第13章 第8話:リゼの在学意思確認
学園長室の窓から、午後の光が差し込んでいた。
王宮の白い朝とは違う。
医務室の白とも違う。
ここにある光は、長い廊下と古い木の床、磨かれた机、壁に並ぶ卒業生たちの肖像を静かに照らしている。
学園長室。
王立学園の中でも、リゼ・グレイスにとってはまだ少し緊張を伴う場所だった。
入学手続き。
護衛任務の説明。
王宮からの文書対応。
臨時保護令への拒否。
卒業戦争防衛態勢の宣言。
ここでは多くのことが決められた。
だが今日、机の上に置かれている文書は、命令でも作戦書でもない。
卒業審査前面談記録。
リゼ・グレイス。
最終確認項目。
在学意思確認。
その一行を、リゼは何度も読んでいた。
読むたびに、胸の奥に小さな引っかかりが生まれる。
在学意思。
可能かどうかなら、答えられる。
学園での生活継続は可能。
護衛任務は調整済み。
王宮からの強制召喚は現時点で停止。
灰銀戦時戦力としての再使用不同意は記録済み。
右腕冷却は軽度。
戦闘能力は一部低下したが、日常生活は可能。
授業参加も可能。
寮生活も可能。
友人関係の維持も、以前より理解している。
可能。
そう答えるなら、簡単だった。
しかし、文書には「可能性確認」とは書かれていない。
在学意思確認。
意思。
望むかどうか。
それは、リゼが他者へ何度も求めてきたものだった。
アルトさん。あなたはどうしたいですか。
移送に同意していますか。
保管に同意していますか。
王の鐘になることに同意していますか。
学園に残りたいですか。
本人意思を確認します。
その言葉を、自分へ向けられると、途端に難しくなる。
リゼは、学園長の机の前に立っていた。
姿勢は正しい。
制服も整っている。
青いリボンも、髪に結ばれている。
ミリア・ファルネーゼが朝に結び直したものだ。
戻るための目印。
今では、戻った後もそこにあるもの。
学園長は机の向こうで文書を見ていた。
彼の隣には、エレオノーラ・ヴィンスフェルトが記録役として座っている。
今回はミリアではない。
ミリアは友人として外で待っている。
リゼの本人意思確認を、友人が記録してもよいかどうかは議論になったが、最終的に学園長が言った。
「ミリア君は、この件では記録者ではなく、待つ友人でいてもらいましょう」
その言葉に、ミリアは少し驚いた顔をした後、静かに頷いた。
今、学園長室の外には、ミリア、カイ、アルト、エリアナがいる。
アルトは医師の許可した短時間だけ、椅子に座って待っている。
長くは待てない。
だが「リゼさんの確認なら、少しだけ」と言った。
カイは「俺も待つ」と言った。
エリアナは香草袋を持って、静かに頷いた。
リゼは、その全員の位置を確認していた。
現在地。
ミリア、学園長室前廊下。
カイ、同廊下。
アルト、同廊下、椅子使用、医師許可あり。
エリアナ、同廊下、香草袋保持。
自分、学園長室内。
対象文書、在学意思確認。
状態。
呼吸、正常。
右腕冷却、軽度。
胸部圧迫感、中度。
感情、未分類。
学園長が顔を上げた。
「リゼ・グレイスさん」
「はい」
「これより卒業審査前面談の最終項目を確認します。答えたくない場合は、後日にできます。考える時間が必要なら、ここで止めます」
「了解しました」
エレオノーラが記録する。
リゼ・グレイス、確認開始を了承。
学園長は文書を閉じた。
そして、紙ではなくリゼを見た。
「あなたは、今後も王立学園に在学する意思がありますか」
リゼはすぐに答えた。
「在学継続は可能です」
エレオノーラの筆が止まった。
学園長も、すぐには頷かなかった。
静かな沈黙が落ちる。
リゼは自分の回答を検証した。
質問。
在学する意思がありますか。
回答。
在学継続は可能です。
意味のずれを検出。
意思確認に対し、能力可能性で回答。
修正が必要な可能性。
学園長は穏やかに言った。
「可能かどうかではありません」
リゼは視線を上げる。
学園長の声は、責めるものではない。
だが、逃げ道をふさぐものでもあった。
「望むかどうかを聞いています」
望む。
その言葉が、リゼの胸に落ちる。
命令ではない。
任務でもない。
効率でもない。
戦力配置でもない。
安全評価でもない。
望むか。
