第2章 第11話:ヴァルム補給線跡
クラウス・ヴァイゼルが学園へ来る朝、空は重かった。
雨は降っていない。
雲も厚いわけではない。
それでも、窓の外の光はどこか鈍く、校舎の白壁もいつもより灰色に見えた。
三〇七号室の机には、整えられた紙束が並んでいる。
質問リスト。
白鐘紙工房の記録写し。
レインフォード旧領北部の地図写し。
王宮管理地移行記録の抜粋。
クラウス・Vの注釈。
差出人不明の封書の写し。
そして、リゼ自身が夜明け前に書き足した一枚。
ヴァルム補給線跡。
その名前は、昨日の調査中に地図の端で見つかった。
レインフォード旧領から王都へ伸びる不自然な遠回りの道。
白鐘礼拝堂から西へ出て、山側を迂回し、古い補給所跡を経由する道。
その一部が、西方戦争中に使われた軍の補給線と重なっていた。
ヴァルム補給線。
リゼはその文字を見た時から、胸の奥に小さな棘が刺さっていた。
知らない名前ではない。
むしろ、知りすぎている。
雨。
泥。
馬車の車輪。
封鎖線。
焦げた木材。
避難民の列。
軍の怒号。
泣く子供。
そして、紋章付きの護送馬車。
だが、記憶は断片的だった。
戦場の記憶は、いつも完全ではない。
必要な情報だけが残る。
敵の数。
地形。
退路。
砲撃の間隔。
生き残るために必要だったもの。
それ以外は、灰のように散る。
リゼは紙束の上へ手を置いた。
自分が何を見たのか。
何を見なかったことにしたのか。
今日、クラウスに会えば、その一部が形を持つかもしれない。
ミリアが背後から声をかける。
「リゼさん」
「はい」
「手が冷たいわ」
リゼは自分の手を見る。
確かに、指先が冷えている。
部屋は寒くない。
体温低下。
緊張反応。
恐怖。
認める。
「問題ありません」
「それは、問題がある時の言い方ね」
ミリアはリゼの横に立ち、机の上の紙束を確認した。
彼女の金色の髪は丁寧に結ばれ、制服も乱れがない。だが、目元にはわずかな緊張があった。
ミリアも不安なのだ。
それでも、彼女はリゼのリボンへ手を伸ばした。
「今日は私が結ぶわ」
「昨日もそうでした」
「今日もそうするの」
「はい」
リゼは鏡の前に立つ。
ミリアはいつもよりゆっくりリボンを整えた。
布の角を合わせる。
輪を作る。
左右の長さを整える。
結び目を柔らかく締める。
その手つきは、戦場前の装備確認に似ている。
だが、違う。
剣帯ではない。
弾薬袋でもない。
制服のリボン。
学園の生徒として、クラウスに会うための準備。
「今日は十割ですか」
リゼが尋ねると、ミリアは小さく笑った。
「九割五分」
「不足要素は」
「あなたの顔が硬い」
「改善困難です」
「なら、九割五分で十分」
ミリアはリボンを軽く叩いた。
「リゼさん。今日、クラウス様の前で全部を答えようとしなくていいわ」
「はい」
「相手の言葉を持ち帰る。必要なら黙る。わからない時は、わからないと言う」
「はい」
「そして、自分のことを聞く」
リゼは鏡の中の自分を見た。
「自分のこと」
「ええ。あなたはアルトさんの付き添いだけではない。あなた自身も、聞く権利があるわ」
聞く権利。
その言葉は、リゼにはまだ少し不慣れだった。
命令を受けることには慣れている。
報告することにも。
だが、大人に問い返すことには慣れていない。
「努力します」
「今日の努力は、それでいいわ」
朝の中庭では、アルトが質問リストを握っていた。
紙の端が少し折れている。
何度も読み返したのだろう。
左手首には布。
顔色は悪くないが、緊張が目に出ている。
カイはその隣で、いつもより静かだった。
腕を組んで立っているが、今日は見張り姿勢が少し自然だ。昨日リゼに指摘されたせいか、周囲を見すぎないようにしている。
アルトがリゼとミリアに気づいた。
「おはよう」
「おはようございます。体調は」
リゼが尋ねると、アルトは紙片を見ずに答えた。
「眠れた。夢は短かった。白い礼拝堂と雨の音。手首は熱なし、痛みなし。朝食はパン一つ、卵、スープ半分。気分は、怖い。でも、聞くことは覚えてる」
「良い状態です」
「良いのかな」
「恐怖を認識し、質問内容を保持できています」
アルトは少し笑った。
「リゼさんらしい評価」
カイが低く言った。
