表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
灰銀の戦乙女は、制服を知らない  作者: 最後に残った形


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

159/201

第11章 第2話:灰銀一七の通行証


 灰銀一七確認済。


 その文字は、錆びた金属板の上に残っていた。


 王都旧封印管理倉庫群の北棟前。


 朝焼けが、まだ低い壁の影に隠れている。


 古い石畳には夜露が残り、足を踏み出すたびに靴底がわずかに湿った音を立てた。


 倉庫群の中は、王都のすぐ外縁にあるとは思えないほど冷えている。


 高い壁。


 少ない窓。


 封印札の貼られた扉。


 王宮管理印。


 削られた痕。


 三点印。


 そのすべてが、夜の誘拐の後を、静かに朝へ押し込めようとしているようだった。


 リゼ・グレイスは、金属板の前に立っていた。


 灰銀一七確認済。


 文字の一部は擦れ、後半は欠けている。


 だが、読める。


 見間違いではない。


 彼女の戦時識別番号。


 鳴らさぬ谷の灰色封箱外装確認補助で使われていた印。


 灰銀突破点の英雄譚に結びつけられ、王宮の資料で勝手に動かされ、そして今、アルト・レインフォード誘拐経路の門前に残っている。


 リゼの指先が冷えていた。


 黒布に触れた右腕の冷却感は、まだ少し残っている。


 しかし、それとは別の冷えが胸の奥にある。


 自分の印が、自分の知らない場所で使われている。


 アルトの字が、アルトの知らない紙に乗せられたように。


 リゼの印が、リゼの知らない門に残っている。


 ミリア・ファルネーゼが、少し離れた位置から声をかけた。


「リゼさん。状態は」


 リゼはすぐには答えなかった。


 金属板の文字から目を離せない。


 灰銀一七。


 十五歳の少女兵につけられた番号。


 灰銀の戦乙女という戦時称号よりも、さらに事務的で、さらに冷たい記号。


 人ではなく、確認単位。


 外装確認補助。


 通過確認。


 封箱確認。


 そういうものに使われた番号。


 リゼは息を吸う。


「身体異常なし。右腕冷却感、軽度継続。握力、実用範囲。感情負荷、高。識別番号“灰銀一七”を確認。私は、この入口を確認した記憶がありません」


 ミリアは頷き、記録板へ書き込む。


「確認したわ」


 カイ・ロックハートが、金属板を睨んでいた。


 いつもならすぐに何か言う。


 怒る。


 叫びかける。


 でも、今は口を閉じている。


 彼の拳は握られているが、扉も壁も叩いていない。


 単独行動しない。


 証拠を壊さない。


 怒りで犯人を作らない。


 それを、彼なりに守っていた。


 それでも、声は低かった。


「また、勝手に使ったのかよ」


 ロウ教師が視線を向ける。


 カイは息を吸って言い直す。


「怒っています。でも、板は壊しません」


「よし」


 エリアナ・ルクス・ヴェルグラントは、香草袋を胸の前に持っていた。


 セリーネ草の乾いた甘さが、朝の冷気に少しだけ混じる。


 彼女は金属板を見つめ、静かに言った。


「あなたの印があることと、あなたがここへ来たことは同じではありません」


 リゼはその言葉を聞いた。


 聞き慣れた形の言葉だ。


 名前だけでは本人ではない。


 筆跡だけでは本人ではない。


 紙だけでは本人意思にならない。


 ならば、印も同じ。


 印だけでは、本人ではない。


 それでも、胸の奥が痛い。


 痛みではないと、いつもの癖で言いそうになり、リゼは一度口を閉じた。


 これは身体の痛みではない。


 でも、痛い。


 彼女は言葉を選んだ。


「確認しました。ただし、私の印が使用された可能性は、私が確認すべき事項です」


 エリアナは頷いた。


「はい。逃げないことと、全部背負うことは違います」


 ミリアが小さく頷く。


「そうね」


 クラウス・ヴァイゼルが、金属板へ光を当てた。


「戦後処理期の軍用標識です。文字の下に、後年の塗膜痕があります。一度隠された後、再び露出した可能性があります」


 ユリウス・エインズワースが問う。


「再利用ですか」


「可能性があります。灰銀一七確認済という古い通過記録を、後年の搬入・封印処理の根拠にしたのかもしれません」


 リゼはクラウスを見る。


「この標識は、通行証として機能しますか」