リゼは答えようとした。
だが、言葉が出なかった。
喉は正常。
発声器官に異常なし。
だが、回答文が形成されない。
望む。
私は、何を望むのか。
王宮へ戻る道がある。
灰銀戦時戦力としてではなくとも、王宮はまだリゼの記録を求めるだろう。
臨時調整室の調査。
灰銀一七の外装確認記録。
戦時搬送路。
白布児記録の移送経路。
証言者としての出席要請。
その全てから逃げることはできない。
傭兵へ戻る道もある。
戦場はまだ世界のどこかにある。
灰銀の名を使いたがる者もいるだろう。
剣を振れば、役に立つ。
危険区域突破適性。
護衛対象生存率。
感情抑制適性。
そうした記録は消えていない。
では、学園に残る道は何か。
授業。
制服。
寮。
食堂。
茶。
焼き菓子。
香草の芽。
医務室。
記録室。
廊下で待つ友人。
アルトの現在地確認。
ミリアのリボン。
カイの長すぎる菓子名。
エリアナの「知る範囲で話します」という声。
それらは、戦力配置ではない。
だが、リゼの中で明確な重みを持っている。
リゼは自分の右手を見た。
手のひらには、まだ戦場の記憶がある。
剣を握った感覚。
血の滑り。
冷え。
灰銀。
王宮の剣。
戦時戦力。
それらを消すことはできない。
消さないと決めた。
だが、それだけではないとも決めた。
私は、リゼ・グレイスです。
王の鐘の前で言った。
灰銀ではなく。
王宮の剣ではなく。
では、リゼ・グレイスは何を望むのか。
室外から、かすかな声が聞こえた。
カイの声だ。
抑えているつもりだが、少し漏れている。
「長いな……大丈夫かな」
ミリアの声。
「待つのよ」
「はい」
エリアナの柔らかな声。
「確認には時間が必要です」
そして、アルトのかすれた声。
「……待ちます」
リゼは、扉の方へわずかに視線を向けた。
扉は閉じている。
だが、声は届く。
閉じ込める扉ではない。
待つための扉。
学園長は何も言わなかった。
急かさない。
リゼは胸に手を当てる。
「状態を確認します」
学園長が頷く。
「どうぞ」
リゼは自分に向けて言った。
「リゼ・グレイス。現在地、王立学園学園長室。確認項目、在学意思。身体状態、右腕冷却軽度。胸部圧迫感中度。呼吸正常。感情、緊張、恐怖、迷い、安堵を含む可能性。判断、継続可能」
エレオノーラが記録する。
学園長は静かに聞いている。
リゼは続けた。
「私は、王宮へ戻ることが可能です。証言協力も可能です」
「はい」
「私は、傭兵として再活動することも可能です。戦闘能力の一部は維持されています」
「はい」
「私は、学園に残ることも可能です」
「はい」
リゼはそこで一度止まった。
可能。
すべて可能。
では、望むのは。
机の上の文書が、静かに待っている。
本人欄は空白だ。
正しい空白。
リゼの声を待つ空白。
リゼは、青いリボンに触れた。
指先に布の感触がある。
ミリアが結んだもの。
戻るための目印。
リゼは言った。
「私は、学園の制服をまだ完全には理解していません」
学園長は少しだけ目を細めた。
エレオノーラは筆を止めずに待つ。
「食堂の席選択では、今も退路を確認します。カーテンの揺れも警戒します。茶の味の表現は不十分です。友人関係も、時々任務記録に近づきます」
室外で、カイが小さく「そんなことない」と言いかけた気配がした。
ミリアが止めたらしく、声は続かなかった。
リゼは続ける。
「ですが、私は学園で、それらを修正しています」
胸の奥の圧迫が、少し形を変える。
「ミリアさんに、関係の言葉を訂正されます。カイさんから、友達の焼き菓子について学びます。エリアナさんから、知らないことを断定しない姿勢を確認します。アルトさんから、恐怖と本人意思を同時に扱うことを学びました」
学園長は静かに聞いている。
「私は、王宮の剣としてここにいるのではありません。灰銀戦時戦力としてここにいるのでもありません」
リゼは一度息を吸った。
「私は、リゼ・グレイスとして、ここで学んでいます」
その言葉を言った瞬間、胸の奥にあった未分類の感情が少しだけ動いた。
学ぶ。
それは、リゼが自分に対してあまり使ってこなかった言葉だった。
任務を遂行する。
状況を確認する。
危険を排除する。
守る。
それらとは違う。
学ぶ。
間違えることを含む。
