第10章 第12話:鳴らない鐘塔
鐘は鳴らなかった。
王立学園の鐘塔は、朝から沈黙していた。
故障ではない。
今日は鐘を鳴らさない日でもない。
朝の始業鐘は、いつもなら三度響く。
一度目で寮の窓が開き、二度目で廊下の足音が増え、三度目で食堂から教室へ向かう流れができる。
けれど、その朝、鐘塔は沈黙していた。
かわりに、アルト・レインフォードの左手首だけが震えた。
音はない。
窓も揺れない。
廊下の生徒たちも、最初は気づかない。
けれど、布の下の銀環が、冷たい振動を一度だけ返した。
鳴っていない鐘が、手首の内側で鳴ったようだった。
アルトは机の前で息を呑み、すぐに記録表を開いた。
朝鐘の時刻。
鐘塔、音なし。
痛みなし。
熱なし。
冷え少し。
声なし。
銀環に振動あり。
現在地、王立学園男子寮、自室。
書いた直後、扉の外からリゼ・グレイスの声がした。
「アルトさん」
「はい」
「鐘が鳴りませんでした。状態を報告してください」
アルトは扉を開ける前に、左手首へ触れた。
痛みなし。
熱なし。
冷え少し。
声なし。
振動はもうない。
「痛みなし。熱なし。冷え少し。声なし。鐘塔の音は聞こえませんでした。でも、銀環が震えました」
リゼの声が少し低くなる。
「確認しました。扉を開けますか」
「開けます」
「本人意思、確認しました」
扉を開けると、リゼが立っていた。
灰銀の髪には青いリボン。
制服は整っている。
腰に剣はない。
だが、今日の彼女はいつもより早く廊下へ来ていたらしい。
目がすでに警戒している。
廊下の向こうでは、何人かの生徒が首を傾げていた。
「鐘、鳴った?」
「いや、鳴ってないよな」
「でも、もう始業時間じゃない?」
静かなざわめき。
誰かが気づき、誰かがまだ気づかない。
その遅れが、妙に気持ち悪かった。
リゼが問う。
「現在地」
「王立学園男子寮、自室前」
「名前」
「アルト・レインフォード」
「同席者」
「リゼさん。廊下に寮生複数」
「孤独ですか」
「いいえ」
「足は」
「自分で動かせます。鐘塔へ向かう感じはありません」
「確認しました」
階段の下から、カイ・ロックハートの声がした。
「鐘、鳴ってないよな?」
いつもより少し大きい。
しかし、すぐに自分で声を落とした。
「いや、確認。鳴ってないよな」
ミリア・ファルネーゼが女子寮側から来て、周囲を見た。
「鳴っていないわ。でも、何人かは鳴ったと思って動いているみたい」
エリアナ・ルクス・ヴェルグラントも続く。
香草袋を手に持っている。
彼女の表情は硬い。
「鐘を鳴らさないことと、知らせないことは違います」
その言葉で、アルトの左手首が少し冷えた。
「痛みなし。熱なし。冷え少し。声なし。“知らせない”で反応しました」
リゼが頷く。
「確認しました」
鐘は鳴っていない。
だが、銀環だけが震えた。
それは、白鐘北礼拝堂跡の地下扉前で確認した「布の奥の音」とも違う。
黒札の冷えとも違う。
鐘が鳴らないのに、手首の中では何かが届く。
その歪みが、アルトの胸を冷たくした。
朝食前の状態確認は、いつもより短く、しかし慎重に行われた。
アルト。
「痛みなし。熱なし。冷え少し。声なし。鐘塔の音は聞こえませんでした。銀環に振動が一度ありました。怖さがあります」
リゼ。
「身体異常なし。感情、警戒。鐘塔の異常を確認します。アルトさんを鐘塔へ近づけません」
ミリア。
「身体異常なし。学園内の時間認識が少し乱れています。人の声で連絡を補った方がよいです」
カイ。
「身体異常なし。鐘が鳴ってないのに、朝って感じがしません。俺、走って知らせるのはできます」
エリアナ。
「身体異常なし。怖さ、怒り。鳴らさないことを、知らせないことに変えている可能性があります」
リゼが全員を見た。
「朝食へ向かいます。単独移動はありません。鐘塔方向へは近づきません」
カイが頷いた。
「了解」
食堂へ向かう途中、異常はさらにわかりやすくなった。
