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灰銀の戦乙女は、制服を知らない  作者: 最後に残った形


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第11章 第6話:鐘を鳴らすな


 鐘を鳴らすな。


 北棟第二保管層の扉には、その文字が白く浮かんでいた。


 黒い膜の下からにじみ出るような、古い文字。


 王宮の現行書式ではない。


 旧王国語に近く、さらに古い辺境礼拝堂の刻字に似ている。


 白鐘北礼拝堂跡。


 鳴らさぬ谷。


 そこで見た白い布と封じられた鐘の気配が、扉の前に戻ってきていた。


 しかし、ここは礼拝堂ではない。


 王都旧封印管理倉庫群。


 北棟第二保管層。


 危険文書や封印具を保管するための地下区画。


 その扉には、王宮の黒い文字も重なっている。


 王宮保護移送、正式完了。


 対象者、到着済。


 外部確認不要。


 白い警告と、黒い完了記録。


 二つの言葉が、一枚の扉の上で重なっていた。


 リゼ・グレイスは、扉の前に立ったまま動かなかった。


 灰銀の髪を結ぶ青いリボンが、朝の冷たい風にわずかに揺れる。


 右腕には黒布と白布の冷えがまだ残っている。


 しかし、彼女の視線は扉の文字から外れない。


 鐘を鳴らすな。


 その言葉が出た直後、扉の奥で銀環反応が強く冷えた。


 クラウス・ヴァイゼルの測定具は沈み、アルト・レインフォードが中にいる可能性をさらに強めた。


 だが、同時に明らかになったことがある。


 無理に開けてはいけない。


 鳴らしてはいけない。


 アルトの銀環を鍵にして扉を開ければ、何かが起動する。


 それは救出ではなく、罠かもしれない。


 カイ・ロックハートは扉を睨んでいた。


 額には汗。


 走って伝達を終えたばかりで、息はまだ少し荒い。


 だが、彼は叫ばない。


 拳も振り上げない。


 ただ、唇を噛みそうになって、やめた。


「鐘を鳴らすなって、アルトの銀環を鳴らすなってことですか」


 クラウスは慎重に答える。


「その可能性があります。ただし、それだけとは限りません」


「それだけじゃない?」


「白鐘に関わる禁句は、単純な禁止ではないことが多い。鐘を鳴らすな、という言葉は、物理的な鐘だけでなく、反応を強制的に起こすな、という意味を含む可能性があります」


 カイは扉を見る。


「じゃあ、アルトを無理に反応させるなってことですね」


 リゼが即答した。


「はい。アルトさんを鍵にしません」


 扉の奥で、銀色が微かに揺れた。


 クラウスが測定具を確認する。


「銀環系反応、微弱上昇。冷却は高いままですが、急激な悪化はありません」


 ミリア・ファルネーゼが記録板を抱えながら、静かに言った。


「今の言葉に反応した可能性があるわね」


 リゼは扉へ向けて言う。


「アルトさん。聞こえるかは不明です。あなたを鍵にしません。あなたの銀環を鳴らして開けません。あなたの反応は情報です。判決ではありません」


 黒い膜が一度だけ震えた。


 正式完了の文字が歪む。


 その下で、白い文字がまだ残っている。


 鐘を鳴らすな。


 エリアナ・ルクス・ヴェルグラントは、その文字を見つめていた。


 彼女の手には香草袋。


 セリーネ草の乾いた甘さと、焼いた時に出る苦味を含んだ香りが、北棟前の冷たい空気に細く漂う。


 エリアナは香草袋を扉へ置かない。


 自分のものとして持っている。


 道具として切り離さない。


 それは、ここまで何度も確認してきたことだった。


 リゼが彼女を見る。


「エリアナさん。白鐘の言葉について、あなたの知る範囲を共有してください」


 エリアナは頷いた。


「本人意思として共有します。ただし、私の血を鍵として使わないこと。旧ヴェルグラント王家の名を承認印として使わないこと。香草袋を私から切り離さないこと」


 リゼはすぐに答える。


