第10章 第2話:黒い蔦の影
朝の鐘は、普通に鳴った。
王立学園の鐘塔から、澄んだ音が三度落ちる。
一つ目。
廊下の空気が震える。
二つ目。
窓辺の花瓶の水面がわずかに揺れる。
三つ目。
遠くの教室から、生徒たちの声が動き始める。
アルト・レインフォードは、寮の部屋の机に置いた記録表へ、すぐに書き込んだ。
朝鐘。
痛みなし。
熱なし。
冷えなし。
声なし。
現在地、王立学園男子寮、自室。
それから左手首に触れる。
布の下の銀環は、沈黙していた。
昨日、学園へ帰還した。
中庭で一瞬だけ冷えがあった。
鐘塔の影に、黒い蔦のようなものが見えた気がした。
見間違いかもしれない。
でも、断定しない。
リゼにそう確認された。
アルトはもう一度窓の外を見る。
朝の鐘塔は、夕方よりずっと明るい。
壁には普通の蔦が絡んでいる。
緑色。
黒くはない。
風に揺れているだけ。
それでも、昨日の夕暮れに見た一瞬の黒い影が、目の奥に残っていた。
扉を叩く音がした。
「アルトさん」
リゼ・グレイスの声。
アルトは立ち上がる前に、記録表へもう一行を書く。
呼びかけ、リゼさん。
声、通常。
冷えなし。
「はい」
扉を開けると、リゼが廊下に立っていた。
灰銀の髪には、青いリボン。
制服はいつも通り整っている。
剣は持っていない。
学園内の通常移動では、彼女は剣を携行しない。
ただ、左側へ立とうとして、少しだけ距離を調整した。
近すぎない。
遠すぎない。
「朝の状態確認を行います」
「はい。痛みなし。熱なし。冷えなし。声なし。現在地、王立学園男子寮、自室前」
「感情は」
アルトは少し考えた。
「少し緊張しています。昨日の冷えと、鐘塔の影を思い出しています。でも、怖さは中くらいより下です」
「確認しました。移動可能ですか」
「はい」
リゼは頷いた。
「朝食へ向かいます。単独移動はありません」
その言葉に、アルトの胸が少し落ち着いた。
一人ではない。
廊下を歩き始めると、階段の下からカイ・ロックハートが手を振った。
「おーい」
すぐに、リゼが視線を向ける。
カイは慌てて声量を落とした。
「おはよう」
アルトは少し笑った。
「おはようございます」
カイは片手に小さな袋を持っている。
昨日の残り。
帰ってきても一人にしない用。
今朝は、新しい紙が貼られていた。
帰ってきた次の日も一人にしない用。
「長くなっていませんか」
アルトが言うと、カイは真剣に頷いた。
「重要なことを足したら長くなった」
リゼが即座に言う。
「意味は適切です」
「だろ」
階段を降りる途中で、ミリア・ファルネーゼと合流した。
金髪をきれいに結び、制服の襟元を整えている。
彼女は三人を見て、すぐにアルトの顔色を確認した。
「眠れた?」
「はい。途中で一度起きましたが、冷えも声もありませんでした」
「良好ね」
少し遅れて、エリアナ・ルクス・ヴェルグラントが女子寮側の廊下から現れた。
香草袋は今日は見えない。
鞄の中だろう。
彼女はアルトたちへ丁寧に頭を下げた。
「おはようございます」
「おはようございます」
五人が揃う。
それだけで、アルトの左手首の沈黙が少し安心に変わった。
食堂へ向かう廊下は、いつも通り騒がしい。
眠そうな生徒。
急いで走りそうになり、教師に注意される生徒。
パンの焼ける匂い。
食堂の方から聞こえる食器の音。
学園の日常。
だが、その日常の中に、ほんの小さなズレがあった。
最初に気づいたのは、ミリアだった。
食堂の入口横にある連絡板。
そこには、各寮宛の短い伝言や、授業変更の知らせ、部活動の予定が貼られている。