連絡板前に生徒が集まっている。
始業時間がずれたと思っている生徒。
鐘が鳴ったと思い込んで教室へ向かった生徒。
まだ朝食時間だと考えて食堂に残っている生徒。
鐘の音がなかっただけで、学園の流れは少しずつ乱れていた。
完全な混乱ではない。
だが、確かに遅れている。
ミリアが低く言った。
「警報鐘も、同じように鈍ると危険ね」
アルトの左手首が冷えた。
「痛みなし。熱なし。冷え少し。声なし。“警報鐘”で反応しました」
リゼの目が鋭くなる。
「敵の目的は、異常時に声を届かなくすること。鐘による一斉連絡の鈍化」
カイが顔を上げた。
「じゃあ、鐘が駄目なら人が走ればいい」
リゼが見る。
「走る?」
「うん。俺、走る。東門とか鐘塔とか、全部は無理でも、決めた場所へなら行ける。鐘よりうるさく知らせる」
ミリアが少しだけ笑った。
「うるさく、ではなく、確実に、ね」
「確実に。あと、必要ならうるさく」
リゼは真面目に頷いた。
「有効です。ただし、単独で危険区域へ走りません。連絡係としての経路設定が必要です」
カイは力強く頷く。
「了解」
食堂に入ると、学園の教師たちがすでに動いていた。
鐘塔異常。
始業遅延。
各寮へ口頭連絡。
連絡板の更新。
授業開始は教師の直接確認後。
鐘ではなく、人の声で時間を伝えていく。
その光景に、アルトは少しだけ安心した。
音が消えても、人が動く。
鐘が鳴らなくても、声がある。
食堂の一角で、カイが保存食袋を出した。
まだ朝食中だが、今日は早めだった。
ミリアが尋ねる。
「名前は?」
カイは即答した。
「鐘が鳴らなくても声で知らせる用」
リゼがすぐ頷く。
「非常に適切です」
エリアナも静かに言った。
「はい。今日は、それがよいです」
包みを開く。
小さな焼き菓子と香草パンの欠け。
アルトは成分を読み上げた。
「焼き菓子は小麦、卵、乳、林檎、杏。香草パンは小麦、卵、乳、蜂蜜、香草候補二、香草候補三。蜂蜜減量版。香草はエリアナさん調整です」
エリアナが頷く。
「確認しました」
香草パンを噛む。
苦味。
甘さ。
今日は、食堂のざわめきがいつもより大事に聞こえた。
人の声。
食器の音。
椅子を引く音。
鐘ではない音。
それらが、学園がまだ動いていることを示していた。
アルトは左手首に触れた。
「痛みなし。熱なし。冷え低下。声なし。食堂の声で落ち着きました」
ミリアが頷く。
「声が届いている確認ね」
リゼが記録する。
「人声による安定傾向。確認」
朝食後、学園長室ではなく、保護資料室に関係者が集まった。
鐘塔の異常は、すぐにクラウス・ヴァイゼルが確認へ向かうことになった。
ただし、アルトは同行しない。
鐘塔方向で銀環反応があった以上、近づける理由はない。
確認隊は、クラウス、ユリウス、エレオノーラ、ロウ教師、鐘塔管理教師二名。
リゼはアルトの側に残る。
ミリア、カイ、エリアナも同席する。
学園長は方針を告げた。
「鐘塔の音が鳴らない一方で、アルト君の銀環へ振動があった。これは、通常の故障ではなく、白鐘手順または封信蔦系統の反転干渉である可能性があります。全学連絡は、当面、鐘ではなく人員連絡で行います」
カイが手を挙げた。
「人員連絡、やります」
学園長はカイを見る。
「危険区域を通らない経路で、教師の指示のもと行うなら認めます」
カイは頷く。
「はい」
リゼが言う。
「カイさんの単独走行は危険です。二名一組、または廊下ごとに受け渡し方式を提案します」
ミリアがすぐに補う。
「伝言ゲームにならないよう、文言は短くしましょう。鐘塔異常、授業開始は教師確認後、単独移動禁止、というように」
エレオノーラが記録する。
人力連絡網。
二名一組。
短文。
受け渡し方式。
確認返答。
カイは真剣に頷いた。
「鐘が鳴らないなら、俺が走る。でも、一人では走らない」
リゼが頷く。
「確認しました」
アルトはそのやり取りを見ていた。
カイが走る。
