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灰銀の戦乙女は、制服を知らない  作者: 最後に残った形


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第13章 第1話:帰還後の医務室


 医務室の白は、王宮深部の白とは違っていた。


 そこには、封じるための冷たさがなかった。


 白い布。


 白い壁。


 白い寝台。


 白い薬包。


 けれど、それらは声を吸い込むためのものではない。


 体温を測るため。


 傷を包むため。


 呼吸を整えるため。


 眠ってもいいと伝えるため。


 王立学園の医務室には、薬草と湯気の匂いが満ちていた。


 窓の外には、白い朝が広がっている。


 王都の空はまだ不安定だった。


 遠くから鐘は聞こえない。


 中央記録鐘も、王の鐘も、沈黙している。


 代わりに、学園の廊下を歩く教師たちの声、生徒たちの小さな足音、医務担当が薬瓶を置く音が聞こえた。


 音がある。


 けれど、それは命令ではなかった。


 リゼ・グレイスは、医務室の扉の左側に立っていた。


 位置としては、いつもの護衛位置に近い。


 だが、距離は少し離れている。


 寝台のすぐ横ではない。


 医師から、患者の周囲に立ちすぎないよう指示があった。


 リゼはそれを守っていた。


 現在地、王立学園医務室前室。


 対象、アルト・レインフォード。


 状態、救出後回復観察中。


 自分の状態。


 右腕冷却、軽度。


 黒蔦残滓反応、低下。


 胸部痛、断続。


 睡眠不足、重度。


 判断、継続可能。


 感情。


 安堵。


 警戒。


 疲労。


 そして、言葉に分類しにくいもの。


 リゼはそれを、未分類として置いた。


 勝手に名前をつけない。


 それは、アルトの言葉だけでなく、自分にも必要な手順だった。


 医務室の中では、アルトが寝台に横たわっている。


 白い掛布。


 左手首には新しい布。


 喉には薬草を含ませた温湿布。


 口元の黒布は、もうない。


 それだけで、リゼの胸の奥が痛んだ。


 黒布がない。


 声を塞ぐものがない。


 それは当然のことのはずだった。


 けれど今は、その当然がひどく大きな意味を持っている。


 医師は小声で言った。


「発声は最小限に。水は少量ずつ。体温は戻り始めていますが、まだ下がりやすい。銀環の反応は落ち着いていますが、強い刺激は避けてください」


 クラウス・ヴァイゼルが頷いた。


「銀環の熱冷え同時反応は、現在ほぼ解消しています。左手首周辺に残留反応がありますが、王の鐘への接続は切れています」


 医師はリゼたちを見渡した。


「見舞いは一人ずつ。声量は控えめに。泣いても構いませんが、大声は控えてください」


 カイ・ロックハートが、すでに泣きそうな顔で口を押さえた。


「はい」


 ミリア・ファルネーゼが小さく頷く。


「カイさん、今の返事は良好よ」


「ありがとうございます」


 声が小さい。


 以前なら、カイは医務室の扉を開ける前から名前を叫んでいたかもしれない。


 今は、両手を握りしめ、声を抑えている。


 泣いていることまでは抑えきれていないが、走っていない。


 叫んでいない。


 扉を叩いていない。


 リゼは記録した。


 カイ・ロックハート、声量制御良好。


 その横で、エリアナ・ルクス・ヴェルグラントは香草袋を胸に抱いていた。


 医務室の棚にも、薬草はある。


 医師からは「必要なら香草を少量置いてもよい」と言われた。


 だが、エリアナは首を横に振った。


「置きません。私が持っています」


 医師は少し不思議そうにしたが、ミリアが穏やかに説明した。


「それが大事なんです」


 エリアナは香草袋を握り、扉の前に立っている。


 顔色はまだ白い。


 王の鐘の前で白鐘旧語を読み上げ続けた疲労が残っている。


 それでも、彼女は香草を道具として置かなかった。


 戻るための匂いは、本人の手の中にある。


 リゼは言った。


「エリアナさんの香草袋、本人所有物として保持を確認」


 エリアナが少しだけ微笑む。


「はい」


 医務室の奥で、アルトの指が動いた。


 ほんのわずか。


 白い掛布の上を探るように。


 リゼの視線が即座に向く。


 医師も気づき、寝台へ近づいた。


「アルト君。聞こえますか。ここは医務室です。無理に話さなくていいですよ」


 アルトの瞼が震えた。


 ゆっくり開く。


 焦点が合うまで、数秒かかった。


 視線は天井を見た。


 白い布。


 白い壁。


 けれど、王宮深部ではない。


 目が動く。


 窓。


 薬瓶。


