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灰銀の戦乙女は、制服を知らない  作者: 最後に残った形


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第12章 第16話:卒業戦争の終わり


 王の鐘が、黒い光を吐いた。


 音はなかった。


 鐘は鳴らない。


 けれど、王宮深部封印区画のすべての記録が、一斉に燃え上がるように震えた。


 白い石の鐘。


 銀色の線。


 三点印に侵食された記録柱。


 白布児記録の灰色封箱。


 母の筆跡。


 アルト・レインフォードの銀色の文字。


 学園の青い記録線。


 王宮本会議の未承認記録。


 封印管理室の否認。


 監察局異議。


 北棟の現認記録。


 中央塔の使用許可なしの記録。


 それらすべてへ、黒い焼却波が伸びた。


 不同意ごと記録を焼く。


 臨時調整室長の声は、もう人の声ではなかった。


 紙が燃える音。


 印が剥がれる音。


 封蝋が砕ける音。


 名前のない承認が、最後に自分を守るために発する断末魔。


 それが、王の鐘の奥から響いていた。


 アルトは、石台の上で黒い光を見た。


 白布の上には、自分で書いた銀色の文字がある。


 同意していません。


 帰りたいです。


 アルト。


 黒い焼却波は、まずその文字へ向かった。


 同意していません、を焼くために。


 帰りたいです、を焼くために。


 アルト、という名を焼くために。


 アルトは、指を白布へ押しつけた。


 もう力はほとんど残っていない。


 喉は焼けるように痛い。


 左手首は冷たく熱い。


 視界は白と黒に揺れている。


 それでも、離さない。


 これは僕の文字だ。


 僕が書いた。


 僕が言った。


 焼かせたくない。


 遠くで、リゼの声がした。


「アルトさん。あなたの不同意を焼かせません」


 その声は、黒い焼却波の中でも消えなかった。


 次に、ミリアの声。


「本人不同意記録、保全。焼却拒否」


 カイ。


「アルト! 名前、呼ぶぞ! 焼かせるな!」


 エリアナ。


「白鐘本来手順、継続。白布は、帰る音を包みます」


 学園の青い線が、激しく揺れた。


 王の鐘からの焼却波が、青い記録線を焼こうとしている。


 王立学園の記録室で、エレオノーラ・ヴィンスフェルトは記録盤に両手を置いていた。


 青い光が彼女の指先を焼くように弾ける。


 窓の外では、生徒たちが校庭に集まり、名前を言い続けている。


 雨のように降る黒い火の幻が、学園の青い結界を叩いている。


 エレオノーラは声を上げた。


「学園記録線、防御展開。本人不同意記録を中央から切り離します」


 学園長の声が響く。


「全員、名前と現在地をもう一度」


 校庭から、教室から、寮から、食堂から、声が立ち上がる。


「一年二組、レナ・ミール。現在地、校庭。不安、あります。でも、名前を持っています」


「二年一組、ダント・アルム。現在地、訓練場。本人意思、学園防衛補助。保護移動、同意しません」


「食堂係、マーヤ・レント。現在地、食堂。本人意思、温かい食事を出します。アルト君の分も残します」


「寮監トルナ・ベリス。現在地、女子寮東棟。本人意思、寮生確認継続。勝手な移動に同意しません」


「図書室係、セナ・リッテ。現在地、図書室。白鐘関連資料、保全」


 名前が増える。


 現在地が増える。


 本人意思が増える。


 黒い焼却波は、それらを一つの記録として焼こうとした。


 だが、名前が多すぎる。


 場所が多すぎる。


 感情が多すぎる。


 同じ形に揃わないものを、王の鐘は焼き切れない。


 エレオノーラは震える指で記録盤に文字を刻んだ。


 本人不同意、学園記録へ複写。


 複写ではなく、現認連鎖。


 焼却対象単一化を拒否。


 彼女の声が、王宮深部へ届く。


「アルト・レインフォード君の不同意は、一枚の紙ではありません。聞いた者、見た者、記録した者がいます」


 北棟からセイル・ハルトの声が続いた。


「王宮封印管理兵、セイル・ハルト。現在地、北棟。アルトさんの銀色反応、“同意していません”“帰りたいです”の記録を受信しました。焼却拒否」


