第10章 第15話:奪われた声の先
鐘は鳴らなかった。
それでも、夜の王立学園は動いていた。
搬出用通路。
黒布馬車。
誘拐。
本人意思拒否。
全門封鎖。
短い言葉が、廊下を走る。
教師から教師へ。
生徒補助から門衛へ。
門衛から学園長室へ。
鐘塔が沈黙していても、人の声は止まらない。
だが、その声の中心にいるはずの少年の声だけが、消えていた。
アルト・レインフォード。
夜間休憩室から歩き出した。
本人の足で。
だが、本人の意思ではない。
直前に、彼は言った。
歩きたくない。
一人で行きません。
そして黒布馬車に奪われた。
リゼ・グレイスは、中庭の石畳の上に立っていた。
夜露で濡れた石。
冷たい風。
搬出用通路の奥に残る、黒蔦の痕。
馬車が消えた壁際。
そこには、門も扉もないはずだった。
だが、黒い刻線が一瞬浮かび、壁の影が裂けた。
馬車は、そこへ消えた。
今はもう、ただの壁に見える。
黒布もない。
車輪の音もない。
馬の匂いもない。
残っているのは、石畳に落ちた小さな欠けだけ。
焼き菓子の欠け。
カイ・ロックハートの保存食。
歩きそうになったら名前で呼ぶ用。
アルトが夜に持っていたもの。
リゼはその欠けに直接触れなかった。
保護布を広げ、欠けを包む。
指先は冷えている。
黒布に触れた腕の感覚が、まだ少し鈍い。
だが、彼女はそれを報告した。
「右前腕、感覚鈍麻少し。痛覚あり。握力低下なし。継続可能」
ミリア・ファルネーゼが隣で即座に言う。
「無理なら言って」
「了解しました」
リゼの声は、いつも通りに聞こえた。
けれど、ミリアにはわかった。
いつも通りにしようとしている声だ。
カイは数歩離れた場所で、馬車が消えた壁を睨んでいた。
拳は握られている。
肩が震えている。
だが、追って飛び込もうとはしない。
単独追跡禁止。
それを自分で守っている。
エリアナ・ルクス・ヴェルグラントは、香草袋を胸に押し当てていた。
セリーネ草の乾いた甘さが、夜気にわずかに混じる。
彼女の顔は白い。
怒りと恐怖を、範囲を決めて抱えようとしている顔だった。
ロウ教師は壁際を調べている。
黒蔦の刻線が消えた場所へ、灯りを近づける。
「痕は薄い。だが、完全には消えていない」
リゼは顔を上げる。
「確認します」
彼女は壁へ近づいた。
そこには、石の継ぎ目に沿って、黒い焦げのような線が残っている。
蔦の形。
白鐘を絡め取るような歪んだ紋様。
東門の門衛台帳机裏。
安全室の白布。
鐘塔の黒蔦紋。
それらと同じ思想の線。
だが、ここにあるものは、もっと移動に近い。
道を開くための痕。
記録から入る術式が、今度は空間を開いたのか。
リゼは呼吸を整える。
「搬出用通路奥、壁面に黒蔦状残存刻線。馬車消失地点。記録します」
ミリアが記録板に書き取る。
彼女の手も震えていた。
だが、文字は崩さない。
記録する。
残す。
追うために。
カイが低く言った。
「なんで、音がなかったんだ」
ロウ教師が答える。
「音を殺した。白布と黒布でな」
「馬車の音まで?」
「車輪、馬、扉、声。全部だろうな」
カイは歯を食いしばる。
「アルトの声も」
その言葉で、全員の空気が一瞬止まった。
アルトの声。
黒布に吸われた声。
僕は、一人で行きません。
最後の言葉は、完全には届かなかった。
だが、届いた部分がある。
リゼは言った。
「アルトさんは、本人意思を表明しました」
カイが振り向く。
リゼは保護布に包んだ焼き菓子の欠けを持ち、まっすぐ言った。
「歩きたくない。一人で行きません。この二点は、複数名が聞いています」
ミリアが頷く。
「聞いたわ」
カイも。
「聞いた」
エリアナも。
「聞きました」
ロウ教師も低く言う。
「聞いた」
リゼは深く頷いた。
「記録します。本人意思、誘拐拒否」
その言葉を言うことで、リゼは自分を立たせていた。
もし、それを言わなければ。
