表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
灰銀の戦乙女は、制服を知らない  作者: 最後に残った形


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

13/167

第1章 第13話:旧校舎への招待状


 放課後の訓練場には、まだ昼間の熱が残っていた。


 砂地に長く伸びる影。武具庫の扉に反射する夕陽。遠くから聞こえる生徒たちの笑い声。学園は、いつも通りの一日を終えようとしている。


 けれど、リゼたちにとって、その日が終わるのはまだ先だった。


 今夜、鐘が三度鳴る時、旧校舎へ。


 その一文が、すべてを変えていた。


 リゼは訓練場の端に立ち、周囲を確認した。


 観覧席には誰もいない。武具庫の前には上級生が二人いたが、すぐに去っていった。ガルド教師はすでに職員棟へ戻っている。夕食前のこの時間は、人の目が少ない。


 話すには適している。


 同時に、監視されるにも適している。


 リゼは観覧席の影、武具庫の屋根、校舎二階の窓を順番に確認した。


 異常なし。


 だが、異常がないことは安全を意味しない。


「グレイス!」


 大きな声がした。


 カイ・ロックハートが訓練場の入口から走ってくる。制服の上着は脱ぎ、肩に引っかけている。剣術基礎の自主練をしていたのか、額に汗が浮かんでいた。


 彼はリゼの前で止まり、呼吸を整える前に言った。


「急に呼び出して、何だ?」


「声が大きいです」


「おっと」


 カイは慌てて口を押さえた。


 だが、すぐに眉を寄せる。


「で、何があった?」


 リゼは答える前に、ミリアとアルトを見た。


 ミリアは訓練場の石壁近くに立ち、周囲を警戒している。彼女なりの警戒だった。位置はやや甘いが、初日に比べればずいぶん周囲を見るようになっている。


 アルトはミリアの隣にいた。


 右肩はまだ完全ではない。けれど、今日の彼は逃げるつもりのない顔をしていた。怖がっていないわけではない。むしろ、恐怖を抱えたまま立っている。


 リゼはそれを確認してから、カイへ紙片を見せた。


 銀環は、鍵を呼ぶ。


 鍵は、扉を開く。


 扉の奥で、王の影が眠る。


 今夜、鐘が三度鳴る時、旧校舎へ。


 カイは黙って読んだ。


 いつもの彼なら、すぐに「行くぞ」と言っただろう。


 だが、今日は少し違った。


 彼は紙片から目を上げ、アルトを見た。


「これ、アルトに関係あるのか」


「可能性が高いです」


 リゼが答える。


「銀環の証という古い血統魔術反応が、アルトさんの測定結果と関連する可能性があります。旧校舎には銀環室という部屋が存在する記録があります」


「銀環室……」


 カイは低く繰り返した。


 理解は完全ではないだろう。


 だが、重要な言葉だとはわかったようだった。


「つまり、今夜そこへ来いってことか」


「はい」


「罠だな」


 リゼは少しだけカイを見直した。


 即座に突撃ではなく、罠と判断した。


「高確率で罠です」


「でも、行くんだろ」


「はい」


「なら俺も行く」


「あなたは外部待機です」


 カイの表情が固まった。


「は?」


「旧校舎内は構造不明、術式環境不明、罠の可能性大。あなたの行動特性は内部潜入に不向きです」


「行動特性って何だよ」


「声が大きい。動きが目立つ。敵を見つけると追う。挑発に乗りやすい」


 ミリアが小さく咳き込んだ。


 アルトは苦笑を隠しきれていない。


 カイは数秒固まった後、顔を赤くした。


「お前、もう少し言い方ってものがあるだろ!」


「事実です」


「そこが腹立つ!」


 リゼは淡々と続けた。


「ただし、戦闘能力と反応速度は有用です。外部で待機し、異常時の救援、退路確保、陽動を担当してください」


「……外で待ってろってことか」


「はい」


「俺だけ安全な場所で?」


「安全ではありません。旧校舎周辺に敵が出る可能性があります。むしろ外部の方が逃走経路を押さえる重要な位置です」


 これは事実だった。


 リゼはカイを軽視しているわけではない。


 内部へ連れていけば危険が増える。だが、外に強い人間がいることは、退路確保として有効だった。


 カイはリゼをじっと見た。


 その目に、悔しさが浮かぶ。


 だが、今回はすぐに反発しなかった。


「俺は、何をすればいい」


 低い声だった。


 リゼは頷く。


「鐘が三度鳴る十五分前に、旧校舎南側の庭園跡へ。姿を隠して待機。私たちが入った後、入口周辺を監視。黒い外套の人物、教師、職員、上級生、その他不審者を見た場合、追わずに位置を記憶」


