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灰銀の戦乙女は、制服を知らない  作者: 最後に残った形


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第2章 第14話:古いものに仕える者


 翌朝、王立アークレイン学園の空は、ひどく澄んでいた。


 昨日の騒ぎが嘘のように、青い空が校舎の上に広がっている。中庭の噴水はいつも通り水音を立て、鐘楼は沈黙したまま朝日を受けていた。


 だが、学園の空気は変わっていた。


 応接棟周辺には教師の巡回が増えている。通信塔の柵の前には新しい封印札が貼られ、立ち入り禁止の札が二重になっていた。第一校舎へ向かう生徒たちは、何があったのか詳しくは知らない。それでも、何かあったことだけは感じ取っているようで、いつもより声が低い。


 表向きには、王宮随行者の体調不良と通信塔の再点検。


 だが、リゼたちは知っている。


 王宮関係者を装った男が、応接棟でアルトへ旧い術式を発動した。


 黒い札。


 存在しない鐘の音。


 通信塔に仕込まれていた封信蔦。


 そして、男が口にした言葉。


 鍵は、名を得た。


 扉は、道を思い出す。


 リゼはその言葉を、朝から何度も反復していた。


 名を得た。


 アルトは出生名を知った。


 エルディア・レインフォード。


 だが、彼はアルトという名を選んだ。


 今は、アルト。


 その自己認識によって、銀環の暴走は収まった。


 なら、敵の狙いは何だったのか。


 ただ名を知らせることか。


 それとも、名を知らせた瞬間に、銀環を強く共鳴させることか。


 暗殺ではない。


 昨日の黒い札は、アルトを殺すための術式ではなかった。


 彼を呼ぶためのものだった。


 どこへ。


 銀環室へ。


 白鐘礼拝堂へ。


 王の影へ。


 まだ断定はできない。


 だが、危険の種類は変わった。


 リゼは女子寮の部屋で制服を整えながら、机の上の記録を見た。


 昨日の最後に書いた一文。


 情報を閉じることは、守ることにも、危険を招くことにもなる。


 本人の意思を含めない保護は、管理に近づく。


 その下に、今朝書き足した一文がある。


 敵の目的は、殺害ではなく、孤立化と共鳴誘導の可能性。


 ミリアが背後から声をかけた。


「今朝も顔が硬いわ」


「通常より硬いですか」


「昨日よりはまし。でも、まだ七割くらい戦場の顔」


「改善します」


「今すぐは難しいでしょうね」


 ミリアはリゼのリボンへ手を伸ばした。


 今日はリゼが自分で結んだ。


 右が少し長い。


 ミリアの指が布を解き、整え直す。


「昨日のことを考えているのね」


「はい」


「黒い札?」


「それもあります。封信蔦、通信塔、王宮引き渡し派、クラウス卿の証言、アルトさんの名前、私の過去」


「多いわね」


「はい」


 ミリアはリボンを結び終え、少しだけリゼの胸元に手を置いた。


「今日は、全部を一度に背負わないこと」


「はい」


「特に、あなたの過去のこと。ヴァルム補給線で何があったのかは、まだ全部わかっていないわ」


「可能性はあります」


「可能性は、確定ではない」


「はい」


「それを忘れないで」


 リゼは頷いた。


 昨日、クラウスは言った。


 リゼが旧領の者を斬った可能性はある、と。


 それは確定ではない。


 だが、否定もされなかった。


 胸の奥に残る冷たい棘は、今も抜けていない。


 けれど、今日考えるべきことはそれだけではない。


 アルトの銀環反応。


 黒い札。


 旧いものに仕える者。


 敵の狙い。


 今日は、それを整理しなければならない。


 中庭に出ると、アルトは噴水の近くにいた。


 昨日より少し顔色が悪い。


 だが、立っている。


 左手首にはいつもの布。昨日の強い反応の後で、内側の文字が濃くなっていることを、リゼは医務室で確認していた。


 カイは彼の隣で、今日は本当に静かに立っていた。


 声を抑える訓練が、ようやく自然になってきている。


 アルトがこちらに気づく。


「おはよう」


「おはようございます。体調は」


 リゼが尋ねると、アルトは少しだけ笑った。


「眠れた。夢は見た。白い礼拝堂と、学園の鐘楼が重なる夢。手首は朝起きた時に少し光っていた。痛みはなし。熱は少し。朝食はパン一つとスープ半分。気分は……疲れてる。でも、昨日より怖くない」