修正することを含む。
未完であることを認める言葉。
リゼは、学園長を見た。
「望む、を確認します」
学園長は頷く。
「はい」
「私は、王立学園に残りたいと思います」
エレオノーラの筆が、静かにその言葉を書いた。
リゼの声は、もう一度続いた。
「可能だからではありません。任務上有効だからでもありません。私は、ここで学ぶことを望みます」
室外が静まり返った。
声は聞こえない。
だが、扉の向こうで全員が息を止めた気配がした。
学園長は、ゆっくりと頷いた。
「本人意思、確認しました」
その言葉は、リゼが何度も誰かへ言ってきた言葉だった。
今、それを自分が受け取っている。
リゼは胸の奥に、また別の痛みを感じた。
痛み。
だが、不快ではない。
分類は難しい。
エレオノーラが文書へ記す。
リゼ・グレイス。
本人意思。
王立学園に残り、学ぶことを望む。
学園長が確認。
学園長は文書をリゼの方へ差し出した。
「読み上げます。リゼ・グレイスさんは、王宮への証言協力や過去記録への向き合いを否定しない。ただし、現在、王立学園に残り、学ぶことを本人意思として望む。これでよろしいですか」
リゼは文書を見る。
過去を消していない。
灰銀を消していない。
王宮への責任も放棄していない。
そのうえで、学園に残る。
リゼは頷いた。
「誤りありません」
「署名できますか」
「可能です」
学園長は少しだけ眉を上げる。
リゼは言い直した。
「署名したいです」
学園長は微笑んだ。
「どうぞ」
リゼはペンを取った。
リゼ・グレイス。
その名を書く。
灰銀一七ではない。
灰銀の戦乙女でもない。
王宮の剣でもない。
リゼ・グレイス。
自分の名前。
書き終えた瞬間、手の中に奇妙な重さが残った。
剣より軽い。
だが、意味は重い。
学園長が文書へ印を押した。
乾いた音が室内に響く。
「在学意思、確認済み」
エレオノーラが青い記録線へ文面を保全する。
リゼは文書を見つめた。
今度の記録は、自分を閉じ込めるためのものではない。
自分がここに残ると望んだ記録だ。
学園長は静かに言った。
「リゼさん」
「はい」
「学ぶということは、守る側であり続けることとは少し違います。時には守られることも、間違えることも、待ってもらうことも含みます」
リゼは考える。
「守られること」
「はい」
「私は、それに不慣れです」
「でしょうね」
学園長は少し笑った。
「ですが、在学するなら、それも学ぶことになります」
リゼは真剣に頷いた。
「確認しました。守られることも、学習項目に含めます」
エレオノーラが筆を止めた。
わずかに口元が動いた。
笑いをこらえたのかもしれない。
学園長は穏やかに言う。
「良いでしょう」
面談終了の記録が取られた。
リゼは退室許可を得て、学園長室の扉へ向かった。
扉の前で一度止まる。
外には友人たちが待っている。
自分の答えを、待っている。
リゼは、胸の奥の状態を確認した。
緊張、中度。
恐怖、軽度。
安堵、中度。
未分類感情、継続。
判断、可能。
扉を開ける。
廊下には、予想通り四人がいた。
ミリアがすぐにリゼの顔を見た。
カイは立ち上がりかけ、アルトの車椅子にぶつかりそうになり、慌てて止まった。
エリアナは香草袋を胸に持ち、静かに微笑んでいる。
アルトは椅子に座り、少し疲れた顔で、それでもリゼを見ていた。
ミリアが尋ねる。
「状態は」
リゼは答えた。
「身体状態、良好ではありませんが、継続可能。右腕冷却軽度。胸部圧迫感、低下傾向」
カイが前のめりになる。
「それで、答えは」
ミリアがカイを見る。
「急かさない」
「あ、はい」
リゼはカイを見て、少しだけ首を振った。
「急かしではないと判断します。共有を求めています」
カイの表情が明るくなる。
「はい。共有を求めています」
リゼは全員を見た。
ミリア。
カイ。
エリアナ。
アルト。
彼らは、リゼの答えを勝手に書かなかった。
待っていた。
だから、リゼは自分で言う。
「私は、王立学園に残りたいと思います」
廊下に静かな時間が落ちた。
最初に反応したのはカイだった。
彼は両手を握り、何か叫びそうになった。
だが、医務室に近い廊下であることを思い出し、小さな声で言った。
「よかった……!」
