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灰銀の戦乙女は、制服を知らない  作者: 最後に残った形


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第10章 第3話:偽の呼び出し


 机の上に置かれた紙は、開かれなかった。


 王立学園男子寮、アルト・レインフォードの自室。


 扉には鍵がかかっていた。


 窓も閉まっていた。


 それでも、その紙は机の中央に置かれていた。


 白く、薄い。


 折り目は一つ。


 封はない。


 開かなくても見える位置に、短い文字があった。


 東渡り廊下。


 放課後。


 一人で。


 その三行だけで、アルトの左手首は冷えた。


 痛みはない。


 熱もない。


 声もない。


 けれど、氷のような細い冷たさが、布の下の銀環から骨へ染みるように広がった。


「痛みなし。熱なし。冷え強。声なし。現在地、王立学園男子寮、自室」


 アルトはそう報告した。


 リゼ・グレイスは、紙から目を離さずに頷いた。


「確認しました。紙片には接触しません」


 彼女はアルトと紙の間に立っていた。


 灰銀の髪には青いリボン。


 制服は整っている。


 腰に剣はない。


 学園内だからだ。


 だが、その背中は、いつもより少しだけ硬かった。


 ミリア・ファルネーゼは廊下へ出て、寮監と教師を呼びに行った。


 カイ・ロックハートは扉の前に立っている。


 突撃しない。


 大声を出さない。


 それを自分で何度も飲み込んでいるように、唇を引き結んでいた。


 エリアナ・ルクス・ヴェルグラントは、部屋の奥ではなく、入口近くの見える位置に立っている。


 香草袋は鞄の中ではなく、手元にある。


 貸してはいない。


 置いてもいない。


 彼女のものとして、そこにある。


 紙は、沈黙していた。


 だが、その沈黙は、白鐘の静けさとは違った。


 鳴らさぬ谷の白布のように音を抑えるものではない。


 白鐘北礼拝堂跡の地下扉のように、孤独な音を通さないための沈黙でもない。


 これは、言葉を奪うための沈黙だった。


 アルトは紙を見つめる。


 一人で。


 その言葉が、帰路の馬車で聞いた声に重なる。


 次は、一人で来い。


 けれど、今回は声ではない。


 紙。


 伝言。


 文字。


 まるで、普通の呼び出しのふりをしている。


「拒否します」


 アルトはもう一度言った。


 リゼがすぐに頷く。


「本人意思、拒否。確認しました」


 カイも低い声で言う。


「俺も拒否」


 エリアナが続ける。


「私も、拒否します」


 その声を聞いて、アルトの冷えが少しだけ下がった。


「冷え、中より下へ低下。声なし」


 リゼは紙の周囲を確認する。


「机上に紙片一枚。周囲に粉末、糸、黒札は視認できません。窓閉鎖。扉鍵に破損なし。侵入経路不明」


 彼女の声は冷静だ。


 だが、アルトにはわかった。


 リゼも揺れている。


 自室。


 鍵。


 学園内。


 そこに紙が置かれている。


 守る場所の内側へ、何かが入り込んだ。


 それだけでも十分に怖い。


 やがて、ミリアが寮監とエレオノーラ・ヴィンスフェルトを連れて戻ってきた。


 エレオノーラはいつも通り記録板を持っている。


 だが、目は鋭い。


「紙片、未接触ですか」


 リゼが答える。


「はい。開封なし。接触なし。外側文字のみ確認」


「良好です」


 エレオノーラは寮監とともに部屋の入口で状態を確認し、保護板を準備した。


 紙を開かない。


 直接触れない。


 上から透明な保護板をかぶせ、机ごと位置を記録する。


 その作業を、アルトは少し離れた位置から見ていた。


 左手首の冷えは、まだ残っている。


「痛みなし。熱なし。冷え少し。声なし」


 ミリアが隣に立つ。


「現在地は」


「王立学園男子寮、自室」


「孤独?」


「いいえ」


「よかった」


 カイが扉の前で小さく言う。