「追わずに?」


「はい」


「見つけても?」


「追わずに」


「相手が逃げても?」


「追わずに」


「……わかった」


 かなり不満そうだったが、カイは頷いた。


「合図は」


「異常があれば、この笛を鳴らします」


 リゼは小さな金属笛を出した。


 寮の非常用警笛ではない。訓練場の武具庫近くで見つけた、壊れかけの合図笛を修理したものだった。


「一回なら位置確認。二回なら退避。三回連続なら救援要請」


「三回で突っ込めばいいんだな」


「状況を見てください」


「そこは突っ込めって言ってくれよ」


「不要な突入は危険です」


「はいはい」


 カイは笛の合図を復唱した。


 意外にも覚えは早い。


 感情で動くが、指示を理解できないわけではない。


 リゼは追加で言った。


「それから、ガルド教師には知らせません」


「なんでだよ。先生なら頼れるだろ」


「頼れる可能性はあります。しかし、教師側の情報経路が敵に漏れている可能性があります」


 カイは不満そうに眉を寄せた。


 だが、食堂の件、講堂の件を思い出したのか、それ以上強くは言わなかった。


「ロウ先生は?」


 アルトが聞いた。


「同じです」


 リゼは答える。


「現時点では、教師全体への情報共有は危険です」


「セレスティア先生も?」


 ミリアの声が少し低くなる。


「最重要警戒対象です」


 リゼは即答した。


 カイが驚く。


「セレスティア先生って、魔術史の?」


「はい」


「なんで先生が」


「疑わしい点が複数あります。確定ではありません」


「確定じゃないのに警戒するのか」


「確定してからでは遅い場合があります」


 カイは黙った。


 完全に納得してはいない。


 けれど、少なくとも理解しようとしている。


 アルトが静かに言った。


「僕は、セレスティア先生が敵なのか味方なのか、まだわからない」


「はい」


「でも、あの先生は僕たちを旧校舎へ誘導した」


「その通りです」


「なら、今夜、会う可能性がある」


「高いです」


 ミリアが指先を握った。


 恐怖が表情に出ている。


 だが、彼女は逃げるとは言わなかった。


「装備はどうするの?」


 ミリアが尋ねる。


「武器の携帯は禁止されています」


 リゼは答えた。


「ただし、護身用として許可されているものはあります。ミリアさんは小型の魔術触媒。アルトさんは灯り用の魔術具のみ。カイさんは木剣を持つと目立つため、外部待機では訓練用短棒を庭園跡に隠してください」


