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灰銀の戦乙女は、制服を知らない  作者: 最後に残った形


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第10章 第4話:本人確認の合言葉


 合言葉は、盗まれる。


 それを最初に言ったのは、ミリア・ファルネーゼだった。


 朝の王立学園。


 保護資料室の長机には、昨日見つかった紙片の写しが置かれている。


 東渡り廊下。


 放課後。


 一人で。


 リゼより。


 その四行は、もう開封されていない原本ではなく、高精度写しの中に収まっていた。


 けれど、写しであっても、その文字は十分に冷たかった。


 アルト・レインフォードは左手首に触れる。


 痛みなし。


 熱なし。


 冷えなし。


 声なし。


 昨日ほど強くはない。


 しかし、「一人で」という文字を見ると、手首ではなく胸の奥が少し縮む。


「痛みなし。熱なし。冷えなし。声なし。現在地、王立学園保護資料室」


 アルトが言うと、隣のリゼ・グレイスが頷いた。


「確認しました」


 リゼの灰銀の髪は、今日も青いリボンでまとめられている。


 昨日、自分の名を使われた。


 リゼより。


 それは彼女ではない。


 彼女の筆跡でも、彼女の言葉でも、彼女の意思でもない。


 だが、彼女の名前だった。


 その事実は、まだ部屋の空気に残っている。


 リゼは写しを見るたびに表情を崩さない。


 崩さないが、いつもより少し言葉が慎重だった。


 エリアナ・ルクス・ヴェルグラントは、長机の向かいで写しを見ていた。


 香草袋は、膝の上にある。


 机上には置かない。


 貸さない。


 彼女のものとしてそこにある。


 カイ・ロックハートは椅子に座らず、部屋の隅で腕を組んでいた。


 立っている方が落ち着く、と言ったが、ロウ教師に「疲れたら座れ」と言われている。


 今のところ、まだ座っていない。


 ユリウス・エインズワース、エレオノーラ・ヴィンスフェルト、クラウス・ヴァイゼルも同席している。


 学園長は全員を見渡し、静かに言った。


「昨日の偽呼び出しにより、名義、筆跡、紙、伝言板が信頼しきれないことが確認されました。今日決めるのは、アルト君に関わる呼び出し、移動、面談、確認の手順です」


 リゼが即座に答える。


「単独呼び出し禁止。本人確認必須。現在地、目的、同席者、本人意思を確認します」


 エレオノーラが記録する。


 それは正しい。


 必要だ。


 だが、ミリアは少し首を傾げた。


「それだけだと、盗まれると思います」


 リゼがミリアを見る。


「項目が不足していますか」


「不足というより、形式だけだと危ないの。現在地、目的、同席者、本人意思。これらの言葉も、敵が覚えれば紙に書けるわ」


 アルトの左手首が、ごくわずかに冷えた。


 痛みなし。


 熱なし。


 声なし。


「冷えごく少し。声なし。“紙に書ける”で反応しました」


 リゼが頷く。


「確認しました」


 ミリアは続ける。


「合言葉も同じです。たとえば、私たちだけの言葉を決めても、どこかで見られたら盗まれる。聞かれたら使われる。昨日の偽呼び出しは、リゼさんの名前を使いました。次は、合言葉を使うかもしれない」


