第10章 第10話:存在しない移送馬車
門衛記録は、朝に確認される。
王立学園の正門。
東門。
裏門。
搬入口。
来客用馬車の入構予定。
納品業者。
王宮からの使者。
学園内の授業資材搬入。
いつもなら、そこまで細かく生徒が意識するものではない。
門は、門衛が守る。
入る者と出る者は、記録される。
それで十分だった。
だが、今は違う。
紙に名前が載せられた。
本人意思が偽造された。
王都文書院系統の紙が使われた。
王宮保護移送提案が届いた。
本人意思確認済と書かれていた。
本人は知らなかった。
そして、その封印には、削られた受領印に似た線が残っていた。
だから、学園長は門衛記録の再確認を命じた。
その結果、存在しない馬車が見つかった。
朝の保護資料室。
エレオノーラ・ヴィンスフェルトが、記録板ではなく厚い門衛台帳を机に置いた。
台帳は重い音を立てた。
革表紙。
金具。
日付ごとの入構予定。
そこに、一行だけ、不自然な予定があった。
王宮保護移送馬車。
入構予定、明日午後第二時限後。
入構門、東門。
目的、保護対象者移送準備。
担当、王宮保護管理局臨時調整室。
許可欄、確認済。
アルト・レインフォードの左手首が、冷えた。
痛みはない。
熱もない。
声もない。
だが、銀環の内側から氷が広がるように、手首が冷たくなる。
「痛みなし。熱なし。冷え中。声なし。現在地、王立学園保護資料室」
隣のリゼ・グレイスが頷いた。
「確認しました」
リゼの声は静かだが、鋭い。
昨日、彼女は王宮保護移送提案を「本人意思を奪えば誘拐と同じ」と言った。
その翌朝に、門衛記録の中から保護移送馬車が見つかった。
まるで、紙の上で拒否したはずの移送が、門の記録では進んでいたように。
ミリア・ファルネーゼは、台帳とアルトの顔色を交互に見ている。
カイ・ロックハートは両手を握りしめていたが、机は叩かなかった。
エリアナ・ルクス・ヴェルグラントは香草袋を手元に持つ。
香りを近づける準備はある。
だが、置かない。
彼女のものとして持っている。
学園長は台帳の一行を見つめ、ゆっくり息を吐いた。
「王宮正式番号は?」
ユリウス・エインズワースが別紙を確認する。
「該当なし。王宮馬車登録番号と照合しましたが、存在しません」
エレオノーラが記録する。
王宮保護移送馬車。
登録番号該当なし。
存在しない馬車。
アルトの冷えが強くなる。
「痛みなし。熱なし。冷え強。声なし。“存在しない馬車”で反応しました」
リゼが即座に問う。
「現在地」
「王立学園保護資料室」
「名前」
「アルト・レインフォード」
「同席者」
「リゼさん、ミリアさん、カイさん、エリアナさん、学園長、ユリウス先輩、エレオノーラ先輩、クラウスさん、ロウ先生」
「孤独ですか」
「いいえ」
「足は」
「自分で動かせます。しびれなし」
「本人意思を確認します。王宮保護移送馬車へ乗りますか」
「乗りません」
「東門へ単独で向かいますか」
「向かいません」
「確認しました」
冷えは、少しだけ下がった。
クラウス・ヴァイゼルは、台帳の許可欄へ光を当てている。
確認済。
その文字の横に、小さな擦れがある。
記録担当者の印らしき欄は、薄く削られていた。
完全には消えていない。
下端に斜めの線。
点痕が一つ。
その横に、浅く削られた点の跡が二つ。
三点印。
リゼが静かに言った。
「また、削られています」
クラウスが頷く。
「王宮保護移送提案の別紙記録担当欄と同系統の可能性が高い。王都仮受領印、紙倉跡処理札の残存線とも類似」
カイが低く言った。
「書いて、削って、残す」
ロウ教師が壁際で頷く。
「見つけたな」
カイは怒りを飲み込むように息を吸った。
「はい」
エリアナが台帳を見つめている。
「本人意思確認済の次は、入構確認済ですか」