「俺は外で待つ。何かあったら呼べ」
「はい」
リゼが答える。
ミリアも頷いた。
「私も近くにいるわ。応接棟なら、資料準備室か廊下側にいられるはず」
「エレオノーラ先輩から連絡は?」
アルトが尋ねる。
ミリアは首を横に振る。
「まだないわ。でも、向こうが調整しているなら、直前に知らせが来るかもしれない」
朝の鐘が鳴った。
アルトの左手首が淡く光る。
彼は目を閉じ、呼吸を整えた。
「痛みなし。熱、少し。声なし。感情は、怖い。でも、逃げたいとは思わない」
「記録します」
リゼは言った。
その時、リゼ自身の胸の奥にも小さな痛みが走った。
鐘の音ではない。
記憶。
雨の中の馬車。
ヴァルム補給線。
クラウスの紋章。
封書の一文。
灰銀が何を斬らされたのかも知っている。
ミリアがリゼの顔を覗き込む。
「リゼさん?」
「私は、怖いです」
リゼは言った。
言ってから、少しだけ驚いた。
三人も驚いた顔をした。
だが、すぐにアルトが頷いた。
「うん」
カイも短く言う。
「なら、一緒に行け」
「はい」
ミリアが静かに微笑む。
「それでいいの」
四人は第一校舎へ向かった。
授業は午前だけだった。
クラウスの来訪は午後。
だが、午前の授業中も、四人の意識は何度も応接棟へ向いた。
ロウ教師の王国史では、偶然にも戦時補給線について触れられた。
西方戦争時、王国軍はヴァルム要塞への補給を維持するため、複数の臨時補給路を使用した。
その一つが、ヴァルム補給線。
正式な軍用路ではなく、地方街道、山道、避難路、旧貴族領の私道をつないだ臨時経路。
戦況によっては、物資だけでなく、機密人員や避難対象の移送にも使われた。
黒板に地図が描かれる。
リゼの指が止まった。
その線は、昨日カイが地図でなぞった遠回りの道と近かった。
アルトも気づいた。
左手首が机の下で淡く光る。
ミリアが息を呑む。
カイは目を見開き、珍しく眠気を完全に失っていた。
ロウ教師は淡々と説明する。
「戦時中の臨時補給線は、戦後の記録整理において不明瞭になりやすい。軍事機密、避難民の保護、敵国への情報流出防止など、理由はさまざまだ。だが、記録が曖昧になった場所では、しばしば人の所在も曖昧になる」
アルトの手が震えた。
リゼは視線だけで確認する。
アルトは小さく合図した。
痛みなし。
熱、中。
声なし。
感情、怖い。
ロウ教師は黒板に「ヴァルム補給線跡」と書いた。
その文字を見た瞬間、リゼの視界がわずかに揺れた。
雨の匂い。
泥の冷たさ。
馬の荒い息。
負傷兵を乗せた荷車。
封鎖線の赤い旗。
軍靴で踏まれた白い紙。
泣き叫ぶ女。
そして、護送馬車の横を歩く自分。
その時のリゼは、今より少し幼かった。
背は今とほとんど変わらない。
けれど、目の奥はもっと空っぽだった。
命令は単純だった。
補給線沿いの敵斥候を排除。
護送車列の通過まで封鎖線を維持。
接近者は止める。
従わない場合は斬る。
リゼは剣を握っていた。
雨で濡れた柄。
灰銀の髪が頬に張り付いていた。
護送馬車には、王宮監察局に似た紋章があった。
扉は閉じられていた。
中は見えなかった。
だが、一瞬だけ。
馬車が泥に車輪を取られて揺れた時、小さな泣き声が聞こえた気がする。
子供の声。
リゼはそれを、避難民の声だと思った。
あるいは、聞かなかったことにした。
「グレイスさん」
ロウ教師の声で、リゼは現実へ戻った。
教室中の視線がこちらへ向いている。
リゼは立っていなかった。
ただ、ペンが机から落ちていた。
「体調が悪いですか」
ロウ教師が尋ねる。
リゼは呼吸を整える。
「問題ありません」
言いかけて、止める。
ミリアの視線。
アルトの心配そうな目。
カイの緊張した顔。
リゼは言い直した。
「少し、気分が悪いです」
教室がざわついた。
ロウ教師は一瞬だけ目を細めた。
それから静かに言った。
「では、保健室へ。ファルネーゼさん、付き添いを」
「はい」
ミリアがすぐに立ち上がる。
アルトも立ち上がりかけたが、リゼは視線で止めた。
授業中にアルトまで動けば目立ちすぎる。
だが、アルトは不安そうに見ている。
リゼは小さく頷いた。
戻る。
そう伝えるつもりで。
廊下へ出ると、ミリアがすぐにリゼの腕を支えた。
「歩ける?」
「はい」
「無理しない」
