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灰銀の戦乙女は、制服を知らない  作者: 最後に残った形


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第2章 第13話:閉じられた通信塔


 応接棟第二室に残った銀の光は、ゆっくりと薄れていった。


 アルトの左手首から滲み出ていた光は、今は布の下でかすかに揺れるだけになっている。だが、完全には消えていない。まるで、名を呼ばれた後の余韻がまだ皮膚の内側に残っているようだった。


 アルト・レインフォード。


 エルディア・レインフォード。


 どちらも彼の名前。


 クラウス・ヴァイゼルの口から告げられたその事実は、応接室の空気を変えた。


 名を得た。


 黒い札を使った男は、そう言った。


 鍵は、名を得た。


 扉は、道を思い出す。


 その言葉の意味は、まだ完全にはわからない。


 ただ一つ確かなのは、アルトの銀環痕がこれまでにないほど強く反応したこと。そして、存在しない鐘の音が応接室に響いたこと。


 リゼはアルトの肩から手を離さず、彼の呼吸を確認していた。


 浅いが、安定してきている。


 脈は速い。


 意識は明瞭。


 左手首の熱はまだ高い。


 声は、もう聞こえていないと言った。


 ミリアはアルトの右手を握ったままだった。彼女の指先は白くなるほど力が入っている。だが、アルトはその手を離さない。


 カイは廊下で、襲撃者を押さえ続けていた。


 床に倒された灰色外套の男は、意識を失っている。ロウ教師が展開した拘束術式が男の手首と足首に淡い青い光を巻きつけ、動きを封じている。男の胸元にあった銀輪の刺繍は、黒く焦げるように変色していた。


