第1章 第13話:旧校舎への招待状
放課後の訓練場には、まだ昼間の熱が残っていた。
砂地に長く伸びる影。武具庫の扉に反射する夕陽。遠くから聞こえる生徒たちの笑い声。学園は、いつも通りの一日を終えようとしている。
けれど、リゼたちにとって、その日が終わるのはまだ先だった。
今夜、鐘が三度鳴る時、旧校舎へ。
その一文が、すべてを変えていた。
リゼは訓練場の端に立ち、周囲を確認した。
観覧席には誰もいない。武具庫の前には上級生が二人いたが、すぐに去っていった。ガルド教師はすでに職員棟へ戻っている。夕食前のこの時間は、人の目が少ない。
話すには適している。
同時に、監視されるにも適している。
リゼは観覧席の影、武具庫の屋根、校舎二階の窓を順番に確認した。
異常なし。
だが、異常がないことは安全を意味しない。
「グレイス!」
大きな声がした。
カイ・ロックハートが訓練場の入口から走ってくる。制服の上着は脱ぎ、肩に引っかけている。剣術基礎の自主練をしていたのか、額に汗が浮かんでいた。
彼はリゼの前で止まり、呼吸を整える前に言った。
「急に呼び出して、何だ?」
「声が大きいです」
「おっと」
カイは慌てて口を押さえた。
だが、すぐに眉を寄せる。
「で、何があった?」
リゼは答える前に、ミリアとアルトを見た。
ミリアは訓練場の石壁近くに立ち、周囲を警戒している。彼女なりの警戒だった。位置はやや甘いが、初日に比べればずいぶん周囲を見るようになっている。
アルトはミリアの隣にいた。
右肩はまだ完全ではない。けれど、今日の彼は逃げるつもりのない顔をしていた。怖がっていないわけではない。むしろ、恐怖を抱えたまま立っている。
リゼはそれを確認してから、カイへ紙片を見せた。
銀環は、鍵を呼ぶ。
鍵は、扉を開く。
扉の奥で、王の影が眠る。
今夜、鐘が三度鳴る時、旧校舎へ。
カイは黙って読んだ。
いつもの彼なら、すぐに「行くぞ」と言っただろう。
だが、今日は少し違った。
彼は紙片から目を上げ、アルトを見た。
「これ、アルトに関係あるのか」
「可能性が高いです」
リゼが答える。
「銀環の証という古い血統魔術反応が、アルトさんの測定結果と関連する可能性があります。旧校舎には銀環室という部屋が存在する記録があります」
「銀環室……」
カイは低く繰り返した。
理解は完全ではないだろう。
だが、重要な言葉だとはわかったようだった。
「つまり、今夜そこへ来いってことか」
「はい」
「罠だな」
リゼは少しだけカイを見直した。
即座に突撃ではなく、罠と判断した。
「高確率で罠です」
「でも、行くんだろ」
「はい」
「なら俺も行く」
「あなたは外部待機です」
カイの表情が固まった。
「は?」
「旧校舎内は構造不明、術式環境不明、罠の可能性大。あなたの行動特性は内部潜入に不向きです」
「行動特性って何だよ」
「声が大きい。動きが目立つ。敵を見つけると追う。挑発に乗りやすい」
ミリアが小さく咳き込んだ。
アルトは苦笑を隠しきれていない。
カイは数秒固まった後、顔を赤くした。
「お前、もう少し言い方ってものがあるだろ!」
「事実です」
「そこが腹立つ!」
リゼは淡々と続けた。
「ただし、戦闘能力と反応速度は有用です。外部で待機し、異常時の救援、退路確保、陽動を担当してください」
「……外で待ってろってことか」
「はい」
「俺だけ安全な場所で?」
「安全ではありません。旧校舎周辺に敵が出る可能性があります。むしろ外部の方が逃走経路を押さえる重要な位置です」
これは事実だった。
リゼはカイを軽視しているわけではない。
内部へ連れていけば危険が増える。だが、外に強い人間がいることは、退路確保として有効だった。
カイはリゼをじっと見た。
その目に、悔しさが浮かぶ。
だが、今回はすぐに反発しなかった。
「俺は、何をすればいい」
低い声だった。
リゼは頷く。
「鐘が三度鳴る十五分前に、旧校舎南側の庭園跡へ。姿を隠して待機。私たちが入った後、入口周辺を監視。黒い外套の人物、教師、職員、上級生、その他不審者を見た場合、追わずに位置を記憶」
「追わずに?」
「はい」
「見つけても?」
「追わずに」
「相手が逃げても?」
