第10章 第8話:文書院の紙
紙は、どこから来たのか。
その問いは、朝の保護資料室で静かに広げられた。
昨日見つかった、本人意思偽造文書。
僕は、自分で確認に行きます。
誰もついてこないでください。
これは僕の本人意思です。
アルト・レインフォード
筆跡はアルトに似ていた。
けれど、本人は書いていない。
状態記録がない。
現在地がない。
怖さがない。
拒否と希望が分けられていない。
何より、アルトなら「誰もついてこないでください」とは書かない。
近くにいてほしい人を書く。
だから、それは本人意思ではない。
偽造された本人意思だった。
王立学園保護資料室の長机には、その文書の高精度写しと、紙繊維の分析記録が並べられていた。
原本は遮蔽箱の中。
開封はされていない。
開けないことを成果として扱った。
だが、外側からでもわかることはある。
紙の繊維。
表面処理。
糊の匂い。
透かしの有無。
端の裁断痕。
クラウス・ヴァイゼルは、分析用の光板を消し、静かに言った。
「王都文書院系統の保管紙に近い」
アルト・レインフォードの左手首が、冷えた。
痛みはない。
熱もない。
声もない。
ただ、銀環の内側から細い氷が流れるように、冷たさが走った。
「痛みなし。熱なし。冷え少し。声なし。“王都文書院系統”で反応しました。現在地、王立学園保護資料室」
隣のリゼ・グレイスが頷いた。
「確認しました」
リゼの声は静かだ。
灰銀の髪には、青いリボン。
今日も腰に剣はない。
だが、彼女の目は昨日よりさらに鋭かった。
本人意思偽造。
リゼより、という名義偽装。
灰銀作戦後処理。
削られた受領印。
そして、王都文書院系統に近い紙。
王都の影が、また学園へ伸びてきている。
ミリア・ファルネーゼはアルトの顔色を見ている。
カイ・ロックハートは保存食袋を膝に置き、じっと机の上の写しを睨んでいる。
エリアナ・ルクス・ヴェルグラントは香草袋を手元に持っていた。
いつものように、置かない。
貸さない。
彼女のものとしてそこにある。
ユリウス・エインズワースは、王都資料の分類表を開いていた。
エレオノーラ・ヴィンスフェルトは記録板を前に、クラウスの言葉を正確に書き取る。
学園長は表情を変えない。
しかし、部屋の空気は明らかに冷えた。
王都文書院。
そこは、記録を扱う場所だ。
王国の公文書。
封印記録。
移送記録。
戦後処理の目録。
白鐘紙工房のように、人の名を消さないための紙ではない。
だが、本来なら、紙を守り、記録を整える場所のはずだった。
その系統の紙に、アルトの偽造された本人意思が載っている。
アルトは指先を握った。
「僕の字が、僕の知らない紙に乗っていました」
声にすると、思ったよりも怖かった。
ミリアが静かに頷く。
「ええ」
「僕の意思ではないものが、僕の字に似た形で、王都の紙に乗っていました」
リゼがすぐに言った。
「本人意思ではありません」
「はい」
「紙の系統と本人意思は別です」
「はい」
「王都系統の紙に書かれていても、あなた本人の意思にはなりません」
アルトは深く息を吸った。
「確認しました」
左手首の冷えが少し下がる。
「冷え低下。声なし」
エリアナが紙の写しを見つめていた。
その瞳には怒りがある。
白鐘礼拝堂跡の焼けた紙片。
封箱へ。
灰銀作戦後処理。
臨時特別預かり班。
王都で消えたかもしれない個人記録。
それらを見てきた彼女にとって、紙はただの道具ではない。
「誰かの記録を奪ったかもしれない場所の紙で、本人意思を偽造するのですか」
その言葉は静かだった。
だが、部屋の中の誰も聞き逃さなかった。
クラウスは慎重に答える。
「王都文書院そのものが関与したとは、まだ断定できません」
「はい」
「ただし、文書院系統の保管紙に近い紙が、偽造文書に使われた可能性は高い」
「はい」
「誰かが文書院系統の紙へアクセスした、または流出紙を使った可能性があります」
エリアナは香草袋を握る。
「可能性として記録してください」
エレオノーラが記録する。
文書院系統保管紙に近い紙。
本人意思偽造文書に使用。
文書院関与は未断定。
流出またはアクセス可能性。
ユリウスが資料を確認しながら言う。
「文書院の紙は、通常は外部へ出ません。出る場合は、移管文書、封印室照会、監察局照会、または王宮内の特別預かり資料に付随する形です」
