第11章 第7話:声のない保管室
最初に感じたのは、寒さだった。
痛みではない。
熱でもない。
けれど、身体の内側に薄い氷を流し込まれたような冷たさがあった。
左手首が重い。
布の下にある銀環が、いつもより深く沈んでいる。
熱を持たない。
鳴らない。
ただ冷たく、そこにある。
アルト・レインフォードは、目を開けた。
暗い。
最初は、何も見えなかった。
天井があるのか、壁があるのか、自分が寝かされているのか座らされているのかもわからない。
まぶたを動かすだけで、黒い布が視界の端をかすめる。
口元にも布がある。
柔らかいのに、重い。
息はできる。
けれど、声は出ない。
「……」
声を出そうとした瞬間、喉の奥で音が消えた。
叫んだのか、息を吐いただけなのか、自分でもわからない。
声が、口の中で黒い布に吸われる。
アルトはもう一度、声を出そうとした。
リゼさん。
その名前を呼ぼうとした。
唇は動いた。
しかし、音は外へ出なかった。
喉が震えないのではない。
震えている。
でも、震えた瞬間に黒布がそれを飲み込む。
声が、布の中でなくなる。
アルトは息を荒くした。
痛みなし。
熱なし。
冷え強。
声、出ない。
現在地、不明。
名前、アルト・レインフォード。
頭の中で、いつもの状態報告を組み立てる。
声にはならない。
でも、組み立てる。
組み立てなければ、自分がどこにいるのか、何者なのか、布に塗りつぶされてしまいそうだった。
身体を動かそうとした。
右手の指。
動く。
左手の指。
少し遅いが、動く。
足。
重い。
でも、爪先は動かせる。
縛られてはいない。
けれど、身体全体に冷たい膜がかかっているようで、素早くは動けない。
アルトは、自分が何か硬い床の上に横たわっていることに気づいた。
寝台ではない。
石か、金属か。
冷たい。
背中から冷えが入ってくる。
周囲には、棚のような影が並んでいた。
低い灯りがどこかにあるのか、暗闇に目が慣れてくると、少しずつ形が見え始める。
封印棚。
古い箱。
白い布を掛けられた細長い台。
黒い蔦の刻線が、床と壁を這っている。
その黒い線は、ときどきアルトの左手首の銀環と同じ呼吸をするように、冷たく光った。
ここは、部屋ではない。
保管室だ。
誰かが使うための部屋ではなく、何かを置くための場所。
物を並べ、封じ、記録し、忘れないように閉じ込める場所。
アルトはそう感じた。
その時、近くの壁に貼られた札が目に入った。
文字はかすれている。
けれど、いくつか読めた。
第二保管層。
冷却安定化。
銀環反応対象。
対象。
その言葉を見た瞬間、左手首が強く冷えた。
痛みなし。
熱なし。
冷え強。
声なし。
対象ではない。
アルトは口の中で言った。
声は出ない。
それでも、言った。
僕は対象ではありません。
アルトです。
僕は、アルト・レインフォードです。
左手首の銀環が、小さく震えた。
音はない。
でも、震えはある。
それは、第10章で鐘塔が鳴らなかった時に似ていた。
鳴らない鐘。
みんなには聞こえず、自分だけに届く振動。
次の鐘で、彼は歩く。
歩いた。
自分の足で。
でも、自分の意思ではなかった。
夜間休憩室。
リゼさんの声。
カイさんの名前呼び。
ミリアさんの確認。
エリアナさんの香草。
開いた扉。
黒布。
馬車。
保存食の欠け。
青いリボン。
思い出す。
思い出せる。
完全には奪われていない。
アルトは息を吸った。
黒布の匂いは冷たい。
紙の匂いもする。
王都文書院系統の硬い紙。
保管庫の乾いた空気。
そして、かすかに別の匂い。
甘くて、苦い。
セリーネ草。
エリアナさんの香草。
ほんの少しだけ、残っている。
アルトは指を動かした。
右手を床へ這わせる。
冷たい床。
指先に、何か小さなものが触れた。
ざらりとした感触。
焼き菓子の欠け。
カイさんの保存食。
歩きそうになったら名前で呼ぶ用。
馬車の中で、カイさんが投げたもの。
自分は、それに触れようとした。
黒布が邪魔をした。
けれど、今、その欠けがここにある。
膝の近くに落ちている。
アルトは指先を伸ばした。
届く。
かすかに触れる。
林檎と杏の甘い匂い。
小麦と卵と乳。
いつもカイさんが得意げに出す保存食。
