第13章 第5話:エリアナの帰る場所
王宮から届いた文書の宛名は、以前と違っていた。
旧ヴェルグラント血統関係者。
白鐘資料接触者。
王血反応保持者。
保護監察対象。
そうした分類語は、宛名欄にはなかった。
白い封筒の中央に、丁寧な筆跡で一つの名が書かれている。
エリアナ・ルクス・ヴェルグラント様。
それだけだった。
エリアナは、その封筒をしばらく見つめていた。
王立学園の小会議室。
窓の外には、午後の光が落ちている。
医務室の庭に近い部屋で、外からは土を運ぶ生徒たちの声が聞こえた。
アルト・レインフォードはまだ長く歩けないが、医師の許可を得て、今日は少しだけ椅子に座っている。
リゼ・グレイスは彼の左側に立っていた。
ただし、医務室内では立ち位置を近づけすぎないよう調整している。
ミリア・ファルネーゼは記録板を膝に置き、王宮文書の写しを確認していた。
カイ・ロックハートは窓際に座り、なぜか真剣な顔で香草の鉢を見ている。
まだ何も植えられていない小さな鉢だ。
エリアナの手には、いつもの香草袋がある。
王宮深部で白鐘本来手順を読み上げた時も。
医務室でアルトが眠っていた時も。
母記録を後で聞くと決めた時も。
彼女はそれを置かなかった。
今日も同じだった。
王宮からの文書が来ても、香草袋は机の上には置かない。
胸の前に、自分のものとして持っている。
ユリウス・エインズワースが封筒を確認し、静かに言った。
「宛名は本人名です。旧ヴェルグラント血統関係者、または王血反応保持者という分類は使用されていません」
エリアナは頷いた。
「はい」
声は落ち着いている。
だが、指先には少し力が入っていた。
リゼはそれを見て言った。
「エリアナさん。状態確認をしますか」
エリアナは少し考え、頷いた。
「お願いします」
「呼吸、浅くはありません。手指緊張、中度。視線固定。感情は、本人確認が必要です」
エリアナは、ふっと息を吐いた。
「緊張しています。少し怖いです。でも、怒りもあります」
ミリアが記録する。
エリアナ・ルクス・ヴェルグラント、王宮文書受領時の感情申告。
緊張。
恐怖。
怒り。
本人申告。
カイが低い声で言った。
「怒っていいやつです」
ミリアがカイを見る。
「発言範囲」
「すみません。でも、本当に」
エリアナは小さく笑った。
「ありがとうございます」
アルトは椅子の上で、少しだけ身じろぎした。
喉にはまだ薄い布がある。
長く話すことはできない。
それでも、彼は小さく言った。
「……名前で……来たんですね」
エリアナは封筒を見つめる。
「はい。名前で来ました」
その一言は、思ったよりも深く胸に落ちた。
名前で呼ばれる。
ただそれだけのことが、ずいぶん遠い場所を通ってここへ来た。
王宮は彼女を血で呼んだ。
旧敗戦国の姫。
王の血。
白鐘の鍵。
偏向可能性。
隔離対象。
そうした言葉が、彼女の周囲に幾重にも巻かれていた。
けれど今、封筒の宛名には本人名がある。
それは謝罪ではない。
それだけで全部が許されるわけでもない。
だが、確かに違いだった。
ユリウスが文書を開く。
「読み上げますか」
エリアナは頷いた。
「お願いします。ただし、私宛ての文書です。途中で止めたい場合は止めます」
「もちろんです」
ユリウスは丁寧に封を開けた。
中の文書には、王宮本会議と封印管理室の連名があった。
臨時調整室の印はない。
ユリウスが読み上げる。
「エリアナ・ルクス・ヴェルグラント様。王宮本会議および封印管理室は、王宮深部封印区画における白鐘旧語、白布児記録、王の鐘接続異常に関し、貴殿の知見に基づく任意協力を要請します」
カイが小さく言った。
「任意って書いてある」
ミリアが頷く。
「大事ね」
ユリウスは続けた。
