第3章 第12話:母の呼び名
朝、アルト・レインフォードは自分の名前を小さく呟いた。
「アルト」
男子寮の自室。
まだ朝の鐘は鳴っていない。
窓の外には薄い光が差し始めていて、校舎の屋根も、鐘楼も、夜の青からゆっくり離れようとしている。
机の上には、昨日書いた紙片が開かれていた。
僕の故郷は、記録の中だけではないかもしれない。
その一文を見つめていると、胸の奥が静かに熱を持つ。
白鐘礼拝堂。
地下の小さな環。
封音鐘。
奥の扉。
母の残響があるかもしれない場所。
そして、自分が生まれた避難館。
昨日、クラウスから聞いた話は、夜になっても頭から離れなかった。
怖い。
でも、知りたい。
それは変わらない。
ただ、今朝アルトの中でいちばん大きく残っていたのは、地下構造でも、銀環室との関係でもなかった。
母が、自分をアルトと呼んでいた。
その事実だった。
クラウスは第2章でそう言った。
そして昨日、白鐘礼拝堂の夢の最後に、母らしき影が「アルト」と呼んだ気がした。
あれは夢かもしれない。
術式に残った残響かもしれない。
本当に母の記憶なのかはわからない。
けれど、胸の奥にはっきり残っている。
エルディア。
それは自分の出生名。
血統や記録や王宮が関わる名。
でも、アルトは母が呼んでいた名。
隠すためだけの名前ではない。
誰かが自分へ向けて、確かに呼んだ名前。
アルトは左手首に触れた。
布の下の銀環痕は、今朝も静かだった。
痛みはない。
熱もない。
声も聞こえない。
けれど、名前を呟くと胸が少し揺れる。
「アルト」
もう一度、言ってみる。
自分の声で呼ぶと、少し不思議だった。
誰かに呼ばれる名前を、自分で確かめている。
その時、朝の鐘が鳴った。
窓の外から、澄んだ音が届く。
左手首が淡く光る。
いつもの朝より、少しだけ柔らかい光。
「痛みなし。熱、少し。声なし」
アルトは窓の方を見ながら言った。
「現在地は、男子寮の自室。朝。僕はアルト。母がそう呼んでいた名前」
銀環の光が一瞬だけ強まり、すぐに穏やかになった。
嫌な反応ではなかった。
むしろ、名前を受け止めたような熱だった。
アルトは紙片を折り、内ポケットへ入れた。
今日は、母のことを聞きたい。
ただし、全部ではない。
名前はまだ怖い。
母が誰だったのか、どんな血筋だったのか、どんな罪や役割を背負っていたのか。
それを一度に聞いたら、自分はたぶん受け止めきれない。
でも、母が自分をどう呼んでいたのか。
どんな声で呼んだのか。
それくらいは、知りたい。
中庭に出ると、リゼたちはすでに待っていた。
リゼ・グレイスは、こちらを見るなり、目だけで顔色を確認した。
灰銀の髪が朝日に淡く光っている。制服のリボンは整っていて、今日は昨日より少し表情が柔らかい。
ミリア・ファルネーゼは、朝の風に髪を押さえながら微笑んでいる。
カイ・ロックハートは、なぜか売店の方向を見ていた。
アルトが近づくと、カイが先に言った。
「おはよう」
声は抑えられていた。
少し成長している。
「おはよう」
アルトが返す。
「おはようございます」
リゼが続けた。
一拍。
「体調は」
「眠れた。夢は見なかったと思う。朝鐘で少し光った。痛みなし、熱少し、声なし。朝食はパン一つとスープ半分。気分は……今日は、母のことを少し聞きたい」
三人の表情が変わった。
リゼの視線が鋭くなる。
しかし、それは警戒だけではなく、確認のためだった。
「聞きたい範囲は」
「名前はまだ聞かない。詳しい血筋も、まだ。母が僕をアルトと呼んでいたことを、もう少し聞きたい」
ミリアが静かに頷いた。
「呼び名のことね」
「うん」
カイが腕を組みかけて、また途中でやめた。
「聞けばいいんじゃねえか」
「怖い」
「なら、怖いって言って聞けばいい」