「一人じゃない」


 アルトは頷いた。


「はい」


 紙片は開かれないまま、保護板に挟まれた。


 その瞬間、紙の端に別の文字が見えた。


 折り目の内側ではない。


 表面の下部。


 薄い灰色のインクで、小さく書かれている。


 リゼより。


 部屋の空気が、さらに冷えた。


 アルトの左手首が強く冷える。


「痛みなし。熱なし。冷え強。声なし。“リゼより”で反応しました」


 リゼは動かなかった。


 ただ、目だけが紙へ固定されている。


 リゼより。


 彼女の名。


 彼女の立場。


 彼女の護衛としての近さ。


 アルトが信じる名前。


 その名前が、紙の下に書かれていた。


 カイが低く言う。


「違うだろ」


 ミリアが紙を見つめながら頷く。


「違うわ」


 エリアナは香草袋を握った。


「名前が、本人から離れて使われています」


 その言葉に、リゼの肩がわずかに動いた。


 第9章で見たもの。


 灰銀突破点。


 灰銀作戦後処理。


 リゼの名が、彼女本人から離れて使われた可能性。


 そして今、学園の寮の机の上で。


 リゼより。


 アルトを一人で呼び出すために。


 リゼは、ゆっくり言った。


「これは、私ではありません」


 声は静かだった。


 だが、硬い。


「私は、この紙を書いていません。私は、アルトさんへ単独移動を指示しません。私は、“一人で”という呼び出しを行いません」


 アルトは息を吸った。


 冷えはまだある。


 けれど、その言葉を聞いて、胸の奥が少しずつ戻ってくる。


「はい」


 アルトは言った。


「リゼさんではありません」


 リゼがアルトを見る。


「確認します。なぜ、そう判断しましたか」


 問いは、冷静だった。


 ただ安心させるためではない。


 関係を、確認するための問い。


 アルトは紙を見た。


 東渡り廊下。


 放課後。


 一人で。


 リゼより。


「リゼさんなら、現在地と目的を確認します」


 アルトは言った。


「一人で、とは書きません。単独行動禁止と言います。もし呼ぶなら、本人意思を確認します。あと、“リゼより”ではなく、たぶん、もっと記録みたいに書きます」


 カイが少しだけ頷く。


「わかる」


 ミリアが優しく言う。


「続けて」


「それに、リゼさんは、東渡り廊下に一人で来てくださいとは言いません」


 アルトは左手首を押さえる。


「だから、リゼさんの名前でした。でも、リゼさんの言葉ではないと思いました」


 リゼの瞳が、ほんのわずかに揺れた。


「確認しました」


 エレオノーラが記録する。


 本人による偽装判別。


 名義、リゼ。


 文体、本人不一致。


 単独誘導。


 冷え反応。


 リゼは紙片へ向き直る。


「私の名が使われました。ですが、これは私ではありません」


 その言葉は、自分自身へも向けられているようだった。


 灰銀という名が使われた。


 リゼより、という名が使われた。


 どちらも、本人ではない何かが、本人の信頼を利用しようとしている。


 ミリアが静かに言った。


「名前は、関係の入口だから」


 リゼが頷く。


「はい」


「だから、盗まれると怖い」


「はい」


「でも、関係の中身までは、完全には盗めていないわ」


 リゼはアルトを見る。


 アルトも頷いた。


「はい。違うとわかりました」


 カイが腕を組む。


「だって、リゼが“放課後、一人で”って雑に呼ぶわけないだろ」


 エレオノーラが淡々と記録する。


「雑」


 カイが慌てる。


「あ、いや、記録する言葉としては」


 ミリアが小さく笑った。


「でも、意味は大事よ。偽造者は、リゼさんの言葉の細かさを知らない」


 エリアナが静かに続ける。


「名前と立場は知っていても、関係の扱いを知らない」


 リゼは深く頷いた。


「重要です」


 紙片は、その場で保護資料室へ運ばれることになった。


 アルトの部屋は寮監と教師によって確認される。


 窓。


 扉。


 机。


 床。


 衣類棚。