「確認しました。使用しません」


 ミリアが記録する。


 エリアナ本人意思。


 白鐘知識共有。


 血、王家名、香草袋を鍵・承認として使用しない。


 ロウ教師が低く言う。


「よし。知識だけを扱え。人を道具にするな」


 エリアナはもう一度頷き、扉の文字へ視線を戻した。


「私が知っているのは、断片です」


 彼女の声は静かだった。


 しかし、そこには震えと怒りの両方がある。


「母の手記、故国に残っていた歌、白鐘北礼拝堂跡の言い伝え。どれも完全ではありません」


 クラウスが頷く。


「断片で構いません」


 エリアナは深く息を吸った。


「鐘を鳴らしてはいけない。白い朝が割れるから。扉へ走ってはいけない。名を呼ぶ声が、名を奪うから」


 その言葉を聞いた瞬間、北棟扉の黒膜が微かに波打った。


 銀色の光が一瞬だけ奥で揺れる。


 カイが扉へ向きかけるが、ミリアが手で制した。


「待って。今は重ねない」


 カイは頷いた。


 エリアナは続ける。


「王の血で扉を叩いてはいけない。扉を開けるのは、王の血ではない。扉を開けるのは、孤独な音。孤独な音はよく響く。けれど、孤独なままでは砕ける」


 リゼは以前、鳴らさぬ谷へ向かう前にもその言葉を聞いた。


 その時は、アルトを孤独な音にしないと決めた。


 今、その決意は扉の前で試されている。


 扉の奥にいるかもしれないアルトは、声を奪われ、冷やされ、第二保管層の機構に組み込まれかけている。


 孤独な音として響かせれば、扉は開くかもしれない。


 だが、その音は砕ける。


 リゼは言った。


「孤独な音を鳴らすことを拒否します」


 扉の奥で、銀色が強く揺れた。


 クラウスが測定具を見て言う。


「反応あり。冷却、わずかに低下」


 カイが息を吐く。


「よし」


 エリアナは香草袋を握る。


「白鐘の本来手順は、おそらく“開けるために鳴らす”ものではありません」


 クラウスが問う。


「では、何のために?」


「鳴ってしまうものを、一人にしないため」


 その言葉に、北棟前の空気が止まった。


 エリアナは続ける。


「孤独な音はよく響く。だから、扉も鐘も、王の血も、それを利用しようとする。でも、孤独なまま響かせれば砕ける。だから白鐘は、たぶん、響かせるためではなく、響きすぎないようにするための手順だったのだと思います」


 ミリアが静かに整理する。


「つまり、本来は保護のための抑制」


「はい」


 エリアナは頷く。


「でも、ここでは反転しています。抑制ではなく、遮断。静けさではなく、声の剥奪。保護ではなく、保管」


 リゼが扉を見る。


 王宮保護移送、正式完了。


 外部確認不要。


 冷却安定化処理。


 それらの言葉が、黒い蔦のようにアルトを覆っている。


 白鐘の本来の静けさを、敵は「聞こえないこと」に変えた。


 鳴らさないことを、知らせないことへ。


 守る白布を、声を奪う白布へ。


 保護扉を、確認を遠ざける扉へ。


 クラウスが測定具を持ち替えた。


「扉は二層構造です。内側に白鐘式消音布の旧式層。外側に黒蔦補助層。問題は、外側の黒蔦補助層が内側の白鐘層を利用していることです」


 ユリウスが問う。


「黒蔦層だけを剥がせますか」


「理論上は可能です。ただし、黒蔦層は白鐘層に絡んでいます。無理に剥がすと、内側の抑制層ごと破れて、銀環が鳴る可能性がある」


 カイがすぐに言う。


「鳴らしちゃ駄目なんですよね」


「はい」


 ロウ教師が低く問う。


「なら、どう剥がす」


 クラウスはエリアナを見る。


「白鐘層に、“これは孤独な音ではない”と認識させる必要があるかもしれません」


 ミリアが眉を寄せる。


「認識させる?」


「術式的な表現です。白鐘層は、孤独な強反応を抑えるために存在していた可能性がある。黒蔦層はアルト君の銀環を孤独な音として扱い、外部の声を遮断している。ならば、外部から関係の声を届け、孤独ではないと示せば、白鐘層は黒蔦側の命令に従わなくなるかもしれない」