その声は静かだった。
だが、怒りがある。
「本人が知らない本人意思。存在しない馬車。削られた担当印。全部、紙の上で進んでいます」
学園長の声が低くなる。
「紙の上で進ませません」
アルトはその言葉を記録表へ書いた。
紙の上で進ませない。
左手首の冷えが、ほんの少し下がる。
ユリウスが門衛台帳の経緯を説明した。
「この予定は、昨日夕方の閉門後に追加されています。通常、閉門後の入構予定追加は学園長室または管理部の確認印が必要ですが、管理部印に似た仮印が押されています」
エレオノーラが別の写しを出す。
「管理部の正式印とは異なります。外形は似ていますが、文字間隔が違います」
ミリアが言う。
「また、似せているけれど、違うのね」
クラウスが頷く。
「はい。名前、筆跡、紙、印、手順。すべて少しずつ似せている」
カイが口を開く。
「でも、意味が違う」
リゼが頷いた。
「はい」
カイは台帳の一行を睨んだ。
「保護じゃない。移送じゃない。これは、アルトを外へ出す道です」
その言葉に、部屋の空気がさらに張る。
東渡り廊下。
裏導線。
外壁の黒札。
本人の足で来る。
王宮保護移送馬車。
東門。
すべてが、一本の道になり始めている。
アルトは左手首を押さえた。
痛みなし。
熱なし。
冷え中。
声なし。
「僕を、学園の外へ出す道に見えます」
リゼがすぐに答える。
「はい。その可能性が高いです」
「僕は、その道を使いません」
「本人意思、確認しました」
学園長は短く命じた。
「東門の入構予定を凍結。該当馬車が現れても入れない。門衛には、正式番号不一致を理由に停止命令を出します。ただし、すぐに騒ぎを大きくしない。敵がこちらの発見に気づく前に、記録操作の経路を追います」
ユリウスが頷く。
「承知しました」
ロウ教師が言う。
「罠を見つけたら、壊すだけでは足りん。誰が糸を引いているかも見る」
リゼが頷く。
「はい」
アルトは学園長を見た。
「僕は、どうすればいいですか」
学園長はまっすぐアルトを見る。
「まず、君の本人意思を確認します。今日、通常授業に参加したいですか。それとも休みたいですか」
アルトは少し迷った。
存在しない馬車。
東門。
明日午後第二時限後。
その言葉を聞いたばかりだ。
怖い。
すぐに部屋に戻って隠れたい気持ちもある。
だが、一人の部屋は怖い。
安全室も、使い方を間違えれば孤独な部屋になる。
日常を全部消すことも、敵の道に近い。
「午前の授業は休みたいです」
アルトは言った。
「でも、一人で部屋に戻るのではなく、休憩室で休みたいです。午後、状態がよければ一つだけ授業に出たいです」
学園長は頷く。
「本人意思、確認しました」
リゼが記録する。
「午前休息。休憩室使用。単独なし。午後授業参加は状態確認後」
ミリアが微笑む。
「とても良い言い方ね」
アルトは少しだけ息を吐いた。
冷えが下がる。
「冷え中より下。声なし」
しかし、学園側の対応は休憩だけでは終わらなかった。
存在しない馬車が登録されていたということは、記録の中へ誰かが入ったということだ。
学園の門衛記録は、紙台帳だけではない。
朝夕に管理部へ写しが送られ、予定は前日の夕刻に整理される。
誰かが、その流れに王宮保護移送馬車を差し込んだ。
外部からか。
内部からか。
あるいは、王宮文書を装って管理部を通過したのか。
ユリウスとエレオノーラは、管理部の記録照合へ向かった。
クラウスは門衛台帳の仮印を調べる。
学園長は東門へ直接指示を出す。
リゼはアルトの護衛配置を再調整した。
「護衛強化を行います。ただし、孤立を発生させません」
ミリアがすぐに確認する。
「安全室ではなく、休憩室?」
