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灰銀の戦乙女は、制服を知らない  作者: 最後に残った形


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第13章 第12話:白い朝に残る音


 朝は、白かった。


 けれど、その白はもう、割れるものではなかった。


 王立学園の庭に、淡い光が降りている。


 夜明け直後の空は薄く、雲の端が銀色に光っていた。


 講堂の屋根。


 女子寮の窓。


 医務室の白い壁。


 昨日まで卒業式の飾り布が揺れていた廊下。


 それらが、静かな朝の色に包まれている。


 王宮深部の白ではない。


 第二保管層の白でもない。


 王の鐘が放った、名前を焼く白でもない。


 新しい一日が始まる時の白だった。


 リゼ・グレイスは、医務室前の庭に立っていた。


 式典用の制服ではない。


 いつもの学園の制服。


 髪には青いリボン。


 胸元には、昨日受け取った卒業証書の感触がまだ残っている。


 証書は今、女子寮の机の上に置かれていた。


 ミリア・ファルネーゼが用意してくれた薄い布の上に、白い花飾りを添えたまま。


 鍵付きの箱には入れていない。


 王宮の棚にも送っていない。


 リゼの机の上。


 朝の光が入る場所。


 それでよいと、リゼは判断した。


 卒業証書は、閉じ込めるための紙ではない。


 歩くための紙だ。


 持ち続けるだけでなく、置いて戻ってこられるものでもある。


 それを確認するために、リゼは証書を寮に置いて庭へ来た。


 手元にない。


 だが、失われていない。


 戻れば、そこにある。


 現在地、王立学園医務室前庭。


 証書位置、女子寮自室机上。


 状態、安定。


 リゼは青いリボンに触れた。


 戻るための目印は、まだある。


 ただし今は、迷った時だけの目印ではない。


 自分がここにいると確認するためのものでもあった。


 庭の小さな花壇には、まだ朝露が残っている。


 エリアナ・ルクス・ヴェルグラントが植えた香草の種。


 昨日まで、土は静かなままだった。


 芽は出ていなかった。


 カイ・ロックハートは一日に何度も確認し、そのたびにエリアナから「まだです」と言われていた。


 それでも彼は「待てます」と答えた。


 リゼは今、その花壇の前に立っている。


 土の表面を見た。


 湿り気。


 小さな石。


 朝露。


 そして。


 ほんのわずかな緑。


 リゼは一瞬、動きを止めた。


 小さい。


 とても小さい。


 指先で触れれば折れてしまいそうな、細い芽だった。


 まだ香りはしない。


 帰る匂いと呼ぶには早すぎる。


 だが、確かに土を割って出ている。


 白い朝の中に、小さな緑がある。


 リゼは膝を折り、距離を保って確認した。


「香草、発芽を確認」


 声は小さかった。


 けれど、朝の庭にはよく届いた。


 背後から、軽い足音が近づいてくる。


 走っていない。


 しかし、速い。


 リゼが振り返る前に、カイの声がした。


「出ましたか!?」


 声量はやや大きい。


 医務室前としては注意対象。


 だが、彼はすぐ自分で口を押さえた。


「すみません。出ましたか」


 訂正後、声量良好。


 リゼは頷いた。


「はい。発芽しています」


 カイは花壇の前にしゃがみ込んだ。


 大きな身体を小さく折りたたむようにして、土を覗く。


 そして、目を見開いた。


「本当に出てる……」


 彼の目に、すでに涙が浮かんでいる。


 香草の芽で泣く可能性。


 高。


 リゼは記録しそうになったが、今日はミリアの記録帳がない。


 記憶することにした。


 カイは鼻をすすり、小声で言った。


「すごいな。待ったら、出るんですね」


「はい。待機後、発芽」


「なんか……それだけじゃない感じがします」


 リゼは芽を見る。


「はい。私も、そう思います」


 カイがリゼを見た。


「リゼが“思います”って言うの、今はけっこう好きです」


「確度は高いです」


「それも好きです」


 背後から、柔らかな声がした。