「追わずに」
「……わかった」
かなり不満そうだったが、カイは頷いた。
「合図は」
「異常があれば、この笛を鳴らします」
リゼは小さな金属笛を出した。
寮の非常用警笛ではない。訓練場の武具庫近くで見つけた、壊れかけの合図笛を修理したものだった。
「一回なら位置確認。二回なら退避。三回連続なら救援要請」
「三回で突っ込めばいいんだな」
「状況を見てください」
「そこは突っ込めって言ってくれよ」
「不要な突入は危険です」
「はいはい」
カイは笛の合図を復唱した。
意外にも覚えは早い。
感情で動くが、指示を理解できないわけではない。
リゼは追加で言った。
「それから、ガルド教師には知らせません」
「なんでだよ。先生なら頼れるだろ」
「頼れる可能性はあります。しかし、教師側の情報経路が敵に漏れている可能性があります」
カイは不満そうに眉を寄せた。
だが、食堂の件、講堂の件を思い出したのか、それ以上強くは言わなかった。
「ロウ先生は?」
アルトが聞いた。
「同じです」
リゼは答える。
「現時点では、教師全体への情報共有は危険です」
「セレスティア先生も?」
ミリアの声が少し低くなる。
「最重要警戒対象です」
リゼは即答した。
カイが驚く。
「セレスティア先生って、魔術史の?」
「はい」
「なんで先生が」
「疑わしい点が複数あります。確定ではありません」
「確定じゃないのに警戒するのか」
「確定してからでは遅い場合があります」
カイは黙った。
完全に納得してはいない。
けれど、少なくとも理解しようとしている。
アルトが静かに言った。
「僕は、セレスティア先生が敵なのか味方なのか、まだわからない」
「はい」
「でも、あの先生は僕たちを旧校舎へ誘導した」
「その通りです」
「なら、今夜、会う可能性がある」
「高いです」
ミリアが指先を握った。
恐怖が表情に出ている。
だが、彼女は逃げるとは言わなかった。
「装備はどうするの?」
ミリアが尋ねる。
「武器の携帯は禁止されています」
リゼは答えた。
「ただし、護身用として許可されているものはあります。ミリアさんは小型の魔術触媒。アルトさんは灯り用の魔術具のみ。カイさんは木剣を持つと目立つため、外部待機では訓練用短棒を庭園跡に隠してください」
「お前は?」
カイが聞く。
「私は筆記具と髪留めを」
「それ武器じゃないだろ」
「使い方によります」
カイは一瞬返答に困った顔をした。
「いや、聞かなかったことにする」
「正しい判断です」
ミリアが深く息を吐いた。
「本当に、私たち何をしているのかしら」
「旧校舎の調査です」
「そうではなくて」
「危険を伴う情報収集です」
「もっと違うわ」
アルトが少し笑った。
その笑いは硬かったが、完全に消えてはいない。
「でも、皆がいてくれるなら、少しだけ怖くない」
ミリアが彼を見る。
「怖いのね」
「うん。怖い」
アルトは今度は誤魔化さなかった。
「でも、知らないままでいる方が、もっと怖くなってきた」
リゼはその言葉を記憶した。
護衛対象の心理変化。
恐怖を認める。
知る意思あり。
単独行動の危険は上がるが、協力姿勢も上がる。
夜までの時間は、いつもより長く感じられた。
夕食は女子第一寮の食堂で取った。
中央食堂は点検中のため閉鎖されている。寮の食堂には昨日よりも多くの職員が配置され、料理は厳重に管理されていた。
リゼは食事をしながら、必要な行動を頭の中で繰り返した。
鐘が三度鳴る十五分前。
女子寮を出る。
正面玄関は避ける。
通用口。
寮母室の灯り。
巡回間隔。
中庭を抜け、図書館塔の影を使って旧校舎方面へ。
アルトとは図書館塔裏で合流。
カイは旧校舎南側庭園跡で外部待機。
侵入経路は、以前黒外套が消えた旧校舎裏手の隠し扉。
銀環室は地下。
図面上は旧魔術棟の中央階段下。
だが、百年以上前の建設記録であり、現状と一致する保証はない。
最悪の場合、罠。
ミリアが向かいで小声で言った。
「食べて」
リゼは皿を見る。
食事があまり減っていない。
「栄養補給は重要でしょう?」
「はい」
「なら、食べる」
「はい」
リゼはパンを口に運んだ。
味はほとんど感じなかった。
食後、二人は部屋へ戻った。
