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灰銀の戦乙女は、制服を知らない  作者: 最後に残った形


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第1章 第15話:英雄少女は制服を少しだけ知る


 翌朝、リゼは制服のリボンを自分で結んでいた。


 鏡の前に立ち、布を指で整える。


 右を通す。


 左を重ねる。


 輪を作る。


 締める。


 形を確認する。


 昨日までなら、その時点で諦めていた。


 あるいは、ミリアが当然のように近づいてきて、何も言わずに直していただろう。リゼもそれを受け入れていた。任務上、制服の乱れは目立つ。ミリアの手際は有用。そう処理していた。


 だが今日は、自分で結んでみようと思った。


 理由は、明確ではない。


 リボンを直せることが任務にどれほど関係するかといえば、ほとんどない。戦闘能力にも、護衛精度にも、敵の発見にも直結しない。


 それでも、鏡の中の自分を見ているうちに、ふと試したくなった。


 制服を着た自分。


 灰銀の髪の少女。


 戦場の英雄と呼ばれた者。


 そして今、王立アークレイン学園の一年生。


 そのどれもが同じ鏡の中にいるのなら、せめてリボンくらいは自分で結べてもいいのではないか。


 そう思った。


「……惜しいわね」


 背後から声がした。


 ミリアはすでに起きていた。金色の髪を整え、制服もきちんと着ている。昨日の疲れはまだ目元に残っていたが、表情は落ち着いている。


 リゼは鏡越しに彼女を見た。


「不合格ですか」


「不合格ではないわ。惜しいの」


「評価差は」


「右が少し長い。結び目が少し硬い。あと、あなたはリボン相手にも警戒しすぎ」


「リボンは敵ではありません」


「なら、もう少し優しく扱いなさい」


 ミリアは近づき、いつものようにリボンへ手を伸ばした。


 リゼは動かなかった。


 ミリアの指が布を解き、もう一度結び直す。


 その動きは柔らかい。


 昨日、髪を梳かされた時と同じ手だった。


 灰銀の戦乙女だと知った後でも、ミリアの手は変わらなかった。


 怖い、と言った。


 それでも、逃げなかった。


 その事実が、リゼにはまだうまく処理できていない。


「今日は、閉架資料室ね」


 ミリアが言った。


「はい」


「寮母様の鍵を使う」


「はい」


「セレスティア先生が十年前の事件に関わっていたかもしれない記録を探す」


「はい」


「そして、無理はしない」


「状況によります」


 ミリアの手がリボンを締めたまま止まった。


「リゼさん」


「……はい」


「今日は無理をしない」


「可能な限り」


「リゼさん」


「はい」


 ミリアは満足したように頷き、結び終えたリボンを軽く整えた。


「できたわ」


「ありがとうございます」


「どういたしまして」


 そのやり取りは、いつものものだった。


 けれど、リゼには少しだけ違って聞こえた。


 秘密を知られた後でも変わらないもの。


 それが存在するということを、彼女はまだ学んでいる途中だった。


 朝食の後、二人は第一校舎へ向かった。


 空はよく晴れていた。中央食堂の修理は続いており、講堂もまだ封鎖されている。校舎のあちこちには警備の教師が立ち、生徒たちの噂話は相変わらず絶えない。


 それでも、授業は続く。


 鐘が鳴り、生徒たちは教室へ向かう。


 誰かが宿題を忘れたと騒ぎ、誰かが朝食のパンが硬かったと文句を言い、誰かが次の魔術基礎を楽しみにしていた。


 世界は、危険だけでできているわけではないらしい。


 リゼは最近、少しだけそれを理解し始めていた。