アルトの左手首がまた冷えた。
「痛みなし。熱なし。冷え少し。声なし。“特別預かり”で反応しました」
リゼが頷く。
「確認しました」
特別預かり。
臨時特別預かり班。
紙倉跡の三点印。
王都仮受領印の削損線。
それらが重なる。
クラウスは表情を曇らせた。
「昨日の偽造文書の紙と、鳴らさぬ谷の処理札に残っていた三点印系統が直接一致するとは、まだ言えない。ただ、王都内の中間処理系統が今も何らかの形で動いている可能性は無視できない」
カイが低く言った。
「まだいるってことですか。その、勝手に預かるやつらが」
ロウ教師が壁際から答える。
「いるかもしれん。名前を変えてな」
カイの拳が握られる。
「勝手に預かるって言葉、嫌いです」
リゼが頷いた。
「同意します。本人意思と所有確認が必要です」
ミリアが静かに言う。
「でも、怒りで全部を一つにしないようにしましょう」
カイは息を吸った。
「はい。王都文書院全部が犯人、と決めません」
エリアナも頷く。
「はい。決めません。でも、王都の紙が使われた可能性は消しません」
学園長が静かに口を開いた。
「王宮へ照会を出します。ただし、こちらから全ての資料を渡す形にはしません」
リゼがすぐに顔を上げる。
「主導権は学園が保持します」
「はい」
「オルド・ハイマン上席監察官からの協力申し出が来る可能性があります」
「高いでしょう」
その名前が出ると、部屋の空気が少し変わった。
オルド・ハイマン。
監察局補助室上席監察官。
灰色封箱の件で、王宮側の資料線にいた人物。
協力という名で、学園主導の確認へ入り込もうとした人物。
直接の犯人ではない。
断定していない。
だが、信頼もできない。
アルトの左手首は、ごくわずかに冷えた。
「痛みなし。熱なし。冷えごく少し。声なし。“オルド・ハイマン”で反応しました」
リゼが言う。
「確認しました。名前への反応は情報です。判決ではありません」
「はい」
学園長は続けた。
「照会文は、ユリウス君とエレオノーラさんが作成。クラウス先生が紙質分析の範囲を監修。グレイスさん、アルト君、エリアナさんの本人情報や現地記録の詳細は、必要最小限に留めます」
ユリウスが頷く。
「承知しました」
エレオノーラが記録する。
リゼは静かに言った。
「協力という名でも、主導権は渡しません」
学園長が頷く。
「その通りです」
アルトはその言葉を記録表に書いた。
協力という名でも、主導権は渡さない。
王都文書院系統紙。
本人意思偽造。
本人意思ではない。
紙に書かれていても、本人意思にはならない。
左手首の冷えは少しずつ薄くなった。
会議の後、クラウスはアルト本人の記録表の写しと偽造文書の写しを再び並べた。
今日は、筆跡ではなく紙の比較だ。
アルト本人の記録表は、学園支給の通常紙。
少し柔らかく、インクを吸いやすい。
偽造文書は、それよりも硬い。
表面が少し滑る。
端が精密に裁断されている。
文書院系統の保管紙は、長期保存に耐えるため、繊維が詰まっている。
アルトは説明を聞きながら、自分の手元の記録表を見た。
ここに書いた文字は、自分のものだ。
痛みなし。
熱なし。
冷えなし。
声なし。
怖い。
孤独ではない。
近くにいてください。
その字は少し乱れることもある。
怖い時は線が震える。
急いでいる時は文字が詰まる。
でも、それは自分の状態と一緒にある。
一方、偽造文書の字は整いすぎていた。
似せているのに、怖さがない。
本人意思の形式を真似ているのに、本人の温度がない。
ミリアが横から言った。
「見続けるのがつらくなったら止めましょう」
「はい。でも、今は見られます」
「冷えは」
「ありません」
「良好ね」
カイが写しを睨みながら言った。
「字って、真似されると気持ち悪いな」
アルトは頷いた。
「はい」
「俺の字なら、すぐバレると思う」
ミリアが小さく笑う。
「どうして?」
「下手だから」
リゼが真面目に言った。
「判別しやすい可能性はあります」
カイが少し複雑な顔をした。
「褒められた?」
「特徴があるという意味です」
「じゃあ、褒められたことにする」
そのやり取りで、アルトは少し笑えた。
偽造文書の前でも笑える。
それは、紙に奪われないための小さな抵抗のようだった。
