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灰銀の戦乙女は、制服を知らない  作者: 最後に残った形


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158/201

第11章 第1話:正式記録の壁


 王宮の記録では、アルト・レインフォードはもう到着していた。


 王宮保護移送。


 正式完了。


 本人意思確認済。


 移送実施済。


 王都の台帳には、そう書かれている。


 だが、旧北西補給線の夜道には、まだ焼き菓子の欠けが落ちていた。


 香草パンの欠けも。


 黒布の繊維も。


 白布の焦げも。


 そして、アルトの声にならなかった言葉が残っていた。


 僕は、孤独ではありません。


 その唇の動きを、リゼ・グレイスは見た。


 カイ・ロックハートも見た。


 ミリア・ファルネーゼも、エリアナ・ルクス・ヴェルグラントも見た。


 だから、王宮の紙が何を書こうと、終わっていない。


 リゼは、旧軍道の冷たい石畳の上で、王宮台帳写しをもう一度見た。


 夜明け前の空は、薄い灰色に変わり始めている。


 遠く、王都の輪郭が闇の中に浮かぶ。


 鐘は鳴っていない。


 王立学園の鐘塔も、王都の鐘も、まだ沈黙している。


 だが、紙だけが先に進んでいる。


 正式完了。


 その四文字が、吐き気のように胸へ残った。


 リゼは写しを破らなかった。


 破れば、証拠が失われる。


 彼女は保護袋に入れ直し、ミリアへ渡した。


「王宮台帳写し、継続保護。正式完了記録は、本人意思および現認事実に反します」


 ミリアは頷き、記録板に書き込む。


「確認したわ」


 彼女の指先は冷えている。


 夜通し歩き、走り、記録し続けている。


 それでも、文字は乱れていなかった。


 カイは少し離れた場所で地面を見ていた。


 保存食の欠けを探すためだ。


 彼は、今までで一番静かだった。


 いつもなら怒鳴る。


 食べ物の話をする。


 空気を変な方向へ軽くする。


 だが今は、目だけで地面を追っている。


 焼き菓子の欠け。


 香草パンの欠け。


 アルトが残したかもしれないもの。


 こぼれたのかもしれないもの。


 それでも、手がかりになっているもの。


 カイは、割れた石畳の隙間を指差した。


「ここ」


 リゼは即座に近づいた。


 直接触れない。


 小さな保護布を取り出す。


 石の隙間に、薄い紙の粉が残っていた。


 焼き菓子ではない。


 香草でもない。


 硬質紙の白い粉。


 クラウス・ヴァイゼルが灯りを低くして覗き込む。


「王都文書院系統の保管紙に近い繊維です。黒布馬車、もしくは移送文書の一部から落ちた可能性があります」


 カイが低く言う。


「紙まで落としてる」


 ロウ教師が答えた。


「敵も痕を消しきれてない」


 カイは頷いた。


「じゃあ、追える」


「そうだ。ただし、走るな」


「わかってます」


 エリアナは香草袋を胸の前で持っていた。


 セリーネ草の乾いた甘さと、焼いた時の苦味を含んだ香りが、冷たい夜気に細く混じる。


 彼女は地面の黒い残渣へ香草袋を近づけた。


 置かない。


 手放さない。


 自分のものとして持っている。


 黒い粉が、かすかに白く浮いた。


「反応があります」


 クラウスが測定具を向ける。


「黒蔦残渣、セリーネ草に対する忌避反応。北西方向へ続いています」


 リゼは地図を見る。


