第2章 第12話:クラウスの紋章
「まず、ヴァルム補給線についてお聞きします」
リゼがそう言った瞬間、クラウス・ヴァイゼルの目が揺れた。
ほんの一瞬。
普通の生徒なら見逃しただろう。学園長も、同席している王宮教育支援局の文官も、たぶん気づかなかった。だが、リゼは見逃さない。
表情筋のわずかな硬直。
呼吸の遅れ。
右手の指が、上着の袖口へ触れかけて止まる動き。
クラウスは動揺した。
ヴァルム補給線という言葉に。
応接室には、磨かれた木の匂いが満ちていた。
壁には王国紋章の入った織物がかけられ、中央には低い応接卓がある。窓際には淡い陽が差し込み、外の中庭の声は厚いガラスに遮られてほとんど聞こえない。
部屋の中には五人。
学園長。
ロウ教師。
王宮教育支援局の文官。
クラウス・ヴァイゼル。
そして、リゼとアルト。
ミリアは隣の資料準備室にいる。
カイは廊下。
扉一枚の向こう。
見えないが、いる。
それを思い出すだけで、リゼの呼吸はわずかに安定した。
クラウスはすぐに表情を整えた。
穏やかな顔。
王宮の大人らしい、隙のない微笑。
「ヴァルム補給線か」
彼は静かに言った。
「また、懐かしい名前を出すね」
「懐かしいのですか」
リゼが問う。
「西方戦争に関わった者にとってはね」
クラウスは椅子に腰を下ろすよう手で示した。
「立ったままでは話しづらい。まず座りなさい」
命令ではない。
柔らかい促し。
しかし、その声には人を従わせる響きがあった。
リゼはすぐには動かなかった。
隣のアルトを見る。
アルトは左手首を布の上から押さえている。銀環痕は先ほどから光っているはずだ。布の下で淡い銀色が滲むように見える。
だが、彼は逃げていない。
紙束を握りしめ、クラウスを見ている。
「座りますか」
リゼが小声で尋ねると、アルトは少しだけ驚いたようにこちらを見た。
それから頷いた。
「うん」
二人は並んでソファへ座った。
リゼはアルトの左側。
いつもの位置。
クラウスは向かいの椅子に座る。
学園長は少し離れた席へ。ロウ教師は扉近くに立ったまま。王宮文官は書類を手に控えている。
ロウ教師の視線が、ほんの一瞬リゼへ向いた。
大丈夫か、と問うような視線。
リゼは小さく頷いた。
クラウスは応接卓の上で指を組んだ。
「では聞こう。君たちはヴァルム補給線について、何を知っている?」
問い返し。
時間稼ぎ。
情報量確認。
リゼは質問リストを開いた。
「西方戦争中、ヴァルム補給線は物資輸送だけでなく、機密人員や避難対象の移送にも使用された可能性があります」
「授業で習ったのかな」
「一部は授業で。その他は資料調査です」
「どの資料を?」
「学園図書館所蔵資料です」
クラウスはわずかに微笑んだ。
「王立学園の図書館は、相変わらず余計なものまで残している」
学園長が軽く咳払いした。
「教育機関として、歴史資料を保持することは当然です」
「失礼しました、学園長」
クラウスは穏やかに頭を下げる。
だが、本気で謝っているようには見えなかった。
リゼは続けた。
「ヴァルム補給線の一部は、レインフォード旧領北部から王都へ向かう不自然な移送経路と重なります」
アルトの指が紙束を握る力を強める。
クラウスの視線が、今度はアルトへ向いた。
「レインフォード旧領」
「はい」
アルトは声を出した。
少し震えている。
だが、逃げていない。
「僕は、白鐘礼拝堂から王都へ送られたのですか」
部屋が静かになった。
王宮文官が少しだけ顔を上げる。
学園長の目が細くなる。
ロウ教師は動かない。
クラウスは、アルトを見ていた。
長い沈黙。
アルトの左手首の銀光が、わずかに強くなる。
リゼは小声で確認する。
「痛みは」
「ない」
アルトは小さく答えた。
「熱は」
「中くらい。声はない」
「感情は」
「怖い。でも、聞く」
そのやり取りを、クラウスは黙って見ていた。
やがて、彼は深く息を吐いた。
「君は、そこまで調べたのか」
「答えてください」
アルトは言った。
今度は、さっきよりはっきりした声だった。
「僕は、白鐘礼拝堂から王都へ送られたのですか」