 一年C組の教室に入ると、アルトはすでに席についていた。


 左手首には布が巻かれている。昨日より巻き方が丁寧になっていた。おそらく自分で何度も巻き直したのだろう。右肩の動きは少しだけ良くなっているが、まだ完全ではない。


 カイはその隣で、何かを熱心に話していた。


「だから、短棒で壁を叩く時はな、こう、腰を入れるんだよ」


「うん。でも僕、壁を叩く予定はあまりないかな」


「予定がなくても覚えとけ。いつ必要になるかわかんねえだろ」


「それは、カイだけの生活では?」


「何でだよ」


 アルトが困ったように笑っている。


 カイは真剣だった。


 リゼは二人の近くへ向かった。


 カイがすぐに顔を上げる。


「お、グレイス。リボン、今日はちょっと綺麗だな」


「いつも綺麗です」


 ミリアが即座に言った。


 カイは一瞬きょとんとした後、慌てて頷いた。


「お、おう。そうだな」


 リゼは自分のリボンを見た。


「今日は自分で結びました」


「えっ」


 アルトが驚いたように瞬きする。


 ミリアが横で補足した。


「八割くらいは」


「残り二割はミリアさんです」


「そこは正直に言うのね」


「事実です」


 カイは腕を組み、感心したように言った。


「すげえな」


「リボンを結ぶことがですか」


「いや、何か……お前でもそういう練習するんだなって」


 リゼは少し考えた。


「必要と判断しました」


「そうか」


 カイは笑った。


「じゃあ俺も、声を小さくする練習するか」


「必要です」


「即答かよ」


「はい」


 アルトが小さく笑った。


 その笑い方は、昨日より少し自然だった。


 リゼは彼の左手首を見る。


「痕は」


「広がっていない」


 アルトは小声で答えた。


「熱もない。声も聞こえない。夢は……見たけど、昨日より遠かった」


「内容は」


「扉の奥に、誰かがいた。でも顔は見えなかった。銀色の輪がたくさん浮いていて、僕を見ていた気がする」


 ミリアの表情が曇る。


 リゼは記録する。


 夢継続。


 接触後、視覚情報増加。


 声はなし。


 手首の痕進行なし。


 緊急度は中。


「午後、閉架資料室で調べます」


 リゼが言うと、アルトは頷いた。


「うん」


 カイも身を乗り出す。


「俺も行くぞ」


「図書館塔内では静かにしてください」


「わかってる」


「本当に?」


「……努力する」


「不十分です」


「わかった。静かにする」


 ミリアが小さく笑った。


「少しずつね」


 その言葉に、リゼは鏡の前でのリボンを思い出した。


 少しずつ。


 戦場では遅すぎる言葉。


 学園では、たぶん必要な言葉。


 午前の授業は、基礎教養と魔術理論だった。


 表面上は何事もなく進んだ。


 ロウ教師はいつも通り淡々と授業をし、魔術理論の教師は初歩的な術式分解を説明した。生徒たちは昨日までの事件を忘れたわけではないが、目の前の授業を受け、ノートを取り、質問をした。


 リゼもノートを取った。


 必要な情報だけでなく、ミリアに言われた通り、黒板に書かれたことをなるべくそのまま書く。


 授業を受ける学生らしく。


 ただし、欄外には旧校舎の構造図と、銀環室の位置と、黒外套の推定移動経路が小さく書き込まれている。


 ミリアに見つかり、軽く睨まれた。


 午後。


 四人は図書館塔へ向かった。


 表向きは自習。


 実際は閉架資料室の調査。


 図書館塔の一階には、いつも通り静かな空気が流れていた。司書席には白髪の老司書が座っている。寮母が言っていた古い知人だろう。彼は四人を見ると、特に驚いた様子もなく眼鏡を持ち上げた。