 中央塔から、ガレン・トール。


「王宮中央記録局警備隊第三班、ガレン・トール。現在地、中央塔。中央記録鐘無許可使用および本人不同意記録を受信。焼却拒否」


 メイナ・ロッサ。


「同班、メイナ・ロッサ。本人不同意の部分削除を拒否」


 ベルク・ハウエル。


「同班、ベルク・ハウエル。記録焼却波を現認」


 王宮深部外縁門の前で、ナイル・ヴァートが本会議の略式印を掲げた。


「王宮本会議補佐官、ナイル・ヴァート。本会議未承認のまま王の鐘記録焼却を行うことを認めません。本人不同意記録を本会議伝達線へ保全します」


 レアナ・フィスが封印管理室の小札を重ねる。


「封印管理室副管理官、レアナ・フィス。王の鐘防衛焼却手順の不当起動を確認。白鐘層、白布児記録、銀環本人記録の焼却を拒否します」


 オルド・ハイマンが、震える手で監察局の緊急異議札を開いた。


「監察局補助室上席監察官、オルド・ハイマン。臨時調整室による記録焼却、本人不同意隠滅の疑いとして緊急異議を申し立てます」


 黒い焼却波が、それらの名前へ襲いかかる。


 だが、一つずつ名乗られた記録は、空白ではない。


 焼こうとすれば、誰の記録を焼くのかが現れる。


 誰が見た。


 誰が聞いた。


 誰が否認した。


 誰が保全した。


 三点印の本体は、それを嫌う。


 空白のまま処理できないからだ。


 ミリアは記録板を抱え、黒い光の中で立っていた。


 指先が冷たい。


 焼却波は熱ではない。


 記録を白く飛ばす冷たい火だった。


 文字が抜け落ちるような恐怖が、彼女の手元を這う。


 だが、彼女は筆を止めない。


「ミリア・ファルネーゼ。現在地、王宮深部外縁門前。本人不同意記録、保全。アルト・レインフォード本人、“僕は、移送に同意していません”“僕は、保管に同意していません”“僕は、王の鐘になることに同意していません”“僕は、アルトとして帰りたいです”と発声および記述。焼却拒否」


 黒い光が、ミリアの記録板を覆おうとする。


 リゼが一歩横に立った。


 剣は抜かない。


 だが、右腕を伸ばし、黒い焼却波とミリアの記録板の間に立つ。


 冷えが腕に走る。


 皮膚の下で黒蔦の痕が疼く。


 リゼは歯を食いしばらない。


 呼吸を記録する。


 右腕冷却、中度。


 痛み、強。


 判断、継続可能。


 目的、本人不同意記録保全。


「リゼさん!」


 ミリアが叫ぶ。


 リゼは言った。


「記録を継続してください」


「あなたの腕が」


「行動継続可能」


 ミリアは一瞬だけ唇を噛み、すぐに記録へ戻った。


 リゼは黒い光を受けながら、門の奥へ向けて言った。


「リゼ・グレイス。現在地、王宮深部外縁門前。本人意思、アルト・レインフォード救出継続。アルトさんの不同意記録焼却に同意しません」


 青いリボンが、黒い光の中で揺れる。


 戻るための目印。


 リゼは、それに触れない。


 今は両手で支える。


 ミリアの記録と、アルトの声を。


 カイが前へ出た。


 涙で濡れた顔のまま、声を張る。


「カイ・ロックハート! 現在地、王宮深部外縁門前! アルトの友達! アルトが同意してないって言ったの、聞いた! 帰りたいって言ったのも聞いた! 焼くな!」


 黒い光がカイの声を潰そうとする。


 外部声刺激、焼却対象。


 黒い札が浮かぶ。


 カイは怯まなかった。


「外部声刺激じゃない! 友達だ! 焼けるもんなら俺の名前ごと焼いてみろ!」


 ロウ教師がすぐに言う。


「言い過ぎだ。だが、今はよし」


 カイは涙声で笑った。


「すみません!」


 その声に、深部の銀色が微かに揺れた。


 エリアナは香草袋を胸に抱き、白鐘文字の前に立つ。


 黒い焼却波は、白鐘旧語そのものを焼こうとしている。


 王宮に都合の悪い古語。


 血を鍵にするなと告げる言葉。


 名を鍵にするなと告げる言葉。


 孤独な音を王の鐘にするなと告げる言葉。


 それらを焼いて、王宮封印として再解釈するために。


 エリアナは声を震わせた。


 だが、止めなかった。


「エリアナ・ルクス・ヴェルグラント。現在地、王宮深部外縁門前。本人意思、白鐘本来手順を声で維持します。血ではありません。鍵ではありません。白鐘旧語焼却に同意しません」


