表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
灰銀の戦乙女は、制服を知らない  作者: 最後に残った形


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

14/167

第1章 第14話:英雄少女は普通を選べない


 朝は、何事もなかったような顔で来た。


 窓の外では鳥が鳴き、女子第一寮の中庭には淡い光が差し込んでいる。夜露をまとった草花がきらきらと揺れ、食堂棟の方からは焼きたてのパンの匂いが漂ってきた。


 いつもと同じ朝。


 けれど、三〇七号室の中だけは、昨日までとは違っていた。


 リゼはベッドに腰掛けたまま、制服の袖口を見つめていた。


 袖には、旧校舎の埃が少しだけ残っている。昨夜、丁寧に払ったはずだった。それでも、布の縫い目に入り込んだ灰色の粉は、完全には取れていない。


 旧校舎の地下。


 銀環室。


 黒外套。


 鍵。


 王の影。


 そして、暴かれた名前。


 灰銀の戦乙女。


 それは、戦場に置いてきたはずの名だった。


 王都の広場では、吟遊詩人が美しく歌う名。軍の記録では戦果として書かれる名。子供たちが木の枝を剣に見立てて真似する名。カイのような少年が、憧れのまなざしで語る名。


 だが、リゼにとっては違う。


 灰と血と雨の匂い。


 指先に残る剣の震え。


 命令。


 突撃。


 死体。


 生き残ったことへの沈黙。


 その名が、ミリアの前で暴かれた。


 リゼは隣のベッドを見た。


 ミリアはもう起きていた。


 いつもなら、朝の支度を始める頃には髪を整え、リゼのリボンを直す準備をしている。だが今朝は、ベッドの端に座ったまま膝の上で手を組み、黙って床を見ていた。


 眠っていないのだろう。


 目元に疲れがある。


 それでも、泣き腫らした顔ではない。昨夜、涙は見せた。だが、ミリアは泣き崩れなかった。リゼを責めることも、拒絶することもしなかった。


 それが、リゼにはわからなかった。


 戦場で正体を知られることは、利用されることと同じだった。


 弱みを握られる。


 人質を取られる。


 命令に使われる。


 だから隠す。


 だから話さない。


 けれど、ミリアは違った。


 あなたは今、私の同室者なの。


 昨夜の言葉が、まだ耳に残っている。


 灰銀の戦乙女でも、リゼ・グレイスでも。


 同室者。


 その言葉は、軍の階級よりも、傭兵部隊の呼び名よりも、ずっと扱いづらかった。


「リゼさん」


 ミリアが静かに呼んだ。


「はい」


「眠れた?」


「短時間、休息しました」


「それは眠れていないという意味ね」


「必要最低限は」


「そう」


 ミリアは立ち上がった。


 いつものように、衣装棚の前へ行く。制服を整え、髪を櫛で梳かす。動作は普段通りに見える。だが、指先が少しだけ遅い。


 リゼはそれを見ていた。


「ミリアさん」


「何?」


「怖いですか」


 ミリアの手が止まった。


 鏡越しに、彼女の目がリゼを見る。


 数秒の沈黙。


 そして、ミリアは正直に答えた。


「怖いわ」


「私が?」


「少し」


 リゼは頷いた。


 想定内。


 灰銀の戦乙女。


 戦争の英雄。


 人を斬ってきた少女。


 同じ部屋で眠る相手がそうだと知れば、怖がるのは自然。


 リゼは淡々と処理しようとした。


 距離を取る。


 必要なら部屋を変える。


 ミリアの安全確保を優先する。


 彼女が望むなら、自分から寮母へ申し出ればいい。


 そう考えた瞬間、ミリアが言った。


「でも、それ以上に、あなたが怖いものをずっと一人で抱えていたことが怖い」


 リゼは言葉を失った。


 ミリアは鏡から視線を外し、リゼの方を向いた。


「私は、灰銀の戦乙女という名前を知っていたわ。もちろん、詳しくはないけれど。王都で知らない人はいないもの。戦争を終わらせた英雄。敵軍を退けた少女。そう聞いていた」