「夢の中で声は」


「なかった。ただ、鐘は鳴ってた」


「感情は」


「懐かしい、怖い、でも……昨日みたいに引っ張られる感じは少なかった」


「記録します」


 ミリアがそっと頷く。


「昨日、ちゃんと戻ってこられたからかもしれないわね」


 アルトは左手首に触れた。


「戻り方を、少し覚えた気がする」


 カイが言う。


「現在地言うやつか」


「うん。ここは学園。応接室じゃない。旧領でもない。今は朝」


「あと、俺たちがいる」


 カイは当然のように付け加えた。


 アルトは少しだけ照れたように笑う。


「それも」


 朝の鐘が鳴った。


 アルトの左手首が光る。


 昨日ほどではない。


 だが、以前より少し強い。


 名前を得たことで、鐘への反応全体が上がっている可能性。


 リゼは即座に確認する。


「痛みは」


「なし」


「熱は」


「少し」


「声は」


「なし」


「感情は」


「少し怖い。でも、戻ってきてる」


「現在地は」


 リゼが問うと、アルトは目を閉じて答えた。


「学園中庭。朝。リゼさんが左。ミリアさんが右。カイが前にいる」


「良好です」


 カイが振り返る。


「俺、前にいるか?」


「少し前です」


「自然警戒配置です」


 リゼが言う。


「なんか俺も護衛っぽくなってきたな」


「声を抑えれば、より有効です」


「抑えてるだろ」


「改善しています」


 アルトが笑った。


 笑える。


 それは良い兆候だった。


 午前の授業は通常通りだったが、教室の空気は落ち着かなかった。


 昨日の応接棟の騒ぎは噂になっているらしい。


 王宮の人が倒れた。


 通信塔が壊れた。


 学園長が怒った。


 ロウ教師が魔術を使った。


 話は少しずつ形を変え、生徒たちの間を流れていた。


 リゼたちは、何も言わなかった。


 アルトも。


 ただ、授業中に鐘や王宮という単語が出るたび、アルトは左手首を机の下で軽く押さえた。


 大きな反応はない。


 だが、以前より感度が上がっている。


 リゼはノートの端に書く。


 名の開示後、鐘への反応が基礎的に上昇。


 ただし、本人の現在地確認により安定化可能。


 午前の最後、ロウ教師が授業後にリゼたちを呼び止めた。


「昼休み、資料室へ来なさい。昨日の札と通信塔の封信蔦について、簡易分析が終わった」


 四人は顔を見合わせた。


 アルトは少し緊張したが、頷いた。


「行きます」


 ロウ教師は彼の顔を見る。


「無理はするな」


「はい。無理なら言います」


「それならよい」


 昼食は急がず取った。


 ミリアが強くそう主張したからだ。


「分析結果を聞く前に、食べること」


「食べながらでも聞けるだろ」


 カイが言うと、ミリアが即座に首を横に振る。


「重い話と食事を混ぜると、食事が嫌になるわ」


「そういうもんか」


「そういうものよ」


 アルトがスープを手にして頷いた。


「僕は、今日は先に食べたい」


「なら決まりです」


 リゼは食事量を確認する。


 アルト、パン一つ、スープ三分の二。


 リゼ、自分もパン一つ、野菜、果実水。


 ミリアの視線を受けたため、野菜は残さなかった。


 カイは今日は五人分ではなく、四人分に近い量を買ってきた。


 ただし、焼き菓子は余分にある。


「これは別枠だ」


「何の別枠ですか」