「お前は?」


 カイが聞く。


「私は筆記具と髪留めを」


「それ武器じゃないだろ」


「使い方によります」


 カイは一瞬返答に困った顔をした。


「いや、聞かなかったことにする」


「正しい判断です」


 ミリアが深く息を吐いた。


「本当に、私たち何をしているのかしら」


「旧校舎の調査です」


「そうではなくて」


「危険を伴う情報収集です」


「もっと違うわ」


 アルトが少し笑った。


 その笑いは硬かったが、完全に消えてはいない。


「でも、皆がいてくれるなら、少しだけ怖くない」


 ミリアが彼を見る。


「怖いのね」


「うん。怖い」


 アルトは今度は誤魔化さなかった。


「でも、知らないままでいる方が、もっと怖くなってきた」


 リゼはその言葉を記憶した。


 護衛対象の心理変化。


 恐怖を認める。


 知る意思あり。


 単独行動の危険は上がるが、協力姿勢も上がる。


 夜までの時間は、いつもより長く感じられた。


 夕食は女子第一寮の食堂で取った。


 中央食堂は点検中のため閉鎖されている。寮の食堂には昨日よりも多くの職員が配置され、料理は厳重に管理されていた。


 リゼは食事をしながら、必要な行動を頭の中で繰り返した。


 鐘が三度鳴る十五分前。


 女子寮を出る。


 正面玄関は避ける。


 通用口。


 寮母室の灯り。


 巡回間隔。


 中庭を抜け、図書館塔の影を使って旧校舎方面へ。


 アルトとは図書館塔裏で合流。


 カイは旧校舎南側庭園跡で外部待機。


 侵入経路は、以前黒外套が消えた旧校舎裏手の隠し扉。


 銀環室は地下。


 図面上は旧魔術棟の中央階段下。


 だが、百年以上前の建設記録であり、現状と一致する保証はない。


 最悪の場合、罠。


 ミリアが向かいで小声で言った。


「食べて」


 リゼは皿を見る。


 食事があまり減っていない。


「栄養補給は重要でしょう?」


「はい」


「なら、食べる」


「はい」


 リゼはパンを口に運んだ。


 味はほとんど感じなかった。


 食後、二人は部屋へ戻った。


 夜まで、まだ少し時間がある。


 ミリアは机の前に座り、持っていくものを並べ始めた。


 小型魔術触媒。


 光属性の簡易防御札。


 薄い手袋。


 ハンカチ。


 小さな回復薬。


 携帯用の魔術灯。


 貴族令嬢の荷物というより、冒険者の準備に近づいている。


 リゼはそれを確認した。


「防御札は何枚ですか」


「三枚」


「発動条件は」


「魔力を流して、破る。小さな光の膜が出るわ。持続は十秒程度」


「十秒」


「短いけれど、ないよりはましでしょう」


「はい。有用です」


 ミリアは少しだけ表情を緩めた。


「あなたに有用と言われると、安心するわ」


「事実です」


「ええ」


 リゼは自分の準備をした。


 制服は着る。


 夜間に私服で見つかるより、制服の方が学園内での言い訳がしやすい。だが、動きやすいように上着の内側を調整する。袖口には髪留めを一本。靴紐は固く結び直す。筆記具は金属製のものを二本。ハンカチ。細い紐。小型の魔術灯。