 香草袋が白く光った。


 乾いた甘さが、黒い光の中へ広がる。


「鐘を鳴らすな。扉へ走るな。王の血で扉を叩くな。名を鍵にするな。孤独な音を、王の鐘にしてはならない。白布は、帰る音を包む。多くの名は、孤独な音を包む。名は、帰るために呼ぶ」


 白鐘文字が、一つずつ強く光る。


 黒い焼却波が、その光に触れて弾ける。


 クラウスが測定具を見ながら叫ぶ。


「白鐘層、焼却波を押し返しています! ただし王の鐘本体が暴走しています。三点印中核が焼却手順と強制同期を同時に走らせている!」


 ユリウスが言う。


「止めるには」


 クラウスは声を張った。


「三本の記録柱から三点印を同時に外す必要があります。戦後処理未整理記録、白鐘接続記録、臨時調整室仮保護記録。それぞれに名前と不同意と未承認を重ねる。さらに、アルト君本人の不同意を中心に固定する必要があります」


 ミリアが即座に答える。


「本人不同意は記録済み」


 リゼ。


「本人を追加で鳴らしません」


 クラウスは頷く。


「はい。これ以上アルト君に発声を求めるのは危険です。すでに出た不同意記録を中心にします」


 カイが叫ぶ。


「返事いらないからな、アルト!」


 深部のアルトは、石台の上でかすかに息をしていた。


 黒い焼却波は、彼の周囲を渦巻いている。


 白布の文字を焼こうとするたび、外側の名前がそれを押し返す。


 アルトはもう声が出ない。


 でも、聞こえている。


 カイの声。


 リゼの声。


 ミリアの記録。


 エリアナの白鐘。


 学園の名前。


 王宮側の現認者たち。


 自分の不同意が、一枚の紙ではなくなっている。


 みんなの中に、少しずつ置かれている。


 だから、焼かれても消えない。


 そのことが、アルトにはわかった。


 彼は白布を握る指に、最後の力を込めた。


 同意していません。


 帰りたいです。


 アルト。


 その文字が、銀色に光る。


 王の鐘の黒い核が叫んだ。


「本人不同意を中心にするな。王宮秩序が崩れる」


 リゼは答えた。


「誤った秩序は崩します」


 ユリウスが文書を掲げる。


「王宮本会議未承認、封印管理室未承認、監察局異議、学園本人意思記録、現場現認記録を同時提示します」


 ナイルが本会議文を重ねる。


「戦後処理未整理記録柱へ。本会議は、臨時調整室による空白承認の継続を認めません。未整理は未整理として再審査すべきであり、王の鐘焼却または強制統合で処理してはなりません」


 オルドが前へ出る。


「同じ柱へ、監察局異議。戦後処理で残された分類語を、現在の本人同意に代用することを拒否します。私、オルド・ハイマンは分類語に関与した責任を認め、再審査に協力します」


