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灰銀の戦乙女は、制服を知らない  作者: 最後に残った形


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第2章 第1話:護衛対象の朝


 朝の鐘が鳴る前に、リゼは目を覚ましていた。


 窓の外はまだ薄青い。夜が完全には退いておらず、中庭の草葉には白い露が残っている。女子第一寮の廊下は静まり返り、遠くの階段から時折、木材の軋む音だけが聞こえた。


 異常なし。


 リゼはベッドの上で目を開けたまま、いつもの順に確認する。


 窓。


 施錠、維持。


 カーテンの揺れ、風によるもの。


 扉。


 施錠、維持。


 床。


 差し込まれた紙、なし。


 机。


 引き出し、閉。


 脅迫文、隠匿位置に変化なし。


 ミリア。


 呼吸、安定。


 見張り交代後、睡眠中。


 異常なし。


 リゼはゆっくりと体を起こした。


 体に疲労は残っている。


 旧校舎の地下での戦闘、銀環室の扉、黒外套との接触、閉架資料室での調査、セレスティア・ノクスとの対話。数日間に詰め込まれた情報量は、戦場での連続任務に近い。


 だが、戦場と違うものがあった。


 机の上には見張り表と一緒に、基礎教養の課題が置かれている。


 その隣にはミリアが淹れた茶葉の包み。


 さらに、その横には制服の替えリボン。


 戦闘記録と宿題と茶葉とリボンが、同じ机の上にある。


 まだ慣れない。


 けれど、昨日よりは少しだけ不自然ではない気がした。


 リゼはベッドから下り、音を立てないように身支度を始めた。制服の上着を取り、袖を通す。襟を整え、髪を軽く梳く。


 そして、リボンを手に取った。


 昨日は八割。


 ミリアの評価では、そうだった。


 今日は九割を目指す。


 それが任務とどう関係するのかは不明だったが、目標としては明確だった。


 右を通す。


 左を重ねる。


 輪を作る。


 締める。


 形を整える。


 鏡を見る。


 右が長い。


 修正。


 締め直す。


 結び目が硬い。


 修正。


 布が歪む。


 再修正。


 五回目で、リゼは手を止めた。


 昨日よりは良い。


 おそらく八割五分。


 九割には届かない。


「……朝から戦っているわね」


 背後から声がした。


 ミリアがベッドの上で半身を起こしていた。金色の髪が少し乱れ、眠そうに目を細めている。それでも、リゼの首元を見る視線は正確だった。


「おはようございます」


「おはよう。リボンは敵ではないと、昨日言ったはずだけれど」


「敵ではありません。しかし制御が難しいです」


「制御という言い方をするから難しくなるのよ」


 ミリアはベッドから下りると、まだ眠気の残る動きでリゼの前に立った。


 そして、首元のリボンを見た。


「昨日より上手になっているわ」


「九割には届きませんでした」


「誰が点数制にしたの?」


「自己評価です」


「そう」


 ミリアは小さく笑った。


「では、今日は八割五分ね」


「同意します」


「残り一割五分、直すわ」


「お願いします」


 リゼはじっと立った。


 ミリアの指がリボンに触れる。


 結び目を少し緩め、布の角度を整え、左右の長さを揃える。


 もう反射的に手首を掴むことはない。


 首元へ近づく手に対して、体が完全に警戒を解いているわけではない。だが、ミリアの手だと認識してからの反応は遅くなっている。


 遅くなっている、というより。


 必要がないと学んでいる。


「できたわ」


「ありがとうございます」


「どういたしまして」


 ミリアは自分の髪を整えながら、ふと表情を引き締めた。