 武器はない。


 だが、完全な無手でもない。


 ミリアがその様子を見て、少し苦笑した。


「筆記具が武器に見える日が来るなんて思わなかったわ」


「目、喉、手首を狙えます」


「説明しないで」


「はい」


 その時、廊下の向こうで寮母の足音がした。


 二人は同時に動きを止める。


 足音は三〇七号室の前で止まった。


 扉が叩かれる。


「グレイスさん、ファルネーゼさん」


 寮母の声。


 リゼとミリアは目を合わせた。


 ミリアが扉へ向かう。


 リゼは机の上の準備物を素早く布で覆った。


 扉が開く。


 寮母が立っていた。


「今夜は外に出ないように」


 挨拶も前置きもなかった。


 ミリアが一瞬詰まる。


「もちろんです。今日は部屋で自習を」


「ファルネーゼさん」


 寮母の声は静かだった。


「嘘は下手ではありませんが、目が正直です」


 ミリアの顔がわずかに赤くなる。


 リゼは一歩前へ出た。


「何かありましたか」


「それはこちらの台詞です」


 寮母はリゼを見た。


「旧校舎には近づくなと、何度も言いました」


 リゼは沈黙する。


 寮母は知っている。


 少なくとも、今夜何かが起きる可能性を察している。


「理由を教えてください」


 リゼは言った。


「答えられません」


「理由なしに従うことは困難です」


「あなたは生徒です」


「はい」


「私は寮母です」


「はい」


「生徒を守る責任があります」


 寮母の声には、疲労が滲んでいた。


「旧校舎は、あなたたちが考えているより危険です。古い術式だけではありません。あそこには、学園が長く隠してきたものがある」


「何を」


「答えられません」


「なぜ」


「答えれば、あなたたちは行く」


 寮母はリゼを見た。


 完全に見抜かれている。


「答えなくても行くでしょう?」


 ミリアが小さく息を呑む。


 寮母は深くため息をついた。


「だから困っているのです」


 彼女は懐から小さな札を取り出した。


 古い木札だった。表面に簡易封印の文字が刻まれている。


「これは?」


 リゼが尋ねる。


「旧校舎の内部結界を一度だけ弱める札です」


 ミリアが目を見開く。


「寮母様、それは……」


「渡すとは言っていません」


 寮母は低く言った。


「本来なら、あなたたちを部屋に閉じ込めてでも止めるべきです」


「では、なぜそれを見せるのですか」


 リゼが問う。


 寮母はしばらく黙った。


 やがて、静かに言った。


「昔、止められなかった生徒がいました」


 声の温度が変わる。


「その子も、知りたがっていました。自分が何者なのか。なぜ選ばれたのか。なぜ夢を見るのか」


 リゼの意識が鋭くなる。


 アルトと同じ。


「その生徒は」


 ミリアが尋ねかける。


 寮母は首を横に振った。


「戻ってきませんでした」


 部屋の空気が重くなる。


「旧校舎へ行けば、答えがあるかもしれません。ですが、答えは人を救うとは限らない」


 寮母は木札を握りしめる。


「グレイスさん。あなたは戦い方を知っているのでしょう」


 リゼは表情を変えなかった。


 ミリアが息を止める。


「その目を見ればわかります。何があったかは聞きません。ですが、戦えることと、守れることは違います」


 ガルド教師と似た言葉。


 リゼの胸に、わずかに刺さる。


「行くなら、誰かを置いていきなさい」


 寮母は言った。


「全員で闇に入るのは、最も愚かな選択です」


 リゼは答えなかった。


 ミリアが一歩前へ出る。


「私は行きます」


「ファルネーゼさん」


「怖いです。でも、行きます。私が知らないことで誰かが危険になるなら、私はそれを選びたくありません」


 寮母はミリアを見た。


 厳しい顔。


 だが、その奥に少しだけ悲しみがあった。


「あなたは、思っていたより頑固ですね」


「最近、よく言われます」


「誰に?」


 ミリアはリゼを見た。


「主に、この人に」


 寮母は目を閉じた。


 そして、木札をリゼへ差し出した。


「渡したわけではありません」


 リゼは木札を受け取る。


「あなたが勝手に持っていくのです」


「はい」


「私は見ていません」


「はい」


「そして、必ず戻りなさい」


 その言葉だけは、命令ではなかった。


 願いだった。


 リゼは木札を握る。


「可能な限り」


 寮母の目が鋭くなる。


「戻りなさい」


 リゼは一拍置き、答えた。


「はい」


 寮母はそれ以上何も言わず、廊下を去っていった。


 扉が閉まる。


 ミリアはしばらく黙っていた。


 やがて、小さく言う。


「寮母様も、何か知っているのね」


「はい」


「昔、戻らなかった生徒……」


「アルトさんに類似する可能性があります」


「嫌な予感しかしないわ」


「同意します」


 鐘が一度鳴った。


 夜の第一鐘。


 あと二つ。


 リゼたちは準備を終え、消灯を待った。


 寮母の見回り。


 上級寮生の巡回。


 廊下の静寂。


 すべてをやり過ごす。


 時計ではなく、音と足音で時間を測る。


 そして、二度目の鐘が鳴った。


 リゼは立ち上がる。


 ミリアも外套を羽織った。


 前回より動きは静かだった。靴は最初から手に持っている。通用口の鈴を押さえる役割も、ミリアは覚えている。


 二人は部屋を出た。


 廊下は暗い。


 寮母室の灯りはついている。


 だが、扉は開かない。


 見ていない。


 寮母の言葉が思い出される。


 リゼたちは通用口から外へ出た。


 夜の空気が冷たい。


 庭園の草に露が降りている。


 月は雲に隠れ、学園の輪郭は黒い影のように沈んでいた。


 図書館塔の裏へ向かう。


 そこに、アルトがいた。


 暗い外套を羽織り、小さな魔術灯を手にしている。顔色は悪い。だが、逃げる気はなさそうだった。


「来たんだね」


「はい」


「肩は」


「痛い」


「行動に支障は」


「走るとたぶん痛む。でも歩ける」


「了解しました」


 ミリアが小声で言う。


「怖い?」


 アルトは少し笑った。


「怖い」


「私も」


「うん」


 二人はそれだけで頷き合った。


 リゼは周囲を確認する。


 異常なし。


 三人は旧校舎南側の庭園跡へ向かった。


 低木の影に、カイがいた。


 彼は訓練用の短棒を持ち、身を低くしている。隠れ方は荒いが、努力はしていた。


「遅いぞ」


「予定通りです」


「そうか」


 カイはリゼたちを見た。


「本当に入るんだな」


「はい」


「俺は外で待つ」


「はい」


「追わない」


「はい」


「でも、三回笛が鳴ったら行く」


「状況を」


「見る。わかってる」


 カイは真剣だった。


「絶対戻れよ」


 その言葉は、寮母のものと似ていた。


 ミリアが頷く。


「ええ」


 アルトも。


「戻る」


 リゼは最後に言った。


「戻ります」


 旧校舎は、夜の中で静かに立っていた。


 蔦に覆われた灰色の壁。


 割れた窓。


 黒く沈んだ入口。


 立入禁止の札。


 月明かりのない夜には、それが校舎というより巨大な墓標に見えた。


 リゼは以前、黒外套が消えた裏手の壁へ向かった。


 石壁の一部。


 触れた跡。


 隠し扉。


 前回は開けられなかった。


 今回は寮母の木札がある。


 リゼは木札を壁に当てた。


 古い文字が淡く光る。


 壁の奥で、何かが軋む音がした。


 石がゆっくりと沈み、細い隙間が現れる。


 湿った空気が流れ出した。


 古い紙。


 埃。


 鉄。


 そして、かすかな魔力の臭い。


 リゼは先に入る。


 続いてアルト。


 ミリアが最後。


 中は狭い通路だった。


 壁に古い魔術灯が埋め込まれているが、ほとんど消えている。アルトの持つ小さな灯りだけが、足元を照らしていた。


「声を出さないでください」


 リゼが囁く。


 二人は頷く。


 通路を進む。


 足元には埃が積もっている。


 だが、完全に均一ではない。


 最近歩いた跡がある。


 黒外套。


 少なくとも一人。


 複数回。


 リゼはその跡を記憶しながら進んだ。


 やがて、通路は旧校舎内部の廊下へ出た。


 そこは廃墟のようだった。


 割れた窓から風が入り、古いカーテンが揺れている。床板は一部腐り、壁にはかつての魔術陣の跡が残っていた。教室らしき部屋の扉は半ば外れ、黒板には読めない文字が残っている。