 どこにも侵入の痕跡はない。


 ただ、机の上に紙があった。


 まるで、記録が勝手に置かれたように。


 アルトは部屋から出る前に、記録表を取った。


 王立学園男子寮、自室。


 机上紙片。


 東渡り廊下。放課後。一人で。リゼより。


 リゼさん本人否定。


 僕も不一致を確認。


 冷え強から少しへ低下。


 声なし。


 孤独ではない。


 最後に、もう一行。


 名前だけでは本人ではありません。


 保護資料室には、学園長、クラウス・ヴァイゼル、ユリウス・エインズワース、ロウ教師も集まっていた。


 紙片は保護板に挟まれたまま机上に置かれる。


 開封はまだしない。


 まず外側の確認。


 クラウスは光板を当て、紙の表面を見る。


「微細な刻線がある。昨日の連絡板偽伝言と同系統だ。ただし、こちらの方が強い」


 アルトの左手首が冷える。


「痛みなし。熱なし。冷え少し。声なし。刻線確認で反応しました」


 クラウスが頷く。


「冷え反応は記録する」


 リゼが問う。


「封信蔦ですか」


「封信蔦そのものではない。だが、同じ発想で作られている。伝言をずらすだけでなく、名義への信頼を利用し、受け取った者の判断を鈍らせる仕組みだ」


 ミリアが眉をひそめる。


「開いていたら?」


「より強い誘導が働いた可能性がある。特に、“リゼより”という名義を見た後に開けば、警戒よりも確認行動へ向かいやすくなる。東渡り廊下へ、一人で」


 カイが低く言った。


「ふざけるな」


 ロウ教師が視線を向ける。


 カイは息を吸い、言い直す。


「怒っています。でも、突撃しません」


「よし」


 クラウスは紙質を調べる。


「学園内の通常紙ではない。王都の高級紙とも違う。白鐘紙工房の古紙でもない。ただ、白鐘紙の透かし構造を模倣しようとした跡がある」


 エリアナが顔を上げた。


「模倣」


「そうだ。透かしそのものではない。白鐘紙工房の本来の作りを知っている者、または記録を見た者が、似せた可能性がある」


 アルトの左手首が冷える。


 白鐘紙工房。


 焼けた紙片。


 封箱へ。


 誰かの記録。


 それらが、今、学園の自室に置かれた紙と繋がりかけている。


 エリアナは静かに言った。


「記録を残すための紙を、一人にするための紙へ似せたのですか」


 クラウスは慎重に頷いた。


「可能性です」


 エリアナの声に怒りが混じる。


「怒っています」


 ミリアが頷く。


「ええ」


「でも、白鐘紙ではありません。模倣です」


「ええ」


「本物と決めません」


「良好よ」


 リゼは紙片を見つめていた。


「敵は、私の名を使い、白鐘紙の模倣を使い、アルトさんを単独で東渡り廊下へ誘導しようとしました」


 ユリウスが頷く。


「そう整理できる」


「東渡り廊下を確認する必要があります」


 ロウ教師が言う。


「当然だ。ただし、餌を追って罠へ入るな」


 リゼは即答した。


「はい。確認隊を編成し、アルトさんは同行させません」


 アルトは顔を上げた。


 リゼはすぐに彼を見る。


「本人意思を確認します。東渡り廊下の確認へ同行したいですか」


 アルトは左手首に触れた。


 怖い。


 でも、何があるのか知りたい。


 自分の机に置かれた紙の行き先だ。


 しかし、それはまさに敵の狙いかもしれない。


 自分を、そこへ向かわせること。


「行きたくないです」


 アルトは言った。


「怖いです。あと、行くと、紙に従ったみたいになります」


 ミリアが頷く。


「とても大事な判断ね」


 リゼも頷いた。


「本人意思、同行拒否。確認しました」


 アルトは続けた。


「でも、何があったかは知りたいです」


 ユリウスが答える。


「確認後、必ず共有する」


「はい」


 確認隊は、リゼ、ユリウス、クラウス、エレオノーラ、ロウ教師で構成された。


 ミリア、カイ、エリアナはアルトと残る。


 リゼは出発前にアルトの前へ立った。


「私は東渡り廊下を確認します。単独では行きません。あなたを一人にはしません」


 アルトは頷く。