夜まで、まだ少し時間がある。
ミリアは机の前に座り、持っていくものを並べ始めた。
小型魔術触媒。
光属性の簡易防御札。
薄い手袋。
ハンカチ。
小さな回復薬。
携帯用の魔術灯。
貴族令嬢の荷物というより、冒険者の準備に近づいている。
リゼはそれを確認した。
「防御札は何枚ですか」
「三枚」
「発動条件は」
「魔力を流して、破る。小さな光の膜が出るわ。持続は十秒程度」
「十秒」
「短いけれど、ないよりはましでしょう」
「はい。有用です」
ミリアは少しだけ表情を緩めた。
「あなたに有用と言われると、安心するわ」
「事実です」
「ええ」
リゼは自分の準備をした。
制服は着る。
夜間に私服で見つかるより、制服の方が学園内での言い訳がしやすい。だが、動きやすいように上着の内側を調整する。袖口には髪留めを一本。靴紐は固く結び直す。筆記具は金属製のものを二本。ハンカチ。細い紐。小型の魔術灯。
武器はない。
だが、完全な無手でもない。
ミリアがその様子を見て、少し苦笑した。
「筆記具が武器に見える日が来るなんて思わなかったわ」
「目、喉、手首を狙えます」
「説明しないで」
「はい」
その時、廊下の向こうで寮母の足音がした。
二人は同時に動きを止める。
足音は三〇七号室の前で止まった。
扉が叩かれる。
「グレイスさん、ファルネーゼさん」
寮母の声。
リゼとミリアは目を合わせた。
ミリアが扉へ向かう。
リゼは机の上の準備物を素早く布で覆った。
扉が開く。
寮母が立っていた。
「今夜は外に出ないように」
挨拶も前置きもなかった。
ミリアが一瞬詰まる。
「もちろんです。今日は部屋で自習を」
「ファルネーゼさん」
寮母の声は静かだった。
「嘘は下手ではありませんが、目が正直です」
ミリアの顔がわずかに赤くなる。
リゼは一歩前へ出た。
「何かありましたか」
「それはこちらの台詞です」
寮母はリゼを見た。
「旧校舎には近づくなと、何度も言いました」
リゼは沈黙する。
寮母は知っている。
少なくとも、今夜何かが起きる可能性を察している。
「理由を教えてください」
リゼは言った。
「答えられません」
「理由なしに従うことは困難です」
「あなたは生徒です」
「はい」
「私は寮母です」
「はい」
「生徒を守る責任があります」
寮母の声には、疲労が滲んでいた。
「旧校舎は、あなたたちが考えているより危険です。古い術式だけではありません。あそこには、学園が長く隠してきたものがある」
「何を」
「答えられません」
「なぜ」
「答えれば、あなたたちは行く」
寮母はリゼを見た。
完全に見抜かれている。
「答えなくても行くでしょう?」
ミリアが小さく息を呑む。
寮母は深くため息をついた。
「だから困っているのです」
彼女は懐から小さな札を取り出した。
古い木札だった。表面に簡易封印の文字が刻まれている。
「これは?」
リゼが尋ねる。
「旧校舎の内部結界を一度だけ弱める札です」
ミリアが目を見開く。
「寮母様、それは……」
「渡すとは言っていません」
寮母は低く言った。
「本来なら、あなたたちを部屋に閉じ込めてでも止めるべきです」
「では、なぜそれを見せるのですか」
リゼが問う。
寮母はしばらく黙った。
やがて、静かに言った。
「昔、止められなかった生徒がいました」
声の温度が変わる。
「その子も、知りたがっていました。自分が何者なのか。なぜ選ばれたのか。なぜ夢を見るのか」
リゼの意識が鋭くなる。
アルトと同じ。
「その生徒は」
ミリアが尋ねかける。
寮母は首を横に振った。
「戻ってきませんでした」
部屋の空気が重くなる。
「旧校舎へ行けば、答えがあるかもしれません。ですが、答えは人を救うとは限らない」
寮母は木札を握りしめる。
「グレイスさん。あなたは戦い方を知っているのでしょう」
リゼは表情を変えなかった。
ミリアが息を止める。
「その目を見ればわかります。何があったかは聞きません。ですが、戦えることと、守れることは違います」
ガルド教師と似た言葉。
リゼの胸に、わずかに刺さる。
「行くなら、誰かを置いていきなさい」
寮母は言った。
「全員で闇に入るのは、最も愚かな選択です」
リゼは答えなかった。
