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灰銀の戦乙女は、制服を知らない  作者: 最後に残った形


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第13章 第2話:後で聞く約束


 白布は、医務室の机の上に置かれていた。


 ただし、開かれてはいない。


 王宮深部封印区画から持ち出された灰色封箱は、三重の保全札で包まれている。


 一つは封印管理室。


 一つは王立学園。


 一つは、本人関係記録としての仮保全札。


 どの札にも、同じ文言が記されていた。


 本人同席前の開封禁止。


 王の鐘接続素材としての使用禁止。


 母記録の解釈権独占禁止。


 白布児記録は、今、王立学園医務室の隣室に置かれている。


 王宮の奥深くではない。


 王の鐘の前でもない。


 黒蔦に絡まれた灰色の棚でもない。


 窓から朝の光が入り、机の横には医務室の薬棚があり、扉の外には人の声が届く場所だった。


 それでも、アルト・レインフォードはその箱を見た瞬間、呼吸を少し乱した。


 リゼ・グレイスはすぐに気づいた。


「アルトさん。箱を遠ざけますか」


 アルトは寝台の上で、ゆっくり瞬きをした。


 喉にはまだ温湿布が巻かれている。


 声はかすれている。


 医師からは、長く話さないようにと言われている。


 アルトは、掛布の上で指を小さく動かした。


 迷っている。


 リゼは即答を求めなかった。


 ミリア・ファルネーゼが記録板を膝に置き、静かに待っている。


 カイ・ロックハートは椅子に座ったまま、両膝に拳を置いていた。


 立ち上がりそうになるたび、自分で座り直している。


 エリアナ・ルクス・ヴェルグラントは香草袋を胸に抱き、机の上の箱を見つめていた。


 香草袋は、今日も置かれていない。


 彼女の手の中にある。


 封印管理室副管理官レアナ・フィスは、机の横に立っていた。


 王宮の職員としてではなく、封印管理室の保全責任者として。


 彼女の表情には緊張がある。


 王宮深部で起きたことを考えれば当然だった。


 白布児記録は、王宮が長く扱ってきた記録だ。


 だが、その扱いは誤っていた。


 少なくとも、本人同意なく王の鐘の前で開こうとしたことは、誤りだった。


 レアナは、アルトへ向かって深く頭を下げた。


「アルト・レインフォードさん。封印管理室副管理官、レアナ・フィスです。白布児記録の保全状態を説明します。説明を受けたくない場合は、ここで止めます」


 アルトは、少しだけリゼを見た。


 リゼは答えを代わらなかった。


 ただ、現在地を確認するように言う。


「ここは王立学園医務室です。あなたは説明を止めることもできます。聞くこともできます。途中で止めることもできます」


 アルトは小さく息を吸った。


「……聞きます」


 声は掠れている。


 しかし、聞こえた。


 ミリアが記録する。


 アルト・レインフォード、白布児記録保全説明を聞く意思を表示。


 レアナは頷き、箱へ手を伸ばさずに説明を始めた。


「この白布児記録は、王宮深部封印区画から封印管理室、王立学園、本人関係記録として三者立会いで保全されました。現時点で、内容は開封していません。王宮本会議、封印管理室、監察局、王立学園のいずれも、本人同席前の開封を認めないことで一致しています」


 カイが少しだけ息を吐いた。


 ミリアは記録板に、開封していない、と丁寧に書いた。


 アルトの視線は、箱に固定されている。


 レアナは続ける。


「第12章で確認された範囲では、白布児記録内には、出生名エルディア・レインフォード、本人応答名アルト・レインフォードに関わる記録、白鐘礼拝堂の保護記録、母系記録、母と思われる筆跡の私的記録が含まれている可能性があります」


 アルトの指が掛布を掴んだ。


 母。


 その言葉に、呼吸が浅くなる。


 リゼがすぐに言った。


「説明を止めますか」


 アルトは目を閉じた。


 少しだけ時間が流れた。


 誰も言葉を足さなかった。


 医務室の隣室には、朝の光と薬草の匂いと、エリアナの香草袋の乾いた甘さがある。


 やがてアルトは、目を開けた。


「……止めないで……ください」


 ミリアが記録する。


 説明継続意思。


 レアナは、さらに慎重に言葉を選んだ。


「母系記録の一部は、王宮深部で黒く塗り潰されていました。理由として臨時調整室は“王宮秩序への影響可能性”と述べました。しかし、本人保護理由とは確認されていません。現在、封印管理室としては、母記録を本人関係記録として扱い、王宮秩序のみを理由とした再封鎖を認めない方針です」


