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灰銀の戦乙女は、制服を知らない  作者: 最後に残った形


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第12章 第6話:エルディアの名


 エルディア・レインフォード。


 その名が、王の鐘の前で黒く浮かんでいた。


 大きく、正しく、冷たい文字。


 出生記録に記された名。


 王宮が保管し、臨時調整室が分類し、王の鐘が反応する名。


 アルト・レインフォードは、石台の上でその文字を見上げていた。


 口元の黒布は少しだけずれている。


 完全に外れたわけではない。


 声はまだ掠れ、喉は痛い。


 左手首の銀環は、冷たく震え続けている。


 王の鐘が、呼んでいる。


 エルディア。


 エルディア・レインフォード。


 正名確認。


 王統接続、準備。


 その言葉が、黒い記録として空中に並ぶたび、銀環の奥が深く疼いた。


 まるで、ずっと閉じていた扉が、内側から叩かれているようだった。


 知らないはずなのに、知らないと言い切れない。


 夢の奥で、一度だけ誰かがそう呼んだ気がする。


 白い朝の光。


 薄い布。


 冷たい指。


 震える声。


 エルディア。


 その音を聞くと、胸の奥に痛みが走る。


 でも、温かさではない。


 王の鐘の呼び声に近い。


 深く、重く、逃げ場を塞ぐような音。


 アルトは指先を動かそうとした。


 白布の上には、前に書いた銀色の文字がかすかに残っている。


 かえりたい。


 アルト。


 黒蔦がその文字を覆おうとしているが、完全には消えていない。


 外側の声が届いたからだ。


 リゼさん。


 カイ。


 ミリア。


 エリアナ。


 学園の青い記録線。


 全部が細く繋がっている。


 けれど、今は遠い。


 王の鐘の近くへ来たせいで、外の声が薄くなっている。


 その代わり、黒い記録の声が大きくなった。


「エルディア・レインフォード」


 臨時調整室長の声が、王の鐘の前で響く。


 音として響いたのか、記録として流れ込んだのか、わからない。


 白とも黒ともつかない長衣。


 薄い布で覆われた顔。


 人のようで、人でないような輪郭。


 名前のない室長は、アルトを見下ろしていた。


「それが、記録上の正名です」


 アルトは唇を動かした。


 声はほとんど出ない。


「……」


「アルト・レインフォードは、後年に使用された隠称。保護上の仮名。王宮記録における正名ではありません」


 隠称。


 仮名。


 正名ではない。


 その言葉が胸に刺さる。


 アルトは目を閉じたくなった。


 閉じれば、王の鐘の文字を見ずに済む。


 でも、閉じても呼び声は消えない。


 エルディア。


 エルディア。


 エルディア。


 銀環がその名へ反応する。


 身体のどこかが、その名を知っている。


 でも、カイが呼ぶのはアルトだ。


 リゼさんが確認するのも、アルトさんだ。


 ミリアが記録するのも、アルトさんの言葉だ。


 エリアナが香草と一緒に届けるのも、アルトさんという呼びかけだ。


 では、アルトは嘘なのか。


 母が呼んだ名前は、隠すためだけのものだったのか。


 石台のそばに置かれた灰色封箱から、古い紙がまた一枚滑り出た。


 黒蔦がそれを持ち上げ、王の鐘の白い光に晒す。


 文字が浮かび上がる。


 出生記録。


 対象名、エルディア・レインフォード。


 銀環反応、確認。


 王統系記録、接続可能性あり。


 白鐘紙工房経由、秘匿。


 母名欄は、黒く塗りつぶされている。


 アルトは、その黒い塗り潰しを見た。


 母の名前がない。


 母の声はあるのに、記録にはない。


 室長が言う。


「秘匿記録は、王宮管理下で整理されます。正名を用いることで、王の鐘との接続精度が上昇します」


 アルトは、白布を掴んだ。


 指先に力が入らない。


 でも、掴む。


 正名。


 接続精度。