「本来なら機能しません。古い確認標識に過ぎない。ただし、内部手続きで“過去に灰銀一七が確認済みの経路”として扱われれば、通行根拠に転用できる可能性はあります」


 ロウ教師が低く言った。


「紙の上の道と同じだな」


 クラウスは頷く。


「はい。過去の確認を、現在の承認として使う」


 カイが唸る。


「過去にリゼが何か見たから、今も通っていいってことにしたのか」


「そういう処理が行われた可能性があります」


「リゼが覚えてないのに」


 リゼが答える。


「記憶の有無だけでは判断しません。記録、印、現場痕跡を確認します。ただし、私が現在ここで承認した事実はありません」


 ミリアがすぐに記録する。


 灰銀一七標識。


 本人記憶なし。


 現在承認なし。


 過去確認標識の再利用可能性。


 カイはリゼを見た。


「リゼは、今、これを認めてないんだよな」


「はい。私は、この標識を現在の通行許可として認めません」


「確認した」


 その言い方は、アルトがいつもしていた確認のようだった。


 リゼは一瞬だけ息を止めた。


 アルトなら、今こう言っただろうか。


 痛みなし。


 熱なし。


 冷えなし。


 声なし。


 名前だけでは本人ではありません。


 リゼさんの印でも、リゼさんの意思ではないと思います。


 胸の奥が締まる。


 しかし、その想像はリゼを崩さなかった。


 逆に、彼女を立たせた。


 アルトの確認を、今は自分たちがする。


 北棟の扉には、三枚の封印札が貼られていた。


 王宮封印管理室。


 保護管理局臨時調整室。


 監察局補助室確認欄。


 その下に、昨日確認した通り、オルド・ハイマンの署名に似た筆跡があった。


 本人は否定している。


 この文書には署名していない。


 内容も承認していない。


 だが、扉は閉じている。


 扉の表面には、まだ黒い膜が薄く張り付いていた。


 王宮保護移送、正式完了。


 対象者、到着済。


 外部確認不要。


 その文字は消えていない。


 しかし、扉の奥では、時折、銀色の光がかすかに揺れる。


 名前呼称に反応した。


 香草に反応した。


 それがアルト本人なのか、銀環だけなのか、まだ断定はできない。


 だが、無視できない。


 リゼは扉の前に立つ。


「アルトさん。聞こえるかは不明です。現在、王都旧封印管理倉庫群北棟前です。あなたの正式移送完了記録に対して、本人確認を継続しています」


 扉は沈黙している。


 リゼは続ける。


「あなたの本人意思は、移送拒否として記録されています。直前発言、歩きたくない、一人で行きません。黒布馬車内で、僕は孤独ではありません、と唇の動きを確認しました」


 カイが隣で、小さく言う。


「アルト。俺も見た。孤独じゃないって」


 ミリアが続ける。


「完了という言葉に、私たちは従っていないわ」


 エリアナも香草袋を近づける。


「これは私の香草袋です。あなたを動かすためではなく、戻るための匂いです」


 扉の奥で、銀色が一瞬だけ揺れた。


 薄い。


 弱い。


 でも、確かに。


 クラウスが測定具を見る。


「銀環系反応、微弱上昇。冷却反応は継続」


 リゼは頷く。


「記録します。外部呼びかけに反応あり」


 その時、北棟の奥から足音がした。


 扉の内側ではない。


 右手の管理棟へ続く通路の方からだ。


 倉庫群の管理人が、数冊の台帳を抱えて戻ってくる。


 昨夜から起こされ、追及され、王立学園と王宮の板挟みになっている男だ。


 顔色は悪い。


 しかし、今は少しだけ態度が変わっていた。


「古い搬入台帳を持ってきた」


 ユリウスが受け取る。


「ありがとうございます」


 管理人はリゼをちらりと見た。


「灰銀一七の件も、載っている」


 リゼの肩がわずかに動く。


 ミリアがすぐに聞く。


「状態は」


 リゼは答える。


「感情負荷、上昇。確認継続可能」


 ロウ教師が頷く。


「よし。読め」


 台帳は古かった。


 革表紙は割れ、金具は黒ずんでいる。


 ページの端は乾き、ところどころ破れている。


 だが、文字は残っていた。


 戦後処理期。


 灰色封箱。


 王都南門管理口。


 封印管理室仮受領。


 臨時特別預かり班。


 そして、外装確認補助欄。


 灰銀一七。


 リゼはその文字を見た。


 第8章、第9章で見たものと同じ流れ。


 だが、この台帳にはさらに続きがあった。


 外装確認補助、灰銀一七。


 搬入通行確認、灰銀一七確認済標識参照。


 後年追記。