「朝から何を確認しているの?」


 ミリアが歩いてくる。


 式典後の疲れがまだ残っているのか、歩き方は少しゆっくりだ。


 けれど表情は穏やかだった。


 手には記録帳はない。


 代わりに、小さな茶の水筒を持っている。


 リゼは答えた。


「香草が発芽しました」


 ミリアの目が少し丸くなる。


 彼女は花壇の前にしゃがみ、芽を見る。


「あら」


 たった一音。


 しかし、そこに喜びがあった。


 カイが言う。


「ミリア、記録帳持ってきますか」


 ミリアは少し考え、首を横に振った。


「今は、覚えておくわ」


 カイが頷く。


「俺も覚えます」


 リゼも言う。


「私も記憶します」


 その時、静かな足音が近づいた。


 エリアナだった。


 彼女はいつもの香草袋を胸に抱いている。


 朝の光を受けて、白いリボンが淡く揺れた。


 リゼたちが花壇の前に集まっているのを見て、彼女は一瞬立ち止まる。


「もしかして」


 カイが小声で、しかし全身で叫ぶように言った。


「出ました」


 エリアナは花壇へ近づいた。


 膝をつき、芽を見る。


 その表情が、ゆっくりほどけていく。


 王宮で見せた抑制された怒りでも、白鐘を読み上げた時の緊張でもない。


 もっと柔らかく、少しだけ幼い表情だった。


「……出ましたね」


「はい」


 リゼが頷く。


 エリアナは香草袋を胸に当てた。


 袋の中の乾いた香草。


 土から出たばかりの新しい芽。


 過去と、これから。


 同じ朝の中にある。


「まだ香りはしません」


 エリアナは言った。


「でも、ここからです」


 カイが真剣に頷く。


「水、必要ですか」


「今は朝露があります。多すぎるとよくありません」


「少しずつですね」


「はい。少しずつ」


 ミリアが微笑む。


「カイさん、本当に“少しずつ”が定着したわね」


「大事ですから」


 リゼは発芽した香草を見つめた。


 芽は小さい。


 弱い。


 危険に晒されればすぐに折れる。


 だが、弱いから無価値なのではない。


 弱いから、守り方を選ぶ。


 水をやりすぎない。


 日を遮りすぎない。


 根を掘り返さない。


 成長を急がせない。


 それは、アルトの回復にも似ていた。


 リゼ自身にも。


 王宮の後処理にも。


 卒業後の歩みにも。


 すべて、一度に完成しない。


 朝の庭に、医務室の扉が開く音がした。


 全員がそちらを見る。


 医師が先に出てきた。


 その後ろから、車椅子がゆっくり姿を現す。


 アルト・レインフォードが座っていた。


 今日は薄い上着を羽織っている。


 喉の布はさらに細くなった。


 左手首の布はまだある。


 顔色は白いが、昨日より少しだけ目が明るい。


 車椅子を押しているのはロウ教師だった。


 いつもの厳しい顔。


 だが、押し方は丁寧だった。


 カイが驚いて言う。


「ロウ先生が押してる」


 ロウ教師は眉を動かした。


「何か問題か」


「いえ。丁寧です」


「雑に押す理由がない」


 アルトが小さく笑った。


 喉に響かない程度に。


 医師が腕を組んだまま言う。


「庭は短時間です。冷えたらすぐ戻ります」


 アルトは頷いた。


「……はい」


 リゼはすぐに左側へ移動した。


「アルトさん。現在地、王立学園医務室前庭。香草、発芽を確認しました」


 アルトの目が、花壇へ向く。


「……芽……」


 ロウ教師が車椅子を花壇の近くへ寄せる。


 近すぎない位置で止める。


 エリアナが少し身を引き、アルトが見やすいようにした。


 アルトは小さな芽を見た。


 しばらく、何も言わなかった。


 白い朝。


 土。


 緑の芽。


 胸の前の香草袋。


 友人たちの呼吸。


 学園の庭。


 アルトは、ゆっくり息を吸った。


「……出たんですね」


 エリアナは頷いた。


「はい」


「……よかったです」


 その声は小さかった。


 だが、全員に届いた。


 カイはもう泣いていた。


 ミリアはそれを見て、そっとハンカチを差し出す。


 カイは受け取り、静かに涙を拭いた。


