第10章 第16話:正式に完了した誘拐
王宮の台帳では、すでに終わっていた。
アルト・レインフォード王宮保護移送。
正式に完了。
その文字が、夜の王立学園へ届いた時、鐘塔はまだ沈黙していた。
鐘は鳴らない。
警報も響かない。
だが、声は走っていた。
本人意思拒否済み。
黒布馬車による奪取。
直前発言、歩きたくない、一人で行きません。
これは移送ではなく誘拐。
その言葉が、学園長室から門衛へ、門衛から旧倉庫群跡へ、旧倉庫群跡から北西補給線へ向かう追跡班へ渡っていく。
紙の上では完了している。
だが、声の上では終わっていない。
リゼ・グレイスは、旧軍道の上で連絡役から王宮側台帳の写しを受け取った。
夜気は冷たい。
灯りの先に伸びる古い道は、草と割れた石畳に覆われている。
黒蔦の残渣は北西へ続いていた。
ところどころに、焼き菓子の欠け。
香草パンの欠け。
白布の繊維。
黒い布片。
アルトが落としたのか。
偶然こぼれたのか。
まだ断定はできない。
けれど、それらは確かに道になっている。
リゼは写しを見た。
王宮保護管理局臨時調整室。
保護対象者、アルト・レインフォード。
保護対象分類、銀環反応保護対象。
移送目的、王宮保護区画への一時収容。
本人意思確認、済。
移送実施、完了。
担当確認、済。
移送完了時刻。
その時刻は、アルトが黒布馬車に奪われた直後だった。
リゼの指が、紙の端を強く握りかける。
だが、破らない。
破れば記録が消える。
怒りを、証拠に向けない。
彼女は息を吸い、声に出した。
「王宮台帳写し。アルト・レインフォード王宮保護移送、正式完了と記載。本人意思確認済、移送実施完了、担当確認済」
ミリア・ファルネーゼが後方で記録板を構える。
「記録します」
カイ・ロックハートは写しを見て、顔を歪めた。
「ふざけるな」
ロウ教師が視線を向ける。
カイはすぐに息を吸い直した。
「怒っています。でも、紙は破りません」
「よし」
エリアナ・ルクス・ヴェルグラントは香草袋を胸の前で持ったまま、台帳写しを見つめていた。
怒りが、白い頬に静かに浮いている。
「本人意思確認済」
彼女はその言葉を繰り返す。
「本人が、黒布の中で声を奪われていた時に」
誰も答えなかった。
答えられなかった。
クラウス・ヴァイゼルは写しの下端へ光を当てる。
灯りの中、確認欄の右下に、薄い擦過痕が見えた。
削られた線。
そして、三つの点。
完全な印ではない。
だが、隠しきれていない。
点の一つは濃く、二つは浅く削られている。
王都仮受領印。
紙倉跡焼損処理札。
王宮保護移送提案別紙。
門衛台帳の存在しない馬車。
それらに残っていた、同じ系統の痕。
クラウスの声が低くなる。
「三点印の残存。これまでの削損受領印と同系統の可能性が高い」
リゼは頷く。
「記録します」
ミリアが書く。
王宮台帳写し。
正式完了記録。
本人意思確認済。
担当確認欄に削損線。
三点印残存可能性。
カイが歯を食いしばる。
「同じやつらか」
クラウスは慎重に答える。
「同じ組織名とは限らない。だが、同じ処理思想、同じ印系統、同じ隠し方を使っている可能性がある」
エリアナが静かに言った。
「名前を変えても、痕は残るのですね」
リゼは台帳写しから目を離さなかった。
「この記録は、アルトさんの本人意思と矛盾します」
ロウ教師が問う。
「根拠は」
「本人は、王宮保護移送提案を拒否しました。学園に残りたいと表明しました。夜間歩行誘導前、歩かない、鐘塔へ行かない、東門へ行かない、一人で行かないと確認しました。歩行誘導中、歩きたくないと発言しました。黒布馬車収容前、一人で行きませんと発言しました」
リゼは一つずつ言った。
自分に刻むように。
周囲に渡すように。
紙の上の完了に、声の記録をぶつけるように。
「したがって、この正式完了記録は、本人意思に反します」
ミリアが静かに続ける。
