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灰銀の戦乙女は、制服を知らない  作者: 最後に残った形


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第12章 第12話:アルトはアルト


 王の鐘は、リゼ・グレイスを灰銀として使うことに失敗した。


 黒い記録柱のひとつが、細くひび割れている。


 灰銀戦時戦力。


 灰銀一七。


 王宮剣。


 その分類語は、まだ完全には消えていない。


 だが、リゼ本人の声が、その上に重なっている。


 私は、リゼ・グレイスです。


 私は、王宮の剣ではありません。


 灰銀戦時戦力としてではなく、リゼ・グレイスとして、アルトさんを迎えに来ました。


 その言葉が、王の鐘の深い白光の中にも届いていた。


 アルト・レインフォードは、石台の上でその声を聞いていた。


 喉が痛い。


 左手首の銀環は、冷たさと熱さを同時に抱えている。


 王の鐘から伸びる白い線が、何度も銀環へ触れようとする。


 黒蔦は、それを補助するようにアルトの腕を押さえている。


 だが、銀環は一方向には従わない。


 王の鐘へ引かれる。


 同時に、外側の名前へ戻ろうとする。


 カイの声。


 ミリアの記録。


 エリアナの香草。


 学園の青い線。


 そして、リゼの声。


 リゼは、リゼ。


 アルトはその文字を、自分で書いた。


 そうだと思った。


 灰銀ではなく、リゼ。


 なら、自分はどうなのか。


 エルディア・レインフォード。


 アルト・レインフォード。


 銀環反応対象。


 孤独音候補。


 王の鐘接続適性者。


 白布児。


 王統系記録接続可能性。


 いくつもの名前と分類が、アルトの周囲を回っている。


 王の鐘は、その中から一つだけを選ぼうとしている。


 エルディア・レインフォード。


 正名。


 王統接続。


 鐘に届く名。


 臨時調整室長が、王の鐘の前に立っていた。


 薄い布の奥の顔は、まだ見えない。


 名前もない。


 ただ、声だけがある。


「灰銀戦時戦力は、現在使用不能」


 その声は、冷たく記録を読み上げる。


「旧ヴェルグラント血統は、白鐘層の反発により鍵化困難。学園記録線は過剰応答により統一不可。外部声刺激は抑制不能」


 黒蔦が、王の鐘の三点印柱へ集まる。


 室長の声が、アルトへ落ちた。


「中心処理へ移行します」


 中心。


 アルトは、その言葉だけで身体が強張った。


 中心にされる。


 また。


 皆の真ん中に置かれるのではない。


 皆を消すための真ん中。


 王宮を一つにするための芯。


 孤独な音として響くための中心。


 嫌だ。


 アルトは白布を掴んだ。


 そこには、銀色の文字がまだ残っている。


 エルディア。


 アルト。


 どっちも、ぼく。


 かえる。


 ひとりではない。


 母。


 あとで。


 きく。


 白布児記録の箱は、少し離れた場所で白く光っている。


 母の筆跡は黒蔦に隠されたが、最後に見えた一文は胸に残っている。


 この子を、孤独な音にしないでください。


 母は、王の鐘になれとは言わなかった。


 鍵になれとも言わなかった。


 孤独な音にしないでください。


 アルトは、その言葉を握る。


 だが、王の鐘は容赦なく光を強めた。


 深部の空間に、王都の景色が映る。


 布告板の前で不安げに立つ人々。


 命令札を見比べる兵。


 王宮本会議で怒号を上げる議員たち。


 中央記録局で黒い札を剥がそうとする警備兵。


 学園正門で青い腕章を巻く生徒たち。


 食堂で鍋を温めるマーヤ。


 寮で人数を確認する寮監。


 記録室で青い線を維持するエレオノーラ。


 門の前で立つリゼ。


 泣きながら名前を呼ぶカイ。


 記録板を抱えるミリア。


 香草袋を握るエリアナ。


 みんなが見える。


 みんなが危険に見える。


 室長の声が、静かに響く。


「君が鳴れば、混乱は収まります」


 アルトの胸が痛む。


 それは、もう何度も言われた。


 それでも、痛い。


 自分が拒否しているから、みんなが危険な場所にいるのではないか。


 自分が帰りたいと言うから、学園が危険源にされるのではないか。