 整理。


 どれも、自分のための言葉ではない。


 王の鐘のための言葉だ。


 黒蔦が銀環へ伸びる。


 エルディア・レインフォード。


 その名を通して、銀環を鐘へ接続しようとしている。


 アルトは心の中で言った。


 違う。


 でも、何が違うのか、うまく言葉にならない。


 エルディアが違うのか。


 アルトだけが正しいのか。


 出生記録を拒否すればいいのか。


 けれど、身体はエルディアという音を知っている。


 それを完全に嘘だとは言えない。


 アルトは混乱する。


 胸が苦しい。


 呼吸が浅くなる。


 黒布が喉元で冷たい。


 室長の声が近づく。


「混乱は自然です。仮名と正名が競合しています。正名に統合すれば、反応は安定します」


 統合。


 安定。


 また、その言葉。


 寒さを安定にした。


 声のなさを保管にした。


 今度は、アルトという名前を消して、エルディアに統合しようとしている。


 アルトは、白布に指を走らせた。


 うまく動かない。


 でも、書く。


 ア。


 ル。


 そこで黒蔦が覆う。


 室長が言う。


「隠称への固執は、保護過程で整理されます」


 アルトは息を吸った。


 喉が痛い。


 声は出ない。


 でも、胸の中では叫んでいる。


 整理しないで。


 アルトを消さないで。


 エルディアが怖いわけじゃない。


 でも、アルトを消されるのが怖い。


 その時、遠くから声が届いた。


 細く、薄く、けれどまっすぐに。


「アルトさん」


 リゼの声だった。


 アルトの銀環が、小さく震える。


 室長の周囲の黒蔦が、それを捕まえようと伸びた。


 だが、声は鍵ではない。


 扉を開けるためではない。


 確認の声。


「出生名を確認する可能性があります。ですが、本人が応答する名前を上書きしません」


 アルトの目の奥が熱くなった。


 外側で、もう出生名の可能性を掴んだのかもしれない。


 それとも、リゼはずっと同じことを言っているだけなのかもしれない。


 本人の名前を、紙で上書きしない。


 本人の言葉を、勝手に完成させない。


 それが、今も届いた。


 次に、カイの声。


「アルト! 俺はアルトって呼ぶ! 違う名前があっても、今呼ぶのはアルトだ!」


 カイの声は少し揺れていた。


 でも、強い。


 続いて、ミリア。


「出生名と現在応答名は、どちらか一方を外部が消すものではありません。本人確認を優先します」


 エリアナ。


「血だけで名は決まりません。記録だけでも決まりません。人が、名を生きます」


 その言葉が、胸に落ちた。


 人が、名を生きる。


 アルトは、白布を掴む手に少し力を込めた。


 エルディア。


 それは記録の名。


 もしかしたら、生まれた時に与えられた名。


 王宮が反応する名。


 銀環が覚えている名。


 アルト。


 それは母が呼んだ名。


 友達が呼ぶ名。


 自分が帰りたい場所にある名。


 どちらかが嘘なのか。


 わからない。


 でも、今なら一つだけ言える。


 どちらも、王の鐘のための鍵ではない。


 アルトは指を動かした。


 黒蔦が冷たい。


 王の鐘が呼ぶ。


 エルディア。


 来い。


 王宮を一つにしろ。


 孤独な音として響け。


 違う。


 アルトは唇を動かした。


「……ぼ……く……」


 掠れた息が漏れた。


 室長が近づく。


「発声負荷が高い。不要です。反応で足ります」


 アルトは首を横に振った。


 ほんの少し。


 でも、拒否した。


 反応だけで足りる、ではない。


 声が出るなら、出したい。


 出なくても、文字を書く。


 文字も無理なら、心で保つ。


 僕は、反応だけじゃない。


 アルトは白布に指を引きずった。


 エ。


 ル。


 デ。


 ィ。


 ア。


 エルディア。


 その文字を書いた瞬間、銀環が深く震えた。


 王の鐘の白い線が近づく。


 室長の声が満足げに落ちる。


「正名応答を確認」