ミリアが一歩前へ出る。
「私は行きます」
「ファルネーゼさん」
「怖いです。でも、行きます。私が知らないことで誰かが危険になるなら、私はそれを選びたくありません」
寮母はミリアを見た。
厳しい顔。
だが、その奥に少しだけ悲しみがあった。
「あなたは、思っていたより頑固ですね」
「最近、よく言われます」
「誰に?」
ミリアはリゼを見た。
「主に、この人に」
寮母は目を閉じた。
そして、木札をリゼへ差し出した。
「渡したわけではありません」
リゼは木札を受け取る。
「あなたが勝手に持っていくのです」
「はい」
「私は見ていません」
「はい」
「そして、必ず戻りなさい」
その言葉だけは、命令ではなかった。
願いだった。
リゼは木札を握る。
「可能な限り」
寮母の目が鋭くなる。
「戻りなさい」
リゼは一拍置き、答えた。
「はい」
寮母はそれ以上何も言わず、廊下を去っていった。
扉が閉まる。
ミリアはしばらく黙っていた。
やがて、小さく言う。
「寮母様も、何か知っているのね」
「はい」
「昔、戻らなかった生徒……」
「アルトさんに類似する可能性があります」
「嫌な予感しかしないわ」
「同意します」
鐘が一度鳴った。
夜の第一鐘。
あと二つ。
リゼたちは準備を終え、消灯を待った。
寮母の見回り。
上級寮生の巡回。
廊下の静寂。
すべてをやり過ごす。
時計ではなく、音と足音で時間を測る。
そして、二度目の鐘が鳴った。
リゼは立ち上がる。
ミリアも外套を羽織った。
前回より動きは静かだった。靴は最初から手に持っている。通用口の鈴を押さえる役割も、ミリアは覚えている。
二人は部屋を出た。
廊下は暗い。
寮母室の灯りはついている。
だが、扉は開かない。
見ていない。
寮母の言葉が思い出される。
リゼたちは通用口から外へ出た。
夜の空気が冷たい。
庭園の草に露が降りている。
月は雲に隠れ、学園の輪郭は黒い影のように沈んでいた。
図書館塔の裏へ向かう。
そこに、アルトがいた。
暗い外套を羽織り、小さな魔術灯を手にしている。顔色は悪い。だが、逃げる気はなさそうだった。
「来たんだね」
「はい」
「肩は」
「痛い」
「行動に支障は」
「走るとたぶん痛む。でも歩ける」
「了解しました」
ミリアが小声で言う。
「怖い?」
アルトは少し笑った。
「怖い」
「私も」
「うん」
二人はそれだけで頷き合った。
リゼは周囲を確認する。
異常なし。
三人は旧校舎南側の庭園跡へ向かった。
低木の影に、カイがいた。
彼は訓練用の短棒を持ち、身を低くしている。隠れ方は荒いが、努力はしていた。
「遅いぞ」
「予定通りです」
「そうか」
カイはリゼたちを見た。
「本当に入るんだな」
「はい」
「俺は外で待つ」
「はい」
「追わない」
「はい」
「でも、三回笛が鳴ったら行く」
「状況を」
「見る。わかってる」
カイは真剣だった。
「絶対戻れよ」
その言葉は、寮母のものと似ていた。
ミリアが頷く。
「ええ」
アルトも。
「戻る」
リゼは最後に言った。
「戻ります」
旧校舎は、夜の中で静かに立っていた。
蔦に覆われた灰色の壁。
割れた窓。
黒く沈んだ入口。
立入禁止の札。
月明かりのない夜には、それが校舎というより巨大な墓標に見えた。
リゼは以前、黒外套が消えた裏手の壁へ向かった。
石壁の一部。
触れた跡。
隠し扉。
前回は開けられなかった。
今回は寮母の木札がある。
リゼは木札を壁に当てた。
古い文字が淡く光る。
壁の奥で、何かが軋む音がした。
石がゆっくりと沈み、細い隙間が現れる。
湿った空気が流れ出した。
古い紙。
埃。
鉄。
そして、かすかな魔力の臭い。
リゼは先に入る。
続いてアルト。
ミリアが最後。
中は狭い通路だった。
壁に古い魔術灯が埋め込まれているが、ほとんど消えている。アルトの持つ小さな灯りだけが、足元を照らしていた。
「声を出さないでください」
リゼが囁く。
二人は頷く。
通路を進む。
足元には埃が積もっている。
だが、完全に均一ではない。
最近歩いた跡がある。
黒外套。
少なくとも一人。
複数回。
リゼはその跡を記憶しながら進んだ。
やがて、通路は旧校舎内部の廊下へ出た。
そこは廃墟のようだった。