 灰銀一七確認済経路、再利用可。


 リゼの喉が冷えた。


「後年追記」


 クラウスが台帳を覗き込む。


「筆跡が異なります。元の戦後処理記録ではなく、後から加えられています」


 ユリウスが問う。


「いつ頃ですか」


「正確には難しい。ただ、インクは比較的新しい。少なくとも戦後直後ではありません」


 カイが低く言う。


「リゼの昔の印を、後から使えるようにした」


 管理人が小さく言った。


「こちらでは、そういうものとして扱っていた。古い軍用経路の再承認が必要な時、過去の確認標識を参照することがある」


 リゼは管理人を見る。


「本人へ確認しましたか」


 管理人は答えない。


「灰銀一七本人へ、現在使用の確認をしましたか」


「……記録上、戦時確認済みだった」


「本人へ確認しましたか」


 管理人は視線を落とした。


「していない」


 リゼは頷いた。


「確認しました」


 その声は静かだった。


 だが、冷たい。


「私の印があることと、現在の通行承認は違います」


 管理人は黙っている。


 リゼは続けた。


「私は、この経路の再利用を承認していません」


 ミリアが記録する。


 灰銀一七経路再利用追記。


 本人未確認。


 本人承認なし。


 リゼ・グレイス、現在承認否定。


 エリアナが台帳を見ながら言った。


「本人がいなくても、番号だけが残るのですね」


 その声には、ヴェルグラント王家の血に対する怒りも混じっていた。


 王の血。


 扉。


 孤独な音。


 白布の子ども。


 人が名前や血や番号に変えられる。


 カイが言う。


「アルトの銀環保護対象とか、リゼの灰銀一七とか、エリアナの王家の血とか、全部同じことしてる」


 ミリアが静かに頷く。


「人より先に分類を置いているのね」


 リゼは扉を見る。


「分類で道を開き、本人意思を後から消す。今回の誘拐と同じ思想です」


 クラウスが頷く。


「同意します」


 オルド・ハイマンは、少し離れた位置で台帳を見ていた。


 彼は今、追跡班と完全に同じ側ではない。


 しかし、王宮側の正式記録が現実と一致しないことを認め始めている。


 オルドは台帳の後年追記を見て、静かに言った。


「これは、監察局補助室の通常手続きではありません」


 カイがすぐに反応する。


「通常じゃないなら、誰がやったんですか」


 オルドは首を横に振る。


「現時点では断定できません。ただ、臨時調整室がこの経路を使用可能と判断した根拠にはなりえます」


 リゼが問う。


「あなたは、この灰銀一七経路再利用を知っていましたか」


「いいえ」


「監察局補助室として、確認しましたか」


「いいえ」


「では、あなたの確認欄も本人確認なしのまま転用された可能性があります」


 オルドは沈黙する。


 その沈黙は、否定ではなかった。


 痛みのような理解だった。


「その可能性があります」


 リゼは頷く。


「確認しました」


 その時、北棟の扉から、かすかな音がした。


 金属が冷えて収縮するような音。


 全員が振り返る。


 扉の黒い膜が、わずかに波打っていた。


 王宮保護移送、正式完了。


 対象者、到着済。


 外部確認不要。


 その文字の下に、別の文字が浮かびかける。


 薄い。


 すぐに消えそうな線。


 カイが息を呑む。


「何か出てる」


 クラウスが光を当てる。


 ミリアが記録板を構える。


 エリアナが香草袋を近づける。


 黒い膜の下、銀色の微光に押されるように、文字が一瞬だけ現れた。


 ここ。


 すぐに消えた。


 カイが目を見開く。


「今、ここって」


 リゼは扉へ一歩近づいた。


 心臓が強く打つ。


 だが、声は抑えた。


「アルトさんの反応の可能性。記録します」


 ミリアの手が震えた。


 それでも書く。


 北棟扉表面。


 正式完了文言下。


 銀色微光とともに「ここ」表示。


 外部呼びかけ、香草反応後。


 本人反応可能性。


 カイが扉に向かって、今度は少しだけ大きく言った。


「アルト! 聞こえてなくても、俺たちここにいる!」


 ロウ教師が止めなかった。


 声は響いた。


 倉庫群の冷たい壁に跳ね返り、北棟の扉へ届く。


 黒い膜が震える。


 文字はもう出ない。


 だが、銀色の光が、ほんの一瞬だけ強くなった。


 エリアナの目に涙が浮かびかける。


 彼女はそれを落とさず、香草袋を持ち続ける。


「反応しています」


