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灰銀の戦乙女は、制服を知らない  作者: 最後に残った形


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第13章 第6話:カイの焼き菓子


 王立学園医務室の前で、カイ・ロックハートは皿を持っていた。


 皿の上には、焼き菓子が山のように積まれている。


 山。


 それは比喩ではなかった。


 平たい丸型。


 小さな星型。


 中に蜜を入れたもの。


 表面に砂糖を振ったもの。


 焦げ目が強すぎるもの。


 なぜか一枚だけ剣の形をしているもの。


 そして中央には、紙の札が立てられていた。


 帰ってきたから食べる用。


 ミリア・ファルネーゼは、その札を見てしばらく黙っていた。


 リゼ・グレイスも黙っていた。


 エリアナ・ルクス・ヴェルグラントは、香草袋を胸に抱いたまま、少しだけ首を傾けている。


 医務室の医師は、両腕を組んでいた。


 表情は、かなり厳しい。


 カイは皿を持ったまま、背筋を伸ばしている。


 いつもなら、ここで自信満々に説明している。


 だが今日は、医師の視線を受けて、すでに少し小さくなっていた。


 医師が言った。


「カイ君」


「はい」


「これは何ですか」


「焼き菓子です」


「それは見ればわかります」


「帰ってきたから食べる用です」


「札も見ました」


 医師は深く息を吐いた。


「アルト君はまだ喉と体力が完全に戻っていません。糖分の多いもの、硬いもの、大量のものは、今は許可できません」


 カイの顔が目に見えてしぼんだ。


「大量……ですか」


 医師は皿を見た。


「大量です」


 カイは皿を見る。


 焼き菓子の山を見る。


 そして、小さく頷いた。


「……はい。大量です」


 ミリアが静かに言う。


「認識できたのは良好ね」


 リゼも頷いた。


「カイさん、数量過多を認識」


 カイは少しだけ肩を落とす。


「記録されるやつですか」


「はい」


「ですよね」


 エリアナが柔らかく言った。


「でも、気持ちは伝わります」


 カイは顔を上げた。


「本当ですか」


「はい。とても」


 その言葉で、カイの表情が少し戻った。


 しかし、医師は容赦しなかった。


「気持ちは伝わりますが、食べる量は別です」


「はい」


「本日許可できるのは、柔らかいものを、ごく小さな欠片一つ。水分と一緒に。医師立会い。以上です」


 カイは一瞬、ものすごく真剣な顔になった。


「欠片一つ」


「はい」


「どれくらいの」


 医師は親指と人差し指で、ごく小さな幅を示した。


「これくらいです」


 カイは皿の上の焼き菓子を見た。


 山を見た。


 医師の指の幅を見た。


 そして、覚悟を決めたように頷いた。


「わかりました。選びます」


 ミリアが言った。


「カイさん」


「はい」


「選ぶのに時間をかけすぎない」


「努力します」


 カイは真剣に皿を見つめた。


 まるで戦場で重要な指示を受けた兵のような顔だった。


 丸型。


 星型。


 蜜入り。


 砂糖付き。


 焦げ目。


 剣型。


 彼は一枚一枚を見比べる。


 リゼは、その様子を観察した。


 カイ・ロックハート、焼き菓子選定中。


 表情、極めて真剣。


 目的、アルトさんへ安全に提供可能な欠片の選定。


 医師の指示遵守意思あり。


 衝動的提供なし。


 良好。


 やがてカイは、表面が柔らかそうな丸型を一枚選んだ。


 それをさらに小さく割る。


 割った欠片の中から、医師の示した大きさに近いものを選ぶ。


 少し大きい。


 カイはさらに割った。


 今度は小さすぎる。


 また迷う。


 医師が見かねて言った。


「それでいいです」


 カイは欠片を見つめる。


「これで、帰ってきたから食べる用として成立しますか」


 医師は一瞬、言葉に詰まった。


 ミリアが代わりに言う。


「成立するわ」


 エリアナも頷く。


「はい。小さくても、意味は変わりません」


 リゼは言った。


「焼き菓子の質量と意味は比例しない可能性があります」


 カイはリゼを見た。


「それ、すごく安心する言葉なんですけど、なんか難しいです」


 ミリアが微笑む。


「“小さくても大丈夫”という意味よ」


「それです」


 カイは欠片を小皿に乗せた。


 札も立て直す。


 帰ってきたから食べる用。


 ただし、小片。


 ミリアが札を見て言った。


「追記したの?」


「はい。正確にしました」


 リゼが頷く。


