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灰銀の戦乙女は、制服を知らない  作者: 最後に残った形


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第10章 第14話:歩き出す夜


 夜は、静かだった。


 静かすぎた。


 王立学園の鐘塔は、昼からずっと鳴っていない。


 朝鐘も、昼鐘も、夕鐘も鳴らなかった。


 その代わりに、学園の廊下には人の声が巡っていた。


 鐘塔異常。


 警報は遅れる可能性。


 単独移動禁止。


 教師の声を確認。


 短く、崩れにくい言葉。


 教師と生徒補助が二人一組で走り、伝え、返答を受け取る。


 鐘の代わりに、人が知らせる。


 それが昼から夜まで続いていた。


 だが、夜間休憩室の中に横たわるアルト・レインフォードは、まぶたの裏で、鳴っていない鐘の形を見ていた。


 白い鐘。


 黒い蔦。


 音のない振動。


 次の鐘で、彼は歩く。


 その文字が、夢の中で水面のように揺れている。


 アルトは眠っていた。


 けれど、完全には眠れていなかった。


 夜間休憩室の扉は開いている。


 廊下には教師が二名。


 入口近くにはリゼ・グレイス。


 カイ・ロックハートは廊下の椅子で待機している。


 ミリア・ファルネーゼとエリアナ・ルクス・ヴェルグラントは隣室。


 ロウ教師は廊下の奥。


 誰もアルトを一人にしていない。


 衝立は視線だけを遮り、声は通る。


 安全な場所は、声が届く場所であってほしい。


 アルトがそう記録した場所だった。


 夜半前の確認は、問題なく終わった。


 リゼの声。


「状態を報告してください」


 アルトは半分眠ったまま答えた。


「痛みなし。熱なし。冷えなし。声なし。現在地、夜間休憩室。孤独ではありません」


 カイの声。


「アルト」


「届いています」


 ミリアの声。


「足は?」


「自分で動かせます。どこにも向かっていません」


 エリアナの声。


「香りは必要ですか」


「今は大丈夫です」


 リゼの声。


「確認しました」


 それで、一度眠りに戻った。


 そして、次の時刻。


 鐘は鳴らなかった。


 しかし、銀環が震えた。


 布の下。


 左手首。


 痛みではない。


 熱でもない。


 冷たい振動が、骨の内側を叩いた。


 音はない。


 声もない。


 ただ、白い鐘が、夢の底で一度だけ揺れた。


 アルトは目を開けなかった。


 目を閉じたまま、身体を起こした。


 寝台の軋む音が、小さく鳴る。


 リゼが即座に顔を上げた。


「アルトさん」


 返事はなかった。


 アルトは衝立の影の中で、ゆっくり足を床へ下ろす。


 右足。


 左足。


 裸足ではない。


 夜間用の柔らかい靴を履いたままだ。


 床に触れる。


 自分で動かしたのか。


 動かされたのか。


 それが、本人にもわからない。


「アルトさん。状態を報告してください」


 リゼの声が届く。


 届くはずだった。


 だが、アルトの耳の中では、その声が水の向こうから聞こえていた。


 近いのに遠い。


 知っている声なのに、薄い。


 まるで、白い布を一枚、声の上にかけられたようだった。


 リゼは立ち上がる。


 剣はない。


 だが、身体が護衛の動きになっている。


 衝立を倒さない。


 驚かせない。


 塞がない。


 しかし、危険方向へ進めば止められる位置へ入る。


「現在地」


 アルトは答えない。


 寝台から立ち上がる。


 足元はふらついていない。


 むしろ、妙に静かだった。


 夢遊のようで、訓練された歩き方にも見える。


 リゼの背中に冷たいものが走る。


 歩かされている。


 だが、引きずられてはいない。


 本人の足で。


「カイさん」


 リゼが低く呼ぶ。


 廊下の椅子で浅く目を閉じていたカイが跳ね起きる。


「何」


「名前呼称」


 カイは一瞬で状況を理解した。


 廊下から、扉の前まで出る。


 叫ばない。


 大声で混乱させない。


 届く声で。


「アルト」