カイの答えはいつも単純だった。
でも、今日はその単純さが胸に沁みた。
リゼは言う。
「クラウス卿へ確認します。ただし、範囲を限定。母親の氏名、政治的立場、血統詳細には踏み込まない。アルトという呼称に関する記録、証言、状況のみ」
「うん」
「途中停止は本人意思で即時」
「うん」
ミリアが優しく言う。
「昼にしましょう。朝から重くしすぎないように」
「うん」
アルトは頷いた。
今日も授業はあった。
昨日と同じように、王国史も、魔術理論も、詩文読解も。
名前のことを考えながら授業を受けるのは難しかったが、アルトはノートを取った。
ノエルが休み時間に「昨日のまとめ、助かった」と言ってくれた。
ティナが「今日の果実水、売店で濃いめだったよ」と教えてくれた。
リリアが廊下ですれ違う時、小さく会釈した。
ダリオはカイに「今日こそ組むぞ」と言い、カイが声量を抑えたまま「おう」と答えていた。
普通の学園生活。
その中に、母の呼び名の話が混ざっている。
不思議だった。
大きな秘密と、普通の会話が同じ一日の中にある。
王国史の授業では、古い家の幼名について扱った。
教師は説明する。
「幼名は、正式な名とは別に家族内で用いられる呼称である。血統や相続権を示す正式名とは違い、親しい者が子へ向ける私的な名であることが多い」
私的な名。
親しい者が子へ向ける名。
アルトはノートにそう書き留めた。
左手首が淡く光る。
痛みなし。
熱、少し。
声なし。
感情、少し悲しい。少し温かい。
リゼが視線で確認する。
アルトは小さく頷いた。
昼休み。
四人は先に中庭で軽く昼食を取った。
今日は人目の少なすぎない席。
けれど、昨日ほど中央寄りではない。
ミリアが「今日は心の体力を温存しましょう」と言ったためだった。
カイは今日も焼き菓子を持ってきた。
「聞く前用」
アルトは笑って受け取る。
「最近、毎日用途が増えてるね」
「必要だからな」
カイは真顔だった。
リゼも頷く。
「糖分補給は有効です。ただし過剰摂取は避けます」
「了解」
カイはミリアを見る。
「今日の配分は?」
「一人一つ。話の後に必要なら追加」
「了解」
完全に運用が決まっていた。
それが少しおかしくて、アルトは笑った。
笑うと、胸の重さが少し軽くなる。
昼食後、四人はロウ教師の資料室へ向かった。
昨日と同じ部屋。
乾いた紙と魔術インクの匂い。
古い地図。
封印札。
窓から入る昼の光。
クラウス・ヴァイゼルは、すでに来ていた。
昨日より少し疲れた顔をしている。
それでも、アルトを見ると立ち上がった。
「アルト君」
その呼び方に、アルトの胸が少しだけ温かくなる。
エルディアではなく、アルト。
今、自分が聞きたい名前で呼ばれた。
「こんにちは」
アルトは席に着く前に言った。
「今日は、母の名前は聞きません」
クラウスは静かに頷いた。
「わかった」
「血筋の詳しい話も、まだ聞きません」
「わかった」
「でも、母が僕をアルトと呼んでいたことを、もう少し聞きたいです」
クラウスの表情が、わずかに変わった。
痛み。
懐かしさ。
後悔。
それらが一瞬だけ混じったような顔だった。
「話せる範囲で話そう」
リゼが条件を確認する。
「本日の開示範囲。母親の氏名、政治的地位、血統詳細は除外。アルトという呼称の由来、使用状況、記録上確認できる範囲に限定。本人停止で即時中断」
クラウスは頷いた。
「承知している」
ロウ教師も同席していた。
彼は机の端に封音札を置き、短く術式を起動する。
「外には漏れない。安心して話しなさい」
アルトは席に座った。
左にリゼ。
右にミリア。
少し後ろにカイ。
クラウスは向かい。
配置は昨日と同じ。
それだけで少し落ち着く。
アルトは左手首へ触れた。
「痛みなし。熱、少し。声なし。感情は、怖い。知りたい。少し悲しい」
