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灰銀の戦乙女は、制服を知らない  作者: 最後に残った形


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第10章 第6話:本人の足で来る


 本人の足で来る。


 その文字は、黒札の裏にあった。


 声ではない。


 命令でもない。


 けれど、ただの予告でもなかった。


 王立学園保護資料室の遮蔽箱の中。


 冷却・孤立誘導型と仮分類された黒札。


 白鐘と蔦を歪めた紋様。


 その裏側に、かすれた文字で書かれていた。


 次は、本人の足で来る。


 アルト・レインフォードは、翌朝になってもその言葉を忘れられなかった。


 机の上に記録表を広げる。


 黒札新型。


 冷やす札。


 本人の足で来る。


 歩いたことと同意したことは違う。


 本人が話せない場合でも、紙だけで決めない。


 冷えた時ほど、現在地と名前を確認する。


 そこまで書かれている。


 昨日の夜、寝る前に何度も読んだ。


 それでも、朝になって最初に浮かんだのは、あの一文だった。


 本人の足で来る。


 アルトは左手首に触れる。


 痛みなし。


 熱なし。


 冷えなし。


 声なし。


 だが、胸の中は少し冷たい。


 自分の足。


 自分の身体。


 それを使われるかもしれない。


 自分が歩いたことにされるかもしれない。


 自分で行ったことにされるかもしれない。


 僕は一人で行きません、と何度も言った。


 拒否した。


 記録した。


 それなのに、自分の足で歩かされるかもしれない。


 その怖さは、紙に名前を使われる怖さより、もっと身体に近かった。


 扉が叩かれる。


「アルトさん」


 リゼ・グレイスの声。


 いつもの朝の確認。


 アルトは扉を開ける前に、記録表へ一行書いた。


 呼びかけ、リゼさん。


 声、通常。


 冷えなし。


「はい」


 扉を開けると、リゼが廊下に立っていた。


 灰銀の髪には青いリボン。


 制服は整っている。


 視線はまっすぐだが、今日の彼女は昨日より少し慎重に距離を取っていた。


 近すぎない。


 遠すぎない。


 守るために囲い込まない。


 それを意識しているのがわかった。


「朝の本人確認会話を行います」


「はい」


 リゼは少しだけ間を置いてから言った。


「アルトさん。朝食へ向かいます。目的は、通常の食事と、黒札確認後の日常導線維持です。単独移動はありません。同行者は私、ミリアさん、カイさん、エリアナさん。反応があれば情報として扱い、危険があれば戻ります。参加可能ですか」