「声量、良好です」


 リゼが言うと、カイは涙目で親指を立てた。


 アルトは芽を見つめたまま言った。


「……戻る匂い……まだ……しませんね」


 エリアナが柔らかく答える。


「はい。まだです」


「……でも……ここに……あるんですね」


「はい」


 アルトは頷いた。


 少し疲れている。


 けれど、花壇から目を離さない。


「……後で……匂いが……しますね」


 エリアナの目が揺れた。


「はい。後で」


 後で。


 それはもう、怖い言葉ではなかった。


 母の記録も、後で聞く。


 香草の匂いも、後で届く。


 身体の回復も、後で進む。


 卒業証書の意味も、きっと後で何度も確かめる。


 後でとは、消すことではない。


 待つこと。


 育つこと。


 本人の速度を守ること。


 アルトは、リゼを見た。


「……リゼさん」


「はい」


「……証書……机に……置けましたか」


 リゼは少し驚いた。


 昨夜、証書をどこに置くか迷っていたことを、アルトは覚えていたらしい。


「はい。女子寮の机上に置きました。白い花飾りも添えています。状態、良好です」


 アルトは小さく笑った。


「……戻れば……ありますね」


「はい」


「……よかったです」


 リゼは頷いた。


 手元にないものが、失われていない。


 それをアルトが確認してくれた。


 リゼは胸の奥に、静かな温度を感じた。


 ミリアが水筒を開ける。


「朝のお茶、少しだけ飲む?」


 カイがすぐ反応した。


「焼き菓子もあります」


 医師の視線が鋭くなる。


 カイは即座に言い直す。


「医師確認済み小片、あります」


 医師は少しだけ頷いた。


「アルト君用は一つだけ。小さいもの」


「はい」


 カイは布包みから、小さな焼き菓子を取り出した。


 今日は山ではない。


 小さな箱。


 その中に、医師確認済みの小片が二つ。


 札にはこう書かれている。


 白い朝に少し食べる用。


 医師確認済み。


 ミリアが札を見て微笑む。


「少し短くなったわね」


「努力しました」


 アルトは札を見て、少し笑った。


「……いい名前……です」


 カイの顔が明るくなる。


「本当か」


「……はい」


 医師が小片を確認し、半分にする。


 カイはもう動揺しなかった。


 むしろ頷いている。


「安全、大事です」


 ミリアが小さく拍手した。


 アルトは小さな欠片を口にした。


 ゆっくり。


 水と一緒に。


 飲み込むまで少し時間がかかる。


 だが、昨日よりも表情が硬くならなかった。


 リゼは確認する。


「喉の痛み」


「……少し」


「吐き気」


「……ないです」


「味」


 アルトは朝の花壇を見ながら、少し考えた。


「……朝の味……です」


 カイは泣いた。


 声は出さない。


 ミリアがハンカチをもう一枚渡す。


 エリアナは香草袋を抱きながら、笑っている。


 ロウ教師が低く言った。


「食べ物で毎回泣くな」


 カイは涙を拭きながら答える。


「無理です。でも声量は制御しています」


「よし」


 ロウ教師の「よし」は、少しだけ優しかった。


 庭の木々を、朝の風が通り抜ける。


 学園の鐘塔が、白い光の中に立っている。


 やがて、鐘が鳴った。


 一度。


 短く。


 朝の授業前を知らせる鐘。


 アルトの肩が、わずかに揺れた。


 リゼはすぐに見た。


「アルトさん」


 アルトは目を閉じた。


 呼吸を吸う。


 吐く。


 左手首の布に右手を添える。


「……怖いです」


 カイが静かに言う。


「学園の鐘だ」


 エリアナ。


「命令ではありません」


 ミリア。


「朝が始まる音よ」


 ロウ教師。


「ここは王宮ではない」


 リゼは最後に言った。


「現在地、王立学園医務室前庭。王の鐘接続なし。中央記録鐘同期なし。友人、周囲に存在。鐘種別、学園朝鐘」


 アルトは目を開けた。


 空を見る。


 鐘の余韻が消えていく。


「……怖いです。でも……大丈夫です」


 リゼは頷いた。


「確認しました」


 アルトはさらに、小さく続けた。