 クラウスは黒い札の破片を封印布に包みながら、顔色を失っていた。


 それは怒りではない。


 恐怖でもない。


 もっと深いもの。


 見覚えのある悪夢が再び現れた時の顔。


 リゼはそう判断した。


 学園長が低い声で言う。


「クラウス卿。説明を」


 クラウスは封印布の口を閉じ、王宮文官へ渡した。


「これに触れるな。封印箱へ入れ、二重に包め。王宮へ送る前に、私が確認する」


「は、はい」


 文官は青ざめた顔で頷く。


 その手が震えている。


 リゼは文官の動きを見た。


 彼は襲撃者と共犯には見えない。少なくとも、この場で起きたことを予期していた反応ではない。


 クラウスは学園長へ向き直った。


「王宮教育支援局の随行者名簿に、この男はいません」


「では、なぜ応接棟へ入れたのです」


 学園長の声は静かだったが、怒りがあった。


「確認します」


「確認では足りません。学園内に、身元不明の王宮関係者を装った者が侵入し、生徒へ術式を発動した。これは学園の安全管理上、重大な問題です」


「承知しています」


 クラウスは頭を下げた。


 その姿は丁重だったが、リゼには彼の意識が別の場所へ向いているのがわかった。


 通信塔。


 彼は先ほど、そう言った。


 予定が変わった。


 通信塔を使って王宮へ報告する必要がある。


 だが、通信塔は点検中だった。


 外部連絡が制限されていた。


 そして、その点検担当者名簿にはユリウス・エインズワースの署名があると、第2章の調査で判明していた。


 偶然か。


 意図的か。


 アルトの左手首がまた小さく光った。


 リゼはすぐに彼を見る。


「痛みは」


「ない」


 アルトはかすれた声で答えた。


「熱は」


「少し強い。でも、さっきより下がってる」


「声は」


「聞こえない」


「感情は」


 アルトは少しだけ黙った。


「怖い。怒ってる。あと……名前が、まだ胸の中で響いてる感じがする」


「エルディアという名ですか」


 リゼが確認すると、アルトはゆっくり頷いた。


「うん。でも、嫌じゃない。怖いけど、嫌じゃない」


 ミリアの目が少し潤む。


「アルトさん」


 アルトは彼女の手を握ったまま、小さく笑った。


「今は、アルトでいたい」


「ええ」


 ミリアは即座に頷いた。


「あなたはアルトさんよ」


 カイが廊下から言う。


「当たり前だろ」


 襲撃者を押さえたままの姿勢で言うため、少し妙だった。


 アルトはそれを見て、ほんの少し笑った。


 その笑いが出たことで、リゼはわずかに安堵した。


 だが、状況は悪化している。


 名を得たことで銀環が強く反応した。


 王の影側と思われる者が学園内へ侵入した。


 通信塔は閉じられている。


 クラウスはすべてを知っているわけではない。


 あるいは、知っていて隠している。


 どちらにせよ、今は確認が必要だった。


 ロウ教師が襲撃者を拘束したまま言う。


「学園長。男は一時拘置室へ移します」


「ええ。ガルド先生を呼びなさい。魔術封じの鎖を」


「すでに伝令を出しました」


 ロウ教師は淡々としている。


 だが、目は厳しい。


 クラウスへ向けられる視線も、王宮の客人を見るものではなかった。


 学園長はアルトを見た。


「レインフォード君。医務室へ」