いつもなら、突撃しない、と止められる彼が、今日は連絡網の一部になる。
鐘よりうるさく、ではなく、確実に届ける。
それが少し頼もしかった。
左手首は静かだった。
午前第一時限は中止になった。
完全な休校ではない。
鐘塔異常の確認が終わるまで、授業開始を遅らせる。
その間、保護資料室では、鐘塔についての記録が整理された。
王立学園の鐘塔は、通常の鐘と警報鐘を兼ねている。
授業鐘。
非常鐘。
夜間警告。
火災や外部侵入時は、音のパターンで全校へ知らせる。
もし、その鐘が鳴らないなら。
もし、鳴らない鐘が銀環だけに届くなら。
敵は、学園全体への知らせを鈍らせながら、アルトだけを呼ぶことができる。
アルトは記録表に書いた。
鐘は鳴っていない。
でも、銀環は震えた。
みんなには届かず、僕だけに届く音。
怖い。
その文字を書いたところで、左手首が少し冷えた。
「痛みなし。熱なし。冷え少し。声なし。記録中に反応」
リゼがすぐに問う。
「何を書いていましたか」
「みんなには届かず、僕だけに届く音、です」
リゼの表情が硬くなる。
「孤立誘導の可能性があります。訂正ではなく、追加してください。実際には現在、皆さんの声が届いています」
アルトは頷き、すぐに書き足した。
でも、今はリゼさん、ミリアさん、カイさん、エリアナさんの声が届いている。
孤独ではない。
冷えが下がる。
「冷え低下。声なし」
ミリアが微笑む。
「良好ね」
エリアナが静かに言う。
「白鐘は、本来、届きすぎる音を抑えたのかもしれません。でも、これは届くべき人に届かせず、特定の人にだけ届かせようとしています」
リゼが頷く。
「鳴らさないことを、知らせないことへ反転させている」
アルトはその言葉を書いた。
鳴らさないことと、知らせないことは違う。
静かにすることと、声を奪うことは違う。
しばらくして、クラウスたちが戻った。
保護資料室の扉が開いた瞬間、全員が顔を上げる。
クラウスの手には、封じ板があった。
その上に、黒い蔦紋の欠片が乗っている。
紙ではない。
金属でもない。
薄い漆黒の膜のようなもの。
鐘塔の壁から剥がれたのだろう。
アルトの左手首が冷えた。
「痛みなし。熱なし。冷え中。声なし。黒い蔦紋で反応しました」
リゼが問う。
「現在地」
「王立学園保護資料室」
「同席者」
「リゼさん、ミリアさん、カイさん、エリアナさん、学園長、ユリウス先輩、エレオノーラ先輩、クラウスさん、ロウ先生」
「孤独ですか」
「いいえ」
冷えは少し落ち着く。
クラウスは封じ板を机へ置いた。
「鐘塔の内壁、通常鐘と警報鐘の響き穴の間に、黒い蔦紋が仕掛けられていました。封信蔦に似ていますが、同一ではありません」
リゼが静かに言う。
「同じ発想」
「はい。同じ発想で作られている。鐘を鳴らさないのではなく、鐘の音を学園全体へ広げず、特定の反応対象へ細く流す構造です」
アルトの左手首が冷える。
「痛みなし。熱なし。冷え少し上昇。声なし」
クラウスは続けた。
「通常の生徒には、鐘は鳴っていないように感じる。だが、銀環や黒札系統の反応対象には、無音の振動として届く。つまり、鳴らない鐘です」
エリアナが低く言った。
「鳴らさないためではなく、知らせないため」
クラウスは頷いた。
「そうです。白鐘の禁忌や抑制手順を、警報遮断と誘導に転用している」
学園長が表情を硬くする。
「警報鐘にも影響が?」
「ありました。非常時の警報音が遅延、または鈍化する可能性があります。完全に鳴らないわけではありませんが、数十秒から数分の遅れが出るかもしれない」
カイが椅子から立ち上がる。
「じゃあ、俺が走る」
ロウ教師が見る。
カイはすぐ言い直した。
「俺だけじゃなくて、決めた人たちで走る。二名一組で。廊下ごとに」
ロウ教師が頷いた。
「よし」
学園長も頷く。
「人力連絡網を即時実施します。カイ君は学生連絡補助として、教師の指示下に入ってください」