「今日は、アルトさんの様子を確認するのでしょう?」


「はい」


「左手首の痕、夢、精神状態、登校時の危険確認」


「はい」


「そして、近づきすぎない」


 リゼは一瞬止まった。


「護衛距離は対象の安全に直結します」


「ええ。でも、距離が近すぎると、対象の精神的負荷が増えるわ」


「精神的負荷」


「見張られている、監視されている、逃げられない。そう感じるかもしれないでしょう?」


「護衛です」


「相手がそう感じなければ、護衛も監視になるの」


 リゼは考えた。


 アルトはこれまで守られてきた。


 だが、同時に管理され、隠され、名前を変えられ、自分のことを説明されないまま生きてきた。


 その彼にとって、常に背後に立つ護衛は安心ではなく圧力になる可能性がある。


 昨日、アルトは言った。


 僕は護衛対象かもしれない。でも、それだけではいたくない。


 その言葉を、リゼは記憶している。


「では、適切距離は」


「普通に隣を歩くの」


「隣」


「そう。背後でも、前でもなく、隣」


「死角が増えます」


「会話が増えるわ」


 ミリアの声は穏やかだった。


「リゼさん、今日は任務としてではなく、同級生としてアルトさんと登校してみましょう」


「任務は継続しています」


「それはわかっているわ。でも、同級生として歩くことも、きっと護衛になる」


 リゼは完全には納得できなかった。


 しかし、ミリアの指摘には合理性がある。


 アルトの孤独や恐怖が銀環痕に影響する可能性がある以上、心理的安定は護衛上重要。ならば、普通の同級生として隣を歩くことは、危険を下げる行動になるかもしれない。


「試行します」


「言い方は硬いけれど、よろしい」


 ミリアは微笑んだ。


 朝食の食堂は、昨日までより少しだけ落ち着いていた。


 中央食堂の事故、講堂の封鎖、旧校舎周辺の警備強化。生徒たちの不安は消えていない。それでも、日常は戻ろうとする。パンの匂い、食器の音、寝坊したらしい生徒の慌ただしい足音。誰かが笑い、誰かが小声で噂をし、誰かが課題の提出を忘れたと青ざめている。


 リゼは席につき、食事を確認した。


 パン。


 卵。


 野菜スープ。


 果実。


 毒性反応、視認不可。


 匂い、異常なし。


 盛り付け、通常。


 ミリアが向かいに座り、何も言わずにリゼの皿へ茹で野菜を少し足した。


 リゼはその手元を見る。


「今日は初期配分に野菜があります」


「少し足りないわ」


「基準は」


「私の基準」


「了解しました」


 リゼは野菜を食べた。


 食堂の入口に、寮母が立っている。


 リゼと目が合った。


 寮母は昨日と同じ厳しい顔だったが、ほんのわずかに頷いた。


 旧校舎に行ったこと。


 木札を使ったこと。


 閉架資料室の鍵を借りたこと。


 すべて、表向きは何もなかったことになっている。


 だが、寮母は知っている。


 そして、まだ見ていないふりをしている。


 その意味を、リゼは考えた。


 完全な味方ではない。


 しかし、敵ではない。


 限定的協力者。


 セレスティアと同じように分類できるが、感情の温度は違う。


 寮母は生徒を守ろうとしている。


 少なくとも、その一点は信頼できる。


 食後、リゼとミリアは女子寮を出た。


 空はよく晴れている。朝の光が白い校舎の壁を照らし、中庭の噴水が細かな水音を立てていた。講堂はまだ封鎖されており、遠くからでも結界札が見える。中央食堂の屋根には修理用の足場が組まれていた。


 学園は傷ついている。


 だが、動いている。


 リゼは男子寮方面の道を見た。


 アルトが来るはずの経路。


 通常なら、男子第一寮から第一校舎へ向かう最短経路を通る。途中に中庭の広場、鐘楼横の石畳、図書館塔の前を通過する。死角は三箇所。木立の影、鐘楼裏、図書館塔脇の柱廊。