 昨日作った本人確認会話。


 現在地。


 目的。


 同席者。


 本人意思。


 関係の中の言葉。


 アルトは息を吸う。


「参加可能です。現在地は王立学園男子寮、自室前。痛みなし、熱なし、冷えなし、声なし。朝食へは一人で行きません。反応は情報として報告します」


 リゼが頷く。


「本人意思、確認しました」


 アルトは少し迷ってから言った。


「怖さはあります」


 リゼの表情は変わらない。


 だが、声が少し柔らかくなる。


「確認します。何が怖いですか」


「本人の足で来る、という言葉です。僕が歩いたら、僕の意思だと思われるかもしれないことが怖いです」


 リゼは頷いた。


「確認しました。歩いた事実と同意を分けて扱います」


「はい」


「今日の手順にも追加します」


 リゼは記録紙に書き込む。


 歩行事実と本人意思を分離。


 冷え反応時、足の状態確認。


 アルトはそれを見て、少しだけ息を吐いた。


 階段下で、カイ・ロックハートが待っていた。


 片手に保存食袋。


 もう片方の手は腰に当てている。


「おはよう」


「おはようございます」


 カイはすぐに言った。


「今日の名前、決まってる」


 リゼが問う。


「朝食前に確認しますか」


「はい」


 カイは袋を少し持ち上げた。


「本人の足を勝手に使わせない用」


 アルトは少しだけ目を見開いた。


 それから、胸の冷たさが少し和らぐのを感じた。


「適切だと思います」


 リゼが真面目に頷く。


「非常に適切です」


 カイは少しだけ誇らしげにしてから、すぐに真剣な顔に戻った。


「俺、今日は足元も見る。アルトが変な方向に歩きそうになったら、名前を呼ぶ」


 リゼが頷く。


「大声で混乱させず、届く声でお願いします」


「了解」


 ミリア・ファルネーゼとエリアナ・ルクス・ヴェルグラントは食堂前の廊下で合流した。


 ミリアはアルトの顔色を見て、すぐに尋ねる。


「眠れた?」


「はい。でも、朝、本人の足で来る、を思い出しました」


「言えたのね」


「はい」


「良好よ」


 エリアナは香草袋を鞄の中から取り出し、手元に持った。


「今日は、香草袋を持って歩きます。目的は、銀環を操作するためではありません。私自身が落ち着くためです。必要なら香りを近づけますが、置きません」


 アルトは頷いた。


「確認しました。ありがとうございます」


 エリアナは静かに頷く。


 その手も、少しだけ緊張していた。


 食堂へ向かう途中、連絡板の前で一度止まる。


 昨日から運用が変わった。


 伝言紙は教師確認済みの印があるものだけ掲示されている。


 単独呼び出し禁止。


 本人確認会話必須。


 不審な紙片は開封せず保護。


 掲示の端に、新しい注意文が加わっていた。


 移動事実と本人意思は別に確認すること。


 アルトはその文を見て、左手首に触れた。


 痛みなし。


 熱なし。


 冷えなし。


 声なし。


 けれど、胸の奥で何かが静かに頷いた気がした。


 学園が、自分の怖さを手順にしてくれている。


 それは、閉じ込めるためではない。


 紙や足取りだけで決められないためだ。


 食堂では、いつもの席に座った。


 出入口が見える。


 閉じすぎない。


 リゼが選び、ミリアが半歩分だけ位置を修正した。


「ここなら、周りの声も届くわ」


 リゼが頷く。


「修正を受け入れます」


 朝食のパンとスープが並ぶ。


 カイは食事の前に、小さな包みを机の端へ置いた。


「食後な」


 アルトは頷いた。


「はい」


 食事中、特に異常はなかった。


 銀環は沈黙している。


 冷えもない。


 だが、アルトは自分の足が椅子の下で床に触れているのを何度も意識してしまった。


 歩ける。


 走れる。


 逃げられる。


 同時に、歩かされるかもしれない。


 その考えが頭をよぎるたび、足先が少し固くなる。


 ミリアがそれに気づいた。


「足、少し緊張している?」


 アルトは驚いた。


「わかりますか」


「少しね」


「はい。本人の足で来る、を思い出しています」


 リゼがすぐに問う。