割れた窓から風が入り、古いカーテンが揺れている。床板は一部腐り、壁にはかつての魔術陣の跡が残っていた。教室らしき部屋の扉は半ば外れ、黒板には読めない文字が残っている。
ミリアが小さく息を呑む。
「ここ、本当に学園なの……?」
「旧魔術棟です」
アルトが呟く。
「夢で見た廊下に似てる」
リゼは即座に彼を見る。
「どこが」
「壁の模様。窓の形。あと、匂い」
「夢と現実の一致。重要です」
アルトは少しだけ顔を強ばらせた。
リゼは建設記録で見た図面を思い出す。
銀環室は地下。
中央階段下。
現在位置は旧校舎西側裏通路。
中央へ進むには、廊下を右へ。
「こちらです」
三人は進んだ。
途中、床の一部が沈みかけていた。
リゼが先に踏み止まり、二人へ迂回を指示する。
壁の魔術陣が一瞬光った時は、ミリアが防御札を構えた。
だが、術式は古すぎて起動しなかった。
廊下の奥から、遠く鐘の音が聞こえた。
三度目。
今夜、鐘が三度鳴る時。
旧校舎へ。
時刻だ。
その瞬間、旧校舎全体が低く震えた。
アルトの持つ魔術灯が揺れる。
壁の古い術式が一斉に淡く光り始めた。
青白い線。
銀色の輪。
床を走る魔力。
「何……?」
ミリアが息を呑む。
アルトが胸元を押さえた。
「呼んでる」
彼の声が震えている。
「何が」
リゼが問う。
「わからない。でも、下から……」
リゼはアルトの視線を追う。
廊下の先、中央階段。
地下へ続く暗い階段。
そこから、銀色の光が漏れていた。
リゼは警戒を最大に上げる。
「ミリアさん、アルトさんの後方。防御札を準備」
「はい」
「アルトさん、私より前に出ない」
「わかった」
三人は地下へ下りた。
空気がさらに冷たくなる。
壁には古い封印文字。
階段の途中には、朽ちた鎖。
床には黒い焦げ跡のようなもの。
戦闘痕か、儀式痕か。
地下廊下に出る。
そこには、石の扉があった。
アルトが息を止めた。
「夢の扉だ」
扉には蔦の模様が彫られている。
本物の蔦ではない。
石に刻まれた蔦。
中央には銀色の輪。
銀環。
リゼは周囲を確認した。
敵影なし。
だが、魔力の流れが扉へ集まっている。
アルトに反応している。
「触れないでください」
リゼが言う。
だが、アルトは一歩前へ出そうとしていた。
すぐに止まる。
「ごめん」
「呼ばれていますか」
「うん」
「抵抗できますか」
「今は」
ミリアがアルトの隣へ行き、彼の左手を掴んだ。
「一人で行かないで」
アルトは彼女を見た。
「うん」
その時、背後で拍手が響いた。
ゆっくりと。
一回。
二回。
三回。
リゼは即座に振り返り、二人の前に出た。
地下廊下の奥に、黒い外套の人物が立っていた。
顔はフードで見えない。
手には細い杖。
背丈は成人女性にも男性にも見える。声は魔術で歪められていた。
「よく来た、鍵」
黒外套が言った。
アルトの体が強ばる。
「そして、よく来たな、灰銀」
リゼは反応しない。
今度は、止まらない。
敵はそれを見て、わずかに笑ったようだった。
「学習したか」
リゼは静かに問う。
「あなたは誰ですか」
「名乗る必要はない」
「目的は」
「扉を開けること」
「アルトさんを使って」
「鍵は、扉を開くためにある」
アルトの顔色が白くなる。
ミリアが彼の手を強く握った。
リゼは黒外套を見据えた。
「鍵は人間です」
黒外套が少し黙る。
そして、低く笑った。
「お前がそれを言うのか、灰銀の戦乙女」
空気が凍る。
ミリアの息が止まった。
アルトの目がリゼへ向く。
リゼは表情を変えない。
だが、内側では冷たい刃が走った。
ここで言った。
敵はミリアとアルトの前で、灰銀の戦乙女という名を出した。
隠していたものを暴くために。
「戦場で人を斬り、英雄と呼ばれた剣が、今さら人間を語るか」
黒外套の声が響く。
ミリアの手が震えている。
アルトはリゼを見つめている。
リゼは振り返らなかった。
今は説明できない。
今は守る。
「ミリアさん」
リゼは低く言った。
「アルトさんを扉から離してください」
ミリアは一瞬遅れた。
だが、すぐに動いた。
「アルトさん、下がって」
「でも、リゼさん」
「下がってください」
リゼの声が強くなる。