「正確性、向上」


 医師は少しだけ肩の力を抜いた。


「では、入室しましょう。ただし、騒がない。泣きすぎない。食べさせる時に焦らない」


「はい」


「カイ君に言っています」


「はい、俺です」


 医務室の扉が開く。


 アルト・レインフォードは寝台の背を少し起こした状態で座っていた。


 今日は顔色が昨日より少しだけ良い。


 喉の布は薄くなっている。


 左手首の布も巻き直されている。


 窓から見える庭には、エリアナが植えた香草の小さな花壇がある。


 まだ芽は出ていない。


 けれど、土は湿っている。


 アルトは扉の音に気づき、ゆっくり視線を向けた。


 カイが小皿を両手で持ち、慎重に近づく。


 近づきすぎない位置で止まる。


 医師が頷く。


 カイは小声で言った。


「アルト」


 アルトの目が、少し柔らかくなる。


「……カイ」


「帰ってきたから食べる用です。ただし、医師の許可により小片です」


 ミリアが記録板を開く。


「説明が正確ね」


 アルトの視線が小皿へ落ちる。


 小さな焼き菓子の欠片。


 山の中から選ばれた一欠片。


 彼はそれを見て、かすかに笑った。


「……小さい……」


 カイは真剣に頷く。


「今はこれが最大です」


 医師が言う。


「正確には、許可できる最大です」


「許可できる最大です」


 カイはすぐに訂正した。


 アルトの笑みが少し深くなる。


 喉に響かないよう、声にはしない。


 ミリアが記録する。


 アルト・レインフォード、焼き菓子小片を見て表情緩和。


 リゼはその横から言った。


「アルトさん。焼き菓子摂取前に状態確認を行います」


 アルトは頷いた。


「……はい」


「喉の痛み」


「……少し」


「吐き気」


「……ないです」


「食欲」


 アルトは少し考えた。


「……少し……あります」


 カイの顔が輝いた。


 医師がすぐに手で制する。


「喜びは静かに」


 カイは口を閉じ、全力で頷いた。


 リゼは続ける。


「恐怖反応」


 アルトは焼き菓子の欠片を見る。


 それから、カイを見る。


「……ないです」


「現在地」


「……王立学園……医務室」


「食べる意思」


 アルトは小さく息を吸った。


「……あります」


 リゼは頷いた。


「確認しました」


 医師が小皿を受け取り、さらに欠片を半分にしようとした。


 カイが一瞬、目を見開いた。


 だが、何も言わなかった。


 医師はその表情に気づいたが、冷静に半分にした。


「安全のためです」


 カイは深く息を吸い、頷いた。


「安全、大事です」


 ミリアが小声で言った。


「素晴らしいわ」


 カイは震える声で答えた。


「成長しています」


 アルトは、医師に支えられて、小さな欠片を口にした。


 ゆっくり。


 噛むというより、舌の上で柔らかくする。


 飲み込むまで時間がかかった。


 全員が見守る。


 カイは呼吸を止めていた。


 ミリアが気づき、言う。


「カイさん、呼吸」


「してませんでした」


「して」


「はい」


 アルトはやがて、ゆっくり飲み込んだ。


 喉が少し痛んだのか、眉が寄る。


 医師がすぐに水を差し出す。


 アルトは水を飲む。


 しばらくして、呼吸が落ち着いた。


 リゼが確認する。


「喉の痛み、増加しましたか」


「……少し。でも……大丈夫です」


「吐き気」


「……ないです」


「味」


 アルトは目を少し細めた。


 カイが身を乗り出しかけ、すぐに戻る。


 アルトは、かすれた声で言った。


「……甘いです」


 カイの目に涙が浮かぶ。


「甘いか」


「……はい」


「よかった」


 カイは泣きそうになった。


 しかし、今は泣き声を出さない。


 両手を握りしめて耐えている。


 アルトは小皿の上の、残り半分の欠片を見た。


 医師が言う。


「今日はここまででも構いません」


 アルトは少し考える。


「……もう……少し……」


 医師がリゼを見る。


 リゼは状態を確認する。


「呼吸、安定。喉痛み、軽度増加。本人意思、もう少し。医師判断が必要です」


 医師は少し考え、残りの欠片をさらに小さく割った。


「これだけです」


 カイは、もう表情を崩さなかった。


「はい」


 アルトは二つ目の、さらに小さな欠片を口にした。


 今度はさっきより少し楽そうだった。


 水を飲む。


 呼吸を整える。


 そして、小さく言った。


「……帰ってきた……味がします」


 その瞬間、カイは泣いた。


 静かに泣こうとした。


 だが、涙が止まらなかった。


 声は出ていない。