「それだけではないわ。事実にも反します。アルトさんは王宮保護移送馬車に自発的に乗っていない。存在しない馬車、黒布、白布、歩行誘導の反応が確認されている」
カイが言う。
「自分で歩いたことにされても、歩きたくないって言った」
エリアナも。
「声を奪われた状態での移動は、本人意思ではありません」
リゼは紙を保護袋に入れる。
声は静かだった。
「これは移送ではありません。誘拐です」
その言葉が、夜の旧軍道に落ちた。
重く、明確に。
ロウ教師が頷く。
「よし。追うぞ」
追跡班は再び動き出した。
旧軍道は、北西へ細く続いている。
王都の外縁、旧倉庫群の裏を抜け、やがてかつての補給線跡へ接続する。
道の一部は崩れ、草に埋もれ、今は地図にも薄くしか残っていない。
だが、リゼはその道を知っている。
完全にではない。
十五歳の彼女が戦場で辿った補給線の全てを覚えているわけではない。
けれど、石畳の割れ方。
荷車が通る幅。
見張り台の残骸。
道の端に残る排水溝。
それらが、記憶の奥を冷たく刺激する。
北西第三補給枝道。
鳴らさぬ谷。
灰色封箱。
自分の印。
削られた受領印。
自分が知らなかったこと。
知らなかったことにしないと決めたこと。
その道が今、アルトへ続いている。
リゼの足が、わずかに速くなる。
ミリアが後ろから声をかけた。
「リゼさん」
リゼは足を緩める。
「はい」
「一人で先に行かないで」
その一言に、リゼは息を詰めた。
自分が、今まさに単独で走り出しかけていたことに気づく。
アルトを一人にしないために、自分が一人になろうとしていた。
リゼは振り返る。
ミリアが見ている。
カイも。
エリアナも。
ロウ教師も。
リゼは小さく頷いた。
「修正します。単独先行しません」
ミリアの目元が少しだけ緩む。
「良好よ」
カイが低く言う。
「アルトも言うと思う。リゼさん、一人で行かないでって」
リゼは胸の奥を押さえるように息を吸った。
「確認しました」
クラウスが道の先へ灯りを向ける。
「黒蔦残渣、継続。冷却反応は弱まっていますが、北西方向へ伸びています」
エリアナが香草袋を近づける。
草の乾いた甘さが夜風に乗る。
道端の黒い残渣が、一瞬だけ白く浮いた。
「反応あり」
ミリアが記録する。
カイは地面を探していた。
保存食の欠け。
彼は普段の食い意地とは違う目で、小さな欠片を探している。
それは、友達の痕跡を拾う目だった。
「ここ」
カイが膝をつく。
割れた石の間に、小さな白い粉が残っている。
焼き菓子ではない。
香草パンでもない。
紙の粉。
クラウスが採取する。
「文書院系統紙の繊維かもしれない。硬質紙の粉です」
リゼが問う。
「移送文書」
「可能性があります。馬車内、または術式媒介に使われた紙片が崩れたのかもしれない」
カイが低く言う。
「紙で道を作って、紙が落ちてる」
ロウ教師が頷く。
「見ろ。敵は完全じゃない。痕を残してる」
リゼはその言葉を受け取った。
敵は、紙の上で完了にした。
だが、現実には痕がある。
焼き菓子。
香草。
黒布。
紙粉。
三点印。
アルトの拒否。
全てが、完了していない証拠だった。
追跡を続けるうち、旧軍道の先に古い標識が見えた。
文字はほとんど消えている。
だが、軍用の略号が残っていた。
北西補給線、第二倉庫分岐。
ユリウスが地図を確認する。
「ここから先は、旧王都封印管理倉庫群へ繋がります。現在は一部が閉鎖、一部が王宮管理、一部が民間委託です」
リゼの声が低くなる。
「王都封印管理倉庫」
灰色封箱の移送先。
王都封印管理室。
王都南門管理口。
封箱へ。
特別預かり。
削られた受領印。
それらが、一本の線になっていく。
クラウスが慎重に言う。
「アルト君がそこへ運ばれたとは、まだ断定できません。ただ、黒蔦残渣はそちらへ向かっています」
エリアナが香草袋を握りしめる。
「封じる場所へ、連れていくのですね」
カイが低く言う。
「声を奪って、箱に入れるみたいに」