 だが、アルトは止まらなかった。


 冷えに逆らい、指を続ける。


 ア。


 ル。


 ト。


 エルディア。


 アルト。


 黒蔦が混乱するように震えた。


 どちらを記録すればいいのか、迷っているようだった。


 室長の声が低くなる。


「二重名は処理を複雑化します」


 アルトは息を吐いた。


 痛い。


 寒い。


 でも、指を動かす。


 ど。


 っ。


 ち。


 も。


 ぼ。


 く。


 エルディア。


 アルト。


 どっちも、ぼく。


 銀色の文字が、白布の上に並んだ。


 王の鐘の振動が乱れた。


 正名だけを通じて接続しようとしていた黒蔦が、アルトという名前に阻まれる。


 アルトだけを消して、エルディアへ統合しようとした記録が、本人の言葉で止まる。


 外側から、強い反応が届いた。


 まず、ミリアの声。


「“エルディア。アルト。どっちも、ぼく”を確認。出生名と応答名を本人が併記。外部による一方的統合を拒否」


 次に、リゼ。


「確認しました。エルディア・レインフォードという出生名を記録します。アルト・レインフォードという本人応答名を上書きしません。どちらも本人の言葉として扱います」


 カイの声は涙で濡れていた。


「どっちもお前なら、どっちもお前だ! でも俺はアルトって呼ぶ! お前が帰ってくる時の名前だから!」


 エリアナ。


「名は血だけではありません。記録だけでもありません。あなたが、あなたとして持つものです」


 アルトは目を閉じそうになった。


 外側が、消さなかった。


 エルディアを否定しなかった。


 アルトも消さなかった。


 どちらも、僕。


 そのまま受け取ってくれた。


 室長の周囲の黒蔦が激しくざわついた。


「処理不能な二重応答です」


 リゼの声が届く。


「処理不能で構いません。本人の言葉です」


 ミリア。


「未完、矛盾、複数名。本人が保持する限り、外部が一つに削りません」


 エレオノーラからの学園記録線が青く光る。


 本人二重名応答、補完・削除禁止。


 学園記録に保全。


 アルトの胸が少しだけ軽くなる。


 王の鐘の呼び声は消えない。


 でも、まっすぐではなくなった。


 エルディアという名だけを通じて引こうとしていた力が、アルトという名で分かれ、揺らぐ。


 室長は、冷たい声で言った。


「では、正名記録を全開示します」


 白布児記録の箱が、王の鐘の前へさらに引き寄せられる。


 灰色の封が、黒蔦によって開かれた。


 中には、いくつもの紙束が入っていた。


 白い布に包まれた小さな記録。


 古いインク。


 滲んだ筆跡。


 母名欄はまだ黒く塗られている。


 だが、その下に別の文が見えた。


 この子の呼び名。


 アルト。


 朝に残る小さな音。


 アルトは息を止めた。


 室長がそれを見て、わずかに声を低くする。


「母による非公式呼称。保護上の秘匿名」


 非公式。


 秘匿名。


 でも、そこに書かれている筆跡は、冷たくない。


 震えている。


 急いでいる。


 けれど、愛おしそうに文字を置いている。


 アルト。


 朝に残る小さな音。


 アルトの胸に、ぼんやりとした記憶が戻る。


 白い窓。


 朝の匂い。


 誰かの腕。


 柔らかい布。


 小さな声。


 アルト。


 朝になっても、ここに残って。


 消えないで。


 母の顔は見えない。


 声も完全には思い出せない。


 でも、その名に込められた感触だけはわかる。


 鍵にするためではない。


 隠すためだけでもない。


 呼ぶため。


 戻すため。


 生きて残ってほしいから。


 アルトは、喉の痛みに逆らって息を吸った。


 黒布がずれている隙間から、冷たい空気が入る。


「……ア……ル……ト……」


 音は小さく、掠れていた。


 でも、声だった。


 室長が動く。


 黒蔦が口元へ戻ろうとする。


 その瞬間、外側からカイの声が飛び込んだ。


「聞こえた!」


 本当に聞こえたのかはわからない。