 アルトは一瞬迷った。


 リゼを見る。


 自分で決めたいという目。


 リゼは答えを急がない。


「医務室へ行くことは推奨します。ただし、移動前に通信塔の件について最低限確認が必要です」


 クラウスがリゼを見る。


「君も来るつもりか」


「はい」


「アルト君は医務室へ」


「私は行きます」


 アルトが言った。


 声は弱い。


 だが、はっきりしていた。


「通信塔が閉じられているなら、僕に関係があります」


「今の君の状態では危険だ」


 クラウスが言う。


 アルトは彼を見た。


「僕抜きで決めないでください」


 その一言で、クラウスは口を閉じた。


 リゼはアルトの状態を再確認する。


 立てるか。


 意識は安定しているか。


 銀環反応は低下傾向。


 歩行可能かは未確認。


 危険は高い。


 だが、ここでアルトを医務室へ隔離すれば、彼はまた「自分のことを自分抜きで決められる」感覚を持つ。


 心理的負荷が銀環に影響するなら、それも危険だ。


「条件付きで同行可能です」


 リゼは言った。


 アルトが少し息を吐く。


 クラウスは眉を寄せる。


「条件とは」


「移動は短距離。途中で銀環反応が強まれば即停止。医務教師またはロウ先生の封音結界を準備。ミリアさん、カイさんも同行。アルトさんの意思確認を継続」


 カイが廊下から顔を上げる。


「俺も行く」


「当然です」


 リゼが答えると、カイは少し驚いた顔をしてから頷いた。


 ミリアも言う。


「私も」


 クラウスは四人を見た。


 そして、小さく息を吐いた。


「本当に、面倒な護衛陣だ」


「友人です」


 アルトがもう一度言った。


 今度は、たぶん、と付けなかった。


 リゼはその言葉を聞きながら、胸の奥が不思議に揺れるのを感じた。


 友人。


 まだ分類できない。


 けれど、今は否定しなかった。


 応接棟を出ると、廊下には緊張が広がっていた。


 教師たちが行き交い、ガルド教師が重い足音を響かせながらこちらへ向かってくる。彼は倒れた襲撃者を見ると、太い眉を吊り上げた。


「また厄介なことになってるな」


「魔術封じをお願いします」


 ロウ教師が言う。


「任せろ」


 ガルド教師は襲撃者の腕を掴み、鉄色の魔術鎖を巻きつける。


 鎖には古い武具のような鈍い光があり、男の胸元の黒く変色した刺繍がわずかに煙を上げた。


 ガルド教師が顔をしかめる。


「臭いな。古い呪いの臭いだ」


「王宮式ではありません」


 クラウスが言う。


「そりゃ見ればわかる。王宮の連中は嫌味だが、ここまで陰気な術はそう使わん」


 クラウスは反論しなかった。


 リゼはアルトの隣に立つ。


 アルトは少しふらついていたが、ミリアが右側から支え、リゼが左側にいる。カイは一歩前で周囲を見ているが、いつもより静かだった。


 応接棟の外へ出ると、午後の光が眩しかった。


 事件が起きたばかりだというのに、中庭の遠くでは生徒たちがまだ歩いている。教師たちが一部の通路を封鎖しているため、応接棟周辺に近づく者はいない。


 通信塔は、学園の北東にあった。


 図書館塔ほど高くはないが、細長い石造りの塔で、上部に通信術式用の銀線アンテナが伸びている。塔の周囲には低い柵があり、通常は教師と生徒会関係者以外の出入りは禁止されている。