 カイが顔を上げる。


「関係の声って、名前を呼ぶことですか」


 ミリアが答える。


「名前だけでは足りないわ」


 リゼも頷く。


「本人確認会話です」


 カイは理解したように息を吸った。


 第10章で作った手順。


 合言葉だけでは足りない。


 名前だけでは足りない。


 関係の中の確認。


 現在地。


 目的。


 同席者。


 本人意思。


 感情。


 痛み、熱、冷え、声。


 それらを組み合わせて、偽造できない会話にする。


 ミリアが言う。


「ただ叫ぶのではなく、順番を作りましょう。重ねすぎると吸われる。途切れすぎると孤独になる。届く長さで、関係を示す」


 エリアナが頷く。


「白鐘の言葉にも、順番があったのかもしれません。鐘を鳴らすな。扉へ走るな。王の血で叩くな。孤独な音を一人にするな」


 リゼが言う。


「禁止ではなく、手順」


 クラウスは測定具を置き、記録紙を広げる。


「仮説を立てます。第一、銀環を鳴らさない。第二、扉を物理破壊しない。第三、血や称号や印を鍵にしない。第四、名前を本人から切り離して使わない。第五、外部から複数の関係声を順に届ける」


 ミリアが記録する。


 白鐘本来手順仮説。


 鳴らさない。


 走らない。


 血で叩かない。


 名前を鍵にしない。


 孤独な音を一人にしない。


 リゼは扉の前で、少しだけ目を伏せた。


 アルトは第10章で何度も言った。


 僕は、一人で行きません。


 僕の足は、僕が確認して使います。


 僕の本人意思は、僕から確認してください。


 今、彼は声を奪われている。


 しかし、だからこそ外側が確認を続ける。


 本人の代わりに決めるのではない。


 本人が戻れる場所を保つために。


 カイが手を挙げた。


「俺、名前と食べ物の担当でいいですか」


 ミリアが少しだけ目を細める。


「食べ物?」


「保存食、もうほとんどないけど。アルトが触ったやつ、届いた。俺が名前を呼ぶ時、保存食の名前も言えば、関係の声になるかなって」


 リゼは真面目に考えた。


「有効な可能性があります。カイさんの保存食名称は、アルトさんとの直近の関係記録です」


 カイは少し驚く。


「そうなんですか」


「はい」


 ミリアが頷いた。


「“歩きそうになったら名前で呼ぶ用”。あれは、ただの冗談ではないわ。アルトさんが自分を戻すための記憶になっている」


 カイは喉を詰まらせた。


 それでも、頷いた。


「じゃあ、言う」


 エリアナが言う。


「私は香草を届けます。ただし、扉の鍵としてではなく、戻る匂いとして」


 ミリアが続ける。


「私は感情と現在の関係を確認するわ。怖い、寒い、声がない。それを消さない」


 リゼが言う。


「私は本人意思と状態確認を行います」


 クラウスが補足する。


「私は反応測定と黒蔦層の変化を見ます。抑制が強まれば止める」


 オルド・ハイマンが一歩前に出た。


「私は、監察局補助室の偽署名否認を再度読み上げます」


 カイがオルドを見る。


 警戒はまだある。


「それ、アルトに届くんですか」


 オルドは答える。


「わかりません。ですが、私の署名が彼を閉じ込める層に使われたなら、私の否認もまた、扉へ届く必要があります」


 リゼは頷いた。


「行ってください。ただし、分類語を使わないでください」


 オルドは一瞬、言葉を止める。


 それから頷いた。


「承知しました」


 ロウ教師が全体を見た。


「始める前に確認する。これは扉を開けるための儀式ではない。中の少年を道具にしないための確認だ」


 リゼが頷く。


「はい」


 ミリアも。


「確認しました」


 カイも。


「アルトを鍵にしない」


 エリアナも。


「白鐘を、人を消すために使わせません」


 第一回の関係声確認が始まった。


 北棟第二保管層の扉前。


 黒膜。


 白い文字。


 鐘を鳴らすな。


 その下で、リゼが最初に声を置く。


「アルトさん。聞こえるかは不明です。状態確認を行います。痛み、熱、冷え、声。あなたは“ここ”“さむい”“こえ”と伝えました。私たちはそれを記録しています。あなたを保管対象として扱いません。あなたを鍵にしません」