 リゼは自然にそこへ向かおうとした。


 ミリアが袖を掴む。


「待ち伏せしない」


「合流地点の確保です」


「待ち伏せに見えるわ」


「では、どうすれば」


「偶然会ったように歩く」


「偶然は制御できません」


「演出するの」


「偽装ですか」


「日常です」


 ミリアは涼しい顔で歩き出した。


 リゼは一拍遅れて隣に並ぶ。


「日常は難しいです」


「知っているわ。だから練習しましょう」


 女子寮から第一校舎へ向かう道の途中で、アルトの姿が見えた。


 栗色の髪。


 細い体。


 右肩の動きはまだ少し硬い。


 左手首には布。


 今日は一人だった。


 リゼの足が自然に速くなる。


 ミリアが小声で言った。


「急がない」


「単独行動中です」


「普通に声をかける」


「はい」


 リゼは歩幅を調整した。


 アルトは途中でこちらに気づいた。


 少し驚いたように目を開き、それから柔らかく笑った。


「おはよう、リゼさん、ミリアさん」


「おはようございます」


 ミリアが自然に返す。


 リゼも言った。


「おはようございます。手首は」


 ミリアが小さく咳払いする。


 リゼは訂正した。


「……体調は」


 アルトはその一瞬の修正に気づいたらしい。


 少し笑う。


「手首は広がっていない。右肩は少し痛む。夢は見たけど、昨日より遠かった。体調は、少し眠いくらい」


「詳細な報告、ありがとうございます」


「たぶん、リゼさんが聞きたいことを先に言った方が早いと思って」


「助かります」


 ミリアが苦笑した。


「アルトさんまで慣れてきたわね」


「うん。慣れていいのかはわからないけど」


 アルトの声は明るかったが、その奥にはまだ不安がある。


 当然だ。


 左手首に銀環の痕が残り、夢の中で何かに呼ばれ、学園内外の複数勢力が自分を“鍵”として見ている。十五歳の少年が平然としていられる状況ではない。


 だからこそ、リゼは距離を測った。


 近すぎず。


 遠すぎず。


 隣。


 ミリアに言われた通り、アルトの斜め後ろではなく、横に並ぶ。


 ただし、敵襲時に動けるよう、半歩だけ後ろへ。


 アルトがちらりとこちらを見る。


「リゼさん」


「はい」


「僕は逃げないから、そんなに背後を取らなくても大丈夫だよ」


 リゼは動きを止めた。


 半歩後ろ。


 やはり気づかれていた。


「背後を取っているのではありません。死角を管理しています」


「それ、言い方が違うだけじゃないかな」


 ミリアがすかさず言った。


「それを普通は“圧”と言うのよ」


「圧」


 リゼは言葉を繰り返す。


「護衛圧ですか」


「新しい言葉を作らないで」


 アルトが笑った。


 朝の光の中で、その笑い声は昨日より軽い。


 リゼは半歩前へ出て、今度こそ横に並んだ。


「これで適切ですか」


 アルトは少し考えた。


「うん。歩きやすい」


「視界は一部悪化します」


「会話はしやすい」


 ミリアが満足そうに頷いた。


「よろしい」


 リゼは前方を見た。


 中庭の道。


 右に鐘楼。


 左に図書館塔。


 人通りは増えている。


 危険要因は多い。


 だが、アルトは隣にいる。


 声が届く距離。


 手を伸ばせば届く距離。


 背後から完全に守るより、横から一緒に歩く方が不安定に感じる。


 しかし、アルトの歩幅は少し自然になった。


 それが意味するものを、リゼは考えた。


「おーい!」


 背後から大きな声が響いた。


 カイだった。


 ミリアが小さく肩を落とす。


「朝から声が大きいわ」


 カイは走ってきて、三人の横に並んだ。


 訓練でもないのに走っているため、少し息が弾んでいる。


「おはよう!」


「声が大きいです」


 リゼが即座に言う。


「練習中だ!」


「成果が見られません」


「朝は難しいんだよ」


「理由になっていません」


 アルトがくすくす笑う。


 カイは彼の左手首を見ると、少しだけ声を落とした。


「手、どうだ」


「広がってないよ」


「そうか。夢は?」


「見たけど、少し遠かった」