 ここ数日は、点検中の札がかけられていた。


 外部連絡が制限されていた理由。


 表向きは術式不調。


 だが、今は疑わしい。


 塔へ向かう途中、アルトの足が一度止まった。


 リゼはすぐに反応する。


「痛みは」


「ない」


「熱は」


「少し上がった」


「声は」


「……遠い鐘みたいなのが、少しだけ」


 ミリアが手を握る力を強める。


「止まる?」


 アルトは首を横に振った。


「歩ける」


「無理はしないで」


「うん。無理なら言う」


 リゼは頷く。


 自己申告ができている。


 続行可。


 ただし、注意。


 通信塔の前には、ユリウス・エインズワースがいた。


 白い制服。


 整った姿勢。


 だが、いつもの余裕ある微笑は消えている。


 隣にはエレオノーラ・ヴィンスフェルト。


 彼女も白い制服を着て、手に記録板を持っている。顔色は悪い。


 ユリウスはクラウスを見ると、静かに礼をした。


「クラウス卿」


「ユリウス君」


 二人の間に、硬い空気が流れる。


 リゼはすぐに問う。


「通信塔点検の担当者名簿に、ユリウス先輩の署名がありました」


 ユリウスはリゼを見る。


「あるだろうね」


「あなたが閉じたのですか」


 カイが一歩前へ出る。


「答えろよ」


 ユリウスはカイを見たが、怒らなかった。


「半分は、僕の判断だ」


 アルトの手がミリアの手を握り返す。


 リゼは警戒を上げる。


「半分」


「通信塔の完全停止を命じたのは僕ではない。だが、外部連絡を制限したのは僕の署名で行われた」


「理由は」


 リゼが問う。


「アルト君の銀環痕の情報が、王宮内の引き渡し派へ流れるのを防ぐため」


 クラウスの表情が険しくなる。


「君が独断で?」


「はい」


「王宮への報告を遮断することの意味を理解しているのか」


「理解しています」


 ユリウスの声は静かだった。


「ですが、王宮へ正規報告を上げれば、アルト君は今日を待たずに移送命令の対象になっていた可能性が高い」


「君の判断で、学園を孤立させた」


「はい」


 クラウスが一歩近づく。


「その結果、王の影側の者が侵入し、警告を上げられなかった」


「それについては、私の責任です」


 ユリウスは逃げなかった。


 リゼは彼を観察する。


 顔色は悪い。


 だが、嘘をついている時の揺らぎではない。


 少なくとも、自分の行動については認めている。


 エレオノーラが記録板を握りしめたまま口を開く。


「補足します。通信塔は完全停止ではなく、外部送信を段階制限していました。緊急時の学園内通信、王都教育支援局への定型報告、医療連絡は維持していました」


「しかし、王宮監察系統への直接報告は止めた」


 クラウスが言う。


「はい」


 エレオノーラは頷く。


「理由は、監察系統内にアルトさんの引き渡しを主張する者がいるためです」


 アルトが静かに尋ねた。


「僕を王宮へ連れていく人たち?」


「はい」


「その人たちは、僕の意思を聞くつもりがありますか」


 エレオノーラは答えられなかった。


 ユリウスが代わりに言う。


「おそらく、形式的には聞くだろう」


「形式的」


「実質的には、保護命令という形で拘束される可能性が高い」


 アルトの銀環が淡く光った。


 リゼは確認する。


「痛みは」


「ない」


「熱」


「少し」


「声」


「ない」


「感情」


「嫌だ」


 アルトはユリウスを見た。


「僕は、王宮へ行きたくありません」


 ユリウスは頷く。


「だから、僕は通信を制限した」


「でも、そのせいで、今日の襲撃について外へ知らせるのが遅れた」


「その通りだ」


「僕を守ろうとして、僕を危険にした?」


 ユリウスは黙った。


 リゼはその沈黙を見た。


 昨日の自分と重なる。


 一人にしないことで守ろうとして、アルトの息を塞いだ。


 ユリウスは通信を閉じることで守ろうとして、別の危険を招いた。


 保護と管理。


 安全と自由。


 どこかで同じ問題が繰り返されている。


 クラウスが低く言う。


「ユリウス君。君の判断は王宮規則違反だ」


「承知しています」


「処分の対象になる」


「それも承知しています」


「それでも、なぜ私に連絡しなかった」


 ユリウスの表情が少しだけ変わった。


「クラウス卿を、完全には信用していなかったからです」


 空気が硬くなる。


 クラウスは静かにユリウスを見た。


「理由は」


「あなたは、過去にアルト君を本人の意思なく移送した。記録を焼き、名前を変え、真実を隠した。その判断が必要だったとしても、今回も同じ判断をする可能性があると考えました」