 自分が王の鐘にならないから、王宮が割れたままなのではないか。


 黒蔦がその痛みを拾う。


 自己責任反応、上昇。


 保護誘導、有効。


 情緒接続、可能。


 アルトは目を閉じたくなった。


 だが、閉じない。


 見せられているものを、全部本当だと思わない。


 リゼが言った。


 恐怖と同意は違う。


 ミリアが言った。


 続きを勝手に書かない。


 カイが言った。


 お前が消えて終わるやつは嫌だ。


 エリアナが言った。


 孤独な音は孤独なままでは砕ける。


 学園が言った。


 帰ってきて。


 待っている。


 食堂を開けておく。


 王の鐘が見せる皆の危険は、本当かもしれない。


 でも、それを理由に、自分を消していいとは誰も言っていない。


 誰も、アルトに王の鐘になれとは言っていない。


 室長だけが言っている。


 アルトは白布へ指を走らせようとした。


 だが、黒蔦が手首を締める。


 文字を書かせない。


 今度は、声を使うしかない。


 喉が焼けるように痛む。


 口元の黒布が邪魔をする。


 アルトは唇を動かした。


「……ぼ……」


 音にならない。


 室長が言った。


「発声は不要です。反応で足ります」


 その言葉に、アルトの中で何かが静かに固まった。


 また、それだ。


 反応で足りる。


 声はいらない。


 本人の言葉はいらない。


 銀環が震えればいい。


 王の鐘に届けばいい。


 名前が記録と一致すればいい。


 恐怖も優しさも、接続材料になればいい。


 違う。


 アルトは、喉の痛みを押して息を吸った。


 声を出す。


 小さくても。


 掠れても。


 リゼたちが聞き取れなくても。


 自分が、自分の中で聞くために。


「……ぼく……は……」


 王の鐘の線が、強く銀環へ伸びる。


 室長が近づく。


「君は、エルディア・レインフォード。王統記録へ接続可能な銀環反応者です」


 アルトは首を横に振った。


 少しだけ。


「……エルディア……」


 王の鐘が反応する。


 白い光が強くなる。


 室長の声が低くなる。


「正名応答を確認」


 アルトは、続けた。


「……アルト……」


 白い光が揺れる。


「二重応答は不要です」


「……どっちも……」


 喉が痛い。


 声が裂ける。


 でも、言う。


「……ぼく……」


 外側から、ミリアの声が届いた。


「“エルディア”“アルト”“どっちも、ぼく”発声再確認。本人二重名保持意思、継続」


 カイの声。


「そうだ! どっちもお前だ! でも、王の鐘の名前じゃない!」


 リゼの声。


「出生名を確認します。ですが、本人応答名を上書きしません」


 室長は、王の鐘の前で手を上げた。


 黒蔦が王都の景色を再び映す。


 今度は、学園が黒い命令波に晒される光景。


 生徒たちが不安げに名前を名乗っている。


 青い線が揺れている。


 王宮兵が門の前で迷っている。


 リゼの右腕が冷えている。


 カイが泣いている。


 ミリアの手が震えている。


 エリアナの顔色が白い。


「君が鳴れば、彼らは危険を負わずに済みます」


 アルトの胸が締めつけられる。


 室長は続ける。


「君は優しい。友人を危険に晒したくない。ならば、王の鐘へ応じなさい」


 優しい。


 その言葉が、罠になる。


 アルトは、リゼの言葉を思い出す。


 あなたが存在することは、誰かがあなたを利用してよい理由にはなりません。


 自分が優しいかどうかは、わからない。


 でも、みんなを守りたい気持ちはある。


 それを、王の鐘になる同意に変えられたくない。


 アルトは、喉を震わせた。


「……守り……たい……」


 室長が言う。


「ならば」


「……でも……」


 アルトは目を開ける。


 王の鐘の白い光を見る。


 その奥に、母の筆跡がある。


 この子を、孤独な音にしないでください。


 「……消えたく……ない……」


 外側が静まり返った気配がした。


 ミリアの声が、すぐに届く。


「“守りたい”“でも”“消えたくない”を確認。併存する本人意思として記録します」


 リゼの声。


「確認しました。守りたい気持ちと、消えたくない気持ちは同時に存在します。どちらかを消しません」


 カイ。


「消えんな! 守りたいなら帰ってこい!」