名前が長くて、時々ミリアさんに笑われて、リゼさんが真面目に「適切です」と言うもの。
それが、ここにある。
保管室の中に。
アルトは焼き菓子の欠けに指を触れたまま、ゆっくり息を吐いた。
孤独ではない。
声はない。
場所はわからない。
身体は冷たい。
でも、孤独ではない。
頭の中で、近くにいてほしい人の名前を数える。
リゼさん。
ミリアさん。
カイさん。
エリアナさん。
学園長。
ユリウス先輩。
エレオノーラ先輩。
クラウスさん。
ロウ先生。
名前を数えると、黒布の冷たさが少しだけ遠くなる。
アルトは右手の指で、床をなぞった。
何かを書けないか。
床は石のように硬い。
指だけでは傷がつかない。
でも、黒蔦の線が這う場所は、薄い霜のような冷えが残っている。
そこを指でなぞると、冷気が少しだけ白く乱れた。
文字になるかもしれない。
アルトは指先を動かした。
ここ。
そう書こうとした。
こ。
指が震える。
黒い蔦が、書いた線をすぐに舐め取ろうとする。
アルトは奥歯を噛んだ。
声は出ない。
でも、指は動く。
こ。
こ。
ここ。
書いた瞬間、左手首の銀環が冷たく震えた。
床の文字が、細い銀色に光った。
次の瞬間、黒蔦がそれを覆う。
消えた。
でも、完全には消えなかった。
床に白い残り香のような線が残っている。
届いたかどうかはわからない。
それでも、アルトは息を吸った。
ここ。
僕は、ここにいます。
紙の上で完了していません。
保管されて終わっていません。
ここにいます。
しばらくして、遠くで声がした気がした。
水の底から聞こえるような声。
黒布と白布と石壁の向こう。
遠い。
でも、知っている。
アルト。
カイさんの声。
アルトは目を開けた。
暗い天井。
黒い布。
冷たい銀環。
でも、声があった。
届いているのか、思い出しているだけなのかはわからない。
けれど、カイさんの声がした。
アルト。
俺だ、カイ。
ここにいる。
お前は保管対象じゃない。
アルトだ。
左手首が震える。
強い冷えの中に、細い温度が混じったような気がした。
アルトは口を動かす。
カイさん。
声は出ない。
でも、唇は動く。
続いて、別の声。
怖いなら、怖いままでいいわ。
声が出なくても、状態は消えない。
ミリアさん。
アルトは瞬きをした。
怖い。
寒い。
声が出ない。
それを消さなくていい。
書いていい。
伝えていい。
また別の匂いがした。
甘くて、苦い。
エリアナさんの声が、遠くで響く。
これは私の香草袋です。
あなたを動かす鍵ではありません。
戻るための匂いです。
鍵ではない。
動かすためではない。
戻るため。
アルトは焼き菓子の欠けから、少し離れた場所に指を置いた。
今度は、さむい、と書こうとした。
さ。
指が冷たくて動きにくい。
む。
黒蔦が這い寄る。
い。
最後の線を書いた時、左手首が強く冷えた。
息が止まりそうになる。
寒い。
寒い。
寒い。
冷却安定化。
違う。
これは安定ではない。
寒い。
状態異常。
リゼさんなら、そう言ってくれる気がした。
アルトは床の文字を指で押さえるようにして、心の中で言った。
さむい。
黒蔦が文字を消そうとする。
だが、銀色の線が一瞬だけ浮き、どこかへ流れた。
届いたかもしれない。
届いていなくても、書いた。
書いたことは消えない。
黒布の奥で、アルトは息を吐いた。
すると、今度はリゼさんの声が聞こえた。
はっきりではない。
壁の奥から、何枚もの布越しに届くような声。
でも、言葉の形はわかった。
あなたの寒さは、安定ではありません。
状態異常として記録しています。
アルトは目を閉じた。
リゼさん。
届いた。
届いたのかもしれない。
声は出ない。
でも、指で書いた「さむい」は、リゼさんに届いたのかもしれない。
胸の奥に、冷えとは違う震えが広がった。
泣きたいと思った。
でも、涙は出ない。
身体が冷えすぎているのかもしれない。
それでも、泣きたいという感情はある。
感情は消えていない。
アルトは状態報告を頭の中で続ける。
痛みなし。
熱なし。
冷え強。
声なし。
怖い。
泣きたい。
現在地、不明。
でも、ここ。
名前、アルト・レインフォード。
孤独ではない。
黒布が口元に貼りついている。
声を出すたびに、布が少しだけ冷たく締まる。
声を奪う布。
白布ではない。