 クラウスは反論しなかった。


 アルトはユリウスを見る。


「僕のために、通信を閉じたんですか」


「そうだ」


「僕に聞かずに」


 その一言で、ユリウスの顔が少し歪んだ。


「……そうだ」


「僕のことを、僕抜きで決めないでください」


 アルトの声は、もう何度目かのその言葉を、今度もはっきり響かせた。


 ユリウスは頭を下げた。


「すまない」


「謝るなら、これからは聞いてください」


「わかった」


「それと」


 アルトは少し息を吸った。


「僕は、守られるだけではいたくありません。僕の情報をどう扱うかも、僕に関係があります。通信を開けるか閉じるかも、僕に関係があります」


「その通りだ」


 ユリウスは真剣な顔で頷いた。


 リゼはそれを見ていた。


 アルトは変わっている。


 自分の意思を、相手が王宮上級生でも、クラウスでも、はっきり言うようになっている。


 それは銀環の反応を強める可能性もある。


 だが、孤独や自責に沈むよりも、ずっと生きている言葉だ。


 クラウスは通信塔の扉へ向かった。


「今は責任論より、通信塔の状態確認が先だ。襲撃者の件を王宮へ報告し、同時に引き渡し派が先に動くのを防ぐ必要がある」


「報告先は」


 リゼが問う。


 クラウスは振り返る。


「王宮教育支援局長、監察局旧封印班の残存窓口、そして王宮守護騎士団の一部」


「引き渡し派へは?」


「正規経路なら伝わる」


「では危険です」


「だから、報告文面を選ぶ」


 クラウスはユリウスを見る。


「君が通信を制限した理由は理解した。だが、今後は勝手に閉じるな。閉じるなら、本人と関係者に説明しろ」


 ユリウスは頷いた。


「はい」


 クラウスはアルトへ向き直る。


「アルト君。通信塔を開ける必要がある。王宮に報告する。ただし、君の意思も記録する」


 アルトは少し緊張した顔で問う。


「どう記録するんですか」


「現時点で学園滞在継続を希望。王宮移送には同意しない。銀環反応については本人管理下で記録中。強制移送は精神的・術式的負荷を高める危険あり」


 アルトは少し驚いた。


「僕の意思を、報告に入れるんですか」


「入れる」


「勝手に削りませんか」


 クラウスは一瞬だけ苦い顔をした。


「削らない」


「信じていいんですか」


「信じなくていい。文面を君が確認しなさい」


 アルトはクラウスを見た。


 それから、ゆっくり頷いた。


「確認します」


 リゼは静かに言った。


「私も確認します」


「もちろん」


 クラウスは答えた。


 通信塔の扉が開かれる。


 中はひんやりとしていた。


 石造りの円形室。


 中央には通信術式盤があり、床から天井へ銀線が伸びている。壁には送受信用の符号板、魔力増幅器、記録紙を吐き出す小さな装置が並んでいた。


 だが、術式盤の一部に黒い紐のようなものが巻きついている。


 リゼはすぐに気づいた。


「異物」


 ユリウスが顔色を変える。


「これは」


 エレオノーラが記録板を落としかけた。


「私たちが点検した時にはありませんでした」


 クラウスが術式盤へ近づく。


「触るな」


 ロウ教師の声が入口から響いた。


 彼も同行していた。


 彼は術式盤を見て、眉を寄せる。


「封信蔦。通信術式に寄生して送信先を歪める古い術だ」


「王宮式では」


 リゼが問う。


「ない」


 ロウ教師は即答した。


「旧王権術式に近い。かなり古い」


 アルトの左手首が光る。


「痛みなし。熱、中。声は……少しだけ、ざわざわする。感情は、嫌な感じ」


 ミリアが彼の右手を握る。


「下がる?」


「まだ平気」


 カイが通信盤を睨む。


「こいつが通信を邪魔してたのか?」


「一部は」


 ロウ教師が答える。


「外部送信を制限しただけなら、ユリウス君たちの設定で説明できる。だが、この封信蔦があれば、特定経路への送信が捻じ曲げられる。最悪、報告が敵側へ届く」


 ユリウスの顔が青ざめた。


「僕の制限に紛れて、これを仕込まれた……?」


「可能性が高い」


 クラウスは低く言った。


「君の判断を利用されたな」


 ユリウスは拳を握る。


 自責。


 リゼはそれを見て、すぐに言った。


「今、自分を責めるより除去が先です」


 ユリウスがリゼを見る。


 意外そうな顔。


「……その通りだ」


 リゼは続ける。


