第2章 第15話:護衛対象の少年
翌朝、アルト・レインフォードは鐘の音を待っていた。
男子寮の窓辺に立ち、まだ鳴らない鐘楼を見ている。朝の光は薄く、窓ガラスには自分の顔がぼんやり映っていた。
栗色の髪。
少し疲れの残る目。
制服の襟。
左手首に巻いた布。
その下には、銀環痕がある。
昨日より少し濃くなった文字。自分の名を聞いたことで、輪は一段階、深く刻まれた。
エルディア・レインフォード。
出生名。
王宮監察局の旧保管庫に残る名。
白鐘紙工房の記録にあったはずの名。
そして。
アルト。
母が呼んでいたという幼名。
クラウスが隠すために使った名であり、それでも嘘ではなかった名。
アルトは自分の胸元に手を当てる。
昨日、応接室でその名前を聞いた瞬間、銀環が強く光った。存在しない鐘が鳴り、自分の意識はどこか遠くへ引かれかけた。
けれど、戻ってきた。
リゼが肩に手を置き、現在地を確認させてくれた。
ミリアが手を握ってくれた。
カイが廊下から名前を呼んでくれた。
自分でも言った。
アルト・レインフォード。
エルディア・レインフォードでもある。
でも、今はアルト。
あの言葉を口にした時、何かが胸の中で決まった気がした。
エルディアという名は怖い。
知らなかった過去と、失われた故郷と、消された記録と、王宮の監察を連れてくる名だ。
でも、嫌ではなかった。
自分から奪われていたものが、戻ってきたような気もした。
そして、アルトという名も消えなかった。
母が呼んだ名。
カイが呼ぶ名。
ミリアが呼ぶ名。
リゼが呼ぶ名。
今の自分が、自分で選んだ名。
アルトは布の上から左手首に触れた。
熱はない。
痛みもない。
昨夜の夢では、白い礼拝堂が遠くに見えた。割れた鐘があった。銀の池が光っていた。けれど、その夢は以前ほど怖くなかった。
夢の中で、彼は一人ではなかったからだ。
誰の姿もはっきりとは見えなかった。
それでも、背後に誰かがいる気配があった。
リゼの冷静な声。
ミリアの柔らかい手。
カイの大きすぎる足音。
それだけで、夢の中の鐘は少し遠くなった。
朝の鐘が鳴る。
澄んだ音が、学園の空へ広がる。
アルトの左手首が淡く光った。
彼は目を閉じ、ゆっくり息を吸う。
「痛みなし。熱、少し。声なし」
自分で言う。
まだ誰もそばにいない。
けれど、言葉にすると現実へ戻りやすい。
「現在地は、男子寮の自室。朝。これから中庭へ行く。リゼさん、ミリアさん、カイと合流する」
銀環の光は強くならなかった。
アルトは小さく息を吐いた。
怖い。
でも、歩ける。
彼は机の上に置いていた紙片を手に取った。
今日、書くこと。
朝鐘への反応。
夢。
昼食の約束。
そして、その下に小さく書いた一文。
今日は、三人にちゃんと言いたい。
アルトは紙片を折り、制服の内ポケットへ入れた。
中庭に出ると、リゼたちはすでに来ていた。
リゼはいつものように周囲を確認している。ただし、以前ほど鋭く見回してはいない。視線は必要な場所へだけ向かい、すぐに戻る。
ミリアはその隣で、朝の風に髪を押さえている。
カイは少し前に立っていたが、今日は見張りというより、ただ待っているように見えた。
アルトが近づくと、三人が同時にこちらを見る。
それだけで、胸の奥が少し温かくなった。
「おはよう」
「おはようございます。体調は」
リゼがすぐに尋ねる。
いつもの言葉。
けれど、もう冷たい確認には聞こえなかった。
アルトは笑って答えた。
「眠れた。夢は見たけど、怖さは少なかった。朝鐘で少し光った。痛みなし、熱少し、声なし。朝食は、パン一つ、スープ全部。気分は……疲れてるけど、悪くない」
カイが満足そうに頷いた。
「スープ全部ならいいな」
「カイ、最近そればっかりだね」
「大事だろ、飯」
ミリアが微笑む。
「正しいわ。食べられるのは大事よ」
リゼも頷いた。
「食事摂取、良好です」
アルトは少し笑った。
「記録していいよ」
「本人許可あり」
リゼは即座に返す。
ミリアが小さく笑った。
四人は第一校舎へ向かって歩き出した。
並びはいつも通り。
アルトの左隣にリゼ。
右側にミリア。
少し外側にカイ。
