第12章 第11話:灰銀ではなく
王の鐘が、アルト・レインフォードへ向けて黒い線を伸ばした。
学園の青い記録線がそれを包む。
多くの名前。
多くの現在地。
多くの不安。
多くの本人意思。
王の鐘は、それを嫌った。
統一できないもの。
処理できないもの。
分類語へ収まらないもの。
それらが、孤独な音を孤独にしない。
アルトを王の鐘にしない。
だから、臨時調整室長は、別の中心を選んだ。
深部外縁門の黒い空白が、リゼ・グレイスの前で濃くなる。
白鐘文字の光を覆うように、黒い記録が浮かび上がった。
灰銀戦時戦力。
識別、灰銀一七。
戦場投入記録、確認。
王宮戦時搬送補助、確認。
敵性戦力無力化数、記録あり。
保護対象護衛適性、高。
危険区域単独突破適性、高。
命令遂行適性、高。
リゼは、その文字を見た。
息は乱れない。
目も逸らさない。
しかし、胸の内側に古い冷えが戻る。
戦場の匂い。
泥。
血。
焼けた布。
冬の朝の金属音。
幼い手に残った剣の重さ。
灰銀の戦乙女。
王宮が彼女に与えた称号。
戦場が彼女に与えた機能。
そして、人々が物語にしてしまった過去。
門の奥から、室長の声が響いた。
「灰銀戦時戦力。あなたは王宮危機時に有効な剣です」
ミリア・ファルネーゼが記録板を握る手に力を込めた。
「分類語です」
カイ・ロックハートが低く言う。
「リゼはリゼだ」
リゼは、すぐには口を開かなかった。
黒い記録はさらに広がる。
戦時映像のような投影が、外縁門の空白に映った。
荒野を走る少女。
灰銀の髪。
返り血に濡れた外套。
補給線を守る小さな影。
王宮の輸送隊。
灰色封箱。
外装確認補助。
灰銀一七。
リゼは、その投影を見た。
そこにいる少女は、確かに自分だった。
知らないと言えない。
なかったことにはできない。
王宮が作った誇張だけではない。
戦場にいた。
剣を振った。
命令を遂行した。
人を傷つけた。
輸送路を通した。
灰色封箱の外装確認に印を残した。
その箱の中に、アルトの白布児記録が含まれていた可能性がある。
胸の奥に、痛みが走る。
ミリアがすぐに言った。
「リゼさん、状態」
リゼは答えた。
「胸部痛。右腕冷却、増加なし。感情、怒り、痛み、恐怖。自己責任化兆候、中度。判断継続可能」
ミリアは一歩近づいた。
「自己責任化を単独で進めない」
「はい」
カイが言う。
「リゼが今やったことじゃない」
リゼは頷いた。
「はい。ですが、私の印が使われました」
「だからって、全部リゼのせいじゃない」
「確認しました」
室長の声が割り込む。
「灰銀一七は、王宮戦時搬送において高い信頼性を持つ識別です。あなたの確認印により、多くの封箱が王都へ到達しました」
リゼは門を見た。
「外装確認です。内容承認ではありません」
「戦時において、内容確認は不要です。任務は搬送保全」
「それが問題でした」
黒い空白が揺れる。
リゼは続ける。
「私は当時、外装と経路を確認しました。中身の本人意思を確認していません。できませんでした。だからこそ、現在、その記録を本人承認として使用することを認めません」
室長の声は冷たい。
「過去の機能は、現在も有効です」
リゼは答える。
「機能としての再使用を拒否します」
黒い記録がさらに濃くなる。
今度は、戦場でのリゼの戦闘記録が並ぶ。
灰銀戦時戦力、単独突破。
敵性部隊制圧。
護衛対象生存率、高。
危険地帯判断速度、高。
感情抑制適性、高。
王宮剣士候補外使用、戦時特例。
室長が言った。
「あなたは、王宮深部封印区画へ進むための最適戦力です。灰銀として動けば、外縁門の突破も、王の鐘周辺の制圧も可能です」