クラウスは目を閉じた。
一秒。
二秒。
三秒。
そして、開いた。
「そうだ」
アルトの肩が小さく震えた。
リゼは動かない。
近づきすぎない。
ただ、すぐ隣にいる。
「君は、レインフォード旧領北部、白鐘礼拝堂の区域から王都へ移送された」
クラウスの声は静かだった。
「年齢は、おそらく三歳になる前後。移送時の記録では、二歳十か月とされている」
「記録があるんですか」
アルトの声が揺れる。
「ある」
「どこに」
「王宮監察局の旧保管庫に」
「監察局」
アルトの左手首が強く光った。
リゼはすぐに問う。
「痛み」
「ない。熱、強い」
「声」
「ない」
「呼吸を」
「わかってる」
アルトは目を閉じて、息を吸い、吐いた。
ミリアが教えてくれた呼吸の仕方。
七分の一人時間で覚えた、戻るための呼吸。
銀光は少しだけ弱まる。
クラウスはその反応を観察していた。
リゼは鋭く言う。
「観察をやめてください」
クラウスの目がリゼへ移る。
「職業病だ」
「アルトさんの許可なく記録しないでください」
「記録はしていない」
「記憶も記録の一種です」
クラウスはほんの少し苦笑した。
「厳しくなったね、リゼ」
「必要です」
「良いことだ」
その言葉に、リゼは胸の奥がざわついた。
クラウスに褒められることに、違和感がある。
以前なら、任務評価として受け取っただろう。
今は違う。
リゼは質問リストへ視線を落とす。
「移送を決定したのは誰ですか」
アルトが問う前に、リゼが聞いた。
クラウスは指を組み直した。
「当時の王宮監察局、王権封印監察班」
初めて出る名称だった。
王権封印監察班。
アルトの顔が青ざめる。
ミリアが隣室で聞いているだろうか。
扉一枚向こうの空気まで張り詰めたような気がした。
「王権封印監察班とは」
リゼが問う。
「古い王権術式、封印、王家分流の血統異常反応を監察する部署だ。今は存在しないことになっている」
「実際には」
「形を変えて残っている」
「あなたは所属していましたか」
クラウスは沈黙した。
リゼは彼を見る。
逃がさない。
「はい、またはいいえで」
クラウスは小さく笑った。
「君は本当に、王宮向きではない」
「回答を」
「所属していた」
アルトの左手首がまた光る。
今度は強い。
「クラウスさん」
アルトが口を開いた。
「あなたは、僕を王都へ送った人ですか」
クラウスはアルトを見た。
その目に、また何かが揺れた。
今度は、リゼにも読めた。
後悔。
「私は、移送隊の責任者の一人だった」
部屋の空気が重く沈んだ。
アルトは息を止めた。
リゼは自分の指が冷たくなるのを感じた。
やはり。
クラウスは関わっていた。
アルトの過去に。
白鐘礼拝堂に。
レインフォード旧領に。
ヴァルム補給線に。
「なぜ、僕を送ったんですか」
アルトの声は震えていた。
「守るためですか」
クラウスはすぐには答えなかった。
「それとも、旧領から遠ざけるためですか」
「両方だ」
アルトの目が揺れる。
「両方」
「君を旧領に置けば、君は狙われた。白鐘礼拝堂も、工房も、領民も巻き込まれた。実際、あの時点ですでに旧領は複数勢力に探られていた」
「複数勢力」
「王宮内の封印利用派。旧王権派の残党。戦争に紛れて王家血統を手に入れようとした他国の密偵。そして」
クラウスは一瞬だけ言葉を止めた。
「王の影に近い者たち」
アルトの銀環が、布の下で強く光った。
部屋の空気が冷える。
学園長が低い声で言った。
「クラウス卿、その名をこの場で」
「すでに彼らは知っています」
クラウスは学園長を見ずに答えた。
「隠す段階は過ぎました」
ロウ教師は腕を組んだまま、静かに目を伏せている。
知っていたのか。
どこまで。
リゼはまた情報を整理する。
クラウスは王の影を知っている。
王権封印監察班に所属。
アルト移送隊責任者。
白鐘紙工房焼失確認者。
信頼不可。
だが、情報源として重要。
「この子を家に置けば、村ごと消される」
アルトが言った。
クラウスの顔が強ばる。
リゼは机の下で、紙束を握る。
昨日読んだ紙片。
アルトを刺した言葉。
「その文を知っていますか」
