第12章 第5話:呼ばれる銀環
最初に感じたのは、音ではなかった。
呼吸の奥を、細い糸で引かれるような感覚。
左手首の銀環の痕が、冷たく震える。
鐘は鳴っていない。
けれど、呼ばれている。
アルト・レインフォードは、暗い通路の途中で目を開けた。
開けた、と思った。
実際には、瞼がどれだけ開いているのかもわからない。
視界の半分は黒い布に遮られている。
口元にも、まだ黒布がある。
声は出ない。
喉を動かそうとすると、乾いた冷気が内側から押さえる。
身体は横になっているのか、座らされているのか、最初はわからなかった。
背中に硬い感触がある。
石。
いや、石の台。
手首の下には白い布。
腕の周りに、黒い細い線が這っている。
黒蔦。
第二保管層で見たものと同じ。
でも、ここは第二保管層ではない。
匂いが違う。
もっと古い。
紙と布と、閉じた金属の匂い。
長く誰にも触れられなかった箱の匂い。
その奥に、微かに甘く苦い香草の匂いがある。
エリアナの香草。
遠い。
でも、ある。
アルトは、状態を確認しようとした。
声は出ない。
でも、頭の中で言葉を並べる。
痛み。
左手首、冷たい。
喉、声が出ない。
胸、苦しい。
感情、怖い。
現在地、不明。
でも。
ひとりではない。
その言葉を考えた瞬間、左手首の銀環がまた震えた。
遠くから、低い振動が来る。
中央記録鐘とは違う。
第11章の最後に聞こえた白い鐘とも違う。
もっと深い。
地面の下から王宮全体を抱えるような、重い呼び声。
来い。
そう言っているようだった。
言葉ではない。
命令でもない。
でも、身体がわかってしまう。
呼ばれている。
銀環が、そこへ向きたがる。
足が動きそうになる。
アルトは歯を食いしばろうとした。
黒布が邪魔をする。
声が出ない。
でも、心の中で言う。
行きたくない。
行きたくない。
僕は、行きたくない。
黒蔦が手首の周りで冷たく脈打つ。
目の前の暗がりに、文字が浮かんだ。
銀環反応、適性確認。
孤独音、王鐘接続準備。
本人恐怖、許容範囲。
アルトはその文字を見た。
本人恐怖。
許容範囲。
胸の奥が、冷えるより先に痛んだ。
怖いことまで、許容範囲にされる。
寒いことを安定にされた。
声が出ないことを保管にされた。
行きたくないことを恐怖反応にされる。
それは違う。
違う。
アルトは指を動かした。
石台の上。
白布の端。
冷えで指先はうまく動かない。
でも、かすかに湿った冷気が布の上に残っている。
第二保管層で、床や扉に書いた時と同じ。
文字なら、出せるかもしれない。
アルトは指先を引きずった。
よ。
そこで一度、黒蔦が手首を締める。
痛みではない。
冷たさ。
書くな、と言われているような冷え。
でも、書く。
ば。
れ。
て。
る。
よばれてる。
その文字が白布の上に銀色で滲む。
黒蔦がすぐに覆おうとする。
でも、外から声が来た。
遠い。
とても遠い。
水の底から聞こえるように歪んでいる。
けれど、わかる。
リゼの声。
「呼ばれていることと、行きたいことは違います」
アルトの胸が震えた。
届いている。
全部ではない。
はっきりではない。
でも、届いている。
次に、カイの声。
「アルト。呼ばれても返事しなくていい。お前の名前は俺たちが呼ぶ」
カイ。
名前を呼ぶ声。
扉を開けるためではない。
戻すための声。
アルトは指を動かした。
でも。
銀色が揺れる。
黒蔦が覆おうとする。
今度は、ミリアの声が届いた。
「“でも”の続きを、こちらで書きません」
アルトの目の奥が熱くなる。
泣くほどの力はない。
でも、胸の奥に何かが戻る。
勝手に続きを決められない。
外側の人たちは、待ってくれている。
アルトは指を動かした。
ぼく。
そこで息が詰まる。
王の鐘の振動が強くなる。
来い。
来い。
王宮が割れている。
命令が衝突している。
兵が迷っている。
学園が危険だ。
君が鳴れば、一つになる。
言葉ではないのに、意味だけが流れ込んでくる。
王の鐘は、声を使わない。
記録を使う。
不安を使う。
罪悪感を使う。
アルトの中に、街のざわめきのようなものが流れ込む。
布告板の前で不安がる人。
命令に迷う兵。
学園の門を見上げる生徒。
王宮の廊下で立ち尽くす職員。
全部が、ちらちらと頭に映る。
君が鳴れば、終わる。
君が鍵になれば、皆が助かる。