ミリアは何気なくそこを見て、眉をひそめた。
「あら」
リゼが反応する。
「異常ですか」
「私宛の伝言がないわ」
カイが言う。
「伝言?」
「昨日の夜、エレオノーラ先輩から、今朝の保護資料室の確認時間を連絡板にも出すと言われていたの。私にも伝える、と」
ミリアは連絡板を端から端まで確認する。
「でも、ない」
アルトの左手首が、ほんの少し冷えた。
痛みなし。
熱なし。
冷え、ごく少し。
声なし。
彼はすぐに言った。
「冷え、ごく少し。声なし。連絡板の欠落で反応しました」
リゼが頷く。
「確認しました。全員、連絡板から半歩下がってください」
生徒たちの邪魔にならない位置へ移動する。
リゼは連絡板へ触れず、目視で確認した。
「ミリアさん宛の伝言欠落。その他の伝言に異常があるか確認します」
カイが自分宛の欄を見た。
「俺の、ある。えっと……放課後、東渡り廊下へ。焼き菓子の件で。ミリアより」
ミリアがすぐに顔を上げた。
「私、そんな伝言を出していないわ」
空気が止まった。
アルトの左手首がもう一度冷える。
先ほどより少し強い。
「痛みなし。熱なし。冷え少し。声なし。偽伝言で反応しました」
カイは伝言紙を睨んだ。
「ミリアが書いたんじゃない?」
「違うわ」
ミリアは落ち着いているが、目が鋭い。
「それに、私がカイ君を呼ぶ時、“焼き菓子の件で”とは書かないと思う」
カイは少し考えた。
「たしかに。ミリアなら、“カイ君、保存食の名前について相談があります”とか書きそう」
ミリアはわずかに笑った。
「それも少し硬いけれど、近いわね」
リゼは伝言紙へ触れずに見る。
「筆跡は」
ミリアが目を細める。
「似せているけれど、違うわ。私の字より、少し角が強い」
カイの顔に怒りが浮かぶ。
「勝手に俺を呼び出そうとしてるってことか」
リゼが言う。
「可能性があります。単独行動を誘発する伝言です」
アルトは記録表を取り出した。
王立学園食堂前連絡板。
ミリアさん宛伝言欠落。
カイさん宛偽伝言。
内容、放課後、東渡り廊下へ。焼き菓子の件で。ミリアより。
ミリアさん本人否定。
冷え少し。
声なし。
孤独ではない。
書いている間に、エリアナが連絡板の端を見ていた。
「この紙、少し匂いが違います」
ミリアがすぐに尋ねる。
「紙の匂い?」
「はい。王都の紙ではないと思います。白鐘紙工房のものとも違います。でも、何かで香りを消そうとしたような匂いがあります」
リゼが頷く。
「接触なし。記録します」
カイが唇を結んだ。
「俺、行かないからな」
リゼはすぐに見る。
「本人意思、確認しました」
カイは伝言紙を見たまま言った。
「あと、俺の名前を使ってアルトを一人にしようとしてた可能性もあるだろ」
ミリアが頷く。
「そうね。カイ君が偽の呼び出しへ行けば、いつもの昼食や放課後の流れがずれる。アルトさんの近くにいる人が減るわ」
リゼの目が鋭くなる。
「これは通信遮断ではありません。関係遮断です」
その言葉に、アルトの左手首が冷えた。
だが、同時に、理解もあった。
通信を切るのではない。
人と人の間にある約束や伝言をずらす。
届くはずの言葉を届かなくする。
ある人の名前で、別の人を動かす。
友達を遠ざける。
「声が聞こえなくても、一人にされることはあるんですね」
アルトが言うと、ミリアが静かに頷いた。
「ええ。だから、気づけてよかったわ」
リゼはすぐに判断した。
「この伝言紙を現状保存します。触れずに、食堂職員とエレオノーラ先輩へ連絡。カイさんは東渡り廊下へ行きません。ミリアさん宛の欠落伝言は、直接確認します」