「遠い夢って何だ?」


「説明が難しい」


「そうか」


 カイはそれ以上聞かなかった。


 以前の彼なら、もっと突っ込んだかもしれない。だが、今は少しだけ待つことを覚えているらしい。


 リゼはそれを観察した。


 カイ・ロックハート。


 声が大きい。


 行動が直線的。


 挑発に乗りやすい。


 だが、指示を覚える能力あり。


 友人への配慮を学習中。


 戦闘能力、有用。


 カイは胸を張った。


「じゃあ今日から俺も護衛だな」


「不要です」


 リゼは即答した。


「なんでだよ!」


「声が大きく、目立ちます」


「護衛は目立った方が牽制になるだろ」


「状況によります。現在は隠密性が必要です」


「でも四人で歩いてた方が安全だろ」


 それは、少し意外な発言だった。


 リゼはカイを見た。


 カイは真剣な顔をしている。


「アルトが一人で歩くより、俺たちといた方が狙いにくい。だろ?」


「……はい」


「じゃあ、俺もいる」


 カイは当然のように言った。


 リゼは少し黙った。


 彼の言い分は正しい。


 集団行動は敵の接近を難しくする。特にカイのように目立つ者がいれば、周囲の視線も集まる。それは不利でもあるが、隠密に攻撃したい敵にとっては障害になる。


 ただし、カイ自身が大声で機密を漏らす危険もある。


「条件付きで許可します」


「おう」


「護衛という言葉を大声で使わない」


「わかった」


「銀環、鍵、旧校舎、灰銀、黒外套の単語を人前で言わない」


「わかった」


「異常を見ても即座に走らない」


「……わかった」


「今の間は何ですか」


「努力じゃなくて、わかったって言っただろ」


「はい」


 ミリアが微笑む。


「少しずつね」


 四人は並んで歩き出した。


 リゼ、アルト、ミリア、カイ。


 位置は自然に見える。


 リゼはアルトの左側に立った。銀環痕のある手首が近い。何か反応があればすぐに見える。


 ミリアはアルトの右側、少し後ろ。


 カイは外側。


 声が大きいので、周囲の注意を引く役割としては有効。


 周囲の生徒たちは、時々四人を見る。


 貴族令嬢ミリア。


 負傷者として噂になったアルト。


 剣術科で目立つカイ。


 そして、灰銀の髪のリゼ。


 目立っている。


 だが、完全に不自然ではない。


 同じ組の生徒が一緒に登校しているようには見える。


 少なくとも、護衛隊列には見えないはずだ。


 リゼは歩きながら言った。


「この配置は有効です」


「何の話?」


 アルトが聞く。


「集団歩行による自然警戒配置です」


「それ、普通は友達と登校しているって言うのよ」


 ミリアが言う。


 友達。


 その言葉が出た瞬間、アルトが少しだけ目を伏せた。


 カイは気にせず言う。


「そうだな。友達と登校だ」


 リゼは言葉を選んだ。


「分類は検討中です」


 ミリアが横目で見る。


「まだ逃げるのね」


「逃げてはいません。未確定です」


 アルトが小さく笑う。


「リゼさんらしいね」


 カイは不満そうに言った。


「俺はもう友達でいいと思うけどな」


「友達の定義が未整理です」


「一緒に飯食って、危ない時に助けて、朝一緒に歩いてたら友達だろ」


「条件が三つ」


「え、何で記録してんだよ」


 リゼは頭の中で記録していた。


 一緒に食事をする。


 危険時に助ける。


 朝一緒に歩く。


 カイ基準では友達。


 ミリア基準とは異なる可能性。


 アルト基準は不明。


「今度、各自の定義を確認します」


「それをやると、友達って言葉が研究対象になるわ」


 ミリアが呆れる。


「研究対象ではなく、関係性分類です」


「同じよ」


 アルトが笑った。


 その時だった。


 鐘楼の朝鐘が鳴った。


 一つ。


 澄んだ音が、中庭に広がる。


 リゼは反射的にアルトの左手首を見た。


 布の下で、銀色の光がわずかに漏れた。


 ほんの一瞬。


 アルトの表情が強ばる。


 ミリアも気づいた。


 カイは少し遅れて気づき、声を上げかけて口を押さえた。


 学習している。


 リゼは周囲を見る。