護衛隊列ではない。
けれど、まったくの普通でもない。
それが今の四人にとって自然な形になっていた。
中庭を進みながら、アルトは鐘楼を見上げた。
昨日までは、鐘楼を見るたび胸が締めつけられた。
今も怖い。
でも、少しだけ違う。
鐘は自分を呼ぶかもしれない。
銀環を響かせるかもしれない。
それでも、鐘の音を聞いた時に戻る方法を知っている。
現在地を言うこと。
熱や痛みを確認すること。
怖いと言うこと。
一人で抱えないこと。
リゼがふと尋ねた。
「鐘楼を見ていますか」
「うん」
「不快ですか」
「少し怖い。でも、今日は見ていたい」
「了解しました」
リゼはそれ以上止めなかった。
アルトは少しだけ嬉しくなる。
危ないから駄目。
以前なら、そう言われたかもしれない。
今のリゼは、まず聞く。
止める時もある。
でも、どうすればできるかを考えてくれる。
それが、アルトには大きかった。
カイが言う。
「怖いなら、俺が鐘楼に文句言ってやるぞ」
「鐘楼に?」
「うるせえぞって」
「それは、ちょっと見てみたいかも」
ミリアが呆れた声を出す。
「やめてください。学園中の噂になります」
「もう噂だらけだろ」
「増やさない」
リゼが言う。
カイは肩をすくめた。
「わかったよ」
アルトは笑った。
朝の光の中で笑う。
ただそれだけのことが、少し前までは難しかった気がする。
午前の授業は、いつもより落ち着いていた。
昨日の事件後、教師たちは生徒の様子を慎重に見ている。ロウ教師は普段通りの淡々とした態度だったが、時折リゼたちの方へ視線を向けた。
アルトは授業中、左手首が反応するたび机の下で小さく合図した。
王宮、封印、鐘といった言葉には少し反応する。
けれど、強くはならない。
現在地確認を何度か心の中で繰り返した。
第一校舎。
午前。
一年C組。
リゼは左前方。
ミリアは隣。
カイは後ろで少し眠そう。
その最後の項目で、少し笑いそうになった。
カイは本当に眠そうだった。
だが、今日は頑張っていた。自分の腕をつねり、目を開け、授業を聞いている。
魔術理論の授業中、教師が古い術式の共鳴について触れた時、アルトの銀環が少し光った。
リゼが視線だけで確認する。
アルトは小さく頷いた。
痛みなし。
熱少し。
声なし。
怖いけど平気。
言葉にしなくても、少し伝わるようになっていた。
それは便利だと思った。
同時に、嬉しいとも思った。
昼休み。
約束の時間だった。
昨日、アルトは言った。
明日も、一緒に昼を食べたい。
それは自分から言った約束だった。
だから、昼の鐘が鳴ると、アルトは少し緊張した。
本当に、ただ一緒に昼を食べるだけ。
けれど、それは彼にとって小さな任務よりもずっと難しかった。
誰かと一緒にいたいと言うこと。
その願いを受け取ってもらうこと。
当たり前のように席へ向かうこと。
四人は中庭の休憩席へ向かった。
いつもの場所。
噴水が見えるが、少し離れている。人通りはほどほどにあり、死角は少ない。リゼが選んだ席だが、最近は誰もそれを特別なこととして言わなくなった。
カイが売店から食事を持って戻ってくる。
今日は、本当に四人分だった。
ミリアが目を丸くする。
「カイさん、成長したわ」
「だろ」
「焼き菓子は?」
アルトが尋ねる。
カイは得意げに袋を持ち上げた。
「非常用は別枠だ」
ミリアが笑った。
「そこは変わらないのね」
「必要だろ」
リゼが真面目に頷く。
「精神安定用甘味として有効です」
「リゼが言うと説得力あるな」
アルトは焼き菓子を一つ受け取った。
それから、ふと思った。
この時間を、敵はどう見るのだろう。
孤独な鍵ほど、よく響く。
なら、四人で昼を食べるこの時間は、敵にとって邪魔なのだろうか。
そう思うと、少しだけ胸がすっとした。
パンを食べる。
スープを飲む。
ミリアが野菜を分ける。
リゼが食事量を確認する。
カイが食べる速度を競おうとしてミリアに止められる。
ただそれだけの時間。
でも、それが自分をここに繋ぎ止める。
アルトは食事の途中で言った。
「昨日の約束、守れたね」
三人がこちらを見る。
「昼食の?」
ミリアが尋ねる。