「事実とは異なる部分があります」


「そうでしょうね」


 ミリアは静かに言った。


「昨日、あなたの顔を見てわかったわ。あの名前は、あなたにとって誇らしいものではないのね」


 リゼは答えなかった。


 誇らしい。


 その感覚は、わからない。


 勝てば褒められた。


 生き残れば次の任務が来た。


 戦果を上げれば、上官は満足した。


 だが、誇りというものを感じた記憶はない。


「あなたが何をしてきたのか、私はまだ知らない」


 ミリアは続けた。


「きっと、知ったら怖くなることもあると思う。全部すぐに受け止められるとは言えないわ」


「はい」


「でも、それでも」


 ミリアはリゼの前まで歩いてきた。


「今朝、あなたがいなくなっていないか確認して、ほっとしたの」


 リゼは目を瞬いた。


「なぜですか」


「あなたなら、正体を知られたから危険だと判断して、一人でどこかへ行ってしまうかもしれないと思ったから」


「その選択肢は検討しました」


「やっぱり」


 ミリアは少し怒った顔をした。


「しないで」


「ミリアさんの安全を考えるなら」


「しないで」


 強い声だった。


 リゼは黙る。


 ミリアはリゼの首元へ手を伸ばした。


 今朝も、リボンは少し歪んでいる。


 彼女はいつものように、それを直し始めた。


 指先は少し震えていた。


 それでも、逃げなかった。


「あなたが灰銀の戦乙女でも、これは直すわ」


 ミリアは言った。


「リボンが曲がっていたら、普通の学生として変だもの」


「普通の学生」


「ええ」


 布が整えられる。


 左右の長さが揃い、綺麗な結び目が作られる。


「あなたは、普通の学生としてここにいるのでしょう?」


 リゼは答えに迷った。


 任務上は違う。


 アルト・レインフォードの護衛。


 正体秘匿。


 敵の監視。


 旧校舎の調査。


 普通の学生ではない。


 しかし、ミリアの問いはそういう意味ではないのだろう。


 制服を着る。


 授業へ行く。


 食堂で食べる。


 同級生と話す。


 リボンを直される。


 そういう日々を、捨てるのかどうか。


 リゼは少しだけ息を吸った。


「ここにいる必要があります」


「任務だから?」


 ミリアの声は静かだった。


 リゼは隠せなかった。


「はい」


「でも、それだけ?」


 答えが出ない。


 以前なら即答できた。


 任務だから。


 それだけ。


 だが今は、なぜか言葉が止まる。


 ミリアが微笑んだ。


「今、少し迷ったわね」


「はい」


「なら、今日はそれで十分」


 リボンを整え終えると、ミリアは一歩下がった。


「おはよう、リゼさん」


 リゼは少し遅れて答えた。


「おはようございます」


 朝食の食堂は、昨日までよりもざわついていた。


 中央食堂のシャンデリア事故、旧校舎近くで夜間に教師の巡回が増えたこと、そして一年生の間で広がる不安。どれも生徒たちの声を低くし、視線を忙しなくさせている。


 寮母はいつも通り食堂の入口に立っていた。


 リゼとミリアが入ると、一瞬だけこちらを見る。


 昨夜、寮母は木札を渡した。


 見ていない、という形で。


 そして、戻りなさいと言った。


 リゼは軽く頭を下げた。


 寮母は何も言わなかった。


 ただ、ほんのわずかに目を伏せた。


 それが安堵なのか、叱責を後回しにしているだけなのかは判断できない。


 リゼとミリアは席についた。


 ミリアはいつもよりリゼの近くに座った。


 物理的な距離が少し近い。


 怖いと言ったのに。


 リゼには、それが理解しづらかった。


「なぜ近いのですか」


 リゼが尋ねると、ミリアはパンを手に取ったまま固まった。


「今、それを聞くの?」


「はい」


「……あなたが、逃げないように?」


「拘束ですか」


「違うわ。見守りよ」


「監視では」


「心配」


「はい」


 分類修正。


 監視ではなく心配。


 ただし、行動抑止効果あり。


 ミリアは小さくため息をつき、リゼの皿に茹で野菜を乗せた。


「食べなさい」


「あなたの分が」


「もういいから食べなさい」


「はい」


 そのやり取りは、昨日までと同じだった。


 だが、同じであることが少し違って感じられた。