カイの目が少しだけ大きくなる。
「はい」
ミリアがすぐに言う。
「文言を決めましょう。長いと伝言が崩れます」
エレオノーラが記録板を構える。
ミリアは考え、短く言った。
「鐘塔異常。警報は遅れる可能性。単独移動禁止。教師の声を確認」
リゼが頷く。
「適切です」
カイが復唱する。
「鐘塔異常。警報は遅れる可能性。単独移動禁止。教師の声を確認」
ミリアが頷く。
「良好」
カイはすぐに廊下へ出ようとして、ロウ教師に止められた。
「一人で行くな」
「あ、はい」
ロウ教師は廊下にいた教師を呼び、二名一組を作った。
カイは教師と一緒に走る。
突撃ではない。
連絡だ。
彼はアルトを見た。
「知らせてくる」
アルトは頷いた。
「お願いします」
カイは一度だけ頷き、教師とともに廊下を走っていった。
足音が遠ざかる。
鐘ではない。
でも、知らせる音だった。
その音に、アルトの左手首の冷えが下がる。
「冷え低下。声なし。カイさんの足音で落ち着きました」
リゼが記録する。
「人力連絡による安定傾向。確認」
クラウスは黒い蔦紋の欠片を遮蔽箱へ入れた。
目的は保存と影響遮断。
隠蔽ではない。
奪うための箱ではない。
確認するための箱。
その手順は、もう全員が覚えていた。
昼前には、人力連絡網が学園内に広がっていた。
鐘塔異常。
警報は遅れる可能性。
単独移動禁止。
教師の声を確認。
各廊下で、教師と生徒補助が復唱する。
返答も決められた。
確認しました。
単独移動しません。
教師の声を確認します。
単純な言葉。
でも、それが届く。
アルトは保護資料室の窓から、中庭を横切る連絡係たちを見た。
カイも走っている。
途中で別の教師へ伝え、次の廊下へは別の二人が向かう。
受け渡し。
走りっぱなしではない。
伝える。
確認する。
次へ渡す。
ミリアが言った。
「機構ではなく、人の声に切り替わったわ」
リゼが頷く。
「はい」
エリアナが静かに言った。
「鐘が鳴らない時、人が鳴るのですね」
カイがいたら「俺は鐘じゃない」と言ったかもしれない。
アルトは少しだけ笑った。
左手首は沈黙している。
昼食は保護資料室の隣の開放休憩室で取った。
カイは連絡係を終えて戻ってきたばかりで、少し息が上がっている。
だが、表情は明るい。
「届けた」
リゼが頷く。
「任務達成、確認しました」
カイは一瞬固まり、それから笑った。
「任務って言われると変な感じだけど、今日はいい」
ミリアが尋ねる。
「保存食は?」
「ある」
カイは袋を開いた。
朝の名前のままだ。
鐘が鳴らなくても声で知らせる用。
アルトは成分を読み上げる。
「焼き菓子は小麦、卵、乳、林檎、杏。香草パンは小麦、卵、乳、蜂蜜、香草候補二、香草候補三。蜂蜜減量版。香草はエリアナさん調整です」
エリアナが頷く。
「確認しました」
食べながら、カイは言った。
「鐘が鳴らないと、みんなけっこう困るんだな」
ミリアが頷く。
「ええ。普段、どれだけ鐘に頼っていたかがわかるわね」
「でも、声でいけた」
リゼが頷く。
「はい。完全ではありませんが、有効です」
アルトは香草パンを噛んだ。
苦味と甘さ。
その向こうで、人の声がまだ廊下を行き交っている。
鐘ではない。
でも、届いている。
午後、鐘塔の一部封鎖が決まった。
通常鐘は使用停止。
警報鐘は、補助として残すが、非常時には人力連絡網を優先する。
各棟に教師連絡役を置く。
生徒補助は志願制。
カイは当然のように志願した。
ミリアは連絡文の整備を手伝う。
エリアナは、白鐘の禁忌と鳴らさないことの意味について、クラウスへ情報を共有する。
リゼは、アルトの周囲の連絡到達確認を担当する。
アルトは、自分の銀環反応を記録する。
それぞれの役割が、少しずつ形になっていく。
夕方、学園長室へ鐘塔から剥がした黒蔦紋の追加解析結果が届いた。
クラウスは険しい顔で言った。