アルトの喉が震えた。
声は出ない。
黒布が口元を押さえる。
でも、心の中で叫ぶ。
違う。
僕が消えて終わるなら、それは違う。
リゼさんが言った。
怖いことと、同意したことは同じではない。
ミリアが言った。
続きを勝手に書かない。
カイが言った。
名前を呼ぶ。
エリアナが言った。
戻るための匂い。
学園が、遠くで名前を記録している。
マーヤさんが、食事を用意している。
そんなことまで、なぜか聞こえた気がした。
温かい食事。
帰ったら食べるもの。
生きて戻る場所。
アルトは指を動かした。
い。
き。
た。
く。
な。
い。
いきたく、ない。
銀色の文字が白布の上に浮かんだ。
黒蔦が激しく震える。
王の鐘の振動が強くなる。
恐怖反応、上昇。
不同意、恐怖反応として整理。
整理するな。
アルトはそう思った。
でも、声は出ない。
すると、外からリゼの声が届いた。
「“いきたく、ない”を確認しました。本人不同意として記録します」
本人不同意。
その言葉が、アルトの胸に落ちる。
恐怖ではなく。
適性ではなく。
反応ではなく。
不同意。
僕は、行きたくない。
それを、外側がそのまま受け取ってくれた。
王の鐘の呼び声が一瞬乱れた。
しかし、すぐに別の力が来る。
石台の下が動いた。
ゆっくりと。
アルトの身体が、さらに奥へ運ばれていく。
旧移送線。
保管物を深部へ運ぶための線。
僕は物じゃない。
そう思う。
でも、身体は動かない。
黒布。
白布。
黒蔦。
冷え。
銀環。
そのすべてが、アルトを「対象」として運ぼうとする。
アルトは指を動かそうとした。
もう一度、何か書きたい。
でも、冷えが強い。
手が震える。
文字にならない。
その時、香草の匂いが少し強くなった。
遠いのに、確かにある。
エリアナの声。
「行きたくないことを、呼応適性に変えさせません」
カイの声。
「アルト! 行きたくないって言ったの、聞いた! 俺たち追う! でも、走って罠に入らない!」
カイは泣きそうだった。
たぶん、泣いている。
でも、走らないと言っている。
アルトは、笑いたくなった。
笑う力はない。
でも、胸の奥が少しだけ温かくなる。
カイが走らない。
それはすごいことだ。
リゼの声が続く。
「あなたの“行きたくない”を確認しました。私たちは、それを消しません」
消されない。
行きたくない、が消されない。
アルトは、その言葉を握った。
声の代わりに。
手の代わりに。
石台は、暗い通路を進んでいく。
白布で覆われた棚が左右を流れる。
灰色の箱がいくつもある。
札の文字が、暗がりの中で一瞬ずつ見える。
戦災孤児記録。
旧領出自不明者。
白鐘紙工房関連。
銀環反応記録。
個人名秘匿。
臨時保護。
整理済。
整理済。
整理済。
その言葉が並ぶたび、アルトは息が苦しくなる。
誰かの名前が、そこにあったはずだ。
でも、箱の札には分類語しかない。
人が箱になっている。
記録が白い布で覆われ、黒い蔦で縛られている。
その中のひとつ。
第二保管層で見た灰色封箱と似た箱が、石台の近くに引き寄せられてきた。
札が半分剥がれている。
白布児記録。
リ――。
前に見た文字。
黒蔦がその箱を石台の横へ置く。
まるで、アルトの銀環に見せるためのように。
箱の封が少しだけ開く。
中から古い紙が一枚、滑り出た。
アルトは目を凝らした。
黒布の隙間。
暗い視界。
それでも、文字が見えた。
エルディア・レインフォード。
知らない名前ではない。
夢の中で、聞いたことがある。
白い朝。
冷たい手。
誰かの声。
エルディア。
その名で呼ばれると、銀環が深く反応する。
王の鐘の振動が強くなる。
正名確認。
王統接続、準備。
アルトの息が止まりそうになる。
エルディア。
それが、記録の名前。
王宮が呼ぶ名前。
でも、胸の奥で別の声がする。
アルト。
朝に残る小さな音。
母の声かもしれない。
夢かもしれない。
思い出かもしれない。
でも、温かい。
王の鐘の呼び声とは違う。
来い、ではない。
戻っておいで、に近い。
アルトは白布の上に指を動かそうとした。
しかし、黒蔦が手首を締める。
エルディア・レインフォード。
正名使用により、応答誘導。
アルト・レインフォード、隠称。
隠称。
その言葉が、胸を刺す。
アルトは偽物なのか。
呼ばれてきた名前は、隠すためだけのものだったのか。