 アルトの右足が、一歩前へ出た。


 カイがもう一度呼ぶ。


「アルト」


 足が止まらない。


 衝立の端を回り、扉の方へ向かう。


 ミリアが隣室から出てきた。


 夜着の上に羽織を掛けている。


 表情は一瞬で覚醒していた。


「アルトさん。現在地は?」


 返事はない。


 エリアナも香草袋を持って出てくる。


 袋は手元にある。


 置かない。


 彼女のものとして持っている。


「アルトさん。香りを近づけます」


 エリアナが少しだけ近づく。


 乾いた甘さと、苦味。


 けれど、アルトの足は止まらない。


 左手首の布の下で、銀環が冷たく沈んでいる。


 リゼが確認する。


「目は開いていますか」


 ミリアが横から見る。


「半分。焦点が合っていないわ」


 ロウ教師が廊下の奥から歩いてくる。


 足音は低く、重い。


「進行方向は」


 リゼが答える。


「扉方向。廊下へ出ようとしています」


「止めろ。ただし、倒すな」


「了解しました」


 アルトが扉の敷居を越えかけた瞬間、リゼは彼の肩ではなく、前腕へ手を添えた。


 掴まない。


 押さえつけない。


 転倒を防ぐために、方向をずらす。


「アルトさん。現在地、夜間休憩室。扉前。あなたは一人ではありません」


 アルトの唇がわずかに動いた。


 声は出ない。


 ミリアが近づく。


「怖い?」


 反応はない。


 カイがまた呼ぶ。


「アルト。俺だ。カイ」


 その名前に、アルトの睫毛が少し震えた。


 だが、足は前へ出る。


 リゼの手が力を増す。


 それでも、彼を縛らない。


 肩を押さえ込まない。


 だが、廊下の先へ進ませない。


「足、停止支援」


 リゼが言った。


 ロウ教師がすぐに反応する。


「膝を折らせるな。重心を戻せ」


 リゼはアルトの進行方向を斜めへずらした。


 カイが反対側に入り、彼の肘の近くへ手を添える。


「アルト、止まるぞ。俺もいる」


 ミリアが声を合わせる。


「現在地は夜間休憩室。扉は開いている。廊下には先生がいる。あなたは一人ではないわ」


 エリアナが香草袋を胸元の高さへ持ち上げる。


「これは私の香草袋です。あなたを動かすものではありません。戻るための匂いです」


 香りが届く。


 アルトの唇が小さく動いた。


「……鐘」


 全員が息を止める。


 リゼがすぐに問う。


「鐘が聞こえますか」


 アルトの目は開いている。


 だが、どこも見ていない。


「鳴って……ない」


「はい。鐘は鳴っていません」


「でも」


 アルトの左手首が、小さく震えた。


「呼ばれてる」


 カイの顔が歪む。


「誰に」


 アルトは答えない。


 足がまた前へ出ようとする。


 今度は、廊下の奥。


 夜間休憩室から本館へ続く方向。


 そこから先は、中庭へ出られる。


 中庭を抜ければ、鐘塔方向にも、東門方向にもつながる。


 リゼの声が鋭くなる。


「進行方向、本館側」


 ロウ教師が廊下にいた教師へ指示する。


「中庭側扉を閉鎖。ただし、音を立てすぎるな」


「はい」


 教師が走る。


 だが、その足音が遠ざかった瞬間、廊下の灯りが一つ、ふっと暗くなった。


 次いで、もう一つ。


 夜間休憩室の外、廊下の壁にかけられていた連絡布が、風もないのに揺れた。


 白い布。


 黒い刺繍。


 エリアナが顔色を変える。


「布です」


 リゼが視線を走らせる。


 廊下の角。


 昨日までなかった場所に、細い白布が結ばれている。


 黒い蔦の刺繍。


 白鐘を歪めた紋様。


 声を外へ出さない布。


 その瞬間、カイの声が少し遠くなった。


「アルト!」


 叫んだつもりなのに、声が廊下へ吸われる。


 ミリアが即座に言う。


「白布を見ないで。声が鈍っているわ」


 ロウ教師が低く舌打ちした。


「廊下にも仕込んでいたか」


 リゼはアルトの腕に添えた手を離さない。


 しかし、彼の身体は、白布のある方へ引かれるように向きを変えた。


 廊下の角。


 白布。


 その先。


 中庭へ出る小扉。


 リゼが判断する。


「危険方向。身体停止に移行します」


 アルトの本人意思は、既に何度も確認されている。


