第10章 第13話:次の鐘で、彼は歩く
次の鐘で、彼は歩く。
その文字が見つかったのは、鐘塔の黒蔦紋を剥がした後だった。
王立学園の鐘塔は、昨日から沈黙している。
朝鐘も、昼鐘も、夕鐘も鳴らなかった。
そのかわり、廊下には人の声が渡っていた。
鐘塔異常。
警報は遅れる可能性。
単独移動禁止。
教師の声を確認。
短い言葉を、教師と生徒補助が二人一組で伝えて回る。
カイ・ロックハートは、その連絡係の一人になっていた。
走る。
止まる。
伝える。
確認する。
次へ渡す。
突撃ではない。
連絡。
鐘の代わりに、声を運ぶ。
その仕組みが学園に広がり始めた翌朝、クラウス・ヴァイゼルが鐘塔から戻ってきた。
王立学園保護資料室。
長机の上に、遮蔽板が置かれる。
その上には、黒い蔦紋の欠片があった。
昨日見つかったものとは別の、もっと薄い膜のような断片。
鐘塔の響き穴の奥に貼りついていたらしい。
クラウスはそれを直接見せる前に、全員へ確認した。
「強い反応が出る可能性があります。アルト君、見るかどうかを確認します」
アルト・レインフォードは左手首に触れた。
痛みなし。
熱なし。
冷え、ごく少し。
声なし。
昨日の朝、鐘は鳴らなかった。
でも、銀環だけが震えた。
あの無音の振動は、今も手首の奥に記憶として残っている。
「見ます。ただし、強い冷えが出たら休憩します」
学園長が頷いた。
「本人意思、確認しました」
リゼ・グレイスがアルトの隣に立つ。
灰銀の髪には青いリボン。
制服は整っている。
腰に剣はない。
だが、彼女の視線は、黒蔦紋の欠片とアルトの足元を交互に確認している。
昨日から、足の確認は通常手順になっていた。
右足。
左足。
自分で動かせるか。
どこへ向かおうとしているか。
本人の足で来る。
黒札の文言は、まだ全員の中に残っている。
クラウスが遮蔽板を少し傾けた。
黒い膜の裏に、細い文字が浮かび上がる。
次の鐘で、彼は歩く。
アルトの左手首が、一気に冷えた。
痛みはない。
熱もない。
声もない。
だが、氷が血管に入ったように、冷たさが手首から肘へ、肩へ、胸へ広がった。
「痛みなし……熱なし。冷え強。声なし。“次の鐘で、彼は歩く”で反応しました」
リゼが即座に問う。
「現在地」
「王立学園保護資料室」
「名前」
「アルト・レインフォード」
「同席者」
「リゼさん、ミリアさん、カイさん、エリアナさん、学園長、ユリウス先輩、エレオノーラ先輩、クラウスさん、ロウ先生」
「孤独ですか」
「いいえ」
「足は」
アルトは自分の足を見る。
右足。
左足。
靴底が床に触れている。
動かす。
爪先を少し上げる。
かかとを戻す。
自分で動く。
「自分で動かせます。しびれなし。どこかへ向かう感じはありません」
「確認しました」
冷えは強いままだった。
だが、声はない。
誰かの命令も聞こえない。
ただ、文字だけがそこにある。
次の鐘で、彼は歩く。
彼。
名前ではない。
アルトでもない。
鍵でも、銀環反応でもない。
ただ、彼。
対象としての彼。
リゼが低く言った。
「アルトさんの名前がありません」
クラウスが頷く。
「はい。対象者名ではなく、機能対象として扱っている可能性がある」
エリアナ・ルクス・ヴェルグラントの手が、香草袋を握る。
「人ではなく、動くものとして書いています」
ミリア・ファルネーゼがアルトを見る。
「怖さは」
アルトは息を吸った。
胸の中が冷たい。
「怖いです」
声が震えた。
「僕の足で歩くのに、僕の意思じゃないのが怖いです」
その言葉を出した瞬間、部屋の空気が変わった。
誰もすぐには否定しなかった。
慰める前に、言葉を受け取った。
リゼが静かに言う。
「確認しました」
アルトは続けた。
「連れていかれるなら、まだ、違うと言える気がします。でも、自分の足で歩いていたら、僕が行ったことにされるかもしれません」