「足に異常感覚はありますか」


「ありません。痛みなし。しびれなし。自分で動かせます。ただ、怖くて意識しています」


 リゼは記録する。


「足異常なし。恐怖による意識集中。確認」


 カイが低く言った。


「じゃあ、今は自分の足だな」


 アルトは少しだけ笑った。


「はい。今は自分の足です」


 エリアナが言う。


「自分の足で立つことと、誰かに歩かされることは違います」


 アルトは頷く。


「はい」


 朝食後、保護資料室で会議が開かれた。


 学園長は、昨日の黒札解析結果を受け、アルトの安全手順を再検討するために関係者を集めていた。


 学園長。


 ロウ教師。


 ユリウス。


 エレオノーラ。


 クラウス。


 リゼ。


 ミリア。


 カイ。


 エリアナ。


 アルト本人。


 本人の安全手順だから、本人も同席する。


 それが最初に確認された。


 学園長は机の上に一枚の紙を置いた。


 黒札新型に対する暫定保護案。


 その第一項目には、こう書かれていた。


 アルト・レインフォードの単独外出および単独移動を禁止。


 第二項目。


 黒札反応が確認された場合、安全室へ一時保護。


 第三項目。


 必要に応じ、授業参加制限。


 アルトはその文字を見て、左手首に触れた。


 痛みなし。


 熱なし。


 冷え、ごく少し。


 声なし。


 安全室。


 保護。


 制限。


 言葉としては正しい。


 危険があるなら、守る必要がある。


 しかし、「一時保護」という文字の隣に、黒札の「本人の足で来る」が重なる。


 歩かされる怖さ。


 閉じ込められる怖さ。


 どちらも、身体の自由が遠くなる。


 学園長は、アルトの反応にすぐ気づいた。


「アルト君。状態を」


「痛みなし。熱なし。冷えごく少し。声なし。安全室と授業参加制限の文字で少し反応しました」


「怖さは」


「あります」


「何が怖いですか」


 アルトは紙を見た。


 安全室。


 保護。


 制限。


「一人で安全な場所に入ることが怖いです。あと、僕を守るために、僕の日常が全部なくなることが怖いです」


 部屋が静かになる。


 リゼの表情が少し硬くなった。


 彼女はきっと、安全室への移動を提案しようとしていた。


 守るために。


 当然だ。


 でも、今はそれが敵の狙いと近づく可能性がある。


 ロウ教師が低く言った。


「閉じ込める保護は、孤立誘導と紙一重だ」


 その言葉は、重かった。


 リゼはすぐに顔を上げる。


「はい」


 ロウ教師は続ける。


「安全室に入れれば安全だと思うな。誰の声が届くのか、誰と一緒に入るのか、出る条件は何か。それを決めない保護は、敵の一人にする手順と似る」


 リゼは静かに息を吸った。


「修正します」


 ミリアが学園長の紙を見て言った。


「安全室を使うなら、“孤独な部屋”にしないでください」


 学園長は頷く。


「その通りですね」


 アルトは左手首に触れる。


 冷えは少し下がった。


「冷え低下。声なし」


 カイが手を上げた。


「俺、言っていいですか」


 学園長が頷く。


「どうぞ」


 カイは少しだけ言葉を探し、それから言った。


「守るなら、一緒に飯を食うところまで守ってください」


 ミリアが小さく微笑む。


 リゼは真面目に頷く。


「重要です」


 カイは続けた。


「アルトを部屋に入れて、飯も一人、授業もなし、友達も遠く、ってなったら、それ、黒札がやりたいことと似てると思います」


 クラウスが頷いた。


「非常に重要な指摘だ。黒札は孤立感を増幅する。物理的に人を遠ざければ、術式が弱くても効果が出やすくなる」


 エリアナが静かに言った。


「守るための静けさと、声を奪う静けさは違います」


 リゼが答える。


「はい。混同しません」


 学園長は紙に修正を入れる。


「では、安全室使用条件を修正します。安全室へ移動する場合、アルト君本人への説明と同意確認を行う。単独収容は禁止。声が届く位置に最低二名の同席者または確認者を置く。食事、授業、休憩の日常導線を可能な範囲で維持する。出室条件を事前に決める」