「はい」
「何を思い出したの?」
ミリアの声は低い。
廊下には他の生徒はいない。
リゼは少しだけ壁に手をついた。
「ヴァルム補給線です」
「昨日の地図の?」
「はい。私は、そこにいました」
ミリアの顔が強ばる。
「戦争中に?」
「はい」
「アルトさんの護送馬車かもしれないものを見た?」
リゼは目を閉じた。
雨。
泥。
紋章。
泣き声。
「可能性があります」
それ以上の言葉が出なかった。
ミリアはしばらく黙っていた。
そして、リゼの背をそっと撫でた。
驚くほど優しい手だった。
「今、ここは廊下よ。学園。雨は降っていない。あなたは制服を着ている。私は隣にいる」
リゼは呼吸を整える。
五感確認。
廊下の木の匂い。
窓からの光。
制服の布。
ミリアの手。
遠くの授業の声。
ここは戦場ではない。
「はい」
「保健室ではなく、少し空き教室に入りましょう。あなた、今は一人で座った方がいい?」
リゼは少し考えた。
一人。
いや、完全に一人は危険。
だが、近すぎると息が詰まる。
アルトが言っていた。
完全に放っておかれると怖い。
近すぎると苦しい。
見えるところにいてほしい。
「見える距離で」
リゼは答えた。
ミリアは少し驚いた後、柔らかく微笑んだ。
「わかったわ」
空き教室で、リゼは窓際の席に座った。
ミリアは少し離れた扉側の席に座る。
距離はある。
でも、視界に入る。
一人時間。
リゼ自身に必要になるとは思っていなかった。
数分後、呼吸は落ち着いた。
リゼは自分の手を見る。
震えてはいない。
だが、指先は冷えている。
「ミリアさん」
「何?」
「私は、アルトさんの移送に関わっていたかもしれません」
声に出すと、その可能性は重くなった。
ミリアはすぐに否定しなかった。
その優しさが、今はありがたかった。
「まだ、かもしれない、よ」
「はい」
「当時のあなたは命令を受けていた。何を運んでいるかも知らなかったかもしれない」
「それでも、封鎖線を維持しました。接近者を止めました。場合によっては」
斬った。
その言葉は出なかった。
ミリアは椅子から立ち上がりかけ、途中で止まった。
距離を守るために。
「リゼさん」
「はい」
「今、その全部を一人で裁かないで」
裁く。
自分を。
リゼは窓の外を見る。
中庭では、生徒たちが授業の合間を移動している。
平和な景色。
その下に、過去の道が埋まっている。
「クラウス卿に聞きます」
「ええ」
「私が何をしたのか」
「聞きましょう」
「アルトさんに話すべきでしょうか」
ミリアは少しだけ迷った。
そして言った。
「隠せば、後で傷になるわ。でも、伝え方は選びましょう。今すぐ全部ではなく、今日の面会前に、可能性として話す」
「はい」
「私もいる。カイさんもきっと怒るけれど、あなたにではないはず」
「はい」
ミリアはそこで少し笑った。
「アルトさんは、あなたのことを責めるより、心配すると思うわ」
リゼは答えられなかった。
それが、少し怖かった。
午前授業が終わると、アルトとカイが空き教室へ駆け込んできた。
カイは走ったのを隠す気もなく、息が上がっている。
「グレイス!」
「声が大きいです」
リゼが言うと、カイは一瞬固まり、それから安堵したように息を吐いた。
「それ言えるなら、少し大丈夫だな」
「大丈夫ではありません。少し気分が悪かっただけです」
「同じじゃねえか」
アルトは入口で足を止めた。
彼はすぐには近づかなかった。
昨日までの距離を覚えている。
「近づいていい?」
アルトが尋ねた。
リゼは頷いた。
「はい」
アルトはゆっくり近づき、机一つ分の距離で止まった。
「ヴァルム補給線のこと?」
ミリアが説明したのだろう。
リゼは頷く。
「はい」
アルトは左手首を押さえた。
銀環は弱く光っている。
「僕も、授業で聞いて少し反応した。怖かった。でも、リゼさんの顔の方が怖かった」
「私の顔が?」
「うん。どこか遠くを見ていた」
リゼは視線を落とした。
「私は、戦争中にヴァルム補給線付近にいました」
カイが息を止める。
アルトは黙って聞く。
「護送馬車を見た可能性があります。王宮監察局系統の紋章がありました。中に誰がいたかは知りません。ですが、子供の声を聞いた可能性があります」
アルトの左手首が強く光った。