カイが低く言った。
「されない」
ミリアがカイを見る。
カイは拳を握り、しかし声を抑えたまま続けた。
「されないように、俺たちが見る。アルトが変に歩き出したら、名前を呼ぶ。鍵とかじゃなく、アルトって」
アルトの左手首の冷えが、ほんの少し下がった。
「冷え少し低下。声なし。名前で呼ぶ、で落ち着きました」
リゼが記録する。
「名前呼称による安定傾向。確認」
クラウスは黒蔦紋の欠片を遮蔽板越しに見ながら説明した。
「鐘塔の術式は、通常鐘や警報鐘を学園全体へ響かせない一方で、銀環や黒札系統の反応対象へ無音の振動を送る。今回の文言から考えると、“次の鐘”は通常の鐘音ではなく、術式による無音振動を指している可能性が高い」
ユリウスが確認する。
「次に鐘塔が反応した時、アルト君へ歩行誘導が入る可能性がある、ということですか」
「可能性があります」
アルトの左手首が再び冷える。
「痛みなし。熱なし。冷え中。声なし」
リゼがすぐに言う。
「足確認」
「自分で動かせます。しびれなし。歩きたい感じはありません」
「確認しました」
学園長は顔を上げた。
「鐘塔の使用は全面停止。通常鐘、警報鐘ともに停止を継続します」
クラウスが頷く。
「ただし、術式側が鐘の物理音を必要としない可能性があります。鐘塔の機構そのもの、または時間帯に連動する可能性もあります」
ロウ教師が壁際から言う。
「つまり、鐘を止めても、鳴らない鐘は来るかもしれん」
「はい」
部屋が重くなる。
鐘は鳴らない。
でも、銀環だけが震える。
次の鐘で、彼は歩く。
それが、いつ来るのか。
誰にもわからない。
ミリアが静かに言った。
「では、“歩き出した時”の手順を決めましょう」
リゼはすぐに頷いた。
「はい」
ミリアはアルトを見る。
「拘束されるのは怖い?」
アルトは少し迷い、正直に言った。
「怖いです」
リゼの表情がわずかに動く。
おそらく、彼女は拘束も選択肢に入れていた。
守るために。
だが、昨日から何度も確認している。
保護と隔離。
安全と孤独。
身体を止めることと、本人意思を守ること。
それらは簡単に同じではない。
アルトは続けた。
「動き出したら危ないのはわかります。でも、最初から縛られると、自分の足が自分のものじゃなくなるみたいで怖いです」
ミリアが頷く。
「では、まず声をかけ続ける。現在地、名前、足の感覚、同席者を確認する。必要な時だけ、転倒防止として支える」
リゼが記録する。
「物理拘束は最初の手段にしません。声かけ、本人確認、歩行方向確認、転倒防止支援を優先」
ロウ教師が言う。
「ただし、窓や階段へ向かったら止めろ。本人意思の尊重と、落ちるのを見ていることは違う」
リゼが即答する。
「はい」
カイが手を挙げる。
「俺は名前を呼びます」
リゼが頷く。
「役割、確認します」
カイはアルトを見る。
「アルトって呼ぶ。鍵じゃない。銀環じゃない。彼でもない。アルト」
アルトの胸が少し温かくなる。
「はい」
ミリアが続ける。
「私は状態と感情を確認するわ。怖い、足が変、声が遠い、そういうことを言えるように」
エリアナが香草袋を少し持ち上げる。
「私は香草袋を私のものとして持ちます。必要なら香りを近づけます。銀環を操作する道具ではなく、戻るための匂いとして」
リゼが頷く。
「私は位置と退避経路を管理します。歩行誘導が発生した場合、進行方向を確認し、危険方向なら停止支援。本人確認会話を継続します」
学園長が言う。
「教師側は、鐘塔時間帯ごとに連絡網を強化します。次の鐘に相当する時刻、つまり昼、夕、夜間確認時刻を重点警戒」
エレオノーラが記録する。
歩行誘導対策。
物理拘束は第一手段にしない。
声かけ優先。
名前呼称。
現在地確認。
同席者確認。
足感覚確認。
香草による安定補助。
転倒防止支援。
危険方向時のみ身体停止。
鐘塔時刻重点警戒。