 黒い記録柱の一本、戦後処理未整理記録が激しく震える。


 三点印が剥がれかける。


 レアナが封印管理室の札を白鐘接続記録柱へ向けた。


「白鐘接続記録柱へ。封印管理室は、白鐘層の黒蔦転用、王宮単独解釈、王の鐘接続素材化を認めません。白鐘旧語を、焼却ではなく保全対象とします」


 エリアナが声を重ねる。


「エリアナ・ルクス・ヴェルグラントとして、白鐘の意味を王宮だけに渡しません。王の血で扉を叩きません。声で、帰る道を維持します」


 白鐘接続記録柱の黒蔦が大きく剥がれる。


 ミリアとユリウスが、臨時調整室仮保護記録柱へ向き合う。


 ミリアが読む。


「臨時調整室仮保護記録柱へ。アルト・レインフォード本人、移送、保管、王の鐘接続に不同意。アルトとして帰りたいと発声。本人意思確認済とする仮保護記録を否認します」


 ユリウスが続ける。


「王立学園として、本人意思なき保護移送を認めません。保護下整理による後同意化を拒否します」


 学園長の青い声が重なる。


「王立学園は、アルト・レインフォード君の帰還意思を受け入れます」


 カイが叫ぶ。


「俺も! 友達として、アルトは帰りたいって聞いた!」


 リゼが最後に言った。


「リゼ・グレイスとして、アルトさんの本人意思を確認しました。救出を継続します」


 三本の記録柱が、同時に白く光った。


 黒い三点印が柱から剥がれ、中央の核へ引き戻される。


 王の鐘が激しく震える。


 焼却波が一瞬弱まる。


 クラウスが叫んだ。


「今です! 三点印中核が露出!」


 黒い核は、まだ残っている。


 無数の紙片を失い、三本の柱から剥がされても、三つの点は王の鐘の中心で脈打っている。


 名前のない承認。


 空白の責任。


 その最後の核。


 室長の声が、低く響いた。


「私を消せば、王宮の空白は露出する」


 オルドが答えた。


「露出させます」


「誰も責任を取りきれない」


 ナイルが言う。


「本会議で扱います」


 レアナ。


「封印管理室で再審査します」


 ユリウス。


「学園は本人記録を提出します」


 ミリア。


「未完のまま記録します」


 エリアナ。


「白鐘の意味を戻します」


 カイ。


「アルトを帰します」


 リゼ。


「空白を、アルトさんで埋めません」


 白鐘文字が、王の鐘の周囲に広がった。


 開くな。


 外せ。


 名は、責任を戻すためにも呼ぶ。


 本人不同意は、鐘を止める音。


 多くの名は、孤独な音を包む。


 その白い文字が、黒い三点印の核へ絡む。


 焼くのではない。


 潰すのでもない。


 外す。


 王の鐘から。


 白鐘から。


 アルトの銀環から。


 母の記録から。


 リゼの灰銀記録から。


 エリアナの血から。


 学園の名前から。


 三点印を、外す。


 リゼは剣を抜かなかった。


 彼女は、青いリボンを一度だけ指で押さえ、門の奥へ向けて言った。


「リゼ・グレイスとして、誤った接続を外します」


 その声に、アルトの銀色が応えた。


 アルト。


 かえる。


 同意していません。


 白布の上の文字が強く光る。


 黒い三点印が悲鳴のように震えた。


「不同意を中心にするな」


 ミリアが答える。


「します」


「未完を残すな」


 エレオノーラ。


「残します」


「名前が多すぎる」


 学園長。


「それが学園です」


「王宮が割れる」


 ナイル。


「割れている事実を確認します」


「責任が戻る」


 オルド。


「戻します」


「処理が止まる」


 リゼ。


「止めて、確認します」


 白鐘文字が、最後の三点を包んだ。


 黒い核がひび割れる。


 そこから、無数の白紙が散った。


 名前のない書類。


 誰かが確認したはずの紙。


 誰も名乗らなかった紙。


 それらが、黒い火ではなく、白い光に照らされて落ちていく。


 燃えない。


 消えない。


 未整理のまま、床へ落ちる。


 王宮がこれから向き合わなければならないものとして。


 三点印の核が、ついに砕けた。


 王の鐘の黒い焼却波が途切れる。


 白い鐘室に、静けさが戻った。


 今度は、沈黙ではない。


 押し殺された静けさでもない。


 鳴らなかった鐘の周囲に、たくさんの名前が残った後の静けさだった。


 クラウスが測定具を見た。


「王の鐘、暴走停止。焼却手順停止。黒蔦中核反応、消失……いえ、残滓あり。ただし王の鐘との接続は切れています」


 エリアナが白鐘文字を見る。


「白鐘層、安定しています」


 レアナが息を吐く。


「封印は壊れていません。王の鐘は沈黙しています」


 ナイルは膝から崩れそうになり、ユリウスに支えられた。


「本会議へ……すぐに」


 ユリウスが頷く。