 歩かない。


 鐘塔へ行かない。


 東門へ行かない。


 一人で行かない。


 今の歩行は、その意思と一致しない。


 だから止める。


 リゼはアルトの前腕を支え、カイと協力して重心を落とそうとした。


「アルトさん。止まります」


 その瞬間、アルトの左手首が銀色に光った。


 熱ではない。


 冷たい光。


 白い鐘の輪郭のような微光が、布の下から漏れる。


 廊下の白布が、黒く震えた。


 カイの手が弾かれる。


「っ!」


 リゼは弾かれなかった。


 だが、手の中のアルトの腕が氷のように冷たくなる。


「冷却上昇。術式反応」


 リゼの声は、記録のように冷静だった。


 しかし、その目は揺れている。


「アルトさん。戻ってください。現在地、王立学園夜間休憩室前廊下。あなたは一人ではありません」


 アルトの唇が動く。


「……僕は」


 声が小さい。


 白布が吸う。


 エリアナが香草袋を近づける。


 しかし、今度は香りが届く前に、廊下の角から黒い布が落ちた。


 天井の梁から、ふわりと。


 白布ではない。


 黒い布。


 薄く、冷たく、重さがないように見える。


 それが音もなく広がり、リゼとアルトの間に落ちた。


 リゼは即座に手を伸ばす。


 しかし、黒布は彼女の指先を滑る。


 掴めない。


 布なのに、煙のようだった。


 次の瞬間、廊下の声が消えた。


 完全にではない。


 だが、ひどく遠くなる。


 カイが何か叫んでいる。


 ミリアが指示を出している。


 ロウ教師の低い声もある。


 エリアナの香草袋の匂いも、薄い。


 アルトは目を開けていた。


 開けているのに、夢の中にいる。


 黒布の向こうで、白い鐘が揺れる。


 来てはいけない。


 鐘を鳴らさないで。


 友達を、扉に近づけてはいけない。


 声が重なる。


 誰の声か、わからない。


 母の声でもない。


 リゼの声でもない。


 エリアナの語った古い言葉でもない。


 しかし、知っている。


 孤独な音はよく響く。


 孤独なままでは砕ける。


 アルトは歩いた。


 右足。


 左足。


 自分の足。


 でも、自分の意思ではない。


 それがわかるのに、止まらない。


「アルト!」


 カイの声が、黒布の向こうから届いた。


 遠い。


 それでも、名前だけは届く。


 アルトの足が一瞬止まる。


 リゼが黒布を越えようとする。


 だが、廊下の白布が黒く震え、彼女の声を鈍らせる。


「アルトさん!」


 届かない。


 リゼは歯を食いしばる。


 剣がない。


 だが、剣があってもこれは斬れないかもしれない。


 ミリアが叫ぶ。


「名前を続けて!」


 カイは喉が裂けそうになるのを抑えながら、何度も呼んだ。


「アルト! アルト、ここだ! 俺だ、カイだ!」


 エリアナも声を重ねる。


「アルトさん。香草の匂いを思い出してください。これは命令ではありません。戻るための匂いです」


 アルトの指がわずかに震えた。


 左手首が冷たい。


 だが、胸の奥で、苦い香草の匂いが残っている。


 カイの保存食。


 ミリアの確認。


 リゼの記録。


 エリアナの香草袋。


 声が、完全には消えていない。


 アルトは唇を動かした。


「僕は……」


 黒布が揺れる。


 廊下の先の小扉が、内側から開いた。


 閉鎖されたはずの中庭側扉。


 教師が向かったはずの場所。


 だが、そこには教師の姿がない。


 代わりに、白い布が扉の取っ手へ巻かれている。


 黒い刺繍が、静かに蠢いていた。


 ロウ教師が走る。


 白布を剥がそうとする。


 しかし、指先が触れる寸前、彼の腕が一瞬重くなった。


「くそ」


 彼は布ではなく、取っ手の金具ごと蹴った。


 鈍い音。


 扉は完全には閉まらない。


 アルトの足は、その隙間へ向かう。


 リゼが黒布の縁を掴もうとしながら叫ぶ。


「アルトさん、本人意思を確認します! 歩きますか!」


 アルトの声は、かすかに返った。


「……歩きたく、ない」


 リゼの目が見開かれる。


「確認しました!」


 その一言を受けた瞬間、彼女は迷わなかった。