 ユリウス・エインズワースが隣で補足した。


「正式決定には本会議と監察局の手続きが必要ですが、少なくとも学園側は本人の閲覧意思を最優先にします」


 アルトは、喉を動かした。


「……見る……ことは……」


 リゼが言う。


「今、見る必要はありません」


 アルトはリゼを見る。


 リゼは続けた。


「あなたは王の鐘の前で、“今、嫌”“あとで聞きたい”と伝えました。その記録は継続しています。今、見たい場合は確認します。今は見たくない場合も確認します。どちらでも構いません」


 ミリアが静かに言う。


「見たい、でも怖い。見たくない、でも知りたい。両方あっていいわ」


 アルトの顔が歪んだ。


 泣く前の表情に似ている。


 だが、涙はすぐには出ない。


 まだ身体が追いついていないのかもしれない。


 アルトは、ひどく小さな声で言った。


「……聞きたいです」


 ミリアが筆を構える。


 アルトは続ける。


「でも……今は……怖いです」


 その言葉は、医務室の中で静かに落ちた。


 聞きたい。


 でも、怖い。


 どちらか一方にしなくていい。


 リゼは頷いた。


「確認しました。聞きたい。ですが、今は怖い。両方を記録します」


 ミリアが同じ言葉を丁寧に書いた。


 アルト・レインフォード、母記録について「聞きたい」「今は怖い」と発声。


 併存する本人意思として記録。


 カイが膝の上の拳を握った。


「じゃあ、今は読まない」


 アルトの視線がカイへ向く。


 カイは一瞬、言葉を探すように口を開閉した。


 それから、いつもよりずっと小さい声で言った。


「帰ってから聞くって決めたんだろ。ここ、帰ってきた場所だけど……まだ、身体が帰ってきたばっかりだから。ちゃんと息できて、ちゃんと食べて、ちゃんと寝て、それからでいい」


 ミリアが少しだけ目を細めた。


「カイさん、良い言葉ね」


 カイは顔を赤くした。


「今、茶化さないでください」


「茶化していないわ」


 アルトの口元が、ほんの少しだけ緩む。


 カイはその表情を見て、泣きそうになった。


 だが、今度は泣かずに耐えた。


 代わりに、深く息を吸う。


「俺、待つから。いつでも。焼き菓子も、今じゃなくていい。医師に怒られるから」


 医務室の医師が、扉の外から咳払いをした。


「よくわかっていますね」


 カイは背筋を伸ばした。


「はい!」


 声量が少し大きかった。


 すぐに自分で口を押さえた。


「すみません」


 アルトが小さく息を吐いた。


 笑いになりきらない、でも柔らかい呼吸。


 エリアナは香草袋を抱いたまま言った。


「白布は、待つためにもあります」


 アルトが彼女を見る。


 エリアナは箱を見つめながら続けた。


「白布は、隠すためだけではありません。包むため。守るため。開ける時を待つためにもあります。王の鐘の前で無理に開かれそうになった時、白布は抵抗しました。今は、待てます」