「本要請は、貴殿の血統、出自、旧王家関係を鍵または承認根拠として扱うものではありません。貴殿本人が知る範囲の証言、白鐘旧語に関する伝承、香草儀礼に関する記憶について、任意に提供を求めるものです。回答拒否、回答保留、一部回答はいずれも可能であり、不利益な扱いを行いません」
エリアナの手が、香草袋を強く握った。
リゼが確認する。
「続行可能ですか」
エリアナは頷いた。
「はい」
ユリウスは最後まで読む。
「なお、本要請において、香草袋、私物、血液、身体反応、白鐘反応を提出または確認対象とすることはありません。必要な場合は、別途本人同意を得るものとします。王宮本会議代表、ナイル・ヴァート。封印管理室副管理官、レアナ・フィス」
読み終えた後、小会議室は静かになった。
書かれていることは、正しい。
少なくとも、これまでよりはずっと正しい。
だが、エリアナの胸の中にあるものは、簡単にはほどけない。
文書が正しくなったからといって、血を鍵にされかけた恐怖が消えるわけではない。
王の鐘の前で、黒蔦が自分の血を探った感覚。
旧ヴェルグラント血統関係者、と冷たく分類された声。
私の血を鍵にしないでください、と何度も言わなければならなかった時間。
それらは、まだ身体に残っている。
エリアナは、ゆっくり息を吸った。
香草の乾いた甘さが胸に入る。
故国の匂い。
戻る匂い。
鍵ではない。
自分のもの。
「内容は確認しました」
ミリアが記録する。
エリアナは文書へ視線を落としたまま続ける。
「協力はできます。ただし、条件があります」
ユリウスが頷く。
「どうぞ」
「私は、知る範囲で話します。知らないことは断定しません」
ミリアの筆が走る。
「白鐘旧語について、私の家に伝わっていた言葉、故国の礼拝堂で聞いた歌、香草に関する記憶は話せます。でも、それが白鐘の全てだとは言いません」
エリアナは顔を上げた。
「私の記憶を、王宮の都合のよい正解として使わないでください」
ユリウスが静かに頷く。
「明記します」
エリアナはさらに続けた。
「私の血を、鍵にしないでください。私の出自を、承認根拠にしないでください。私の声を、旧ヴェルグラント血統関係者の偏向として消さないでください」
カイが我慢できずに言った。
「エリアナはエリアナだ。血の鍵じゃない」
部屋の空気が少しだけ動いた。
エリアナはカイを見る。
カイは真剣な顔のままだった。
「前にも言ったけど、また言います。何回でも言います」
エリアナは、ほんの少し困ったように笑った。
「ありがとうございます。何度も言われると、少し照れます」
カイは急に顔を赤くした。
「すみません」
ミリアが柔らかく言う。
「謝るところではないわ」
リゼは記録するように言った。
「カイさんの発言、エリアナさんを血の鍵ではなく本人として確認」
カイがリゼを見る。
「それ、ちゃんと書くとすごい堅いですね」
「内容は重要です」
「はい」
アルトが小さく笑いそうになり、喉に響いたのか軽く咳をした。
医師がすぐに水を渡す。
「笑うのも少しずつにしましょう」
アルトは水を飲んで、小さく頷いた。
「……はい」
エリアナはその様子を見て、少し表情を和らげた。
笑いが戻っている。
痛みを伴っていても、笑いがある。
王の鐘の前ではなかったものだ。
ユリウスが文書へ追記を入れた。
「条件として記載します。任意協力。知る範囲のみ。断定不可の部分は断定しない。血液、身体反応、私物の提出なし。本人名での扱い。発言を血統偏向として一括排除しない」
ミリアが確認する。
「“一括排除しない”より、“発言内容ごとに検証する”の方がよいです」
「そうですね」
ユリウスが訂正する。
エリアナはそのやり取りを見ていた。
言葉が整えられていく。
自分の恐怖が、ただ慰められるだけではなく、文書の条件として形になっていく。
それが少し不思議だった。
かつて王宮の文書は、人を分類し、閉じ込めるものだった。