「責任追及は後。現在必要なのは、通信経路の安全確保と、襲撃者の所属確認です」


「君に言われるとはね」


「私は最近学びました」


 ミリアが小さく微笑んだ。


 ロウ教師が術式盤の周囲に白い粉を撒き、短く詠唱する。


 封信蔦が黒く震える。


 アルトが小さく呻いた。


 銀環痕が強く光る。


「アルトさん」


 リゼがすぐに支える。


「大丈夫じゃない」


 アルトは自分で言った。


「熱い。声はないけど、何かが嫌がってる感じがする」


「退出しますか」


「もう少し」


「限界を」


「言う」


 ロウ教師が手を止めずに言う。


「レインフォード君の反応は、術式の古さに共鳴している。無理はさせるな」


「はい」


 クラウスもアルトを見る。


 だが、今度は観察というより、心配に近かった。


 ロウ教師が封信蔦を慎重に術式盤から剥がす。


 黒い蔦のような魔術痕は、封印布の上でじたばたと蠢き、やがて灰になった。


 通信塔の空気が少し軽くなる。


 アルトの銀環の光も弱まった。


「痛みは」


「ない。熱は下がってる。声なし。気持ち悪さも減った」


「良好です」


 リゼは頷いた。


 ユリウスは術式盤を見つめていた。


「僕は、守るために通信を閉じたつもりだった」


 彼の声は低い。


「だが、その閉じた通信塔に敵が入り込み、通信を乗っ取ろうとしていた。つまり僕は、敵に都合のいい密室を作った」


「はい」


 リゼは答えた。


 容赦はしない。


 だが、続けた。


「ただし、あなたの制限がなければ、アルトさんの情報が引き渡し派へ即時共有された可能性もあります。結果は単純に評価できません」


 ユリウスは苦笑した。


「慰めにしては硬い」


「慰めではありません。状況評価です」


「君らしい」


 アルトが静かに言った。


「ユリウス先輩」


「何かな」


「僕は、あなたに勝手に決められたのは嫌です」


「うん」


「でも、僕を王宮へ渡さないようにしようとしたことは、少しだけ……助かったのかもしれないとも思います」


 ユリウスは目を伏せた。


「ありがとう」


「だから、次からは聞いてください」


「ああ」


「僕が怖がっても、怒っても、聞いてください」


「わかった」


 アルトは少しだけ笑った。


「僕も、ちゃんと答える練習をします」


 リゼはその言葉を聞いていた。


 練習。


 答える練習。


 拒否する練習。


 怒る練習。


 一人時間の練習。


 普通の学生になる練習。


 この学園で、彼も自分も、多くの練習をしている。


 クラウスは通信術式盤を確認し、ロウ教師と短く言葉を交わした。


 通信は復旧可能。


 ただし、送信経路を安全なものへ限定する必要がある。


 報告文はその場で作成されることになった。


 クラウスが文案を口述し、エレオノーラが記録板に書く。


 王立アークレイン学園内において、王宮関係者を装った不審者がアルト・レインフォードへ旧王権系術式を発動。


 黒い札を使用。


 銀環反応あり。


 本人に一時的負荷が生じたが、学園教師および同級生の支援により沈静化。


 本人は学園滞在継続を希望。


 王宮への強制移送には同意せず。


 強制移送は銀環反応を悪化させる可能性あり。


 追加調査まで現状維持を要請。


 学園内保護体制の強化を求む。


 リゼは文面を聞きながら、一つ修正した。


「同級生の支援、ではなく、本人の自己申告と同級生の支援により沈静化、としてください」


 クラウスがリゼを見る。


「なぜ」


「アルトさん自身が戻る努力をしました」


 アルトがリゼを見る。


 少し驚いた顔。


 ミリアが小さく頷く。


 カイが胸を張った。


「そうだ。アルトは自分で戻った」


 エレオノーラはすぐに文面を修正した。


 本人の自己申告と同級生の支援により沈静化。


 アルトは少しだけ目を伏せた。


「ありがとう」


 リゼは答えた。


「事実です」


 次にアルトが文面を確認した。


 彼は震える指で記録板をなぞり、少しだけ考えた。


「王宮への強制移送には同意せず、の後に、“本人は学園内での学業継続を希望”と入れてください」


 クラウスは目を細めた。


「学業継続」


「はい」


「それは政治的には弱い文言だ」


「でも、僕の希望です」


 アルトは静かに言った。


「僕はここで勉強したい。まだ学生でいたい。それを入れてください」