 エリアナ。


「消えないことも、守ることです」


 アルトの胸が震える。


 消えないことも、守ること。


 自分が消えないことが、わがままではないのかもしれない。


 自分が王の鐘にならないことが、皆を裏切ることではないのかもしれない。


 室長の声が冷える。


「個人の生存欲求を優先すれば、王宮全体の危機は継続します」


 リゼが即座に返す。


「生存欲求を低位に置くことを拒否します」


 ユリウスの声。


「王宮全体の危機管理は、王宮制度の責任です。本人一人の消滅同意に転嫁することは認めません」


 オルド。


「王宮の空白を、一人の子どもで埋めるな」


 その言葉に、王の鐘が揺れた。


 空白。


 また、それだ。


 王宮の空白。


 責任の空白。


 承認の空白。


 母の名前の黒塗り。


 リゼの灰銀印の転用。


 アルトの本人意思の上書き。


 全部、空白を誰かで埋めようとしている。


 今は、アルトで。


 アルトは、白布の上に指を置いた。


 少しだけ動く。


 黒蔦が締めるが、完全には止められない。


 アルトは書いた。


 ぼくで。


 うめないで。


 ミリアがすぐに読む。


「“ぼくで、うめないで”を確認」


 リゼ。


「確認しました。王宮の空白を、アルトさんで埋めることを拒否します」


 カイ。


「空白なら、名前書け! アルトを詰めるな!」


 エリアナ。


「空白は、血や鍵で埋めるものではありません」


 学園の青い線が光る。


 エレオノーラの記録。


 王宮空白の本人充填拒否。


 本人意思、保全。


 王の鐘の黒い線が震える。


 室長は静かに言った。


「では、君は王宮の混乱を見捨てますか」


 アルトは唇を噛みそうになった。


 黒布が邪魔をする。


 見捨てる。


 その言葉は痛い。


 自分が鳴らなければ、見捨てるのか。


 助けないのか。


 皆を危険にするのか。


 でも、それも違う。


 王の鐘になることだけが、助ける方法ではない。


 リゼたちは、王宮を壊すのではなく、誤った記録を止めている。


 学園は、剣ではなく名前で戦っている。


 ナイルやレアナ、セイルやガレンたちも、王宮の中で名前を出している。


 皆が、それぞれの場所で責任を引き受け始めている。


 それを、自分一人が鳴ることで全部終わらせる必要はない。


 アルトは、ゆっくり息を吸った。


「……見捨て……ない……」


 室長が少し動く。


 アルトは続けた。


「……でも……ぼくが……鐘に……なるのは……違う……」


 声は途切れ途切れだった。


 だが、外側へ届いた。


 ミリアの声が震えながらも正確に記録する。


「“見捨てない”“でも”“僕が鐘になるのは違う”を確認。王宮危機への関心と、王の鐘化拒否の併存」


 リゼ。


「確認しました。見捨てないことと、王の鐘になることは同じではありません」


 カイ。


「そうだ! 助け方は他にもある!」


 エリアナ。


「白鐘本来手順も、そのためにあります」


 白鐘文字が、深部に浮かぶ。


 鐘を鳴らすな。


 扉へ走るな。


 王の血で扉を叩くな。


 名を鍵にするな。


 孤独な音を、王の鐘にしてはならない。


 その文字が、王の鐘の白い光を抑えるように広がる。


 室長の声は冷たく沈む。


「白鐘旧語は、王宮封印下で再解釈されます」


 エリアナが外側で言った。


「再解釈ではなく、改竄です」


 クラウス。


「白鐘層が、アルト君の不同意とエリアナさんの声に反応しています。王の鐘側の解釈を拒否している」


 室長は、今度はアルトの出生記録を広げた。


 エルディア・レインフォード。


 王統系記録接続可能性。


 銀環反応。


 白布児。


 母系秘匿。


 その中から、エルディアという名だけが黒く強調される。


「アルトは隠称です。隠称は保護状況終了後、正名へ戻されます」


 アルトの胸が痛む。


 アルトという名が、また消されそうになる。


 室長は続ける。


「王宮深部保護下で、君はエルディア・レインフォードとして整理されます。アルトは、不要になります」


 不要。


 その言葉に、銀環よりも胸が痛んだ。


 アルトは、白布の上の文字を見る。


 アルト。


 母の筆跡にもあった。


 白鐘礼拝堂記録にもあった。


 カイが呼んだ。