 医師。


 それから、扉の近くに立つリゼたち。


 アルトの唇が動いた。


 声はほとんど出ない。


 医師がすぐに言う。


「話さなくて大丈夫です」


 アルトは小さく首を横に振ろうとした。


 力が足りず、動きはわずかだった。


 リゼは一歩だけ近づいた。


 寝台の横ではなく、医師が許可した位置まで。


「アルトさん。リゼ・グレイスです。現在地、王立学園医務室です。王の鐘接続は解除済み。黒布なし。銀環反応低下。発声不要です」


 アルトの瞳が、リゼを捉えた。


 かすれた息が漏れる。


「……ここ……」


 医師が眉を寄せる。


 だが、止めるより先に、アルトは小さく続けた。


「……学園……?」


 その問いは、あまりにも細かった。


 けれど、医務室にいた全員が聞いた。


 リゼは即答した。


「はい。現在地、王立学園医務室です」


 アルトの目が揺れる。


 涙ではない。


 まだ体が追いついていない。


 それでも、その瞳の奥で何かがほどけたのがわかった。


 カイが両手で口を押さえたまま、震える声で言った。


「帰ってきたぞ、アルト」


 声量は小さい。


 だが、届いた。


 アルトの視線がカイへ向く。


「……カイ……」


 カイの目から涙が落ちた。


「うん。いる。うるさくしない。今は小さくいる」


 ミリアが静かに言った。


「小さくいる、という表現は少し妙だけれど、状態は良好ね」


 アルトの口元が、ほんの少しだけ動いた。


 笑おうとしたのかもしれない。


 医師がすぐに水を差し出した。


「少しだけ飲みましょう。話すのはあとです」


 リゼは一歩下がる。


 カイも下がる。


 医師がアルトの背を支え、水を少量含ませる。


 アルトは飲み込むのに時間がかかった。


 喉が痛むのか、眉がわずかに寄る。


 だが、水は通った。


 黒布はない。


 声を奪う布は、もうない。


 それだけで、カイがまた泣きそうになる。


 ミリアが小声で言った。


「カイさん」


「はい。泣いてます。でも、叫びません」


「良好」


 リゼはそのやり取りを聞きながら、アルトの呼吸を確認していた。


 浅い。


 しかし、規則性が戻りつつある。


 王の鐘の前にいた時のような、冷却された不自然な呼吸ではない。


 疲労した人間の呼吸。


 それは、痛々しくもあったが、確かに生きている呼吸だった。


 医師がアルトの布団を整えた。


「もう少し眠った方がいいです。話したいことはたくさんあるでしょうが、今日は確認だけです」


 アルトは、リゼを見た。


 リゼは頷く。


「確認だけで構いません。あなたの言葉を急がせません」


 ミリアが記録板を胸の前に抱えたまま言った。


「救出完了。でも、回復確認は続けるわ」


 アルトはかすかに頷いた。


 そして、エリアナへ視線を向ける。


 エリアナは一歩だけ近づいた。


 香草袋は胸の前。


 寝台には置かない。


「エリアナです。香草はここにあります。置きません。持っています」


 アルトの瞳が少し緩む。


「……におい……」


「はい。戻るための匂いです」


 アルトは、目を閉じかけた。


 その前に、小さく言った。


「……帰って……きた……」


 医務室の空気が止まった。


 誰もすぐに言葉を返せなかった。


 帰ってきた。


 それは、これまで何度も目指した言葉だった。


 紙の上では、王宮保護移送が正式に完了したと書かれた。


 第二保管層へ到着済みと書かれた。


 外部確認不要と書かれた。


 王の鐘接続準備と書かれた。


 だが、アルトはずっと帰っていなかった。


 今、学園の医務室で、自分の声で言った。


 帰ってきた。


 ミリアの筆が震えた。


 それでも、彼女は記録した。


 アルト・レインフォード、王立学園医務室にて発声。


 「帰ってきた」


 本人帰還認識。


 リゼは静かに言った。


「確認しました。あなたは、帰ってきました」


 カイが泣きながら頷く。


「うん。帰ってきた。ちゃんと帰ってきた」


 医師が、少し困った顔で言った。


「皆さん、気持ちはわかりますが、患者を泣かせないでください」


 カイが慌てて涙を拭く。


「俺です! 泣いてるの俺です!」


 ミリアが小さく息を吐いた。


「それも問題ではあるわ」


 アルトの口元が、また微かに動く。


 今度は、笑ったと判断してよさそうだった。


 リゼはその表情を記録しようとして、手を止めた。


 笑顔。


 そう書くことはできる。


 だが、今は完全に断定しない。


 表情、緩和。


 それで十分だった。


 アルトは再び眠りに落ちていった。


 呼吸が浅く整う。


 医師が掛布を直し、部屋を少し暗くした。