「はい。現在は休憩室を使用します。扉は開放。廊下に教師配置。室内にアルトさん、私、ミリアさん、カイさん、エリアナさん。過密になりすぎないよう、座席を離します」
カイが言う。
「飯は?」
リゼは真面目に答える。
「午前休憩中に軽食を取ることは有効です」
「了解」
ミリアが小さく笑った。
エリアナはアルトへ言う。
「香草袋は持っています。必要なら香りを近づけます。置きません」
「確認しました」
休憩室へ移動する前に、本人確認会話が行われた。
リゼ。
「アルトさん。保護資料室から隣の休憩室へ移動します。目的は、王宮保護移送馬車記録確認後の休息と状態安定です。単独移動はありません。同行者は私、ミリアさん、カイさん、エリアナさん。扉は開放し、廊下に教師がいます。参加可能ですか」
アルト。
「参加可能です。現在地は保護資料室。痛みなし、熱なし、冷え少し、声なし。休憩室へは一人で行きません。僕の本人意思は、今は休むことです」
「確認しました」
休憩室の窓は、中庭へ向いている。
東門は見えない。
それが少し安心だった。
カイは席に着くなり保存食袋を出した。
ミリアが尋ねる。
「今日の名前は?」
カイは、少しだけ悩んだ。
「存在しない馬車に乗らない用」
アルトは包みを見た。
胸の奥が少し詰まって、それから温かくなる。
「それがいいです」
リゼが頷く。
「非常に適切です」
エリアナも静かに言う。
「はい。今日は、それがよいです」
カイは包みを開けた。
小さな焼き菓子と香草パンの欠け。
アルトは成分を読み上げる。
「焼き菓子は小麦、卵、乳、林檎、杏。香草パンは小麦、卵、乳、蜂蜜、香草候補二、香草候補三。蜂蜜減量版。香草はエリアナさん調整です」
エリアナが頷く。
「確認しました」
香草パンを噛む。
苦味。
甘さ。
存在しない馬車に乗らない用。
その名前が、パンの苦味を少しだけ支えてくれる。
アルトは左手首に触れた。
「痛みなし。熱なし。冷え低下。声なし。保存食で落ち着きました」
カイがほっとしたように頷く。
「よし」
ミリアがアルトを見る。
「今、東門へ行きたい感じはある?」
「ありません」
「足は」
「自分で動かせます。東門へ向かう感じはありません」
「良好ね」
リゼが記録する。
黒札新型の「本人の足で来る」という文言が出て以来、足の確認は日常手順になった。
右足。
左足。
自分で動かせる。
どこへ向かうか、自分で言える。
それだけで、少し現実に戻れる。
午前の間、外では静かに調査が進んだ。
ユリウスが管理部から戻ってきたのは、昼前だった。
彼の表情は険しい。
エレオノーラも一緒だ。
休憩室ではなく、再び保護資料室で報告が行われることになった。
アルトは同席を希望した。
リゼが確認する。
「負荷が高い可能性があります」
「はい。でも、僕に関する記録なので、聞きたいです」
「本人意思、確認しました」
保護資料室へ戻ると、ユリウスは二枚の写しを机に置いた。
「管理部の控えと門衛台帳の入構予定を照合しました。門衛台帳には王宮保護移送馬車の記載がありますが、管理部の正式控えにはありません」
ミリアが眉をひそめる。
「門衛台帳だけ?」
「はい。つまり、管理部で正式登録された予定ではなく、門衛台帳へ直接差し込まれた可能性が高い」
エレオノーラが続ける。
「ただし、門衛台帳に差し込むためには、前夜の東門担当記録へアクセスする必要があります」
学園長が問う。
「東門担当は」
エレオノーラは淡々と答える。
「通常の門衛二名。両名とも記憶にないと証言。昨日夕刻、王宮使者を名乗る者が管理部へ書類を届けた記録はありません」
カイが言う。
「じゃあ、どうやって書いたんだよ」
クラウスが台帳写しを見ながら答える。
「仮印と微細術式で、台帳の一部を“確認済み”に見せた可能性がある。門衛が直接書いたのではなく、台帳の記録面へ後から文字が浮いた可能性もある」