 リゼが問う。


「非常用」


「精神安定用甘味としては有効です」


「だろ」


 カイは得意げに笑った。


 アルトも少し笑い、焼き菓子を一つ受け取った。


 食後、四人はロウ教師の資料室へ向かった。


 資料室は第一校舎の奥、教師用区画の一角にある。


 古い本棚、術式板、封印箱、記録机。部屋には乾いた紙と薬草、魔術インクの匂いが混じっていた。


 ロウ教師のほかに、クラウス、ユリウス、エレオノーラがいた。


 クラウスは昨日より疲れた顔をしている。おそらく王宮への報告後、ほとんど眠っていない。


 ユリウスは白い制服姿だが、表情は硬い。


 エレオノーラは記録板を持って立っている。ただし、アルトを見た後、すぐに言った。


「記録してよい範囲を確認します」


 アルトは少し驚き、それから頷いた。


「昨日の術式分析と、僕の反応の概要だけなら。夢の内容は、まだ書かないでください」


「承知しました」


 リゼはそのやり取りを確認する。


 本人許可。


 改善。


 ロウ教師は机の上に、封印布で包まれた黒い札の破片と、通信塔から剥がした封信蔦の灰を入れた小瓶を置いた。


「結論から言う。この二つは同じ術式系統だ」


 クラウスが低く言う。


「旧王権術式」


「正確には、その崩れた残滓だ。王宮式でも、現代魔術でもない。古代王権術式を真似たもの、あるいは、古い封印に長く触れた者たちが使う術式だ」


 ユリウスが言う。


「王の影側」


 ロウ教師は否定しなかった。


「その可能性が高い」


 アルトの左手首が淡く光る。


「痛みなし。熱、少し。声なし。感情は、嫌な感じ」


 ミリアが隣で頷く。


 リゼは確認後、ロウ教師へ問う。


「黒い札の目的は、アルトさんの殺害ですか」


「違う」


 ロウ教師は即答した。


 部屋の空気が変わる。


「殺傷術式ではない。強制共鳴札だ。対象の内側にある古い術式反応を刺激し、特定の記憶、名、場所、感情を浮かび上がらせる」


「記憶を?」


 アルトが聞く。


「記憶そのものを作るわけではない。だが、眠っている反応を叩き起こす」


 ロウ教師は黒い札の破片を指した。


「昨日、君は出生名を知った。その直後にこの札が使われた。偶然ではない。名を得たことで輪の回路が開きかけ、そこへ外から鐘の術式を叩き込んだ」


 アルトは左手首を押さえた。


「だから、鐘が聞こえた」


「そうだろう」


 クラウスが険しい顔で言う。


「目的は銀環室への誘導か」


「その可能性が高い」


 ロウ教師は頷く。


「だが、直接歩かせるほどの力はなかった。レインフォード君が自分の現在地を確認し、周囲が呼び戻したため、共鳴は途中で切れた」


 カイが小さく息を吐く。


「戻ってきたから、助かったってことか」


「そうだ」


 ロウ教師はカイを見る。


「君の声も、おそらく効いた」


「俺の?」


「外部からの強い現実刺激は、共鳴を断つ助けになる」


 カイは少し驚き、それから真剣な顔で頷いた。


「じゃあ、次も呼ぶ」


「ただし、大声は状況を見て」


 ミリアが言う。


「わかってる」


 リゼは黒い札を見つめた。


「封信蔦は」


 ロウ教師は小瓶を持ち上げる。


「通信塔の封信蔦も同系統。通信内容を封じるだけでなく、特定の言葉に反応して送信経路を歪める。おそらく、“銀環”“鍵”“エルディア”“王の影”といった語に反応するよう仕込まれていた」