カイが頷く。
「了解」
ミリアが言った。
「朝食は?」
リゼは一瞬考えた。
「朝食は取ります。食事を抜くことも孤立誘導の影響になり得ます」
カイが強く頷いた。
「それは重要」
エリアナも静かに言う。
「はい。食べましょう」
食堂で席に着いても、アルトの左手首には冷えの名残があった。
痛みはない。
声もない。
でも、冷えたことは確かだ。
朝食のパンを取る手が少し遅れる。
カイがそれに気づき、袋から小さな包みを出した。
「朝食後用だけど、今置いとく」
包みには、やはりあの長い名前が書かれていた。
帰ってきた次の日も一人にしない用。
アルトは包みを見て、少しだけ息を吐いた。
「ありがとうございます」
カイは小声で言う。
「俺の名前で呼び出されても、俺はここにいるからな」
左手首の冷えが、少し下がった。
「痛みなし。熱なし。冷え低下。声なし。カイさんの言葉で落ち着きました」
カイは少しだけ驚いた後、真面目に頷いた。
「よし」
ミリアが食事を配りながら言う。
「伝言板は便利だけれど、便利なものは偽装されることがあるわ。これからは伝言を見たら、本人確認をしましょう」
リゼが頷く。
「本人確認会話を導入します」
ミリアは微笑んだ。
「会話、ね。合言葉だけではなく」
「はい。合言葉だけでは盗まれる可能性があります」
カイがパンをかじりながら言う。
「保存食名は盗めるかもしれないけど、意味までわかんないだろ」
エリアナが頷く。
「意味は、関係の中にあります」
アルトはその言葉を記録表に書いた。
意味は関係の中にある。
冷えなし。
少し安心。
朝食後、エレオノーラが食堂前へ来た。
連絡板の伝言紙は、すでに学園職員によって周囲ごと保護されている。
エレオノーラは偽伝言を見て、眉をわずかに動かした。
「私が出したミリアさん宛の伝言は、保護資料室での確認時間、午前第三時限後。これは掲示されていませんね」
ミリアが頷く。
「はい。欠落しています」
「カイさん宛の伝言は、私の記録にありません」
リゼが説明する。
「ミリアさん本人も否定しています」
エレオノーラは記録板へ書き込む。
「連絡板伝言欠落および偽伝言。関係遮断の可能性。紙片保存。筆跡確認。紙質確認。封信蔦類似反応の有無はクラウス先生へ依頼します」
アルトが左手首に触れる。
「痛みなし。熱なし。冷えなし。声なし」
エレオノーラは頷いた。
「反応の報告、記録しました」
第一時限は、予定通り参加することになった。
ただし、座席は少し調整された。
アルトの左右にリゼとカイ。
前にミリア。
斜め後ろにエリアナ。
過剰な囲い込みにならないよう、リゼは何度か距離を確認した。
授業中、教室の後方で小さな紙片が回ってきた。
最初は普通の授業連絡のように見えた。
生徒同士が課題の範囲を回すことは珍しくない。
しかし、その紙片はアルトの机の一つ前で止まった。
ミリアが受け取り、開く前に違和感を覚えた。
彼女は紙を開かず、リゼへ視線で知らせた。
リゼは手信号で答える。
開封停止。
教師へ報告。
授業は一時止まった。
生徒たちがざわつく。
アルトの左手首に、冷えが走った。
痛みなし。
声なし。
リゼがすぐに低く言う。
「現在地」
「王立学園講義室」
「名前」
「アルト・レインフォード」
「孤独ですか」
「いいえ」
ミリアは紙片を教師へ渡し、教師はそれを封筒に入れた。
開かないまま保護。
後で確認する。
カイが小声で言った。
「授業中までかよ」
リゼが答える。
「関係遮断は、時間を選ばない可能性があります」