 レアナが静かに頷く。


「封印管理室としても、本人の準備が整うまで保全します。開封する際は、手順を新しく組み直します。王宮だけで決めません」


 ユリウスが書類を差し出す。


「仮手順案です。本人、王立学園代表、封印管理室、必要に応じて王宮本会議、監察局が立ち会う。ただし、本人が途中停止を求めた場合、停止する」


 ミリアが書類を確認する。


「本人の途中停止権、明記されていますね」


「はい」


「母記録の内容を、王宮側が先に要約しないこと」


「明記しました」


「解釈を提示する前に、原文確認」


「はい」


「本人が聞かずに保留する権利」


「入れています」


 ミリアは頷いた。


「良いと思います」


 リゼも書類を見る。


 文字が多い。


 だが、そこに「外部確認不要」はない。


 「本人意思確認済」と先に書かれてもいない。


 空白の承認もない。


 途中停止。


 保留。


 本人同席。


 原文確認。


 それらの言葉がある。


 リゼは言った。


「この手順は、本人を鍵として扱いません」


 ユリウスは頷いた。


「そのために作りました」


 アルトは、書類を見つめていた。


 まだ読む力はない。


 ミリアが気づき、静かに言う。


「今、全部読む必要はないわ。説明だけ聞いて、あとで確認できる」


 アルトは小さく頷いた。


「……あとで……」


「はい。後で」


 その言葉が、隣室の空気を少し柔らかくした。


 後で。


 第12章では、命を繋ぐための保留だった。


 今は、帰ってきた後の約束になっている。


 逃げるためではない。


 忘れるためでもない。


 本人が、自分の声で向き合える時を待つための言葉。


 アルトは、白布で包まれた灰色封箱へ視線を戻した。


 その中に、母の言葉がある。


 自分をエルディアと記した記録も。


 アルトと呼んだ筆跡も。


 この子を、孤独な音にしないでください、という願いも。


 そして、まだ読んでいない続きも。


 アルトは喉に手をやりかけ、途中で止めた。


 温湿布がある。


 リゼが気づく。


「痛みますか」


「……少し……」


 医師が入ってくる。


「会話はここまでにしましょう。痛みが増えています」


 アルトは少しだけ申し訳なさそうに目を伏せた。


 医師は厳しい顔をしつつも、声は優しかった。


「謝る顔をしなくていいです。話したいことがあるのは正常です。ただ、喉がまだ追いついていないだけです」


 ミリアが記録する。


 話したいことがあるのは正常。


 喉が追いついていない。


 カイが小さく言った。


「医師の言葉、強いな」


 医師は薬を準備しながら答えた。


「医務室では私が強いです」


 カイは即座に頷いた。


「はい」


 アルトの口元がまた少し動く。


 リゼはそれを見て、表情緩和と記録しそうになり、今回は少しだけ言葉を変えた。


 笑顔に近い反応。


 断定しすぎない。


 だが、前より少しだけ踏み込める気がした。


 医師が薬を飲ませ、アルトの枕を整える。


「箱は見えない位置に移しますか」


 アルトは目を閉じかけていたが、その問いには反応した。


 指が少し動く。


 リゼは尋ねる。


「見えない位置に移す。見える位置に置く。どちらにしますか」


 アルトはしばらく考えた。


 眠気と疲労で、答えるのに時間がかかる。


 誰も急かさない。


 やがて、小さく言った。


「……見えない……けど……近く……」


 ミリアが確認する。


「見えない位置。ただし、同じ部屋または近い場所で保全?」


 アルトはかすかに頷く。


 レアナがすぐに答えた。


「では、隣の保全棚へ移します。扉は閉じますが、封印管理室、学園、本人関係記録の三札は維持します。移動距離はこの部屋から三歩です」


 カイが真剣な顔で言った。


「三歩なら、遠くない」


 リゼが頷く。


「三歩。確認しました」


 レアナは封箱を両手で持ち上げた。


 乱暴に扱わない。


 白布を破らない。


 黒蔦はもうない。


 だが、全員が見守る中で、彼女は慎重に歩いた。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 隣室の保全棚へ置く。