ロウ教師が低く唸った。
「甘い餌を出してきたな」
リゼは理解していた。
室長は、リゼを止めたいだけではない。
使いたい。
灰銀として。
王宮の剣として。
戦場にいた自分を呼び戻し、アルト救出のためという名目で、罠の中へ走らせる。
扉へ走るな。
リゼは白鐘の警告を思い出した。
扉へ走るな。
名を鍵にするな。
灰銀という名も、鍵にされる。
彼女自身を開門具にするために。
カイが言った。
「リゼ、突っ込むなよ」
「はい」
カイは泣き腫らした目で、真剣にリゼを見た。
「俺も走らない。だから、リゼも走るな」
リゼは、ほんの一瞬、目を瞬いた。
そして頷いた。
「確認しました。走りません」
ミリアが静かに言う。
「リボン」
リゼは青いリボンに触れた。
ミリアが結び直した、戻るための目印。
中央塔へ行く前も、北棟へ戻る前も、深部へ向かう前も、そこにあった。
戦場の標識ではない。
王宮の階級章でもない。
友人が結んだ布。
戻るための目印。
ミリアはリゼの横に立った。
「リゼさん。あなたは戦場にいた。そこは否定しない」
「はい」
「灰銀一七として印が使われた。それも否定しない」
「はい」
「でも、今ここで、あなたを灰銀戦時戦力として使うかどうかは、現在のあなたが答えることよ」
リゼはミリアを見た。
金色の髪が、深部から漏れる白い光を受けて揺れている。
ミリアの顔には疲労がある。
それでも、目は逸らさない。
リゼは言った。
「現在の本人意思を確認します」
ミリアは頷いた。
「ええ」
室長の声がする。
「灰銀戦時戦力に本人意思は不要です。戦時機能は記録済み」
ミリアが即座に言う。
「不要ではありません。現在の本人意思を確認します」
学園の青い記録線が強く光った。
エレオノーラの文面が入る。
リゼ・グレイス本人意思確認、学園記録室で受信準備。
学園長の声も続く。
「リゼ・グレイスさん。王立学園は、あなたを生徒として本人確認します」
リゼは少しだけ息を吸った。
生徒。
その言葉は、まだ身体に完全には馴染んでいない。
けれど、もう知らない言葉ではなかった。
制服。
食堂。
授業。
友達。
青いリボン。
アルトの左側。
カイの焼き菓子。
ミリアの茶。
エリアナの香草。
王立学園の廊下。
それらは、戦場ではない。
リゼは門の奥へ向き直った。
「私は戦場にいました」
黒い記録が、少し静かになる。
彼女は続けた。
「灰銀一七として識別され、王宮戦時搬送に関わりました。剣を振り、命令を遂行し、人を傷つけました。その事実を否認しません」
ミリアが記録する。
カイは黙って聞いている。
エリアナも、香草袋を握ったまま目を伏せない。
「ですが」
リゼは青いリボンに触れた。
「その事実は、現在の私が王宮の剣として再使用されることへの同意ではありません」
黒い三点印が揺れた。
「私は、灰銀戦時戦力として王宮深部封印区画へ投入されることに同意しません」
白鐘文字が光る。
「私は、アルトさんを救出するためであっても、本人意思なき開門具、戦時資源、王宮剣として使用されることを拒否します」
学園の青い線が、その言葉を受け取る。
エレオノーラが記録する。
リゼ・グレイス、灰銀戦時戦力としての再使用を拒否。
王宮剣としての投入に不同意。
現在本人意思、確認。
室長の声が低くなる。
「では、アルト・レインフォード救出を遅らせます」
その言葉は刃のようだった。
リゼの胸に突き刺さる。
救出を遅らせる。
アルトが苦しむ。
王の鐘に呼ばれる。
声を出し、帰りたいと言っている。
そこで、自分が灰銀として突入すれば早いのではないか。
その誘惑はある。