「うん。一緒に食べたいって言ったから」
カイが不思議そうに言う。
「そりゃ食うだろ」
「でも、約束だったから」
アルトは少しだけ照れた。
「こういうの、あんまりなかったんだ。明日一緒に何かしようって言って、本当にそうなること」
カイの表情が少し変わった。
ミリアも静かに聞いている。
リゼはパンを置いた。
「今後、昼食同行を継続します」
「任務みたいだね」
「任務ではありません」
リゼは少し考えてから言った。
「約束です」
アルトは目を瞬いた。
それから、小さく笑った。
「うん。約束」
その言葉を言った瞬間、左手首がほんの少し光った。
リゼがすぐに反応する。
「痛みは」
「ない」
「熱は」
「少し」
「声は」
「なし」
「感情は」
アルトは左手首を見た。
「安心した」
ミリアが微笑む。
「安心でも反応するのね」
「うん。でも、嫌じゃない」
リゼは頷いた。
「安心時の微弱反応。安定傾向」
「記録する?」
アルトが聞く。
「後で」
リゼは言った。
「今は食事中です」
ミリアが満足そうに頷いた。
「とてもよろしい」
午後の授業後、クラウスから呼び出しはなかった。
王宮への報告に対する返答は、まだ来ていないらしい。
ユリウスとエレオノーラは通信塔でロウ教師と作業を続けている。クラウスも学園内に残っているが、今日の面会は行わないと伝えられた。
休息。
情報整理。
銀環反応の安定確認。
それが今日の方針だった。
放課後、四人は図書館塔へ行かず、中庭の噴水横へ向かった。
アルトは少し迷ってから言った。
「今日は、一人時間じゃなくて、少し話したい」
「四人時間ですか」
リゼが尋ねる。
「うん」
カイが腕を組む。
「昨日できたばっかりの言葉なのに、もう定着してるな」
「便利でしょう?」
ミリアが言う。
「まあな」
四人はベンチの周囲に座った。
夕方の光が校舎の窓を染めている。
噴水の水音は静かで、遠くの鐘楼はまだ鳴らない。
アルトは膝の上で手を組んだ。
今日、言うと決めていたこと。
紙片に書いた言葉。
朝から何度も考えていた。
けれど、口にするのはやはり怖い。
リゼが気づいた。
「話す内容は、負荷が高いですか」
「たぶん。でも、悪い話じゃない」
「休憩を挟めます」
「うん」
ミリアが柔らかく言う。
「ゆっくりでいいわ」
カイは何も言わず、焼き菓子の袋を机代わりの石の上に置いた。
非常用。
それがあるだけで、少し気が抜けた。
アルトは深く息を吸った。
「僕は、ずっと守られるのが嫌だったんだと思う」
三人は黙って聞いている。
「正確には、守られることが嫌だったわけじゃない。守るって言われて、何も知らされなくなるのが嫌だった。危ないから駄目、危ないから黙って、危ないから行くな、危ないから聞くなって言われるのが」
リゼの表情が少し硬くなる。
アルトはすぐに続けた。
「リゼさんだけの話じゃないよ。昔からずっとそうだった」
「はい」
リゼは静かに頷いた。
「王宮も、大人たちも、クラウスさんも。きっと守ろうとしてくれた人もいたんだと思う。でも、僕はその中で、自分が何なのかわからなくなった」
左手首が少し温かい。
でも、光は弱い。
「鍵って呼ばれて、王宮に見られて、旧領から送られて、本当の名前も知らなくて。自分が何者なのか、誰かが決めているみたいだった」
ミリアが目を伏せる。
カイは拳を握っている。
リゼはアルトから目を逸らさない。
「でも、ここに来てから、少しずつ変わった」
アルトは三人を見た。
「リゼさんは、最初はすごく近かった。正直、少し怖かった」
リゼの肩がわずかに動く。
「はい」
「でも、僕が嫌だって言ったら、距離を考えてくれた。僕が一人になりたいって言ったら、完全に一人じゃなくても、自分の時間を持てるようにしてくれた」
「はい」
「ミリアさんは、怖いって言っていいって教えてくれた。大丈夫じゃない時に、大丈夫って言わなくていいって」
ミリアは静かに微笑んだ。
「ええ」
「カイは……」
アルトは少しだけ笑った。
「パンとか焼き菓子をくれた」
「そこかよ」
カイが言う。
「そこも大事だよ」
「そうか?」