 ユリウス・エインズワースが広げている古い王都外縁図。


 旧北西補給線。


 旧倉庫群。


 王都封印管理倉庫群。


 その先に、王宮旧保管区。


 リゼは地図の線を目で追う。


 見覚えがあるようで、完全にはない。


 戦時中、彼女は多くの道を通った。


 補給線。


 枝道。


 護衛経路。


 封鎖線。


 しかし、十五歳の少女兵が見たものは、道の全体ではなかった。


 命令された地点。


 守るべき箱。


 通すべき車列。


 確認すべき印。


 その断片だけだ。


 その断片が、今になって繋がり始めている。


 リゼの胸の奥が、重く沈む。


 灰銀一七。


 封箱。


 受領印。


 削られた線。


 知らなかったことにしない。


 でも、罪悪感だけにしない。


 エリアナが以前言った言葉が、かすかに蘇る。


 あなたの過去を、私の罪悪感だけにしません。


 リゼは息を吸う。


「進行方向、旧封印管理倉庫群。追跡を継続します」


 ロウ教師が横目で見る。


「状態は」


「身体、右腕冷却感少し。握力、軽度低下。疲労あり。感情、怒り、恐怖、焦燥。判断継続可能」


「よし。言えたなら進め」


「はい」


 追跡班は動き出した。


 先頭はロウ教師とリゼ。


 少し後ろにクラウス、ユリウス、門衛長。


 後方補助にミリア、カイ、エリアナ。


 連絡役が二名、さらに後ろで学園長との連絡線を維持している。


 鐘は使えない。


 だから、人の声と足で繋ぐ。


 王立学園からここまで、短い伝達文が何度も受け渡されている。


 アルト・レインフォード、黒布馬車により奪取。


 本人意思、拒否。


 王宮正式完了記録は、本人意思および現認事実に反する。


 移送ではなく誘拐。


 その言葉を、誰も崩さないように。


 途中で「保護移送」と言い換えられないように。


 記録の形を守っている。


 ミリアは歩きながら、伝達文を何度も確認した。


「“移送完了”という言葉は使わないで。必要な時は“王宮側台帳上の移送完了記録”と書いて。私たちは、それを事実として認めない」


 連絡役が復唱する。


「王宮側台帳上の移送完了記録。事実として認めない」


「そう」


 カイがぼそりと言う。


「紙の完了に負けない用、必要だな」


 ミリアは小さく頷いた。


「今は、その名前ね」


 カイは保存食袋を見る。


 残りはほとんどない。


 第10章の最後、彼は最後の欠けを黒布馬車へ投げた。


 アルトの膝元へ届いた。


 アルトの指先が動いた。


 それは、カイにとって救いであり、同時に苦しさでもあった。


 届いたのに、戻せなかった。


 呼べたのに、止めきれなかった。


 カイは唇を噛みそうになり、やめた。


「アルトは、触った」


 彼は言った。


「俺の保存食に。指、動いた」


 リゼが前を向いたまま答える。


「確認しました。本人自発運動です」


「うん」


「重要な記録です」


 カイは少しだけ息を吐いた。


 ただの欠けではない。


 ただの食べ物ではない。


 アルトが、自分の意思で触れようとしたもの。


 その事実が、今も追跡班を前に進めている。


 やがて、道の先に高い外壁が見えてきた。


 王都旧封印管理倉庫群。


 石造りの壁は古く、ところどころ補修されている。


 軍倉庫として作られ、戦後に封印管理へ転用された区画。


 王宮管理区域と民間委託倉庫が入り混じり、地図上でも境界が曖昧になっている。