「これ以上の面会は休憩後です。外で待っていてください」


 カイが名残惜しそうにしたが、すぐに頷いた。


「はい」


 リゼも頷く。


「了解しました」


 全員が医務室の前室へ戻る。


 扉が静かに閉じた。


 閉じ込める扉ではない。


 休ませるための扉。


 リゼは、その違いを確認した。


 扉、閉鎖。


 目的、休息。


 外部確認遮断ではない。


 声、必要時到達可能。


 ミリアが隣で言った。


「扉の記録までしているの?」


「はい」


「今回は必要ね」


「はい」


 カイは椅子に座った瞬間、力が抜けたように項垂れた。


「帰ってきた……」


 それだけ言って、また泣いた。


 誰も止めなかった。


 ロウ教師なら「泣くなら座って泣け」と言ったかもしれない。


 今、カイは座って泣いている。


 条件は満たしている。


 エリアナは香草袋を握ったまま、窓の近くに立っていた。


 白い朝が差し込む。


 彼女はそっと言う。


「白い朝は、割れませんでした」


 リゼは窓の外を見る。


 王都の向こう、まだ混乱の残る空。


 それでも、朝は確かに白い。


「はい。白い朝、継続中」


 ミリアが言う。


「良好?」


 リゼは少し考えた。


 王宮の空白は残っている。


 アルトの傷も深い。


 リゼの右腕も冷えている。


 カイは泣いている。


 エリアナはまだ香草を離せない。


 ミリアの手も疲労で震えている。


 良好。


 そう言うには、あまりに傷が多い。


 だが、朝は割れていない。


 アルトは帰ってきた。


 医務室の扉の向こうにいる。


 声が、届く場所にいる。


 リゼは言った。


「白い朝、損傷あり。ですが、継続可能」


 ミリアが少し笑った。


「あなたらしいわ」


 リゼはミリアを見る。


「訂正が必要ですか」


「いいえ。今はそのままで」


 前室の机には、医師が置いた温かい茶があった。


 ミリアが一つ取り、リゼへ差し出す。


「飲んで」


「私は警戒を継続します」


「飲みながら警戒して」


 リゼは少し考えた。


「可能です」


「では、実行」


「了解しました」


 茶碗を持つと、指先が温まった。


 右腕の冷えが少しだけ和らぐ。


 ミリアは自分の茶碗を持ち、カイにも渡した。


 カイは泣きながら受け取る。


「ありがとうございます」


「こぼさないでね」


「努力します」


 エリアナにも茶が渡る。


 彼女は香草袋を片手で持ったまま、もう片方で茶碗を包んだ。


 白い湯気が上がる。


 医務室の前室に、短い沈黙が落ちた。


 王宮深部の沈黙とは違う。


 誰かの声を奪う沈黙ではない。


 疲れた人が、同じ部屋で息をしている沈黙だった。


 リゼは茶を少し飲んだ。


 温度、適切。


 味、ミリアの茶より薄い。


 しかし、良好。


 それを言うべきか迷ったが、ミリアに見られていたので言った。


「ミリアさんの茶より薄いですが、良好です」


 ミリアは目を丸くし、それから笑った。


「比較対象が私なのね」


「はい」


「光栄だわ」


 カイが鼻をすすりながら言った。


「俺、今のちょっと安心しました」


 エリアナも小さく頷く。


「日常の記録ですね」


 リゼは茶碗を見る。


 日常。


 まだ完全には戻っていない。


 けれど、その断片がここにある。


 医務室。


 温かい茶。


 泣くカイ。


 記録するミリア。


 香草を持つエリアナ。


 眠るアルト。


 警戒しながら茶を飲む自分。


 学園。


 帰還先。


 ミリアが記録板を開いた。


「救出後記録を整理するわ。まず、アルトさんの現在地確認。王立学園医務室。本人発声、“ここ、学園?”」


 リゼが続ける。


「回答、“はい。現在地、王立学園医務室です”」


 カイが言う。


「俺、“帰ってきたぞ、アルト”って言いました。声量は小さめです」


 ミリアが書く。


「声量小さめ。良好」


 エリアナ。


「香草はここにあります。置きません。持っています、と伝えました」


 ミリアが頷く。


「本人所有物として保持」


 リゼは言った。


「アルトさん、“帰ってきた”と発声。本人帰還認識」


 ミリアの筆が止まる。


 ほんの一瞬。


 それから、丁寧に書いた。


「はい」


 カイが茶碗を握りしめる。


「帰ってきたんだな」


 誰も訂正しなかった。


 何度言ってもよかった。


 この言葉は、繰り返していい。


 アルトは帰ってきた。


 まだ傷はある。


 まだ聞かなければならないこともある。


 母の記録。


 エルディアの名。


 王宮の空白。


 白布児記録。