 黒布越しにアルトへ飛び込む。


 完全に見えない。


 手探り。


 だが、アルトの肩の位置を記憶していた。


 護衛位置。


 距離。


 歩幅。


 彼の重心。


 リゼの手が、アルトの肩に触れた。


 次の瞬間、左手首の銀環が冷たい光を強める。


 黒布がリゼの腕へ絡みついた。


 痛みはない。


 だが、感覚が薄れる。


 指先が冷たい。


 声が遠い。


 それでも、リゼは離さなかった。


「私は、あなたを孤独な音にしません」


 黒布の向こうで、アルトの瞳が一瞬だけ焦点を結んだ。


「リゼ……さん」


 カイが叫ぶ。


「アルト!」


 ミリアの声。


「現在地、夜間休憩室前廊下!」


 エリアナの声。


「あなたは一人ではありません!」


 アルトの唇が震える。


「僕は……一人で……行きません」


 その瞬間、廊下の奥で、鳴っていない鐘が鳴った。


 音はなかった。


 だが、全員の身体がわずかに重くなる。


 灯りが一斉に暗くなる。


 黒布が膨らんだ。


 リゼの手から、アルトの肩の感触が消える。


「アルトさん!」


 リゼが前へ踏み込む。


 だが、床の感覚が一瞬ずれる。


 廊下が伸びたように見えた。


 距離が狂う。


 リゼは転びかけ、ロウ教師に肩を掴まれる。


「踏み込むな、ずらされてる!」


 黒布の向こうで、アルトが小扉を越えた。


 中庭。


 夜の冷たい空気。


 鐘塔は見えない。


 だが、黒い蔦の影が地面を這っている。


 東門方向ではない。


 中庭の外れ、普段は使われない搬出用通路。


 そこに、馬車があった。


 存在しないはずの馬車。


 王宮の紋も、正式番号もない。


 ただ、側面に白い布がかけられている。


 布には黒い蔦。


 白鐘を絡め取る紋様。


 車輪は音を立てていない。


 馬も嘶かない。


 まるで、記録の中から現れた影のような馬車だった。


 アルトの足が止まりかける。


 カイの声がまだ聞こえている。


 遠くから。


「アルト! 戻れ!」


 戻りたい。


 アルトはそう思った。


 戻りたい。


 夜間休憩室へ。


 開いた扉へ。


 リゼの声へ。


 カイの保存食へ。


 ミリアの確認へ。


 エリアナの香草へ。


 学園へ。


 左手首が冷たい。


 胸が苦しい。


 声を出そうとする。


「僕は……」


 黒布が口元へかかる。


 声が吸われる。


「一人で……」


 言葉が届かない。


 馬車の扉が開いた。


 中は暗い。


 白布ではなく、黒布が内側に垂れている。


 冷たい布。


 声を奪う布。


 そこから、誰かの手が伸びた。


 顔は見えない。


 手袋をした手。


 王宮使用人のものにも、監察局のものにも、ただの御者のものにも見える。


 分類できない手。


 その手がアルトの腕を取る。


 アルトは抵抗しようとした。


 右足を引く。


 左足を止める。


 自分の足。


 僕の足。


 僕が確認して使う足。


 カイの声が届く。


 リゼの声も、微かに届く。


 ミリアの声。


 エリアナの声。


 全部が遠い。


「アルト!」


 黒布が揺れる。


 馬車の中へ、アルトの身体が引き込まれる。


 リゼが中庭へ飛び出した。


 黒布の干渉を抜け、夜気の中へ。


 彼女は走った。


 剣はない。


 それでも走る。


 カイも続く。


 ミリアが教師へ叫ぶ。


「東門ではありません! 搬出用通路!」


 エリアナが香草袋を握りしめる。


「セリーネ草の香り、馬車側へ!」


 彼女は香草袋を投げなかった。


 投げれば、それは彼女のものではなくなる。


 だから、袋を握ったまま走った。


 香りを、自分の手から届けるために。


 ロウ教師が連絡役へ怒鳴る。


「鐘を待つな! 声で回せ! 搬出用通路、黒布馬車!」


 廊下の奥で、教師が走り出す。


 夜間連絡網が起動する。


 鐘は鳴らない。


 だが、人が走る。


「搬出用通路!」


「黒布馬車!」


「単独追跡禁止!」


「教師へ連絡!」


 声が夜の学園へ広がっていく。


 馬車の扉が閉まりかける。


 リゼはあと数歩の距離まで迫った。