 リゼの正体を知っても、ミリアは野菜を乗せる。


 リボンを直す。


 おはようと言う。


 それは奇妙だった。


 そして、少しだけ胸の奥が落ち着かない。


 朝食後、一年C組の教室へ向かう途中で、カイが走ってきた。


「グレイス!」


 声が大きい。


 いつも通り。


 だが、リゼを見る目は昨日までと少し違った。


 旧校舎の地下で、カイは黒外套の言葉を聞いた。


 灰銀の戦乙女。


 彼にとって憧れの英雄。


 その正体が、目の前の同級生だと知った。


 カイはリゼの前で足を止めた。


 珍しく、すぐには話さなかった。


 ミリアが警戒するようにリゼの隣に立つ。


 リゼはカイを見上げた。


「何ですか」


「お前」


 カイは言いかけて、口を閉じる。


 視線が揺れる。


 憧れ。


 混乱。


 疑念。


 そして、何かを抑えている。


「本当に、灰銀の戦乙女なのか」


 声は小さかった。


 カイにしては、驚くほど。


 リゼは周囲を確認した。


 近くに生徒はいるが、距離はある。聞こえていない。


「はい」


 カイの拳が握られる。


「俺、ずっと憧れてた」


「知っています」


「昨日、お前があそこで戦ってるのを見て……俺、何もできなかった。外で待てって言われて、壁を壊すくらいしか」


「壁の破壊は有効でした」


「そういう話じゃない」


 カイは歯を食いしばる。


「俺は、英雄みたいになりたかった。でも、その英雄が目の前にいて、思ってたのと全然違ってて」


 リゼは黙って聞いた。


 カイは続ける。


「お前は、もっとこう……笑ってると思ってた。強くて、堂々としてて、何でもできる人だと思ってた」


「その人物は存在しません」


「だな」


 カイは苦しそうに笑った。


「昨日、初めてそう思った」


 ミリアが静かにカイを見る。


 アルトはまだ教室に来ていない。


 廊下の窓から朝の光が差し込む。


 カイは深く息を吸った。


「ごめん」


 その言葉は、リゼの予想外だった。


「なぜ謝罪を」


「俺、勝手に憧れてた。お前がどんな思いで戦ったかも知らないで。英雄だから本気で戦ってくれとか、簡単に言った」


「情報不足による判断です」


「そういう言い方するなって」


 カイは苦笑した。


 だが、目は真剣だった。


「でも、憧れたことを全部間違いだったとは思いたくない」


 リゼはカイを見る。


「どういう意味ですか」


「お前が昨日、アルトを守ろうとしてたのは本当だろ。ミリアも守った。俺にも指示を出した。あれは、英雄譚みたいに綺麗じゃなかったけど……俺には、すごいと思えた」


 リゼは答えられなかった。


 カイの言葉は、単純で、真っ直ぐで、扱いに困る。


「だから俺は、灰銀の戦乙女じゃなくて、リゼ・グレイスに追いつきたい」


 カイは言った。


「昨日までの憧れとは違う。今は、お前の隣で戦えるくらいになりたい」


「推奨しません」


「そこは変わらないんだな」


「危険です」


「知ってる」


 カイは少し笑った。


「でも、俺ももう見た。旧校舎も、黒外套も、アルトが鍵って呼ばれたのも。今さら知らないふりはできない」


 ミリアが小さく頷いた。


「同じね」


「ファルネーゼも?」


「ええ。怖いけれど、知らないふりはできないわ」


 リゼは二人を見る。


 ミリア。


 カイ。


 どちらも逃げない。


 逃げられる場所にいるはずなのに。


 なぜ。


 その問いは、まだリゼの中に残る。


 だが、もう完全には拒めなかった。


「行動時は指示に従ってください」


 リゼが言うと、カイは笑った。


「おう」


「勝手に突撃しない」


「努力する」


「努力では不十分です」


「……しない」


「声を抑える」


「難しいな」


「必須です」


「わかった」


 カイは大きく頷いた。


 ミリアが少しだけ笑う。


「これで、少しはまとまりそうね」


「まとまり」


 リゼはその言葉を繰り返す。


 部隊。


 班。


 護衛対象と協力者。


 そう分類すれば理解しやすい。


 だが、ミリアとカイはたぶんそういう意味では言っていない。


 その時、廊下の向こうからアルトが歩いてきた。


 左手首には布が巻かれている。


 顔色は昨日よりもさらに悪い。だが、目はしっかりしていた。