「送ります。ただし、先に救出です」


 全員の視線が、深部投影の奥へ向かった。


 王の鐘の前。


 石台の上。


 アルトがいる。


 黒蔦の大半は剥がれ落ちている。


 白布が、彼の身体を包むように残っている。


 銀環の黒い線は消えかけている。


 だが、彼はまだ遠い。


 門は、まだ物理的には閉じている。


 クラウスが測定具を確認する。


「外縁門の黒蔦接続が外れました。白鐘層は安定。王の鐘強制接続なし。今なら、正規開放ではなく、帰還導線として通路を形成できます」


 カイが叫ぶ。


「じゃあ行けるんですね!」


「走らないでください」


「はい!」


 白鐘文字が外縁門に浮かぶ。


 開くな。


 外せ。


 そして、新しい一行。


 帰る道を通せ。


 エリアナが涙をこらえながら読み上げた。


「帰る道を通せ」


 門の中央、黒い空白があった場所に、白い線が引かれた。


 それは扉を破る線ではない。


 錠を開く音もしない。


 ただ、白布をほどくように、空間が静かにほどけていく。


 王宮深部封印区画への通路が現れた。


 ロウ教師が低く言った。


「隊列を崩すな。リゼ、先頭。クラウス、測定。ミリア、記録。カイ、叫びすぎるな。エリアナ、香草を持て。ユリウス、オルド、左右を見ろ」


 全員が頷く。


 リゼは一歩踏み出した。


 走らない。


 だが、遅くもない。


 白い帰還導線の上を進む。


 通路の壁には、黒く焦げた紙片が落ちている。


 それらには、未整理、保留、仮、臨時という文字が残っていた。


 リゼはそれを踏まないように進んだ。


 消すためではない。


 後で確認するために残す。


 王の鐘の鐘室に入った瞬間、空気が変わった。


 重い。


 だが、先ほどまでの圧迫感は薄れている。


 白布が天井から静かに垂れている。


 王の鐘は中央で沈黙していた。


 その前の石台に、アルトがいた。


 カイが息を呑む。


「アルト……」


 リゼは手を上げた。


「近づきます。ゆっくり」


 クラウスが測定具を見る。


「銀環反応、低下。黒蔦残滓、軽度。口元の黒布、物理拘束のみ。白布層、保護方向」


 リゼは石台のそばへ立った。


 アルトの顔は白い。


 唇は乾いている。


 喉には黒布の跡が残っている。


 左手首の布は乱れ、銀環の痕が赤く、冷たく光っている。


 だが、呼吸はある。


 浅い。


 でも、ある。


 リゼは膝をついた。


「アルトさん。リゼ・グレイスです。現在、王の鐘暴走停止。三点印中核接続解除。あなたの救出に入ります。触れてよいか確認します。無理に返さなくていいです」


 アルトの指が、ほんのわずかに動いた。


 白布の上を、かすかに。


 いい。


 そう読めるほどではない。


 だが、指はリゼの方へ伸びようとしていた。


 ミリアが記録する。


「接触許可反応可能性。慎重に」


 リゼは頷き、黒布へ手を伸ばした。


 破らない。


 急がない。


 クラウスの指示に合わせて、黒布の残留線を一つずつ外す。


 口元の布が外れた時、アルトは小さく咳き込んだ。


 カイが泣きそうな声を出す。


「アルト!」


 ロウ教師が低く言う。


「声量」


 カイは口を押さえた。


「……アルト」


 小さく呼ぶ。


 アルトの瞼が震えた。


 リゼは言った。


「呼吸確認。喉負荷あり。発声不要です」


 アルトの唇が動いた。


 音にならない。


 リゼはすぐに言う。


「無理に話さなくていいです」


 だが、アルトは息を震わせた。


「……リ……ゼ……さん……」


 かすれた声。


 小さな声。


 でも、確かに声だった。


 リゼの胸が痛む。


 痛み、強。


 感情、安堵、悲しみ、怒り。


 判断、継続可能。


「はい。リゼ・グレイスです」


 カイが泣いた。


「アルト……」


 アルトの目が、ゆっくりカイへ向く。


「……カイ……」


「いる! いるぞ! 走ってない! いや、最後ちょっと走りたかったけど走ってない!」


 ミリアが涙をこらえながら言った。


「報告が多いわ」


 アルトの唇が、ほんの少しだけ揺れた。


 笑おうとしたのかもしれない。


 ミリアが前へ出る。


「ミリア・ファルネーゼです。救出記録を取ります。話さなくていいわ」


 アルトは、目だけで頷こうとした。


 エリアナが香草袋を胸に抱いたまま、少し離れた位置に立つ。


「エリアナです。香草はここにあります。あなたの近くに置きません。私が持っています」


 アルトの呼吸が、少しだけ深くなる。


「……におい……」


「はい。戻るための匂いです」


 クラウスが銀環を測定する。


「銀環冷却、低下中。熱反応も低下。黒蔦残滓を外します。痛みが強ければ、声を出さなくていいので指を動かしてください」