アルトは唇を噛み、ミリアと共に一歩下がる。
黒外套が杖を上げた。
「遅い」
床の銀色の線が強く光った。
アルトの足元に輪が生まれる。
魔術陣。
起動が速い。
床に仕込まれていた。
リゼは踏み込む。
アルトを輪の外へ弾き出す。
だが、銀の光が彼の左手首に絡みついた。
「っ……!」
アルトが呻く。
ミリアが防御札を破る。
光の膜が広がり、銀の線を一瞬押し返した。
十秒。
それだけ。
リゼは袖から髪留めを抜き、銀線の基点へ投げた。
金属が床の術式に刺さる。
光が乱れる。
「走って!」
ミリアが叫ぶ。
アルトを引き、階段方向へ下がろうとする。
だが、黒外套が杖を振った。
地下廊下の出口側に、黒い影の壁が立ち上がる。
退路遮断。
罠。
予想通り。
だが、対応は必要。
リゼは笛を取り出し、三回鳴らした。
甲高い音が地下に響く。
外部待機のカイへの救援要請。
黒外套が笑った。
「外の犬を呼んだか」
「彼は犬ではありません」
リゼは木剣も剣も持っていない。
武器は筆記具、髪留め、紐。
相手は魔術師。
地下。
護衛対象あり。
ミリアあり。
退路遮断。
不利。
だが、不可能ではない。
黒外套が雷の小術式を放った。
入学式のものより小さい。
だが速い。
狙いはリゼではない。
アルト。
リゼは床を蹴り、金属筆記具を投げて軌道をずらす。
雷が壁に当たり、石片が飛ぶ。
ミリアが二枚目の防御札を破る。
光の膜。
石片を防ぐ。
アルトは青ざめながらも、右肩を庇って立っている。
逃げない。
だが、足が震えている。
「アルトさん、扉を見ない!」
リゼが叫ぶ。
アルトがはっとして目を逸らす。
石の扉の銀環は、強く輝いていた。
呼んでいる。
鍵を。
黒外套が言う。
「開け、アルト・レインフォード」
アルトの体が揺れる。
名前に反応したのか、術式に縛られたのか。
ミリアが彼の手を握る。
「アルトさん!」
「……行かない」
アルトが絞り出す。
「僕は、行かない」
銀の輪が一瞬揺らいだ。
リゼはその隙を逃さない。
黒外套へ向かって踏み込む。
敵は魔術師。
近接距離に入れば有利。
ただし、相手もそれを想定している。
床の罠。
左。
リゼは直前で踏み込みを変えた。
足元で黒い針が立ち上がる。
避ける。
低く潜る。
筆記具を逆手に持つ。
狙いは杖を持つ手。
殺さない。
無力化。
ガルド教師の言葉が頭をよぎる。
人を殺さないための剣。
今は剣ではない。
だが、同じ。
リゼは黒外套の手首を狙った。
敵が後退する。
速い。
魔術師にしては身のこなしがいい。
近接戦闘訓練あり。
杖がリゼの筆記具を弾く。
金属音。
黒外套の袖が裂けた。
その下に見えた手首。
白い肌。
細い指。
古い火傷痕。
一瞬。
だが、リゼは記憶した。
女性の可能性が高い。
黒外套が低く呟く。
「やはり、化け物め」
リゼは返さない。
もう一歩踏み込む。
その時、背後で石の扉が轟音を立てた。
銀環が回り始めている。
アルトは触れていない。
だが、反応している。
彼が近くにいるだけで。
「リゼさん!」
ミリアの叫び。
リゼは振り返らない。
黒外套を止めるか、扉を止めるか。
優先順位。
扉が開けば何が起きるかわからない。
だが、黒外套が術式を維持している可能性が高い。
敵を止める。
リゼは黒外套へ突っ込んだ。
同時に、上から激しい音がした。
扉を破るような衝撃。
カイだ。
「どこだ、グレイス!」
遠くでカイの声が響く。
黒外套が舌打ちした。
初めて見せた明確な苛立ち。
外部待機が効いた。
黒外套は杖を床へ突き立てる。
黒い煙が一気に広がった。
視界遮断。
リゼは息を止める。
毒の可能性。
ミリアが咳き込む。
アルトも。
リゼは黒外套の気配を追う。
右。
いや、上。
壁の術式を使って移動している。
追うべき。
だが、煙の中でアルトとミリアを失う危険。
リゼは追跡を捨てた。
「ミリアさん、アルトさんの手を離さない!」
「離してない!」
ミリアの声。
位置確認。
リゼは二人へ戻る。
煙の中、銀環の扉の光が強くなる。
アルトが苦しそうに膝をつく。
「呼ばれてる……」
「拒否してください」
「してる!」
ミリアが三枚目の防御札を破る。
光が三人を包む。
銀の引力が弱まる。