 臨時調整室。


 卒業審査。


 リゼの在学意思確認。


 後で確認することは多い。


 でも、今は。


 今、アルトは医務室で眠っている。


 声が届く扉の向こうにいる。


 それが最初の記録だった。


 前室の扉が小さく開き、医師が顔を出した。


「もう少しだけなら、一人入れます。ただし、話しかけすぎないこと」


 全員が一瞬、互いを見る。


 カイが立ち上がりかけ、すぐに座った。


「俺、行きたいけど、行ったら泣くので後にします」


 ミリアが頷く。


「賢明ね」


 エリアナは香草袋を握ったまま言う。


「私はここで匂いを維持します」


 ミリアはリゼを見た。


「行って」


 リゼは少しだけ眉を動かした。


「私ですか」


「ええ。現在地確認を、もう一度してあげて」


 リゼは頷いた。


「了解しました」


 医務室へ入る。


 扉を静かに閉める。


 アルトは眠っていると思ったが、瞼が少し開いた。


 リゼは寝台から適切な距離を保つ。


「リゼ・グレイスです。入室しました」


 アルトの視線がゆっくり動く。


 声は出ない。


 リゼは言う。


「発声不要です。確認のみ行います」


 アルトの指が、掛布の上で少し動いた。


 リゼは続けた。


「現在地、王立学園医務室。時刻、朝。王の鐘接続解除済み。黒布なし。カイさん、前室で泣いていますが、声量制御中。ミリアさん、記録整理中。エリアナさん、香草袋を本人所有物として保持。私は、ここにいます」


 アルトの呼吸が少しだけ深くなる。


 リゼはその変化を確認した。


 安心、と断定はしない。


 呼吸深度、改善。


 アルトの唇がかすかに動く。


「……リゼ……さん……」


「はい」


「……帰って……きたん……ですね……」


 リゼは、すぐに答えた。


「はい。あなたは帰ってきました」


 アルトの目が細くなる。


 涙ではない。


 眠気かもしれない。


 疲労かもしれない。


 安堵かもしれない。


 断定しない。


 ただ、その表情を見守る。


 アルトは、かすれた声で続けた。


「……アルト……として……?」


 リゼは頷いた。


「はい。アルト・レインフォードさんとして帰ってきました」


 アルトの指が、掛布を弱く握った。


「……よかった……」


 その言葉は、ほとんど息だった。


 だが、リゼには届いた。


「確認しました」


 しばらく沈黙があった。


 医務室の窓から、白い朝が差し込む。


 アルトの左手首の布が、淡く照らされている。


 銀環は今、沈黙している。


 リゼはその沈黙を確認した。


 命令の沈黙ではない。


 休息の沈黙。


 アルトは目を閉じかけた。


 リゼは声を低くする。


「眠ってください。起きたら、現在地を再確認します」


 アルトは小さく頷いた。


 そして、眠りに戻る前に、かすかに言った。


「……また……教えて……ください……」


「はい。何度でも確認します」


 アルトの呼吸が、ゆっくり整っていく。


 リゼはしばらくそこに立っていた。


 医師に許可された距離。


 声が届く場所。


 手を伸ばせば届くが、押しつけない距離。


 護衛位置ではない。


 友人として、近すぎず、遠すぎない場所。


 リゼは、その位置を記録した。


 現在位置、良好。


 やがて前室へ戻ると、カイがすぐに立ち上がった。


「どうでした」


 声量は抑えている。


 リゼは答えた。


「アルトさんは再度“帰ってきた”ことを確認しました。“アルトとして?”と質問。回答、“はい。アルト・レインフォードさんとして帰ってきました”。その後、呼吸安定。睡眠へ移行」


 カイはその場に座り直した。


「よかった……」


 ミリアが記録する。


 エリアナは目を閉じ、香草袋を胸に当てた。


「帰る音が、戻りましたね」


 リゼは少し考えた。


「はい。小さい音ですが、戻りました」


 ミリアが言う。


「アルト、という名前の意味ね」


 朝に残る小さな音。


 リゼは窓の外を見る。


 白い朝。


 割れていない朝。


 そこに、小さな音が戻っている。


 カイのすすり泣き。


 ミリアの筆の音。


 エリアナの香草袋が擦れる音。


 医務室の奥で眠るアルトの呼吸。


 リゼは、そのすべてを聞いた。


 そして、静かに言った。


「記録します。アルトさん、王立学園医務室へ帰還。声、微弱。現在地確認、成立。回復確認、継続」


 白い朝の光が、医務室の前室に差し込んでいた。


 それは誰かを呼び出す光ではなかった。


 ただ、帰ってきた人たちの上に、静かに落ちる朝だった。


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