黒布。
でも、周囲の棚には白布が掛けられている。
白い布。
礼拝堂跡で見た白布とは違う。
守るためではなく、隠すための白。
その裾に、黒い刺繍がある。
白鐘と蔦を歪めた紋様。
アルトはそれを見て、エリアナさんの言葉を思い出す。
白は、守る色にも、隠す色にもなります。
ここにある白は、隠す白だ。
声を外へ出さない白。
自分を、保管物として棚の奥に置く白。
でも、外にはエリアナさんがいる。
香草袋を、彼女自身のものとして持っている。
置かない。
切り離さない。
道具にしない。
そのことが、なぜかとても大事だった。
アルトはまた指を動かす。
こえ。
声。
声がない。
声が出ない。
でも、聞いている人がいる。
聞こうとしている人がいる。
なら、声が完全に消えたわけではない。
こ。
え。
床の冷気が震える。
黒蔦がすぐに寄ってくる。
アルトは必死に指で線をなぞる。
こえ。
その文字が銀色に光り、また黒に覆われる。
その時、外から声が聞こえた。
アルトさん。
声が出ない、または声が届かない状態を確認しました。
あなたの声を外部確認不要とは扱いません。
リゼさんの声。
アルトは、黒布の奥で口を動かした。
ありがとうございます。
声は出ない。
でも、言葉は自分の中にある。
外部確認不要。
違う。
僕には、確認してほしいことがある。
痛み。
熱。
冷え。
声。
怖さ。
現在地。
名前。
孤独ではないこと。
確認してほしい。
アルトは、少し身体を起こそうとした。
腕に力を入れる。
しかし、左手首の銀環が冷たく沈み、身体が重くなる。
床へ戻される。
黒蔦が壁から床へ、床から銀環へ細く伸びている。
それは紐ではない。
でも、繋がっている。
銀環を、部屋の一部にしようとしているようだった。
アルトは息を呑む。
僕を、扉に使おうとしている。
保管室のどこかで、低い音がした。
鐘ではない。
機構の音。
扉の奥で、何かが開閉されるような音。
そのたびに、銀環が冷える。
アルトは床に手をつく。
自分が、この部屋の鍵にされているような感覚。
反応すれば扉が開く。
冷えれば閉じる。
声を奪われれば安定する。
そんな扱いをされているようだった。
違う。
僕は鍵ではありません。
僕は反応ではありません。
僕は、僕です。
アルトは、今度はその文字を書こうとした。
ぼく。
最初の「ぼ」を書くのが難しい。
指が震える。
丸が崩れる。
黒蔦が早い。
それでも、書く。
ぼ。
く。
書いた瞬間、銀環が強く冷えた。
胸の奥まで凍る。
黒布が口元を締める。
声を出すな。
反応するな。
保管されていろ。
そう命令されているような冷え。
アルトは焼き菓子の欠けに指を伸ばした。
触れる。
ざらりとした感触。
カイさんの保存食。
アルト。
俺だ、カイ。
お前はアルトだ。
その声が、記憶ではなく、外から届いた気がした。
アルトは「ぼく」の文字を指で押さえた。
黒蔦が消そうとする。
銀環が冷える。
けれど、指を離さない。
ぼく。
対象ではない。
保管物ではない。
銀環反応ではない。
ぼく。
その文字が銀色に光った。
今までで一番強く。
黒蔦が一瞬、後退する。
遠くで、誰かが息を呑む気配がした。
外に届いたのだろうか。
リゼさんが見ただろうか。
ミリアさんが記録しただろうか。
カイさんが呼んだだろうか。
エリアナさんが香草袋を握っただろうか。
アルトは目を閉じた。
頭の中で、声が重なる。
あなたは“ぼく”です。
アルト・レインフォードです。
本人意思を確認し続けます。
リゼさん。
アルトは口の中で名前を呼ぶ。
声は出ない。
でも、届いた。
少なくとも、自分には届いた。
その時、天井の白布が揺れた。
黒い刺繍が光る。
保管室の奥、棚の間から、別の気配が現れた。
人ではない。
声でもない。
記録の気配。
紙が擦れる音。
誰かが台帳をめくるような音。
黒い蔦が床の文字へ集まり、アルトが書いた「ここ」「さむい」「こえ」「ぼく」を一つずつ消そうとする。
正式完了。
保護継続。
外部干渉禁止。
対象反応安定化優先。
黒い文字が床に浮かぶ。
アルトは、それを見た。
対象反応。
また、その言葉。
左手首が冷える。
しかし、今度は完全には飲まれなかった。
外から声が聞こえたからだ。
アルト!