もし、アルトが自分の足で歩いた、という事実だけを見てしまえば。
心のどこかが、崩れる。
守れなかった。
止められなかった。
自分が安全室や夜間休憩室の手順を作った。
自分が身体停止へ移行した。
自分の手が、黒布で弾かれた。
肩を掴んだのに、離した。
その一瞬一瞬が、刃のように胸の内側を切ってくる。
しかし、いま崩れれば、追えない。
ロウ教師がリゼを見た。
「グレイス」
リゼは顔を上げる。
「はい」
「泣くなら追いながら泣け」
リゼの喉が、一瞬だけ動いた。
返事がすぐに出なかった。
けれど、次の瞬間、彼女は頷いた。
「了解しました」
声は少しだけ掠れていた。
ミリアがリゼの横に立つ。
「今は、呼吸」
リゼは吸った。
吐いた。
記録するように、自分の呼吸を整える。
「呼吸、整います。追跡継続可能」
カイが低く言う。
「追う」
ロウ教師が即座に返す。
「単独ではない」
「わかってます」
カイは拳をほどいた。
掌には爪の跡が残っている。
「俺は、単独で行かない。けど、追う」
エリアナが香草袋を握りしめた。
「私も行きます。香草の痕が残るかもしれません」
ロウ教師は彼女を見る。
「危険だ」
「知っています」
エリアナの声は震えていない。
「でも、セリーネ草は、黒布の中でも一瞬届きました。アルトさんが反応しました。香りは、手がかりになるかもしれません」
クラウス・ヴァイゼルが遅れて到着した。
鐘塔の封鎖処理から駆けつけたのだろう。
息が上がっている。
彼は壁の刻線を見るなり、顔を強張らせた。
「これは、門ではない」
リゼが問う。
「では、何ですか」
「封信蔦と黒札新型、白布黒刺繍、鐘塔干渉の複合です。空間を開いたというより、記録上の“搬出済み経路”へ現実を一瞬だけ合わせた可能性がある」
ミリアが眉をひそめる。
「記録上の経路?」
クラウスは壁を見つめた。
「存在しない馬車が、記録上では入構済になろうとした。王宮保護移送提案では、移送準備が整っていた。本人意思確認済欄も偽造されていた。つまり、紙の上では“移送のための道”が作られていた可能性がある」
カイが低く言う。
「紙の上の道に、現実を乗せたってことですか」
「近い。完全ではないが、そう考えるべきです」
アルトの言葉が思い出される。
紙の上で進ませません。
しかし敵は、紙の上で作った道を、黒布と鐘塔で現実へ引きずり出した。
リゼは壁へ手を近づける。
触れない。
刻線の冷気が、まだわずかにある。
「行き先を推定できますか」
クラウスは首を振る。
「この場だけでは難しい。ただし、経路は完全な転移ではない。馬車は通った。痕跡が残るはずです。車輪の跡、香草への反応、黒蔦残渣、封印紙片、保存食の欠片。追跡可能です」
その言葉に、カイの目が燃える。
「じゃあ、追える」
「可能性はあります」
学園長も到着した。
夜着の上に外套を羽織っている。
しかし、声は乱れていない。
「全門封鎖は完了しました。正門、東門、裏門、搬入口、全て封鎖。外部警備へも連絡済みです。ただし、搬出用通路からの異常消失経路は、通常門では捕捉できませんでした」
ユリウスが続く。
「王宮への正式連絡は、まだ出していません。出す文言を誤ると、王宮側記録で“移送完了”にされる可能性があります」
リゼが振り向く。
「王宮へは誘拐として連絡してください。移送ではありません」
学園長は頷いた。
「もちろんです」
ユリウスが紙を準備する。
「文面は、“アルト・レインフォード、本人意思に反して黒布馬車により王立学園より奪取。王宮保護移送提案は学園が正式拒否済み。本人同意なし。学園は本件を誘拐として扱う”とします」
リゼが即座に言う。
「“本人の足で移動した可能性あり”という文言は入れないでください」
ユリウスは頷く。
「入れません。必要なら内部記録に“歩行誘導反応下”と記します」
リゼは深く頷いた。
「適切です」
エレオノーラも到着し、現場記録を開始した。