 彼は三人を見つけると、少しだけ足を止めた。


 リゼはすぐに近づく。


「手首は」


「痕は消えてない。でも、痛みはない」


「見せてください」


 アルトは一瞬ためらい、周囲を見てから布を少しだけずらした。


 銀色の輪の痕は、薄く残っている。


 昨日より濃くはなっていない。


 熱もなさそうだ。


 ただ、輪の一部が細い文字のように見えた。


 古代王国文字か。


 ミリアも覗き込み、顔を強ばらせる。


「これ、ただの痕じゃないわ。文字が混じっている」


「読めますか」


 リゼが尋ねる。


「全部は無理。でも……“眠る”“王”“鍵”に近い文字がある」


 アルトが目を伏せた。


「やっぱり、僕が鍵なんだね」


「鍵は物ではありません」


 リゼが言うと、アルトは少しだけ笑った。


「覚えてる。僕は人間、でしょう?」


「はい」


「ありがとう」


 カイがアルトの肩に手を置きかけ、右肩の怪我を思い出して慌てて引っ込めた。


「悪い」


「大丈夫」


 アルトが言いかけると、ミリアが睨む。


 アルトは言い直した。


「少し痛むけど、今のは触ってないから平気」


「よろしい」


 カイが首を傾げる。


「何だ、そのやり取り」


「大丈夫禁止令よ」


 ミリアが言う。


「便利だな、それ。俺も使うか」


「あなたは少し痛いくらいで大騒ぎしそうだけれど」


「そんなことねえよ!」


 声が大きい。


 近くの生徒が振り返る。


 ミリアが慌てて笑顔で会釈した。


 リゼはその様子を見た。


 昨日、旧校舎の地下にいた四人。


 命を狙われ、正体を暴かれ、銀環の扉に触れかけた四人。


 それでも、廊下でこんな会話をしている。


 カイが大声を出し、ミリアがたしなめ、アルトが苦笑し、リゼが観察している。


 普通ではない。


 だが、少しだけ普通に見える。


 そのことが、リゼには不思議だった。


 午前の授業は魔術史だった。


 担当は、セレスティア・ノクス。


 教室に彼女が入ってきた瞬間、リゼの意識は鋭くなった。


 ミリアも背筋を伸ばす。


 アルトは布を巻いた左手首を机の下に隠した。


 カイは露骨に睨みそうになり、ミリアに肘で小突かれて前を向いた。


 セレスティアは何事もなかったように教卓へ立った。


 薄紫のローブ。


 黒い髪。


 穏やかな微笑。


 昨夜、旧校舎へ誘導する本を置いた人物。


 敵か味方か、まだ判別できない人物。


「皆さん、おはようございます」


 セレスティアの声は柔らかかった。


「今日は、魔術史の中でも特に重要な“封印術と王権”についてお話ししましょう」


 リゼの指先が机の下で止まる。


 封印術。


 王権。


 昨日の続きのような内容。


 偶然ではない。


 セレスティアは黒板に古い魔術陣を描いた。


 円。


 輪。


 中心の印。


 リゼはそれを見た瞬間、銀環室の扉を思い出した。


「古代王国において、王とは単なる統治者ではありませんでした。王は土地と契約し、民を守り、魔術的な秩序を維持する存在でもあったのです」


 セレスティアの説明は穏やかで、わかりやすい。


 生徒たちは真剣に聞いている。


「そのため、王の血筋には特別な意味が与えられました。王家の血は封印を開く鍵であり、時に封印を維持する楔でもあった」


 鍵。


 アルトの肩がわずかに動いた。


 リゼはそれを確認する。


 セレスティアの視線は黒板に向いている。


 だが、見ていないとは限らない。


「もっとも、現代ではこうした血統魔術の多くは失われています。伝承、迷信、政治的な作り話とされるものも多い。けれど、歴史を学ぶ者は、それらを単なる物語として切り捨ててはいけません」


 セレスティアは振り返った。


「物語は、時に事実を隠すための衣なのです」


 その目が、リゼと一瞬だけ合う。


 次にアルトへ。


 そして、何事もなかったように全体を見る。


「例えば、“眠れる王の影”という伝承があります」


 ミリアの呼吸が止まった。


 リゼも動かない。


 昨日の紙片。


 扉の奥で、王の影が眠る。


 それと同じ。


 セレスティアは続ける。


「これは古代王が死後も国を守るという美しい伝説として知られています。しかし一部の解釈では、王の影とは、封印された王権の残滓、あるいは未完の契約術式を指すとも言われます」


