第2章 第1話:護衛対象の朝
朝の鐘が鳴る前に、リゼは目を覚ましていた。
窓の外はまだ薄青い。夜が完全には退いておらず、中庭の草葉には白い露が残っている。女子第一寮の廊下は静まり返り、遠くの階段から時折、木材の軋む音だけが聞こえた。
異常なし。
リゼはベッドの上で目を開けたまま、いつもの順に確認する。
窓。
施錠、維持。
カーテンの揺れ、風によるもの。
扉。
施錠、維持。
床。
差し込まれた紙、なし。
机。
引き出し、閉。
脅迫文、隠匿位置に変化なし。
ミリア。
呼吸、安定。
見張り交代後、睡眠中。
異常なし。
リゼはゆっくりと体を起こした。
体に疲労は残っている。
旧校舎の地下での戦闘、銀環室の扉、黒外套との接触、閉架資料室での調査、セレスティア・ノクスとの対話。数日間に詰め込まれた情報量は、戦場での連続任務に近い。
だが、戦場と違うものがあった。
机の上には見張り表と一緒に、基礎教養の課題が置かれている。
その隣にはミリアが淹れた茶葉の包み。
さらに、その横には制服の替えリボン。
戦闘記録と宿題と茶葉とリボンが、同じ机の上にある。
まだ慣れない。
けれど、昨日よりは少しだけ不自然ではない気がした。
リゼはベッドから下り、音を立てないように身支度を始めた。制服の上着を取り、袖を通す。襟を整え、髪を軽く梳く。
そして、リボンを手に取った。
昨日は八割。
ミリアの評価では、そうだった。
今日は九割を目指す。
それが任務とどう関係するのかは不明だったが、目標としては明確だった。
右を通す。
左を重ねる。
輪を作る。
締める。
形を整える。
鏡を見る。
右が長い。
修正。
締め直す。
結び目が硬い。
修正。
布が歪む。
再修正。
五回目で、リゼは手を止めた。
昨日よりは良い。
おそらく八割五分。
九割には届かない。
「……朝から戦っているわね」
背後から声がした。
ミリアがベッドの上で半身を起こしていた。金色の髪が少し乱れ、眠そうに目を細めている。それでも、リゼの首元を見る視線は正確だった。
「おはようございます」
「おはよう。リボンは敵ではないと、昨日言ったはずだけれど」
「敵ではありません。しかし制御が難しいです」
「制御という言い方をするから難しくなるのよ」
ミリアはベッドから下りると、まだ眠気の残る動きでリゼの前に立った。
そして、首元のリボンを見た。
「昨日より上手になっているわ」
「九割には届きませんでした」
「誰が点数制にしたの?」
「自己評価です」
「そう」
ミリアは小さく笑った。
「では、今日は八割五分ね」
「同意します」
「残り一割五分、直すわ」
「お願いします」
リゼはじっと立った。
ミリアの指がリボンに触れる。
結び目を少し緩め、布の角度を整え、左右の長さを揃える。
もう反射的に手首を掴むことはない。
首元へ近づく手に対して、体が完全に警戒を解いているわけではない。だが、ミリアの手だと認識してからの反応は遅くなっている。
遅くなっている、というより。
必要がないと学んでいる。
「できたわ」
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
ミリアは自分の髪を整えながら、ふと表情を引き締めた。
「今日は、アルトさんの様子を確認するのでしょう?」
「はい」
「左手首の痕、夢、精神状態、登校時の危険確認」
「はい」
「そして、近づきすぎない」
リゼは一瞬止まった。
「護衛距離は対象の安全に直結します」
「ええ。でも、距離が近すぎると、対象の精神的負荷が増えるわ」
「精神的負荷」
「見張られている、監視されている、逃げられない。そう感じるかもしれないでしょう?」