 エレオノーラが青ざめる。


「つまり、私たちが記録した内容を送っていれば」


「敵側へ抜かれていた可能性がある」


 ユリウスが拳を握った。


「僕の通信制限が隠れ蓑になった」


「その通りだ」


 ロウ教師は厳しく言った。


 ユリウスは目を伏せる。


 アルトが彼を見る。


「ユリウス先輩」


「何かな」


「昨日も言いましたけど、僕は勝手に閉じられたのは嫌です」


「うん」


「でも、今は責めるより、次に同じことをしない方法を考えたい」


 ユリウスは顔を上げた。


 アルトは続ける。


「僕も、リゼさんも、たぶん知らないまま使われるのが怖い。だから、通信を閉じるなら、閉じる理由を記録して、関係者に見せてください」


 エレオノーラがすぐに記録板へ何かを書き込んだ。


 ユリウスは苦笑する。


「記録補佐がいると逃げられないな」


「逃げないでください」


 アルトが言う。


 その声は静かだが、強かった。


 ユリウスは深く頷いた。


「わかった」


 リゼはロウ教師へ視線を戻す。


「黒い札の術式は、アルトさんの恐怖や孤独を利用しますか」


「利用する」


 ロウ教師は机の上に古い術式図を広げた。


「古い王権術式は、血統、名、場所、誓約、感情に反応する。とくに封印に関わる“鍵”は、孤立状態で響きやすい」


 閉架資料室の言葉。


 孤独な鍵ほど、よく響く。


 リゼは拳を握った。


「では、これまでの事故は」


 ロウ教師はリゼの言葉を継いだ。


「暗殺ではなく、孤立化と共鳴誘導だった可能性がある」


 部屋の空気が重くなる。


 中央食堂の事故。


 講堂のシャンデリア。


 旧校舎への誘導。


 白い視線。


 封書。


 通信遮断。


 すべてが、アルトを孤独と恐怖へ追い込むためだったとしたら。


 ミリアが低く言った。


「アルトさんが怖がるほど、銀環が響く」


 アルトの手が震える。


「僕が怖がることも、利用されるの?」


 ロウ教師はすぐに答えなかった。


 その沈黙が答えだった。


 アルトの顔が青ざめる。


 銀環が光り始める。


 リゼはすぐに言った。


「現在地は」


 アルトは目を閉じる。


「資料室。昼過ぎ。リゼさんが左。ミリアさんが右。カイが前。ロウ先生、クラウスさん、ユリウス先輩、エレオノーラ先輩がいる」


「痛みは」


「ない」


「熱は」


「少し強い」


「声は」


「ない」


「感情は」


「怖い」


 ミリアがそっと言う。


「怖い時は、言って」


「うん」


「隠す方が危ないわ」


「うん」


 カイが真剣な顔で言った。


「じゃあ、一人にしなきゃいいんだろ」


 あまりに単純な言葉だった。


 しかし、部屋の中で誰も笑わなかった。


 ロウ教師が頷く。


「単純だが、有効だ」


 カイは少し驚く。


「本当に?」


「孤立化を狙う敵に対して、孤立させないことは基本的な対策になる」


「なら、ずっと一緒にいる」


 カイは即答した。


 アルトが少し目を丸くする。


「ずっとは、授業とか寮とか」


「できるだけだ」


 ミリアが補う。


「近づきすぎず、離れすぎずね。アルトさんが息をできる距離で」


 リゼは頷く。


「一人時間は継続。ただし、開けた場所、視界内、時間制限あり。心理的安定と自由確保のため必要」


 クラウスが静かにそれを聞いていた。


「君たちは、そこまで決めていたのか」


「必要だったので」


 リゼが答える。


 アルトが少しだけ笑う。


「僕が怒ったからです」


 クラウスはアルトを見る。


「怒った?」


「一人になりたいって言った時、リゼさんに止められて。僕は荷物じゃない、鍵でもない、護衛対象だけでもないって怒りました」


 クラウスはしばらく黙っていた。


 そして、小さく言った。


「よく怒った」


 アルトは驚いた。


「え?」


「怒るべきところで怒れない者は、王宮に簡単に飲まれる」


 クラウスの声は苦かった。


「君は怒った方がいい。私にも、王宮にも、君を黙って動かそうとする者すべてに」


 アルトは少し戸惑ったように頷いた。


「……はい」


 リゼはクラウスを見る。


 この男は、アルトを隠し、動かし、名前を変えた。


 だが、今は怒れと言っている。


 矛盾している。


 人は矛盾する。


 それを、リゼは学び始めていた。


 ロウ教師は分析結果をまとめた。


「敵の目的は、現時点では三つと考えられる。一つ、アルト君の銀環反応を進めること。二つ、彼を孤立させ、自己否定や恐怖を強めること。三つ、銀環室または白鐘礼拝堂に関わる古い封印へ導くこと」