「閉架資料の閲覧ですね」


 ミリアが礼儀正しく答える。


「はい。寮母様から、こちらへ伺うようにと」


 老司書は机の上に置かれた小さな鍵を見る。


 リゼが差し出したものだった。


 彼はそれを受け取り、何も聞かなかった。


「閲覧時間は一時間。資料の持ち出しは禁止。複写も不可。必要な部分は手で書き写してください。資料を傷めないように」


「承知しました」


 ミリアが答える。


 カイも頷いた。


 アルトは少し緊張した顔をしている。


 リゼは周囲を確認した。


 セレスティアの姿はない。


 他の教師もいない。


 だが、図書館塔の上階には人の気配が複数ある。


 警戒は継続。


 老司書は四人を奥の扉へ案内した。


 閉架資料室は、図書館塔の一階奥、厚い木扉の向こうにあった。


 扉を開けると、冷たい空気が流れ出す。


 湿度管理の魔術が働いているのだろう。中は薄暗く、壁一面に古い資料棚が並んでいた。巻物、革表紙の記録簿、箱に入った研究資料、封印された書簡束。


 光は少ない。


 音も吸い込まれる。


 普通の図書室より、ずっと死角が多い。


 リゼはすぐに位置を決めた。


「アルトさんは中央の閲覧机。ミリアさんは右側資料棚。カイさんは入口付近。私は左側と奥を確認します」


「俺は見張りか」


「はい」


「わかった」


 カイは不満を言わなかった。


 少しずつ学習している。


 老司書は一冊の目録を机に置いた。


「十年前の研究室記録なら、この棚です」


 彼は部屋の奥を指した。


「ただし、欠落も多い。整理された記録だけが真実とは限りません」


 リゼは老司書を見る。


 彼は静かに言った。


「古い学園には、古い影があります。子供たちがそれに触れることを、私は好ましく思いません」


「では、なぜ入れるのですか」


 リゼが問う。


 老司書は寂しげに笑った。


「影は、隠しても消えないからです」


 それだけ言って、彼は部屋を出た。


 扉は完全には閉められない。内側から開けられる状態。


 退路確保。


 リゼは資料棚へ向かった。


 十年前。


 旧魔術史研究室。


 旧校舎封印調査班。


 王権伝承研究会。


 銀環関連資料。


 手がかりになりそうな題名はいくつかあった。


 ミリアも別の棚を確認する。


 アルトは閲覧机で、リゼたちが運ぶ資料を開く役割。


 カイは入口付近で腕を組み、時折そわそわしながらも黙っている。


 最初に見つかったのは、旧校舎封鎖記録だった。


 十年前の日付。


 旧魔術棟地下区画において封印術式異常反応を確認。


 関係生徒一名行方不明。


 記録上は自主退学処理。


 関係資料の閲覧制限を実施。


 学園長承認。


 魔術科主任承認。


 王宮監察官立会。


 ミリアが青ざめる。


「本当に、隠されていたのね」


 リゼは記録を写す。


「生徒名は」


「黒塗りされているわ」


 ミリアが紙をめくる。


「でも、研究室所属者の一覧がある」


 そこには数名の名前があった。


 その中に、一つ。


 セレスティア・ノクス。


 当時、魔術史研究課程特待生。


 旧王権伝承研究補助員。


 リゼはその名を見つめた。


 やはり、いた。


 十年前の事件の中心近くに。


 アルトが小さく言う。


「セレスティア先生……」


 カイが入口から低く聞く。


「やっぱり黒か?」


「未確定です」


 リゼは答える。


「関係者であることは確定しました。敵であるかは別です」


 次に見つかったのは、研究日誌の写しだった。


 筆跡は複数ある。


 その中に、セレスティアと思われる署名があるページもあった。


 日誌には、銀環室の封印反応について書かれていた。


 銀環は血統保持者を認識する。


 ただし、認識だけでは開門に至らない。


 鍵が自ら扉を受け入れる必要がある。


 扉の奥にあるものは“王の影”と呼ばれるが、実体は未確認。


 影は声を用い、鍵の記憶、孤独、不安へ干渉する可能性あり。


 アルトの顔が強ばる。


「孤独に干渉……」


 リゼはその一文に線を引く。


 アルトが夢で呼ばれている理由。


 彼が自分を不幸の原因だと思うこと。