今、少なくともこの部屋では、文書が人を守る形へ直されている。
完全ではない。
だが、直している。
エリアナは言った。
「香草袋は提出しません」
ユリウスが頷く。
「提出不要です」
「香草そのものについては、学園の庭に植える予定のものを、育った後で少量提供することはできます。ただし、それも本人所有物ではなく、学園庭園の植物としてです」
カイが鉢を見る。
「育った後、ですか」
「はい。まだ植えてもいませんから」
「じゃあ、育てないとですね」
アルトが、窓の方を見る。
庭の一角に、土を入れた小さな場所が作られている。
医務室の窓から見える位置。
けれど、近すぎない。
匂いが届くかどうかは、風次第。
アルトは、かすれた声で言った。
「……戻る匂いが……学園にも……あると……いいですね」
エリアナの瞳が揺れた。
その言葉は、王宮文書よりも深く胸に届いた。
戻る匂いが、学園にもあるといい。
故国だけではない。
失われた場所だけではない。
逃げ込む記憶だけでもない。
新しい帰る場所にも、香草は根づいていい。
エリアナは頷いた。
「はい。そうしたいです」
リゼが確認する。
「香草を学園庭園へ植える意思を確認」
ミリアが記録する。
エリアナ・ルクス・ヴェルグラント、学園庭園へ香草を植える意思を表示。
アルト・レインフォード、戻る匂いが学園にもあるとよいと発言。
カイがすぐに立ち上がりかけた。
「じゃあ植えましょう!」
ロウ教師がいないにもかかわらず、カイは自分で止まった。
ゆっくり座り直す。
「……医師の許可と、アルトの体調と、エリアナの確認後ですね」
ミリアが拍手しそうな顔をした。
「素晴らしい成長ね」
カイは顔を赤くする。
「本当に茶化してません?」
「茶化していないわ」
リゼも言う。
「カイさん、突発行動抑制、良好」
「ありがとうございます。リゼに言われると、なんかすごく達成感あります」
アルトがまた少し笑い、今度は咳き込まなかった。
医師が満足そうに頷く。
「今の笑いは許容範囲です」
小会議室の空気が、少しだけ柔らかくなる。
王宮文書は机の上にある。
重い内容だ。
だが、その隣には小さな鉢がある。
土がある。
これから植える香草がある。
王宮の後処理と、学園の日常が同じ机の上に並んでいる。
エリアナは、そのことに不思議な安堵を覚えた。
ユリウスが言った。
「王宮への返答は、今日中でなくても構いません」
エリアナは少し考えた。
「いえ。大枠の返答は今日出します」
ミリアが確認する。
「無理ではない?」
「はい。怖さはあります。でも、言える時に、条件を明確にしておきたいです」
リゼが頷いた。
「本人意思、確認しました」
エリアナは文書を見た。
「王宮への返答。エリアナ・ルクス・ヴェルグラント本人として、任意協力に応じます。ただし、知る範囲でのみ話します。知らないことは断定しません。私の血、身体反応、私物を鍵または承認根拠として扱うことを拒否します。香草袋は提出しません。白鐘旧語については、伝承の一部として証言しますが、王宮単独解釈の根拠にはしません」
ユリウスが書き取る。
ミリアも記録する。
エリアナはさらに続けた。
「そして、アルトさん本人、リゼさん、ミリアさん、カイさん、学園記録室の記録を、私の証言より下に置かないでください。白鐘は一人の声だけで完成しません」
ミリアの筆が止まる。
それから、丁寧に書いた。
白鐘は一人の声だけで完成しない。
アルトが、その言葉を静かに聞いていた。
白鐘。
王の鐘。
孤独な音。
多くの名。
それらが彼の中でまだ痛みを伴うのは、リゼにもわかる。
しかし、エリアナの今の言葉は、痛みだけではなかった。
一人で完成しない。
それは、アルトを孤独な音にしないということでもある。
リゼは言った。
「白鐘関連記録は、複数証言として扱う必要があります」
ユリウスが頷く。