 カイが小声で呟く。


「何言ってるか半分わからん」


 ミリアが低く言う。


「黙って聞いて」


 リゼは黒板の文字を記憶する。


 眠れる王の影。


 封印された王権の残滓。


 未完の契約術式。


 銀環室の奥にいるもの。


 それは人ではないのかもしれない。


 魔術的存在。


 封印術式。


 王権の影。


 アルトを鍵として呼ぶもの。


 授業は続いた。


 セレスティアは決してアルトの名を出さない。


 銀環室の名も出さない。


 旧校舎にも触れない。


 だが、内容のすべてが、昨夜の出来事へ繋がっているようだった。


 授業の終わり際、セレスティアは生徒たちへ言った。


「歴史を学ぶ時、大切なのは二つです。知る勇気と、知らないままでいる慎重さ」


 彼女は微笑む。


「どちらか一方だけでは、人は簡単に破滅します」


 鐘が鳴った。


 授業終了。


 生徒たちがざわざわと立ち上がる。


 リゼたちは動かなかった。


 セレスティアは教材をまとめ、教室を出ようとする。


 その時、リゼは立ち上がった。


「先生」


 教室の空気がわずかに止まる。


 セレスティアが振り返る。


「何かしら、グレイスさん」


「質問があります」


「授業内容について?」


「はい」


 ミリアが緊張した顔でリゼを見る。


 カイも。


 アルトは左手首を押さえている。


 リゼは言った。


「眠れる王の影は、鍵がなければ起きませんか」


 生徒たちの一部が不思議そうにこちらを見る。


 セレスティアは微笑みを崩さない。


「伝承によれば、鍵が必要とされます」


「鍵が近づくだけで反応することは」


「興味深い質問ね」


「回答を」


「封印には種類があります。触れなければ反応しないもの。血に反応するもの。声に反応するもの。存在そのものに反応するもの」


 存在そのもの。


 アルトが青ざめる。


「危険な封印は、どう扱うべきですか」


 リゼが尋ねる。


 セレスティアの目が少しだけ細くなった。


「近づかないこと」


「近づいてしまった場合は」


「離れること」


「痕が残った場合は」


 セレスティアの微笑が、ほんのわずかに止まった。


 わずか。


 だが、確かに。


「痕?」


「封印反応の痕です」


 セレスティアは数秒沈黙した。


 そして言った。


「信頼できる専門家に見せるべきでしょうね」


「誰を信頼すればいいですか」


 教室の空気が、完全に張り詰めた。


 質問としては授業から逸脱している。


 だが、セレスティアは怒らなかった。


 彼女はリゼを見て、静かに言った。


「それを自分で判断できないうちは、危険なものに近づくべきではありません」


 リゼは答えない。


「グレイスさん」


 セレスティアの声は優しい。


「あなたは、守るために近づくのでしょう。でも、近づくことで目覚めさせてしまうものもある」


 それは、リゼだけに向けられた言葉ではない。


 アルトへ。


 ミリアへ。


 カイへ。


 あるいは、自分自身へ。


「覚えておきなさい」


 セレスティアはそれだけ言い、教室を出ていった。


 授業後、四人は中庭の端へ集まった。


 人通りはあるが、会話が聞こえるほど近くはない場所。


 ミリアが先に言った。


「あの先生、全部知っているわ」


「可能性は高いです」


 リゼが答える。


「でも、敵ならどうして警告するの?」


「誘導かもしれません」


「味方なら、どうして隠すの?」


「敵に知られないため、あるいは私たちを試すため」