焼き菓子の欠け。
黒蔦刻線。
白布残片。
黒布繊維らしき影状残渣。
搬出用通路の石畳。
壁面の異常。
全てが記録される。
アルトの声が届かなかった場所で、記録だけは残す。
だが、記録だけでは足りない。
追う必要がある。
クラウスが壁の刻線から黒い粉を採取した。
「黒蔦残渣は、東門のものと似ています。しかし、香草への反応を見たい」
エリアナが顔を上げる。
「私の香草袋を使いますか」
「直接置く必要はありません。近づけるだけで十分です。あなたの所有として持ったままで」
エリアナは頷いた。
「はい」
彼女は香草袋を、刻線へ少し近づける。
乾いた甘さ。
焼くと苦味の出るセリーネ草。
ヴェルグラントの香草。
白鐘礼拝堂跡の儀式にも関わっていたかもしれない草。
黒蔦刻線は、しばらく何も反応しなかった。
だが、香りが近づいた瞬間、線の一部がわずかに白く浮いた。
リゼが目を細める。
「反応」
クラウスがすぐに測定具を向ける。
「セリーネ草に対する忌避、または抑制反応です。黒布側が香草を嫌っている可能性がある」
エリアナの目が鋭くなる。
「アルトさんが、香草で戻りかけたから」
ミリアが頷く。
「それを嫌う術式かもしれないわ」
クラウスは慎重に言う。
「断定はできません。ただ、追跡補助にはなる。セリーネ草への反応が残る道を探せば、経路の一部を辿れるかもしれない」
カイがすぐに言った。
「じゃあ、香草を持って追う」
エリアナが首を振る。
「持つのは私です」
カイは一瞬止まり、すぐ頷いた。
「そうだった。エリアナのもの」
エリアナも頷く。
「はい。私のものとして持ちます。アルトさんを道具として探すためではなく、彼が戻るために反応した匂いとして使います」
リゼが静かに言った。
「重要です」
ミリアは現場を見回した。
「焼き菓子の欠けは?」
カイが反応する。
「俺の保存食」
ミリアが頷く。
「アルトさんが持っていたもの。馬車の中へ全部は持ち込まれなかった。欠けが落ちたなら、他にも落ちている可能性があるわ」
カイの目が変わった。
「道に、欠けが残ってるかも」
ロウ教師が頷く。
「探せ。ただし、踏むな。触るな。保護布で拾え」
「はい」
リゼは保護布に包んだ欠けを見た。
カイの保存食は、冗談のような名前を持っていた。
帰ってきても一人にしない用。
伝言が変でも本人に聞く用。
冷たくされても一人じゃない用。
本人の足を勝手に使わせない用。
本人意思を勝手に紙にしない用。
存在しない馬車に乗らない用。
安全な部屋を一人の部屋にしない用。
鐘が鳴らなくても声で知らせる用。
歩きそうになったら名前で呼ぶ用。
その一つが、ここに落ちている。
追跡の手がかりとして。
友人が作った日常が、敵の黒布に奪われきらずに残った。
リゼの指が、保護布の端を少し強く握る。
「追跡班を編成します」
学園長が頷く。
「グレイスさん、ロウ先生、クラウス先生、ユリウス君、門衛長。カイ君、ミリアさん、エリアナさんは――」
「行きます」
カイが言った。
即座だった。
ロウ教師が睨む。
「足手まといになるなら置いていく」
「なりません」
「怒りで走るな」
「走りません。探します。保存食の欠けは俺が一番わかります」
その言葉に、誰もすぐには否定できなかった。
カイは続ける。
「俺は、単独で行きません。命令も聞きます。でも、欠けを見つけるなら、俺が行った方がいいです」
学園長はカイを見る。
それからロウ教師を見る。
ロウ教師は短く言った。
「条件付きだ。俺の指示から外れた瞬間、戻す」
「はい」
ミリアも言った。
「私も行きます。現場で関係確認と伝達整理が必要です。リゼさんが追跡に集中できるように」
リゼがミリアを見る。
「危険です」
「わかっています。でも、リゼさんが全部を背負う方が危険です」
リゼは言葉を失った。
ミリアは続ける。
「私は戦えない。でも、今必要なのは戦闘だけではないわ」