 近くの生徒は鐘に気を取られている。手首の光に気づいた者はいない。


「痛みは」


 リゼが小声で聞く。


「ない」


 アルトも小声で答える。


「熱は」


「少しだけ」


「呼び声は」


「ない。ただ……」


「ただ?」


 アルトは鐘楼を見る。


「懐かしい感じがした」


 リゼは記録した。


 朝鐘に微弱反応。


 熱、軽度。


 痛みなし。


 呼び声なし。


 感情反応、懐かしさ。


 鐘の音が銀環痕に反応する可能性。


 ミリアが小声で言った。


「昨日、銀環室でも鐘が三度鳴った時に反応したわよね」


「はい」


「鐘の音そのものか、時刻か、鐘楼の術式か」


「要調査です」


 カイが低い声で言った。


「今は?」


「教室へ移動。目立たないことを優先します」


「わかった」


 アルトは左手首を布の上から押さえた。


 その顔には不安が浮かんでいる。


 けれど、昨日ほど孤独な色ではない。


 四人で立ち止まり、四人で同じものを見たからかもしれない。


 リゼはアルトの隣に戻った。


 半歩後ろではなく、隣。


「歩けますか」


「うん」


「無理は」


「してない。少し怖いけど、歩ける」


 ミリアが小さく頷いた。


「正直でよろしい」


 アルトは苦笑する。


「大丈夫禁止令、思ったより効くね」


「有効な規則です」


 リゼが言うと、カイが笑った。


「じゃあ俺にも作るか。突撃禁止令」


「必要です」


 三人の声が重なった。


 カイが傷ついたような顔をする。


「全員で言うなよ」


 空気が少し軽くなる。


 アルトも笑った。


 その笑顔を見て、リゼは思った。


 銀環痕は反応した。


 危険は消えていない。


 むしろ、第1章の終わりより状況は複雑になっている。


 だが、今朝のアルトは一人ではない。


 それは、護衛上の有利条件か。


 それとも、もっと別のものか。


 まだ判断できない。


 教室に入ると、一年C組の生徒たちが何人か振り返った。


 四人で入ってきたことに気づいたのだろう。


 噂好きの女子生徒がミリアに声をかける。


「ミリアさん、最近その四人で一緒にいること多いね」


 ミリアは一瞬で笑顔を作った。


「同じ授業が多いから、自然とね」


「楽しそう」


「ええ」


 ミリアは少しだけリゼを見る。


「少し騒がしいけれど」


「誰のことだ?」


 カイが聞く。


 ミリアは微笑んだ。


「心当たりがあるのね」


 教室に小さな笑いが起きる。


 リゼはそれを観察した。


 ミリアは場を自然に整えた。


 四人でいる理由を、怪しまれない形に変換した。


 有用。


 いや。


 それだけではない。


 彼女は、四人でいることを隠さなかった。


 自然なこととして扱った。


 アルトは自分の席へ向かいながら、少し嬉しそうにしていた。


 リゼはその背中を見た。


 護衛対象。


 鍵。


 アルト・レインフォード。


 少年。


 その分類が、頭の中で少しずつ増えていく。


 午前の授業は基礎魔術理論だった。


 教師は簡単な術式構造の読み方を説明し、生徒たちは練習用の魔術陣を紙に書き写す。リゼは術式が得意ではないため、形を正確に模写することに集中した。


 隣のミリアは当然のように綺麗な陣を描く。


 アルトは少し離れた席で、教師の説明を聞きながら、紙の端に別の構造を書き込んでいる。


 術式感応。


 彼の才能。


 それは銀環と関わるかもしれない。


 カイは、魔術陣の円が歪んで教師に注意されていた。


「ロックハート君、これは剣の軌道ではありません。円です」


「はい!」


「声を抑えなさい」


「はい……」


 教室に笑いが起きる。


 リゼはその笑いを聞きながら、アルトの左手首を見る。


 授業中、銀環痕の反応はなし。


 鐘の音以外では安定。


 ただし、教師が古代術式という言葉を出した時、アルトの指が一瞬止まった。


 心理反応。


 不安。


 要観察。


 昼休み。


 四人は図書館塔へ向かった。


 当初の予定では、銀環痕の観察記録を簡単にまとめるつもりだった。だが、朝鐘への反応が出たため、記録の重要度が上がった。