アルトが問う。
クラウスは答えなかった。
「知っているんですね」
アルトの声は低くなった。
怒りではない。
傷ついた声。
「誰が書いたんですか」
「レインフォード家の最後の当主」
クラウスは言った。
アルトの呼吸が止まりかける。
「最後の当主……」
「君の血縁上の祖父にあたる人物だ」
アルトの左手首が強く光った。
リゼは即座に動こうとしたが、アルトが手で制した。
自分で。
彼は言う。
「痛みなし。熱、強い。声なし。感情は……わからない」
「止めますか」
リゼが尋ねる。
アルトは首を横に振った。
「続けたい」
リゼはクラウスを見る。
「続けてください。ただし、慎重に」
クラウスはわずかに頷いた。
「君の祖父は、君を手放したくなかった。だが、白鐘礼拝堂の封印反応が強まり、君の存在が外へ漏れ始めた。旧領の村は小さい。守り切るには限界があった」
「だから、僕を送った」
「そうだ」
「僕を守るため?」
「それもある」
「村を守るため?」
「それもある」
「僕がいたら、村が消されるから」
アルトの声が細くなる。
リゼは息を呑んだ。
その言葉は危険だ。
また自責へ落ちる。
だが、クラウスは静かに首を横に振った。
「違う」
アルトが顔を上げる。
「村を消そうとした者たちがいた。君が村を危険にしたのではない。君を利用しようとした者たちが、村を危険にした」
それは、リゼが以前言ったことと同じだった。
だが、クラウスが言うと重みが違う。
実際にその場にいた者の言葉。
アルトは唇を噛んだ。
「でも、僕がいなければ」
「それでも別の理由で襲われていた可能性は高い。レインフォード家は、君が生まれる前から監察対象だった」
「僕のせいじゃない?」
「少なくとも、君が自分を責める筋合いはない」
アルトは黙った。
銀環の光は強いままだが、揺れ方が少し変わった。
リゼにはそう見えた。
クラウスの言葉は、完全な救いではない。
けれど、アルトが昨日より少しだけ受け取れている。
クラウスは続けた。
「白鐘礼拝堂の地下には、古い王権術式の残滓があった。王立学園の銀環室ほど大きくはないが、同系統のものだ。君はそこで反応した」
「僕は、白鐘礼拝堂で生まれたんですか」
アルトが問う。
クラウスは少し迷った。
そして答える。
「正確には、白鐘礼拝堂に隣接する領主家の避難館だ。君の出生記録は、白鐘紙工房で作成された」
アルトの目が大きく開く。
「僕の出生記録があるんですか」
「原本は失われた」
「燃えたんですか」
「公式には」
その言い方に、リゼが反応する。
「実際には?」
クラウスはリゼを見た。
また、沈黙。
「王宮提出用の控えがある」
アルトの手が震えた。
「そこに、僕の本当の名前はありますか」
クラウスは目を伏せた。
長い沈黙。
アルトの銀環が淡く震える。
リゼは息を殺す。
「ある」
クラウスは言った。
アルトは声を失った。
リゼも、ミリアが隣室で息を呑む気配を感じた気がした。
本当の名前。
アルトが夢で呼ばれた名。
エ、ル、アのような音。
削られた系図の空白。
「教えてください」
アルトは言った。
声は震えていた。
だが、はっきりしていた。
「僕の本当の名前を」
クラウスは答えない。
「なぜ黙るんですか」
「今、ここで告げるべきか判断している」
「僕の名前なのに?」
アルトの声に怒りが混じった。
「また、僕抜きで決めるんですか」
クラウスは目を伏せた。
その言葉は効いた。
明らかに。
「……すまない」
「謝るなら、教えてください」
アルトは言った。
それは昨日、エレオノーラへ言った言葉にも似ていた。
リゼは隣に座ったまま、何も言わなかった。
止めない。
これはアルトの問いだ。
クラウスは深く息を吐いた。
「君の出生名は」
アルトの左手首が、強く、強く光った。
布越しでも部屋に銀色が滲む。
王宮文官が椅子を引きかける。
ロウ教師が鋭く見たため、文官は止まった。
クラウスは言葉を続ける。
「エルディア・レインフォード」
アルトは息を止めた。
エルディア。
夢で聞こえた音。
エ。
ル。
ア。
削られた系図の空白。
名前。