「アルトさん!」


 扉の隙間から、アルトの顔が見えた。


 目は開いている。


 夢と現実の間で揺れている。


 唇が動く。


 今度は、黒布に完全には吸われなかった。


「僕は……孤独では……」


 声が途中で切れる。


 馬車の扉が閉まる。


 リゼの手が扉へ届く寸前、白布が車体からほどけ、彼女の指先を弾いた。


 痛みではない。


 冷たい拒絶。


 車輪が回る。


 音がない。


 馬車が搬出用通路へ滑る。


 カイが追おうとする。


 ロウ教師が怒鳴る。


「単独で行くな!」


 カイは足を止めた。


 止めた。


 それでも、拳は震えていた。


「アルト!」


 馬車は門へ向かわなかった。


 東門でも、正門でもない。


 搬出用通路の奥、古い倉庫裏へ続く影の中へ滑り込む。


 そこに門はないはずだった。


 壁があるはずだった。


 だが、黒蔦の刻線が一瞬だけ浮かび、壁の影が裂けるように開いた。


 馬車はそこへ消えた。


 完全な音も、車輪の跡も、残さずに。


 ただ、地面に小さな欠片が落ちた。


 焼き菓子の欠け。


 カイの保存食。


 歩きそうになったら名前で呼ぶ用。


 アルトが寝る前に、少しだけ持っていたもの。


 その欠けが、夜露に濡れた石畳の上に残っていた。


 リゼは膝をつきかけた。


 だが、つかなかった。


 手を伸ばし、欠片に直接触れず、保護布を出す。


 記録する。


 残す。


 追うために。


 彼女の声は、ひどく静かだった。


「アルトさん、所在不明。搬出用通路より黒布馬車に収容。本人意思、単独移動拒否を事前確認済み。直前発言、“歩きたくない”、“一人で行きません”。これは移送ではありません」


 カイが息を荒くして言う。


「誘拐だ」


 リゼは頷いた。


 灰銀の髪の青いリボンが、夜風で揺れる。


「はい」


 ミリアが震える手で記録板を受け取り、声を整える。


「連絡網へ。アルト・レインフォード、黒布馬車により搬出用通路から奪取。本人意思は拒否。単独追跡禁止。教師、学園長、全門封鎖」


 エリアナは香草袋を胸に押し当てたまま、馬車が消えた影を見ていた。


 怒りで顔が白い。


「声を奪って、足を使って、記録の外へ出した」


 ロウ教師が低く言う。


「泣くなとは言わん。だが、立て」


 リゼは立ち上がった。


 目は濡れていない。


 だが、表情は、戦場でさえ見せなかったほど強張っていた。


「追跡します」


 ロウ教師が問う。


「何として」


 リゼは一瞬だけ息を吸った。


 灰銀の戦乙女として。


 王宮の剣として。


 護衛任務として。


 そのどれでもない。


「リゼ・グレイスとして。アルトさんの友人として。本人意思を奪った誘拐を追跡します」


 カイが焼き菓子の欠けを見た。


 拳を握り、声を抑える。


「アルトは、一人で行ってない」


 ミリアが頷く。


「ええ。記録するわ」


 エリアナも、香草袋を握りしめて言った。


「孤独な音には、しません」


 夜の学園を、鐘ではなく、人の声が走っていく。


 搬出用通路。


 黒布馬車。


 誘拐。


 本人意思拒否。


 全門封鎖。


 声は何度も受け渡され、暗い廊下を渡り、中庭を越え、学園長室へ届く。


 鐘は鳴らない。


 それでも、学園は沈黙しなかった。


 馬車の中で、アルトは黒布に包まれていた。


 声は遠い。


 身体は冷たい。


 左手首の銀環は、熱を持たず、冷たく沈んでいる。


 目の前には闇。


 足元は揺れている。


 自分の足で歩いた。


 でも、自分の意思ではなかった。


 それだけは、わかる。


 口元を覆う黒布の奥で、アルトは必死に息を吸った。


 声にならない声で、言葉を作る。


 リゼさん。


 カイさん。


 ミリアさん。


 エリアナさん。


 近くにいてほしい人の名前を、一人ずつ思い浮かべる。


 孤独ではない。


 孤独ではない。


 孤独ではない。


 黒布が冷たく、言葉を吸う。


 それでも、アルトは最後に、消えかける意識の中で口を動かした。


「僕は、一人で行きません」


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