リゼが頷いた。
「確認しました」
クラウスは少しだけ目を伏せた。
「君の母親は、君を正式名ではほとんど呼ばなかった」
その一言で、アルトの胸が強く揺れた。
「エルディアとは?」
「記録上、出生儀礼や封印確認の場ではそう記されている。だが、私的な場では、彼女は君をアルトと呼んでいた」
「どうして?」
アルトの声は少し震えた。
クラウスは答える前に、手元の古い封筒を見た。
封筒の中身は出さない。
おそらく記録だ。
しかし、今日はその全てを見せるわけではないのだろう。
「アルトという名は、白鐘地方の古い言葉に由来する。正確な意味は複数あるが、彼女が好んで使っていた意味は、“朝に残る小さな音”だ」
アルトは息を止めた。
「朝に残る、小さな音」
「夜が終わり、鐘の余韻がまだ空に残っている時間。白鐘地方では、その細い余韻をアルトと呼ぶ古い詩句があった」
ミリアが静かに息を呑む。
リゼはペンを止めず記録しているが、その目は少しだけ揺れていた。
クラウスは続ける。
「君の母親は、白鐘礼拝堂の鐘を好んではいなかった」
「好んでいなかった?」
「あの鐘は、家と血統と封印を思い出させるものだったからだ。だが、朝の鐘の後に残る微かな音は好きだと言っていた。大きな鐘そのものではなく、誰かの胸に残る小さな余韻。それが、彼女にとってのアルトだった」
アルトの左手首が光った。
強くはない。
けれど、いつもより深い場所が温かくなるような光。
「痛みは」
リゼが静かに尋ねる。
「なし」
「熱は」
「少し強い。でも、嫌じゃない」
「声は」
「なし」
「続けられますか」
「うん」
アルトはクラウスを見た。
「母は、僕をそういう意味で呼んでいたんですか」
「少なくとも、私が聞いた時はそう話していた」
クラウスの声は静かだった。
「正式名は必要だった。血統、記録、封印確認、すべてのために。だが、彼女は君を役割で呼びたくなかったのだと思う」
役割で呼びたくなかった。
その言葉が胸に落ちる。
エルディアは正式名。
大事な名前。
捨てない名前。
でも、アルトは母が役割ではなく、自分へ向けて呼んだ名前。
そう思った瞬間、目の奥が熱くなった。
涙は出ない。
まだ出ない。
けれど、喉が詰まる。
「母は、僕を抱いたんですか」
気づけば、そう尋ねていた。
質問リストにはなかった。
けれど、出てしまった。
リゼが一瞬、クラウスを見る。
範囲外かどうか。
クラウスは慎重に答えた。
「抱いた」
アルトは息を止めた。
「短い時間だったが、確かに抱いていた。君が泣くと、彼女は鐘の音を嫌がるように窓を閉め、君をアルトと呼んでいた」
ミリアの手が、そっとアルトの右手に触れる。
触れていいか、目で尋ねている。
アルトは小さく頷いた。
ミリアの手が右手を包む。
温かい。
現実の温度。
クラウスは少し苦しそうに続けた。
「彼女はよく言っていた。大きな鐘のために生まれた子ではない、と」
アルトの左手首が強く光った。
リゼがすぐに確認する。
「痛みは」
「なし」
「熱は」
「中」
「声は」
「なし」
「現在地は」
アルトは目を閉じた。
「資料室。昼。リゼさん、ミリアさん、カイ、ロウ先生、クラウスさんがいる」
「感情は」
すぐには答えられなかった。
胸がいっぱいだった。
悲しい。
温かい。
悔しい。
寂しい。
嬉しい。
会いたい。
なぜいないのかと叫びたい。
でも、名前を呼んでくれたことを大事にしたい。
「わからない」
アルトは言った。
声が震えた。
「たくさんあって、わからない」
ミリアが静かに言った。
「それでいいわ」
「よくない」
「いいの。悲しみを急いで整理しなくていい」
アルトはミリアを見る。
彼女の目は優しかった。
「名前を聞いて、母の話を聞いて、すぐに答えを出さなくていいの。嬉しいも、悲しいも、怒りも、全部あっていい」