十秒。
その間に退避。
リゼはアルトの腕を取り、ミリアに合図する。
「階段へ」
「でも壁が」
「カイが破ります」
上から再び衝撃音。
そして、カイの怒鳴り声。
「邪魔だあああっ!」
黒い影の壁に亀裂が入った。
力技。
だが有効。
リゼはアルトを支え、階段方向へ走る。
ミリアも続く。
銀環の扉が背後でさらに開く音を立てた。
わずかな隙間。
その奥から、冷たい風が吹いた。
声が聞こえる。
低く、遠く、古い声。
――鍵。
アルトが振り返りそうになる。
リゼは彼の頭を押さえて前を向かせた。
「見るな!」
アルトは歯を食いしばる。
カイが影の壁を短棒で叩き割ったところへ、三人が飛び込む。
「こっち!」
カイが叫ぶ。
リゼは先頭を譲らない。
階段を駆け上がる。
背後から銀の光が追ってくる。
黒外套の姿はない。
だが、術式はまだ動いている。
地上階へ。
廊下。
旧校舎の壁が震えている。
古い窓が割れ、埃が舞う。
カイが最後尾につく。
「何が起きてんだよ!」
「扉が開きかけています」
「閉められないのか!」
「現時点では不可能です」
「くそっ!」
隠し扉の通路へ戻る。
だが、壁の出口が閉まりかけていた。
木札の効力が切れている。
リゼは木札を押し当てる。
光らない。
一度だけ。
寮母の言葉通り。
「下がって」
ミリアが前に出た。
「魔術で押さえるわ」
「負荷が」
「十秒くらいなら!」
ミリアの手から光が広がる。
壁の封印文字が反応し、扉の動きが一瞬止まる。
リゼはアルトを先に押し出す。
次にカイ。
ミリア。
最後にリゼ。
通路を抜けた瞬間、背後で石壁が閉じた。
旧校舎の外。
夜の空気。
四人は庭園跡に転がるように出た。
アルトは膝をつき、肩で息をしている。
ミリアも壁に手をつき、顔色が真っ白だった。
カイは短棒を握ったまま、旧校舎を睨んでいる。
リゼはすぐに周囲を確認した。
敵影なし。
追撃なし。
旧校舎の窓の奥で、銀色の光が一瞬だけ瞬いた。
そして消えた。
静寂が戻る。
何事もなかったかのように。
「……逃げたのか?」
カイが言った。
「敵は離脱。扉は完全開放には至っていません」
リゼは答えた。
「完全じゃないってことは、少し開いたんだよな」
アルトが顔を上げる。
その目は震えていた。
「奥に、何かいた」
ミリアが息を呑む。
「見たの?」
「見てない。でも、感じた」
アルトは自分の左手首を見る。
そこには、銀色の輪のような痕がうっすら浮かんでいた。
リゼはその手首を確認する。
熱はない。
傷でもない。
魔術痕。
銀環の反応。
「痛みは」
「ない。でも、変な感じがする」
「医務室へ」
「駄目」
アルトが即座に言った。
珍しく強い声だった。
「これを見せたら、たぶん大騒ぎになる」
「隠すのは危険です」
「でも、誰に見せればいい?」
リゼは答えられなかった。
学園の医務室。
教師。
魔術科。
セレスティア。
どこまで信用できるか不明。
ミリアが震える声で言う。
「まず、隠しましょう。手袋か包帯で」
「応急処置ではありません」
リゼが言うと、ミリアが彼女を見た。
「今は証拠保全より、アルトさんの安全よ」
その通りだった。
リゼは頷く。
「はい」
カイが外套の内側から布を出した。
「これ使え」
「ありがとうございます」
アルトは左手首を布で巻いた。
動きは震えている。
リゼは彼を見た。
護衛対象、生存。
負傷、軽微。
魔術痕あり。
精神的負荷、大。
ミリア、疲労大。魔力消耗あり。
カイ、軽度の擦過傷。戦闘継続可能。
リゼ、自覚負傷なし。
作戦失敗か成功か。
情報は得た。
銀環室は存在した。
扉は反応した。
黒外套と接触した。
敵はアルトを鍵と呼んだ。
灰銀の正体をミリアとアルトの前で暴露した。
扉の奥に何かがいる。
そして、アルトの手首に銀環の痕が残った。
代償は大きい。
だが、戻れた。
戻ることはできた。
「寮へ戻ります」
リゼは言った。
「話は後です。今は分散せず、それぞれ寮へ戻る。カイさんは男子寮までアルトさんに同行してください」
「おう」
「途中で誰かに聞かれたら、自主練の帰りに体調不良のアルトさんを見つけた、と」
「嘘は苦手だ」
「顔に出さないでください」