「返答に入れます」
カイが小さく言う。
「俺の声も入りますか」
ミリアが微笑む。
「あなたの声は、主にアルトさんの帰還導線として記録されています」
「白鐘資料じゃないですね」
「でも重要よ」
カイは少し照れたように頭を掻いた。
「ならいいです」
エリアナは、机の上の小さな鉢を手に取った。
まだ空だ。
底に薄く土が入っているだけ。
香草は後で植える予定だったが、エリアナは袋の中から種の入った小さな紙包みを取り出した。
「今、植えてもいいでしょうか」
医師がアルトを見る。
「アルト君、疲れていませんか。見ていたいですか。部屋に戻っても構いません」
アルトは窓の外を見た。
小会議室から庭までは近い。
ただし、外へ出るにはまだ体力が足りない。
「……窓から……見たいです」
医師が頷く。
「では、短時間。寒くならないように」
カイがすぐに立ち上がる。
「毛布持ってきます」
今度は走らない。
早歩きで棚へ行き、毛布を持って戻る。
アルトの膝へそっと掛けた。
「これでいいか」
「……うん」
リゼが確認する。
「アルトさん、体温低下なし。窓際移動は医師判断で短時間可」
医師が頷く。
「可。ただし、五分程度」
リゼとカイが椅子を慎重に窓際へ動かす。
アルトは自分で立とうとしない。
許可された範囲で、支えられて移動する。
以前なら、足が勝手に動かされそうになった。
存在しない馬車へ。
王の鐘へ。
今は違う。
本人が望み、医師が許可し、友人が支える。
歩くことと同意したことを同一視しない。
今は、本人意思のある移動だった。
窓際から、庭が見える。
医務室の外の小さな花壇。
まだ冬の名残があり、土は冷たそうだった。
だが、学園の庭師が柔らかく耕してくれている。
エリアナは外へ出た。
ミリアが窓辺で記録する。
リゼはアルトの左側に立ち、体温と呼吸を確認する。
カイは窓の反対側で、いつでも椅子を支えられるようにしている。
エリアナは花壇の前に膝をついた。
香草袋を胸に当てる。
それから、紙包みを開いた。
小さな種。
故国から持ってきたものではない。
学園の薬草庫で見つかった、同じ種類の香草の種。
エリアナの香草袋そのものではなく、新しく育てるもの。
エリアナは土に指で小さな穴を作る。
その手は少し震えていた。
でも、止まらない。
「これは鍵ではありません」
彼女は静かに言った。
窓越しにも、その声は届いた。
「血でもありません。王宮への提出物でもありません」
種を土に置く。
「ここに帰る人が、匂いを思い出せるように」
土をかぶせる。
「ここにも、帰る匂いを残します」
ミリアが記録する。
エリアナ・ルクス・ヴェルグラント、王立学園医務室庭に香草を植える。
目的、帰る匂いを残すため。
鍵、血、提出物ではない。
アルトは窓の内側から、その様子を見ていた。
視線が柔らかい。
疲れている。
でも、見ている。
リゼは言った。
「アルトさん、状態」
「……寒く……ないです」
「呼吸は」
「……大丈夫……です」
「感情は」
アルトは少しだけ考えた。
「……少し……嬉しいです」
ミリアが記録する。
アルト・レインフォード、香草植栽を見て「少し嬉しい」と申告。
カイが小さくガッツポーズをした。
医師が横目で見る。
カイはすぐに手を下ろした。
リゼは窓の外のエリアナを見た。
エリアナは種を植え終え、じょうろで水を少しだけ注いでいる。
水が土に染み込む。
乾いた香草の匂いはまだしない。
芽も出ていない。
ただ、土が濡れただけ。
それでも、そこに未来の匂いがある。
失われた故国だけではない。
王宮に奪われた記録だけでもない。
学園の庭に、これから根を張る匂い。
エリアナは立ち上がり、窓の方を見た。
アルトと目が合う。
彼女は柔らかく微笑んだ。
アルトも、少しだけ頷いた。
カイが小声で言う。
「芽が出たら、名前つけますか」