リゼは、それを否定しない。
救いたい。
すぐ行きたい。
扉を破りたい。
王の鐘を止めたい。
それでも。
「急ぐことと、罠の手順に従うことは違います」
リゼは言った。
「灰銀として突入することが、王の鐘接続または深部開門に利用される可能性を確認しています。私はそれを拒否します」
クラウスが頷く。
「測定上も、灰銀戦時記録に王の鐘側が反応しています。リゼさんが灰銀として応答すれば、外縁門の黒蔦層が強く開く可能性があります。危険です」
カイがリゼを見て、必死に頷いた。
「ほら。危ない。走るな」
「はい」
室長は言う。
「灰銀の剣を拒否するなら、あなたの価値は低下します」
ミリアの目が冷えた。
「価値で人を測らないでください」
リゼは静かに答えた。
「低下して構いません。私は資源ではありません」
その言葉に、黒い記録が大きく揺れた。
かつて、王宮の会議で言った言葉。
私は資源ではありません。
それを、今、王の鐘の前でもう一度言う。
室長の声がさらに低くなる。
「あなたの戦時能力がなければ、多くが死んでいました」
「可能性はあります」
「ならば、王宮はあなたを使う権利があります」
「ありません」
リゼの声は短かった。
「誰かを救った可能性は、現在の使用権にはなりません。戦時能力が存在することは、王宮が私を再使用してよい理由にはなりません」
オルドが深く息を吐いた。
「その通りです」
ユリウスが文書へ書き込む。
「戦時功績を現在使用権へ転換する論理を拒否、と記録します」
ナイルも言う。
「王宮本会議としても、戦時功績者を本人不同意で再投入する承認はありません」
レアナ。
「封印管理室も、灰銀戦時記録を深部開門具として扱うことを認めません」
室長が言った。
「あなた方は、王宮の危機を理解していない」
ロウ教師が短く返す。
「理解した上で、生徒を道具にしないと言っている」
生徒。
また、その言葉。
リゼは胸の奥で受け止める。
灰銀。
戦乙女。
王宮の剣。
戦時戦力。
危険資源。
それらの名前は、彼女の周囲にいくつも浮かんできた。
だが、今、学園はリゼを生徒として呼んでいる。
ミリアは友人として横にいる。
アルトは、リゼさんはリゼさんだと言った。
リゼは門の奥を見た。
深部の銀色が、微かに揺れた。
白布の上に、小さな文字が浮かぶ。
リゼ。
その一語だけ。
リゼの胸が痛む。
ミリアがすぐに記録する。
「アルトさん、リゼさんの名前を表示」
室長の黒い記録が、その文字へ覆いかぶさる。
灰銀。
灰銀。
灰銀戦時戦力。
しかし、銀色の「リゼ」は消えない。
カイが叫ぶ。
「アルトはリゼって呼んでる!」
エリアナ。
「名前で呼んでいます。機能ではありません」
ミリアがリゼを見る。
「聞こえた?」
「はい」
ミリアは、リゼの青いリボンへ手を伸ばした。
乱れていた結び目を、そっと整える。
戦場の最中ではない。
王宮深部の前。
黒い記録と王の鐘の圧がある中で、それでも彼女は丁寧に結び直す。
「戻るための目印よ」
リゼは、その言葉を聞いた。
指先が、少し震えた。
「確認しました」
ミリアは静かに言う。
「灰銀戦時戦力と呼ばれても、答える名前は?」
リゼは門を見た。
黒い文字。
灰銀戦時戦力。
灰銀一七。
王宮剣。
その上に、アルトの銀色の文字。
リゼ。
リゼは言った。
「リゼ・グレイスです」
青い記録線が強く光る。
学園側から応答が返る。
リゼ・グレイス、本人名確認。
ミリアが微笑む。
「もう一度」
リゼは、今度は深く息を吸った。
「私は、リゼ・グレイスです」
黒い分類語がひび割れる。
室長の声が冷たくなる。
「灰銀の記録は消えません」