「はい」


「私の名前を使った紙がありました。ですが、私本人の意思はこれです。あなたを単独で呼び出しません」


「確認しました」


 リゼはわずかに目を伏せ、すぐに顔を上げた。


「行って戻ります」


「はい」


 リゼたちが保護資料室を出た後、部屋にはアルト、ミリア、カイ、エリアナ、学園長が残った。


 学園長はあえて重い話を続けず、アルトへ椅子を示した。


「座りましょう」


 アルトは椅子に座る。


 左手首の冷えはほとんど消えている。


 ミリアが隣に座り、カイが向かいに立った。


「座る?」


 ミリアが聞くと、カイは首を振る。


「今は立ってる。扉が見えるから」


 学園長が微かに頷く。


「よい判断です。ただし、疲れたら座りなさい」


「はい」


 エリアナは香草袋を机の上には置かず、自分の手の中に持っている。


 アルトはそれを見る。


「香草袋は、大丈夫ですか」


 エリアナは少しだけ目を柔らかくした。


「はい。私のものとして持っています。落ち着くなら、香りだけ近づけます。置きません」


 アルトは頷いた。


「ありがとうございます」


 エリアナは袋を少しだけ近づけた。


 乾いた甘さと、かすかな苦味。


 左手首ではなく、呼吸が少し落ち着く。


「痛みなし。熱なし。冷えなし。声なし。香草の匂いで落ち着きました」


 カイが鞄から包みを出した。


「今日の分、もう名前決まった」


 ミリアが微笑む。


「聞いてもいい?」


「名前だけで信じない用」


 アルトは包みを見て、少しだけ笑った。


「適切だと思います」


 エリアナも頷く。


「はい。今日は、それがよいです」


 ミリアが言う。


「では、確認してからいただきましょう。中身は?」


 アルトは包みを開け、いつものように読み上げた。


「焼き菓子は小麦、卵、乳、林檎、杏。香草パンは小麦、卵、乳、蜂蜜、香草候補二、香草候補三。蜂蜜減量版。香草はエリアナさん調整です」


 エリアナが頷く。


「確認しました」


 保護資料室で食べる保存食は、少し奇妙だった。


 でも、アルトは食べた。


 食べられた。


 名前だけで信じない用。


 リゼの名が書かれた紙を信じなかった後で食べるには、苦味がちょうどよかった。


 カイが言った。


「俺さ、昨日も思ったけど、敵は名前とか字とか紙とか、そういうのは真似できるんだな」


 ミリアが頷く。


「ええ」


「でも、リゼがどう確認するかとか、アルトがどう報告するかとか、そういうのはズレる」


「そうね」


「じゃあ、そこを大事にすればいいんだよな」


 学園長が静かに言った。


「その通りです」


 カイは少し驚いた顔をした。


 学園長は続ける。


「形式は盗まれる。印も、紙も、筆跡も、名前も。だからこそ、関係の中で確認する言葉が重要になります」


 アルトは手元の記録表を見た。


 名前だけでは本人ではありません。


 そう書いたばかりの一行。


 リゼの名が使われた。


 でも、リゼではなかった。


 自分の名前も、いつか使われるかもしれない。


 本人意思。


 確認。


 それらの言葉も、形式だけ盗まれるかもしれない。


 だから、関係の中で確かめる。


 リゼたちは、しばらくして戻ってきた。


 リゼの顔は硬い。


 ユリウスは記録紙を持っている。


 クラウスの表情も険しい。


 東渡り廊下で何かが見つかったことは、入ってきた瞬間にわかった。


 リゼはまずアルトの前に立つ。


「戻りました。単独行動なし。全員無事です」


 アルトはすぐに答えた。


「確認しました」


 リゼは続ける。


「東渡り廊下に、黒い蔦状の微細術式がありました。床と窓枠に分散。特定位置へ立つと、周囲の声が届きにくくなる可能性があります」


 アルトの左手首が冷える。


「痛みなし。熱なし。冷え少し。声なし」


 クラウスが説明を引き継ぐ。


「完全な遮音ではない。だが、数秒から十数秒、呼びかけが遅れる。視界もわずかに狭まる可能性がある。そこに一人で立たされれば、次の誘導紙、あるいは黒札へ繋げられたかもしれない」