「護衛です」
「相手がそう感じなければ、護衛も監視になるの」
リゼは考えた。
アルトはこれまで守られてきた。
だが、同時に管理され、隠され、名前を変えられ、自分のことを説明されないまま生きてきた。
その彼にとって、常に背後に立つ護衛は安心ではなく圧力になる可能性がある。
昨日、アルトは言った。
僕は護衛対象かもしれない。でも、それだけではいたくない。
その言葉を、リゼは記憶している。
「では、適切距離は」
「普通に隣を歩くの」
「隣」
「そう。背後でも、前でもなく、隣」
「死角が増えます」
「会話が増えるわ」
ミリアの声は穏やかだった。
「リゼさん、今日は任務としてではなく、同級生としてアルトさんと登校してみましょう」
「任務は継続しています」
「それはわかっているわ。でも、同級生として歩くことも、きっと護衛になる」
リゼは完全には納得できなかった。
しかし、ミリアの指摘には合理性がある。
アルトの孤独や恐怖が銀環痕に影響する可能性がある以上、心理的安定は護衛上重要。ならば、普通の同級生として隣を歩くことは、危険を下げる行動になるかもしれない。
「試行します」
「言い方は硬いけれど、よろしい」
ミリアは微笑んだ。
朝食の食堂は、昨日までより少しだけ落ち着いていた。
中央食堂の事故、講堂の封鎖、旧校舎周辺の警備強化。生徒たちの不安は消えていない。それでも、日常は戻ろうとする。パンの匂い、食器の音、寝坊したらしい生徒の慌ただしい足音。誰かが笑い、誰かが小声で噂をし、誰かが課題の提出を忘れたと青ざめている。
リゼは席につき、食事を確認した。
パン。
卵。
野菜スープ。
果実。
毒性反応、視認不可。
匂い、異常なし。
盛り付け、通常。
ミリアが向かいに座り、何も言わずにリゼの皿へ茹で野菜を少し足した。
リゼはその手元を見る。
「今日は初期配分に野菜があります」
「少し足りないわ」
「基準は」
「私の基準」
「了解しました」
リゼは野菜を食べた。
食堂の入口に、寮母が立っている。
リゼと目が合った。
寮母は昨日と同じ厳しい顔だったが、ほんのわずかに頷いた。
旧校舎に行ったこと。
木札を使ったこと。
閉架資料室の鍵を借りたこと。
すべて、表向きは何もなかったことになっている。
だが、寮母は知っている。
そして、まだ見ていないふりをしている。
その意味を、リゼは考えた。
完全な味方ではない。
しかし、敵ではない。
限定的協力者。
セレスティアと同じように分類できるが、感情の温度は違う。
寮母は生徒を守ろうとしている。
少なくとも、その一点は信頼できる。
食後、リゼとミリアは女子寮を出た。
空はよく晴れている。朝の光が白い校舎の壁を照らし、中庭の噴水が細かな水音を立てていた。講堂はまだ封鎖されており、遠くからでも結界札が見える。中央食堂の屋根には修理用の足場が組まれていた。
学園は傷ついている。
だが、動いている。
リゼは男子寮方面の道を見た。
アルトが来るはずの経路。
通常なら、男子第一寮から第一校舎へ向かう最短経路を通る。途中に中庭の広場、鐘楼横の石畳、図書館塔の前を通過する。死角は三箇所。木立の影、鐘楼裏、図書館塔脇の柱廊。
リゼは自然にそこへ向かおうとした。
ミリアが袖を掴む。
「待ち伏せしない」
「合流地点の確保です」
「待ち伏せに見えるわ」
「では、どうすれば」
「偶然会ったように歩く」
「偶然は制御できません」
「演出するの」
「偽装ですか」
「日常です」
ミリアは涼しい顔で歩き出した。
リゼは一拍遅れて隣に並ぶ。
「日常は難しいです」
「知っているわ。だから練習しましょう」