「……この鐘は……僕を呼んでない」


「はい」


「……でも……僕も……ここにいていい」


「はい。あなたは、ここにいていいです」


 アルトの目が、ほんの少し潤んだ。


「……アルトとして」


「はい。アルト・レインフォードさんとして」


 カイが小声で言った。


「俺の友達として」


 ミリアが続ける。


「私たちの友人として」


 エリアナ。


「孤独ではない音として」


 ロウ教師が少し間を置き、低く言う。


「学園の生徒としてだ」


 アルトはその言葉を一つずつ受け取った。


 誰かが勝手に完成させる言葉ではない。


 彼の周りに置かれる名前。


 必要なら、彼が選べる言葉。


 アルトは、かすれた声で言った。


「……僕……アルトって名前……好きです」


 庭が静かになった。


 風の音だけが、花壇の土を撫でている。


 アルトは続けた。


「……まだ……エルディアのことは……全部……わかりません」


 リゼは頷く。


「はい」


「……母さんの記録も……まだ……怖いです」


「はい」


「……でも……アルトって……呼ばれるの……好きです」


 ミリアは記録帳を持っていない。


 それでも、全員がその言葉を覚えた。


 アルトは、自分の名前を好きだと言った。


 王宮が鍵にしようとした名前ではない。


 母が残した小さな音。


 朝に残る音。


 彼が自分で好きだと確認した名。


 リゼは静かに言った。


「確認しました。アルトさんは、アルトという名前が好きです」


 アルトは頷いた。


「……はい」


 少し間を置いて、彼はリゼを見る。


「……リゼさんは」


「はい」


「……リゼ・グレイスって名前……好きですか」


 問いは、まっすぐだった。


 リゼはすぐに答えられなかった。


 リゼ・グレイス。


 生まれた時からあった名前。


 戦場で覆われた名前。


 灰銀の戦乙女に隠された名前。


 王宮の剣として扱われた名前。


 王の鐘の前で取り戻した名前。


 卒業証書に書かれた名前。


 好きか。


 可能かではない。


 有効かでもない。


 本人識別に適切かでもない。


 好きか。


 リゼは、自分の胸に手を当てた。


 呼吸、正常。


 胸部圧迫感、軽度。


 未分類感情、発生。


 青いリボン、装着中。


 現在地、王立学園医務室前庭。


 周囲、友人。


 リゼは言った。


「私は、リゼ・グレイスという名前を確認しました」


 アルトは待っている。


 ミリアも。


 カイも。


 エリアナも。


 ロウ教師も。


 誰も続きを書かない。


 リゼは、もう一度息を吸った。


「そして、好きだと思います」


 ミリアの目が、柔らかく細められた。


 カイが小さく拳を握った。


 エリアナが微笑んだ。


 アルトは、嬉しそうに頷いた。


「……よかったです」


 リゼは少し考え、付け足した。


「確度は高いです」


 アルトが笑った。


 今度は、少し声が出た。


 喉に響き、すぐに咳になりかける。


 医師が水を差し出した。


「笑いすぎない」


 アルトは水を飲み、小さく頷いた。


「……はい」


 カイが涙声で言う。


「笑いすぎるなって言われるの、すごい普通ですね」


 ミリアが頷く。


「普通ね」


 エリアナも言う。


「とても、良い普通です」


 リゼはその言葉を胸に置いた。


 良い普通。


 医師に注意されながら笑う。


 焼き菓子を小さく食べる。


 香草の芽を見る。


 鐘を怖がりながら、大丈夫だと確認する。


 自分の名前を好きだと言う。


 それは、英雄譚にはならないかもしれない。


 だが、リゼにとっては、どんな戦場の勝利よりも大きな出来事だった。


 しばらくして、医師が時間を告げた。


「アルト君、そろそろ戻ります」


 アルトは花壇を見た。


 小さな芽。


 白い朝。


 友人たち。


 少し名残惜しそうにしてから、頷く。


「……はい」


 カイが車椅子の後ろへ回る。


「戻るぞ」


「……はい」


 リゼも左側へ立とうとした。


 その時、アルトが小さく言った。


「……リゼさん」


「はい」