 少し間。


 カイが続ける。


「アルト。俺だ、カイ。歩きそうになったら名前で呼ぶ用、届いたよな。お前、触ったよな。俺はまた呼ぶ。アルト」


 扉の奥で、銀色がかすかに揺れる。


 クラウスが小声で言う。


「反応あり。継続」


 ミリアが続ける。


「アルトさん。怖いなら怖いままでいいわ。寒いなら寒いままでいい。声が出ないことも、あなたの状態としてここにある。私たちは、完了という言葉に従っていないわ」


 エリアナが香草袋を胸の高さへ持ち上げる。


「これは私の香草袋です。あなたを動かす鍵ではありません。戻るための匂いです。白鐘は、あなたを一人で鳴らすためのものではありません」


 黒膜の端が白く浮く。


 銀色が少し強まる。


 オルドが一歩前へ出る。


 声は硬い。


 だが、逃げていない。


「アルト・レインフォードさん。私はオルド・ハイマンです。北棟第二保管層封印札に記された私名義の署名は、私本人の署名ではありません。私は、あなたの収容を承認していません。あなたの本人意思を確認していません。あなたを分類ではなく、アルト・レインフォードさんとして扱うべきでした」


 カイが少しだけ眉を動かした。


 リゼもオルドを見る。


 今の言葉には、「鍵」も「対象」もなかった。


 扉の黒膜が強く波打つ。


 正式完了の文字が歪む。


 その下から、銀色の線が走った。


 点ではない。


 細い線。


 それは、扉の中央で小さな形を作る。


 完全な文字ではない。


 だが、ミリアが気づいた。


「“き”……?」


 クラウスが見る。


 銀色の線が揺れながら、もう一つ形を作る。


 こ。


 きこ。


 カイが息を呑む。


「聞こ……?」


 リゼはすぐに言った。


「アルトさん。聞こえる、の一部と確認します。無理に続けなくていいです。冷えが強い場合は反応を止めてください。私たちは続けます」


 銀色は一度揺れ、消えた。


 クラウスが測定具を確認する。


「冷却反応、軽度低下。黒蔦層、外側で剥離反応あり」


 全員が息を止める。


 扉の表面、黒膜の端に、小さな亀裂が入っていた。


 黒い蔦の線が、ほんの少し浮き上がっている。


 完全ではない。


 だが、絡みついていたものが一部、緩んだ。


 エリアナが静かに言う。


「届きました」


 カイが震える声で言う。


「聞こえたんだ」


 ミリアがすぐに補う。


「断定しすぎない。でも、反応はある」


 カイは頷く。


「うん。反応はある」


 リゼは扉を見つめた。


 黒蔦が剥がれかけている。


 白鐘の文字は消えていない。


 鐘を鳴らすな。


 それは今、罠ではなく警告として残っているように見えた。


 黒蔦層だけが、ほんの少し緩んだ。


 リゼは言った。


「黒蔦補助層の剥離を確認。白鐘警告は維持。手順を継続します」


 クラウスが頷く。


「ただし、急がないでください。黒蔦層が反発する可能性があります」


「確認しました」


 その時、封印管理室枠が、かすかに光った。


 扉右側の三系統承認板。


 監察局補助室枠は、オルドの否認文により弱く明滅している。


 臨時調整室枠は黒いまま。


 そして、これまで沈黙していた封印管理室枠が、薄く白く光った。


 ユリウスが顔を上げる。


「封印管理室から返答?」


 管理棟の方から連絡役が走ってくる。


 教師連絡員と倉庫群職員の二人一組。


 息を切らしているが、伝達文は崩さない。


「封印管理室長代理より返答。北棟第二保管層への生体収容承認記録なし。銀環反応者収容承認なし。臨時調整室からの一括処理通知を受領したのみ。本人確認記録なし」


 リゼの目が鋭くなる。


「封印管理室は承認していない」


 連絡役が復唱する。


「生体収容承認なし。銀環反応者収容承認なし。一括処理通知受領のみ。本人確認記録なし」


 ユリウスが即座に記録する。


 封印管理室承認否認。


 リゼは扉を見る。


 三系統のうち二つが崩れた。


 監察局補助室、本人署名否認。


 封印管理室、生体収容承認なし。


 残るは臨時調整室。


 名前のない室長印。


 黒い枠。


 臨時調整室枠が、まるでそれに反応するように濃くなった。


 黒蔦が承認板へ走る。


 扉全体の冷気が強まる。


 クラウスが叫ぶ。


「反発です!」


 銀環反応が急に沈む。


 扉の奥で冷えが強まったのがわかる。


 リゼが即座に呼びかける。


「アルトさん。冷却上昇を確認しました。あなたを鳴らしません。現在地は北棟第二保管層。外部にリゼ、ミリアさん、カイさん、エリアナさん、クラウスさん、ロウ先生、ユリウス先輩、オルドさんがいます。あなたは一人ではありません」