 外壁の上には、朝焼け前の白い光が薄く差していた。


 門は閉じている。


 門扉には王宮管理印。


 その横に、古い軍用標識。


 さらにその下。


 ほとんど削れた金属板に、薄い文字が残っていた。


 リゼは足を止めた。


 灰銀――


 見間違いかと思った。


 だが、灯りを近づけると、確かに読める。


 灰銀一七確認済。


 文字は擦れ、後半は欠けている。


 しかし、そこにある。


 灰銀一七。


 リゼの戦時識別番号。


 彼女自身が、鳴らさぬ谷の封箱外装確認補助で使った印。


 そして、今また、旧封印管理倉庫群の入口に残っている。


 カイが息を呑む。


「リゼの……」


 ミリアがすぐにリゼを見る。


「状態は」


 リゼは少しの間、返事をしなかった。


 指先が冷える。


 右腕の冷却感ではない。


 もっと内側。


 胸の奥が、灰色の箱に戻りかける。


 自分の印。


 自分の名前。


 自分の知らない場所。


 アルトの字が、アルトの知らない紙に乗せられたように。


 リゼの印が、リゼの知らない門に残っている。


 彼女は息を吸った。


「身体異常なし。冷却感、右腕少し。感情負荷、高。識別番号“灰銀一七”を確認しました。私は、この入口を確認した記憶がありません」


 ミリアが頷く。


「記録するわ」


 エリアナが静かに言った。


「あなたの印があることと、あなたがここへ来たことは同じではありません」


 リゼはその言葉を受け取る。


 第10章で何度も確認してきたこと。


 名前だけでは本人ではない。


 筆跡だけでは本人ではない。


 本人意思は紙だけでは成立しない。


 印も同じだ。


 印があることと、本人が命じたことは同じではない。


 リゼはゆっくり頷いた。


「確認しました」


 クラウスが金属板を調べる。


「かなり古い標識です。戦後処理期のものと思われます。ただし、表面に後年の擦過痕があります。文字が再露出した可能性がある」


 ユリウスが眉を寄せる。


「再露出?」


「一度隠したか、別の板で覆っていたものを、近年また見えるようにした可能性です」


 ロウ教師が低く言う。


「通行証に使ったか」


 クラウスは頷いた。


「可能性があります。灰銀一七確認済という過去の標識を、封箱搬入や保管通行の根拠にした可能性がある」


 カイが怒りを抑えた声で言った。


「リゼの印も、勝手に使った」


 リゼは門を見上げる。


「私の印があることと、私が命じたことは違います」


 その言葉は、夜明け前の倉庫群外壁に静かに響いた。


 門の内側から、人の足音がした。


 重い鍵が動く。


 小窓が開き、老いた管理人らしき男が顔を出した。


 眠そうだった表情が、追跡班を見て一気に硬くなる。


「何事だ」


 ユリウスが前に出る。


「王立学園です。アルト・レインフォード誘拐事件の追跡中。黒布馬車の痕跡がこちらへ続いています。門内確認を要求します」


 管理人は目を細めた。


「誘拐? こちらには王宮台帳上、保護移送完了の通知が来ている」


 カイの肩が跳ねる。


 リゼは一歩前へ出た。


「その記録は、本人意思および現認事実に反します」


 管理人は怪訝そうに見る。


「しかし、王宮正式記録では――」


「正式記録は、本人確認ではありません」


 リゼの声は硬い。


 だが、叫んでいない。


「アルト・レインフォード本人は、移送を拒否しています。黒布馬車により奪取されました。直前発言、歩きたくない、一人で行きません。王立学園は本件を誘拐として扱います」