アルトではない名前。
アルトの銀環痕が、一瞬、まるで指輪のように明るく光った。
リゼは即座に動いた。
「アルトさん」
アルトの目が虚ろになりかけている。
だが、彼は自分の胸元を掴み、声を絞り出した。
「聞こえる」
「何が」
「鐘」
部屋には鐘など鳴っていない。
リゼはアルトの肩に触れようとして、一瞬止める。
「触れてもいいですか」
アルトはかすかに頷いた。
リゼは彼の右肩に手を置いた。
左手首ではない。
「現在地は応接棟第二室。あなたは学園にいます。私は隣にいます。ミリアさんは隣室。カイさんは廊下」
アルトの呼吸が浅い。
銀光が強い。
クラウスが立ち上がりかける。
「動かないでください」
リゼが低く言った。
剣は持っていない。
だが、その声だけでクラウスは止まった。
アルトは目を閉じた。
「鐘が……遠い。白い鐘。割れてる。でも、鳴ってる」
「戻る感覚は」
「ある。でも……」
「でも?」
「ここにいるって、わかる」
アルトは震える息を吐いた。
「リゼさんの手がある。ミリアさんが隣にいる。カイが廊下にいる。僕は、ここにいる」
銀環の光が、少しずつ弱まった。
リゼは肩から手を離さない。
「痛みは」
「ない」
「熱は」
「強い。でも下がってきた」
「声は」
「鐘だけ。人の声はない」
「感情は」
アルトは目を開けた。
涙は出ていない。
だが、目が赤い。
「怖い。懐かしい。わからない。でも……消えた感じはしない」
「何がですか」
「アルトが」
彼は自分の胸に手を当てた。
「エルディアって聞いても、アルトが消えなかった」
リゼは息を止めた。
その言葉は、以前四人で話したことにつながっていた。
名前は増える。
今の名前が消えるのではなく。
アルトは小さく笑った。
震えた笑みだった。
「よかった」
リゼは頷いた。
「はい」
クラウスは黙ってそれを見ていた。
表情が変わっている。
先ほどまでの王宮の仮面が少し崩れ、疲れた大人の顔になっていた。
「アルト・レインフォード」
クラウスは静かに言った。
「君が今そう名乗るなら、それも君の名だ」
アルトはクラウスを見た。
「誰が、アルトという名前をつけたんですか」
「私だ」
部屋がまた静かになる。
リゼはクラウスを見る。
アルトも。
「なぜ」
「旧名を隠すため。エルディアという名は、エルディアス分流の血を連想させる。君を守るには、王宮内にも外にも、その名を隠す必要があった」
「アルトは?」
「白鐘礼拝堂の記録に残っていた、君の幼名の一つだ」
「幼名?」
「君の母親が、私的にそう呼んでいた」
アルトの表情が崩れかけた。
「母が……」
「正式名はエルディア。だが、母親は君をアルトと呼んでいた。理由は知らない。ただ、移送時の記録にそう残っている」
アルトは紙束を握った。
「じゃあ、アルトも、僕の名前だったんですね」
「そうだ」
その答えは、アルトの胸に静かに落ちたようだった。
銀環の光がさらに弱まる。
エルディア。
アルト。
二つの名前。
どちらも嘘ではない。
リゼは少しだけ安堵した。
しかし、まだ終わっていない。
リゼは自分の質問リストを開く。
「次に、白鐘紙工房について聞きます」
クラウスは頷いた。
「焼失確認者、クラウス・V。これはあなたですか」
「そうだ」
「火災焼失記録は真実ですか」
「半分は」
「半分」
「工房は焼けた。だが、すべての記録が燃えたわけではない。重要記録の一部は事前に回収された」
「あなたが回収した?」
「私と監察班が」
「なぜ公式には焼失と」
クラウスは静かに答えた。
「追手に記録の存在を知られないため」
「追手」
「王の影側の者たち。旧王権派。王宮内の利用派。どの勢力も、君の血統記録を欲しがった」
アルトは黙って聞いている。
リゼは続ける。
「レインフォード旧領を焼いた夜、何がありましたか」
クラウスの表情が固まる。
「それは」
「封書にありました」
リゼは写しを机に置いた。
学園長が眉を寄せる。
ロウ教師が静かに見る。
クラウスは封書を読み、目を細めた。
「これを誰が」
「不明です」
「いつ」
「昨日、私の鞄へ」