「鐘塔の術式は、黒札新型と連動する可能性があります。黒札が冷えを誘発し、鐘塔が警報と連絡を鈍らせる。組み合わせれば、対象者を孤立させやすい」
リゼが言う。
「誘拐準備です」
部屋が静かになる。
その言葉は重い。
しかし、誰も否定しなかった。
アルトの左手首が冷える。
「痛みなし。熱なし。冷え中。声なし。“誘拐準備”で反応しました」
ミリアがすぐに言う。
「現在地は」
「学園長室」
「同席者は」
「リゼさん、ミリアさん、カイさん、エリアナさん、学園長、ユリウス先輩、エレオノーラ先輩、クラウスさん、ロウ先生」
「孤独?」
「いいえ」
カイが低く言った。
「連絡網、もっと増やす」
リゼが頷く。
「必要です」
学園長は決定した。
「明日から、夜間連絡網も設定します。鐘塔に依存しない警報手順を作ります。アルト君の周囲だけでなく、学園全体の安全手順です」
アルトは顔を上げた。
学園全体。
自分だけではない。
鐘塔の異常は、全員に関わる。
それを、自分のせいだと思いかけたが、カイが先に言った。
「敵が悪い」
アルトは驚いてカイを見る。
カイは真剣だった。
「今、アルトが自分のせいって思いそうな顔した」
ミリアが小さく頷く。
「よく見ていたわね」
カイは少しだけ照れて、それでも続けた。
「敵が鐘を変にした。学園が守る。アルトが悪いんじゃない」
アルトは息を吐いた。
「はい」
冷えが下がる。
「冷え低下。声なし」
夜の状態確認は、いつもより長く行われた。
アルト。
「痛みなし。熱なし。冷えなし。声なし。朝、鐘は鳴っていないのに銀環が震えました。怖かったです。でも、カイさんたちの声と足音で落ち着きました」
リゼ。
「身体異常なし。疲労あり。感情、警戒。鐘塔の黒蔦紋は、警報遮断と銀環誘導の可能性があります。鐘に依存しない連絡網を設定します」
ミリア。
「身体異常なし。連絡文の整備を行いました。短く、崩れにくく、本人確認につながる言葉が必要です」
カイ。
「身体異常なし。走りました。疲労少し。保存食数、減少。鐘が鳴らなくても声で知らせる用、残りなし。鐘より確実に知らせます」
エリアナ。
「身体異常なし。疲労あり。怒りあり。鳴らさないことを知らせないことへ変える歪みに怒っています。白鐘の意味を奪わせません」
リゼが頷く。
「全員、確認しました」
寮へ戻る前、アルトは中庭で鐘塔を見上げた。
今日は、鐘は鳴っていない。
夕暮れの鐘もない。
そのかわり、廊下のあちこちで教師や生徒補助が声を掛け合っている。
「夜間連絡、第一巡確認」
「確認しました」
「単独移動禁止」
「確認しました」
声が、学園の中を渡っていく。
鐘のように一度で広がるわけではない。
けれど、一人から一人へ渡る。
受け取られる。
返される。
アルトは左手首に触れた。
痛みなし。
熱なし。
冷えなし。
声なし。
部屋へ戻り、記録表を開く。
第10章十二日目。
朝鐘、鳴らず。
銀環に無音の振動。
鐘塔内壁に黒蔦紋。
通常鐘、警報鐘への干渉。
鐘の音を広げず、特定対象へ細く流す構造。
鳴らない鐘。
警報遅延可能性。
人力連絡網。
カイさん、連絡補助。
鐘が鳴らなくても声で知らせる用。
鳴らさないことと、知らせないことは違う。
そう書いて、左手首に触れた。
痛みなし。
熱なし。
冷えなし。
声なし。
扉の外から、リゼの声がする。
「夜間本人確認会話を行います。目的は、鐘塔異常後の状態確認。単独移動はありません。扉は開けなくても構いません。状態を報告してください」
アルトは答える。
「痛みなし。熱なし。冷えなし。声なし。現在地、男子寮自室。鐘が鳴らないのは怖いです。でも、声は届いています。孤独ではありません」
カイの声が続いた。
「届いてる。あと、必要なら走る」
ミリアの声。
「走る前に確認ね」
エリアナの声。
「鳴らない鐘に、あなた一人で答えないでください」
アルトは記録表の最後に、一行を書いた。
鐘が鳴らなくても、僕は声を確認します。