ミリアがすぐに言う。
「まだ決めない。でも、止めるために考える」
リゼが頷いた。
「はい」
その時、遠くから馬車の音が聞こえた。
初めての音だった。
これまで黒布馬車は、音を消していた。
だが今、遠くで車輪が石を踏む音がした。
かすかに。
弱く。
まるで、術式の遮音が切れかけているように。
全員が足を止める。
カイが息を呑む。
「馬車」
ロウ教師が手を上げる。
「声を落とせ。単独で追うな」
リゼは耳を澄ませる。
車輪の音。
馬の息。
布の擦れる音。
そして、かすかに、何かが揺れる音。
鈴ではない。
鐘でもない。
銀環が硬い木箱に当たるような、細い音。
リゼの胸が締め付けられる。
「アルトさんの可能性」
クラウスが測定具を向ける。
「冷却反応、前方。移動中」
ロウ教師が短く命じる。
「追う。走るな。音を立てるな。距離を詰める」
追跡班は旧軍道の脇へ入り、草を踏み分ける。
灯りを絞る。
声を抑える。
しかし、連絡は切らない。
ミリアが後方へ短文を渡す。
「前方に馬車音。冷却反応あり。単独追跡禁止。連絡継続」
連絡役が復唱し、後ろへ走る。
鐘は鳴らない。
声が、走る。
やがて、道の先に黒い馬車が見えた。
完全な影ではない。
今は、車輪が石を踏んでいる。
側面に白布。
黒い蔦刺繍。
王宮紋はない。
登録番号もない。
存在しない馬車。
だが、今は確かにそこにある。
馬車の後部から、黒布が少しだけ垂れている。
その布の隙間から、淡い銀の光が一瞬漏れた。
アルトの銀環。
リゼの足が前へ出そうになる。
ロウ教師が低く言う。
「まだだ」
リゼは止まる。
手が震えている。
だが、止まる。
カイも震えていた。
今すぐ叫びたい。
アルトと呼びたい。
だが、叫べば黒布が反応するかもしれない。
馬車がまた消えるかもしれない。
カイは両手で自分の口を押さえた。
ミリアが彼の肩に手を置く。
エリアナは香草袋を握りしめ、馬車の方へほんの少しだけ近づけた。
風が変わる。
セリーネ草の匂いが、細く馬車へ流れる。
馬車の黒布が、わずかに震えた。
中で、何かが動いた。
リゼは目を凝らす。
黒布の隙間。
白い顔。
閉じかけた目。
布で口元を覆われたアルト。
左手首は布で巻かれ、その上から銀環の光だけが淡く漏れている。
アルトは意識があるのか、ないのか。
わからない。
だが、セリーネ草の匂いに、ほんのわずかに眉が動いた。
エリアナが息を止める。
「反応しました」
リゼの胸が熱くなる。
銀環ではない。
感情だ。
アルトはまだ、完全には奪われていない。
カイが震える声で、しかし小さく言った。
「アルト」
リゼは一瞬止めようとした。
だが、その声は叫びではない。
届く声。
名前。
黒布の隙間で、アルトの睫毛が震えた。
唇が動く。
声は聞こえない。
それでも、形はわかった。
カイ。
カイは泣きそうな顔になった。
ミリアが小さく言う。
「届いている」
次の瞬間、馬車の前方で御者の影が振り向いた。
顔は見えない。
帽子の下は黒い。
手袋の手が、白布へ触れる。
白布の黒蔦刺繍が光った。
馬車の輪郭が、薄くなる。
ロウ教師が叫ぶ。
「止めろ!」
リゼが飛び出す。
今度は迷わなかった。
単独ではない。
ロウ教師も同時に走る。
クラウスが封じ札を投げる。
ユリウスが遮断符を展開する。
ミリアが後方へ叫ぶ。
「馬車発見! 消失阻止!」
カイが走る。
エリアナも走る。
香草袋を胸に抱いたまま。
リゼの手が馬車の後部へ届く。
黒布ではなく、車体の縁。
木の感触。
冷たい。
しかし、確かにある。
「アルトさん!」
黒布の中で、アルトの目がわずかに開く。
リゼの青いリボンが見える。
夜の中で、揺れる青。
戻るための目印。
アルトは声を出そうとした。
黒布が口元を覆っている。
声は出ない。
だが、胸の中で言葉を作る。
リゼさん。
カイさん。
ミリアさん。
エリアナさん。
孤独ではない。