 カイが眉を寄せる。


「じゃあ、合言葉はなし?」


「合言葉だけでは足りない、ということ」


 ミリアはアルトを見る。


「本人確認は、言葉一つではなくて、会話にしましょう」


「会話」


 リゼが復唱する。


「本人確認会話」


「ええ。毎回まったく同じ答えではなく、その時の現在地、状態、目的、近くにいる人、関係の文脈を確認する。敵が形を真似しても、中身がズレるように」


 エリアナが静かに頷いた。


「意味は、関係の中にあります」


 カイが昨日言ったことを思い出したように、少し胸を張る。


「保存食の名前も、意味まで聞く」


 クラウスが頷いた。


「有効だ。術式や偽造文書は、固定文には強い。だが、文脈に応じた応答は模倣しにくい」


 リゼは真剣に記録を取り始めた。


「本人確認会話。固定合言葉ではなく、変動応答。現在地、目的、同席者、状態、関係文脈、本人意思」


 ミリアが微笑む。


「少し硬いけれど、よいと思うわ」


 アルトは記録表へ同じように書いた。


 本人確認会話。


 合言葉だけでは足りない。


 関係の中で確認する。


 左手首の冷えは消えていた。


 学園長は頷く。


「では、実際に練習しましょう」


 カイが目を丸くした。


「練習?」


 ロウ教師が壁際で腕を組んだまま言う。


「当然だ。決めただけで使えると思うな」


「はい」


 最初に、リゼがアルトを呼び出す想定が行われた。


 場所は保護資料室。


 呼び出し内容は、昼食後に中庭で状態確認。


 リゼは紙を使わず、アルトの前に立った。


「アルトさん。昼食後、中庭で状態確認を行います。同行者は私、ミリアさん、カイさん、エリアナさん。目的は、帰還後の銀環反応と日常導線確認です。参加可能ですか」


 アルトは答える。


「はい。参加可能です。現在地は保護資料室。痛みなし、熱なし、冷えなし、声なし。中庭へは一人で行きません」


 リゼが頷く。


「本人意思、確認しました」


 ミリアが手を上げる。


「良いけれど、まだ少し硬いわ。紙に書けてしまう」


 リゼの表情がわずかに真剣さを増す。


「修正します」


 ミリアは柔らかく言った。


「リゼさんらしさは大事よ。でも、アルトさんが“これはリゼさんだ”と感じられる確認があるといいわ」


 アルトは少し考える。


「リゼさんなら、単独行動禁止を言います」


 リゼが頷く。


「はい」


「あと、危険があれば戻ると言います」


「はい」


「それから、僕の反応は情報であって判決ではないと、前に言ってくれました」


 リゼの瞳がわずかに揺れる。


「はい」


 ミリアが頷いた。


「では、それを入れましょう。固定の言葉ではなく、リゼさんが大事にしている確認として」


 リゼはもう一度、アルトの前に立った。


「アルトさん。昼食後、中庭で状態確認を行います。目的は、あなたの銀環を試すことではありません。帰還後の日常導線を確認するためです。単独移動はありません。反応があれば情報として扱い、危険があれば戻ります。参加可能ですか」


 アルトの胸が少し落ち着いた。


「はい。参加可能です。現在地は保護資料室。痛みなし、熱なし、冷えなし、声なし。中庭へは一人で行きません。反応は情報として報告します」


 ミリアが微笑む。


「良好ね」


 リゼが記録する。


「本人確認会話、第一例」


 カイが手を挙げた。


「俺もやる」


 ロウ教師が短く言う。


「やれ」


 カイはアルトの前に立つ。


 少し考えてから、かなり真剣な顔で言った。


「アルト、昼飯の後、食堂の横で保存食を食う。名前は……ええと、合言葉だけでは足りない用」


 ミリアが小さく笑う。


 リゼは真剣に頷く。


「意味は適切です」


 カイは続けた。


「同行者は俺だけじゃなくて、リゼとミリアとエリアナもいる。目的は、食べることと、今日も一人じゃない確認。来るか?」


 アルトは少し笑ってから答える。


「行きます。現在地は保護資料室。痛みなし、熱なし、冷えなし、声なし。保存食の名前は長いですが、意味はわかります。一人じゃない確認です」


 カイはほっとしたように頷く。


「よし」


 ミリアが言う。


「カイ君の場合、保存食名の意味を聞くのはかなり有効ね」


 クラウスも頷く。


「偽造者が名称だけを知っていても、その場で意味を説明できなければ違和感が出る」


 エリアナが静かに言った。


「ただし、保存食名も紙に書かれる可能性はあります」


 カイがすぐに頷く。


「だから、意味まで聞く」


「はい」


 次に、ミリアの番だった。


 彼女はアルトを見る時、最初から声を少し柔らかくした。


「アルトさん。午後、保護資料室の記録を一緒に見直したいです。目的は、昨日の紙片をもう一度見るためではなく、怖さが残っていないか確認するため。リゼさんも同席します。カイ君は食べ物を持ち込まない範囲で近くにいます。エリアナさんは、無理のない距離で。どうかしら」


 カイが小さく抗議する。


「食べ物を持ち込まない範囲」


「保護資料室だから」


「はい」


 アルトは自然に答えられた。


「参加できます。紙片を見ると少し怖いと思います。でも、目的が怖さの確認ならできます。現在地は保護資料室。痛みなし、熱なし、冷えなし、声なし」


 ミリアは頷く。


「良好よ」


 リゼが記録する。


「ミリアさんの本人確認会話。感情確認が含まれる」


 ミリアがリゼを見る。


「リゼさんも入れていいのよ」


「はい。練習します」


 最後に、エリアナがアルトの前に立った。


 香草袋を手に持っている。


 だが、差し出さない。


「アルトさん。私は、午後の休憩で香草パンを食べる時、近くにいてもよいか確認したいです。目的は、銀環を落ち着かせるためではありません。私も、学園に戻ったことを確認したいからです。香草袋は私のものとして持ちます。必要なら香りを近づけますが、置きません。あなたは、どうしたいですか」