 アルトの指が、かすかに動いた。


 リゼは左手首の近くに触れる前に、再度言った。


「左手首に触れます。よいですか」


 アルトは白布を弱く握り、指先を一度だけ動かした。


 ミリアが記録する。


「接触許可反応、確認可能性」


 リゼとクラウスは、銀環周囲の黒蔦残滓を外した。


 一本。


 また一本。


 黒い線が剥がれるたび、アルトの呼吸が乱れる。


 カイは呼びたいのを堪え、短く言う。


「アルト。いるぞ」


 それだけで、アルトの呼吸が少し戻る。


 最後の黒い線が外れた時、王の鐘がかすかに震えた。


 全員が身構える。


 だが、鐘は鳴らなかった。


 白鐘文字が、王の鐘の表面に浮かぶ。


 帰る音を、返せ。


 白布が、石台の拘束をほどくように緩んだ。


 リゼはアルトの背中へ手を回した。


「起こします」


 カイが反対側を支える。


「俺も」


「ゆっくり」


「はい」


 二人で、アルトを支える。


 アルトの身体は軽かった。


 冷たく、力が抜けている。


 だが、そこにいる。


 紙ではない。


 記録ではない。


 保管対象ではない。


 アルト・レインフォードが、ここにいる。


 リゼは言った。


「救出対象、身体確認。アルト・レインフォードさん、現在ここにいます」


 ミリアが記録する。


「救出継続。身体確認。回復確認、必要」


 カイが泣きながら笑う。


「帰るぞ。食堂、開いてるって。マーヤさんが言ってた」


 アルトは目を閉じかけながら、かすれた声で言った。


「……うるさい……」


 カイが固まる。


 アルトは続けた。


「……でも……すき……」


 カイは顔を覆って泣いた。


「それ、また言うのずるいだろ……!」


 ミリアも目元を押さえたが、記録は止めなかった。


 リゼはアルトを支えたまま、王の鐘を見た。


 沈黙した鐘。


 三点印の本体は砕けた。


 だが、白い床には未整理の紙片が残っている。


 王宮の空白は、消えたわけではない。


 これから確認されるべきものとして、露出した。


 オルドがその紙片の一枚を拾わず、見下ろした。


「持ち帰りません。ここで封印管理室と本会議立会いのもと、目録化します」


 レアナが頷く。


「封印管理室が保全します。今度は空白にしません」


 ナイルも言った。


「本会議へ提出します。臨時調整室の解体を求めます」


 ユリウスが短く言う。


「学園も証拠を出します」


 王の鐘の奥から、かすかな黒い影が逃げるように揺れた。


 クラウスが測定具を見る。


「黒蔦残滓、深部のさらに奥へ逃走……いえ、三点印中核ではありません。残留術式の破片です」


 リゼは問う。


「追跡可能ですか」


「今は危険です。アルト君の搬出が優先です」


 リゼは頷いた。


「救出を優先します」


 ロウ教師が言った。


「全員、帰るぞ。勝った顔をするな。生徒が一人倒れてる」


 カイが涙を拭いた。


「はい」


 エリアナが白布児記録の箱を見た。


 母の私的記録は、まだ読まれていない。


 白布に包まれたまま、灰色封箱の中で静かに光っている。


 アルトの視線も、そこへ向いた。


 リゼは気づき、言った。


「母記録は、今は開けません。あなたの“あとで聞きたい”を継続します」


 アルトは、かすかに頷いた。


「……あとで……」


 ミリアが記録する。


「母記録、後日本人同席で確認希望。継続」


 レアナが封印管理室札を白布児記録の箱へ掲げる。


「封印管理室として、この箱を本人関係記録として保全します。王の鐘接続素材として使用しません。後日、アルトさん本人の意思確認のもと、開示手順を再設定します」


 アルトの指が、白布を少しだけ握った。


 安心なのか、まだ怖いのか、どちらかは断定できない。


 ミリアはそれを書かない。


 ただ、反応ありと記録する。


 リゼたちは、アルトを支えながら帰還導線へ向かった。


 王の鐘の鐘室を出る時、白鐘文字が背後で光った。


 鐘を鳴らさず、帰る音を返した。


 エリアナが、その文字を読み上げた。


 声は震えていた。


 でも、誇りがあった。


 リゼは頷いた。


「確認しました」


 帰還導線を抜け、深部外縁門の前へ戻る。


 そこには青い学園線がまだ光っていた。


 北棟。


 中央塔。


 学園。


 王宮本会議。


 封印管理室。


 監察局。


 いくつもの線が、まだ繋がっている。


 ミリアは記録板を開き、深く息を吸った。


「救出状況を共有します」


 彼女の声が、青い線と王宮側記録線へ流れる。


「アルト・レインフォードさん、王宮深部封印区画、王の鐘前より身体救出。呼吸あり。発声あり。銀環強制接続解除。黒蔦残滓軽度。救出完了。ただし、回復確認を継続します」