アルトの左手首が冷えた。
「痛みなし。熱なし。冷え少し。声なし。“後から文字が浮いた”で反応しました」
リゼが頷く。
「確認しました」
紙の上で、文字が後から浮く。
本人意思が後から書かれる。
入構予定が後から差し込まれる。
記録というものが、自分の知らないところで変わる。
それは、アルトにとってかなり怖いことだった。
ミリアがアルトへ問いかける。
「怖さは」
「あります。記録が後から変わるのが怖いです」
リゼがすぐに言う。
「現在の学園記録は、複数名確認と写しを併用します。一つの台帳だけで判断しません」
アルトは頷く。
「はい」
学園長は決定した。
「門衛台帳は全門で二重管理へ変更します。紙記録と口頭確認。入構予定は前日夕刻と当日朝の二回照合。王宮名義の入構は、正式番号、目的、同席者、本人意思確認の有無を確認し、本人不在の移送関連記録はすべて無効とします」
エレオノーラが記録する。
ユリウスが追加する。
「東門の明日午後第二時限後の時間帯には、監視班を置きます。ただし、アルト君を囮にしません」
アルトの左手首が少し冷える。
「痛みなし。熱なし。冷えごく少し。声なし。“囮”で反応しました」
リゼが即座に言う。
「アルトさんを囮にしません」
学園長も頷く。
「もちろんです。本人を危険導線へ近づけません」
冷えはすぐに下がった。
ロウ教師が言った。
「敵は門から入るとは限らん。記録から入っている」
その言葉は、誰よりもカイに刺さったようだった。
カイは小さく呟く。
「記録から入る」
ロウ教師が見る。
「どういう意味だ」
カイは少し考え、それから言った。
「門を開けなくても、紙に“入る予定です”って書かれたら、入る準備ができる。馬車がなくても、記録に馬車があると、みんながそのつもりで動く。だから、記録から先に入ってる」
クラウスが頷いた。
「非常に良い整理だ」
カイは少しだけ驚いたが、すぐ真面目な顔に戻った。
「じゃあ、記録の入口も守らないと駄目ですね」
学園長が頷く。
「その通りです」
午後、アルトは短い授業へ出るかどうかを考えた。
存在しない馬車。
記録から入る敵。
東門。
明日午後第二時限後。
かなりの負荷がある。
それでも、アルトは授業に一つだけ出たいと言った。
理由は、前と同じだった。
日常導線を消したくない。
ただし、今日は教室の場所を確認した上で、東門から離れた西棟の授業を選んだ。
本人確認会話。
リゼ。
「アルトさん。西棟の午後第一講義に参加します。目的は日常導線維持。東門および裏導線には近づきません。単独移動はありません。同行者は私、ミリアさん、カイさん、エリアナさん。参加可能ですか」
アルト。
「参加可能です。現在地は保護資料室。痛みなし、熱なし、冷えなし、声なし。西棟へは一人で行きません。東門へは行きません。僕の本人意思は、授業を一つ受けることです」
「確認しました」
西棟へ向かう道は、東門から離れている。
窓の外に見えるのは庭園と噴水で、外壁は遠い。
それでも、廊下に貼られた新しい掲示を見るたび、アルトは少し緊張した。
入構予定二重確認。
移送関連記録は本人確認必須。
単独移動禁止。
記録差し込みに注意。
学園が変わっていく。
それは安全のためだ。
でも、自分のせいで学園が物々しくなっているようにも感じる。
ミリアがそれに気づいた。
「負担に感じている?」
アルトは少し迷って頷いた。
「はい。学園が大変になっています」
カイがすぐに言う。
「敵が悪い」
リゼも頷く。
「はい。あなたが悪いのではありません」
エリアナが静かに言った。
「守るための面倒は、奪う側ではなく、守る側の選択です」
アルトはその言葉を受け取る。
冷えはない。
ただ、胸が少し重い。
「確認しました」