女子寮から第一校舎へ向かう道の途中で、アルトの姿が見えた。
栗色の髪。
細い体。
右肩の動きはまだ少し硬い。
左手首には布。
今日は一人だった。
リゼの足が自然に速くなる。
ミリアが小声で言った。
「急がない」
「単独行動中です」
「普通に声をかける」
「はい」
リゼは歩幅を調整した。
アルトは途中でこちらに気づいた。
少し驚いたように目を開き、それから柔らかく笑った。
「おはよう、リゼさん、ミリアさん」
「おはようございます」
ミリアが自然に返す。
リゼも言った。
「おはようございます。手首は」
ミリアが小さく咳払いする。
リゼは訂正した。
「……体調は」
アルトはその一瞬の修正に気づいたらしい。
少し笑う。
「手首は広がっていない。右肩は少し痛む。夢は見たけど、昨日より遠かった。体調は、少し眠いくらい」
「詳細な報告、ありがとうございます」
「たぶん、リゼさんが聞きたいことを先に言った方が早いと思って」
「助かります」
ミリアが苦笑した。
「アルトさんまで慣れてきたわね」
「うん。慣れていいのかはわからないけど」
アルトの声は明るかったが、その奥にはまだ不安がある。
当然だ。
左手首に銀環の痕が残り、夢の中で何かに呼ばれ、学園内外の複数勢力が自分を“鍵”として見ている。十五歳の少年が平然としていられる状況ではない。
だからこそ、リゼは距離を測った。
近すぎず。
遠すぎず。
隣。
ミリアに言われた通り、アルトの斜め後ろではなく、横に並ぶ。
ただし、敵襲時に動けるよう、半歩だけ後ろへ。
アルトがちらりとこちらを見る。
「リゼさん」
「はい」
「僕は逃げないから、そんなに背後を取らなくても大丈夫だよ」
リゼは動きを止めた。
半歩後ろ。
やはり気づかれていた。
「背後を取っているのではありません。死角を管理しています」
「それ、言い方が違うだけじゃないかな」
ミリアがすかさず言った。
「それを普通は“圧”と言うのよ」
「圧」
リゼは言葉を繰り返す。
「護衛圧ですか」
「新しい言葉を作らないで」
アルトが笑った。
朝の光の中で、その笑い声は昨日より軽い。
リゼは半歩前へ出て、今度こそ横に並んだ。
「これで適切ですか」
アルトは少し考えた。
「うん。歩きやすい」
「視界は一部悪化します」
「会話はしやすい」
ミリアが満足そうに頷いた。
「よろしい」
リゼは前方を見た。
中庭の道。
右に鐘楼。
左に図書館塔。
人通りは増えている。
危険要因は多い。
だが、アルトは隣にいる。
声が届く距離。
手を伸ばせば届く距離。
背後から完全に守るより、横から一緒に歩く方が不安定に感じる。
しかし、アルトの歩幅は少し自然になった。
それが意味するものを、リゼは考えた。
「おーい!」
背後から大きな声が響いた。
カイだった。
ミリアが小さく肩を落とす。
「朝から声が大きいわ」
カイは走ってきて、三人の横に並んだ。
訓練でもないのに走っているため、少し息が弾んでいる。
「おはよう!」
「声が大きいです」
リゼが即座に言う。
「練習中だ!」
「成果が見られません」
「朝は難しいんだよ」
「理由になっていません」
アルトがくすくす笑う。
カイは彼の左手首を見ると、少しだけ声を落とした。
「手、どうだ」
「広がってないよ」
「そうか。夢は?」
「見たけど、少し遠かった」
「遠い夢って何だ?」
「説明が難しい」
「そうか」
カイはそれ以上聞かなかった。
以前の彼なら、もっと突っ込んだかもしれない。だが、今は少しだけ待つことを覚えているらしい。
リゼはそれを観察した。
カイ・ロックハート。
声が大きい。
行動が直線的。
挑発に乗りやすい。
だが、指示を覚える能力あり。