 ミリアが小さく息を呑む。


「ここ、本当に学園なの……?」


「旧魔術棟です」


 アルトが呟く。


「夢で見た廊下に似てる」


 リゼは即座に彼を見る。


「どこが」


「壁の模様。窓の形。あと、匂い」


「夢と現実の一致。重要です」


 アルトは少しだけ顔を強ばらせた。


 リゼは建設記録で見た図面を思い出す。


 銀環室は地下。


 中央階段下。


 現在位置は旧校舎西側裏通路。


 中央へ進むには、廊下を右へ。


「こちらです」


 三人は進んだ。


 途中、床の一部が沈みかけていた。


 リゼが先に踏み止まり、二人へ迂回を指示する。


 壁の魔術陣が一瞬光った時は、ミリアが防御札を構えた。


 だが、術式は古すぎて起動しなかった。


 廊下の奥から、遠く鐘の音が聞こえた。


 三度目。


 今夜、鐘が三度鳴る時。


 旧校舎へ。


 時刻だ。


 その瞬間、旧校舎全体が低く震えた。


 アルトの持つ魔術灯が揺れる。


 壁の古い術式が一斉に淡く光り始めた。


 青白い線。


 銀色の輪。


 床を走る魔力。


「何……?」


 ミリアが息を呑む。


 アルトが胸元を押さえた。


「呼んでる」


 彼の声が震えている。


「何が」


 リゼが問う。


「わからない。でも、下から……」


 リゼはアルトの視線を追う。


 廊下の先、中央階段。


 地下へ続く暗い階段。


 そこから、銀色の光が漏れていた。


 リゼは警戒を最大に上げる。


「ミリアさん、アルトさんの後方。防御札を準備」


「はい」


「アルトさん、私より前に出ない」


「わかった」


 三人は地下へ下りた。


 空気がさらに冷たくなる。


 壁には古い封印文字。


 階段の途中には、朽ちた鎖。


 床には黒い焦げ跡のようなもの。


 戦闘痕か、儀式痕か。


 地下廊下に出る。


 そこには、石の扉があった。


 アルトが息を止めた。


「夢の扉だ」


 扉には蔦の模様が彫られている。


 本物の蔦ではない。


 石に刻まれた蔦。


 中央には銀色の輪。


 銀環。


 リゼは周囲を確認した。


 敵影なし。


 だが、魔力の流れが扉へ集まっている。


 アルトに反応している。


「触れないでください」


 リゼが言う。


 だが、アルトは一歩前へ出そうとしていた。


 すぐに止まる。


「ごめん」


「呼ばれていますか」


「うん」


「抵抗できますか」


「今は」


 ミリアがアルトの隣へ行き、彼の左手を掴んだ。


「一人で行かないで」


 アルトは彼女を見た。


「うん」


 その時、背後で拍手が響いた。


 ゆっくりと。


 一回。


 二回。


 三回。


 リゼは即座に振り返り、二人の前に出た。


 地下廊下の奥に、黒い外套の人物が立っていた。


 顔はフードで見えない。


 手には細い杖。


 背丈は成人女性にも男性にも見える。声は魔術で歪められていた。


「よく来た、鍵」


 黒外套が言った。


 アルトの体が強ばる。


「そして、よく来たな、灰銀」


 リゼは反応しない。


 今度は、止まらない。


 敵はそれを見て、わずかに笑ったようだった。


「学習したか」


 リゼは静かに問う。


「あなたは誰ですか」


「名乗る必要はない」


「目的は」


「扉を開けること」


「アルトさんを使って」


「鍵は、扉を開くためにある」


 アルトの顔色が白くなる。


 ミリアが彼の手を強く握った。


 リゼは黒外套を見据えた。


「鍵は人間です」


 黒外套が少し黙る。


 そして、低く笑った。


「お前がそれを言うのか、灰銀の戦乙女」


 空気が凍る。


 ミリアの息が止まった。


 アルトの目がリゼへ向く。


 リゼは表情を変えない。


 だが、内側では冷たい刃が走った。


 ここで言った。


 敵はミリアとアルトの前で、灰銀の戦乙女という名を出した。


 隠していたものを暴くために。


「戦場で人を斬り、英雄と呼ばれた剣が、今さら人間を語るか」


 黒外套の声が響く。


 ミリアの手が震えている。


 アルトはリゼを見つめている。


 リゼは振り返らなかった。


 今は説明できない。


 今は守る。


「ミリアさん」


 リゼは低く言った。


「アルトさんを扉から離してください」


 ミリアは一瞬遅れた。


 だが、すぐに動いた。


「アルトさん、下がって」


「でも、リゼさん」


「下がってください」


 リゼの声が強くなる。


 アルトは唇を噛み、ミリアと共に一歩下がる。


 黒外套が杖を上げた。


「遅い」


 床の銀色の線が強く光った。


 アルトの足元に輪が生まれる。


 魔術陣。


 起動が速い。


 床に仕込まれていた。