リゼはすぐに言う。
「痛みは」
アルトは少しだけ目を閉じた。
「なし。熱、中。声なし。感情は……驚き。怖い。でも」
彼は目を開けた。
「リゼさんが、そこにいたかもしれないんだ」
「はい」
「僕を運ぶ馬車の近くに」
「可能性です」
「その時、君は僕を知っていた?」
「いいえ」
「何を運んでいるか知っていた?」
「いいえ」
「命令は?」
「護送車列の通過まで封鎖線を維持。接近者を止めること」
アルトは黙った。
リゼはその沈黙を待った。
怖い。
責められるかもしれない。
責められるべきかもしれない。
だが、アルトは言った。
「リゼさんも、知らされていなかったんだね」
その言葉は、責めるものではなかった。
リゼは答えられなかった。
アルトは続ける。
「僕は、知らないうちに運ばれていたかもしれない。リゼさんは、知らないうちに守らされていたかもしれない」
ミリアが目を伏せる。
カイが拳を握る。
「だったら、やっぱり聞かないといけない」
アルトの声は震えていた。
だが、強かった。
「クラウスさんに。何を知っていたのか。誰に何をさせたのか」
リゼはようやく頷いた。
「はい」
「リゼさん」
「はい」
「僕は、今の話を聞いて怖い。でも、リゼさんを責めたいとは思ってない」
その言葉が、胸の奥に痛いほど染みた。
「なぜですか」
「僕も、知らないまま鍵にされていたかもしれないから。知らないまま使われる怖さを、少し知っているから」
リゼは何も言えなかった。
カイが低く言う。
「やっぱり、誰かを駒にするやつが悪い」
ミリアが頷く。
「ええ」
カイはリゼを見た。
「グレイス、お前が悪いかどうかは、まだ決めるな。決めるなら、全部聞いてからだ」
雑だが、正しい。
リゼは少しだけ息を吐いた。
「はい」
昼食は、いつもの休憩席ではなく、空き教室で取ることになった。
リゼの状態を考慮して、ミリアが決めた。
カイが売店で買ってきたパンとスープは、また五人分に近かった。
「普通の四人分と言ったはずです」
リゼが言うと、カイは肩をすくめた。
「今日は多めでいいだろ」
「なぜ」
「全員、顔色が悪い」
それは否定できなかった。
アルトはスープを飲み、リゼもミリアに促されてパンを食べた。
食欲は少なかったが、食べた。
カイがそれを確認して、満足そうに頷く。
食後、四人は質問リストを修正した。
リゼの項目に追加。
ヴァルム補給線における護送車列について。
西方戦争中、レインフォード旧領周辺で王宮監察局が行った作戦内容。
灰銀の戦乙女が当該護送任務に関与していたか。
当時、リゼに任務内容をどこまで開示していたか。
アルトの項目に追加。
自分がその護送馬車に乗っていたか。
同行者は誰か。
泣いていた人物は誰か。
白鐘礼拝堂から王都までの移送経路。
ミリアが清書しながら言った。
「質問が多いわ。一度に全部は聞けないかもしれない」
「優先順位が必要です」
リゼが言う。
アルトは紙を見つめる。
「最初に聞くのは、僕がどこから来たのか」
リゼは頷く。
「私は、クラウス卿がそれを知っていたか」
「次に、リゼさんが何をさせられていたのか」
アルトは言った。
リゼは少しだけ目を伏せる。
「はい」
午後。
授業はなかった。
クラウスとの面会は、第三鐘の後。
場所は応接棟第二室。
昼過ぎ、エレオノーラが図書館塔で四人へ接触した。
彼女は昨日の約束通り、正面から来た。
「面会場所が確定しました。応接棟第二室です。出席はクラウス・ヴァイゼル卿、学園長、ロウ先生。呼び出し対象は、リゼ・グレイスさん、アルト・レインフォードさん」
「ミリアさんとカイさんは」
アルトが問う。
「公式には不可。ただし、資料準備室の使用許可を取りました。ファルネーゼさんは生徒会資料整理補助として隣室へ入れます」
ミリアが目を見開く。
「私が?」
「はい。ユリウス先輩の手配です」
カイが自分を指す。
「俺は?」
「廊下待機は可能です。ただし、騒がないこと」
「騒がねえよ」
エレオノーラは一拍置いた。
「本当にお願いします」
「信用低いな」
「はい」
カイは少し傷ついた顔をした。
リゼは問う。
「クラウス卿の随行者は」
「二名。王宮教育支援局の文官一名、護衛一名。ただし、面会室には入らない予定です」