友人への配慮を学習中。
戦闘能力、有用。
カイは胸を張った。
「じゃあ今日から俺も護衛だな」
「不要です」
リゼは即答した。
「なんでだよ!」
「声が大きく、目立ちます」
「護衛は目立った方が牽制になるだろ」
「状況によります。現在は隠密性が必要です」
「でも四人で歩いてた方が安全だろ」
それは、少し意外な発言だった。
リゼはカイを見た。
カイは真剣な顔をしている。
「アルトが一人で歩くより、俺たちといた方が狙いにくい。だろ?」
「……はい」
「じゃあ、俺もいる」
カイは当然のように言った。
リゼは少し黙った。
彼の言い分は正しい。
集団行動は敵の接近を難しくする。特にカイのように目立つ者がいれば、周囲の視線も集まる。それは不利でもあるが、隠密に攻撃したい敵にとっては障害になる。
ただし、カイ自身が大声で機密を漏らす危険もある。
「条件付きで許可します」
「おう」
「護衛という言葉を大声で使わない」
「わかった」
「銀環、鍵、旧校舎、灰銀、黒外套の単語を人前で言わない」
「わかった」
「異常を見ても即座に走らない」
「……わかった」
「今の間は何ですか」
「努力じゃなくて、わかったって言っただろ」
「はい」
ミリアが微笑む。
「少しずつね」
四人は並んで歩き出した。
リゼ、アルト、ミリア、カイ。
位置は自然に見える。
リゼはアルトの左側に立った。銀環痕のある手首が近い。何か反応があればすぐに見える。
ミリアはアルトの右側、少し後ろ。
カイは外側。
声が大きいので、周囲の注意を引く役割としては有効。
周囲の生徒たちは、時々四人を見る。
貴族令嬢ミリア。
負傷者として噂になったアルト。
剣術科で目立つカイ。
そして、灰銀の髪のリゼ。
目立っている。
だが、完全に不自然ではない。
同じ組の生徒が一緒に登校しているようには見える。
少なくとも、護衛隊列には見えないはずだ。
リゼは歩きながら言った。
「この配置は有効です」
「何の話?」
アルトが聞く。
「集団歩行による自然警戒配置です」
「それ、普通は友達と登校しているって言うのよ」
ミリアが言う。
友達。
その言葉が出た瞬間、アルトが少しだけ目を伏せた。
カイは気にせず言う。
「そうだな。友達と登校だ」
リゼは言葉を選んだ。
「分類は検討中です」
ミリアが横目で見る。
「まだ逃げるのね」
「逃げてはいません。未確定です」
アルトが小さく笑う。
「リゼさんらしいね」
カイは不満そうに言った。
「俺はもう友達でいいと思うけどな」
「友達の定義が未整理です」
「一緒に飯食って、危ない時に助けて、朝一緒に歩いてたら友達だろ」
「条件が三つ」
「え、何で記録してんだよ」
リゼは頭の中で記録していた。
一緒に食事をする。
危険時に助ける。
朝一緒に歩く。
カイ基準では友達。
ミリア基準とは異なる可能性。
アルト基準は不明。
「今度、各自の定義を確認します」
「それをやると、友達って言葉が研究対象になるわ」
ミリアが呆れる。
「研究対象ではなく、関係性分類です」
「同じよ」
アルトが笑った。
その時だった。
鐘楼の朝鐘が鳴った。
一つ。
澄んだ音が、中庭に広がる。
リゼは反射的にアルトの左手首を見た。
布の下で、銀色の光がわずかに漏れた。
ほんの一瞬。
アルトの表情が強ばる。
ミリアも気づいた。
カイは少し遅れて気づき、声を上げかけて口を押さえた。
学習している。
リゼは周囲を見る。
近くの生徒は鐘に気を取られている。手首の光に気づいた者はいない。
「痛みは」
リゼが小声で聞く。
「ない」
アルトも小声で答える。
「熱は」
「少しだけ」
「呼び声は」
「ない。ただ……」
「ただ?」