 学園線の向こうで、一瞬の沈黙があった。


 次の瞬間、声が爆発した。


「アルト君!」


「救出!」


「帰ってくる!」


「食堂、準備!」


「医務室、開けて!」


 エレオノーラの声が、騒ぎの中でも冷静に届く。


「学園記録室、救出記録受信。回復確認継続として保全」


 学園長。


「帰還を受け入れます。医務室と寮を準備」


 カイが泣き笑いで言った。


「聞いたか、アルト。うるさいぞ」


 アルトはリゼに支えられたまま、目を閉じている。


 だが、唇がほんの少し動いた。


「……うん……」


 それだけで、カイはまた泣いた。


 王宮側の線から、セイルの声が届く。


「北棟、救出記録を受信。第二保管層残留反応、急速低下。黒蔦残滓、剥離」


 ガレン。


「中央塔、黒い命令札の残滓消失を確認」


 メイナ。


「未承認表示、安定」


 ベルク。


「中央記録鐘、沈黙。再同期なし」


 ナイルは息を吐いた。


「王宮本会議へ、臨時調整室解体動議を出します」


 レアナ。


「封印管理室は、王の鐘の緊急封鎖ではなく、監視保全へ移行します。焼却手順の再起動を防ぎます」


 オルドは深く頭を下げた。


「監察局へ戻り、空白承認の調査を開始します。逃げません」


 リゼは彼を見る。


「言葉として記録します。行動で確認します」


 オルドは静かに頷いた。


「はい」


 リゼはアルトを支え直した。


「搬出します」


 ロウ教師が指示を出す。


「隊列。リゼとカイが支える。クラウスは銀環監視。ミリアは記録。エリアナは香草を維持。ユリウス、退路文書。オルド、王宮側通路確認。ナイル、レアナ、現場封鎖手配」


 全員が動く。


 今度は、誰も急がない。


 だが、迷わない。


 深部外縁門を出る時、アルトが一度だけ目を開けた。


 白い門。


 黒い焼け跡。


 青い記録線。


 リゼのリボン。


 カイの泣き顔。


 ミリアの記録板。


 エリアナの香草袋。


 そのすべてを見ようとするように、視線が弱く動く。


 リゼは言った。


「現在地、王宮深部外縁門。帰還中です」


 アルトは、かすれた声で言った。


「……帰る……」


「はい」


「……アルト……として……」


 リゼは頷いた。


「はい。アルト・レインフォードさんとして帰ります」


 カイが涙声で続ける。


「帰ったら、食べる用、作るからな。まだ作ってないから。だから、帰ってからだ」


 アルトの口元が、ほんの少しだけ緩む。


「……うん……」


 ミリアが記録する。


「本人帰還意思、継続。アルトとして帰還」


 王宮深部から外へ向かう通路は、来た時より長く感じた。


 だが、空気は違っていた。


 黒蔦の匂いは薄れ、白布の乾いた匂いと、エリアナの香草の甘さが混じっている。


 途中、壁に残っていた黒い分類札が、彼らの通過とともに白く剥がれ落ちた。


 灰銀戦時戦力。


 外部声刺激。


 関係維持者。


 旧ヴェルグラント血統関係者。


 それらの札は、完全に消えたわけではない。


 剥がれ落ち、床に残った。


 後で拾い、確認し、二度と人を縛らないよう記録するために。


 リゼはそれを見た。


 消すのではない。


 忘れない。


 だが、従わない。


 王宮外縁の空気が近づいてくる。


 遠くから、朝の光が差し込んでいた。


 いつの間にか、夜が明け始めている。


 王都の空は白かった。


 白い朝。


 割れていない。


 薄く、疲れた朝。


 けれど、確かに来た朝。


 外へ出ると、王宮のあちこちで鐘は鳴っていなかった。


 中央記録鐘も、王の鐘も、沈黙している。