リゼさんが呼ぶアルト。
カイが呼ぶアルト。
ミリアが記録するアルトさん。
エリアナが香草とともに呼ぶアルトさん。
それは、全部、隠称なのか。
違う。
でも、エルディアも完全な嘘ではない気がする。
身体のどこかが、その名前を知っている。
銀環が反応する。
王の鐘が呼ぶ。
アルトは混乱した。
怖い。
寒い。
呼ばれている。
名前が二つある。
どちらが僕なのか。
その時、遠くから青い光のようなものが届いた。
学園記録線。
はっきりとは見えない。
でも、声が重なる。
エレオノーラの冷静な文面。
本人未完文、補完禁止。
ミリアの声。
「名前の解釈も、本人なしに完成させません」
リゼの声。
「出生名を確認する場合も、本人が応答する名前を上書きしません」
まだ、外側はその事実を知らないはずだ。
でも、届いた言葉が、まるで先回りしているように胸に落ちる。
アルトは少しだけ息を吸った。
エルディア。
アルト。
どちらかを消さなくてもいいのか。
わからない。
でも、今は。
今、自分が帰りたい名前は。
アルト。
カイの声がまた届いた。
「アルト!」
それだけ。
でも、強かった。
アルトは指を動かした。
黒蔦が邪魔をする。
冷えが指先を奪う。
でも、白布の端に、かすかな銀色を刻む。
ぼ。
く。
ぼく。
その二文字だけで、息が切れた。
王の鐘の振動がさらに強くなる。
深部の暗がりが開ける。
長い通路の先に、丸い空間が見えた。
天井が高い。
白い布が幾重にも垂れている。
中央に、大きな鐘がある。
金属の鐘ではない。
白い石と銀色の線と古い木枠で組まれた、鐘の形をした封印装置。
その周囲に、王宮紋と白鐘紋が重なっている。
王の鐘。
音は出ていない。
でも、空間全体が鳴っている。
アルトの銀環が、それに引かれる。
石台が鐘の前で止まる。
黒蔦がアルトの左腕を持ち上げようとする。
銀環を、鐘へ向けて。
アルトは身体に力を入れる。
わずかにしか動かない。
でも、抵抗する。
銀環反応、拒否揺らぎ。
対象恐怖、上昇。
呼応適性、維持。
王の鐘の手前に、人影があった。
白とも黒ともつかない長い衣。
顔は薄い布で隠れている。
年齢も性別もわからない。
声だけが、はっきりしている。
「呼ばれているでしょう」
臨時調整室長。
名前のない人。
いや、人なのかもわからないもの。
アルトは答えられない。
黒布が口を塞いでいる。
室長は続けた。
「君の反応は、王の鐘に適している。王宮が割れ、命令が乱れ、人々が不安定になっている。孤独な音は、よく響く」
違う。
アルトは心の中で言う。
室長は、まるで聞こえているように首を傾けた。
「恐れる必要はありません。君が鳴れば、混乱は収まります」
黒蔦が、王都の光景を見せる。
布告板。
不安な人々。
王宮兵の衝突。
学園の門。
青い記録線。
リゼの背中。
ミリアの記録板。
カイの声。
エリアナの香草袋。
みんなが危険に見える。
自分のせいで。
自分が鳴らないから。
王宮が割れている。
学園が防衛態勢に入った。
リゼがまた危険な場所へ来た。
カイが泣いている。
ミリアが疲れている。
エリアナが怖がっている。
自分が鳴れば、終わるのか。
一瞬、その考えが胸を刺した。
でも、次の瞬間、カイの声が届いた。
「アルト! お前が消えて終わるやつは、俺、嫌だからな!」
アルトは目を見開いた。
まるで、カイが心を読んだみたいだった。
ミリアの声。
「誰か一人が消えて成立する平穏を、本人同意なしに平穏とは記録しません」
エリアナ。
「孤独な音は、孤独なままでは砕けます。砕けさせてはいけません」
リゼ。
「アルトさん。あなたが存在することは、誰かがあなたを利用してよい理由にはなりません」
声が、届く。
遠いけれど、届く。
王の鐘の呼び声より、ずっと細い。
でも、切れない。
アルトは左腕を少しだけ引いた。
ほんのわずか。
黒蔦がそれを押し戻そうとする。
室長が静かに言う。
「君は優しい。だから、皆を守りたいはずです」
その言葉は、やさしい形をしていた。
でも、冷たい。
アルトは知っている。
優しさを鍵にしようとしている。
怖さを同意にしようとしたように。
寒さを安定にしたように。
声のなさを保管にしたように。
今度は、守りたい気持ちを承認にしようとしている。
違う。
守りたい。
でも、消えたくない。