クラウスの顔が険しくなる。
先ほどまでとは違う。
明確な警戒。
「これは旧領紙だ」
「はい」
「白鐘紙工房の透かし」
「はい」
クラウスは封書の文面を読み直す。
灰銀、お前も駒だ。
その箇所で、彼の視線がリゼに止まった。
「リゼ」
「回答してください。レインフォード旧領を焼いた夜、何がありましたか」
クラウスは写しを机に置いた。
「旧領は、全面的に焼けたわけではない。焼けたのは白鐘紙工房、北の倉庫、礼拝堂脇の避難館の一部だ」
「誰が火を」
「公式には敵性勢力の襲撃」
「実際は」
「複数の火元があった。襲撃者の放火、証拠隠滅のための焼却、そして」
クラウスは言葉を止める。
「監察班による記録焼却」
アルトの手が震えた。
リゼの胸も冷える。
「あなたが燃やしたのですか」
アルトが問う。
クラウスは目を伏せた。
「命令した」
アルトは唇を噛んだ。
「僕の記録も?」
「一部は回収した。残すと危険なものを焼いた」
「僕の家族の記録も?」
「……一部は」
アルトの銀環がまた光る。
だが、今度は暴走ではない。
怒り。
悲しみ。
リゼは確認する。
「痛み」
「ない」
「熱」
「強い」
「声」
「ない」
「感情」
「怒ってる」
アルトはクラウスを見た。
「あなたは、僕を守るために、僕の記録を燃やしたんですか」
「そうだ」
「僕に聞かずに」
「君は幼かった」
「それでも」
「そうだ」
クラウスは逃げなかった。
「君に聞かずに決めた。君の名も、行き先も、残す記録も、消す記録も」
アルトは拳を握る。
「それを、僕は感謝するべきですか」
「いいや」
クラウスの答えは早かった。
「怒っていい。憎んでもいい。だが、あの時の私は、あれ以外の方法で君を生かす術を知らなかった」
アルトは何も言わなかった。
その沈黙は重い。
けれど、以前のように自分を責める沈黙ではない。
相手へ怒りを向けている。
自分を守るための怒り。
リゼはそれを見守った。
次は、自分の番だった。
リゼは紙束の次のページを開く。
「西方戦争中、私はヴァルム補給線で護送車列の通過を支援しました」
クラウスの顔がわずかに曇る。
「記憶が戻ったのか」
「断片的に」
「そうか」
「その護送車列に、アルトさんはいましたか」
クラウスはゆっくり頷いた。
「いた」
リゼの胸が冷たくなる。
アルトはリゼを見る。
責める目ではない。
それが余計に痛い。
「私は、アルトさんの移送に関与していた」
「間接的には」
「任務内容は知らされていませんでした」
「知らせていない」
「誰の判断ですか」
「私だ」
リゼの指が止まる。
「なぜ」
「君が知れば、迷う可能性があった」
その言葉は、刃のようだった。
リゼはクラウスを見た。
「私は、命令遂行に不要な情報を与えられなかった」
「そうだ」
「私は、何を守っているのか知らずに、封鎖線を維持した」
「そうだ」
「接近者を止めました。従わない者を斬った可能性があります」
クラウスは目を閉じた。
「ある」
ミリアが隣室で動く気配がした。
カイが廊下で何かを抑えたような音も聞こえた。
リゼは呼吸を整える。
ここは応接室。
雨は降っていない。
泥もない。
剣も握っていない。
「その接近者は何者でしたか」
「全員は把握していない。密偵もいた。旧領の者もいた。追跡者もいた。混乱していた」
「私は、旧領の者を斬った可能性がありますか」
クラウスは答えない。
「回答を」
リゼの声は震えていない。
だが、指先は冷たい。
クラウスは静かに言った。
「可能性はある」
その言葉が、部屋の床を抜くように落ちた。
リゼは息を止めなかった。
止めてはいけない。
呼吸。
確認。
現在地。
応接室。
アルトが隣にいる。
ミリアが隣室。
カイが廊下。
ロウ教師が扉側。
クラウスが向かい。
自分は、ここにいる。
「リゼさん」
アルトが小さく呼んだ。
リゼは彼を見た。
「僕は、今の話を聞いても、あなたを責めたいとは思っていません」
リゼは言葉を失った。
アルトは続ける。
「でも、知りたいです。僕を運ぶために、誰が傷ついたのか。何が消されたのか。僕も、それから逃げたくない」