アルトはそれを見て、少しだけ息を吐いた。
怖さはある。
でも、何をするかが決まると、冷えは少し下がる。
「冷え中より下。声なし」
ミリアが微笑む。
「良好ね」
その日の午前授業は中止になった。
鐘塔の術式確認と、歩行誘導対策の準備が優先された。
ただし、アルトを閉じ込めはしない。
保護資料室、開放休憩室、中庭の一部を使い、声が届く場所で過ごす。
安全室はまだ使用停止中。
白布黒刺繍片が見つかったため、全室点検が終わるまで使わない。
昼前、カイが保存食袋を持って戻ってきた。
彼は午前中、教師と一緒に連絡網の確認をしていた。
少し汗をかいている。
しかし、顔は真剣だった。
「今日の名前、決まった」
ミリアが尋ねる。
「何かしら」
カイは少し息を整えてから言った。
「歩きそうになったら名前で呼ぶ用」
アルトは、その包みを見た瞬間、左手首ではなく胸が温かくなった。
「それがいいです」
リゼが頷く。
「非常に適切です」
エリアナも静かに言う。
「はい。今日は、それがよいです」
開放休憩室で、包みが開かれる。
小さな焼き菓子と香草パンの欠け。
アルトは成分を読み上げた。
「焼き菓子は小麦、卵、乳、林檎、杏。香草パンは小麦、卵、乳、蜂蜜、香草候補二、香草候補三。蜂蜜減量版。香草はエリアナさん調整です」
エリアナが頷く。
「確認しました」
香草パンを噛む。
苦味。
甘さ。
今日は、足元を意識しながら食べた。
椅子に座っている。
足は床についている。
自分で動かせる。
どこにも向かっていない。
「足、自分で動かせます。どこにも向かっていません」
アルトが言うと、カイがすぐ頷いた。
「確認した」
リゼも記録する。
「日常時足確認、良好」
ミリアが言う。
「怖い時だけでなく、普通の時にも確認するのは大事ね」
アルトは頷いた。
「はい」
昼鐘の時刻が近づく。
鐘塔は停止中。
鐘は鳴らないはずだ。
それでも、全員が自然と静かになった。
時計の針が、昼を指す。
鐘は鳴らない。
廊下の向こうで、教師の声が聞こえる。
「昼時刻確認。鐘塔停止中。単独移動禁止。声を確認」
別の声が返す。
「確認しました」
その瞬間、アルトの左手首が震えた。
音はない。
冷たい振動。
朝と似ているが、少し強い。
アルトは反射的に椅子から立ち上がりかけた。
右足が床を押す。
膝が動く。
身体が、ほんの少し前へ出る。
「アルト」
カイの声が届いた。
大声ではない。
しかし、まっすぐ。
「アルト」
二度目。
名前。
鍵ではない。
彼でもない。
アルト。
リゼが即座に言う。
「現在地」
アルトは息を詰める。
冷たい。
足が前へ行きたいような気がする。
いや、気がするだけかもしれない。
「王立学園開放休憩室」
「名前」
「アルト・レインフォード」
「足は」
「右足が……動きかけました。自分で止めています。しびれなし。痛みなし」
ミリアがすぐに言う。
「怖い?」
「怖いです」
「言えたわ」
エリアナが香草袋を近づける。
乾いた甘さと、苦味。
戻る匂い。
アルトは深く息を吸った。
左手首の冷えが少し下がる。
「痛みなし。熱なし。冷え中。声なし。香草で少し低下。足、止まっています」
リゼはアルトの前ではなく、斜め横に立っている。
逃げ道を塞がない。
だが、転倒したら支えられる位置。
「進行方向は」
アルトは自分の身体の向きに意識を向けた。
扉。
廊下。
鐘塔方向ではない。
東門でもない。
ただ、外へ出ようとしたような前方感覚。
「扉方向。鐘塔か東門かは不明です。はっきりしません」
「確認しました。座れますか」
アルトはゆっくり椅子へ戻った。
膝が少し震えている。
だが、自分で座れた。
「座れました。足、自分で動かせます。冷え少し低下。声なし」
カイが息を吐く。
「呼べた」
ミリアが頷く。
「届いたわ」
アルトはカイを見る。
「届きました」