 リゼは踏み込む。


 アルトを輪の外へ弾き出す。


 だが、銀の光が彼の左手首に絡みついた。


「っ……!」


 アルトが呻く。


 ミリアが防御札を破る。


 光の膜が広がり、銀の線を一瞬押し返した。


 十秒。


 それだけ。


 リゼは袖から髪留めを抜き、銀線の基点へ投げた。


 金属が床の術式に刺さる。


 光が乱れる。


「走って!」


 ミリアが叫ぶ。


 アルトを引き、階段方向へ下がろうとする。


 だが、黒外套が杖を振った。


 地下廊下の出口側に、黒い影の壁が立ち上がる。


 退路遮断。


 罠。


 予想通り。


 だが、対応は必要。


 リゼは笛を取り出し、三回鳴らした。


 甲高い音が地下に響く。


 外部待機のカイへの救援要請。


 黒外套が笑った。


「外の犬を呼んだか」


「彼は犬ではありません」


 リゼは木剣も剣も持っていない。


 武器は筆記具、髪留め、紐。


 相手は魔術師。


 地下。


 護衛対象あり。


 ミリアあり。


 退路遮断。


 不利。


 だが、不可能ではない。


 黒外套が雷の小術式を放った。


 入学式のものより小さい。


 だが速い。


 狙いはリゼではない。


 アルト。


 リゼは床を蹴り、金属筆記具を投げて軌道をずらす。


 雷が壁に当たり、石片が飛ぶ。


 ミリアが二枚目の防御札を破る。


 光の膜。


 石片を防ぐ。


 アルトは青ざめながらも、右肩を庇って立っている。


 逃げない。


 だが、足が震えている。


「アルトさん、扉を見ない!」


 リゼが叫ぶ。


 アルトがはっとして目を逸らす。


 石の扉の銀環は、強く輝いていた。


 呼んでいる。


 鍵を。


 黒外套が言う。


「開け、アルト・レインフォード」


 アルトの体が揺れる。


 名前に反応したのか、術式に縛られたのか。


 ミリアが彼の手を握る。


「アルトさん!」


「……行かない」


 アルトが絞り出す。


「僕は、行かない」


 銀の輪が一瞬揺らいだ。


 リゼはその隙を逃さない。


 黒外套へ向かって踏み込む。


 敵は魔術師。


 近接距離に入れば有利。


 ただし、相手もそれを想定している。


 床の罠。


 左。


 リゼは直前で踏み込みを変えた。


 足元で黒い針が立ち上がる。


 避ける。


 低く潜る。


 筆記具を逆手に持つ。


 狙いは杖を持つ手。


 殺さない。


 無力化。


 ガルド教師の言葉が頭をよぎる。


 人を殺さないための剣。


 今は剣ではない。


 だが、同じ。


 リゼは黒外套の手首を狙った。


 敵が後退する。


 速い。


 魔術師にしては身のこなしがいい。


 近接戦闘訓練あり。


 杖がリゼの筆記具を弾く。


 金属音。


 黒外套の袖が裂けた。


 その下に見えた手首。


 白い肌。


 細い指。


 古い火傷痕。


 一瞬。


 だが、リゼは記憶した。


 女性の可能性が高い。


 黒外套が低く呟く。


「やはり、化け物め」


 リゼは返さない。


 もう一歩踏み込む。


 その時、背後で石の扉が轟音を立てた。


 銀環が回り始めている。


 アルトは触れていない。


 だが、反応している。


 彼が近くにいるだけで。


「リゼさん!」


 ミリアの叫び。


 リゼは振り返らない。


 黒外套を止めるか、扉を止めるか。


 優先順位。


 扉が開けば何が起きるかわからない。


 だが、黒外套が術式を維持している可能性が高い。


 敵を止める。


 リゼは黒外套へ突っ込んだ。


 同時に、上から激しい音がした。


 扉を破るような衝撃。


 カイだ。


「どこだ、グレイス!」


 遠くでカイの声が響く。


 黒外套が舌打ちした。


 初めて見せた明確な苛立ち。


 外部待機が効いた。


 黒外套は杖を床へ突き立てる。


 黒い煙が一気に広がった。


 視界遮断。


 リゼは息を止める。


 毒の可能性。


 ミリアが咳き込む。


 アルトも。


 リゼは黒外套の気配を追う。


 右。


 いや、上。


 壁の術式を使って移動している。


 追うべき。


 だが、煙の中でアルトとミリアを失う危険。


 リゼは追跡を捨てた。


「ミリアさん、アルトさんの手を離さない!」


「離してない!」


 ミリアの声。


 位置確認。


 リゼは二人へ戻る。


 煙の中、銀環の扉の光が強くなる。


 アルトが苦しそうに膝をつく。


「呼ばれてる……」


「拒否してください」


「してる!」


 ミリアが三枚目の防御札を破る。


 光が三人を包む。


 銀の引力が弱まる。


 十秒。


 その間に退避。