アルトは鐘楼を見る。
「懐かしい感じがした」
リゼは記録した。
朝鐘に微弱反応。
熱、軽度。
痛みなし。
呼び声なし。
感情反応、懐かしさ。
鐘の音が銀環痕に反応する可能性。
ミリアが小声で言った。
「昨日、銀環室でも鐘が三度鳴った時に反応したわよね」
「はい」
「鐘の音そのものか、時刻か、鐘楼の術式か」
「要調査です」
カイが低い声で言った。
「今は?」
「教室へ移動。目立たないことを優先します」
「わかった」
アルトは左手首を布の上から押さえた。
その顔には不安が浮かんでいる。
けれど、昨日ほど孤独な色ではない。
四人で立ち止まり、四人で同じものを見たからかもしれない。
リゼはアルトの隣に戻った。
半歩後ろではなく、隣。
「歩けますか」
「うん」
「無理は」
「してない。少し怖いけど、歩ける」
ミリアが小さく頷いた。
「正直でよろしい」
アルトは苦笑する。
「大丈夫禁止令、思ったより効くね」
「有効な規則です」
リゼが言うと、カイが笑った。
「じゃあ俺にも作るか。突撃禁止令」
「必要です」
三人の声が重なった。
カイが傷ついたような顔をする。
「全員で言うなよ」
空気が少し軽くなる。
アルトも笑った。
その笑顔を見て、リゼは思った。
銀環痕は反応した。
危険は消えていない。
むしろ、第1章の終わりより状況は複雑になっている。
だが、今朝のアルトは一人ではない。
それは、護衛上の有利条件か。
それとも、もっと別のものか。
まだ判断できない。
教室に入ると、一年C組の生徒たちが何人か振り返った。
四人で入ってきたことに気づいたのだろう。
噂好きの女子生徒がミリアに声をかける。
「ミリアさん、最近その四人で一緒にいること多いね」
ミリアは一瞬で笑顔を作った。
「同じ授業が多いから、自然とね」
「楽しそう」
「ええ」
ミリアは少しだけリゼを見る。
「少し騒がしいけれど」
「誰のことだ?」
カイが聞く。
ミリアは微笑んだ。
「心当たりがあるのね」
教室に小さな笑いが起きる。
リゼはそれを観察した。
ミリアは場を自然に整えた。
四人でいる理由を、怪しまれない形に変換した。
有用。
いや。
それだけではない。
彼女は、四人でいることを隠さなかった。
自然なこととして扱った。
アルトは自分の席へ向かいながら、少し嬉しそうにしていた。
リゼはその背中を見た。
護衛対象。
鍵。
アルト・レインフォード。
少年。
その分類が、頭の中で少しずつ増えていく。
午前の授業は基礎魔術理論だった。
教師は簡単な術式構造の読み方を説明し、生徒たちは練習用の魔術陣を紙に書き写す。リゼは術式が得意ではないため、形を正確に模写することに集中した。
隣のミリアは当然のように綺麗な陣を描く。
アルトは少し離れた席で、教師の説明を聞きながら、紙の端に別の構造を書き込んでいる。
術式感応。
彼の才能。
それは銀環と関わるかもしれない。
カイは、魔術陣の円が歪んで教師に注意されていた。
「ロックハート君、これは剣の軌道ではありません。円です」
「はい!」
「声を抑えなさい」
「はい……」
教室に笑いが起きる。
リゼはその笑いを聞きながら、アルトの左手首を見る。
授業中、銀環痕の反応はなし。
鐘の音以外では安定。
ただし、教師が古代術式という言葉を出した時、アルトの指が一瞬止まった。
心理反応。
不安。
要観察。
昼休み。
四人は図書館塔へ向かった。
当初の予定では、銀環痕の観察記録を簡単にまとめるつもりだった。だが、朝鐘への反応が出たため、記録の重要度が上がった。
図書館塔一階の隅。
人目はあるが、会話は聞かれにくい席。
リゼが選んだ。