 クラウスも頷く。


「はい。銀環反応、上昇。冷却はまだ強いですが、外部刺激を検出しています」


 リゼは扉の前に立った。


 自分の印が通行証として使われた門。


 灰銀一七確認済。


 その過去の記号が、今、アルトを閉じ込める経路の一部になっている。


 だが、同じ場所で、アルトは「ここ」と返している。


 紙の上の正式完了に対して。


 灰銀一七の勝手な再利用に対して。


 本人確認なしの承認に対して。


 ここ。


 自分はここにいる。


 リゼは深く息を吸った。


「アルトさん。あなたの“ここ”を確認しました。あなたは記録上の完了ではなく、現実にここで反応しています」


 扉は沈黙している。


 だが、リゼは続けた。


「私の印も、あなたの本人意思も、勝手に使われました。ですが、今ここで確認し直します」


 カイが続ける。


「アルトはアルトだ」


 ミリアが言う。


「リゼさんはリゼさんよ」


 エリアナも静かに言った。


「名前も印も、本人から離して終わらせません」


 扉の黒い膜が、またかすかに揺れた。


 今度は文字にならない。


 ただ、銀色の光が、奥で微かに灯る。


 リゼはその光を見つめた。


「灰銀一七標識を、現在の通行証として認めません。アルト・レインフォードの正式移送完了記録を、本人確認として認めません。北棟内部の現実確認を要求します」


 オルドが静かに言った。


「この扉を開くには、第二保管層への内部承認が必要です」


 ユリウスが問う。


「あなたの権限で可能ですか」


 オルドは首を横に振った。


「私一人ではできません。封印管理室、臨時調整室、監察局補助室の三系統承認が必要です」


 リゼは問う。


「臨時調整室が拒否した場合は」


 オルドはしばらく黙った。


 それから、低く言った。


「通常手続きでは開きません」


 カイが顔を上げる。


「通常じゃないことして閉じ込めたのに、開ける時だけ通常って何だよ」


 誰も笑わなかった。


 カイの言葉は、あまりにも正しかった。


 ロウ教師が短く言う。


「だから、通常の外側を探す」


 クラウスが扉を調べる。


「白鐘系の模倣結界が混じっています。黒蔦層を剥がせれば、内部反応はもっと届くかもしれません」


 エリアナが顔を上げる。


「白鐘の本来手順ですか」


「可能性があります」


 リゼは扉を見た。


 アルトは奥にいる可能性がある。


 声は届きにくい。


 黒布と黒蔦に冷やされている。


 それでも「ここ」と返した。


 ならば、扉を破壊してはいけないかもしれない。


 開けること自体が罠かもしれない。


 だが、閉じ込めたままにもできない。


 リゼの中で、焦りが膨らむ。


 その時、ミリアが彼女の袖を軽く引いた。


「呼吸」


 リゼは息を吸った。


 吐く。


「呼吸、確認」


「一人で決めないで」


「はい」


 リゼは全員を見る。


 カイ。


 ミリア。


 エリアナ。


 クラウス。


 ユリウス。


 ロウ教師。


 オルド。


 そして、扉の奥にいるかもしれないアルト。


「北棟第二保管層の開放手順を確認します。破壊ではなく、黒蔦層の解除を優先。アルトさんを鍵として使用しません。本人反応を情報として扱い、負荷を与える行為は避けます」


 クラウスが頷く。


「適切です」


 エリアナが香草袋を握る。


「白鐘は、人を閉じ込めるためだけのものではなかったはずです」


 カイが扉へ向かって言った。


「アルト、待ってろ。いや、待たせるけど、終わらせないからな」


 ミリアが少しだけ苦しそうに微笑む。


「言い方は粗いけれど、届くと思うわ」


 扉の奥で、銀色がまた一度だけ揺れた。


 小さく、弱く。


 けれど、確かに。


 リゼはその光を記録するように目に焼きつけた。


 灰銀一七確認済の標識は、背後の門に残っている。


 過去の印は、勝手に通行証にされた。


 だが、現在のリゼはここにいる。


 アルトの「ここ」を確認している。


 過去の印ではなく、今の声で。


 リゼは扉の前に立ち、静かに言った。


「私は灰銀一七として、この門を承認しません。リゼ・グレイスとして、アルトさんの所在確認を継続します」


 朝の光が、北棟の扉の上部を照らした。


 黒い膜はまだそこにある。


 正式完了の文字も消えていない。


 だが、その奥で、銀色の光は完全には消えなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