 ミリアが問う。


「殺すつもりはない?」


「今のところ、殺すより使うつもりだろう」


 その言葉に、アルトが目を伏せる。


 リゼは言う。


「使わせません」


 カイが頷く。


「使わせねえ」


 ミリアも静かに言う。


「一人にしないわ」


 アルトは三人を見た。


 その表情に、不安と、少しの安堵が混じる。


「ありがとう」


 ロウ教師はさらに言った。


「ただし、ずっと囲めばよいわけではない。囲い込みは別の孤独を作る。彼が自分で選び、話し、拒否できる状態を保つことだ」


 リゼはその言葉を記憶する。


 囲い込みは別の孤独を作る。


 重要。


 クラウスが静かに続けた。


「王宮がやってきた失敗だ」


 誰もすぐには返さなかった。


 クラウスは自嘲するように笑う。


「守る名目で囲い、情報を隠し、選択肢を奪う。結果、鍵は孤独になる。孤独な鍵は、よく響く」


 その言葉は、閉架資料室の手紙と同じだった。


 リゼはクラウスを見る。


「あなたも、その文を知っていたのですね」


「ああ」


「では、なぜ同じことを」


「恐れていたからだ」


 クラウスはアルトを見る。


「君を失うことを。王の影に取られることを。王宮内の利用派に奪われることを。恐れた結果、私は君を孤独にした」


 アルトは黙っていた。


 それを許すとは言わなかった。


 だが、聞いていた。


「だから」


 クラウスは続ける。


「君たちのやり方が、私には危うく見える。だが、もしかすると、正しいのかもしれない」


 カイが言った。


「今さらかよ」


 ミリアが小声でたしなめる。


「カイさん」


「でも、そうだろ」


 クラウスは怒らなかった。


「その通りだ」


 カイは少しだけ拍子抜けした顔をした。


 資料室での分析会は、思ったより長く続いた。


 対策が整理された。


 鐘の音への反応時は、現在地確認。


 名前に関する刺激は、事前に本人へ確認。


 古代王権術式、王の影、鍵、封印に関する情報は、一度に与えすぎない。


 しかし、隠しすぎない。


 アルト本人が知りたい情報を選び、休憩を挟む。


 通信内容は本人確認の上で共有。


 封信蔦のような術式侵入を防ぐため、通信塔はロウ教師とエレオノーラが共同で点検。


 ユリウスは通信制限の理由を文書化し、関係者へ開示。


 カイは外部警戒担当。


 ただし、突撃前に確認。


 ミリアは情報整理と心理負荷調整。


 リゼは護衛と危険分析。


 アルトは、自分の状態と意思を申告する。


 最後の項目を聞いた時、アルトは少し笑った。


「僕にも担当があるんだ」


「あります」


 リゼは言った。


「あなたの情報は、あなたにしか出せません」


「うん」


 アルトは頷いた。


「じゃあ、僕もちゃんとやる」


 その言葉は、守られるだけではないという意思だった。


 資料室を出る頃には、夕方が近づいていた。


 ロウ教師はアルトに医務室で再確認を受けるよう言ったが、今日は昨日ほどの強反応はないため、簡易確認で済んだ。


 クラウスは王宮への追加報告のため、通信塔へ向かうことになった。


 ユリウスとエレオノーラも同行する。


 別れる前、クラウスはアルトへ言った。


「アルト君」


「はい」


「私は今夜、学園に残る。明日、王宮から返答が来るだろう」


「僕を連れて行けと?」


「可能性はある」


 アルトの顔が硬くなる。


「私は反対する。学園長も、ロウ先生も、現状維持を支持している」


「それでも、王宮が命令したら?」


 クラウスはすぐには答えなかった。


 アルトはじっと待つ。


 クラウスはようやく言った。


「その時は、君の意思と、銀環反応の危険性を理由に延期を求める」


「連れて行かないと約束は」


「まだできない」


 アルトは少しだけ唇を噛んだ。


「正直に言ってくれて、ありがとうございます」


 クラウスは痛みをこらえるような顔をした。


「君にそう言われる資格は、私にはあまりない」


「それを決めるのも、僕です」


 アルトはそう言って、軽く頭を下げた。


 クラウスは目を伏せた。


 リゼはそのやり取りを見ていた。


 信頼ではない。


 和解でもない。


 だが、嘘のない会話が少しだけ成立している。


 それは、昨日までにはなかったものだ。


 夕方の中庭。


 四人は噴水横のベンチへ向かった。


 アルトは今日は一人時間を求めなかった。


「今日は、四人でいたい」


 そう言った。


 リゼは頷いた。


「了解しました」


 ミリアが微笑む。


「では、四人時間ね」


「また新しい言葉が」


 カイが言う。


「いいじゃない。今日にぴったりだわ」


 四人はベンチとその周囲に座った。


 リゼは少しだけ距離を取ろうとしたが、アルトが言った。


「今日は、もう少し近くてもいい」


 リゼはその言葉を受けて、半歩近づいた。


 近すぎず。


 遠すぎず。


 その日の距離。


 アルトは自分の左手首を見た。


 布の下の銀環は見えない。


「僕が怖がると、響くんだね」