昼食前、食堂へ向かう本人確認会話が行われた。
リゼが言う。
「アルトさん。昼食へ向かいます。目的は通常食事と、文書院系統紙確認後の日常導線維持です。単独移動はありません。同行者は私、ミリアさん、カイさん、エリアナさん。反応があれば情報として扱い、危険があれば戻ります。参加可能ですか」
アルトは答える。
「参加可能です。現在地は保護資料室。痛みなし、熱なし、冷えなし、声なし。昼食へは一人で行きません。僕の本人意思は、みんなと食べることです」
リゼが頷く。
「本人意思、確認しました」
食堂の席は、昨日と同じ場所だった。
出入口が見える。
連絡板も見える。
閉じすぎない。
カイが包みを取り出す。
ミリアが尋ねる。
「今日の名前は?」
カイは少し考えてから、言った。
「知らない紙に勝手に乗せない用」
アルトの胸が少し詰まった。
それから、ゆっくり頷いた。
「それがいいです」
リゼも頷く。
「非常に適切です」
エリアナが静かに言う。
「はい。今日は、それがよいです」
包みを開く。
小さな焼き菓子と香草パンの欠け。
アルトは成分を読み上げた。
「焼き菓子は小麦、卵、乳、林檎、杏。香草パンは小麦、卵、乳、蜂蜜、香草候補二、香草候補三。蜂蜜減量版。香草はエリアナさん調整です」
エリアナが頷く。
「確認しました」
香草パンを噛む。
苦味。
甘さ。
今日は、紙の匂いが少し鼻の奥に残っている気がした。
だが、パンの香草がそれを上書きする。
カイが言った。
「アルトの字は、アルトの紙に乗せる」
ミリアが優しく訂正する。
「アルトさんの意思で、ね」
「そう。それ」
アルトは頷いた。
「はい。僕の意思で書きます」
エリアナが香草パンを見つめながら言った。
「紙は、意思を残すためのものでもあります。でも、意思を偽るためにも使われます」
リゼが頷く。
「目的確認が必要です」
エリアナは静かに続けた。
「白鐘紙工房の紙は、名を消さないためにあったのかもしれません。王都の紙は、記録を管理するためにあるのでしょう。でも、管理が本人から離れれば、奪うことになります」
アルトはその言葉を書き留めた。
管理が本人から離れれば、奪うことになる。
左手首は反応しなかった。
だが、胸の奥に重く残った。
午後、学園長室に一通の封書が届いた。
王宮からだった。
到着が早すぎる。
学園長が午前に照会文を準備したばかりで、正式に送る前に届いた文書。
つまり、こちらの照会を受けた返答ではない。
封には、監察局補助室の印があった。
差出人は、オルド・ハイマン。
学園長は封書を開ける前に、全員を集めた。
保護資料室ではなく、学園長室。
開封は学園長が行う。
ただし、封と紙の確認を先にする。
クラウスが封の外側を調べた。
「封印は監察局補助室の正式印。現時点で改竄痕は見えません」
エレオノーラが記録する。
アルトは少し離れた位置で見ている。
左手首に触れる。
痛みなし。
熱なし。
冷えごく少し。
声なし。
リゼが隣で確認する。
「継続可能ですか」
「はい」
学園長が封を開けた。
中には、一枚の丁寧な文書が入っていた。
学園長は黙って読み、やがて机へ置いた。
表情は静かだ。
だが、部屋の空気が少し重くなる。
「監察局補助室より、近時の不審文書およびアルト・レインフォード君に関する保護上の懸念について、協力を申し出る文書です」
リゼの声が低くなる。
「協力」
学園長は頷く。
「はい。具体的には、本人意思記録の安全性確認、王都文書院系統紙の流出調査、必要に応じた監察局補助室員の学園派遣」
カイがすぐに言った。
「来るってことですか」
「申し出です」
エリアナの瞳が鋭くなる。
「本人意思を偽造された直後に、本人意思記録の安全性確認を申し出るのですね」
学園長は頷いた。
「ええ」
アルトの左手首が冷える。
「痛みなし。熱なし。冷え少し。声なし。“本人意思記録の安全性確認”で反応しました」
リゼが言った。
「本人意思記録を王宮側へ渡すことに反対します」
学園長は即座に答える。
「渡しません」
リゼの肩がわずかに下がった。
学園長は続ける。
「照会は行います。しかし、本人意思記録の原本、アルト君の日常記録、エリアナさんの香草袋記録、白鐘紙片の保護記録は、学園外へ出しません」