 リゼが呼んだ。


 ミリアが記録した。


 エリアナが香草と一緒に呼んだ。


 学園が待っている名前。


 不要ではない。


 アルトは、痛む喉で言った。


「……アルト……は……」


 王の鐘が引く。


 室長が言う。


「隠称です」


「……母さんが……」


 言葉が詰まる。


 母さん。


 初めて口にした気がした。


 その言葉だけで、胸が震える。


 室長の黒蔦が動く。


「母記録は封鎖中です」


 アルトは、声を絞った。


「……呼んだ……名前……」


 外側からエリアナの声が届く。


「はい。母の呼び名として記録されていました」


 ミリア。


「母による呼び名“アルト”、白布児記録内存在確認可能性。保全済み」


 リゼ。


「アルトさん。あなたが母の呼び名としてアルトを受け取ることを、外部は否定しません」


 カイ。


「俺も呼ぶ!」


 アルトは息を吸う。


「……カイが……呼ぶ……名前……」


 カイが泣いた。


「呼ぶ! 何回でも呼ぶ!」


 アルトは続ける。


「……リゼさんが……確認……する……名前……」


 リゼの声が静かに届く。


「はい。アルトさんとして確認しています」


「……ミリアさんが……記録……する……名前……」


 ミリアの声が震える。


「記録しています」


「……エリアナさんが……香草で……戻して……くれる……名前……」


 エリアナの声。


「はい。戻るための名前です」


 アルトは、白布を握った。


「……学園が……待ってる……名前……」


 青い学園線が強く光る。


 いくつもの声が返る。


「アルト君」


「アルト」


「アルトさん」


「帰ってきて」


「待ってる」


 アルトは、目を閉じた。


 痛い。


 寒い。


 怖い。


 でも、はっきりした。


 エルディアを消さない。


 でも、アルトも消させない。


 今、帰りたい名前は。


 自分で声にしたい名前は。


「……ぼくは……」


 王の鐘の白い線が強く迫る。


 室長が言う。


「エルディア・レインフォード」


 アルトは首を振る。


「……エルディア……でも……ある……」


 王の鐘が揺れる。


「……でも……」


 黒蔦が口元へ伸びる。


 アルトは、残った力で声を出した。


「……僕は……アルトとして……帰りたい……です……」


 その瞬間、王の鐘の振動が大きく乱れた。


 深部外縁門の白鐘文字が一斉に光る。


 青い学園線が、強く深部へ届く。


 ミリアの記録板に、文字が焼き付くように浮かんだ。


 本人意思。


 僕は、アルトとして帰りたいです。


 ミリアは声を震わせながら読み上げた。


「アルト・レインフォード、本人意思確認。“僕は、アルトとして帰りたいです”」


 カイが泣きながら叫んだ。


「帰ろう! アルトとして帰ろう!」


 エリアナが涙をこらえて言う。


「名前は、帰る音です」


 リゼは、深く息を吸った。


「確認しました。アルトさん。あなたは、アルトとして帰りたい。本人意思を確認しました」


 王の鐘の黒い線が、銀環から弾かれるように揺れる。


 室長の声が歪む。


「アルトは隠称です」


 リゼは即座に言った。


「本人が帰りたい名前です」


 ミリア。


「隠称としての処理を拒否。本人帰還名として記録」


 ユリウス。


「本人が現在応答し、帰還意思を示した名を、王宮が不要とする権限はありません」


 オルド。


「出生名と本人帰還名の併存を認めるべきです。王宮が一方を消すことを認めません」


 ナイル。


「本会議へ、この本人意思を伝達します」


 レアナ。


「封印管理室記録にも保全します」


 学園長の声が青い線から届く。


「王立学園は、アルト・レインフォード君の帰還意思を受け入れます」


 エレオノーラ。


「学園記録室、本人帰還名“アルト”を保全」


 その瞬間、学園側から一斉に名前が返った。


 アルト。


 アルト君。


 アルトさん。


 声がばらばらに重なる。


 統一されていない。


 けれど、それでいい。


 王の鐘がその声を一つにまとめようとして、できない。


 多くの名が、孤独な音を包む。


 白鐘文字が再び浮かぶ。


 名を鍵にするな。


 その下に、新しい一行。


 名は、帰るために呼ぶ。


 エリアナが息を呑む。