 カイが拳を握る。


「やっぱり罠かよ」


 ロウ教師が頷く。


「罠だ」


 ユリウスが記録を机に置く。


「さらに、廊下端の掲示板から一枚、剥がされた跡があった。内容はまだ不明。ただし、掲示板の隅に残った糊跡から、紙の大きさは学園掲示規格ではない」


 エレオノーラが続ける。


「剥がされた跡の上に、黒い蔦状刻線あり。何者かが紙を貼り、剥がした可能性があります」


 アルトは思った。


 あの紙に従っていたら。


 東渡り廊下へ、一人で行っていたら。


 リゼの名を信じて、確認せずに行っていたら。


 廊下で声が届きにくくなる。


 周りが遠くなる。


 誰かが次の紙を置く。


 次の誘導。


 次の一歩。


「僕は、行かなくてよかったんですね」


 アルトが言うと、リゼはすぐに頷いた。


「はい。行かなくてよかったです」


 ミリアが優しく言う。


「報告したことが、正しい行動だったわ」


 エリアナも頷く。


「名前だけで信じなかったことが、守りになりました」


 アルトは左手首に触れる。


 冷えは少しずつ下がる。


 痛みなし。


 熱なし。


 声なし。


 学園長は静かに言った。


「今後、アルト君に関わるすべての呼び出しは、本人確認会話を必須とします。名義、筆跡、封印だけでは認めません」


 リゼが頷く。


「同意します」


 ミリアも。


「合言葉だけでは足りません。会話が必要です」


 カイが言う。


「保存食の名前も、意味を聞く」


 リゼが真面目に頷く。


「有効です」


 エリアナが言った。


「香草も、置くだけでは意味がありません。誰のものとして、何のためにあるかを確認します」


 学園長は全員を見た。


「では、今日から正式に手順化します。ただし、形式だけにならないように」


 アルトは記録表へ書いた。


 呼び出しは、名前だけで信じない。


 筆跡だけで信じない。


 紙だけで信じない。


 本人確認会話。


 現在地、目的、同席者、本人意思。


 関係の中で確認する。


 夕方、アルトは自室へ戻った。


 もちろん、一人ではない。


 リゼと寮監が部屋を再確認し、異常がないことを確かめた。


 机の上には何もない。


 紙もない。


 窓は閉まっている。


 鍵は正常。


 それでも、アルトはしばらく机を見つめてしまった。


 ここに、紙があった。


 リゼより。


 その名が、ここに置かれていた。


「状態は」


 リゼが尋ねる。


 アルトは答える。


「痛みなし。熱なし。冷えなし。声なし。机を見ると少し怖いです」


「確認しました」


「でも、リゼさんではないとわかっています」


「はい」


 リゼは少しだけ間を置いた。


「私も、私の名が使われたことに怖さがあります」


 アルトはリゼを見る。


 リゼは机を見ていた。


「灰銀という名が使われたことと、今日の“リゼより”は同じではありません。ですが、本人から離れた名前が誰かを動かす点は似ています」


 アルトは頷いた。


「はい」


「私は、私の名前を使ってあなたを一人にする紙を、私ではないと確認します」


「はい」


「そして、私自身は、あなたを一人で呼び出しません」


「確認しました」


 リゼは深く頷いた。


 その後、食堂で夕食を取った。


 五人はいつもの席に座る。


 ただし、連絡板から見える位置。


 出入口が見える位置。


 閉じすぎない場所。


 カイは保存食の残りを確認しながら言った。


「名前だけで信じない用、残り少し」


 ミリアが言う。


「今日だけでかなり使ったものね」


「明日は別の名前にする」


 エリアナが少しだけ微笑む。


「明日があるのは、よいことです」


 アルトは頷いた。


「はい」


 夕食後、状態確認。


 アルト。


「痛みなし。熱なし。冷えなし。声なし。リゼさんの名前が使われた紙が怖かったです。でも、リゼさんの言葉ではないと確認できました。東渡り廊下へ行かず、報告できました」


 リゼ。


「身体異常なし。疲労あり。感情、重い。私の名が孤立誘導に使われました。ですが、これは私ではありません。私は本人確認会話を重視します」


 ミリア。


「身体異常なし。全員、名前と本人を分けて確認できました。形式だけではなく、関係で確認する必要があります」


 カイ。


「身体異常なし。怒りあり。保存食数、減少。名前だけで信じない用、残り少し。リゼならそんな呼び方しないって、ちゃんと覚えた」


 エリアナ。


「身体異常なし。疲労あり。怒りあり。白鐘紙を模倣したものが使われた可能性に反応しています。本物と決めません。ですが、消しません」


 リゼが頷いた。


「全員、確認しました」


 夜、自室へ戻る前、アルトはもう一度記録表を開いた。


 第10章三日目。


 机上紙片。


 東渡り廊下。放課後。一人で。リゼより。


 リゼさん本人否定。


 文体不一致。


 白鐘紙工房模倣可能性。


 封信蔦類似刻線。


 東渡り廊下に声の遅延術式。


 行かなかった。


 報告した。


 名前だけでは本人ではない。


 本人確認会話が必要。


 そう書いてから、左手首に触れた。


 痛みなし。


 熱なし。


 冷えなし。


 声なし。


 机の上には、もう紙はない。


 だが、アルトはその何もない机へ向かって、小さく言った。


「僕は、紙に呼ばれて一人で行きません」


 部屋の外から、カイの声がした。


「あと、リゼの名前を勝手に使うな」


 廊下で待っていたらしい。


 ミリアが小さく笑う声も聞こえた。


「声が大きいわ」


「小さくした」


 エリアナの静かな声が続く。


「でも、意味は届きました」


 リゼが最後に言った。


「現在地、王立学園男子寮。孤独ではありません」


 アルトは、扉の向こうに聞こえる声を聞いた。


 声は届いている。


 誰かが勝手に書いた紙ではなく、今そこにいる人たちの声。


 左手首は沈黙していた。


 アルトは記録表の最後に、一行を足した。


 リゼさんの名前でも、リゼさんの言葉でなければ従いません。


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