アルトは記録表に書く。
講義中、未開封紙片。
冷え少し。
声なし。
開封せず保護。
孤独ではない。
授業再開後、教室の空気は少し固くなった。
しかし、授業は続いた。
途中で止めすぎない。
日常を全部消せば、敵の勝ち。
昨日、ミリアが言ったことを思い出す。
アルトは筆記を続けた。
左手首は少しずつ落ち着いた。
午前第三時限後、保護資料室へ向かう予定だった。
ミリア宛の本来の伝言だ。
今度は、エレオノーラ本人が直接迎えに来た。
廊下で彼女は言う。
「伝言板ではなく、本人確認のため直接来ました」
ミリアが頷く。
「ありがとうございます」
リゼも頷く。
「本人確認、良好です」
保護資料室では、クラウスがすでに連絡板の偽伝言紙と授業中の未開封紙片を確認していた。
偽伝言紙は、薄い保護板の上に置かれている。
触れない状態で、光を当てる。
クラウスは顔を上げた。
「封信蔦に似た微細な刻線がある」
部屋が静かになる。
アルトの左手首が冷えた。
「痛みなし。熱なし。冷え少し。声なし。“封信蔦に似た刻線”で反応しました」
クラウスは頷く。
「ただし、前回学園通信塔で確認した封信蔦よりずっと小さい。術式としては弱い。通信全体を遮断するものではなく、伝言の到達、注意の向き、行動導線をわずかにずらすものだ」
リゼが言う。
「関係遮断」
「その表現が近い。人と人の間の連絡を、完全に消すのではなく、少し遅らせる、少し間違えさせる、別の相手へ向ける。目立たないが、積み重なると孤立を作る」
アルトは胸の奥が冷えるのを感じた。
完全に切るのではない。
少しずつずらす。
ミリアの伝言が届かない。
カイが別の場所へ呼ばれる。
授業中に紙が回ってくる。
小さなズレが重なると、いつの間にか一人になる。
エリアナが低く言った。
「静かにすることと、声を奪うことは違います。これは、奪う方です」
クラウスは頷く。
「そうだ。しかも、声を奪ったと気づかれにくい」
カイが偽伝言紙を睨んだ。
「俺の呼び出しを勝手に使うな」
その言葉には怒りがあった。
だが、大声ではない。
カイは続ける。
「俺がそこへ行ったら、アルトの近くから俺が消える。ミリアの伝言が届かなければ、ミリアも別の予定になる。そうやって少しずつ減らすんだろ」
クラウスが頷いた。
「その通りだ」
カイは怒っている。
だが、言葉にしている。
リゼが静かに言った。
「敵は、私たちの行動導線を把握しつつあります」
ミリアが頷く。
「でも、関係の意味まではまだ理解していないわ。だから、少し不自然な伝言になる」
エレオノーラが記録する。
筆跡は似せているが不一致。
表現に不自然さ。
微細な封信蔦類似刻線。
伝言欠落、偽伝言、授業中紙片。
関係遮断の可能性。
クラウスは未開封紙片も確認した。
「こちらは開封前だが、外側に同じ刻線がある。開くと、受け取った者の注意を特定方向へ引く仕組みかもしれない。開封しなくて正解だった」
ミリアが静かに息を吐く。
「よかった」
アルトも左手首に触れた。
痛みなし。
熱なし。
冷え、ごく少し。
声なし。
「開けなかったことで、少し安心しています」
リゼが頷く。
「開けなかったことを成果として記録します」
その言葉に、アルトは地下扉を思い出した。
未開封の地下。
見つけても開けない。
今回も同じだ。
紙も、扉になる。
開ければわかるものでも、開けていいとは限らない。
昼食は、五人で中庭ではなく食堂の一角で取った。
周囲が見える場所。
出入口が二つ見える場所。
けれど、壁際に閉じこもる場所ではない。
リゼが選んだ席に、ミリアが少しだけ修正を加えた。