 図書館塔一階の隅。


 人目はあるが、会話は聞かれにくい席。


 リゼが選んだ。


 ミリアは「だいぶ自然な席選びになってきたわ」と評価したが、リゼはまだ改善点があると考えていた。


 アルトは左手首の布を少しだけ外した。


 銀環痕は朝より薄い。


 熱もない。


 文字の形は昨日と変わっていない。


 リゼは紙に記録する。


 日付。


 時刻。


 反応条件。


 朝鐘一回。


 銀光微弱。


 熱、軽度。


 痛みなし。


 呼び声なし。


 感情、懐かしさ。


 アルトがそれを覗き込んだ。


「リゼさん、記録が医務室より細かい」


「不足がありますか」


「いや、細かすぎるくらい」


「なら継続します」


「でも」


 アルトは少しだけ言いづらそうにした。


 リゼはペンを止める。


「嫌ですか」


 アルトが目を瞬いた。


 ミリアもリゼを見る。


「嫌なら方法を変えます」


 リゼは言った。


「あなたの体に関わる記録です。あなたの許可が必要です」


 アルトは少し驚いた顔で、リゼを見つめた。


 そして、ゆっくり笑った。


「嫌じゃない。ただ、自分が観察対象みたいで少し落ち着かなかった」


「では、記録形式を変更します」


「変更?」


「本人記入欄を作ります」


 リゼは紙の右側に線を引いた。


「反応時の主観、夢の内容、嫌だったこと、やめてほしいことを書いてください」


 アルトはその欄を見た。


 目が少し柔らかくなる。


「僕が書いていいんだ」


「はい」


「そっか」


 ミリアが微笑んだ。


「そう。それが会話よ、リゼさん」


「記録です」


「会話も含む記録」


「了解しました」


 カイが身を乗り出す。


「俺も書く!」


 リゼは別の紙を出した。


「外部観察欄です」


「おう!」


「ただし、文字は読めるように書いてください」


「読めるって」


 カイは胸を張った。


「俺の字は勢いがあるだけだ」


「読みにくいです」


「言い切ったな」


 ミリアが紙を見て苦笑する。


「カイさんの欄は、短くていいわ。例えば、“朝の鐘で光った”“アルトさんが顔をしかめた”など」


「なるほど」


 カイは真剣に書き始めた。


 朝、鐘、光った。


 字は大きい。


 紙からはみ出しそうだった。


 リゼはそれを見て、記録用紙の大きさを今後調整する必要を感じた。


 アルトは自分の欄に、少しずつ文字を書いた。


 朝の鐘で、手首が温かくなった。


 痛くはなかった。


 怖かったけど、前より一人ではない感じがした。


 懐かしい、というより、どこかへ帰れと言われた気がした。


 でも、帰る場所を知らない。


 リゼはその最後の一文を見た。


 帰る場所を知らない。


 アルトの文字は丁寧だった。


 だが、最後だけ少し筆圧が弱い。


 ミリアも気づいた。


 カイは気づいていないようだったが、アルトの皿に昨日買った焼き菓子の残りを置いた。


「食うか?」


「え?」


「頭使ったら腹減るだろ」


 アルトは少し戸惑い、それから笑った。


「ありがとう」


 焼き菓子を受け取る。


 それだけの行動だった。


 しかし、アルトの顔は少しだけ和らいだ。


 リゼは記録したくなった。


 甘味摂取により精神状態改善。


 だが、ミリアに止められそうだったので、書かなかった。


 昼休みが終わる少し前、図書館塔の鐘が小さく鳴った。


 通常の時報ではない。


 内部の閲覧時間を知らせる控えめな鐘。


 アルトの左手首が、またごくわずかに光った。


 今度は四人全員が気づいた。


 光は一瞬。


 朝より弱い。


 アルトは息を止めたが、すぐに自分の欄へ書いた。


 図書館の鐘にも少し反応。


 朝より弱い。


 痛くない。


 今度は怖さも少し少ない。


 リゼはそれを見た。


 本人が記録している。


 観察対象ではなく、当事者として。


 それは有効だった。


「鐘の音が条件の一つである可能性が高まりました」


 リゼが言う。


 ミリアが頷く。