 エレオノーラが記録する。


 アルトはその修正を聞きながら、呼吸が少し楽になるのを感じた。


 安全室が完全に怖くなくなったわけではない。


 でも、言葉で変えられる。


 目的を確認できる。


 孤独な部屋にしないと言ってもらえる。


 リゼがアルトを見る。


「私は、護衛強化を提案します。ただし、日常導線を消しません」


「確認しました」


「安全室への移動は、最初の選択肢ではなく、条件付きの退避場所とします」


「はい」


「本人意思を確認します。あなたは、どのような安全条件を望みますか」


 アルトは少し驚いた。


 自分が望む安全条件。


 守られる側として受け取るだけではなく、自分で言う。


 少し怖い。


 でも、言わなければ紙や誰かの判断に置き換えられる。


 アルトはゆっくり言った。


「一人にしないでください」


 リゼが頷く。


「はい」


「でも、ずっと囲まれるのも怖いです」


「はい」


「授業には出たいです。全部ではなくても、出たいです」


「はい」


「食事は、みんなと食べたいです」


「はい」


「冷えた時は、足が自分で動かせるか確認してほしいです。でも、すぐ押さえつけるのではなく、まず名前を呼んでください」


 カイがすぐに言う。


「呼ぶ」


 ミリアが頷く。


「状態も聞くわ」


 エリアナが言う。


「香草の香りが必要か、聞きます」


 アルトは続ける。


「安全室に入る時は、なぜ入るのか、いつ出るのか、誰が近くにいるのかを先に教えてください」


 学園長が静かに頷いた。


「全て記録します」


 アルトは最後に言った。


「僕を守るために、一人にしないでください」


 その言葉を言った瞬間、左手首の冷えは完全に消えた。


「痛みなし。熱なし。冷えなし。声なし」


 リゼが静かに言う。


「本人意思、確認しました」


 ミリアの目元が少し柔らかくなる。


「とても大事なことを言えたわ」


 カイは小さく頷いた。


「守るために一人にしない。覚えた」


 エリアナも。


「はい。私も覚えます」


 会議はさらに続いた。


 黒札反応時の手順。


 足元確認。


 本人確認会話。


 声の到達確認。


 冷えの強さを五段階で記録すること。


 単独移動禁止。


 ただし、過度な隔離禁止。


 伝言板運用継続。


 東渡り廊下と外壁裏導線は閉鎖継続。


 鐘塔周辺の点検。


 そして、保護と隔離の境界を毎日確認すること。


 エレオノーラの記録板には、何本もの線が引かれた。


 守る。


 閉じ込める。


 同席。


 監視。


 本人意思。


 偽装。


 日常。


 危険。


 それらを混同しないための線。


 昼前、会議が終わると、カイが即座に保存食袋を出した。


 ミリアが聞く。


「名前は、朝と同じ?」


 カイは首を振る。


「増えた」


「増えた?」


「本人の足を勝手に使わせないし、守るために一人にしない用」


 リゼがすぐに頷いた。


「非常に適切です」


 ミリアは少し笑った。


「長いけれど、今日には必要ね」


 エリアナも頷く。


「はい。今日は、それがよいです」


 休憩室へ移動し、包みを開ける。


 小さな焼き菓子と香草パンの欠け。


 アルトは成分を読み上げた。


「焼き菓子は小麦、卵、乳、林檎、杏。香草パンは小麦、卵、乳、蜂蜜、香草候補二、香草候補三。蜂蜜減量版。香草はエリアナさん調整です」


 エリアナが頷く。


「確認しました」


 香草パンを噛む。


 苦味。


 甘さ。


 今日の味は、少しだけ重かった。


 でも、喉を通る。


 カイが真剣な顔で聞いた。


「アルト、足、大丈夫か」


 アルトは自分の足を見た。


 靴。


 床。


 爪先。


 動かす。


 右足。


 左足。


 自分で動く。


「大丈夫です。自分で動かせます」


「よし」


 ミリアが言う。


「こういう確認も、怖い時だけじゃなくて普通の時にしましょう」


 リゼが記録する。


「足確認を日常時にも実施。恐怖条件との固定化を避ける」


 カイがアルトの足元を見た。


「じゃあ、今のは普通の足確認」


 アルトは少し笑った。


「はい」


 午後、アルトは短い授業へ参加した。


 学園長は休養を勧めたが、アルトは「日常導線を確認したい」と言った。


 ただし、全授業ではない。


 一つだけ。


 同行者と退避経路を確認してから。


 授業前、本人確認会話が行われる。


 リゼ。


「アルトさん。午後第一講義に参加します。目的は通常授業と日常導線確認。単独移動はありません。反応があれば情報として扱い、冷えが強まれば途中退室します。参加可能ですか」