 クラウスはしばらく彼を見た。


 そして頷く。


「入れよう」


 エレオノーラが記録する。


 本人は学園内での学業継続を希望。


 リゼはその一文を見た。


 護衛対象の安全。


 銀環の安定。


 王宮政治。


 封印術式。


 そうした大きな言葉の中に、「学業継続」という小さく見える願いが入った。


 けれど、それは今のアルトにとって、とても大きい。


 送信前、クラウスは文面をアルトとリゼへ確認させた。


 アルトは一字一句を読み、頷いた。


「これでいいです」


 リゼも確認する。


「送信先は」


「教育支援局長、守護騎士団内の信頼できる窓口、旧封印班残存窓口。ただし、引き渡し派へ直接渡る経路は避ける」


「完全に避けられますか」


「完全には無理だ」


「では、漏洩前提で準備が必要です」


「その通りだ」


 クラウスは認めた。


 通信術式盤が起動する。


 銀線が淡く光り、塔の上部へ光が走る。


 アルトの左手首も一瞬だけ光った。


「痛みなし。熱、微弱。声なし。感情は、緊張」


 彼は自分で言った。


 送信が完了すると、術式盤から薄い記録紙が出てきた。


 送信証明。


 クラウスがそれを確認し、リゼとアルトにも見せる。


 リゼは送信時刻と符号を記憶した。


 通信塔を出る頃には、夕方が近づいていた。


 襲撃者は拘束され、学園内の警備は強化された。応接棟周辺は封鎖され、生徒たちには王宮随行者の体調不良という曖昧な説明が流されるらしい。


 真実は隠される。


 だが、今回は完全には消えない。


 エレオノーラが非公式記録を残している。


 リゼたちのノートにも残る。


 アルト本人の言葉も、報告文に入った。


 それは小さな違いかもしれない。


 だが、十年前とは違う。


 そう思いたかった。


 通信塔の前で、クラウスがアルトへ向き直った。


「今日はこれ以上の面会を続けるべきではない。君は医務室へ行き、銀環反応を確認するべきだ」


 アルトは少しだけ迷った。


 そしてリゼを見る。


「行った方がいい?」


「はい。今日の反応は大きく、確認が必要です」


「じゃあ行く」


 アルトは頷いた。


「ただし、僕抜きで何かを決めないでください」


「わかった」


 クラウスは静かに答えた。


 リゼは彼を見た。


 まだ信用はしない。


 しかし、今日のクラウスは、少なくとも何度かアルトの言葉を聞いた。


 それも記録する。


 医務室へ向かう前、アルトはユリウスの前で足を止めた。


「ユリウス先輩」


「何かな」


「通信塔を閉じた理由は、わかりました。でも、次は閉じる前に僕にも言ってください」


「約束する」


「約束、できますか」


 ユリウスは少しだけ苦く笑った。


「できる。少なくとも、君に関する判断なら」


「僕に関することだけじゃなくて、リゼさんやミリアさんやカイにも関係あるなら、その人にも」


 ユリウスは少し驚いた顔をした。


 アルトは続ける。


「僕たちは、もう一人ずつ隠されるのは嫌です」


 ミリアが目を伏せる。


 カイが頷く。


 リゼはその言葉を胸に刻んだ。


 もう一人ずつ隠されるのは嫌。


 王宮は人を一人ずつ切り離し、情報を与えず、管理しようとする。


 それに対する、アルトの答えだった。


 ユリウスは深く頭を下げた。


「覚えておく」


「覚えるだけじゃなくて」


「実行する」


「はい」


 アルトは小さく頷いた。


 医務室では、医務教師がアルトの手首を確認した。


 銀環痕は広がってはいない。


 だが、内側の文字はさらに鮮明になっている。


 特に、輪の一部に新しい線が浮かび上がっていた。


 リゼはそれを見て、心臓が冷えるのを感じた。


 エルディアという名を聞いた後。


 存在しない鐘の音。


 黒い札。


 通信塔の封信蔦。


 それらが重なった結果か。


 アルトは自分の手首を見て、静かに言った。


「進んだんだね」


「拡大ではありません」


 リゼは言った。


「でも、濃くなった」


「はい」


「隠しても仕方ないよ」


 アルトは少し笑った。


 以前より、現実を見る目になっている。


 それが良いことなのか、悲しいことなのか、リゼにはすぐ判断できなかった。


 医務教師は熱を測り、魔力の流れを確認し、休息を命じた。


 今日は寮へ戻ること。


 調査も面会も禁止。