「……少しだけ……歩きたいです」


 医師がすぐに顔を上げる。


 ロウ教師もアルトを見る。


 カイは息を止めかけたが、すぐに呼吸を再開した。


 リゼは確認する。


「歩行意思あり。距離」


 アルトは庭の小道を見る。


 花壇から医務室の扉まで。


 ほんの短い距離。


「……あそこまで」


 医師はアルトの顔色、呼吸、手首を確認した。


 少し考え、頷く。


「支えあり。途中停止可。無理はしない。扉まで」


 アルトは頷いた。


「……はい」


 カイが車椅子の前へ回る。


「右、支える」


 リゼは左側に立った。


「左側、支援します。接触してよいですか」


「……お願いします」


 リゼはアルトの左腕を支えた。


 カイが右側を支える。


 ロウ教師が後方。


 医師がすぐ横。


 ミリアとエリアナは少し離れて見守る。


 アルトはゆっくり立ち上がった。


 身体が震える。


 リゼの手に、その震えが伝わる。


 弱い。


 まだ回復途中。


 けれど、本人の足で立っている。


 夢歩きではない。


 黒蔦に引かれているのではない。


 存在しない馬車へ向かう足でもない。


 王の鐘へ運ばれる足でもない。


 本人が望み、周囲が支え、医師が確認した歩み。


 アルトは一歩踏み出した。


 土ではなく、庭の石畳。


 朝露で少し冷えている。


 一歩。


 カイが息を合わせる。


 二歩。


 リゼは左側で支える。


 三歩。


 アルトは少し息を切らす。


 医師が問う。


「止まりますか」


 アルトは首を横に振りかけ、途中でやめた。


 考える。


「……少し……止まります」


「良い判断です」


 ロウ教師が言った。


「よし」


 止まる。


 戻れなくなったわけではない。


 止まって、息を整える。


 リゼはアルトの左側で待つ。


 カイも右側で待つ。


 誰も急かさない。


 アルトは息を吸い、吐いた。


「……行けます」


 再び歩く。


 医務室の扉まで、あと数歩。


 朝の光が、彼らの前に伸びている。


 ミリアの声が背後から届いた。


「ゆっくりでいいわ」


 エリアナ。


「白い朝は、待てます」


 カイが小さく笑う。


「みんな待てるようになったな」


 リゼは言った。


「はい。待機能力、向上」


 アルトが少し笑った。


「……リゼさん……」


「はい」


「……それ……好きです」


「確認しました」


 扉の前に着く。


 医務室の扉。


 白い。


 閉じ込めるためではない。


 休むために閉じ、必要な時に開く扉。


 アルトはそこまで歩いた。


 短い距離。


 だが、確かに歩いた。


 医師が車椅子を近づける。


「ここまでです」


 アルトは頷き、座った。


 疲労で顔色がさらに白くなっている。


 しかし、表情は穏やかだった。


「……歩けました」


 リゼは答えた。


「はい。本人意思による歩行、確認しました。途中停止あり。支援あり。扉まで到達」


 カイが泣きながら言う。


「すごいぞ」


 アルトは小さく笑った。


「……少しだけです」


 カイは首を横に振る。


「少しだけが、すごい」


 ミリアが頷いた。


「ええ」


 エリアナも。


「少しだけは、大切です」


 ロウ教師が腕を組み、低く言う。


「少しずつでいい。急いで倒れるな」


「……はい」


 アルトは医務室へ戻る前に、もう一度リゼを見た。


「……リゼさん」


「はい」


「……行きましょう」


 その言葉は、扉の前で静かに響いた。


 行きましょう。


 どこへ。


 医務室へ。


 学園へ。


 次の朝へ。


 これからへ。


 リゼは、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「了解しました」


 カイが車椅子を押す。


 アルトが医務室へ入る。


 リゼは左側を歩く。


 ミリア、エリアナ、ロウ教師、医師も続く。


 扉は開いている。


 その向こうには、医務室の白い壁がある。


 薬草の匂い。


 温かい茶。


 小さな焼き菓子の箱。


 窓から見える香草の芽。