 アルト。


「参加可能です。現在地は本館廊下。痛みなし、熱なし、冷えなし、声なし。授業には一人で行きません。途中で怖くなったら言います」


 ミリアが付け加える。


「怖くなくても、足が気になったら言っていいのよ」


「はい」


 授業は文学だった。


 古い詩文を読む内容。


 教師が「旅人は己の足で境を越え」と読み上げた瞬間、アルトの左手首が少し冷えた。


 痛みなし。


 熱なし。


 声なし。


 本人の足。


 その言葉に反応した。


 アルトはすぐに記録表へ書く。


 授業中、己の足、で冷えごく少し。


 痛みなし。


 熱なし。


 声なし。


 現在地、王立学園講義室。


 足、自分で動かせる。


 孤独ではない。


 リゼが横から確認し、頷く。


 カイが小さく囁いた。


「今ここ」


 ミリアが前の席から振り向かず、指先で机を二度軽く叩いた。


 合図。


 届いている。


 エリアナは斜め後ろで香草袋に触れた。


 香りが届いたわけではない。


 でも、彼女がそこにいるとわかる。


 冷えはすぐに消えた。


 授業は続いた。


 アルトは退室しなかった。


 終わった時、少しだけ疲れていたが、歩けた。


 自分の足で、学園の廊下を歩いて戻った。


 それは敵の「本人の足で来る」とは違う。


 自分の意思で、友人と一緒に歩いた。


 食堂への帰り道、カイが言った。


「今のは本人の足で帰る、だな」


 アルトは少し笑った。


「はい。本人の意思で帰っています」


 リゼが頷く。


「確認しました」


 夕方、学園長室に短い報告が上がった。


 授業参加成功。


 冷えごく少し。


 自己報告あり。


 足異常なし。


 退室なし。


 本人意思で参加、本人意思で帰還。


 保護と日常の両立、継続可能。


 学園長はそれを聞き、静かに頷いた。


「閉じ込めない保護を続けましょう」


 ロウ教師が低く言った。


「だが油断するな。敵は、閉じ込めなかったことも読む」


 リゼは頷く。


「はい」


 夜、寮へ戻る前に、アルトの部屋の前で最後の確認が行われた。


 リゼが言う。


「夜間手順を確認します。冷え、声、足の違和感、夢遊感覚があれば即時報告。単独で確認に行きません。扉を開ける前に本人確認会話を行います」


 アルトは頷く。


「確認しました」


 ミリアが言う。


「怖い夢を見た時も、記録できなくていいから呼んでね」


「はい」


 カイが保存食袋の小さな残りを渡す。


「夜用。名前は同じ」


「ありがとうございます」


 エリアナは香草袋を見せた。


「私は女子寮側に戻ります。ですが、必要なら先生を通して香草を届けます。勝手に置きません」


「確認しました」


 リゼが最後に問う。


「孤独ですか」


 アルトは廊下を見る。


 リゼ。


 ミリア。


 カイ。


 エリアナ。


 少し離れて寮監。


 廊下灯。


 閉じていない扉。


「いいえ」


「確認しました」


 部屋に入り、扉を閉める。


 鍵をかける。


 机の上には紙はない。


 窓にも異常はない。


 アルトは椅子に座り、記録表を開いた。


 第10章六日目。


 本人の足で来る。


 安全室案。


 保護と隔離の境界。


 僕を守るために、一人にしないでください。


 歩いたことと同意したことは違う。


 足確認。


 授業参加。


 本人の意思で歩く。


 そう書いてから、足を動かしてみる。


 右足。


 左足。


 自分で動く。


 左手首に触れる。


 痛みなし。


 熱なし。


 冷えなし。


 声なし。


 その時、部屋の前の廊下で、紙が擦れるような音がした。


 アルトの左手首が、すぐに冷えた。


 痛みなし。


 熱なし。


 声なし。


 冷え少し。


 彼は立ち上がらなかった。


 扉へ向かわなかった。


 まず、声を出した。


「リゼさん」


 すぐに扉の外から返事があった。


「はい。現在地、男子寮廊下。私は扉の外にいます。開ける必要はありません。状態を報告してください」


 アルトは息を吐く。


「痛みなし。熱なし。冷え少し。声なし。廊下で紙のような音がしました。足は自分で動かせます。扉へは行きません」


「確認しました」


 カイの声も聞こえた。


「俺もいる」


 ミリアの声。


「寮監の先生もいるわ」


 寮監の声も続く。


「廊下を確認します。君は部屋から出ないように」


 アルトは頷いた。


「はい」


 廊下で、短い確認の音がした。


 紙ではなかった。


 窓際の掲示布が風で揺れただけだった。


 寮監がそれを告げる。


「異常なし。掲示布の擦れ音です」


 冷えが下がる。


「冷え低下。声なし」


 リゼが扉の外で言った。


「良好です。扉へ向かわず、報告できました」


 アルトは椅子に座り直した。


 本人の足で来る。


 その言葉に対して、今日の自分は歩かなかった。


 確認した。


 呼んだ。


 扉を開けなかった。


 それを書き足す。


 夜間、紙のような音。


 扉へ向かわず報告。


 異常なし。


 掲示布。


 足、自分で動かせる。


 孤独ではない。


 最後に、少し迷ってから一行を書く。


 僕の足は、僕が確認して使います。


 左手首は沈黙していた。


 廊下の向こうで、リゼたちの声がまだ小さく聞こえる。


 扉は閉まっている。


 だが、声は届いている。


 安全な部屋は、孤独な部屋ではなかった。


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