 リゼはアルトの腕を取り、ミリアに合図する。


「階段へ」


「でも壁が」


「カイが破ります」


 上から再び衝撃音。


 そして、カイの怒鳴り声。


「邪魔だあああっ!」


 黒い影の壁に亀裂が入った。


 力技。


 だが有効。


 リゼはアルトを支え、階段方向へ走る。


 ミリアも続く。


 銀環の扉が背後でさらに開く音を立てた。


 わずかな隙間。


 その奥から、冷たい風が吹いた。


 声が聞こえる。


 低く、遠く、古い声。


 ――鍵。


 アルトが振り返りそうになる。


 リゼは彼の頭を押さえて前を向かせた。


「見るな!」


 アルトは歯を食いしばる。


 カイが影の壁を短棒で叩き割ったところへ、三人が飛び込む。


「こっち!」


 カイが叫ぶ。


 リゼは先頭を譲らない。


 階段を駆け上がる。


 背後から銀の光が追ってくる。


 黒外套の姿はない。


 だが、術式はまだ動いている。


 地上階へ。


 廊下。


 旧校舎の壁が震えている。


 古い窓が割れ、埃が舞う。


 カイが最後尾につく。


「何が起きてんだよ!」


「扉が開きかけています」


「閉められないのか!」


「現時点では不可能です」


「くそっ!」


 隠し扉の通路へ戻る。


 だが、壁の出口が閉まりかけていた。


 木札の効力が切れている。


 リゼは木札を押し当てる。


 光らない。


 一度だけ。


 寮母の言葉通り。


「下がって」


 ミリアが前に出た。


「魔術で押さえるわ」


「負荷が」


「十秒くらいなら!」


 ミリアの手から光が広がる。


 壁の封印文字が反応し、扉の動きが一瞬止まる。


 リゼはアルトを先に押し出す。


 次にカイ。


 ミリア。


 最後にリゼ。


 通路を抜けた瞬間、背後で石壁が閉じた。


 旧校舎の外。


 夜の空気。


 四人は庭園跡に転がるように出た。


 アルトは膝をつき、肩で息をしている。


 ミリアも壁に手をつき、顔色が真っ白だった。


 カイは短棒を握ったまま、旧校舎を睨んでいる。


 リゼはすぐに周囲を確認した。


 敵影なし。


 追撃なし。


 旧校舎の窓の奥で、銀色の光が一瞬だけ瞬いた。


 そして消えた。


 静寂が戻る。


 何事もなかったかのように。


「……逃げたのか?」


 カイが言った。


「敵は離脱。扉は完全開放には至っていません」


 リゼは答えた。


「完全じゃないってことは、少し開いたんだよな」


 アルトが顔を上げる。


 その目は震えていた。


「奥に、何かいた」


 ミリアが息を呑む。


「見たの?」


「見てない。でも、感じた」


 アルトは自分の左手首を見る。


 そこには、銀色の輪のような痕がうっすら浮かんでいた。


 リゼはその手首を確認する。


 熱はない。


 傷でもない。


 魔術痕。


 銀環の反応。


「痛みは」


「ない。でも、変な感じがする」


「医務室へ」


「駄目」


 アルトが即座に言った。


 珍しく強い声だった。


「これを見せたら、たぶん大騒ぎになる」


「隠すのは危険です」


「でも、誰に見せればいい?」


 リゼは答えられなかった。


 学園の医務室。


 教師。


 魔術科。


 セレスティア。


 どこまで信用できるか不明。


 ミリアが震える声で言う。


「まず、隠しましょう。手袋か包帯で」


「応急処置ではありません」


 リゼが言うと、ミリアが彼女を見た。


「今は証拠保全より、アルトさんの安全よ」


 その通りだった。


 リゼは頷く。


「はい」


 カイが外套の内側から布を出した。


「これ使え」


「ありがとうございます」


 アルトは左手首を布で巻いた。


 動きは震えている。


 リゼは彼を見た。


 護衛対象、生存。


 負傷、軽微。


 魔術痕あり。


 精神的負荷、大。


 ミリア、疲労大。魔力消耗あり。


 カイ、軽度の擦過傷。戦闘継続可能。


 リゼ、自覚負傷なし。


 作戦失敗か成功か。


 情報は得た。


 銀環室は存在した。


 扉は反応した。


 黒外套と接触した。


 敵はアルトを鍵と呼んだ。


 灰銀の正体をミリアとアルトの前で暴露した。


 扉の奥に何かがいる。


 そして、アルトの手首に銀環の痕が残った。


 代償は大きい。


 だが、戻れた。


 戻ることはできた。


「寮へ戻ります」


 リゼは言った。


「話は後です。今は分散せず、それぞれ寮へ戻る。カイさんは男子寮までアルトさんに同行してください」


「おう」


「途中で誰かに聞かれたら、自主練の帰りに体調不良のアルトさんを見つけた、と」


「嘘は苦手だ」


「顔に出さないでください」


「難しいな」