 医務室へ戻ることは、後退ではない。


 今は、回復するための帰還だった。


 アルトを寝台へ戻すと、医師はすぐに休息を命じた。


「今日はここまで。よく歩きました。眠りなさい」


 アルトは素直に頷いた。


「……はい」


 カイが小声で言う。


「寝ろよ。俺、後でまた来る」


「……うん」


 ミリア。


「香草の芽、覚えておくわ」


「……はい」


 エリアナ。


「匂いは、後で」


「……後で」


 ロウ教師。


「倒れる前に止まったのは良い判断だ」


 アルトは少しだけ嬉しそうに頷いた。


 リゼは最後に言った。


「現在地、王立学園医務室。歩行完了。休息へ移行。あなたは、アルト・レインフォードさんとして、ここにいます」


 アルトの瞼がゆっくり下りる。


「……はい」


 眠りに落ちる直前、彼はかすれた声で呼んだ。


「……リゼさん」


「はい」


「……また……後で」


 リゼは頷いた。


「はい。また後で」


 アルトは眠った。


 今度の眠りも、黒布に沈められるものではない。


 冷却安定化でもない。


 王の鐘のための沈黙でもない。


 朝の散歩の後、疲れた身体を休ませる眠りだった。


 医務室を出ると、庭の光は少し強くなっていた。


 香草の芽が、朝露の中で小さく揺れている。


 カイはそれを見て、また少し泣いた。


 ミリアは茶を注いだ。


 エリアナは香草袋を胸に抱き、芽へ向かって静かに微笑んだ。


 ロウ教師は「泣くなら静かに泣け」とだけ言った。


 カイは「はい」と答えた。


 リゼは花壇の前に立つ。


 白い朝。


 小さな緑。


 医務室で眠るアルト。


 寮の机に置いた卒業証書。


 青いリボン。


 友人たちの声。


 遠くで、学園の鐘がもう一度鳴った。


 授業の始まりを知らせる鐘だった。


 生徒たちの足音が、校舎の方へ流れていく。


 笑い声。


 呼び声。


 扉の開く音。


 紙をめくる音。


 日常の音。


 アルトは医務室で眠っている。


 だが、この音は彼を奪いに来るものではない。


 リゼを戦場へ戻すものでもない。


 エリアナの血を鍵にするものでも、ミリアの記録を閉じ込めるものでも、カイの声を消すものでもない。


 ただ、朝が続いていく音だった。


 カイが言った。


「リゼ」


「はい」


「これから、どうしますか」


 リゼは少し考えた。


 王宮の調査は続く。


 母記録は後で聞く。


 香草は育つ。


 アルトは回復する。


 自分は学園に残り、学ぶ。


 ミリアは記録する日も、記録しない日もある。


 カイは焼き菓子を少しずつ作る。


 エリアナは知る範囲で話し、知らないことは断定しない。


 卒業証書は机の上にある。


 終わったこと。


 続くこと。


 未完のこと。


 すべてが同時に存在している。


 リゼは答えた。


「まず、授業開始時刻を確認します」


 カイが一瞬黙り、それから笑った。


「リゼだな」


 ミリアも笑う。


「ええ。リゼさんね」


 エリアナが頷く。


「リゼ・グレイスさんです」


 リゼは、その名を聞いた。


 胸の中で、静かに確認する。


 リゼ・グレイス。


 好きだと思う。


 確度は高い。


 リゼは校舎の方へ向いた。


 白い朝の光が、廊下へ続いている。


 その先から、友人たちの声が聞こえる。


 カイの泣き笑い。


 ミリアの穏やかな注意。


 エリアナの柔らかな返事。


 医務室の中で眠るアルトの、小さな呼吸。


 朝に残る音。


 孤独ではない音。


 リゼは青いリボンに触れ、歩き出した。


 その足取りは、戦場へ向かうものではなかった。


 王宮の命令に従うものでもなかった。


 戻る場所を持ったまま、自分の名前で進むための一歩だった。


 白い朝の中、学園の鐘の余韻が静かに消えていく。


 その後に残ったのは、人の声だった。


 名前を呼ぶ声。


 笑う声。


 待つ声。


 また後で、と約束する声。


 リゼ・グレイスは、その音の中を歩いていった。


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