 死を解決策にしそうな危うさ。


 そこへ干渉されれば危険。


「心理的防御が必要です」


 リゼが言う。


 ミリアが頷く。


「一人にしないことね」


「はい」


 アルトは少しだけ困ったように笑った。


「それ、監視が増えるということ?」


「護衛です」


「心配よ」


 ミリアが言った。


 カイも入口から言う。


「友達が一緒にいるってことだろ」


 リゼは三人を見る。


 護衛。


 心配。


 友達。


 同じ行動を、三人が別の言葉で言っている。


 アルトは目を伏せ、小さく笑った。


「そっか」


 さらに資料を探す。


 旧校舎地下の図面。


 銀環室の封印構造。


 王の影に関する伝承断片。


 そして、十年前に戻らなかった生徒の記録。


 名前は黒塗りされていた。


 だが、ミリアが紙の裏から光に透かし、かすかな筆圧を読もうとする。


「……エ、ル……?」


 彼女は眉を寄せる。


「エル?」


 アルトが聞く。


「たぶん。全部は読めないわ。エル、ディ……」


「エルディアス?」


 リゼが言うと、ミリアは息を呑んだ。


「そうかもしれない。エルディアスの血筋の生徒だった可能性がある」


 アルトは左手首を押さえた。


「僕と同じかもしれない人が、十年前に」


「はい」


 リゼは慎重に言った。


「そして戻らなかった」


 アルトの顔色が悪くなる。


 だが、目を逸らさない。


 そこへ、資料束の奥から一通の封書が出てきた。


 封は破られている。


 宛名はない。


 ただ、表に小さく書かれていた。


 ノクスへ。


 ミリアがリゼを見る。


 リゼは封書を開いた。


 中の紙は古く、文字は少し滲んでいる。


 それでも読めた。


 セレスティア。


 もし私が戻らなかったら、銀環室を開けようとする者を止めて。


 王の影は、王ではない。


 あれは、王になれなかったものたちの願いの残骸だ。


 鍵を欲しがる。


 孤独な鍵ほど、よく響く。


 私が呼ばれたように、次の鍵も呼ばれる。


 学園は隠すだろう。


 王宮も隠すだろう。


 でも、いつかまた鍵が現れる。


 その時は、どうか。


 鍵を扉にしないで。


 最後の署名は、黒く塗り潰されていた。


 だが、その下に、小さな銀色の染みが残っている。


 アルトの手首の痕と同じ光に見えた。


 閉架資料室の中は静まり返った。


 カイですら何も言わない。


 ミリアが震える声で言った。


「これ……セレスティア先生は、止めようとしている?」


「可能性があります」


 リゼは答えた。


「でも、先生は私たちを旧校舎へ誘導した」


 アルトが言う。


「止めたいなら、どうして?」


「封印状態を確認したかった可能性。アルトさんの反応を見たかった可能性。私たちを試した可能性。あるいは、別の誰かに先を越される前に、情報を与えた可能性」


「全部、怖いわね」


 ミリアが言う。


「はい」


 リゼは手紙を読み返す。


 鍵を扉にしないで。


 この表現は重要だ。


 アルトは鍵。


 だが、扉にもなり得る。


 つまり、彼自身が封印の入口として利用される可能性。


 危険度、極めて高い。


 その時、入口にいたカイが小さく声を出した。


「誰か来る」


 リゼはすぐに資料を閉じた。


 足音。


 一人。


 静か。


 廊下の向こうから近づいてくる。


 老司書ではない。


 歩幅が違う。


 ミリアが資料を急いで整える。


 アルトは手紙を隠そうとする。


 リゼがそれを止めた。


「戻します」


「でも」


「持ち出せば気づかれます」


 手紙を元の封書へ戻し、資料束の同じ位置に挟む。


 記憶はした。


 必要な部分も書き写した。


 足音が扉の前で止まる。


 扉が開いた。


 立っていたのは、セレスティア・ノクスだった。


 薄紫のローブ。


 黒い髪。


 穏やかな微笑。


 閉架資料室の薄暗い空気の中で、その微笑はいつもよりさらに読めなかった。


「あら」


 彼女は静かに言った。


「熱心ですね」


 カイが身構える。


 ミリアが息を止める。