 でも、カイはそう叫んだ。


 ミリアがすぐに続く。


「発声反応可能性。断定しすぎず、記録します」


 リゼの声は落ち着いていた。


 でも、アルトにはわずかな震えがわかった。


「アルトさん。声を確認した可能性があります。無理に続けなくていいです。あなたの名前を、あなたが発した可能性として記録します」


 アルトはその声を聞き、また目の奥が熱くなった。


 名前を言えた。


 まだ小さい。


 まだ不確か。


 でも、声で。


 自分で。


 アルト。


 室長は、白布児記録を黒蔦で覆おうとした。


「母の非公式呼称は、正名接続に不要です」


 エリアナの声が外から届く。


「不要ではありません」


 リゼも言う。


「母の呼称記録を隠さないでください」


 ミリア。


「母による呼び名“アルト”、白布児記録内に存在可能性。引用保全を要求」


 ユリウス。


「出生名と母による呼称は、どちらも重要な本人記録です。一方を抹消する権限はありません」


 オルド。


「秘匿名を処理上不要とすることを認めません」


 声が重なる。


 王の鐘の前に立つ室長の黒蔦が、少しずつ乱れていく。


 アルトはその隙に、もう一度白布へ指を走らせた。


 母。


 そこまで書いて、手が止まる。


 母の名前は見えない。


 黒く塗りつぶされている。


 顔も覚えていない。


 でも、呼ばれた感触はある。


 室長が言う。


「母記録は、王宮保護上封鎖されています」


 アルトは書いた。


 ききたい。


 母。


 ききたい。


 銀色の文字が震える。


 外側へ届いた。


 ミリアの声。


「“母”“ききたい”を確認。母記録の本人閲覧希望として記録します」


 リゼ。


「アルトさん本人が、母の記録を聞きたいと伝えました。封鎖理由の開示を要求します」


 ユリウス。


「本人に関する母記録です。開示拒否には明確な根拠が必要です」


 室長の声が冷たくなる。


「母記録は、王宮に不利益をもたらす可能性があります」


 その言葉に、空気が変わった。


 王宮に不利益。


 アルトに危険だからではない。


 本人を守るためではない。


 王宮にとって不都合だから。


 外側で、ミリアの筆が走る音が聞こえた気がした。


 リゼの声が低く届く。


「母記録封鎖理由、王宮に不利益をもたらす可能性との発言を確認。本人保護理由ではありません」


 カイが怒る。


「王宮に不利とか知るか! アルトの母さんの記録だろ!」


 エリアナ。


「白布は、不都合を隠すためだけのものではありません」


 室長は答えない。


 代わりに、王の鐘の振動を強めた。


 エルディア・レインフォード。


 正名接続、再試行。


 アルト・レインフォード。


 非公式呼称、抑制。


 母記録、封鎖継続。


 黒い文字が並ぶ。


 アルトは、銀環が引かれるのを感じた。


 エルディアという名が、王の鐘へ繋がる。


 アルトという名が、外側へ繋がる。


 母記録が、その二つの間にある。


 王宮は、エルディアだけを使いたい。


 アルトを消したい。


 母の声を封じたい。


 でも、アルトは見た。


 出生記録に、エルディアがある。


 母の記録に、アルトがある。


 どちらも、僕。


 なら、王宮が勝手に片方だけ使うことはできない。


 アルトは喉を鳴らした。


 声はほとんど出ない。


 でも、言う。


「……どっち……も……」


 黒蔦が口元へ迫る。


 アルトは続ける。


「……ぼく……」


 音は掠れ、途切れた。


 でも、外側へ届いた。


 リゼの声。


「確認しました。“どっちも、ぼく”発声可能性。本人二重名保持意思として記録します」


 ミリア。


「記録しました」


 カイ。


「そうだ! どっちもお前だ! でも、王の鐘のための名前じゃない!」


 エリアナ。


「名は、鍵ではありません」


 白鐘の文字が、遠くで強く光ったように感じた。


 名を鍵にするな。


 王の鐘の振動が一瞬乱れる。


 室長が、初めて小さく苛立った。


