディアでもある。
でも、今夜、眠る時の僕はアルトでいい。
紙片を折り、引き出しへしまう。
窓の外の鐘楼は静かだった。
アルトはベッドに横になり、目を閉じる。
眠りに落ちる直前、遠くで白い鐘が鳴った気がした。
夢かもしれない。
記憶かもしれない。
その鐘の向こうから、誰かが名前を呼ぶ。
エルディア。
アルトは夢と現実の境目で、小さく答えた。
今は、アルト。
左手首が、痛みのない温かさを帯びた。