全部あっていい。
アルトはその言葉を胸に置いた。
リゼはペンを止めていた。
記録するべきか、待つべきか迷っている顔。
アルトは少しだけ笑った。
「記録していいよ」
リゼは静かに頷いた。
「本人許可、確認」
その声が、少し柔らかかった。
カイが突然言った。
「その名前、大事にすればいい」
全員がカイを見る。
カイは少し居心地悪そうにしながらも、続けた。
「母親のこととか、俺にはよくわかんねえ。難しい話もわからん。でも、呼んでくれた人がいたなら、その名前は大事なんだろ」
アルトはカイを見た。
「うん」
「エルディアも大事なんだろうけど、アルトも大事でいいだろ。どっちか捨てる必要ねえじゃん」
「うん」
今度は、さっきよりはっきり頷けた。
カイは少し照れたように視線を逸らす。
「あと、呼びやすいしな。アルト」
ミリアが小さく笑った。
「最後でいつものカイさんに戻ったわね」
「大事だろ、呼びやすさ」
「ええ。大事よ」
ロウ教師が静かに言った。
「呼び名は、術式上も軽視できない。だが、それ以前に人が人を呼ぶ音だ。君がその名を自分のものとして受け取ることは、銀環反応の安定にも関わる可能性がある」
リゼが頷く。
「アルトという名の自己認識強化は、夢内応答時にも有効でした」
「そうだろう」
クラウスはアルトを見る。
「君の母親は、君を役割ではなく呼びたかった。少なくとも、私はそう記憶している」
「クラウスさん」
「何だ」
「母は、僕を手放したかったんですか」
その問いは、部屋を静かにした。
聞くつもりはなかった。
でも、聞いてしまった。
クラウスの顔から血の気が引いたように見えた。
リゼが口を開きかける。
範囲外。
停止。
そう言う前に、アルトは言った。
「詳しい理由は聞かない。でも、そこだけ知りたい」
クラウスは長く沈黙した。
ロウ教師も何も言わない。
ミリアの手が、アルトの右手を少し強く握る。
カイは黙っている。
クラウスはようやく口を開いた。
「手放したかったわけではない」
アルトは息を止めた。
「少なくとも、私の知る彼女は、君を手放したくなかった」
胸の奥が、痛いほど熱くなった。
「でも、僕は王都へ送られた」
「そうだ」
「母は、止めなかった?」
「止められなかった」
クラウスの声は低い。
「その時点で、彼女にできることは限られていた。君を隠すこと。記録の一部を歪めること。幼名を残すこと。それくらいだった」
「アルトという名前を?」
「そうだ」
アルトは左手首を押さえた。
熱い。
でも、嫌ではない。
涙が、ようやく一粒だけ落ちた。
自分でも驚いた。
泣くつもりはなかった。
ミリアが何も言わず、ハンカチを差し出した。
アルトは受け取る。
「すみません」
「謝らなくていいわ」
ミリアが言う。
リゼも静かに続ける。
「涙は異常ではありません」
カイが言った。
「泣くくらい普通だろ」
その言い方があまりにカイらしくて、アルトは泣きながら少し笑ってしまった。
クラウスは目を伏せたままだった。
「今日は、ここまでにしたいです」
アルトは言った。
「わかった」
クラウスは即座に頷いた。
リゼが記録を閉じる。
「停止確認。追加質問なし」
ロウ教師が封音札を解除する。
資料室の空気が少しだけ軽くなった。
外から、遠く生徒たちの声が聞こえる。
日常の音。
アルトはハンカチで目元を拭いた。
右手はまだミリアが握ってくれている。
左にはリゼがいる。
少し後ろにはカイがいる。
自分は今、資料室にいる。
白鐘礼拝堂ではない。
母はいない。
でも、母が呼んだ名前を、今も三人が呼んでくれる。
それが、胸を痛くする。
でも、温かくもする。
放課後まで、アルトは少しぼんやりしていた。
午後の授業は受けたが、ノートの字は少し乱れた。