 カイが続ける。


「アルト! 臨時調整室が何を言っても、お前はアルトだ!」


 ミリアが言う。


「寒さを安定とは呼ばないわ。声がないことを完了とは呼ばない」


 エリアナが香草袋を近づける。


「白鐘は、あなたを消す鐘ではありません」


 黒蔦の反発がわずかに弱まる。


 だが、臨時調整室枠は黒く光り続けている。


 オルドがその枠を見つめて、声を低くした。


「臨時調整室長印が、自動処理ではなく、現在も有効に反応しています」


 ユリウスが問う。


「誰かが今、動かしているということですか」


「可能性があります」


 ロウ教師が低く言う。


「奥にいるのは、扉だけじゃないな」


 リゼは黒い枠を見る。


 名前のない承認。


 責任のない印。


 だが、動いている。


 誰かが、その印の向こうにいる。


 リゼは扉へ向けて、そしてその向こうにいる誰かへ向けて言った。


「臨時調整室長印による本人意思の上書きを認めません。封印管理室、監察局補助室の承認不成立を確認しました。第二保管層への生体収容は正式ではありません」


 黒い枠が一度、強く光る。


 扉の表面に、新しい黒文字が浮かんだ。


 保護継続。


 外部干渉禁止。


 対象反応安定化優先。


 カイが叫びそうになる。


 だが、ミリアが先に言った。


「違います」


 その声は柔らかくなかった。


「寒いことを安定とは呼びません。声が出ないことを保護とは呼びません」


 エリアナも続ける。


「反応を安定させるために本人を消すなら、それは保護ではありません」


 リゼが言う。


「アルトさんは対象ではありません」


 カイが続ける。


「アルトだ!」


 その瞬間、扉の奥から銀色が強く走った。


 黒文字の一部が裂ける。


 対象反応、という文字が歪み、下から別の線が出る。


 震える銀。


 途切れ途切れ。


 だが、読める。


 ぼく。


 カイの目が大きく開いた。


「アルト……!」


 リゼの喉が震えた。


 しかし、声を崩さない。


「“ぼく”を確認しました。アルトさんの自己表明可能性。記録します」


 ミリアは泣きそうな顔で記録した。


 ぼく。


 扉表面、黒文字下より銀色で表示。


 本人自己表明可能性。


 エリアナが香草袋を胸に当てる。


「あなたは、対象ではありません」


 リゼが扉へ向かって言った。


「はい。あなたは“ぼく”です。アルト・レインフォードです。あなたの本人意思を確認し続けます」


 黒い枠が再び光る。


 しかし、今度は少し弱い。


 クラウスが測定具を見た。


「黒蔦補助層、部分剥離。冷却、高いですが低下傾向。白鐘層は維持されています」


 ロウ教師が短く言う。


「効いているな」


 クラウスが頷く。


「はい。ただし、完全解除にはまだ足りません。臨時調整室枠が残っています」


 オルドが顔を上げる。


「臨時調整室長印の出所を突き止める必要があります」


 ユリウスが頷く。


「王宮側へ直接照会を重ねます。ただし、相手が動いているなら、こちらの連絡も妨害される」


 ミリアが言う。


「人の声の連絡網を増やしましょう。王宮文書だけに頼らない」


 カイがすぐに言う。


「俺、また走ります」


 ロウ教師が見る。


「休め」


「でも」


「休め。次に走るためだ」


 カイは歯を食いしばり、頷いた。


「……はい」


 リゼは扉を見る。


 鐘を鳴らすな。


 その白い文字はまだ残っている。


 黒蔦は剥がれ始めたが、臨時調整室の黒い枠が扉を閉じ続けている。


 奥からは「ぼく」と届いた。


 それだけで、世界が変わったように感じた。


 アルトはまだ、自分を「僕」として持っている。


 対象ではない。


 反応ではない。


 保管物ではない。


 僕。


 その一語が、正式完了の壁にひびを入れた。


 リゼは扉へ向けて、静かに言った。


「アルトさん。あなたの“ぼく”を確認しました。私たちは鐘を鳴らしません。扉へ走りません。血も印も署名も、本人から切り離して使いません。あなたを孤独な音にしません」


 扉の奥で、銀色の光が小さく揺れる。


 黒い膜はまだある。


 冷気もまだ強い。


 けれど、白い警告の下で、銀色は消えなかった。


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