学園長は頷く。
「ミリアさんは後方連絡班として同行。危険区域へは入らない」
「はい」
エリアナも言った。
「私は香草反応の確認のため同行します。戦闘ではなく、痕跡確認です」
クラウスが頷く。
「必要です」
学園長は少し考え、決定した。
「追跡班。先行確認はロウ先生、グレイスさん、クラウス先生、門衛長。後方補助にユリウス君、ミリアさん、カイ君、エリアナさん。エレオノーラさんは学園内記録と連絡統制。私は王宮および外部警備への誘拐通報を行います」
リゼが頷く。
「了解しました」
その時、鐘塔の方角から、音のない振動が走った。
鐘は鳴らない。
だが、空気の底が一瞬だけ沈む。
リゼの手に持った保護布の中で、焼き菓子の欠けがかすかに震えた。
エリアナの香草袋も、微かに香りを強める。
クラウスが顔を上げた。
「術式がまだ動いている」
リゼは即座に問う。
「アルトさんの銀環と連動していますか」
「可能性があります。馬車の中で、冷却誘導が継続しているかもしれない」
カイが息を呑む。
「まだ、冷たいってことか」
ミリアが唇を引き結ぶ。
エリアナが低く言う。
「声を奪われた先でも、匂いは残るかもしれません」
リゼは搬出用通路の奥を見た。
壁は閉じている。
でも、痕はある。
焼き菓子の欠け。
香草の反応。
黒蔦の残渣。
記録から作られた道。
追える。
追わなければならない。
追跡班は、すぐに準備を整えた。
剣を持つ者は剣を取る。
灯りを持つ者は遮蔽灯を持つ。
記録担当は写しを持つ。
エリアナは香草袋を胸の前で持つ。
カイは保存食袋の残りを確認した。
残りは少ない。
だが、欠けの形を覚えるには十分だった。
ミリアはリゼの青いリボンを見た。
少し曲がっている。
彼女は手を伸ばしかけ、止めた。
「直していい?」
リゼは一瞬だけ驚いたようにミリアを見る。
それから頷いた。
「お願いします」
ミリアはリボンを結び直した。
指先は震えていたが、結び目は綺麗だった。
「戻るための目印よ」
リゼは目を伏せた。
「確認しました」
カイが小さく言った。
「アルトにも見えるように」
リゼは頷いた。
「はい」
追跡は、搬出用通路から始まった。
壁面の黒蔦刻線は消えかけている。
クラウスが灯りを当て、エリアナが香草袋を近づける。
白く浮く線。
わずかな反応。
「こちらです」
エリアナが言う。
壁ではなく、壁の足元。
石畳の隙間から、黒い粉が外へ向かって伸びている。
通常の道ではない。
だが、搬出用通路の古い排水溝へ繋がっている。
ロウ教師がしゃがみ込む。
「古い補給用の抜け道か」
ユリウスが資料を確認する。
「学園設立前、この一帯は軍倉庫の外縁でした。古い搬出溝が残っている可能性があります」
リゼの目が鋭くなる。
「補給線」
その言葉で、全員がリゼを見る。
リゼは続ける。
「黒布馬車は、通常門ではなく、古い搬出溝または補給線跡を使った可能性があります」
クラウスが頷いた。
「ありえます。灰銀作戦後処理や北西第三補給枝道との思想が近い。正式な道ではなく、記録に残りにくい補助導線」
リゼの胸に、灰銀突破点の記憶がかすめる。
北西第三補給枝道。
鳴らさぬ谷。
灰色封箱。
自分の印の後にあった削られた受領印。
そして今、学園の搬出用通路から続く古い補給線。
過去の戦場の道が、アルトを奪う道として使われている。
リゼは息を吸った。
「進みます」
ロウ教師が頷く。
「先行は俺とグレイス。足元に気をつけろ。黒布が残っている可能性がある」
カイがすぐに前へ出ようとし、止まった。
ロウ教師が見る。
「よし」
カイは悔しそうに、それでも後方位置へ戻る。
「俺は欠けを見る」
「そうしろ」
古い排水溝の蓋は、半分ずれていた。
重い鉄蓋。
最近動かされた痕がある。
音を消す術式のせいか、擦れ音は周囲に響いていなかった。
蓋の縁に、白い布の繊維が引っかかっている。
黒い刺繍糸も一本。