カイの表情が少しだけ崩れそうになり、すぐに真面目に戻る。
「よし」
リゼは記録する。
昼時刻。
鐘音なし。
銀環冷え振動。
右足歩行開始しかけ。
名前呼称で停止。
現在地確認。
香草で冷え低下。
自力着席。
本人意思、歩行拒否。
リゼが問う。
「本人意思を確認します。歩きますか」
「歩きません」
「扉へ向かいますか」
「向かいません」
「鐘塔へ行きますか」
「行きません」
「東門へ行きますか」
「行きません」
「確認しました」
アルトは両手で記録表を持った。
指が少し震えている。
しかし、書ける。
次の鐘で、彼は歩く。
昼時刻、鐘なし。
銀環振動。
右足が動きかけた。
カイさんが名前を呼んだ。
止まった。
香草で戻った。
僕は歩きません。
書き終えた時、冷えはさらに下がった。
「冷え少し。声なし」
ロウ教師が開放休憩室の入口から見ていた。
低く言う。
「よく止まった」
アルトは顔を上げる。
「怖かったです」
「それも記録しろ」
「はい」
書き足す。
怖かった。
でも、止まれた。
昼の反応は、すぐに学園長とクラウスへ報告された。
クラウスは険しい表情で聞いた。
「物理鐘は鳴っていない。だが昼時刻に術式が起動した。やはり鐘の音ではなく、時刻または鐘塔機構の残留反応に連動している可能性が高い」
学園長が頷く。
「夕鐘、夜間鐘相当時刻を重点警戒。アルト君はその時刻、開放休憩室または人員の多い場所にいること。安全室は使わない」
リゼが答える。
「はい」
ミリアが追加する。
「本人確認会話と名前呼称を事前に行いましょう。反応が出てからだけでなく、前から“ここにいる”を確認する」
リゼが頷く。
「同意します」
午後は授業参加を見送ることになった。
アルト本人も同意した。
「今日は、歩きかけたので休みたいです。でも、一人で部屋に戻るのではなく、開放休憩室にいたいです」
学園長は頷く。
「本人意思、確認しました」
午後の間、アルトは休憩室で過ごした。
リゼは近くにいる。
ミリアは連絡文の修正を手伝いながら、時々声をかける。
カイは教師と一緒に連絡網を回り、戻るたびに「アルト」と名前を呼んだ。
エリアナは香草袋を手元に持ち、必要な時だけ香りを近づけた。
夕鐘相当時刻が近づく。
今日は鐘は鳴らない。
だが、昼に反応があった。
全員が準備を整える。
リゼが事前確認を行う。
「現在地」
「王立学園開放休憩室」
「名前」
「アルト・レインフォード」
「同席者」
「リゼさん、ミリアさん、カイさん、エリアナさん、ロウ先生。廊下に教師二名」
「足は」
「自分で動かせます。しびれなし。どこにも向かっていません」
「本人意思」
「歩きません。鐘塔へ行きません。東門へ行きません。一人で行きません」
「確認しました」
時計の針が夕刻を指す。
鐘は鳴らない。
廊下の声がする。
「夕時刻確認。鐘塔停止中。単独移動禁止。声を確認」
返答。
「確認しました」
アルトの左手首が冷えた。
昼より弱い。
振動もある。
だが、右足は動かなかった。
「痛みなし。熱なし。冷え中より弱い。声なし。振動あり。足、動いていません」
カイがすぐに言う。
「アルト」
ミリア。
「現在地はわかっている?」
「開放休憩室」
エリアナが香草袋を近づける。
リゼが確認する。
「歩きますか」
「歩きません」
「確認しました」
冷えはすぐに下がった。
昼より早い。
アルトは息を吐いた。
「止まれました」
カイが笑いそうになり、少しだけ泣きそうな顔になった。
「止まれた」
リゼが記録する。
夕時刻。
銀環冷え振動。
足動作なし。
名前呼称、現在地確認、香草で安定。
反応低下。
その後、学園長室で報告が行われた。
クラウスは解析結果をまとめた。
「昼、夕、いずれも鐘音なしで銀環反応。昼は歩行開始しかけ、夕は足動作なし。事前本人確認と名前呼称、香草、同席者確認が効果を示している可能性があります」