ミリアは「だいぶ自然な席選びになってきたわ」と評価したが、リゼはまだ改善点があると考えていた。
アルトは左手首の布を少しだけ外した。
銀環痕は朝より薄い。
熱もない。
文字の形は昨日と変わっていない。
リゼは紙に記録する。
日付。
時刻。
反応条件。
朝鐘一回。
銀光微弱。
熱、軽度。
痛みなし。
呼び声なし。
感情、懐かしさ。
アルトがそれを覗き込んだ。
「リゼさん、記録が医務室より細かい」
「不足がありますか」
「いや、細かすぎるくらい」
「なら継続します」
「でも」
アルトは少しだけ言いづらそうにした。
リゼはペンを止める。
「嫌ですか」
アルトが目を瞬いた。
ミリアもリゼを見る。
「嫌なら方法を変えます」
リゼは言った。
「あなたの体に関わる記録です。あなたの許可が必要です」
アルトは少し驚いた顔で、リゼを見つめた。
そして、ゆっくり笑った。
「嫌じゃない。ただ、自分が観察対象みたいで少し落ち着かなかった」
「では、記録形式を変更します」
「変更?」
「本人記入欄を作ります」
リゼは紙の右側に線を引いた。
「反応時の主観、夢の内容、嫌だったこと、やめてほしいことを書いてください」
アルトはその欄を見た。
目が少し柔らかくなる。
「僕が書いていいんだ」
「はい」
「そっか」
ミリアが微笑んだ。
「そう。それが会話よ、リゼさん」
「記録です」
「会話も含む記録」
「了解しました」
カイが身を乗り出す。
「俺も書く!」
リゼは別の紙を出した。
「外部観察欄です」
「おう!」
「ただし、文字は読めるように書いてください」
「読めるって」
カイは胸を張った。
「俺の字は勢いがあるだけだ」
「読みにくいです」
「言い切ったな」
ミリアが紙を見て苦笑する。
「カイさんの欄は、短くていいわ。例えば、“朝の鐘で光った”“アルトさんが顔をしかめた”など」
「なるほど」
カイは真剣に書き始めた。
朝、鐘、光った。
字は大きい。
紙からはみ出しそうだった。
リゼはそれを見て、記録用紙の大きさを今後調整する必要を感じた。
アルトは自分の欄に、少しずつ文字を書いた。
朝の鐘で、手首が温かくなった。
痛くはなかった。
怖かったけど、前より一人ではない感じがした。
懐かしい、というより、どこかへ帰れと言われた気がした。
でも、帰る場所を知らない。
リゼはその最後の一文を見た。
帰る場所を知らない。
アルトの文字は丁寧だった。
だが、最後だけ少し筆圧が弱い。
ミリアも気づいた。
カイは気づいていないようだったが、アルトの皿に昨日買った焼き菓子の残りを置いた。
「食うか?」
「え?」
「頭使ったら腹減るだろ」
アルトは少し戸惑い、それから笑った。
「ありがとう」
焼き菓子を受け取る。
それだけの行動だった。
しかし、アルトの顔は少しだけ和らいだ。
リゼは記録したくなった。
甘味摂取により精神状態改善。
だが、ミリアに止められそうだったので、書かなかった。
昼休みが終わる少し前、図書館塔の鐘が小さく鳴った。
通常の時報ではない。
内部の閲覧時間を知らせる控えめな鐘。
アルトの左手首が、またごくわずかに光った。
今度は四人全員が気づいた。
光は一瞬。
朝より弱い。
アルトは息を止めたが、すぐに自分の欄へ書いた。
図書館の鐘にも少し反応。
朝より弱い。
痛くない。
今度は怖さも少し少ない。
リゼはそれを見た。
本人が記録している。
観察対象ではなく、当事者として。
それは有効だった。
「鐘の音が条件の一つである可能性が高まりました」
リゼが言う。
ミリアが頷く。
「でも、鐘なら何でもいいわけではなさそうね。図書館の鐘は弱い。旧校舎の鐘、学園の朝鐘、銀環室の鐘。音そのものより、古い術式に結びついた鐘かもしれない」