エレオノーラがいればすぐ記録しただろう。
今はミリアが写しと記録を行う。
「白布繊維、黒刺繍糸。排水溝蓋の縁」
クラウスが封じ針で採取する。
エリアナが香草袋を近づける。
黒刺繍糸が、わずかに縮む。
「反応あり」
カイが地面を見ていた。
灯りを低くする。
石畳の隙間。
そこに、もう一つ欠けがあった。
小さい。
林檎と杏の焼き菓子。
カイの顔が歪む。
「これ、俺の」
リゼが即座に保護布を出す。
「位置を記録」
ミリアが書く。
「搬出用通路排水溝前、焼き菓子欠け二つ目。保存食由来可能性」
カイは喉を鳴らした。
「アルト、持ってた」
エリアナが静かに言う。
「落ちたのか、落としたのか」
その言葉に、リゼの目が動く。
「意図的に落とした可能性」
カイが顔を上げる。
「アルトが?」
リゼは断定しない。
「可能性です。黒布内でも、アルトさんは名前と香草に反応しました。完全に意識を失っていなかった。保存食の欠けを落とす行動が、偶発か意図的か確認はできません。しかし、追跡手がかりとして扱います」
カイは頷いた。
「うん」
ミリアが柔らかく言う。
「どちらでも、残ったことが大事よ」
カイは焼き菓子の欠けを見る。
「アルトは、孤独じゃない」
リゼが頷く。
「はい」
排水溝の先は狭かった。
大人が入るにはかがむ必要がある。
馬車が通ったとは思えない。
だが、クラウスは首を振った。
「物理的な馬車がそのまま通ったのではないかもしれない。記録上の馬車を媒介にして、搬出溝の古い導線へ痕跡だけを移した可能性がある」
ロウ教師が低く言う。
「小難しいが、要はこの先を通った痕があるんだな」
「はい」
「なら行く」
先行班が排水溝へ入る。
湿った石の匂い。
古い鉄。
土。
かすかに、黒布の冷たい匂い。
そして、ほんのわずかに香草の甘苦い匂い。
エリアナが息を吸った。
「セリーネ草の匂いが、残っています」
アルトに近づけた香草袋の匂い。
黒布の中で、一瞬届いた匂い。
それが、排水溝の奥へ細く続いている。
リゼはその匂いを記録するように心に刻む。
「進行方向、北西側」
ユリウスが地図を確認する。
「北西側は、旧倉庫群跡へ繋がります。その先は、旧軍道。現在は封鎖されていますが、さらに外へ出れば、古い補給線跡があります」
北西。
補給線。
リゼの背筋に冷たいものが走る。
ヴァルム補給線。
北西第三補給枝道。
鳴らさぬ谷。
過去にアルトが移されたかもしれない道。
リゼが知らずに、誰かの移送を外側で守ったかもしれない道。
今、その道が再び使われている。
アルトを連れ去るために。
リゼは足を止めそうになった。
一瞬だけ、視界が白くなる。
灰色の箱。
自分の印。
削られた受領印。
知らなかったことにしない。
でも、罪悪感だけにしない。
エリアナの言葉が胸に蘇る。
崩れたのは、あなた自身ではありません。あなたを使った物語です。
そして、アルトの言葉。
僕は孤独な音にはなりません。
リゼは踏み出す。
「進みます」
ロウ教師が横目で見る。
「止まるなとは言ってない。止まるなら理由を言え」
リゼは答える。
「北西補給線に反応しました。過去記録と接続する可能性があります。感情負荷あり。しかし、追跡可能です」
ロウ教師は短く頷いた。
「よし。言えたなら進め」
「はい」
排水溝の先に、古い鉄格子があった。
半分崩れている。
その向こうに、夜風が入ってくる。
外だ。
学園外縁の旧倉庫群跡。
鉄格子の下に、黒い布片が引っかかっていた。
クラウスが採取する。
エリアナが香草袋を近づける。
布片が微かに縮み、白い粉のようなものを落とした。
「反応あり」
ミリアが記録する。
カイが地面を見る。
泥の上に、細い車輪跡のような線がある。
普通の馬車の車輪ではない。
影が引きずったような、黒い二本線。
その横に、また小さな欠け。
今度は香草パンの欠けだった。
カイが震える声で言う。