声は小さいが、感情は大きい。
ミリアは柔らかく笑った。
「本人意思、確認したのね」
「はい」
「可能だからではなく?」
リゼは頷いた。
「望むからです」
ミリアの目が、少し潤んだ。
しかし、彼女は泣かなかった。
代わりに、リゼの青いリボンに手を伸ばす。
「少し曲がっているわ」
リゼは頭を下げた。
「修正をお願いします」
ミリアは、いつものようにリボンを整えた。
指先が丁寧に布を結び直す。
「おかえり、というより……ここに残るのね」
「はい」
「よかった」
エリアナが静かに言った。
「学園に、また一つ帰る場所が残りましたね」
リゼはエリアナを見る。
「私の帰る場所ですか」
「はい」
リゼは少し考えた。
「確認中ですが、そうだと思います」
アルトが、かすれた声で言った。
「……リゼさんも……学園に……残るんですね」
「はい」
「……よかったです」
その言葉は、小さかった。
だが、リゼの胸に強く届いた。
アルトは続ける。
「僕が……学園に残りたいって……言った時……リゼさんが……確認してくれました」
「はい」
「今度は……リゼさんの番ですね」
リゼは瞬きをした。
その通りだった。
アルトの本人意思を確認した。
彼が学園に残りたいと言った時、その言葉を守った。
今度は、自分の言葉を確認してもらっている。
カイが言った。
「リゼも学園に残る。アルトも残る。エリアナも香草植えた。ミリアは記録帳増やす。俺は焼き菓子を少しずつ持ってくる」
ミリアがすぐに言う。
「少しずつ、ね」
「はい。学んでます」
エリアナが笑う。
アルトも少し笑った。
リゼはその光景を見た。
廊下。
午後の光。
友人たち。
青いリボン。
車椅子のアルト。
香草袋。
ミリアの手。
カイの抑えた声。
それらが、リゼの現在地だった。
リゼは言った。
「現在地、王立学園学園長室前廊下。本人意思、王立学園に残りたい。友人による確認、あり」
ミリアが笑う。
「記録者は私じゃないけれど、覚えておくわ」
学園長室の扉が静かに閉じた。
中では、エレオノーラが正式記録を保全している。
外では、リゼが友人たちと向き合っている。
記録と、声。
どちらもある。
リゼは、自分の署名を思い出した。
リゼ・グレイス。
王立学園に残り、学ぶことを望む。
その文字は、もう紙の上にある。
だが、それ以上に、今ここで口にしたことが重要だった。
ミリアが言う。
「戻る?」
「医務室へですか」
「ええ。アルトさんも長くは待てないわ」
医師の許可時間を思い出し、リゼは頷いた。
「戻ります」
カイが車椅子の後ろに立つ。
「ゆっくり行くぞ」
アルトが頷く。
「……はい」
エリアナが香草袋を抱え、歩き出す。
ミリアはリゼの隣に並んだ。
「リゼさん」
「はい」
「おめでとう、はまだ早いかしら」
リゼは少し考える。
「卒業証書はまだ受け取っていません」
「そうね」
「ですが、在学意思確認は完了しました」
「なら、その分だけ」
ミリアは微笑んだ。
「おめでとう」
リゼは、どう返すべきか一瞬迷った。
任務完了ではない。
作戦成功でもない。
感謝。
それが近い。
「ありがとうございます」
ミリアは満足そうに頷いた。
廊下の先で、小さな鐘が鳴った。
授業の終わりを知らせる、学園の鐘。
アルトの肩がわずかに揺れる。
リゼはすぐに確認する。
「アルトさん」
「……怖いです。でも……大丈夫です」
カイが言う。
「学園の鐘だ」
エリアナ。
「命令ではありません」
ミリア。
「今日が進んでいる音ね」
リゼは鐘の余韻を聞いた。
王の鐘ではない。
中央記録鐘でもない。
誰かを保管する音でも、移送する音でもない。
授業が終わり、廊下に生徒が戻ってくる音。
学園の日常の一部。
リゼは言った。
「確認しました。これは、学園の鐘です」
そして、少し間を置いて続ける。
「私は、この鐘が鳴る場所に残りたいです」
ミリアが隣で、何も言わずに微笑んだ。
カイは今度こそ小さく拳を握りしめた。
エリアナは香草袋を胸に当てた。
アルトは、車椅子の上で静かに頷いた。
リゼ・グレイスは、青いリボンを揺らしながら、友人たちと一緒に医務室へ戻っていく。
それは退却ではなかった。
任務復帰でもなかった。
自分で望んだ場所へ戻る道だった。