エレオノーラが記録する。
ユリウスが文書を確認する。
「文面は非常に整っています。ただ、こちらがまだ照会していない段階で、王都文書院系統紙の可能性に触れています」
クラウスが眉をひそめた。
「我々の分析は、まだ王宮へ送っていない」
部屋が静かになる。
アルトの左手首がさらに冷えた。
「痛みなし。熱なし。冷え中。声なし。未送信情報に反応しました」
ミリアがすぐに問う。
「現在地は」
「学園長室」
「同席者は」
「リゼさん、ミリアさん、カイさん、エリアナさん、学園長、ユリウス先輩、エレオノーラ先輩、クラウスさん、ロウ先生」
「孤独?」
「いいえ」
冷えは少し下がる。
リゼが学園長を見る。
「情報漏洩、または王宮側が同じ情報を既に把握していた可能性があります」
学園長は頷く。
「その両方を考えます」
カイが低く言った。
「なんで知ってるんだよ」
ロウ教師が答える。
「それを調べる」
「はい」
エリアナは静かに言った。
「王宮資料網が、私たちより先に紙を見ているのですか」
クラウスは慎重に答える。
「可能性です。あるいは、偽造文書を作った側と、監察局補助室の情報源が近い」
リゼの声がさらに低くなる。
「協力という名でも、主導権は渡しません」
学園長は頷く。
「返答には、学園主導調査継続、資料原本不提出、派遣員受け入れ保留と明記します」
ユリウスが記録する。
学園主導調査継続。
資料原本不提出。
派遣員受け入れ保留。
必要な照会事項のみ書面で回答要求。
本人意思記録は本人および学園保護下。
アルトはそれを聞いて、少しだけ息を吐いた。
冷えが下がる。
「冷え低下。声なし」
オルドの文書は、封じて保存されることになった。
開封済みだが、学園長室保管。
目的、照会資料。
監察局への返送なし。
夕方、五人は中庭に出た。
空は曇っていた。
鐘塔の蔦は、風に揺れている。
外壁付近はまだ点検中。
東渡り廊下は閉鎖中。
学園の日常は少し不便になっている。
けれど、完全には止まっていない。
カイが保存食袋の残りを見て言った。
「知らない紙に勝手に乗せない用、残りなし」
リゼが頷く。
「使用、適切でした」
ミリアがアルトを見る。
「今日の状態は」
アルトは左手首に触れる。
「痛みなし。熱なし。冷えなし。声なし。王都文書院系統紙と、オルドさんの文書が怖かったです。でも、僕の記録は学園外へ出ないと確認できました」
リゼが頷く。
「はい」
エリアナが静かに言う。
「紙がどこから来たのかを、確認しましょう。怒りで犯人を作らずに」
カイが頷く。
「でも、勝手に紙を使ったやつには怒る」
ミリアが微笑む。
「それは大事よ。怒りを届かせるために、範囲を確認しましょう」
アルトはその言葉を聞きながら、鐘塔を見た。
今日は黒い蔦には見えない。
普通の蔦。
普通の影。
たぶん。
左手首は反応しない。
夜、自室で記録表を開く。
第10章八日目。
偽造本人意思文書の紙質。
王都文書院系統保管紙に近い。
文書院関与は未断定。
流出またはアクセス可能性。
オルド・ハイマンより協力申し出。
こちらが未送信の紙質情報に触れていた。
学園主導調査継続。
資料原本不提出。
本人意思記録は学園外へ出さない。
僕の字が、僕の知らない紙に乗っていました。
でも、紙だけでは僕の意思になりません。
そこまで書いて、アルトは左手首に触れた。
痛みなし。
熱なし。
冷えなし。
声なし。
机の上の記録表は、学園の普通紙だ。
少し柔らかく、インクがにじみやすい。
アルトの手の動きに合わせて、文字が少し揺れる。
これは、自分の紙だ。
少なくとも今、自分が書いている。
扉の外から、リゼの声がした。
「夜間本人確認会話を行います。目的は、文書院系統紙確認後の状態確認。単独移動はありません。扉は開けなくても構いません。状態を報告してください」
アルトは答えた。
「痛みなし。熱なし。冷えなし。声なし。現在地、男子寮自室。怖さは少しあります。でも、孤独ではありません。僕の記録は、僕のものとして扱ってください」
「確認しました」
ミリアの声。
「扱います」
カイの声。
「勝手に紙に乗せない」
エリアナの声。
「本人から離しません」
アルトは記録表の最後に、一行を足した。
僕の字を、僕のいないところで僕の意思にしないでください。