 ミリアが静かに答える。


「怖がること自体が悪いわけじゃないわ」


「でも、利用される」


「だから、怖い時は言うの。隠すと、敵にとって都合がいい」


 カイが焼き菓子を差し出す。


「食うか」


 アルトは少し笑った。


「うん」


 焼き菓子を受け取り、一口食べる。


 リゼはその様子を見て、記録したい衝動を抑えた。


 今は記録より、同じ時間の中にいること。


 ただし、後で記録する。


 夕鐘が鳴った。


 いつもと同じ音。


 けれど、今日のリゼには、昨日の存在しない鐘の音と重なって聞こえた。


 アルトの左手首が光る。


 以前より強い。


 だが、昨日より穏やか。


 アルトは目を閉じ、自分で言った。


「痛みなし。熱、少し。声なし」


「現在地は」


 リゼが尋ねる。


「学園中庭。夕方。噴水横。リゼさん、ミリアさん、カイといる」


「感情は」


 ミリアが聞く。


 アルトは少し考えた。


「怖い。でも、今日は一人じゃないって、ちゃんとわかる」


 カイが笑った。


「ならよし」


 ミリアが頷く。


「ええ」


 リゼも言った。


「良好です」


 アルトは目を開け、三人を見た。


「明日も、一緒に昼を食べたい」


 その言葉は、唐突だった。


 けれど、アルトにとってはきっと大事な言葉だった。


 リゼは一瞬だけ答えを探した。


 明日も危険はある。


 王宮からの返答も来る。


 通信塔も不安定。


 敵もいる。


 だが。


「はい」


 リゼは言った。


「昼食同行、継続します」


 カイが笑う。


「普通に、一緒に食おう、でいいだろ」


「では、一緒に食べます」


 アルトは少しだけ笑った。


「うん」


 ミリアが柔らかく言う。


「約束ね」


「約束」


 アルトはその言葉を繰り返した。


 男子寮への分岐点で、アルトは立ち止まった。


「今日は、たくさん聞いて、たくさん怖かった」


「はい」


 リゼが答える。


「でも、昨日より少しだけ、怖がり方がわかった気がする」


「怖がり方」


「うん。一人で隠すんじゃなくて、言う。今どこにいるか確認する。手を握ってもらっていいか聞く。休みたい時は言う」


 ミリアが目を細めた。


「とても大事ね」


 カイが頷く。


「あと、菓子食う」


「それも?」


 アルトが笑う。


「効くだろ」


「効くかもしれない」


 リゼは真面目に言った。


 全員が少し笑った。


 夜。


 三〇七号室で、リゼは記録を書いた。


 黒い札。


 強制共鳴札。


 殺傷目的ではなく、名、記憶、場所、感情を刺激。


 封信蔦。


 通信経路歪曲。


 旧王権術式の残滓。


 敵の目的。


 暗殺ではなく、孤立化と共鳴誘導。


 対策。


 現在地確認。


 本人意思確認。


 情報量調整。


 隠しすぎない。


 一人時間、四人時間。


 恐怖の申告。


 孤立を避ける。


 囲い込みも避ける。


 リゼはペンを止めた。


 そして、もう一行書いた。


 友人関係は、術式対策としても有効な可能性。


 書いてから、リゼはその文を見つめた。


 友人関係。


 まだ完全には理解していない。


 だが、今日のアルトは言った。


 明日も、一緒に昼を食べたい。


 それは、対策として言ったのではない。


 ただ、そう望んだ。


 そして、その望みが結果的に銀環への対策にもなる。


 ミリアが向かいでお茶を淹れながら、リゼの手元を覗いた。


「友人関係、って書いたのね」


「はい」


「検討中ではなく?」


「可能性として」


「十分な進歩だわ」


 リゼは少し考える。


「友人とは、術式対策になるのでしょうか」


 ミリアはしばらく黙った後、微笑んだ。


「術式対策になるために友人になるわけではないわ。でも、友人だからこそ、結果として守れるものがあるのだと思う」


 リゼはその言葉を記録したくなった。


 だが、今はただ覚えることにした。


 窓の外には、通信塔と鐘楼が見える。


 どちらも静かだ。


 だが、もうただの塔には見えない。


 鐘楼はアルトを呼ぶかもしれない。


 通信塔は誰かの意志に閉じられるかもしれない。


 それでも、学園には中庭がある。


 昼食の席がある。


 噴水横のベンチがある。


 七分の一人時間。


 そして、四人で過ごす時間。


 リゼは記録の最後に、今日のアルトの言葉を書いた。


 明日も、一緒に昼を食べたい。


 それは事件の記録ではない。


 術式分析でもない。


 だが、今のリゼには、黒い札の分析と同じくらい重要に思えた。


 彼を孤独にしないために。


 彼が自分を鍵だけだと思わないために。


 そして、自分たちもまた、誰かの駒だけではないと確かめるために。


 リゼはペンを置いた。


 夜の鐘はまだ鳴らない。


 静けさの中で、明日の昼食の約束だけが、確かな小さな灯のように残っていた。


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