 ミリアが疲れた顔で言った。


「本当に全員、嘘が下手ね」


「あなたが一番上手です」


 リゼが言うと、ミリアは笑う余裕もなく首を振った。


「褒められても嬉しくないわ」


 四人は旧校舎を離れた。


 背後の窓は暗い。


 銀色の光も、黒外套の姿もない。


 だが、リゼにはまだ声が耳に残っていた。


 鍵。


 そして、黒外套の言葉。


 戦場で人を斬り、英雄と呼ばれた剣が、今さら人間を語るか。


 ミリアは聞いた。


 アルトも聞いた。


 もう隠しきれない。


 灰銀の戦乙女。


 その名は、彼らの前に落とされた。


 寮へ戻る道で、ミリアは何も聞かなかった。


 ただ、震える手でリゼの袖を掴んでいた。


 離れないように。


 あるいは、リゼがどこかへ行ってしまわないように。


 リゼはその手を振り払わなかった。


 女子寮の通用口へ戻ると、寮母室の灯りがまだついていた。


 扉は開かない。


 だが、廊下の向こうに寮母の影が一瞬だけ見えた。


 リゼは小さく頭を下げた。


 影は何も言わず、消えた。


 三〇七号室へ戻る。


 扉を閉める。


 鍵をかける。


 一回。


 窓を確認する。


 一回。


 ミリアはベッドに座ったまま、しばらく黙っていた。


 外套を脱ぐことも忘れている。


 リゼは机に向かい、記録を始めようとした。


 だが、ミリアが言った。


「リゼさん」


「はい」


「今夜は、記録より先に話して」


 リゼは止まった。


「灰銀って、あなたのことなの?」


 部屋の空気が止まる。


 逃げることはできた。


 今は言えない、とまた言うこともできた。


 だが、ミリアは旧校舎の地下でそれを聞いた。


 黒外套の口から。


 敵に暴かれた言葉のまま放置すれば、ミリアの中でそれはもっと悪い形になる。


 リゼは静かに答えた。


「はい」


 ミリアの唇が震えた。


「灰銀の戦乙女」


「はい」


「戦争の英雄」


「そう呼ばれています」


「あなたが」


「はい」


 ミリアは両手で顔を覆った。


 泣くのかと思った。


 怒るのかとも思った。


 だが、彼女はしばらく呼吸を整えた後、顔を上げた。


「あなた、十五歳よね」


「はい」


「私たちと同じ」


「はい」


「なのに、戦場にいたの」


 リゼは少しだけ沈黙した。


「はい」


 ミリアの目に、涙が浮かんでいた。


 それは恐怖ではなかった。


 哀しみだった。


 リゼには、その方が耐えづらかった。


「どうして、そんな顔をするのですか」


 リゼは尋ねた。


 ミリアは泣きそうに笑った。


「どうしてって……そんなの、悲しいからに決まっているでしょう」


「私は生きています」


「そういう問題ではないわ」


「負傷もありません」


「そういう問題でもない」


「では」


「あなたが、そんなふうに言えてしまうことが悲しいのよ」


 リゼは何も言えなかった。


 ミリアは袖で涙を拭った。


「今は、全部話さなくていい。きっと、簡単に話せることではないのでしょう」


「はい」


「でも、もう一人で隠さないで」


 リゼは答えられなかった。


 ミリアは真剣に言う。


「灰銀の戦乙女でも、リゼ・グレイスでも、あなたは今、私の同室者なの」


 同室者。


 その言葉は、初めて聞いた時よりずっと重く響いた。


「だから、勝手に消えないで」


 リゼはゆっくり頷いた。


「はい」


 その夜、二人は見張り表を開かなかった。


 眠れたわけではない。


 安全だったわけでもない。


 だが、ミリアはリゼの隣に座り、しばらく何も言わずにいてくれた。


 リゼは机の上に、銀環室で拾った情報を書き残した。


 黒外套。


 鍵。


 銀環室。


 王の影。


 アルトの左手首の痕。


 そして、自分の名が暴かれたこと。


 灰銀の戦乙女。


 もう隠しきれない。


 少なくとも、ミリアには。


 窓の外では、旧校舎が闇に沈んでいた。


 銀の光はもう見えない。


 だが、扉の奥にいた何かは、眠りからほんの少しだけ目を開けたのかもしれない。


 リゼはペンを置いた。


 掌には、まだ旧校舎の冷たい空気が残っている気がした。


 彼女は窓の外を見た。


 敵はまだいる。


 扉は開きかけた。


 アルトは鍵と呼ばれた。


 そして、リゼはもうただの新入生ではいられない。


 それでも、朝になれば制服を着る。


 授業へ行く。


 ミリアにリボンを直される。


 アルトを見守る。


 カイに絡まれる。


 学園生活は続く。


 その事実が、今はひどく遠く、同時に奇妙なほど確かに思えた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