 アルトが左手首を見つめる。


「痕を見せる相手……」


「学園内で信頼可能な専門家は不明です」


 リゼは言った。


「寮母様は?」


 ミリアが提案する。


「旧校舎を知っています。木札も持っていました。ただし、魔術痕を診断できるかは不明」


「ガルド先生は?」


 カイが言う。


「剣術教師です。魔術痕の専門ではありません」


「ロウ先生」


 アルトが言う。


「常識的で、生徒を守ろうとしているように見える」


「情報漏洩経路が不明なため、慎重に」


 四人は黙った。


 信頼できる大人がいない。


 その事実が、改めて重い。


 ミリアが小さく言う。


「でも、子供だけで抱えるには大きすぎるわ」


「はい」


 リゼも同意した。


 敵が旧校舎、血統魔術、王権封印に関わるなら、学生四人だけで処理できる規模を超えている。


 だが、誰に何を話すかを間違えれば、アルトは利用される。


 リゼの正体もさらに広がる。


 「段階的に情報を開示します」


 リゼは言った。


「まず寮母様へ、旧校舎内部で魔術反応を受けたことのみ相談。アルトさんの血統可能性と銀環室の詳細は伏せる。痕を見せるかは、寮母様の反応を見て判断」


「私も行くわ」


 ミリアが言う。


「僕も」


 アルトも言う。


「俺は?」


 カイが聞く。


「あなたは外で待機」


「またかよ!」


「寮母室に四人で押しかけると目立ちます」


「……それはそうか」


 カイは不満そうだったが、今回は引いた。


「ただし、何かあったら呼べ」


「はい」


 その日の放課後、リゼとミリア、アルトは寮母室へ向かった。


 男子寮の生徒であるアルトが女子第一寮へ入ることはできないため、寮母には中庭横の応接室を使ってもらう形にした。ミリアが寮母へ正式に申し出たおかげで、不自然さは抑えられた。


 寮母は三人を見た瞬間、顔を険しくした。


「戻っただけでは済まなかったようですね」


 リゼは頷く。


「旧校舎内部で封印反応がありました」


 寮母の表情が変わる。


「どこまで行ったのですか」


「地下。石の扉の前まで」


 寮母の顔から血の気が引いた。


 ミリアが息を呑む。


 リゼは続ける。


「扉は完全には開いていません。ただし、一部反応しました」


 寮母は椅子に座るよう三人へ促した。


 自分も向かいに座る。


「痕は?」


 その問いは早かった。


 つまり、寮母は封印反応で痕が残ることを知っている。


 アルトはリゼを見る。


 リゼは小さく頷いた。


 アルトは左手首の布を外した。


 銀色の輪。


 古代文字。


 寮母はそれを見て、目を閉じた。


「……また」


 また。


 リゼは聞き逃さない。


「以前にも?」


 寮母はしばらく答えなかった。


 やがて、低く言う。


「昔、同じ痕を持つ生徒がいました」


「戻らなかった生徒ですか」


「ええ」


 ミリアの手が震える。


 アルトは顔を強ばらせる。


「その生徒は、どうなったのですか」


 リゼが問う。


 寮母は首を横に振った。


「行方不明です。公式には退学。記録上は家の事情で学園を去ったことになっています」


「実際は」


「旧校舎へ入り、そのまま戻らなかった」


「誰が隠蔽を」


 寮母はリゼを見た。


「学園です」


 部屋の空気が重く沈む。


「当時の学園長、魔術科上層部、一部の王宮関係者。詳しいことは私にも知らされていません。ただ、私が知っているのは一つ。銀環の痕が出た生徒は、旧校舎から離すべきです」