リゼが頷く。
「手順継続します」
学園長は深く息を吐いた。
「夜間が最も危険です」
誰も否定しなかった。
夜間。
眠り。
意識が薄い時間。
本人確認会話が難しくなる。
次の鐘。
彼は歩く。
その言葉が、また重くなる。
アルトは左手首に触れた。
痛みなし。
熱なし。
冷え、ごく少し。
声なし。
「怖いです」
アルトは言った。
「寝ている時に、自分の足が動いたら怖いです」
リゼが頷く。
「確認しました。夜間は睡眠監視を行います。ただし、拘束はしません」
ミリアが言う。
「声が届く位置にいましょう。扉の外だけでなく、必要なら同室ではなく隣室から声をかけられる形に」
学園長が考え、決めた。
「今夜、アルト君は男子寮の自室ではなく、開放型の夜間休憩室を使います。扉は開放、衝立で視線を保護。廊下に教師、室内にリゼさん、近接待機としてカイ君、隣室にミリアさんとエリアナさん。睡眠の妨げにならない範囲で、夜間時刻ごとに声確認」
アルトは少し緊張した。
部屋を変える。
それは怖い。
だが、自室で一人になるよりはいい。
「本人意思を確認します」
学園長が言う。
「夜間休憩室を使用しますか」
アルトは息を吸った。
「使用します。ただし、扉は閉めないでください。起きた時に誰がいるかわかるようにしてください」
リゼが頷く。
「確認しました」
カイが言う。
「俺、近くにいる」
ミリアも。
「隣室にいるわ」
エリアナも。
「香草袋を持っています。必要なら香りを届けます」
アルトは頷いた。
「ありがとうございます」
夜の状態確認。
アルト。
「痛みなし。熱なし。冷えごく少し。声なし。昼に右足が動きかけました。カイさんが名前を呼んで止まれました。夕は足が動きませんでした。夜が怖いです」
リゼ。
「身体異常なし。疲労あり。感情、強い警戒。歩行誘導反応を確認しました。物理拘束ではなく、声、現在地、名前、香草、退避管理を優先します」
ミリア。
「身体異常なし。夜間は不安が強まります。アルトさんが起きた時に、誰が近くにいるかすぐわかる配置にします」
カイ。
「身体異常なし。疲労あり。保存食数、減少。歩きそうになったら名前で呼ぶ用、残り少し。夜も呼びます」
エリアナ。
「身体異常なし。疲労あり。怖さ、怒り。香草袋を私のものとして持ちます。アルトさんを操作するためではなく、戻るための匂いとして近くに置きます」
リゼが頷く。
「全員、確認しました」
夜間休憩室は、男子寮と本館の間にある小さな部屋だった。
扉は開けておく。
廊下には教師が二名。
部屋の奥に簡易寝台。
衝立で視線を遮るが、声は届く。
リゼは部屋の入口近く。
カイは廊下の椅子。
ミリアとエリアナは隣室。
ロウ教師は少し離れた廊下に立つ。
アルトは寝台に座り、記録表を開いた。
第10章十三日目。
鐘塔黒蔦紋裏面。
次の鐘で、彼は歩く。
昼時刻、鐘なし。
銀環振動。
右足動きかけ。
カイさんがアルトと呼んだ。
止まれた。
香草で戻った。
夕時刻、足動かず。
夜間休憩室使用。
扉開放。
声が届く。
そう書いて、左手首に触れる。
痛みなし。
熱なし。
冷えなし。
声なし。
扉の方から、カイの声がした。
「アルト」
アルトは顔を上げる。
「はい」
「練習」
アルトは少しだけ笑った。
「届いています」
ミリアの声が隣室から聞こえる。
「現在地は?」
「夜間休憩室」
エリアナの声。
「孤独ですか」
「いいえ」
リゼの声。
「足は」
「自分で動かせます。どこにも向かっていません」
「確認しました」
アルトは寝台に横になった。
天井が見える。
自室とは違う天井。
でも、扉は開いている。
声は届いている。
鐘は鳴らない。
けれど、もし鳴らない鐘が来ても、自分は一人ではない。
アルトは記録表の最後に、一行を足してから、目を閉じた。
歩きそうになったら、僕の名前を呼んでください。