 管理人は一瞬押し黙った。


 しかし、すぐに台帳を見下ろす。


「こちらの門内記録では、夜間に王宮保護移送車が通過済みとなっている」


 ユリウスが鋭く問う。


「目視確認は」


「記録上は確認済みだ」


「目視確認は」


 管理人は答えない。


 その沈黙で、全員が理解した。


 また、紙が先に進んでいる。


 門を通ったことになっている。


 誰も見ていないのに。


 管理人は苛立ったように言った。


「王宮保護管理局臨時調整室からの正式処理だ。こちらが勝手に止めるわけにはいかん」


 カイが低く唸る。


「勝手に進めてるのはそっちだろ」


 ロウ教師がカイを見る。


 カイは息を吸って言い直した。


「怒っています。でも、門は蹴りません」


「よし」


 エリアナが門へ近づく。


 彼女は香草袋を持ったまま、小窓の近くへかざした。


 管理人が眉をひそめる。


「何を」


「確認です。置きません。私のものとして持っています」


 香りが門の隙間へ入る。


 その瞬間、門扉の下部に残っていた黒い線が、かすかに白く浮いた。


 クラウスがすぐに声を上げる。


「黒蔦残渣反応あり。馬車はこの門、またはこの門の記録を経由しています」


 管理人の顔色が変わる。


「門は開けていない」


 リゼが言う。


「では、記録が通過しました」


 ミリアが静かに続ける。


「そして、現実がそれに合わせられた可能性があります」


 管理人は理解できないという顔をした。


 だが、門扉の黒い線は消えない。


 ロウ教師が前へ出る。


「開けろ」


 管理人が顔を強張らせる。


「権限がない」


 ユリウスが学園長印のある文書を出した。


「王立学園長名による誘拐追跡要請。王宮正式連絡も追って提出済みです」


「王宮側からは、保護移送完了と――」


 リゼが遮った。


「完了していません」


 その声に、管理人の肩が揺れた。


 リゼは続ける。


「本人の所在確認がありません。本人の声がありません。本人意思確認がありません。正式記録は、本人確認ではありません」


 ミリアがその言葉を記録した。


 正式記録は、本人確認ではありません。


 カイが小さく繰り返す。


「紙で着いても、アルトが返事しなきゃ着いてない」


 エリアナが頷く。


「記録が人を守るものなら、本人の声を消してはいけません」


 管理人は、門の向こうでしばらく黙った。


 やがて、重い溜息をつく。


「一部のみ開ける。こちらも責任を問われる」


 ロウ教師が言う。


「問われる前に、誘拐の通過点を見逃した責任を考えろ」


 管理人は苦い顔をしたが、鍵を動かした。


 門が開く。


 重い鉄と木の軋み。


 音はした。


 黒布に消されていない、現実の音だ。


 リゼは一歩踏み込む前に、振り返った。


「単独突入しません。隊列維持」


 カイが頷く。


「わかってる」


 ミリアも。


「確認したわ」


 エリアナが香草袋を握り直す。


「進みます」


 旧封印管理倉庫群の中は、朝の光が届きにくかった。


 高い壁。


 並ぶ倉庫棟。


 古い石畳。


 ところどころに王宮管理印の札。


 だが、いくつかの札には、削られた痕があった。


 正式印の横に、不自然な擦れ。


 三点印の残存らしき小さな点。


 クラウスの顔が険しくなる。


「ここもです」


 ユリウスが確認する。


「複数棟に三点印残存?」


「はい。隠す気があるのか、内側では見せる必要があるのか、判断が難しい」


 リゼは周囲を見た。


 倉庫の扉。


 封印札。


 分類名。


 危険文書。


 封印具。


 旧戦時処理物。


 人の名前は少ない。


 分類ばかりだ。


 アルトも、銀環反応保護対象として扱われた。


 保管対象。


 移送対象。


 確認済。


 完了。


 名前が、分類に埋もれていく。


 リゼは足を止めずに言った。


「アルトさんは、分類ではありません」


 誰に向けた言葉でもない。


 だが、カイがすぐに答える。


「アルトはアルトだ」


 ミリアが頷く。


「ええ」


 エリアナも。


「本人の名前で呼びます」


 倉庫群中央の管理棟へ向かう途中、再び黒蔦残渣が見つかった。


 今度は地面ではなく、壁の下部。


 車輪が擦ったような黒い線。


 その横に、白布の小さな繊維。


 エリアナが香草袋を近づけると、線が白く浮いた。


「反応あり。北棟方向です」


 管理人が顔をしかめる。


「北棟は、現在使用していない。封鎖されている」


 クラウスが問う。


「誰の管理ですか」