授業は無事に終わった。
途中で冷えは出なかった。
東門へ向かう感覚もない。
足は自分で動いた。
自分の意思で、授業を受け、戻った。
夕方、東門の封鎖確認が行われた。
アルトは同行しない。
リゼも一瞬迷ったが、彼女はアルトの側に残ることを選んだ。
東門確認はユリウス、エレオノーラ、クラウス、ロウ教師、門衛長が行う。
リゼはその判断をアルトへ説明した。
「私は東門確認へ行かず、あなたの側に残ります。目的は、存在しない馬車の誘導導線からあなたを離すことです。東門の確認結果は共有されます」
アルトは頷いた。
「確認しました。僕も、東門へは行きません」
カイが言う。
「俺も行かない。ここにいる」
ミリアも。
「私も」
エリアナも。
「私も、ここにいます」
保護資料室で待つ時間は長く感じた。
外で何が確認されているのか。
本当に明日、馬車が来るのか。
存在しないはずの馬車が、どこから現れるのか。
アルトは記録表を何度も見た。
冷えなし。
声なし。
足、自分で動く。
東門へ行かない。
やがて、ユリウスたちが戻ってきた。
報告は短かった。
東門周辺に、微細な黒い蔦状刻線が確認された。
門柱の内側。
馬車止めの金具。
そして、門衛台帳を置く小机の裏。
黒札ほど強くはない。
だが、記録と門を結ぶように配置されていた。
クラウスが言った。
「馬車が来た時に起動するのではなく、入構予定を見る、記録する、確認済みにする、という行為へ干渉する術式だと思われます」
リゼが低く言う。
「記録から入る術式」
「そう言える」
アルトの左手首が冷える。
「痛みなし。熱なし。冷え少し。声なし」
学園長は静かに命じた。
「東門の門衛台帳は即時交換。小机ごと封鎖。馬車止め金具も封じる。明日午後第二時限後の入構予定は、表向きには未処理のまま観察。実際には全門警戒」
ロウ教師が頷く。
「来るなら、来させて見る。ただし、生徒は近づけるな」
学園長も頷く。
「当然です」
夜の状態確認。
アルト。
「痛みなし。熱なし。冷えなし。声なし。存在しない馬車と、記録から入る術式が怖かったです。でも、東門へ行かず、授業にも出られました。僕は馬車に乗りません」
リゼ。
「身体異常なし。疲労あり。感情、警戒。存在しない移送馬車の記録を確認しました。アルトさんを囮にせず、誘導導線を遮断します」
ミリア。
「身体異常なし。全員、日常を一部維持できました。安全室や休憩室を孤独な場所にしない手順も守れています」
カイ。
「身体異常なし。怒りあり。保存食数、減少。存在しない馬車に乗らない用、残りなし。記録から入る敵なら、記録の入口も守る」
エリアナ。
「身体異常なし。疲労あり。怒りあり。保護や移送という言葉で、人を紙の上から動かすことに反応しています。本人の声を消させません」
リゼが頷いた。
「全員、確認しました」
寮の部屋に戻り、アルトは記録表を開いた。
第10章十日目。
門衛記録。
王宮保護移送馬車。
登録番号なし。
存在しない馬車。
東門。
明日午後第二時限後。
確認済欄に削損線。
三点印可能性。
管理部正式控えには記載なし。
門衛台帳へ直接差し込み可能性。
東門周辺に黒蔦状刻線。
記録から入る術式。
僕は馬車に乗りません。
東門へ行きません。
紙の上で進ませません。
そう書いて、左手首に触れた。
痛みなし。
熱なし。
冷えなし。
声なし。
窓の外は暗い。
鐘塔も、東門も、ここからは見えない。
だが、明日午後第二時限後という時刻だけが、頭の中で硬く残っている。
その時、本当に馬車は来るのか。
存在しないはずの馬車が。
アルトは足を見た。
右足。
左足。
自分で動かせる。
扉へは行かない。
東門へも行かない。
記録表の最後に、一行を足した。
僕の足は、存在しない馬車へ向かいません。