 アルトは、しばらく考えた。


 これは誘導ではない。


 エリアナは自分の目的も言っている。


 アルトを使うためではなく、自分の確認のため。


 それを隠していない。


「一緒に食べたいです。香草袋は、エリアナさんのものとして持っていてください。僕の銀環に使うものとして扱わないでください。でも、香りが近いと落ち着くことがあります」


 エリアナは静かに頷いた。


「確認しました」


 アルトの左手首は反応しなかった。


 だが、呼吸が少し楽になる。


 リゼは記録した。


「エリアナさんの本人確認会話。所有と目的の確認が含まれる」


 学園長は全員の練習を聞き、満足そうに頷いた。


「形式だけではなく、それぞれの関係性が入っています。これを基本としましょう」


 ユリウスがまとめる。


「呼び出し手順。第一、単独呼び出し禁止。第二、名義や筆跡のみで判断しない。第三、本人確認会話を行う。第四、現在地、目的、同席者、状態、本人意思を確認。第五、関係文脈を含める。第六、違和感があれば中止し、紙片は開封せず保護」


 エレオノーラが記録する。


 カイが少し眉を寄せる。


「関係文脈って、難しい」


 ミリアが笑う。


「カイ君なら、“なぜその保存食名なのか”で十分よ」


「なるほど」


 ロウ教師が言う。


「難しい言葉にする必要はない。本人がわかる言葉で言え」


 カイは頷いた。


「はい」


 昼食後、さっそく本人確認会話を使うことになった。


 場所は食堂の一角。


 出入口が見えるが、閉じすぎない席。


 リゼが席の位置を確認し、ミリアが「少し壁から離れましょう」と修正する。


 リゼはすぐに受け入れた。


「修正を受け入れます」


 カイが包みを取り出した。


 ミリアが尋ねる。


「名前は?」


 カイは得意げに答えた。


「合言葉だけでは足りない用」


 アルトは笑った。


「今日の練習と一致しています」


「だろ」


 リゼが真面目に頷く。


「非常に適切です」


 エリアナも静かに言う。


「はい。今日は、それがよいです」


 カイは包みを開ける前に、わざとらしく咳払いをした。


「本人確認会話をします」


 ミリアが微笑む。


「どうぞ」


 カイはアルトを見る。


「アルト。これは合言葉だけでは足りない用です。目的は、合言葉を食べることじゃなくて、合言葉だけじゃなくて意味まで確認すること。食うか?」


 リゼがわずかに考える顔をした。


「表現は粗いですが、意味は通ります」


 アルトは答える。


「食べます。現在地は食堂。痛みなし、熱なし、冷えなし、声なし。合言葉だけでは足りないので、意味も確認します」


 カイは満足げに頷き、包みを開けた。


 小さな焼き菓子と香草パンの欠け。


 アルトはいつものように成分を読み上げる。


「焼き菓子は小麦、卵、乳、林檎、杏。香草パンは小麦、卵、乳、蜂蜜、香草候補二、香草候補三。蜂蜜減量版。香草はエリアナさん調整です」


 エリアナが頷く。


「確認しました」


 香草パンを噛む。


 苦味と甘さ。


 食堂のざわめき。


 学園の匂い。


 アルトの左手首は静かだった。


 食べながら、ミリアが言う。


「本人確認会話は、呼び出しだけでなく、日常でも練習しましょう。怖い時だけ使うと、怖さと結びついてしまうから」


 リゼがすぐに記録する。


「日常時にも本人確認会話を使用。恐怖条件との固定化を避ける」


 カイが少し苦笑する。


「リゼの記録語、すごいな」


 アルトは笑いかけたが、その時、左手首がごくわずかに冷えた。


 痛みなし。


 熱なし。


 声なし。


 冷え、ごく少し。


 リゼがすぐに反応する。


「現在地」


「王立学園食堂」


「名前」


「アルト・レインフォード」


「孤独ですか」


「いいえ」


 ミリアが周囲を見る。


 カイも首を動かす。


 エリアナが香草袋に触れた。


 冷えはすぐに消えた。


「冷え低下。声なし」


 リゼは食堂の入口の方を見る。


 掲示板の前に、一人の下級生が立っていた。


 彼は何かを貼ろうとして、近くの教師に呼び止められている。


 普通の伝言かもしれない。


 だが、教師は慎重に紙を受け取り、確認用の封筒へ入れた。


 新しい手順がもう動いている。


 リゼが低く言う。


「伝言板運用変更、開始されています」


 アルトは頷いた。


 自分たちだけではない。


 学園全体が、関係を守るために動き始めている。


 午後、学園長の指示で、アルト関連の伝言手順が各部署へ通達された。


 生徒向けには簡略化された内容が掲示される。


 名義のみの呼び出しに従わないこと。


 単独で呼び出された場合は教師へ報告すること。


 不審な紙片は開封せず保護すること。