孤独ではない。
孤独ではない。
リゼが車体に手をかけた瞬間、白布がほどけて彼女の腕へ巻きついた。
冷たい。
声を奪う布。
しかし、リゼは今度は離さなかった。
「これは移送ではありません!」
彼女は叫んだ。
白布が声を鈍らせる。
だが、声は消えない。
「誘拐です!」
クラウスの封じ札が白布に貼りつく。
布の動きが一瞬鈍る。
ロウ教師が馬車の車輪へ斬撃を入れた。
火花。
車輪が跳ねる。
馬車が大きく傾く。
中でアルトの身体が揺れる。
リゼが叫ぶ。
「アルトさん、現在地を確認してください!」
アルトの唇が動く。
黒布で声は出ない。
だが、目がリゼを見た。
焦点が合った。
一瞬。
本当に一瞬だけ。
リゼはその目を見た。
彼はいる。
そこにいる。
記録の中ではなく、馬車の中にいる。
「確認しました!」
カイが馬車の後ろへ飛びつきかける。
ロウ教師が怒鳴る。
「乗るな!」
カイは止まった。
そのかわり、保存食袋から最後の欠けを掴み、馬車の中へ向けて投げた。
投げる。
食べ物を投げるなんて、普段なら叱られるかもしれない。
でも今は違う。
小さな焼き菓子の欠けが、黒布の隙間を抜けて、アルトの膝元へ落ちた。
歩きそうになったら名前で呼ぶ用。
最後の欠け。
アルトの指が、わずかに動いた。
欠けに触れようとする。
黒布がそれを遮る。
しかし、指先は動いた。
自分の意思で。
リゼの目が鋭くなる。
「自発運動確認!」
ミリアが叫ぶ。
「記録します!」
エリアナが香草袋を高く掲げた。
投げない。
手放さない。
彼女のものとして持ったまま、香りを届ける。
「アルトさん! 戻るための匂いです!」
黒布が震える。
アルトの左手首の銀環が、冷たい光ではなく、ほんのわずかに温度のある銀色を返した。
クラウスが叫ぶ。
「冷却反応、低下!」
あと少し。
リゼが車体へさらに手を伸ばす。
その時、御者の影が、懐から一枚の紙を取り出した。
王宮文書紙。
硬い保管紙。
そこに、大きく押された印がある。
三点印。
削られていない。
完全な三点印。
紙が黒く光る。
クラウスの顔色が変わる。
「離れてください!」
リゼは離れなかった。
だが、ロウ教師が彼女の外套を掴み、強く引いた。
次の瞬間、馬車の周囲に白布が一斉に広がる。
黒蔦の刺繍が、三点印へ集まる。
車体が、紙のように薄くなる。
車輪の音が消える。
馬の息が消える。
アルトの姿が、黒布の奥へ沈む。
「アルト!」
カイの叫びが、夜を裂く。
今度は大声だった。
だが、その声は途中で消されなかった。
黒布が揺れ、アルトの目が再び開く。
唇が動く。
声は聞こえない。
それでも、全員が見た。
僕は、孤独ではありません。
馬車が消えた。
完全に。
残されたのは、車輪で削られた石畳の跡。
白布の焦げ。
王宮文書紙の燃え残り。
そして、三点印が半分焼けた紙片。
リゼはその場に膝をつかなかった。
立っていた。
息が乱れている。
腕には白布が触れた冷たさが残っている。
指先は震えている。
でも、立っていた。
ミリアが駆け寄る。
「リゼさん」
「継続可能です」
声は掠れていた。
ミリアは首を振る。
「状態も言って」
リゼは一瞬黙り、答えた。
「身体、右腕冷却感。痛みなし。握力低下少し。感情、怒り、恐怖、悔しさ。追跡継続意思あり」
ミリアは頷いた。
「確認しました」
カイは地面に落ちた焼けた紙片を見ていた。
涙が一筋、頬を伝っている。
彼は乱暴に拭わなかった。
ただ、低く言った。
「届いた。最後、見た」
エリアナが頷く。
「はい。孤独ではない、と言っていました」
声は聞こえなかった。
だが、唇はそう動いていた。
クラウスが焼け残った紙片を保護具で拾う。
三点印。
王宮文書紙。
そして、文字の断片。
移送、正式、完了。
その三つだけが残っている。
リゼは紙片を見た。
喉の奥が冷たくなる。
だが、声を出した。
「記録してください」
ミリアが記録板を構える。