「護衛の所属は」
「不明。王宮外套ではなく、私服とのこと」
「警戒します」
「してください」
エレオノーラはそう言い、アルトを見た。
「レインフォードさん。無理にすべて答える必要はありません」
アルトは頷いた。
「聞くために行きます。答えるためだけじゃなく」
エレオノーラは少しだけ目を伏せた。
「良い姿勢だと思います」
リゼはエレオノーラを見る。
「面会中、記録しますか」
「公式記録は学園長側が行います。私は隣室で非公式に時刻と出入りのみ記録します」
「会話内容は」
「許可なく記録しません」
アルトが頷いた。
「お願いします」
第三鐘が鳴る前、四人は応接棟近くの中庭に立っていた。
空は朝より明るくなっている。
だが、リゼの胸の重さは増していた。
応接棟第二室の窓には薄いカーテンがかかっている。
隣の資料準備室へ続く扉。
廊下。
外へ出る通路。
退避経路は確認済み。
カイがリゼとアルトの前に立った。
「いいか」
「何ですか」
リゼが問う。
「何かあったら呼べ。俺は廊下にいる」
「はい」
「怒鳴ってもいい」
「それは状況次第です」
「じゃあ、必要なら怒鳴れ」
アルトが少し笑った。
「うん」
ミリアはリゼとアルトの紙束を確認する。
「質問リストは?」
「あります」
アルトが答える。
「リゼさんは?」
「あります」
「笛は?」
「あります」
「手巾は?」
リゼは少し驚く。
「手巾?」
「汗を拭くため。泣いた時にも使えるわ」
「私は泣きません」
「念のため」
ミリアはリゼの手に白い手巾を握らせた。
リゼは反論しかけ、やめた。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
アルトがリゼを見た。
「怖い?」
「はい」
「僕も」
「はい」
「一緒に入ろう」
リゼは頷いた。
「はい」
第三鐘が鳴った。
アルトの左手首が光る。
彼は息を吸い、吐いた。
「痛みなし。熱、中。声なし。感情は、怖い。でも、聞く」
リゼは頷く。
「私は、怖い。でも、聞きます」
ミリアが静かに言った。
「行ってらっしゃい」
カイが拳を握る。
「負けんな」
リゼとアルトは応接棟へ入った。
廊下は静かだった。
磨かれた床。
重い扉。
壁にかけられた王国紋章のタペストリー。
その下を、二人は並んで歩く。
護衛対象と護衛者。
鍵と灰銀。
生徒二人。
そのどれでもある。
第二室の前に、ロウ教師が立っていた。
彼は二人を見ると、静かに頷いた。
「準備はいいですか」
アルトは質問リストを握る。
「はい」
リゼも答える。
「はい」
ロウ教師は扉を開けた。
応接室の中には、学園長と、見知らぬ文官が一人。
そして、窓際に立つ男がいた。
灰色の髪を後ろへ撫でつけ、年齢は四十代半ばほど。
深い色の上着。
穏やかな顔。
だが、目だけは鋭い。
クラウス・ヴァイゼル。
彼はリゼを見る。
次に、アルトを見る。
ほんの一瞬、その目に何かが揺れた。
懐かしさか。
後悔か。
警戒か。
リゼにはまだ読めない。
クラウスは静かに口を開いた。
「久しぶりだね、リゼ・グレイス」
その名で呼んだ。
リゼットでも、灰銀でもなく。
リゼは答えた。
「お久しぶりです、クラウス卿」
クラウスの視線がアルトへ移る。
「そして、アルト・レインフォード君」
アルトの左手首が、布の下で強く光った。
リゼはすぐに気づく。
だが、アルトは退かなかった。
彼は紙束を握り、自分の声で言った。
「お聞きしたいことがあります」
クラウスの表情がわずかに変わった。
「そうだろうね」
リゼも紙束を開く。
「私もです」
クラウスは二人を見た。
少しだけ沈黙が落ちる。
窓の外で、遠くの鐘の余韻が消えていった。
リゼはその沈黙の中で、自分の足が床を踏んでいる感覚を確かめた。
ここは戦場ではない。
だが、逃げない。
今日は命令を受けに来たのではない。
問いを持って来た。
アルトも隣にいる。
扉の向こうにはミリアがいる。
廊下にはカイがいる。
リゼはクラウスを見据えた。
「まず、ヴァルム補給線についてお聞きします」
クラウスの目が、初めてはっきりと揺れた。
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