「痕を消す方法は」


「わかりません」


「進行しますか」


「場合によります。扉が完全に開いていないなら、まだ浅いはずです」


「浅い」


 アルトが呟く。


「僕は、どうなるんですか」


 寮母はアルトを見る。


 その目には、規則を守らせる寮母ではなく、子供を案じる大人の色があった。


「わかりません」


 正直な答えだった。


「ですが、旧校舎へ近づかないこと。夢に呼ばれても応じないこと。痕が熱を持つ、広がる、文字が増える、声が聞こえる。どれか一つでもあれば、すぐに知らせなさい」


「先生たちには?」


 ミリアが尋ねる。


 寮母の表情が硬くなる。


「慎重に。全員が信用できるわけではありません」


「セレスティア先生は」


 リゼが言う。


 寮母の目が動いた。


 反応あり。


「セレスティア・ノクス先生について、何を知っていますか」


 寮母はすぐには答えなかった。


 長い沈黙の後、言った。


「彼女は、十年前にもこの学園にいました」


「教師として?」


「いいえ」


 寮母の声が低くなる。


「生徒として」


 ミリアが驚く。


「十年前? でも、先生は今でもお若く見えますが……」


「当時、彼女は最年少で魔術史研究課程に進んだ特待生でした。そして」


 寮母は言葉を選ぶように間を置く。


「戻らなかった生徒と、同じ研究室にいました」


 リゼの中で、線がつながる。


 セレスティア。


 十年前の生徒。


 戻らなかった銀環の痕を持つ生徒。


 魔術史。


 旧校舎。


 血統魔術。


 彼女は過去の事件を知っている。


 ただの教師ではない。


「彼女は敵ですか」


 リゼが問う。


 寮母は静かに首を横に振った。


「わかりません」


「味方ですか」


「それも、わかりません」


「何をしているのですか」


「おそらく、十年前の続きを追っている」


 寮母の声は重かった。


「彼女は学園に戻ってきた。教師として。魔術史担当として。旧校舎と血統魔術に近い位置に」


「目的は」


「知ることか、止めることか、開けることか」


 寮母はアルトを見る。


「判断を間違えれば、あなたが巻き込まれます」


 アルトは布を巻き直した。


 手が少し震えている。


 それでも、彼は顔を上げた。


「僕は、逃げればいいんですか」


「逃げられるなら」


 寮母は答えた。


「逃げてほしいと、私は思います」


「でも、逃げた先にも来るかもしれない」


「ええ」


「僕が何者なのかを知らないままだと、また同じことになる」


 寮母は目を伏せた。


「そうかもしれません」


 アルトは小さく息を吐いた。


「じゃあ、知りたいです」


 声は震えていた。


 だが、逃げてはいなかった。


「死にたいわけじゃない。利用されたいわけでもない。でも、自分のことを知らないまま、誰かに守られて、誰かが傷つくのを見ているだけは嫌です」


 リゼはアルトを見た。


 昨日までの彼とは違う。


 恐怖はある。


 だが、言葉に意思がある。


 ミリアが静かに彼の隣へ座り直した。


「なら、知りましょう。慎重に」


 リゼも頷いた。


「生存を最優先に」


 アルトは少し笑った。


「うん」


 寮母は三人を見た。


 深く、重いため息をつく。


「あなたたちは、止まらないのですね」


「はい」


 リゼが答える。


「そういう顔をしています」


 寮母は机の引き出しから、小さな古い鍵を取り出した。


「図書館塔の閉架資料室の鍵です。十年前の事件に関する正式な記録はありません。ですが、当時の研究記録の一部が、閉架に移されています」


 ミリアが驚く。


「貸してくださるのですか」


「貸すのではありません」


 寮母は鍵を机に置いた。


「私は、うっかりここに置き忘れるのです」


 リゼは鍵を見た。


「また見ていないのですか」


「ええ。最近、目が悪くなったようです」


 寮母は硬い表情のまま言った。


 だが、その目には確かに意思があった。


「ただし、今日ではありません。あなたたちは疲れている。特にレインフォードさん。今日は寮へ戻り、休みなさい」


「ですが」


 リゼが言いかける。


 寮母の声が鋭くなる。


「休みなさい」


 命令だった。


「戦うにも、調べるにも、倒れたら終わりです」


 ミリアがすぐに言う。


「その通りです」


 リゼは沈黙した。


 寮母の判断は合理的だ。


 疲労蓄積。


 精神的負荷。


 アルトの魔術痕。


 今日これ以上動くのは危険。


「わかりました」


 リゼは答えた。


 寮母は少しだけ頷く。


「明日の午後、図書館塔の閉架担当は私の古い知人です。余計な詮索はしないでしょう。ただし、短時間で済ませなさい」


「はい」


 応接室を出る時、寮母はリゼだけを呼び止めた。


 ミリアとアルトは少し先で待つ。


「グレイスさん」


「はい」


「あなたが灰銀の戦乙女だということは、私は聞かなかったことにします」


 リゼは無言で寮母を見る。


「ですが、一つだけ言います」


 寮母は静かに続けた。


「戦場で生き残った子供が、学園でも同じ生き方をする必要はありません」


 リゼの胸の奥に、何かが触れた。


「意味がわかりません」