 友人からの伝言でも、本人へ確認すること。


 その掲示文を見た生徒たちはざわついた。


「物々しいな」


「また何かあったのか」


「アルト君関係?」


「リゼさんの名前が使われたって本当?」


 そうした声が廊下に広がる。


 アルトは左手首に触れた。


 痛みなし。


 熱なし。


 冷えなし。


 声なし。


 噂は怖い。


 だが、今の噂は、少なくとも一人で来いとは言っていない。


 ミリアが隣で言う。


「噂にも、本人確認が必要ね」


 アルトは頷いた。


「はい」


 その時、一人の生徒がアルトへ近づきかけた。


 リゼが半歩前に出る。


 生徒はすぐに手を上げた。


「すみません、単独呼び出しじゃないです。掲示の意味を聞きたくて」


 ミリアが柔らかく答える。


「先生を通してもらえる?」


「はい」


 生徒はすぐに教師の方へ向かった。


 リゼは小さく頷く。


「手順が浸透し始めています」


 カイが言う。


「ちょっと面倒だけど、いい面倒だな」


 エリアナが頷いた。


「人を守るための面倒です」


 アルトはその言葉を記録表に書いた。


 人を守るための面倒。


 夕方、保護資料室で今日のまとめが行われた。


 本人確認会話の初期手順。


 保存食名の意味確認。


 香草袋の所有確認。


 単独呼び出し禁止。


 紙片開封禁止。


 伝言板運用変更。


 それらが記録される。


 学園長は言った。


「形式は盗まれます。だから、形式を捨てるのではなく、形式の内側に関係を入れましょう」


 リゼが頷く。


「確認しました」


 ミリアが少し微笑む。


「リゼさん、今の言葉は覚えやすいわ」


「記録します」


 カイが言う。


「形式の内側に飯を入れる」


 ミリアが即座に訂正する。


「関係ね」


「飯も関係だろ」


 リゼが真面目に頷く。


「一定程度、正しいです」


 アルトは思わず笑った。


 左手首は沈黙している。


 声も、冷えもない。


 笑える。


 そのことが、少し嬉しかった。


 しかし、夕暮れ前。


 学園外壁の見回りをしていた教師が、保護資料室へ急いで戻ってきた。


 その手には、封じられた小さな板がある。


 板の上には、黒いものが貼り付けられていた。


 黒い札。


 以前の黒札よりも小さい。


 だが、刻まれた紋様ははっきり見えた。


 白鐘と蔦を、崩したような形。


 白い鐘の輪郭が、黒い蔦に絡まれている。


 アルトの左手首が、冷えた。


 痛みなし。


 熱なし。


 声なし。


 冷え、中。


 リゼが即座に立つ。


「現在地」


「王立学園保護資料室」


「名前」


「アルト・レインフォード」


「孤独ですか」


「いいえ」


 クラウスが黒札を見た瞬間、表情を変えた。


「これは、昨日までの微細刻線とは違う」


 学園長が問う。


「黒札ですか」


「はい。ただし、以前確認された強制共鳴型とは構造が異なる可能性があります」


 エリアナが香草袋を握る。


「白鐘と蔦を、歪めています」


 カイが低く言った。


「またかよ」


 ミリアがアルトの隣に立つ。


「冷えは」


「中。痛みなし。声なし」


 リゼが確認する。


「一人で見ません。全員で確認します」


 アルトは頷いた。


「はい」


 黒札は封じ板の上で、静かにそこにあった。


 呼ばない。


 鳴らない。


 ただ、冷たい。


 白鐘を黒い蔦が絡め取る紋様は、まるで合言葉や伝言を越えて、もっと直接、関係そのものへ手を伸ばしているように見えた。


 アルトは左手首を押さえたまま、記録表に書いた。


 王立学園外壁付近。


 黒札発見。


 白鐘と蔦を崩した紋様。


 冷え中。


 痛みなし。


 熱なし。


 声なし。


 孤独ではない。


 書き終えた時、冷えが少しだけ下がった。


 カイが小さく言う。


「合言葉だけじゃ足りない用、まだ残ってる」


 ミリアが頷く。


「ええ。今こそ必要ね」


 エリアナも静かに言った。


「名前だけでは、本人ではありません。紋様だけでは、本来の白鐘ではありません」


 リゼは黒札を見据えた。


「目的を確認します。これは守る印ではありません」


 アルトは頷いた。


 左手首の冷えは、まだ残っている。


 けれど、一人ではない。


 合言葉だけでは足りない。


 だから、会話をする。


 名前だけでは足りない。


 だから、本人を見る。


 紋様だけでは足りない。


 だから、目的を確認する。


 黒札の上で、歪んだ白鐘が、声もなく冷たく沈んでいた。


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