リゼは、はっきり言った。
「黒布馬車、旧北西補給線上にて一時捕捉。車内にアルト・レインフォード本人を視認。口元黒布、左手首銀環反応、意識反応あり。名前呼称、保存食、香草に反応。本人自発運動あり。消失時、唇の動きで“僕は孤独ではありません”を確認」
ミリアが書く。
手は震えている。
だが、書ききる。
リゼは続ける。
「馬車消失時、完全三点印を持つ王宮文書紙が使用されました。残存紙片に“移送”“正式”“完了”の文字。これは本人意思および現認事実に反します」
カイが言う。
「誘拐だ」
リゼが頷く。
「はい」
彼女は夜の道へ向き直った。
馬車はまた消えた。
だが、今度は完全に見失ったわけではない。
冷却反応は遠ざかっている。
北西へ。
旧封印管理倉庫群の方へ。
そして、アルトは反応した。
名前に。
保存食に。
香草に。
リゼの声に。
青いリボンに。
孤独ではないと、言った。
声が奪われても、言った。
ロウ教師が低く言う。
「ここから先は、王宮旧保管区だ。学園だけでは踏み込めない領域もある」
リゼは頷いた。
「承知しています」
「それでも行くか」
「行きます」
「何として」
リゼは、もう迷わなかった。
「灰銀の戦乙女としてではありません。王宮の剣としてではありません。リゼ・グレイスとして、アルト・レインフォード誘拐事件を追います」
カイが隣に立つ。
「俺も行く。単独じゃなく」
ミリアが記録板を抱える。
「私も。記録と連絡を切らない」
エリアナが香草袋を胸に当てる。
「私も。孤独な音にしないために」
クラウスが紙片を封じる。
「三点印の解析を続けます。これは、王宮内の正式処理網に繋がる証拠です」
ユリウスが学園側連絡紙を準備する。
「学園長へ送ります。王宮台帳の正式完了記録に対し、現認事実を添えて正式抗議。移送ではなく誘拐として、王宮側記録の即時停止を要求します」
ロウ教師が短く頷いた。
「進め」
夜明け前の空が、わずかに白み始めていた。
鐘塔はまだ鳴らない。
王立学園は遠くなり、旧北西補給線の空気は冷たい。
しかし、追跡班の声は消えていない。
馬車の中。
黒布の奥で、アルトは意識を沈めかけていた。
身体は冷たい。
左手首の銀環は、まだ重い。
口元の黒布が、声を吸う。
目を開けるのも難しい。
けれど、膝元に何かがある。
小さな欠け。
焼き菓子。
カイの保存食。
指先で触れた感触が残っている。
香草の匂いも、ほんの少しだけ残っている。
青いリボンが見えた。
リゼの声が聞こえた気がした。
ミリアの確認。
エリアナの香草。
カイの名前呼び。
全部が遠い。
でも、消えていない。
黒布の向こうで、誰かが文書を読み上げている。
「王宮保護移送、正式に完了」
違う。
アルトは、心の中で言った。
声にはならない。
でも、言った。
違う。
僕は同意していない。
僕は一人で来ていない。
僕は歩きたくなかった。
僕は、学園に残りたかった。
黒布が冷たく締まる。
銀環がまた沈む。
それでも、アルトは膝元の欠けに指を寄せた。
少しだけ。
本当に少しだけ。
指先が触れる。
焼き菓子のざらつき。
林檎と杏の甘い匂い。
カイがつけた名前。
歩きそうになったら名前で呼ぶ用。
呼ばれた。
届いた。
まだ、届いている。
アルトは、消えそうな意識の奥で、近くにいてほしい人の名前を数えた。
リゼさん。
ミリアさん。
カイさん。
エリアナさん。
学園長。
ユリウス先輩。
エレオノーラ先輩。
クラウスさん。
ロウ先生。
声は出ない。
記録表もない。
現在地もわからない。
でも、名前はある。
関係はある。
紙の上で完了しても、そこだけは消えていない。
アルトは、黒布の奥で唇をわずかに動かした。
誰にも聞こえない。
それでも、言葉は形になった。
「僕は、孤独ではありません」
馬車は北西へ進む。
正式に完了した誘拐を載せて。
けれど、その完了を、まだ誰も認めていなかった。