 アルトは左手首を隠す。


 リゼは一歩前へ出た。


「先生はなぜここへ」


「資料を返しに来ただけです」


 セレスティアは手に持っていた古い本を軽く掲げた。


 『旧王権伝承補遺』。


「あなたたちは?」


「自習です」


「閉架で?」


「はい」


「一年生にしては、ずいぶん難しい自習ね」


 セレスティアは微笑む。


 その視線が、資料棚に戻された封書のあたりへ一瞬だけ向いた。


 気づいている。


 リゼはそう判断した。


「何を探していましたか」


 セレスティアが尋ねる。


「歴史です」


 リゼは答えた。


 セレスティアの唇がわずかに緩む。


「良い答えね」


「先生は、十年前にここにいました」


 リゼは言った。


 ミリアが小さく息を吸う。


 カイが目を見開く。


 アルトはセレスティアを見つめる。


 セレスティアは微笑みを消さなかった。


「ええ」


 あっさり認めた。


「旧校舎の事件にも関係していました」


「関係していた、という言い方は正しいわ」


「戻らなかった生徒を知っていますか」


 セレスティアの目が、初めてわずかに揺れた。


 ほんのわずか。


 だが、確かに。


「知っていました」


 過去形。


 リゼは聞き逃さない。


「その生徒は、銀環の痕を持っていた」


「ええ」


「アルトさんにも痕があります」


 アルトが少し身を固くする。


 セレスティアは彼を見た。


 穏やかではあるが、今までよりも感情が見える目だった。


 悲しみ。


 後悔。


 そして、警戒。


「見せてくれるかしら」


「信用できません」


 リゼは即答した。


 セレスティアはリゼを見る。


「そうでしょうね」


「先生は敵ですか」


 カイが思わず口を挟んだ。


 ミリアが止めようとしたが、遅い。


 セレスティアはカイを見た。


「敵ではない、と言って信じる?」


「信じねえ」


「なら、言葉には意味がないわね」


「じゃあ、行動で示せよ」


 カイの声は低い。


 リゼはカイを見る。


 声を抑えている。


 成長。


 ただし、挑発気味。


 セレスティアは静かに言った。


「私は、銀環室を開けさせたくない」


「昨日、旧校舎へ誘導しました」


 リゼが言う。


「ええ」


「矛盾しています」


「あなたたちが、何も知らずに呼ばれるより、少しでも知ってから近づいた方が生存率が上がると思ったから」


 リゼはその言葉を測る。


 合理性はある。


 だが、危険な判断。


「止める選択は」


「止められるなら、とっくにそうしていたわ」


 セレスティアの声が少しだけ低くなった。


「鍵は呼ばれる。孤独な鍵ほど、よく響く。十年前もそうだった。学園は隠した。王宮も隠した。私は止められなかった」


 彼女の視線がアルトへ向く。


「だから、今度は見逃さない」


 アルトは静かに聞いていた。


「僕を、利用するつもりは?」


「ないわ」


「僕を殺すつもりは?」


「ない」


「僕を守るつもりは?」


 セレスティアはすぐには答えなかった。


 その沈黙が、逆に正直に見えた。


「守ると言えるほど、私は綺麗な立場ではないわ」


 彼女は言った。


「でも、扉には渡さない」


 リゼはセレスティアを見る。


 敵ではない可能性が上がった。


 だが、完全な味方とも言えない。


 目的は銀環室の開放阻止。


 手段は不明。


 情報を隠す癖あり。


 独自行動。


 十年前の罪悪感。


 利用価値はある。


 信用は限定的。


「黒外套は誰ですか」


 リゼが問う。


 セレスティアの表情が険しくなる。


「わからない。ただ、学園の内部に入り込める者。古い術式に詳しい者。銀環室の存在を知っている者」


「先生では」


「疑うのは当然ね。でも、違うわ」


「証明は」


「今はできない」


「では、保留です」


「それでいい」


 セレスティアは一歩引いた。


「レインフォード君」


「はい」


「痕が広がる、熱を持つ、声が聞こえる、夢が鮮明になる。その時はすぐに知らせなさい。私でなくてもいい。寮母でも、ロウ先生でも、誰でもいい。ただ、一人で抱えないこと」