皆を助けたい。
でも、王の鐘にはなりたくない。
その二つは、同時にあっていいはずだ。
アルトは指を動かした。
石台の上ではなく、今度は自分の黒布の端を掴む。
力は弱い。
でも、少しだけ布がずれた。
喉に冷たい空気が触れる。
痛い。
声はまだ出ない。
でも、息は少し通る。
アルトはかすかに唇を動かした。
「……ぼ……」
音にならない。
室長がわずかに近づく。
「発声は不要です。反応だけで足ります」
アルトは首を横に振ろうとした。
少ししか動かない。
でも、動いた。
反応だけで足りる。
その言葉が嫌だった。
僕は反応だけじゃない。
アルトは白布の上に指を走らせた。
呼ばれている。
でも。
僕。
行きたくない。
その続きを、書きたい。
帰りたい。
でも、まだ指が動かない。
黒蔦が強く締める。
王の鐘の白い線が銀環へ伸びてくる。
その瞬間、外側から強い声が届いた。
リゼの声。
「アルトさん。本人意思を確認します。あなたは王の鐘へ行きたいですか」
問い。
命令ではない。
誘導ではない。
確認。
アルトの胸が震える。
行きたいか。
答えはある。
行きたくない。
そして。
帰りたい。
アルトは黒布をもう少しずらした。
喉が裂けるように痛い。
声は掠れる。
音になったのかもわからない。
でも、息に言葉を乗せた。
「……かえ……」
室長が動いた。
黒蔦が口元へ戻ろうとする。
だが、その前に、銀色の文字が白布に浮かぶ。
かえりたい。
遠く、外側で誰かが息を呑んだ気がした。
カイかもしれない。
ミリアかもしれない。
リゼかもしれない。
アルトはそのまま意識を手放しそうになった。
でも、まだ。
もう一つ。
書かなければいけない。
銀環が王の鐘へ引かれる。
エルディア・レインフォード。
正名確認。
王統接続。
アルト・レインフォード。
隠称。
母の声。
朝に残る小さな音。
カイの声。
アルト。
リゼの声。
アルトさん。
ミリアの声。
アルトさんの言葉を勝手に完成させない。
アルトは震える指で、白布にもう一つ書いた。
アルト。
その文字は小さかった。
でも、強かった。
王の鐘の振動が一瞬止まる。
室長の声が低くなる。
「隠称を優先しますか」
アルトは答えられない。
でも、指が動く。
僕。
アルト。
帰りたい。
黒蔦が銀色の文字を覆おうとする。
その時、外側から青い記録線が深部まで届いた。
学園の声。
たくさんの名前。
現在地。
本人意思。
温かい食事。
寮の点呼。
訓練場の確認。
教室の窓。
それらが、王の鐘の冷たい呼び声の隙間へ流れ込む。
カイの声が、ひときわはっきり届いた。
「アルト! 帰りたいって聞いた! 帰ってこい! でも、走らなくていい! 俺たちが行く!」
ミリア。
「“かえりたい”“アルト”を確認。本人意思として記録します」
リゼ。
「確認しました。アルトさん。あなたを迎えに行きます」
迎えに行く。
その言葉で、アルトの身体から少しだけ力が抜けた。
王の鐘に行かなくてもいい。
自分で歩けなくても、声が出なくても、行きたくないと言っていい。
帰りたいと言っていい。
迎えに来てもらっていい。
アルトは、目を閉じかけた。
その時、白布児記録の箱から、また紙が一枚滑り落ちた。
古い筆跡。
震えた、でも丁寧な字。
アルトの視界の端に、文字が映る。
この子を――
そこで黒蔦が紙を覆った。
続きは見えない。
でも、胸の奥が反応する。
母の記録。
たぶん、そこにある。
自分の名前の理由も。
王宮がなぜ自分を呼ぶのかも。
白鐘がなぜ禁じたのかも。
全部、この奥にある。
室長が言った。
「では、正名記録を開示します」
白布児記録の箱が、黒蔦に包まれて王の鐘の前へ運ばれる。
エルディア・レインフォード。
その名が、黒い文字で大きく浮かぶ。
アルトの銀環が、冷たく、深く震えた。
外側の声がまた遠くなる。
それでも、最後にリゼの声だけが細く届いた。
「出生名を確認しても、本人が応答する名前を上書きしません」
アルトはその言葉を握った。
エルディア。
アルト。
どちらが僕なのか。
まだわからない。
でも、今、確かにわかることがある。
僕は、王の鐘になりたくない。
僕は、帰りたい。
僕は、アルトと呼ばれたい。
王の鐘の前で、銀環がまた呼ばれる。
呼ばれている。
でも。
アルトは、行きたくなかった。