「鐘楼の構造調査が必要です」
「すぐに行かない」
「はい」
リゼは即答した。
ミリアが少し驚く。
「今、素直だったわね」
「午後の授業があります」
「理由はそれなの?」
「また、アルトさんの疲労が見られます」
アルトが少し驚いた。
「僕?」
「はい。顔色が悪いです」
「そうかな」
ミリアがじっと見る。
「少し悪いわね」
カイも見る。
「悪いな」
「三人に見られると、悪い気がしてきた」
「気ではなく、悪いです」
リゼが言うと、アルトは苦笑した。
「じゃあ、午後は無理しない」
「はい」
その時、図書館塔の入口近くに白い制服の上級生が見えた。
リゼの意識が鋭くなる。
ユリウス・エインズワースではない。
別の生徒。
女生徒。
銀に近い淡い金髪を結い上げ、白い制服の袖に生徒会補佐章を付けている。彼女は図書館へ入るでもなく、入口の柱の影からこちらを一瞬見た。
アルトを。
そして、リゼを。
目が合う。
女生徒はすぐに視線を外し、歩き去った。
リゼは立ち上がりかけた。
ミリアが小声で言う。
「追わない」
「監視者です」
「授業前、人目あり。アルトさん疲労。ここで分断しない」
正しい。
リゼは座り直した。
カイが低く言う。
「誰だ、今の」
「不明です」
ミリアは少し考え込む。
「白い制服……生徒会補佐か王宮推薦枠ね。ユリウス様と同じ系列かもしれない」
「新たな監視者」
リゼが言う。
アルトは左手首を布で巻き直した。
「僕を見ていた?」
「はい」
「そっか」
声は落ち着いていた。
だが、指先は少し強く布を握っている。
リゼは言った。
「一人ではありません」
アルトが顔を上げる。
「現在、あなたの周囲には三名います」
ミリアが小さく笑った。
「言い方は硬いけれど、そういうことよ」
カイが頷く。
「四人でいればいい」
アルトは三人を見た。
そして、ゆっくり頷いた。
「うん」
午後の授業は、予定通り行われた。
何も起きなかった。
黒外套も現れない。
セレスティアも姿を見せない。
白い制服の女生徒も、それ以降は見かけなかった。
それでも、リゼは警戒を解かなかった。
放課後、四人は第一校舎の昇降口で自然に集まった。
以前なら、それぞれ別々に動いていたかもしれない。
だが、今は誰も「なぜ集まるのか」と聞かなかった。
カイが言う。
「今日はどうする?」
ミリアが答える。
「アルトさんは休む」
「え、僕も?」
アルトが言う。
リゼは頷いた。
「疲労があります」
「少しだけだよ」
「大丈夫禁止令」
ミリアが言う。
アルトは口を閉じた。
「……疲れています」
「よろしい」
カイが笑う。
「じゃあ、男子寮まで送るか」
「送るって、僕は一人で」
三人の視線がアルトに集まる。
アルトは小さく笑って手を上げた。
「わかった。送られます」
「護衛ではなく同行です」
リゼが言うと、アルトが楽しそうに目を細めた。
「そこ、気にするんだ」
「はい」
「じゃあ、同行お願いします」
「了解しました」
女子寮とは途中で道が分かれる。
そこまで四人で歩くことになった。
夕方の学園は、朝よりも柔らかい色をしている。
西日が校舎の窓を赤く染め、木々の影が長く伸びている。生徒たちは部活や自習や寮へ向かい、あちこちから笑い声や足音が聞こえた。
リゼはアルトの隣を歩いた。
今朝より自然に。
背後を取りたくなる衝動はある。
だが、隣を維持する。
ミリアはそれに気づいたのか、何も言わずに微笑んだ。
男子寮と女子寮の分岐点で、アルトは立ち止まった。
「今日は、ありがとう」
「観察記録は継続します」
リゼが言うと、アルトは笑った。
「それも含めて」
「どういたしまして」