 アルトは目を伏せた。


「僕は、誰を信じればいいんですか」


 セレスティアは少しだけ悲しそうに微笑んだ。


「全員を信じる必要はないわ。でも、自分を孤独にする声だけは信じてはいけない」


 その言葉は、手紙と繋がる。


 孤独な鍵ほど、よく響く。


 アルトはゆっくり頷いた。


「わかりました」


 セレスティアはリゼを見る。


「グレイスさん」


「はい」


「あなたも同じよ」


「私は鍵ではありません」


「でも、孤独に慣れすぎている」


 リゼは答えなかった。


「灰銀の戦乙女」


 セレスティアは静かにその名を呼んだ。


 カイが息を呑む。


 ミリアがリゼを見る。


 アルトも。


 リゼは動かない。


 セレスティアは続ける。


「英雄の名前は、時に檻になる。あなたがその名を嫌っているなら、ここでは別の名で生きなさい」


「リゼ・グレイス」


「ええ」


 セレスティアは初めて、ほんの少しだけ優しく笑ったように見えた。


「制服を着ている間くらいは」


 寮母と同じ言葉。


 リゼは眉を動かしそうになった。


 セレスティアはそれ以上何も言わず、本を棚に戻した。


「閲覧時間を過ぎています。戻りなさい」


 そして、閉架資料室を出ていった。


 扉が閉まる。


 四人はしばらく動かなかった。


 カイが最初に口を開く。


「……結局、味方なのか?」


「限定的協力者候補です」


 リゼは答えた。


「何だそれ」


「完全な味方ではありません。敵とも断定できません。目的の一部が一致する相手です」


「難しいな」


「はい」


 ミリアは静かに言った。


「でも、少なくとも、私たちだけではなくなったわね」


「寮母様、司書様、セレスティア先生。全員、全部は信用できないけれど、全員が完全な敵でもない」


 アルトが左手首を押さえる。


「一人じゃない、ってことかな」


 リゼはその言葉を聞いた。


 一人ではない。


 アルトだけではない。


 ミリアも。


 カイも。


 そして、自分も。


 閉架資料室を出る時、リゼは最後に棚を振り返った。


 十年前の手紙。


 戻らなかった生徒。


 セレスティアの過去。


 銀環室の扉。


 王の影。


 謎は解けていない。


 むしろ、さらに深くなった。


 だが、何も知らなかった時とは違う。


 敵の形が少し見えた。


 味方かもしれない者も少し見えた。


 そして、自分たち四人の距離も変わった。


 その日の夕方、四人は中庭の片隅に集まった。


 特別な作戦会議ではなかった。


 カイが「腹減った」と言い、ミリアが「中央食堂はまだ閉鎖中よ」と返し、アルトが「寮の食堂で食べよう」と提案しただけだった。


 リゼは周囲を確認した。


 安全確認。


 入口、窓、通路、樹木の影。


 異常なし。


 ミリアがそれに気づいて言う。


「リゼさん」


「はい」


「今は、食事の相談よ」


「食事場所の安全確認です」


「もう」


 カイが笑う。


「でも、グレイスが確認してくれると安心するな」


「依存は危険です」


「そういうとこだぞ」


 アルトが穏やかに笑った。


 その笑顔は、まだ少し疲れている。


 けれど、孤独だけではなくなっていた。


 ミリアが言う。


「今日は、四人で食べましょう。寮の食堂は男女で別だから、食堂棟の外の休憩席で軽食を買えばいいわ」


「外は危険です」


 リゼが言う。


「でも、人目があるわ」


「狙撃地点が」


「リゼさん」


「はい」


「今日は、少しだけ普通の学生として食べるの」


 カイが手を叩く。


「いいな、それ」


 アルトも頷いた。


「うん。僕も、それがいい」


 三人の視線がリゼに集まる。


 普通の学生として食べる。


 それは、作戦ではない。


 任務でもない。


 効率的でもない。


 危険がゼロでもない。


 だが、リゼは少し考えて、答えた。


「場所を選ばせてください」


 ミリアが笑った。


「妥協としては上出来ね」


 四人は食堂棟の外にある休憩席へ向かった。


 中央食堂の中は使えないが、外の売店は開いている。パン、果実水、簡単な焼き菓子、温かいスープ。生徒たちは思い思いに買い、石の丸卓や芝生で食べていた。


 リゼは席を選んだ。


 背後に低い壁。


 入口と通路が見える。


 木の影になりすぎない。


 上から落ちるものがない。


 窓からの射線が少ない。


 ミリアはそれを見て、何も言わなかった。


 カイは大量のパンを買った。


 アルトはスープと柔らかいパン。


 ミリアは果実水と小さな焼き菓子。


 リゼは栄養効率を考えて肉入りのパンを選んだが、ミリアに野菜入りのものも追加された。


「またですか」


「またです」


「あなたの食費が」


「今日は私が奢るわ」


「なぜ」


「第1章の打ち上げ……ではなく、皆で無事に戻れたから」


 ミリアは言ってから、少し不思議そうな顔をした。


 リゼには意味がわからなかったが、追及しなかった。


 四人は丸卓を囲む。


 カイが勢いよくパンを食べ、ミリアが注意する。


 アルトがゆっくりスープを飲む。


 リゼは周囲を見ながら食べる。


「見すぎ」


 ミリアが言う。


「警戒です」


「三口に一回でいいわ」


「危険です」