「消しません」
リゼは即答した。
その返答に、室長の黒い気配が一瞬止まる。
「私は灰銀の記録を消しません。戦場にいた事実も、灰銀一七として使われた事実も、外装確認印がアルトさんの記録移送に関わった可能性も消しません」
リゼは青いリボンに触れた。
「消さずに、現在の本人意思を記録します」
ミリアの筆が走る。
リゼは続けた。
「私は、王宮の剣ではありません」
白鐘文字が光る。
「私は、灰銀戦時戦力としてアルトさんを救うのではありません」
王の鐘の振動が乱れる。
「私は、リゼ・グレイスとして、アルトさんを迎えに来ました」
深部から銀色が強く揺れた。
アルトの文字が浮かぶ。
リゼは、リゼ。
カイが声を詰まらせた。
「アルト……」
ミリアは目を伏せずに記録した。
「“リゼは、リゼ”を確認」
エリアナが静かに言う。
「名前が、灰銀を上書きするのではなく、灰銀だけにしないのですね」
リゼは頷いた。
「はい」
室長は、低く言った。
「灰銀を否定しないなら、王宮はその記録を使用できます」
リゼは答える。
「記録の存在と、使用同意は違います」
その言葉に、王の鐘の黒い線が大きく揺れた。
記録の存在と、使用同意は違う。
それは、アルトにも当てはまる。
銀環反応があることと、王の鐘に同意することは違う。
出生名があることと、王宮の音になることは違う。
母記録があることと、接続材料にされることは違う。
リゼの戦時記録があることと、王宮の剣として再使用されることは違う。
すべて同じ線で繋がる。
ミリアがその言葉を強く記録した。
学園の青い線も受け取る。
エレオノーラからの文面。
記録存在と使用同意の分離、学園記録に保全。
室長の黒い気配が膨らむ。
「ならば、あなたは役に立たない」
リゼは静かに答えた。
「役に立つかどうかで、私の存在を判断しません」
カイがうなずく。
「そうだ」
エリアナも。
「人は役割だけではありません」
ロウ教師が短く言う。
「よし」
その「よし」は、戦闘の勝利ではなかった。
立ち方の確認だった。
王の鐘が再び強く震えた。
灰銀戦時記録を使えないと判断したのか、黒い線が別方向へ流れる。
アルトの銀環へ。
学園線へ。
そして、エリアナの香草袋へ。
クラウスが叫ぶ。
「王の鐘、灰銀戦時記録への接続失敗。別系統へ負荷を移しています!」
エリアナが顔を強張らせる。
「王の血へ……」
リゼはすぐに言った。
「エリアナさん、血を鍵にしません」
「はい」
カイが身構える。
「次はエリアナかよ」
ミリアが記録板を握り直す。
「分類語を一つずつ潰していくしかないわ」
リゼは門の奥を見る。
アルトの銀色は、まだ光っている。
リゼは、リゼ。
その文字が、胸に残る。
自分は灰銀を消さない。
だが、灰銀だけではない。
王宮の剣ではない。
戦場の亡霊でもない。
学園にいる。
友人がいる。
守りたい人がいる。
そして、迎えに行く。
リゼ・グレイスとして。
彼女は門の黒い空白へ向けて言った。
「臨時調整室長。私の戦時記録を開門具、接続補助、戦時戦力として使用することを拒否します。アルトさんを救出するための行動は継続します。ただし、灰銀戦時戦力としてではありません」
ミリアが記録する。
青い学園線が光る。
アルトの銀色が、深部で静かに揺れる。
王の鐘はまだ止まらない。
黒蔦はまだ消えない。
臨時調整室長は、まだ名乗らない。
だが、灰銀という分類語だけでリゼを動かすことは、もうできなかった。
王の鐘の白い光の中、リゼは青いリボンを結んだまま立っていた。
灰銀ではなく。
王宮の剣ではなく。
リゼ・グレイスとして。