「うん。カイは難しいことを言わないけど、僕がいてよかったって言ってくれた。それが、すごく助かった」
カイは照れたように視線を逸らした。
「思ったこと言っただけだ」
「うん。それがよかった」
アルトは自分の左手首に触れた。
「昨日、クラウスさんからエルディアって名前を聞いた時、怖かった。でも、アルトが消えなくてよかったって思った。たぶん、それは三人がアルトって呼んでくれた時間があったからだと思う」
リゼが息を止めた。
ミリアの目が潤む。
カイは黙っている。
「だから」
アルトは少し言葉に詰まった。
怖い。
でも、言う。
「僕は、三人に護衛されているだけじゃなくて、一緒にいたい」
銀環が淡く光る。
痛みはない。
熱は少し。
安心と緊張が混ざっている。
「僕は、護衛対象かもしれない。鍵かもしれない。エルディアでもある。でも、今はアルトで、三人と一緒に昼を食べたいし、授業を受けたいし、くだらない話もしたい」
声が震える。
けれど、止めなかった。
「これを、友達って言っていいのか、まだよくわからないけど」
カイが即座に言った。
「いいだろ」
早かった。
あまりにも早かった。
アルトは目を瞬く。
カイは当然のような顔をしている。
「一緒に飯食って、危ない時に助けて、怒る時は怒って、戻ってきたらおかえりって言う。それで友達じゃなかったら何なんだよ」
ミリアが少し笑った。
「あなたの定義、最初からあまり変わらないわね」
「間違ってねえだろ」
「ええ。間違っていないと思うわ」
ミリアはアルトを見た。
「少なくとも、私はアルトさんを大切な友人だと思っているわ」
アルトの目が揺れた。
大切な友人。
その言葉は、胸の奥にまっすぐ入ってきた。
そして、リゼが黙っていた。
アルトは少しだけ不安になる。
リゼは考えている。
いつものように。
分類しようとしているのかもしれない。
友人。
護衛対象。
同級生。
鍵。
アルト。
彼女の中で、それらが並んでいるのだろう。
やがて、リゼは口を開いた。
「友人の定義は、まだ完全には整理できていません」
「うん」
アルトは頷いた。
リゼらしい答えだった。
「ですが」
リゼは続けた。
「私は、あなたが危険だから守るのではありません」
アルトは息を止めた。
「あなたを失いたくないので、守ります」
噴水の水音が、やけに大きく聞こえた。
リゼの表情はいつも通り真面目だった。
けれど、その言葉は任務報告ではなかった。
「また、あなたと昼食を取りたいと思います。あなたの状態を記録する必要がなくても、あなたが話すことを聞きたいと思います。あなたが怖いと言った時、危険情報としてだけでなく、あなたが苦しんでいることとして受け取りたいと思います」
リゼは少しだけ目を伏せた。
「これが友人に該当するかは、ミリアさんとカイさんの定義に照らすと、高い可能性があります」
カイが吹き出した。
「最後で硬くなるなよ」
ミリアは涙を指で拭いながら笑っている。
アルトも、笑った。
笑いながら、少しだけ泣きそうになった。
「ありがとう」
声がかすれる。
「三人とも」
ミリアが立ち上がり、そっとアルトの肩に手を置いた。
「こちらこそ」
カイは焼き菓子を一つ差し出した。
「泣く前に食え」
「それ、どういう理屈?」
「知らん。でも効くだろ」
アルトは受け取って、笑った。
リゼはその様子を見て、ほんの少しだけ口元を緩めた。
夕鐘が鳴った。
その瞬間、アルトの左手首が光った。
以前より強い。
だが、昨日のような鋭さはない。
温かい光。
少なくとも、アルトにはそう感じた。
彼は目を閉じる。
「痛みなし。熱、少し。声なし」
リゼが尋ねる。
「現在地は」
「学園中庭。夕方。噴水横。リゼさん、ミリアさん、カイといる」
ミリアが聞く。
「感情は」
アルトは目を開けた。
三人を見る。
「怖い。でも、嬉しい。安心してる」
銀環の光は、ゆっくり弱まっていった。
鐘の余韻も消えていく。
その後に残ったのは、噴水の水音と、四人分の呼吸だった。
その日の夜、リゼは三〇七号室で記録を書いていた。
第2章の記録は、すでにかなりの量になっている。
銀環痕。
鐘への反応。
夢。