クラウスはアルトを見た。
「君が背負う必要はない」
「あなたが決めないでください」
アルトの声は強かった。
クラウスは黙る。
「僕が背負うかどうかは、僕が決めます。でも、何も知らないままでは決められない」
クラウスは、深く息を吐いた。
「君は、本当にレインフォードの血だな」
「それは褒めていますか」
「覚悟が早いという意味では」
「僕は早くありません。ずっと知らされなかっただけです」
その言葉に、クラウスは目を伏せた。
リゼは自分の質問へ戻る。
「私は、なぜ選ばれたのですか」
「当時、君はヴァルム補給線周辺で最も機動力の高い戦力だった」
「十五歳未満の子供を、機密護送に利用した」
「君はすでに戦場で実績を上げていた」
「実績」
リゼはその言葉を繰り返した。
戦果。
撃破数。
生存率。
命令遂行率。
そういう数字。
「私は、灰銀の戦乙女として使われたのですか」
「その名が広まる前だ」
「では、その後は」
クラウスは答えない。
リゼは封書を指す。
「灰銀の戦乙女という名を、王宮はどう扱っていますか」
クラウスの顔が硬くなる。
「戦意高揚、対外宣伝、抑止力」
「駒」
リゼは言った。
クラウスは否定しなかった。
「君をそう扱った者はいる」
「あなたは」
「私も、その一部だ」
胸の奥が、ひどく冷えた。
だが、同時に奇妙な静けさもあった。
嘘ではない。
クラウスは逃げていない。
少なくとも、この場では。
「なぜ今、私を学園へ送ったのですか」
「アルトを守るため」
「それだけですか」
沈黙。
リゼは言う。
「本当に、それだけですか」
クラウスは視線を外さなかった。
「君なら、アルトに近づく者を止められると思った」
「はい」
「そして、君なら銀環室に反応した事態を、軍人ではなく生徒として内部から見られると思った」
「つまり、護衛と監察」
「そうだ」
「私は、アルトさんの護衛であると同時に、銀環反応の観察役として置かれた」
「結果的には」
「最初からですか」
クラウスは答えない。
「最初からですね」
リゼは言った。
クラウスは小さく頷いた。
「はい」
アルトが低く言う。
「リゼさんにも、言っていなかったんですね」
クラウスはアルトを見る。
「言えば、彼女は拒否したかもしれない」
「だから言わなかった?」
「そうだ」
「それは、守ることですか」
アルトの問いに、クラウスは黙った。
リゼは自分の中で何かが静かに変わるのを感じた。
怒り。
失望。
理解。
どれもある。
クラウスは敵ではないかもしれない。
アルトを生かした。
記録を隠し、名前を変え、王都へ運び、今も管理しようとしている。
それは守るためだったのかもしれない。
しかし。
本人に知らせず、選択させず、使った。
アルトも。
リゼも。
その事実は消えない。
「クラウス卿」
リゼは言った。
「以後、私を使う時は目的を開示してください」
クラウスがリゼを見る。
「リゼ」
「開示できない場合、私は独自に判断します」
部屋の空気が変わる。
王宮文官が目を見開く。
学園長が静かにリゼを見る。
ロウ教師の口元が、ほんのわずかに動いた。
クラウスはしばらく黙っていた。
「それは、任務拒否に近い発言だ」
「はい」
「わかって言っているのか」
「はい」
リゼはまっすぐクラウスを見る。
「私はアルトさんを守ります。しかし、アルトさんの意思を無視して王宮へ渡す任務には従いません」
アルトが息を呑む。
「また、私自身を観察役として使う場合、その目的を私に開示してください。私は、知らないまま刃として置かれることを拒否します」
自分で言ってから、リゼは胸が少し熱くなるのを感じた。
恐怖はある。
だが、言った。
駒であるかどうかは、他者が決めることではない。
自分で動く意思があるか確認する。
昨日、記録に書いた言葉。
今、それを声にした。
クラウスは長くリゼを見ていた。
やがて、疲れたように微笑んだ。
「君は学園へ来て、変わったな」
「はい」
「誰の影響だ」
リゼは隣のアルトを見た。
扉の向こうのミリアとカイを思った。
寮母。
セレスティア。
ロウ教師。