「王宮封印管理室の旧区画だ。今は臨時調整室が一部を借りていると聞いている」


 ユリウスが鋭く見る。


「臨時調整室」


 また、その名。


 王宮保護管理局臨時調整室。


 存在しない馬車。


 保護移送提案。


 本人意思確認済。


 正式完了。


 全てに関わる名前。


 リゼは北棟へ視線を向けた。


 低い石造りの建物。


 窓は少なく、扉は厚い。


 扉の前には、封印札が三枚。


 そのうち一枚に、完全に近い三点印が見えた。


 削られていない。


 隠されていない。


 ここでは、それが表に出ている。


 クラウスが低く言った。


「内側の区域では、三点印が正式な処理印として使われています」


 ミリアが記録する。


「三点印、北棟封印札に明示」


 カイが唇を噛む。


「じゃあ、敵の場所か」


 ロウ教師が答える。


「敵が使った場所だ。敵の全部とは限らん」


 カイは頷く。


「決めつけない。でも、アルトの痕はある」


 リゼが北棟の扉へ近づく。


 門扉よりも、さらに冷たい気配がある。


 黒布馬車がここを通ったのか。


 それとも、記録だけがここへ到着したのか。


 まだわからない。


 クラウスが測定具を向ける。


 銀針が下へ沈む。


「冷却反応、強い。黒札新型と同系統」


 エリアナが香草袋を近づける。


 黒蔦残渣が白く浮く。


 そして、その奥で、ほんのかすかに、別の反応があった。


 銀色。


 扉の隙間の向こう。


 消えそうな、細い銀。


 リゼの息が止まる。


「銀環反応」


 クラウスがすぐに確認する。


「極めて微弱ですが、銀環系反応の可能性があります。ただし、本人所在と断定はできません」


 カイが扉へ一歩近づく。


「アルト!」


 ロウ教師が肩を掴む。


「大声を出すな。布があるかもしれん」


 カイは喉を押さえた。


 だが、声を完全には止めなかった。


 小さく、しかしはっきり呼ぶ。


「アルト」


 反応はない。


 もう一度。


「アルト。俺だ、カイ」


 扉の奥で、銀色がほんの一瞬揺れた。


 リゼが目を見開く。


「反応」


 クラウスも頷く。


「銀環反応、微弱上昇」


 ミリアの声が震えそうになる。


 だが、彼女は整える。


「名前呼称に対する反応の可能性。記録します」


 エリアナが香草袋を近づける。


「アルトさん。これは私の香草袋です。戻るための匂いです」


 扉の奥で、銀色がもう一度揺れた。


 リゼの胸が熱くなる。


 だが、すぐに黒い線が扉の表面を走った。


 三点印の封印札が反応する。


 扉全体に、冷たい膜のようなものが広がる。


 クラウスが叫ぶ。


「下がってください!」


 リゼは一歩下がる。


 カイもロウ教師に引かれて下がる。


 扉の表面に文字が浮かんだ。


 王宮保護移送、正式完了。


 対象者、到着済。


 外部確認不要。


 カイが拳を震わせる。


「目の前にいるかもしれないのに、確認不要って何だよ」


 リゼは扉を見つめた。


 銀色の反応は、黒い膜の奥へ沈んでいる。


 届きかけた名前と香草が、正式完了という文字で覆われた。


 リゼは一歩前に出た。


「外部確認不要を認めません」


 扉は沈黙している。


「本人の所在確認を要求します」


 扉は沈黙している。


「本人意思確認を要求します」


 黒い膜がわずかに揺れる。


 リゼの声は、さらに低くなる。


「正式記録は、本人確認ではありません」


 扉の奥で、銀色がほんの一瞬だけ強く光った。


 それは、返事のように見えた。


 だが、すぐに消える。


 クラウスが歯を食いしばる。


「この扉だけでは開きません。王宮旧封印管理の内部承認が必要です」


 ユリウスが問う。


「承認者は」


 クラウスは封印札を読む。


「王宮封印管理室、保護管理局臨時調整室、監察局補助室確認欄」


 ミリアが眉を寄せる。


「監察局補助室」


 リゼの目が細くなる。


「オルド・ハイマン」


 その名が出た瞬間、門の方で別の馬車の音がした。


 今度は、音がある。


 隠されていない。


 管理人が慌てて振り返る。


「王宮の監察局馬車です」


 カイが身構える。


 ロウ教師が低く言う。


「単独で突っ込むな」


「わかってます」


 北棟前に、黒ではなく濃紺の馬車が止まった。


 王宮監察局補助室の印。


 扉が開き、銀縁の眼鏡をかけた男が降りてくる。


 オルド・ハイマン。


 相変わらず、礼儀正しい姿勢。


 整った外套。


 感情を隠した目。


 だが、今日の顔には、明らかな疲労があった。


 彼はリゼたちを見て、一礼した。