「二口に一回」


「妥協します」


 カイが笑う。


「何の交渉だよ」


 アルトも笑う。


 リゼは少しだけ考えた。


 これは何か。


 部隊の食事ではない。


 任務前の補給でもない。


 護衛対象の監視だけでもない。


 同級生と食事をしている。


 たぶん、そういうことだ。


「リゼさん」


 アルトが声をかけた。


「はい」


「さっき、セレスティア先生に言われたこと。別の名で生きなさいって」


「はい」


「僕も、レインフォードが本当の名前かどうかわからない。でも、今はアルト・レインフォードとしてここにいる」


 彼は左手首に巻いた布を見た。


「だから、君も今はリゼ・グレイスでいてくれると、僕は嬉しい」


 リゼはアルトを見る。


 ミリアも、カイも黙っている。


 それは命令ではない。


 願いに近い。


 リゼは少しだけ時間をかけて答えた。


「努力します」


 カイが苦笑する。


「そこは、はい、だろ」


 ミリアも言う。


「そうね」


 アルトは笑った。


「でも、リゼさんらしい」


 リゼは三人を見た。


 ミリア・ファルネーゼ。


 アルト・レインフォード。


 カイ・ロックハート。


 入学前には知らなかった名前。


 任務資料には、アルトの名前だけがあった。


 それなのに今、リゼの周りには三人がいる。


 危険が増えた。


 守るべきものが増えた。


 判断は難しくなった。


 だが、完全に悪いことではないのかもしれない。


 リゼはそう思った。


 夕陽が学園の屋根を赤く染めていた。


 その色は戦場の夕暮れに似ている。


 けれど、ここには焦げた匂いも、血の匂いもない。


 焼き菓子の甘い匂いと、果実水の香りと、カイの大きすぎる笑い声がある。


 リゼは自分の制服の袖を見た。


 灰はもう落とした。


 リボンはまだ整っている。


 自分で結んだ八割と、ミリアが直した二割。


 その中途半端さが、今の自分にはちょうどいい気がした。


 夜。


 三〇七号室へ戻ると、ミリアは見張り表を机に置いた。


「今日も見張りはするわ」


「はい」


「でも、その前に宿題」


「宿題」


「基礎教養の課題が出ていたでしょう」


 リゼは一瞬止まった。


 忘れていた。


 敵、旧校舎、銀環、閉架資料、セレスティア、アルトの痕。


 それらを優先しすぎて、普通の学生としての課題が抜けていた。


 ミリアが勝ち誇ったように言う。


「ほら。普通の学生は宿題もするのよ」


「失念していました」


「手伝うわ」


「必要です」


「素直でよろしい」


 二人は机を並べた。


 リゼは教科書を開く。


 課題は、王国史の基礎年表をまとめること。


 西方戦争の項目もある。


 灰銀の戦乙女の名は、教科書には出ていない。


 リゼは少しだけ安堵した。


 ミリアはそれに気づいたのか、何も言わなかった。


 代わりに、空欄を指す。


「ここ、王都和平条約」


「はい」


「こっちはヴァルム要塞陥落」


「……はい」


 リゼはペンを動かす。


 ヴァルム要塞。


 そこに、自分はいた。


 だが、今は教科書の年表に文字として書く。


 戦場の記憶ではなく、学生の課題として。


 不思議だった。


 少し痛む。


 けれど、書けないほどではない。


 課題を終える頃、夜は深くなっていた。


 ミリアが眠そうに目をこすりながら言う。


「今日は、前半私ね」


「疲労しています」


「あなたも」


「私は」


「交代」


「はい」


 リゼはベッドに横になった。


 窓際にはミリア。


 机には見張り表。


 引き出しには脅迫文。


 閉架で写した記録。


 そして、制服の替えリボン。


 目を閉じる。


 眠りは浅い。


 それでも、昨日より少しだけ呼吸が楽だった。


 灰銀の戦乙女。


 その名は消えない。


 戦場も消えない。


 敵も消えていない。


 アルトの謎も、銀環室の扉も、王の影も、すべて残っている。


 けれど、今ここでリゼは制服を着ている。


 隣にはミリアがいる。


 明日は授業がある。


 アルトの手首を確認しなければならない。


 カイの声を小さくする訓練も必要かもしれない。


 リボンも、もう一度自分で結ぶ。


 完璧にはできないだろう。


 でも、八割ならできた。


 次は、九割を目指せるかもしれない。


 それが何の役に立つのか、まだわからない。


 それでも、リゼはそう思った。


 窓の外で、風が揺れた。


 遠くの鐘楼が静かに夜を刻む。


 リゼは眠りに落ちる直前、今日の夕陽の中で四人が囲んだ丸卓を思い出した。


 危険ではない時間。


 任務ではない会話。


 守るためではなく、ただそこにいた時間。


 それは短かった。


 けれど、確かにあった。


 リゼ・グレイスは、まだ普通の学生ではない。


 きっと、簡単にはなれない。


 それでも、制服を少しだけ知った。


 リボンの結び方を少しだけ覚えた。


 ありがとうの返し方も、心配と監視の違いも、怖いと言った相手が離れないことも。


 少しずつ。


 その言葉を、彼女は今夜、否定しなかった。


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