ミリアが言う。
「明日、また確認しましょう。無理はしないこと」
「うん」
カイが拳を出した。
「何かあったら呼べよ」
「どうやって?」
「大声で」
「カイの方が来る前に先生が来そうだね」
「それも作戦だ」
「そうかな」
アルトは笑い、少しだけ迷った後、カイの拳に軽く拳を合わせた。
カイが満足そうに笑う。
そしてアルトはリゼを見た。
「リゼさん」
「はい」
「今朝、一緒に歩いてくれてありがとう」
リゼは少しだけ沈黙した。
「護衛です」
言いかけて、止める。
ミリアがこちらを見ている。
カイも。
アルトは待っている。
リゼは言い直した。
「同行です」
アルトの顔が少し明るくなった。
「うん。同行」
彼は男子寮の方へ歩いていった。
カイがその後を追う。
途中で振り返り、大きく手を振った。
声は出さなかった。
学習している。
リゼとミリアは女子寮へ向かって歩き出した。
ミリアが横で言う。
「今日は、少し上手だったわ」
「何がですか」
「護衛距離」
「まだ視界に問題があります」
「でも、アルトさんは歩きやすそうだった」
「はい」
「それは重要よ」
「理解しました」
ミリアは満足そうに頷いた。
女子寮に戻る前、鐘楼の夕鐘が鳴った。
遠く、低く、朝とは違う音。
リゼは反射的に男子寮方面を見る。
距離がある。
アルトの手首が反応したかは見えない。
だが、胸の奥に小さな不安が走った。
ミリアも同じ方向を見ていた。
「明日、確認しましょう」
「はい」
夕暮れの空に、鐘の音が溶けていく。
その音は美しい。
だが、今のリゼには、銀環室の扉が軋む音にも似て聞こえた。
女子寮の部屋へ戻ると、リゼは机に座り、今日の記録をまとめた。
朝鐘反応。
図書館鐘反応。
アルト本人記入欄。
懐かしさ。
帰る場所を知らない。
白い制服の女生徒。
護衛距離調整。
同行という表現。
その横で、ミリアは見張り表を更新している。
項目が増えた。
鐘の音への反応確認。
アルトの疲労確認。
白い制服の上級生情報。
リゼはそれを見た。
「ミリアさん」
「何?」
「今日の同行は、有効でした」
ミリアが顔を上げる。
「そうでしょう?」
「アルトさんの歩行時緊張が軽減。銀環反応後も落ち着きが比較的早い。カイさんの存在により周囲の視線が分散。あなたの調整で会話が自然化」
「分析は硬いけれど、褒めていると受け取るわ」
「はい」
「では、明日も四人で歩きましょう」
「はい」
リゼは記録の最後に、少しだけ迷ってから一文を書き足した。
集団登校は護衛上、有効。
その後、さらに小さく書いた。
アルトさんは少し笑った。
なぜそれを書いたのか、自分でもわからなかった。
だが、消さなかった。
夜。
見張りの前半はミリア。
リゼはベッドに横になった。
窓の外では、鐘楼が暗い空を切り取っている。
あの鐘が鳴るたび、アルトの手首が反応するのかもしれない。
彼は夢の中で、知らない名前を呼ばれている。
帰る場所を知らない。
その不安を、敵は利用する。
孤独な鍵ほど、よく響く。
閉架資料室の手紙の一文が蘇る。
ならば、孤独にしないことは対策になる。
ミリアの言葉。
カイの単純な結論。
アルトの小さな願い。
そして、自分が今日選んだ“隣”という位置。
護衛は背後から守るだけではない。
隣を歩くことも、守ることになる。
まだ完全には理解していない。
だが、今日のアルトは、昨日より少しだけ一人ではなかった。
リゼは目を閉じる。
眠りに落ちる直前、朝の道を思い出した。
四人で歩いた中庭。
鐘の音。
銀色の光。
それでも笑ったアルト。
護衛対象の朝。
それは、任務の朝であり、同級生の朝でもあった。