「リゼ・グレイスさん。王立学園の皆様」


 リゼは返礼しなかった。


 ただ、確認した。


「オルド・ハイマン上席監察官。あなたは、アルト・レインフォード王宮保護移送の正式完了を確認しましたか」


 オルドは一瞬だけ黙った。


 それから答える。


「私は、正式完了報告を受領しました」


「本人を確認しましたか」


「いいえ」


「本人意思を確認しましたか」


「いいえ」


「では、それは本人確認ではありません」


 オルドの表情が、わずかに動く。


「……その通りです」


 カイが低く言った。


「なら、なんで完了って言うんだ」


 オルドはカイを見る。


 いつものように上から整える言葉ではなく、少し重い声で答えた。


「王宮の台帳が、そう処理したからです」


 カイの拳が震える。


 ミリアがすぐに言う。


「でも、台帳は本人ではありません」


 オルドは頷いた。


「ええ。今、そのことを理解しています」


 リゼは北棟扉を指した。


「扉の奥に、銀環反応があります。名前呼称と香草に反応しました。本人所在の可能性があります。正式完了ではなく、誘拐現場として扱います」


 オルドは扉を見る。


 王宮保護移送、正式完了。


 対象者、到着済。


 外部確認不要。


 その文字を見て、彼の顔から血の気が少し引いた。


「外部確認不要……」


 クラウスが問う。


「あなたの確認欄があります」


 オルドは封印札を見た。


 監察局補助室確認欄。


 そこに、彼の名に似た署名がある。


 オルド・ハイマン。


 整った筆跡。


 だが、リゼはすぐに言った。


「本人確認を行います。この署名はあなたのものですか」


 オルドは近づき、慎重に見る。


「筆跡は私のものに似ています」


 アルトの筆跡偽造と同じ言い方だった。


 リゼはさらに問う。


「あなたは、この書類に署名しましたか」


 オルドは顔を上げる。


「いいえ。この文書には署名していません」


「この内容を承認しましたか」


「いいえ」


「確認しました」


 ミリアが記録する。


 監察局補助室確認欄、オルド・ハイマン署名様。


 本人否定。


 承認否定。


 オルドは封印札を見つめたまま言った。


「私の署名が、別の照会文から切り取られた可能性があります」


 カイが唸る。


「また勝手に名前を使った」


 リゼはオルドを見る。


「あなたの名が使われました。ですが、これまであなたはアルトさんを“鍵”“保護対象”として扱う言葉を使いました」


 オルドは何も言わない。


 リゼは続ける。


「その分類語が、人を運ぶ紙になりました」


 朝の空気が、冷たく張り詰めた。


 オルドの眼鏡の奥で、目が揺れる。


「私は、移送を命じていません」


「はい」


「誘拐を承認していません」


「はい」


「ですが、分類の仕方に責任がないとは言えません」


 その言葉は、彼にとって苦いものだったはずだ。


 しかし、彼は言った。


 リゼは頷く。


「確認しました」


 扉の奥で、再び銀色がわずかに揺れた。


 アルトがいるのか。


 それとも、銀環反応だけが残されているのか。


 まだわからない。


 だが、声に反応した。


 名前に反応した。


 香草に反応した。


 そして今、正式完了という文字の下で、まだ消えずにいる。


 リゼは扉へ向き直った。


「アルトさん。聞こえるかは不明です。ですが、記録します。あなたの移送は正式に完了していません。あなたの本人意思は拒否として記録されています。あなたは、紙の上で終わっていません」


 カイが続ける。


 小さく、届くように。


「アルト。俺たちはここにいる」


 ミリアも。


「完了という言葉に、従わないわ」


 エリアナも、香草袋を持ったまま言った。


「記録が人を守るなら、あなたの声を消してはいけません」


 扉の奥で、銀色がまた揺れた。


 今度は、ほんの少しだけ長く。


 リゼはそれを見た。


 見逃さなかった。


 北棟の扉はまだ開かない。


 王宮の記録はまだ「完了」を主張している。


 オルドの署名は、偽造されている。


 三点印は、隠れずに扉に貼られている。


 正式記録の壁は厚い。


 だが、その奥から、微かな銀が返った。


 リゼは背筋を伸ばした。


「正式記録は、本人確認ではありません。現実の所在確認を継続します」


 朝焼けが、旧封印管理倉庫群の高い壁を薄く照らし始める。


 鐘はまだ鳴らない。


 だが、扉の前に集まった声は、沈黙しなかった。


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