「これも、俺の」
エリアナがしゃがみ込む。
香草パンの欠けから、セリーネ草の匂いがする。
夜露に濡れているが、まだ残っている。
「アルトさんは、これを持っていました」
ミリアが静かに言う。
「道が繋がっているわ」
リゼは保護布で欠けを包む。
焼き菓子。
香草パン。
点々と残る日常。
黒布の道の上に、アルトが落としたかもしれないもの。
あるいは、こぼれただけかもしれないもの。
どちらでもいい。
それは、追跡線になっている。
旧倉庫群跡の先には、古い軍道が伸びていた。
現在は使われていない。
草が生え、石畳は割れている。
だが、夜の中、その道だけが不自然に冷えていた。
クラウスが測定具を向ける。
「黒蔦残渣、継続。冷却反応あり」
ユリウスが地図を確認する。
「この道を進むと、旧北西補給線の分岐へ出ます。王都外縁の封鎖倉庫群へ向かう道です」
リゼが問う。
「王宮管理区域ですか」
「一部は。現在は民間倉庫と王宮旧保管区が混在しています」
カイが低く言う。
「そこに連れていかれた?」
クラウスは慎重に答える。
「可能性があります。ただし、まだ断定できない」
その時、学園側から連絡役が走ってきた。
息を切らし、しかし短文を崩さない。
「学園長より連絡。王宮へ誘拐通報済み。返答、未着。ただし、王宮文書伝達網に異常あり」
リゼが振り向く。
「異常内容」
連絡役は紙を読み上げる。
「王宮側一部台帳に、アルト・レインフォード王宮保護移送、正式完了の予備登録を確認。学園長、強く抗議。詳細確認中」
空気が凍った。
カイが叫びかけ、両手で口を押さえた。
ミリアの顔から血の気が引く。
エリアナが香草袋を握る手に力を込める。
リゼは、動かなかった。
正式完了。
移送。
王宮保護。
紙の上で、もう終わったことにされようとしている。
アルトが黒布馬車に奪われてから、まだ時間はそれほど経っていない。
彼は、歩きたくないと言った。
一人で行きませんと言った。
それなのに、王宮側台帳では、保護移送が正式に完了しようとしている。
リゼの視界が赤くなりかけた。
だが、ロウ教師の声が飛ぶ。
「グレイス」
リゼは息を吸う。
「はい」
「それは何だ」
問いの意味を、リゼは理解した。
文書に書かれた言葉を、そのまま飲むな。
敵の分類に従うな。
リゼは、はっきり答えた。
「移送ではありません。誘拐です」
ロウ教師が頷く。
「なら、そう追え」
「はい」
リゼは連絡役へ言った。
「学園長へ伝達。本人意思拒否済み。直前発言、歩きたくない、一人で行きません。黒布馬車による奪取。正式完了の記録は本人意思と事実に反します。これは移送ではなく誘拐です」
連絡役が復唱する。
「本人意思拒否済み。直前発言、歩きたくない、一人で行きません。黒布馬車による奪取。正式完了の記録は本人意思と事実に反する。移送ではなく誘拐」
「確認しました」
連絡役が走って戻る。
鐘は鳴らない。
だが、声が走る。
リゼは旧軍道の先を見た。
北西補給線へ続く道。
黒い車輪跡。
香草パンの欠け。
黒布片。
冷たい術式の残り香。
その先に、アルトがいる。
声を奪われているかもしれない。
冷やされているかもしれない。
紙の上では、移送完了にされているかもしれない。
だが、アルトは言った。
僕は、一人で行きません。
その言葉を、リゼは持っている。
カイも。
ミリアも。
エリアナも。
ロウ教師も。
学園も。
持っている。
だから、紙の上の完了では終わらない。
リゼは歩き出した。
「追跡を継続します」
カイが続く。
「アルトは、まだ終わってない」
ミリアが記録板を抱え直す。
「ええ。完了なんて、させない」
エリアナが香草袋を胸に当てた。
「孤独な音には、しません」
夜の旧軍道を、追跡班の灯りが進む。
足元の黒い痕は、北西へ続いている。
遠くで鐘は鳴らない。
けれど、人の声と足音が、奪われた声の先へ向かっていた。