「でも、鐘なら何でもいいわけではなさそうね。図書館の鐘は弱い。旧校舎の鐘、学園の朝鐘、銀環室の鐘。音そのものより、古い術式に結びついた鐘かもしれない」


「鐘楼の構造調査が必要です」


「すぐに行かない」


「はい」


 リゼは即答した。


 ミリアが少し驚く。


「今、素直だったわね」


「午後の授業があります」


「理由はそれなの?」


「また、アルトさんの疲労が見られます」


 アルトが少し驚いた。


「僕?」


「はい。顔色が悪いです」


「そうかな」


 ミリアがじっと見る。


「少し悪いわね」


 カイも見る。


「悪いな」


「三人に見られると、悪い気がしてきた」


「気ではなく、悪いです」


 リゼが言うと、アルトは苦笑した。


「じゃあ、午後は無理しない」


「はい」


 その時、図書館塔の入口近くに白い制服の上級生が見えた。


 リゼの意識が鋭くなる。


 ユリウス・エインズワースではない。


 別の生徒。


 女生徒。


 銀に近い淡い金髪を結い上げ、白い制服の袖に生徒会補佐章を付けている。彼女は図書館へ入るでもなく、入口の柱の影からこちらを一瞬見た。


 アルトを。


 そして、リゼを。


 目が合う。


 女生徒はすぐに視線を外し、歩き去った。


 リゼは立ち上がりかけた。


 ミリアが小声で言う。


「追わない」


「監視者です」


「授業前、人目あり。アルトさん疲労。ここで分断しない」


 正しい。


 リゼは座り直した。


 カイが低く言う。


「誰だ、今の」


「不明です」


 ミリアは少し考え込む。


「白い制服……生徒会補佐か王宮推薦枠ね。ユリウス様と同じ系列かもしれない」


「新たな監視者」


 リゼが言う。


 アルトは左手首を布で巻き直した。


「僕を見ていた?」


「はい」


「そっか」


 声は落ち着いていた。


 だが、指先は少し強く布を握っている。


 リゼは言った。


「一人ではありません」


 アルトが顔を上げる。


「現在、あなたの周囲には三名います」


 ミリアが小さく笑った。


「言い方は硬いけれど、そういうことよ」


 カイが頷く。


「四人でいればいい」


 アルトは三人を見た。


 そして、ゆっくり頷いた。


「うん」


 午後の授業は、予定通り行われた。


 何も起きなかった。


 黒外套も現れない。


 セレスティアも姿を見せない。


 白い制服の女生徒も、それ以降は見かけなかった。


 それでも、リゼは警戒を解かなかった。


 放課後、四人は第一校舎の昇降口で自然に集まった。


 以前なら、それぞれ別々に動いていたかもしれない。


 だが、今は誰も「なぜ集まるのか」と聞かなかった。


 カイが言う。


「今日はどうする?」


 ミリアが答える。


「アルトさんは休む」


「え、僕も?」


 アルトが言う。


 リゼは頷いた。


「疲労があります」


「少しだけだよ」


「大丈夫禁止令」


 ミリアが言う。


 アルトは口を閉じた。


「……疲れています」


「よろしい」


 カイが笑う。


「じゃあ、男子寮まで送るか」


「送るって、僕は一人で」


 三人の視線がアルトに集まる。


 アルトは小さく笑って手を上げた。


「わかった。送られます」


「護衛ではなく同行です」


 リゼが言うと、アルトが楽しそうに目を細めた。


「そこ、気にするんだ」


「はい」


「じゃあ、同行お願いします」


「了解しました」


 女子寮とは途中で道が分かれる。


 そこまで四人で歩くことになった。


 夕方の学園は、朝よりも柔らかい色をしている。


 西日が校舎の窓を赤く染め、木々の影が長く伸びている。生徒たちは部活や自習や寮へ向かい、あちこちから笑い声や足音が聞こえた。


 リゼはアルトの隣を歩いた。


 今朝より自然に。


 背後を取りたくなる衝動はある。


 だが、隣を維持する。


 ミリアはそれに気づいたのか、何も言わずに微笑んだ。


 男子寮と女子寮の分岐点で、アルトは立ち止まった。


「今日は、ありがとう」


「観察記録は継続します」


 リゼが言うと、アルトは笑った。


「それも含めて」


「どういたしまして」


 ミリアが言う。