この学園で出会ったものすべて。
「複数要因です」
アルトが少し笑った。
クラウスも、ほんの少しだけ笑った。
「そうか」
しかし、すぐに表情を戻す。
「リゼ。アルト君。聞きなさい。王宮内には、彼を学園に置くことを危険視する者がいる。銀環の痕が出た以上、引き渡し派は動く」
「引き渡し派」
アルトが言う。
「君を王宮管理下へ移すべきだと主張する者たちだ」
「クラウスさんは?」
「私は、今は反対だ」
「今は」
「状況が悪化すれば、別の判断を迫られる」
「僕抜きで?」
アルトが問う。
クラウスは静かに答えた。
「今日の君を見た以上、君抜きでは進めない」
アルトはその言葉をすぐには信用しなかった。
その顔に、そう書いてあった。
「約束できますか」
「完全な約束はできない」
「では、何を信じればいいんですか」
「私を信じる必要はない」
クラウスは言った。
「情報を持ち帰り、君たちで判断しなさい」
リゼは少しだけ眉を動かした。
それは意外な言葉だった。
「私たちで判断してよいのですか」
「すでにそうしているだろう」
クラウスは淡く笑う。
「王宮の想定より、ずっと早く」
その時、廊下の向こうで小さな物音がした。
足音。
複数。
カイの低い声が聞こえる。
「ここから先は面会中だ」
別の声。
若い男。
「王宮教育支援局の随行だ。通せ」
リゼの警戒が一気に上がる。
クラウスも表情を変えた。
「随行者は待機のはずです」
リゼが言う。
クラウスは立ち上がった。
「そのはずだ」
扉の向こうで、カイの声が低くなる。
「通せねえって言ってる」
ロウ教師が扉へ向かう。
その瞬間、アルトの左手首が強く光った。
今までで最も鋭い光。
アルトが苦しげに息を呑む。
「声が」
「何と」
リゼがすぐに肩へ手を置く。
アルトは目を見開いた。
「近い」
部屋の空気が凍る。
リゼはクラウスを見る。
クラウスも理解した。
王宮随行者ではない。
あるいは、随行者の中に紛れたもの。
黒外套か。
王の影側か。
ロウ教師が扉を開けた。
廊下には、カイが立っていた。
彼の前に、灰色の外套を着た若い男が一人。
王宮文官風の服装。
だが、目が笑っていない。
その胸元に、小さな銀の輪の刺繍が見えた。
クラウスの顔が変わる。
「下がれ!」
その声と同時に、男が懐から黒い札を取り出した。
空気が震える。
アルトの銀環が強く光る。
リゼは考えるより先に動いた。
剣はない。
だが、応接卓の上の銀製ペーパーナイフを掴み、アルトの前へ立つ。
ロウ教師が魔術障壁を展開する。
廊下でカイが男へ掴みかかる。
隣室の扉が開き、ミリアが飛び出してくる。
黒い札が裂けた。
そこから、低い鐘の音が鳴った。
応接室に、存在しない鐘の音が響く。
アルトが膝をつく。
「アルトさん!」
リゼは彼を支える。
銀環の光が、部屋全体を染めるほど強くなる。
クラウスが叫ぶ。
「封音結界を!」
ロウ教師が即座に術式を展開する。
ミリアがアルトの右手を握る。
「アルトさん、ここにいるわ!」
カイが廊下で男を床へ叩きつける音がする。
「お前、何しやがった!」
男は笑った。
床に押さえつけられながら、笑っていた。
「鍵は、名を得た」
その声は、男のものではないように低かった。
「扉は、道を思い出す」
リゼはアルトの肩を支えながら叫ぶ。
「アルトさん、現在地を!」
アルトは苦しそうに息を吸う。
「応接棟……第二室……」
「あなたの名前は」
一瞬、迷った。
今、何と呼ばせるべきか。
アルトか。
エルディアか。
だが、答えは彼自身が決める。
「あなたの名前を、自分で」
アルトは震える声で言った。
「アルト・レインフォード」
銀光が揺らぐ。
さらに、彼は続けた。
「エルディア・レインフォードでもある。でも、今は、アルト」
ミリアの目に涙が浮かぶ。
リゼは彼の肩を支える手に力を込めた。
「はい。あなたはアルトさんです」
カイが廊下から叫ぶ。
「アルト! 聞こえてるか!」
アルトは苦しそうに笑った。
「聞こえてる」
銀環の光が、少しずつ弱まっていく。
ロウ教師の封音結界が鐘の音を押さえ込む。