 肩だけが震えている。


 ミリアは記録板を持つ手を少し止めた。


 それでも、丁寧に書いた。


 アルト・レインフォード、カイ・ロックハートの焼き菓子を摂取。


 「帰ってきた味がします」と発声。


 カイ・ロックハート、涙あり。声量制御中。


 リゼはその記録を見て、胸の奥に温かい痛みを感じた。


 帰ってきた味。


 それは食材の味ではない。


 砂糖や小麦や焦げ目の問題ではない。


 カイが待っていたこと。


 学園に帰ってきたこと。


 医務室で、医師に怒られながら、許可された欠片を食べること。


 そういうもの全部の味だった。


 カイは涙を拭いた。


「届いてよかった」


 アルトの視線が、カイに向く。


 そして、少しだけ長い沈黙の後、アルトは言った。


「……あの欠け……」


 カイが瞬きをする。


「あの欠け?」


「……馬車の……」


 医務室の空気が静かになる。


 黒布の馬車。


 第10章の夜。


 誘拐されたアルト。


 追跡するリゼたち。


 カイが投げ込んだ焼き菓子の欠け。


 あの小さな欠け。


 届いたかどうか、わからなかったもの。


 カイは、息を止めた。


 アルトはゆっくり続ける。


「……届きました」


 カイの顔が崩れた。


 泣き声が漏れそうになる。


 医師が何か言おうとしたが、言えなかった。


 アルトは、喉をかばいながらも、言葉を続けた。


「……黒い馬車の中で……手に……当たって……」


 リゼの記憶が戻る。


 黒い馬車。


 アルトの左手首。


 黒布。


 闇の中。


 カイが投げた焼き菓子の欠け。


 あれは、ただの投擲ではなかった。


 無理な救出でもなかった。


 届くかもしれない日常の欠片だった。


 アルトは言った。


「……食べられなかった……けど……」


 カイは涙でぐしゃぐしゃの顔で頷く。


「うん」


「……カイが……いたって……わかりました」


 カイは、とうとう声を漏らした。


「よかった……!」


 医師は「声量」と言いかけたが、ミリアがそっと首を横に振った。


 今だけは、小さな泣き声なら許してほしい。


 医師はため息をつき、何も言わなかった。


 ミリアが記録する。


 第10章誘拐時、カイ・ロックハートが投げ込んだ焼き菓子欠け、アルト・レインフォード本人に到達。


 摂取はなし。


 存在確認。


 本人発言、「カイがいたってわかりました」。


 カイは両手で顔を覆った。


「届いたなら……よかった……本当に……」


 アルトは疲れている。


 だが、その表情には、深い安心があった。


 リゼは、その表情を今度は断定できた。


 安心。


 本人状態、安心傾向。


 エリアナは香草袋を胸に抱きながら言った。


「食べられなくても、届くものがあるのですね」


 カイが涙声で答える。


「食べ物なのに、食べなくても役に立った……」


 ミリアが微笑んだ。


「そこに驚くのね」


「はい。食べ物は食べてこそだと思ってたので」


 リゼは言った。


「焼き菓子の欠けは、生存確認補助物として機能した可能性があります」


 ミリアが即座に顔を上げた。


「リゼさん」


「はい」


「生存確認補助物ではなく、友達の焼き菓子よ」


 リゼは少し止まった。


 アルトが小さく笑った。


 カイも涙のまま笑う。


 リゼは訂正した。


「訂正します。友達の焼き菓子です」


 ミリアが満足そうに頷く。


「よろしい」


 リゼは続けた。


「友達の焼き菓子は、黒い馬車内でアルトさんへ到達し、カイさんの存在確認に寄与しました」


 カイが涙を拭きながら言う。


「やっぱり堅いですけど、今のは好きです」


 アルトも、小さく頷いた。


「……僕も……」


 リゼは、その反応を確認した。


 言葉はまだ不慣れだ。


 だが、訂正はできる。


 生存確認補助物ではなく、友達の焼き菓子。


 それは、今のリゼにとって必要な訂正だった。


 医師が改めて言った。


「焼き菓子はここまでです。アルト君は休憩」


 アルトは素直に頷いた。


「……はい」


 カイは急いで小皿を下げる。


 残った焼き菓子の山は、医務室には入れない。


 医師が許可しない。


 だが、カイはもう落ち込んでいなかった。


 欠片は届いた。


 今日も、少し食べられた。


 帰ってきた味がした。


 それで十分だった。


 いや、十分以上だった。


 医務室の前室へ戻ると、カイは焼き菓子の山を見下ろした。


 札をじっと見る。


 帰ってきたから食べる用。


 少し考えて、彼は新しい札を書いた。


 帰ってきたから、少しずつ食べる用。


 ミリアがそれを見て頷く。