「ここなら、閉じすぎないわ」
リゼは頷く。
「修正を受け入れます」
カイが保存食袋を出す。
「昼の分」
ミリアが聞く。
「名前は?」
カイは少し考えた。
「伝言が変でも本人に聞く用」
リゼが即座に頷く。
「非常に適切です」
アルトも頷いた。
「僕も、それがいいです」
エリアナが静かに言う。
「はい。今日は、それがよいです」
カイは包みを開いた。
小さな焼き菓子と香草パンの欠け。
アルトは成分を読み上げる。
「焼き菓子は小麦、卵、乳、林檎、杏。香草パンは小麦、卵、乳、蜂蜜、香草候補二、香草候補三。蜂蜜減量版。香草はエリアナさん調整です」
エリアナが頷く。
「確認しました」
香草パンを食べながら、アルトは今朝からのことを考えた。
声は聞こえなかった。
次は、一人で来い、とは言われなかった。
でも、ミリアの伝言が消え、カイが偽の呼び出しを受けた。
それは声よりも静かで、気づきにくい。
「声がなくても、近くの人を減らされることがあるんですね」
ミリアが頷く。
「ええ」
アルトは左手首に触れる。
「怖いです。でも、今日は減りませんでした」
カイが言う。
「減らさない」
リゼが頷く。
「全員、現在地と関係を確認しています」
エリアナが香草パンを見つめながら言った。
「白鐘の布は、届きすぎる音を抑えるためだったかもしれません。でも、この紙は、届くべき言葉をずらしています」
ミリアが言う。
「目的が違うのね」
「はい。目的が違います」
リゼは記録表へ書き込む。
「白鐘本来手順の反転。伝言到達の歪曲。関係遮断」
カイが少し眉を寄せる。
「難しいけど、要するに、友達を減らす紙」
クラウスがいたら褒めたかもしれない。
リゼは真面目に頷いた。
「概ね適切です」
午後、学園内で追加確認が行われた。
食堂前連絡板。
講義室。
東渡り廊下。
寮の入口。
それぞれに、微細な黒い蔦のような刻線が見つかった。
どれも小さい。
気づかなければ見落とす。
強い術式ではない。
だが、伝言を遅らせ、視線を逸らし、足を別方向へ向ける程度の力はある。
アルトの銀環は、近くを通るたびにわずかに冷えた。
痛みなし。
熱なし。
冷え少し。
声なし。
その繰り返し。
アルトは何度も記録した。
リゼは何度も確認した。
ミリアは、そのたびに「報告できているわ」と言った。
カイは毎回「今ここにいる」と言った。
エリアナは、香草袋を見せるだけで、貸さなかった。
彼女のものとして、そこにある。
夕方、保護資料室で学園長への報告が行われた。
学園長は、連絡板と紙片の記録を見て静かに言った。
「敵は、学園の通信ではなく、関係を切りに来ていますね」
リゼが頷く。
「はい。完全な遮断ではなく、小さな欠落と偽伝言を利用しています」
クラウスが続ける。
「封信蔦の縮小型、あるいは派生型と見てよいでしょう。ただし、目的は通信塔の遮断ではなく、行動導線の歪曲です」
学園長はアルトを見る。
「アルト君。今日の反応は」
「冷えが複数回。痛みなし。熱なし。声なし。冷えは短時間で低下しました」
「孤独感は」
アルトは少し考えた。
「怖さはありました。でも、孤独ではありませんでした。みんなが近くにいました」
学園長は頷いた。
「その確認を継続しましょう」
ミリアが提案する。
「今後、伝言板や紙片での呼び出しは、本人確認会話を必須にした方がよいと思います」
リゼが頷く。
「同意します」
カイが言う。
「あと、変な伝言は開けない。食べ物の件でも」
学園長が少しだけ笑った。
「重要ですね」
エリアナが静かに言った。