クラウスは床に落ちた黒い札を見ていた。
顔色が悪い。
「これは……王宮内の術式ではない」
リゼは男を見る。
カイに押さえられた男は、口元に笑みを残したまま気絶している。
胸元の銀輪の刺繍は、黒く変色し始めていた。
クラウスが低く言う。
「旧いものに仕える者だ」
ユリウスの言葉。
黒外套は、王宮側ではない。
もっと古いものに仕えている。
それが、今ここへ現れた。
クラウスの来訪。
アルトの本名。
ヴァルム補給線。
白鐘紙工房。
すべてが明かされ始めた瞬間に。
リゼはアルトを支えたまま、深く息を吐いた。
「アルトさん、痛みは」
「ない。熱は強いけど、下がってる。声は……もう聞こえない」
「感情は」
アルトは少しだけ目を閉じた。
「怖い。でも、戻れた」
「はい」
リゼは頷いた。
「戻りました」
応接室は騒然としていた。
王宮文官は青ざめ、学園長はロウ教師へ指示を出し、クラウスは黒い札を封印布へ包んでいる。廊下ではカイが男を押さえたまま、教師を呼んでいる。
ミリアはアルトの右手を握ったまま離さない。
アルトも離さなかった。
リゼはその光景を見ながら、理解していた。
今日、真実の一部は得た。
アルトの出生名。
白鐘紙工房。
クラウスの関与。
ヴァルム補給線。
リゼ自身が知らずに関わっていた可能性。
だが同時に、敵も近づいてきた。
王宮内か。
外部か。
旧いものに仕える者か。
そして、アルトの名を得たことで、銀環はさらに反応するようになった。
クラウスがリゼへ向き直る。
「リゼ」
「はい」
「予定が変わった。通信塔を使って王宮へ報告する必要がある」
リゼはクラウスを見た。
通信塔。
これまで点検中として制限されていた外部連絡手段。
ユリウスの署名があった通信塔。
「通信塔は点検中では」
「それも確認する」
クラウスの声は低い。
「誰かが、学園からの連絡を絞っている」
アルトが顔を上げる。
「僕を王宮へ連れていくんですか」
クラウスは彼を見た。
しばらく黙った後、首を横に振った。
「今は連れていかない」
「今は」
「だが、この襲撃で状況は変わった。君を狙う者が学園内に入っている」
リゼは言った。
「なら、なおさら本人抜きで決めないでください」
クラウスはリゼを見る。
そして、頷いた。
「わかった」
その言葉を、リゼはまだ信用しない。
だが、記録する価値はある。
アルトはミリアの手を握ったまま、小さく言った。
「僕は、学園にいたい」
クラウスは目を伏せた。
「その意思は、聞いた」
カイが廊下から顔を出した。
「聞いただけで終わらせんなよ」
ロウ教師に睨まれ、カイは少しだけ口を閉じる。
だが、言葉は取り消さなかった。
クラウスは、そんなカイを見て、少しだけ苦笑した。
「君たちは、本当に面倒な護衛陣だ」
「友人です」
アルトが言った。
部屋の空気が、一瞬止まる。
リゼはアルトを見る。
ミリアも。
カイも。
アルト自身も、自分が言った言葉に少し驚いた顔をしていた。
だが、すぐに言い直さなかった。
「たぶん」
小さく付け足した。
カイが廊下で笑った。
「たぶんじゃねえよ」
ミリアが目元を押さえた。
リゼは、その言葉を分類できなかった。
護衛陣。
協力者。
同級生。
友人。
どれが正しいのか、まだわからない。
けれど、今この場でアルトがそう言ったことは、銀環の鐘よりも強く、リゼの胸に残った。
クラウスは四人を見た。
長く、静かに。
そして言った。
「なら、その友人たちごと守れる方法を考えよう」
その言葉が本物かどうかは、まだわからない。
だが、少なくとも、今日のクラウスはアルトの目を見て言った。
リゼはペーパーナイフを握ったまま、静かに頷いた。
窓の外では、午後の光が応接棟の壁を照らしていた。
雨は降っていない。
泥もない。
それでも、ヴァルム補給線の記憶は消えない。
白鐘紙工房の焼け跡も、失われた記録も、斬ったかもしれない誰かの影も。
だが、今ここにいるアルトは、自分の名を言った。
アルト・レインフォード。
エルディア・レインフォードでもある。
でも、今はアルト。
その声を、リゼは忘れないと思った。