「明日、また確認しましょう。無理はしないこと」


「うん」


 カイが拳を出した。


「何かあったら呼べよ」


「どうやって?」


「大声で」


「カイの方が来る前に先生が来そうだね」


「それも作戦だ」


「そうかな」


 アルトは笑い、少しだけ迷った後、カイの拳に軽く拳を合わせた。


 カイが満足そうに笑う。


 そしてアルトはリゼを見た。


「リゼさん」


「はい」


「今朝、一緒に歩いてくれてありがとう」


 リゼは少しだけ沈黙した。


「護衛です」


 言いかけて、止める。


 ミリアがこちらを見ている。


 カイも。


 アルトは待っている。


 リゼは言い直した。


「同行です」


 アルトの顔が少し明るくなった。


「うん。同行」


 彼は男子寮の方へ歩いていった。


 カイがその後を追う。


 途中で振り返り、大きく手を振った。


 声は出さなかった。


 学習している。


 リゼとミリアは女子寮へ向かって歩き出した。


 ミリアが横で言う。


「今日は、少し上手だったわ」


「何がですか」


「護衛距離」


「まだ視界に問題があります」


「でも、アルトさんは歩きやすそうだった」


「はい」


「それは重要よ」


「理解しました」


 ミリアは満足そうに頷いた。


 女子寮に戻る前、鐘楼の夕鐘が鳴った。


 遠く、低く、朝とは違う音。


 リゼは反射的に男子寮方面を見る。


 距離がある。


 アルトの手首が反応したかは見えない。


 だが、胸の奥に小さな不安が走った。


 ミリアも同じ方向を見ていた。


「明日、確認しましょう」


「はい」


 夕暮れの空に、鐘の音が溶けていく。


 その音は美しい。


 だが、今のリゼには、銀環室の扉が軋む音にも似て聞こえた。


 女子寮の部屋へ戻ると、リゼは机に座り、今日の記録をまとめた。


 朝鐘反応。


 図書館鐘反応。


 アルト本人記入欄。


 懐かしさ。


 帰る場所を知らない。


 白い制服の女生徒。


 護衛距離調整。


 同行という表現。


 その横で、ミリアは見張り表を更新している。


 項目が増えた。


 鐘の音への反応確認。


 アルトの疲労確認。


 白い制服の上級生情報。


 リゼはそれを見た。


「ミリアさん」


「何?」


「今日の同行は、有効でした」


 ミリアが顔を上げる。


「そうでしょう?」


「アルトさんの歩行時緊張が軽減。銀環反応後も落ち着きが比較的早い。カイさんの存在により周囲の視線が分散。あなたの調整で会話が自然化」


「分析は硬いけれど、褒めていると受け取るわ」


「はい」


「では、明日も四人で歩きましょう」


「はい」


 リゼは記録の最後に、少しだけ迷ってから一文を書き足した。


 集団登校は護衛上、有効。


 その後、さらに小さく書いた。


 アルトさんは少し笑った。


 なぜそれを書いたのか、自分でもわからなかった。


 だが、消さなかった。


 夜。


 見張りの前半はミリア。


 リゼはベッドに横になった。


 窓の外では、鐘楼が暗い空を切り取っている。


 あの鐘が鳴るたび、アルトの手首が反応するのかもしれない。


 彼は夢の中で、知らない名前を呼ばれている。


 帰る場所を知らない。


 その不安を、敵は利用する。


 孤独な鍵ほど、よく響く。


 閉架資料室の手紙の一文が蘇る。


 ならば、孤独にしないことは対策になる。


 ミリアの言葉。


 カイの単純な結論。


 アルトの小さな願い。


 そして、自分が今日選んだ“隣”という位置。


 護衛は背後から守るだけではない。


 隣を歩くことも、守ることになる。


 まだ完全には理解していない。


 だが、今日のアルトは、昨日より少しだけ一人ではなかった。


 リゼは目を閉じる。


 眠りに落ちる直前、朝の道を思い出した。


 四人で歩いた中庭。


 鐘の音。


 銀色の光。


 それでも笑ったアルト。


 護衛対象の朝。


 それは、任務の朝であり、同級生の朝でもあった。


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