「難しいな」
ミリアが疲れた顔で言った。
「本当に全員、嘘が下手ね」
「あなたが一番上手です」
リゼが言うと、ミリアは笑う余裕もなく首を振った。
「褒められても嬉しくないわ」
四人は旧校舎を離れた。
背後の窓は暗い。
銀色の光も、黒外套の姿もない。
だが、リゼにはまだ声が耳に残っていた。
鍵。
そして、黒外套の言葉。
戦場で人を斬り、英雄と呼ばれた剣が、今さら人間を語るか。
ミリアは聞いた。
アルトも聞いた。
もう隠しきれない。
灰銀の戦乙女。
その名は、彼らの前に落とされた。
寮へ戻る道で、ミリアは何も聞かなかった。
ただ、震える手でリゼの袖を掴んでいた。
離れないように。
あるいは、リゼがどこかへ行ってしまわないように。
リゼはその手を振り払わなかった。
女子寮の通用口へ戻ると、寮母室の灯りがまだついていた。
扉は開かない。
だが、廊下の向こうに寮母の影が一瞬だけ見えた。
リゼは小さく頭を下げた。
影は何も言わず、消えた。
三〇七号室へ戻る。
扉を閉める。
鍵をかける。
一回。
窓を確認する。
一回。
ミリアはベッドに座ったまま、しばらく黙っていた。
外套を脱ぐことも忘れている。
リゼは机に向かい、記録を始めようとした。
だが、ミリアが言った。
「リゼさん」
「はい」
「今夜は、記録より先に話して」
リゼは止まった。
「灰銀って、あなたのことなの?」
部屋の空気が止まる。
逃げることはできた。
今は言えない、とまた言うこともできた。
だが、ミリアは旧校舎の地下でそれを聞いた。
黒外套の口から。
敵に暴かれた言葉のまま放置すれば、ミリアの中でそれはもっと悪い形になる。
リゼは静かに答えた。
「はい」
ミリアの唇が震えた。
「灰銀の戦乙女」
「はい」
「戦争の英雄」
「そう呼ばれています」
「あなたが」
「はい」
ミリアは両手で顔を覆った。
泣くのかと思った。
怒るのかとも思った。
だが、彼女はしばらく呼吸を整えた後、顔を上げた。
「あなた、十五歳よね」
「はい」
「私たちと同じ」
「はい」
「なのに、戦場にいたの」
リゼは少しだけ沈黙した。
「はい」
ミリアの目に、涙が浮かんでいた。
それは恐怖ではなかった。
哀しみだった。
リゼには、その方が耐えづらかった。
「どうして、そんな顔をするのですか」
リゼは尋ねた。
ミリアは泣きそうに笑った。
「どうしてって……そんなの、悲しいからに決まっているでしょう」
「私は生きています」
「そういう問題ではないわ」
「負傷もありません」
「そういう問題でもない」
「では」
「あなたが、そんなふうに言えてしまうことが悲しいのよ」
リゼは何も言えなかった。
ミリアは袖で涙を拭った。
「今は、全部話さなくていい。きっと、簡単に話せることではないのでしょう」
「はい」
「でも、もう一人で隠さないで」
リゼは答えられなかった。
ミリアは真剣に言う。
「灰銀の戦乙女でも、リゼ・グレイスでも、あなたは今、私の同室者なの」
同室者。
その言葉は、初めて聞いた時よりずっと重く響いた。
「だから、勝手に消えないで」
リゼはゆっくり頷いた。
「はい」
その夜、二人は見張り表を開かなかった。
眠れたわけではない。
安全だったわけでもない。
だが、ミリアはリゼの隣に座り、しばらく何も言わずにいてくれた。
リゼは机の上に、銀環室で拾った情報を書き残した。
黒外套。
鍵。
銀環室。
王の影。
アルトの左手首の痕。
そして、自分の名が暴かれたこと。
灰銀の戦乙女。
もう隠しきれない。
少なくとも、ミリアには。
窓の外では、旧校舎が闇に沈んでいた。
銀の光はもう見えない。
だが、扉の奥にいた何かは、眠りからほんの少しだけ目を開けたのかもしれない。
リゼはペンを置いた。
掌には、まだ旧校舎の冷たい空気が残っている気がした。
彼女は窓の外を見た。
敵はまだいる。
扉は開きかけた。
アルトは鍵と呼ばれた。
そして、リゼはもうただの新入生ではいられない。
それでも、朝になれば制服を着る。
授業へ行く。
ミリアにリボンを直される。
アルトを見守る。
カイに絡まれる。
学園生活は続く。
その事実が、今はひどく遠く、同時に奇妙なほど確かに思えた。