「とても良い修正ね」


 リゼも確認する。


「少しずつ、が追加されました。医師指示との整合性、向上」


 カイは胸を張った。


「学びました」


 エリアナが笑う。


「少しずつ育つものは、香草にも似ていますね」


「焼き菓子も育ちますか」


「それは……作るものでは」


 ミリアが小さく笑った。


「カイさんの場合、焼き菓子の名前は育っているわね」


 カイは札を見た。


 確かに、名前は長くなっている。


「これ以上長いと、札に入らないですね」


 リゼは言った。


「必要であれば、記録用紙を拡張します」


「いえ、大丈夫です」


 前室に、柔らかな笑いが広がった。


 その笑いは医務室の扉を越えないように抑えられている。


 けれど、完全には消さない。


 扉は声を奪うものではない。


 眠る人を休ませるためのもの。


 そして、必要な時にまた開くもの。


 しばらくして、医師が前室へ出てきた。


「アルト君は眠りました。焼き菓子の摂取後、異常なし。喉の痛みは少しありますが、想定範囲です」


 カイは深く頭を下げた。


「ありがとうございました」


「次回も必ず確認を取ること」


「はい」


「山で持ってこないこと」


 カイは皿を見た。


「……山は、だめですか」


「だめです」


「では、小丘くらいなら」


「カイ君」


「はい。少量にします」


 ミリアが肩を震わせた。


 リゼは真面目に記録するか迷った。


 カイ・ロックハート、焼き菓子持参量について再指導。


 山不可。


 小丘も不可。


 少量。


 記録しておく価値はあるかもしれない。


 カイは、焼き菓子の一つを見つめた。


「これ、みんなで食べてもいいですか。アルトは今は食べられないけど、俺たちが食べて、また次に作るので」


 医師は頷いた。


「前室でなら構いません。静かに」


 カイは皿を机に置いた。


 ミリア、リゼ、エリアナに一つずつ配る。


 リゼは受け取り、観察した。


 丸型。


 焼き色、均一。


 香り、良好。


 食べる。


 甘い。


 少し焦げた苦味。


 リゼは言った。


「味、良好です」


 カイが嬉しそうにする。


「本当ですか」


「はい。ミリアさんの茶と合わせると、さらに良好と予測します」


 ミリアが目を丸くする。


「私の茶がまた基準なの?」


「はい」


 エリアナは焼き菓子を少し割り、香りを確かめた。


「少しだけ、セリーネ草の苦味に合いそうです」


 カイが反応する。


「香草入り焼き菓子」


 医師がすぐに言う。


「アルト君用に新作を出す場合は、必ず事前確認」


「はい」


 カイは真剣に頷いた。


「帰ってきたから少しずつ食べる用・香草確認済み版は、確認してから作ります」


 ミリアが額に手を当てた。


「名前がもう長いわ」


 リゼは言った。


「札の拡張が必要です」


 エリアナが笑った。


 カイも笑った。


 ミリアも、困ったように笑った。


 リゼはその笑いを見ながら、焼き菓子をもう一口食べた。


 友達の焼き菓子。


 黒い馬車の中へ届いた欠け。


 学園医務室で食べた小さな欠片。


 食べられなかったけれど、存在を伝えたもの。


 食べられて、帰ってきた味になったもの。


 同じ焼き菓子でも、意味は一つではない。


 リゼは、皿の中央に立てられた新しい札を見た。


 帰ってきたから、少しずつ食べる用。


 その「少しずつ」が、今の全員に必要だった。


 回復も。


 王宮の後処理も。


 母の記録も。


 香草の芽も。


 卒業の準備も。


 すべて、一度に食べるものではない。


 少しずつ。


 確認しながら。


 本人の速度で。


 カイは焼き菓子を一つ持ち、医務室の扉の方を見た。


「また作るからな、アルト」


 声は小さい。


 扉を越えるかどうか、わからないくらい。


 それでも、届けばいいと思っている声だった。


 リゼは言った。


「カイさん。声量、良好」


「ありがとうございます」


 ミリアが記録板に最後の一行を書いた。


 カイ・ロックハート作、帰ってきたから少しずつ食べる用。


 アルト・レインフォード、小片摂取。


 本人発言、「帰ってきた味がします」。


 過去の焼き菓子欠け、本人に到達していたことを確認。


 友達の焼き菓子として記録。


 前室には、甘い香りが残っていた。


 王宮深部の冷たい白でも、第二保管層の白でもない。


 学園の医務室にある、焦げ目と砂糖と涙の匂い。


 それは確かに、帰ってきた味がした。


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