「本人の混乱は、接続の妨げになります」


 リゼの声が即座に返る。


「混乱を理由に、本人を整理しません。本人が保持する複数の名を、外部が削りません」


 室長は沈黙した。


 だが、諦めてはいない。


 王の鐘の白い線が、今度は白布児記録の箱そのものへ絡みつく。


 母の記録を、鐘の材料にするつもりなのか。


 アルトは目を見開いた。


 黒蔦が紙束を持ち上げる。


 母の筆跡が、王の鐘の前で揺れる。


 アルト。


 朝に残る小さな音。


 その一文の下に、まだ続きがある。


 黒く滲んで見えない。


 でも、そこに何かがある。


 アルトは、どうしても読みたかった。


 聞きたかった。


 母が、なぜ自分をアルトと呼んだのか。


 なぜ王宮から隠したのか。


 なぜ白鐘に託したのか。


 室長が言った。


「母記録を整理し、王の鐘接続へ転用します」


 違う。


 アルトはそう思った。


 母の記録は、転用するものじゃない。


 鍵じゃない。


 材料じゃない。


 僕が聞きたいものだ。


 アルトは、残った力で手を伸ばした。


 黒蔦が止める。


 届かない。


 でも、外側から声が来た。


 リゼ。


「母記録を、王の鐘接続へ転用することを拒否します」


 ミリア。


「母記録、本人閲覧希望あり。転用拒否として記録」


 エリアナ。


「母の言葉を、鐘の材料にしないでください」


 カイ。


「アルトの母さんの言葉を、勝手に使うな!」


 青い学園記録線が強く光る。


 エレオノーラからの文が届く。


 母記録、本人関係記録として保全要求。


 王の鐘接続素材化拒否。


 白布児記録の箱を覆っていた黒蔦が、一部剥がれた。


 母の筆跡が、もう少し見える。


 この子の呼び名。


 アルト。


 朝に残る小さな音。


 どうか――


 そこで、また黒く滲む。


 アルトは息を呑む。


 どうか。


 その先。


 知りたい。


 でも、今はまだ届かない。


 室長は、黒蔦を強めながら言った。


「正名接続を優先します。エルディア・レインフォード」


 銀環が強く引かれる。


 アルトは白布を掴む。


 王の鐘に行きたくない。


 エルディアを消したくない。


 アルトを消されたくない。


 母の記録を聞きたい。


 帰りたい。


 全部が胸の中で重なり、苦しい。


 でも、もう一つだけはっきりした。


 王宮に整理される名前ではなく、自分で持つ名前が必要だ。


 アルトは、かすれた声で言った。


「……エル……ディア……」


 王の鐘が反応する。


 室長の気配が強くなる。


 でも、アルトは続けた。


「……アルト……」


 黒蔦が震える。


「……どっちも……ぼく……」


 声は弱い。


 切れ切れだ。


 でも、王の鐘の前で確かに出た。


 室長は黙った。


 外側から、リゼの声が届く。


「本人意思、確認しました」


 カイが叫ぶ。


「聞いたぞ、アルト!」


 ミリア。


「発声記録、保全します」


 エリアナ。


「あなたの名を、鐘の鍵にしません」


 アルトは、目を閉じた。


 力が抜ける。


 でも、完全には沈まない。


 手の下に、白布の感触がある。


 その上に、自分で書いた銀色の文字がある。


 エルディア。


 アルト。


 どっちも、ぼく。


 王の鐘はまだ呼んでいる。


 臨時調整室長は、母記録をまだ握っている。


 外側のみんなは、まだ門の向こうにいる。


 何も終わっていない。


 でも、アルトという名前は、消えなかった。


 エルディアという名前も、奪われなかった。


 どちらも、今はアルトの中にある。


 王の鐘の冷たい白光の中で、灰色封箱の奥から、母の筆跡がもう一度だけ浮かび上がった。


 どうか、この子を――


 黒蔦がそれを隠す。


 けれど、アルトは見た。


 まだ続きがある。


 自分の名前の先に、母の願いが残っている。


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