 その代わり、人の声があった。


 命令ではない。


 確認の声。


「現在地確認!」


「未承認札を外せ!」


「名前を記録しろ!」


「怪我人を医務へ!」


「本会議へ伝達!」


「封印管理室立会いを!」


 王宮は混乱している。


 だが、さっきまでとは違う。


 誰かが確認したはず、ではなく。


 自分が確認する、という声が増えていた。


 リゼはアルトを支えながら、王都の白い朝を見た。


 アルトも、目を細く開けた。


「……朝……」


 エリアナが静かに言う。


「白い朝です」


 アルトはかすかに息を吸う。


「……割れて……ない……」


 エリアナの目が潤んだ。


「はい。割れていません」


 カイが言う。


「帰るぞ、アルト」


 アルトは、弱く頷いた。


 その時、学園線からエレオノーラの声が届いた。


「王立学園より追加伝達。卒業審査関連文書が王宮混乱前に発送済みでした。緊急ではありませんが、保全しています」


 ミリアが一瞬だけ目を瞬いた。


「この状況で卒業審査?」


 カイが泣き笑いの顔で言う。


「学園、強いな」


 リゼは少しだけ首を傾けた。


「卒業審査」


 エレオノーラの声は淡々としている。


「はい。対象者の中に、リゼ・グレイスさんの文書があります」


 ミリアがリゼを見る。


 リゼはアルトを支えたまま、応答した。


「内容を確認します」


 エレオノーラは読み上げた。


「王立学園、卒業審査通知。最終項目。リゼ・グレイス本人による、在学意思確認」


 リゼは、すぐに答えなかった。


 王宮の白い朝。


 アルトの重み。


 青いリボン。


 ミリアの記録板。


 カイの涙。


 エリアナの香草。


 背後に沈黙した王の鐘。


 足元に残された未整理の紙片。


 卒業審査。


 在学意思確認。


 それは、戦場の命令ではない。


 王宮の分類でもない。


 本人に問う紙だった。


 リゼは、アルトの身体を支え直した。


 今は、救出搬送が優先。


 回答は、後でいい。


 勝手に完成させない。


 自分の意思も。


 リゼは言った。


「保全してください。後で、本人として確認します」


 エレオノーラが答える。


「了解しました」


 アルトが、かすれた声で言った。


「……後で……」


 リゼは彼を見る。


「はい。後で確認します」


 カイが泣きながら笑った。


「後でやること、多すぎるな」


 ミリアが静かに言う。


「それが帰るということよ」


 エリアナは白い朝を見上げた。


「帰ってから、聞くことがあります」


 アルトは目を閉じ、白布を弱く握った。


「……母……」


「はい」


 リゼは言った。


「母の記録も、後で確認します。あなたが望む形で」


 アルトは小さく頷いた。


 白い朝の中、彼らは王宮深部から離れていく。


 王の鐘は鳴らなかった。


 孤独な音は、王の鐘にならなかった。


 名前は鍵にならなかった。


 血は扉を叩かなかった。


 灰銀は王宮の剣に戻らなかった。


 学園は危険源ではなく、帰る場所として残った。


 そして、アルト・レインフォードは、アルトとして帰っていく。


 王都の空は白い。


 まだ傷は多い。


 未整理の紙も、責任の空白も、これから確認しなければならない。


 それでも、朝は来た。


 リゼは青いリボンに触れず、両手でアルトを支えたまま歩いた。


 戻るための目印は、まだ結ばれている。


 その先に、学園があった。


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