「白鐘層が、名前の意味を返しています」


 クラウスが測定具を見る。


「王の鐘への強制接続圧、低下! 銀環、拒否方向で安定!」


 だが、室長は諦めなかった。


 黒い三点印が王の鐘の三本の記録柱から浮かび上がる。


 それは、アルトの言葉を覆うように広がった。


 本人意思、情緒反応。


 帰還希望、保護下移行後整理。


 アルト名、仮称。


 正名、エルディア・レインフォード。


 王の鐘接続、継続。


 ミリアが鋭く言った。


「上書き発生!」


 リゼの目が冷える。


「拒否します。本人意思を情緒反応に縮小することを認めません」


 カイ。


「帰りたいって言ったんだ!」


 エリアナ。


「仮称ではありません。帰るための名です」


 学園線が青く光る。


 エレオノーラの記録補正。


 本人意思を情緒反応へ縮小することを拒否。


 “アルトとして帰りたい”を本人意思として保全。


 王宮本会議、封印管理室、監察局、学園記録へ同時伝達。


 黒い上書き文字に、青い訂正線が走る。


 王の鐘の白い光が激しく乱れた。


 室長の声は、低く歪んでいた。


「処理不能」


 リゼは言った。


「処理しなくていいです。本人意思として記録してください」


 深部のアルトは、石台の上で荒く息をしていた。


 喉は痛い。


 頭がぼんやりする。


 だが、胸の奥に、小さな芯が残っている。


 僕は、アルトとして帰りたいです。


 言った。


 自分で言った。


 その言葉を、外側が受け取った。


 王宮が情緒反応へ変えようとしても、学園が保全した。


 リゼが確認した。


 ミリアが記録した。


 カイが泣いた。


 エリアナが名前を帰る音と言った。


 それで、アルトは少しだけ笑いたくなった。


 こんな場所で。


 王の鐘の前で。


 笑う力なんてないのに。


 それでも、胸の奥にあるものは、ただの恐怖ではなかった。


 帰りたい。


 アルトとして。


 王の鐘の白い線がまた伸びる。


 だが、さっきよりも細い。


 銀環は引かれる。


 しかし、完全には従わない。


 アルトは白布の上に、震える指でまた書いた。


 アルト。


 かえる。


 その文字は小さかった。


 でも、白布児記録の光と、学園の青い線と、リゼの声に支えられて、消えなかった。


 室長は、王の鐘の前で静かに言った。


「では、アルトという名ごと、王の鐘へ登録します」


 リゼの声が即座に届く。


「拒否します」


 室長。


「本人がアルトを選んだ。ならば、その名を鍵として使用します」


 白鐘文字が強く光った。


 名を鍵にするな。


 リゼは言った。


「名前を鍵にしません。アルトさんの名前は、帰るために呼びます」


 カイ。


「アルト! 開けるためじゃない! 帰るために呼ぶ!」


 ミリア。


「名の鍵化を拒否。本人帰還名として保全」


 エリアナ。


「白鐘も、名は帰るためと示しています」


 王の鐘の黒い三点印が、ひどく歪む。


 アルトという名を消せない。


 エルディアだけにもできない。


 それならアルトを鍵にしようとする。


 だが、それも拒否される。


 名前は鍵ではない。


 帰る音だ。


 アルトは、その言葉を胸に置いた。


 アルト。


 朝に残る小さな音。


 鍵ではない。


 鐘ではない。


 帰る音。


 アルトは、かすれた声で、もう一度だけ言った。


「……アルト……です……」


 王の鐘が震える。


 黒蔦がざわめく。


 しかし、今度は外側から答えが返るより先に、アルト自身の中で答えが落ちた。


 エルディアも消さない。


 母の記録も、あとで聞く。


 王宮の混乱も、見捨てたくない。


 でも。


 僕は、王の鐘にはならない。


 僕は、アルトとして帰りたい。


 その意思が、銀環の奥で小さく、確かに光った。


 王の鐘はまだ止まっていない。


 臨時調整室長も、まだ名乗らない。


 黒い三点印は、次の手を探すように蠢いている。


 けれど、孤独な音として鳴らされるはずだった少年は、もう自分の名を声にした。


 アルト。


 その名は、王の鐘の鍵にはならなかった。


 帰るための音として、深部の白い闇に残った。


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