知らない名前。
白鐘礼拝堂。
白鐘紙工房。
ヴァルム補給線。
クラウスの証言。
通信塔。
黒い札。
封信蔦。
旧いものに仕える者。
そして、今日。
リゼは新しいページを開いた。
アルトさん本人の意思表明。
護衛対象だけではなく、一緒にいたい。
友人という関係性の提示。
カイさん、即時承認。
ミリアさん、友人と明言。
自分、定義未整理だが高確率で該当と判断。
リゼはペンを止めた。
高確率で該当。
少し硬すぎる。
ミリアが向かいから覗き込む。
「また難しい書き方をしているわね」
「正確性を」
「今日くらい、もう少し素直でもいいのではない?」
「素直」
リゼは考えた。
そして、先ほど書いた文の下にもう一行加えた。
アルトさんは、友人だと思う。
書いた瞬間、胸の奥が少し熱くなった。
ミリアが満足そうに頷く。
「よくできました」
「子供扱いですか」
「少しだけ」
リゼは反論しなかった。
ミリアはお茶を置いた。
「あなたも、少し楽になった顔をしているわ」
「そうですか」
「ええ」
リゼは記録を見つめる。
友人。
まだ完全には理解していない。
だが、今日アルトが言った時、その言葉を否定したくなかった。
護衛対象の少年。
鍵。
エルディア。
アルト。
それらのどれでもある彼を、自分は友人だと思う。
それは任務にとって危険かもしれない。
判断を鈍らせる可能性がある。
だが、同時に、彼を孤独にしないための最も重要な要素でもある。
敵が孤立を狙うなら。
友人であることは、戦術的にも有効。
リゼはそう書きかけて、やめた。
今は、その言葉を道具にしたくなかった。
窓の外には、夜の鐘楼がある。
通信塔も見える。
どちらも静かだ。
明日、王宮から返答が来るかもしれない。
アルトを移送せよという命令が来るかもしれない。
王の影側の敵は、まだ学園内に潜んでいるかもしれない。
銀環の文字は濃くなった。
危険は増えている。
それでも、今日一つだけ確かなことがあった。
アルトは自分の名前を選び、自分の居場所を言い、自分の友人を得た。
リゼはペンを取り、最後に一文を書いた。
護衛対象の少年は、私の友人になった。
書いた後、少しだけ迷った。
そして、その文を消さなかった。
同じ頃、男子寮の自室で、アルトも小さな紙片に書いていた。
今日、三人に言った。
護衛されるだけじゃなくて、一緒にいたい。
カイはすぐ友達だと言った。
ミリアさんも友人だと言ってくれた。
リゼさんは、定義はまだ整理できていないけど、高い可能性があると言った。
でも、その後、ちゃんと友人だと思うと言ってくれた気がする。
左手首は夕鐘で光った。
痛みなし。
熱、少し。
声なし。
感情は、怖い、嬉しい、安心。
最後に、アルトは少しだけ考えてから書いた。
僕は、ここにいたい。
学園に。
三人のそばに。
アルト・レインフォードとして。
エルディア・レインフォードでもある僕として。
でも、今はアルトとして。
紙片を折り、机の引き出しへ入れる。
窓の外には、鐘楼が見える。
怖い。
今でも怖い。
あの鐘がいつか、自分をどこかへ呼ぶかもしれない。
王宮が自分を連れていこうとするかもしれない。
王の影がまた近づくかもしれない。
けれど、今夜は一人ではなかった。
扉を開ければ、寮の廊下がある。
明日の朝になれば、中庭へ行く。
そこに三人がいる。
リゼが体調を聞く。
ミリアが無理はしないでと言う。
カイが朝から声を抑えようとして失敗する。
そして、昼になれば一緒に食べる。
約束がある。
それは、銀環の光より小さくて、王宮の命令より弱く見えるものかもしれない。
でも、アルトにとっては、今いちばん確かなものだった。
彼はベッドに横になり、目を閉じた。
夢に白鐘礼拝堂が出るかもしれない。
割れた鐘が鳴るかもしれない。
エルディアと呼ぶ声がするかもしれない。
それでも、戻る言葉はある。
現在地は、王立アークレイン学園。
名前は、アルト・レインフォード。
友人がいる。
そう思った時、左手首の奥で、銀環がほんの少しだけ温かくなった気がした。
痛みはなかった。
呼び声もなかった。
ただ、静かな熱だけがあった。