ノエルに課題会へ誘われたが、今日は休むと伝えた。
ノエルはすぐに頷いた。
「うん。無理しないで」
ティナは「果実水、いる?」と聞いてくれた。
アルトは少し迷って、受け取った。
「ありがとう」
「うん」
彼女は深くは聞かなかった。
それがありがたかった。
夕方、四人は噴水横のベンチへ向かった。
今日は一人時間ではなく、四人時間。
アルトは自分からそう言った。
ベンチに座ると、夕方の風が頬を撫でた。
少し泣いた後の目元が、風に冷える。
カイが焼き菓子を差し出した。
「名前用」
「名前用?」
「母親が呼んでくれた名前を大事にする用」
いつもより少し長い。
でも、カイは真剣だった。
アルトは受け取った。
「ありがとう」
ミリアが微笑む。
「今日は、それが一番合っているわね」
リゼも頷いた。
「有効です」
アルトは焼き菓子を一口食べた。
甘い。
喉の奥に残っていた苦しさが、少しだけ和らぐ。
夕鐘が鳴った。
アルトの左手首が光る。
今日は、いつもより柔らかい光だった。
アルトは目を閉じる。
「痛みなし。熱、少し。声なし」
リゼが尋ねる。
「現在地は」
「学園中庭。夕方。噴水横。リゼさん、ミリアさん、カイといる」
ミリアが聞く。
「感情は」
アルトは少し考えた。
「悲しい。会いたい。少し怒ってる。でも、アルトって名前が前より大事になった」
リゼが静かに言う。
「良好です」
カイが頷く。
「大事にしろ」
「うん」
アルトは目を開けた。
「三人がアルトって呼んでくれるの、今日はいつもより嬉しい」
ミリアが柔らかく微笑んだ。
「アルトさん」
カイが少し照れながら言う。
「アルト」
リゼも、まっすぐに彼を見て言った。
「アルトさん」
その三つの呼び声が、夕鐘の余韻と重なる。
大きな鐘の音ではなく、その後に残る小さな音。
朝に残る小さな音。
母が好きだったという音。
アルトはそれを胸の奥で受け止めた。
夜。
男子寮の自室で、アルトは紙片を書いた。
今日は母の呼び名について聞いた。
母の名前は聞かなかった。
詳しい血筋も聞かなかった。
アルトという名は、白鐘地方の古い言葉で、朝に残る小さな音という意味があるらしい。
母は、大きな鐘そのものではなく、鐘の後に残る小さな余韻が好きだったらしい。
僕を役割で呼びたくなかったのだろうと、クラウスさんは言った。
母は、僕を抱いたらしい。
僕が泣くと、窓を閉めて、アルトと呼んでいたらしい。
大きな鐘のために生まれた子ではない、と言っていたらしい。
母は、僕を手放したかったわけではないらしい。
止められなかった。
できたことは、隠すこと、記録を歪めること、幼名を残すこと。
アルトという名前を残すこと。
僕は少し泣いた。
ミリアさんが手を握ってくれた。
リゼさんは、涙は異常ではないと言った。
カイは、泣くくらい普通だろと言った。
夕鐘で光った。
痛みなし。
熱、少し。
声なし。
悲しい。
会いたい。
少し怒ってる。
でも、アルトという名前が前より大事になった。
アルトはペンを止めた。
涙はもう止まっている。
でも、胸の奥はまだ熱い。
最後に、ゆっくりと書いた。
僕は、大きな鐘のためだけに生まれた子じゃない。
アルト。
母が残してくれた、小さな音。
紙片を折り、引き出しへ入れる。
窓の外には、夜の鐘楼が立っている。
大きな鐘。
けれど今夜は、その鐘そのものではなく、鳴り終わった後の静けさを思った。
そこに残る、細い余韻。
母が好きだったかもしれない音。
アルトは左手首を胸の上に置き、目を閉じた。
「現在地は、男子寮の自室。夜。僕はアルト。母がそう呼んだ名前」
銀環は淡く光った。
痛みはなかった。
その光は、誰かが遠くでそっと名前を呼んだ後のように、静かに、長く、手首の奥に残っていた。