 扉は半透明の医務室用保護扉。


 鍵はかけない。


 保全札だけが光る。


 アルトから箱は見えなくなった。


 だが、存在は消えていない。


 近くにある。


 今は見えない。


 あとで聞ける。


 その距離が、今のアルトには必要だった。


 ミリアが記録する。


 白布児記録、本人意思により見えない近距離へ移動。


 移動距離、三歩。


 開封なし。


 保全継続。


 アルトは、少しだけ深く息を吐いた。


 医師が満足そうに頷く。


「良いです。呼吸が落ち着きました」


 リゼはその言葉を確認した。


「呼吸改善」


 医師が全員を見る。


「ここまで。面会終了です。彼は眠ります」


 カイが口を開きかけた。


 すぐ閉じた。


 それから、小声で言う。


「アルト。寝ろ。俺、前で待ってる」


 アルトの瞼が下りかける。


「……うん……」


 ミリア。


「私は記録を整理しているわ。勝手に完成させないから、眠って」


 アルトは小さく頷く。


 エリアナ。


「香草はここにあります。私が持っています」


 アルトの呼吸がまた少し落ち着く。


 リゼは最後に言った。


「現在地、王立学園医務室。母記録、未開封。本人意思、“聞きたい”“今は怖い”“後で”。保全済み。あなたは眠って大丈夫です」


 アルトは、目を閉じたまま、かすれた声で言った。


「……後で……聞きます……」


「はい」


「……僕の……声で……」


 リゼは少しだけ息を止めた。


 母さんの言葉を、僕の声で聞きたい。


 第12章で生まれたその願いが、医務室で形を取り直している。


 ミリアが、静かに記録した。


 アルト・レインフォード、母記録について「後で聞きます」「僕の声で」と発声。


 本人希望として保全。


 アルトは、そのまま眠りに落ちた。


 今度の眠りは、黒布に沈められるものではない。


 冷却安定化という名の沈黙でもない。


 医務室の薬と疲労と、帰ってきた安心が混ざった眠りだった。


 全員が隣室へ戻る。


 扉は静かに閉じる。


 ミリアが記録板を閉じず、膝に置いたまま深く息を吐いた。


「後で聞く約束ができたわ」


 カイは椅子に座り、両手で顔を覆った。


「怖いって言えたの、よかった」


 リゼはカイを見る。


「はい。恐怖の申告、良好です」


 カイは顔を上げた。


「それ、リゼが言うと、なんかすごくリゼですね」


 ミリアが微笑む。


「でも、大事よ」


 エリアナは保全棚の方を見る。


「怖いことと、聞きたいことは、同時にあります」


 リゼは頷く。


「はい。両方を記録します」


 レアナが深く頭を下げた。


「封印管理室として、約束します。この記録を、本人の準備なしに開きません」


 リゼは彼女を見る。


「言葉として記録します。行動で確認します」


 レアナは頷いた。


「はい」


 ユリウスが書類をまとめる。


「王宮本会議にも同じ文面で送ります。本人同席前の開封禁止。母記録の王宮単独解釈禁止。後日開示時の途中停止権。すべて明記します」


 ミリアが言った。


「“後で”は曖昧な逃げではなく、本人意思として扱ってください」


「そのように記載します」


 カイが少しだけ安心したように息を吐いた。


「後でって、便利ですね」


 ミリアが見る。


「逃げる時に使うと困るけれどね」


「はい」


「でも、今は必要な後でよ」


 リゼは医務室の扉を見る。


 その向こうで、アルトが眠っている。


 隣の保全棚には、白布児記録がある。


 見えない。


 けれど、近くにある。


 開かない。


 けれど、消えない。


 怖い。


 けれど、聞きたい。


 未完。


 けれど、守られている。


 リゼは、その状態を記録した。


 未完記録、保全。


 本人意思、後日確認。


 状態、良好ではない。


 だが、継続可能。


 窓の外では、白い朝が少しずつ明るくなっていた。


 学園の庭に、まだ植えられていない香草のための小さな鉢が置かれている。


 エリアナがそれに気づき、少しだけ目を細めた。


「後で、植えたいです」


 リゼが確認する。


「香草を、ですか」


「はい。ここにも、戻る匂いを残したいので」


 カイが頷いた。


「いいですね。アルトが起きたら、見える場所に」


 ミリアが言う。


「でも、置くかどうかはアルトさんに確認しましょう」


 エリアナは柔らかく頷く。


「はい。確認します」


 それも、後で。


 母の記録も、香草も、卒業審査も、王宮の空白も。


 すべて、後で確認する。


 だが、それは後回しにして消すという意味ではない。


 帰ってきた人が、息を整えてから向き合うための時間だった。


 リゼは青いリボンに触れた。


 戻るための目印は、まだ結ばれている。


 今は、戻った後の目印でもある。


 ミリアがそれを見て言った。


「リゼさんも、休んで」


 リゼは答える。


「警戒を継続します」


「休みながら警戒して」


「可能です」


「では、実行」


「了解しました」


 カイが小さく笑った。


 エリアナも、少しだけ笑った。


 その笑い声は、医務室の扉を越えて、眠るアルトに届いたかもしれない。


 届かなかったかもしれない。


 どちらでもよかった。


 扉は声を奪うものではない。


 必要な時に、また開けられる。


 机の上には、白布児記録の保全書類が残っている。


 その一番下に、ミリアが新しく一行を書き足した。


 母記録は、本人が望む時に、本人の声で聞く。


 文字は静かに乾いていった。


 それは王宮の完了記録ではなかった。


 誰かの人生を閉じる紙でもなかった。


 後で開くための、約束の記録だった。


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