 アルトは一度反論しかけたが、ミリアが「今日だけは従いなさい」と言い、カイも「寝ろ」と言ったため、頷いた。


 リゼも言った。


「休息は必要です」


「リゼさんもね」


 アルトが返す。


 リゼは言葉を止めた。


 確かに、自分も限界に近い。


 ヴァルム補給線の記憶。


 クラウスの告白。


 自分が知らずに関わっていた可能性。


 通信塔の封信蔦。


 状況が多すぎる。


「はい」


 リゼは答えた。


 アルトは少しだけ満足そうに頷いた。


 夕方、男子寮と女子寮の分岐点で、四人は立ち止まった。


 今日は全員疲れていた。


 カイですら、いつもの勢いがない。


 だが、彼は最後に拳を出した。


「アルト」


「何?」


「今日は戻ってきたな」


 アルトは少し驚いた後、拳を合わせた。


「うん。戻ってきた」


 カイは次にリゼを見た。


「グレイスも」


「私も?」


「応接室で顔がやばかった」


「やばいとは」


「遠く行きそうな顔」


 リゼは黙った。


 ミリアも静かに見ている。


 カイは少し照れたように視線を逸らした。


「でも、戻ってきた」


 リゼはゆっくり頷いた。


「はい」


 ミリアが微笑んだ。


「今日は、それで十分ね」


 アルトは左手首を押さえながら、夕鐘を待つように空を見上げた。


 そして、鐘が鳴った。


 夕方の鐘。


 アルトの銀環痕が淡く光る。


 今日は強すぎない。


 彼は目を閉じ、自分で言った。


「痛みなし。熱、少し。声なし。感情は……疲れた。でも、ここにいる」


「記録します」


 リゼが言う。


 アルトは目を開けた。


「リゼさんは?」


「私ですか」


「うん。感情」


 リゼは少し考えた。


 怖い。


 疲れた。


 怒っている。


 不安。


 だが、それだけではない。


「疲れました。しかし、ここにいます」


 アルトは少し笑った。


「同じだ」


「はい」


 ミリアが二人を見て、柔らかく言った。


「では、今日は全員、ここに戻ってきたということで」


 カイが頷く。


「だな」


 夜。


 三〇七号室で、リゼは机に向かった。


 ミリアは「今日は最低限だけ」と言ったが、記録しないわけにはいかなかった。


 クラウスの証言。


 王権封印監察班。


 アルトの出生名、エルディア・レインフォード。


 アルトという名も母親が呼んでいた幼名。


 白鐘紙工房の記録回収。


 監察班による一部焼却。


 ヴァルム補給線での護送車列。


 リゼの関与。


 通信塔。


 ユリウスによる外部通信制限。


 封信蔦。


 王の影側と思われる襲撃者。


 報告文にアルトの意思と学業継続希望を記載。


 本人の自己申告と同級生の支援により沈静化。


 リゼは最後の一文を見つめた。


 本人の自己申告と同級生の支援。


 それは今日の事実だった。


 アルトは自分で戻ってきた。


 リゼも、たぶん戻ってきた。


 ミリアが向かいに座る。


「今日は、もう十分よ」


「あと少し」


「あと一行だけ」


「はい」


 リゼは少し考えた。


 そして書いた。


 情報を閉じることは、守ることにも、危険を招くことにもなる。


 本人の意思を含めない保護は、管理に近づく。


 書いた後、ペンを止める。


 ミリアが頷いた。


「よく書けました」


「子供扱いですか」


「少しだけ」


 リゼは反論しなかった。


 窓の外には、通信塔が遠くに見える。


 閉じられていた塔。


 敵に利用された塔。


 そして今日、アルトの意思を含む報告を送った塔。


 完全な勝利ではない。


 むしろ、状況はさらに複雑になった。


 王宮へ情報が届く。


 引き渡し派も動くかもしれない。


 王の影側の者は学園内に入り込んでいる。


 銀環の文字は濃くなった。


 それでも。


 今日、アルトは自分の名を選んだ。


 学園にいたいと言った。


 通信文に自分の意思を入れた。


 それは、小さくない。


 リゼはペンを置き、ミリアの淹れた茶を受け取った。


 温かい。


 手の冷たさが少しずつ戻っていく。


 夜の鐘は、まだ鳴らない。


 その静けさの中で、リゼは自分の胸にも同じ言葉を置いた。


 疲れた。


 怖い。


 でも、ここにいる。


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