「今はそれで構いません」


 寮母は少しだけ表情を緩めた。


「制服を着ている間くらい、生徒でいなさい」


 リゼは答えられなかった。


 寮母はそれ以上言わず、去っていった。


 夕方、アルトはカイに付き添われて男子寮へ戻った。


 カイは「今日は絶対に一人にしねえ」と言い張り、アルトは困ったように笑いながらも拒まなかった。


 ミリアとリゼは女子寮の部屋へ戻った。


 部屋に入ると、ミリアは深く息を吐き、ベッドに腰を下ろした。


「今日は、昨日より疲れた気がするわ」


「身体的負荷は昨日の方が大きいです」


「心の方よ」


「はい」


 リゼも机の前に座った。


 記録すべきことは多い。


 セレスティアの授業。


 眠れる王の影。


 封印反応。


 寮母の証言。


 十年前の生徒。


 セレスティアの過去。


 閉架資料室の鍵。


 アルトの痕。


 だが、ペンを取る前に、ミリアが言った。


「リゼさん」


「はい」


「今日は、少しだけ普通のことをしない?」


「普通のこと」


「そう。例えば、お茶を淹れるとか。髪を梳かすとか。明日の授業の準備をするとか」


「情報整理は」


「その後」


「しかし」


「寮母様も休めと言ったでしょう?」


「はい」


「なら、休む訓練よ」


 休む訓練。


 また難しい言葉だった。


 ミリアは小さな茶葉の包みを取り出した。


 ファルネーゼ家から持ってきたものらしい。


 寮の備品のポットに湯を入れ、丁寧に茶を淹れる。


 部屋に、柔らかな香りが広がった。


 花と果実のような匂い。


 戦場にはなかった匂い。


 ミリアはカップを一つ、リゼの前に置いた。


「熱いから、毒見みたいに一気に飲まないでね」


「温度確認は必要です」


「ゆっくり」


「はい」


 リゼはカップを手に取った。


 温かい。


 香りが強い。


 警戒心が薄れるような匂い。


 それ自体が少し危険に思えた。


 だが、ミリアが向かいで同じ茶を飲んでいる。


 リゼは少しだけ口をつけた。


「味は?」


 ミリアが尋ねる。


「良好です」


「それ以外は?」


 リゼは考えた。


「温かいです」


「ええ」


「苦味が少ない」


「そうね」


「……落ち着く、ような気がします」


 ミリアは嬉しそうに笑った。


「それでいいわ」


 その夜、二人は見張り表を使った。


 だが、いつもより少し遅く始めた。


 ミリアが「休む訓練」と言い張り、リゼは三十分だけ机から離れることになった。


 その三十分で、リゼはミリアに髪を梳かされた。


 最初は拒否しかけた。


 だが、ミリアは「リボンの次は髪」と当然のように言った。


 櫛が髪を通る。


 灰銀の髪。


 戦場で何度も血と泥に汚れた髪。


 王都では英雄の色として語られる髪。


 ミリアはそれを、ただ丁寧に梳かした。


「綺麗な髪ね」


 ミリアが言った。


 リゼは少しだけ体を強ばらせる。


「目立ちます」


「そうね。でも、綺麗よ」


「戦場では不利です」


「ここは部屋よ」


 ミリアの声は優しかった。


「今くらい、戦場ではなくていいわ」


 リゼは鏡を見た。


 そこに映るのは、制服を着た十五歳の少女だった。


 灰銀の髪。


 淡い瞳。


 首元にはミリアが整えたリボン。


 どこから見ても、少し無表情な新入生に見える。


 灰銀の戦乙女には、見えない。


 少なくとも、リゼ自身にはそう見えた。


「ミリアさん」


「何?」


「普通の学生に見えますか」


 ミリアの手が止まる。


 鏡越しに目が合った。


 ミリアは少し考え、それから微笑んだ。


「今日は、少し見えるわ」


「少し」


「ええ。昨日より少し」


 少し。


 またその言葉。


 リゼは小さく頷いた。


「そうですか」


 夜が深くなる。


 窓の外に旧校舎は見えない。


 それでも、その闇は学園のどこかにある。


 銀環室の扉は、完全には閉じていないのかもしれない。


 アルトの手首には痕が残った。


 セレスティアは十年前の事件に関わっている。


 黒外套はまだ捕まっていない。


 危険は何一つ解決していない。


 だが、リゼはカップに残った温かい茶を見た。


 ミリアが梳かした髪。


 整えられたリボン。


 机の上の見張り表。


 明日の授業の教科書。


 閉架資料室の鍵。


 すべてが同じ部屋にある。


 戦場と学園。


 任務と日常。


 英雄の名と同室者の声。


 その全部が、今のリゼの周りにある。


 彼女はまだ普通を選べない。


 危険を見れば動く。


 敵がいれば追う。


 アルトが狙われれば守る。


 ミリアが脅されれば前に立つ。


 カイが突っ込みそうなら止める。


 それは変わらない。


 けれど、完全に戦場へ戻ることも、もうできないのかもしれない。


 リゼは窓の外の夜を見た。


 そして、机の上の制服の替えリボンに目を落とした。


 明日の朝も、きっとミリアが直す。


 それまで、この部屋にいる。


 今は、それでいい。


 彼女は静かに息を吐き、見張り表の最初の時刻に小さく印をつけた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