臨時調整室が何を言っても、お前はアルトだ!
カイさんの声。
次に、ミリアさん。
寒さを安定とは呼ばないわ。
声がないことを完了とは呼ばない。
エリアナさん。
白鐘は、あなたを消す鐘ではありません。
リゼさん。
アルトさんは対象ではありません。
黒い文字が揺れた。
対象反応、という言葉の上に、アルトが書いた「ぼく」の銀色が走る。
黒い文字の一部が裂ける。
保管室の空気がわずかに変わった。
冷えはまだ強い。
声は出ない。
でも、布の向こうで何かが緩んだ。
アルトは、右手をさらに動かした。
今度は、床の空いた場所に短く書く。
ひとりではない。
長い。
難しい。
指が途中で止まる。
黒蔦がすぐに寄ってくる。
ひと。
り。
では。
ない。
文字は歪んだ。
読めるかどうかわからない。
でも、書く。
この言葉だけは、書きたかった。
黒布の中で、何度も自分に言っていた言葉。
馬車の中でも、消えかける意識で言った言葉。
僕は、孤独ではありません。
今は声がない。
だから、床に書く。
ひとりではない。
書き終えた瞬間、銀環が冷える。
強い。
身体が震える。
黒蔦が一斉に文字へ向かう。
消される。
消される前に、届け。
アルトは心の中で叫んだ。
声はない。
それでも叫んだ。
届け。
リゼさん。
ミリアさん。
カイさん。
エリアナさん。
僕はここにいます。
寒いです。
声が出ません。
でも、僕です。
ひとりではありません。
床の文字が銀色に光った。
今までで一番長く。
保管室の壁に掛けられた白布が震える。
黒い刺繍が軋むように歪む。
どこか遠くで、扉が鳴った。
鐘ではない。
扉の表面へ、文字が出る音。
そんな音。
アルトは目を開けた。
黒布の隙間から、銀色の光がほんの少しだけ漏れている。
床の文字は、黒蔦に覆われながらも、完全には消えていない。
ひとりではない。
その最後の「ない」だけが、強く残っている。
アルトは焼き菓子の欠けを指先で包むように触れた。
力は入らない。
でも、触れている。
そこにある。
香草の匂いも、かすかにある。
外の声は遠い。
でも、ある。
アルトは頭の中で、もう一度状態報告をした。
痛みなし。
熱なし。
冷え強。
声なし。
怖い。
寒い。
でも、僕はいます。
僕は、アルト・レインフォードです。
ひとりではありません。
その時、保管室の奥で、重い箱が軋んだ。
アルトは視線だけを動かす。
暗い棚の下段。
白布を掛けられた古い箱。
灰色の封箱。
その一つの札が、黒蔦の冷気に触れてわずかに揺れていた。
文字は古く、かすれている。
けれど、アルトの目は一部を拾った。
白布児記録。
リ――
その先は布に隠れて読めない。
アルトの左手首が、冷えとは違う震えを返した。
白布の子ども。
鳴らさぬ谷。
リゼさんの灰銀一七。
エリアナさんが言っていた、リナかリネのような名前。
ここに、何かがある。
でも、今のアルトには動けない。
声も出ない。
ただ、見ることだけができる。
黒蔦が再び床を這い、アルトの文字を消そうとする。
アルトは、最後の力で指を動かした。
ここ。
もう一度。
ここ。
今度は短く、強く。
自分の現在地として。
床に書いた「ここ」が銀色に光った。
その光が、扉の方へ細く走る。
届く。
届いてほしい。
アルトは目を閉じた。
意識が沈みかける。
冷えが身体を包む。
黒布が声を吸う。
それでも、指先は焼き菓子の欠けに触れていた。
香草の匂いは、まだ消えていなかった。
遠くで、誰かが自分の名前を呼んでいる。
アルト。
その声に、アルトは心の中で答えた。
はい。
声はない。
でも、答えた。
僕は、ここにいます。