「紙は、記録を残すものです。でも、嘘を載せることもできます」
学園長は頷く。
「だから、誰の言葉かを確認します」
その場で、新しい手順が決まった。
伝言は本人確認を通す。
単独呼び出しは禁止。
呼び出しには現在地、目的、同席者を明記する。
ただし、形式だけではなく、本人確認会話を行う。
伝言紙に違和感があれば開封せず保護。
食堂、寮、講義室、中庭の連絡板は毎朝確認。
黒い蔦の微細刻線が見つかった場所は、クラウスが封じる。
しかし、日常導線をすべて止めない。
孤立誘導に対抗するためには、日常を残す。
夜。
寮へ戻る前、アルトは中庭を通った。
昨日、冷えが一瞬あった場所。
今日は、リゼ、ミリア、カイ、エリアナが一緒にいる。
鐘塔の影が長く伸びている。
アルトは足を止め、昨日と同じ場所を見た。
普通の蔦。
夕方の影。
黒く見えなくもない。
だが、今日は少し違う。
見間違いかもしれないと思うだけではなく、確認できる。
リゼが隣で言う。
「視認範囲、異常なし。ただし、鐘塔壁面の蔦影が黒く見える角度あり。後ほどクラウスさんへ確認依頼」
アルトは頷いた。
「はい」
その時、左手首が一瞬だけ冷えた。
すぐに報告する。
「痛みなし。熱なし。冷え一瞬。声なし。鐘塔方向確認時」
ミリアが言う。
「現在地は」
「王立学園中庭」
カイが言う。
「同席者」
「リゼさん、ミリアさん、カイさん、エリアナさん」
エリアナが静かに言う。
「孤独ですか」
アルトは左手首から手を離した。
「いいえ」
冷えはもう消えていた。
声もない。
だが、鐘塔の蔦影が、風で揺れた。
一瞬だけ、黒く見えた。
まるで、どこかで見た封信蔦の細い線のように。
リゼが低く言った。
「黒い蔦の影。断定しません。記録します」
アルトは頷いた。
「はい」
寮へ戻ると、机の上に一枚の紙が置かれていた。
アルトはそれを見て、息を止めた。
見覚えのない紙。
白く、薄い。
折り目は一つ。
封はされていない。
机の中央に、まっすぐ置かれている。
部屋の扉には鍵をかけていた。
窓も閉めていた。
アルトの左手首が冷えた。
痛みなし。
熱なし。
声なし。
冷え、少し強い。
リゼが即座に前へ出る。
「触れないでください」
「はい」
ミリアが廊下へ出て、教師を呼ぶ。
カイが扉の前に立つ。
エリアナが少し離れた位置で香草袋に触れる。
アルトは記録表を開く。
王立学園男子寮、自室。
机上に未確認紙片。
侵入経路不明。
痛みなし。
熱なし。
冷え少し強い。
声なし。
孤独ではない。
リゼは紙を開かず、外側だけを見る。
そこには、短い文字が書かれていた。
開かなくても見える場所に。
東渡り廊下。
放課後。
一人で。
アルトの左手首が、さらに冷えた。
痛みなし。
声なし。
冷え、強い。
リゼの声が静かに落ちる。
「孤立誘導です」
アルトは息を吸った。
次は、一人で来い。
その声の残りが、胸の奥で震える。
だが、今日は答えを知っている。
紙の上の言葉にも、答えられる。
「拒否します」
リゼが頷く。
「確認しました」
カイが扉の前で言った。
「俺も拒否」
ミリアが教師を連れて戻ってくる。
「開けずに保護しましょう」
エリアナが香草袋を握ったまま言った。
「これは、守る静けさではありません」
アルトは紙から目を離さず、左手首を押さえた。
冷えは少しずつ引いていく。
痛みはない。
声もない。
ただ、机の上の紙が、そこにある。
関係を切るための紙。
一人にするための紙。
アルトは記録表の最後に、一行を書いた。
紙に呼ばれても、一人では行きません。