ミリアが即座に言う。
「食べ物みたいな名前は避けましょう」
「まだ言ってません」
「予防よ」
アルトの口元が緩む。
リゼは言った。
「笑顔を確認」
ミリアがリゼを見た。
「今回は断定するのね」
「はい。笑顔と判断します」
カイが嬉しそうに言う。
「俺も確認しました」
医師が時計を見る。
「五分です。戻ります」
アルトは名残惜しそうに庭を見たが、素直に頷いた。
「……はい」
リゼとカイが椅子を元の位置へ戻す。
エリアナも小会議室へ戻ってきた。
靴に少し土がついている。
彼女はそれを見て、少し困った顔をした。
「床を汚しました」
カイがすぐに言う。
「俺、拭きます」
ミリアが微笑む。
「お願いします」
カイは布を持ってきて、床を拭き始めた。
妙に真剣だった。
リゼはその様子も記録したくなったが、今は控えた。
エリアナは窓の外の小さな花壇を見る。
そこには、まだ何も生えていない。
ただ、水を含んだ土がある。
でも、彼女の胸の中には、確かに何かが植わった感覚があった。
自分は旧ヴェルグラント血統関係者だけではない。
王の血でもない。
鍵でもない。
資料でもない。
エリアナ・ルクス・ヴェルグラントとして、ここにいる。
知る範囲で話す。
知らないことは断定しない。
香草袋は自分のものとして持つ。
そして、学園に香草を植えた。
戻る匂いを、ここにも残すために。
ユリウスが王宮への返答文をまとめ、エリアナに確認した。
「この内容で送りますか」
エリアナは文面を読んだ。
宛名。
本人名。
条件。
任意協力。
血を鍵にしないこと。
香草袋を提出しないこと。
知る範囲だけ話すこと。
白鐘を一人の声で完成させないこと。
すべて、入っている。
彼女は頷いた。
「はい。エリアナ・ルクス・ヴェルグラント本人として、送ってください」
ユリウスが署名欄を差し出す。
「署名できますか。無理なら後日でも」
エリアナはペンを取った。
手は少し震えた。
だが、書ける。
彼女は丁寧に自分の名を書いた。
エリアナ・ルクス・ヴェルグラント。
血統分類ではない。
本人名として。
リゼが言った。
「署名確認。本人意思による協力条件送付」
ミリアが記録する。
カイは床を拭き終え、立ち上がった。
「エリアナ」
「はい」
「香草、芽が出たら教えてください」
エリアナは微笑んだ。
「はい。最初に知らせます」
カイは嬉しそうに頷く。
そして、アルトを見る。
「アルトもな」
アルトは小さく頷いた。
「……見たいです」
リゼが確認する。
「アルトさん、香草の発芽確認希望」
「……はい」
ミリアが記録する。
エリアナは窓の外を見た。
白い朝から続く午後の光が、湿った土に落ちている。
まだ芽はない。
でも、そこに種があることを、彼女は知っている。
白布児記録のように、隠されているのではない。
王宮深部のように、封じられているのでもない。
土の中で、待っている。
出てくる時を。
根を張る時を。
誰かがそれを、鍵として掘り返さない場所で。
エリアナは香草袋を胸に当てた。
袋の中の乾いた匂いと、窓の外の湿った土。
過去と、これから。
その二つが、同じ学園の空気の中にあった。
アルトがかすれた声で言った。
「……ここにも……帰る場所……ありますね」
エリアナは、目を細めた。
「はい」
リゼも窓の外を見る。
学園の庭。
小さな花壇。
植えられた種。
その前に立つエリアナ。
リゼは静かに記録した。
エリアナ・ルクス・ヴェルグラント。
現在地、王立学園。
本人意思、知る範囲で話す。
本人所有物、香草袋保持。
血を鍵にしない。
学園庭園に香草を植える。
帰る場所、確認中。
窓の外で、風が土の表面を撫でた。
香りはまだしない。
けれど、誰も急がなかった。
芽が出るのは、後でいい。
それは逃げるための後でではない。
育つための後でだった。




