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灰銀の戦乙女は、制服を知らない  作者: 最後に残った形


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第9章 第15話:布の奥の音


 扉は、開けなかった。


 昨日、白鐘北礼拝堂跡の奥にある地下扉の前まで行き、そこで止まった。


 孤独な音は、ここより先へ通すな。


 扉の上には、そう刻まれていた。


 扉には取っ手がなく、石面には白鐘と蔦の刻みがあり、左右の金属帯は破断していなかった。


 下部には灯皿を置く窪み。


 横には香草を差し込んだような三つの穴。


 布を掛けるための溝。


 布、灯、香草。


 それらの手順痕がある。


 けれど、開けなかった。


 アルト・レインフォードは宿場の食堂で昨日の記録を見つめながら、左手首に触れていた。


 痛みはない。


 熱もない。


 声もない。


 だが、記録表の最後に書いた一文が、今朝も胸に残っている。


 扉の前でも、孤独ではなかった。


 その一文を見るたび、左手首ではなく、胸の奥が少し温かくなった。


「痛みなし。熱なし。声なし。現在地、北西宿場の食堂」


 アルトが言うと、隣のリゼ・グレイスが頷いた。


「確認しました」


 リゼは今日も灰銀の髪を青いリボンでまとめている。


 剣は腰にない。


 布で包まれ、鞄の側面に固定されていた。


 最初に使うものではない。


 昨日、彼女は扉を制圧対象として扱わなかった。


 突破しなかった。


 それは大きな確認だった。


 だが、今日はもう一つ確認することがある。


 扉の前で聞こえた、音のこと。


 昨日の撤収直前、アルトは確かに何かを聞いた気がした。


 声ではない。


 鐘でもない。


 布が擦れるような、かすかな音。


 ただ、その時は全員が撤収に集中していたため、記録には「扉前、音感覚あり。未確認」とだけ残された。


 今日は、その音を確認する。


 ただし、扉は開けない。


 触れない。


 叩かない。


 耳を扉につけない。


 銀環を近づけて反応を誘発しない。


 音を確認するために危険へ近づかない。


 エリアナ・ルクス・ヴェルグラントは、香草袋を膝の上に置いていた。


 昨日、扉前で香りが強くなったように感じられた袋。


 今日は使うかどうかを、改めて本人が決める。


 記録ではなく、彼女のもの。


 ミリア・ファルネーゼが、エリアナへ声をかけた。


「状態は」


 エリアナは香草袋に軽く触れた。


「身体異常なし。感情、怖さ。昨日より少し落ち着いています。でも、扉の前の音が気になります」


 エレオノーラ・ヴィンスフェルトが記録する。


 ミリアは頷いた。


「続けられる?」


「はい。続けたいです」


 ユリウス・エインズワースが計画書を開いた。


「本日の目的。白鐘北礼拝堂跡地下扉前の音感覚確認。扉および周辺の布痕、香草穴、灯皿窪み、金属帯を再確認する。開封なし。接触なし。反応誘発なし。扉前に長時間留まらない。音が確認された場合も、接近距離を増やさない」


 クラウス・ヴァイゼルが補足する。


「昨日、扉前の布溝と香草穴を確認した。白鐘の手順は、音を増幅するものではなく、抑制するものだった可能性がある。今日確認する音が、残留機構による布擦れ音なのか、空気の流れなのか、封印反応なのかは未確定だ」


 アルトの左手首がわずかに温かくなる。


「痛みなし。熱ごく少し。声なし。“音を抑制する”で少し反応しました」


 リゼが確認する。


「怖い反応ですか」


「怖くはありません。少しだけ」


 カイ・ロックハートが保存食袋を抱えて言った。


「音を聞くって言うと、つい耳を近づけたくなりますけど」


 ロウ教師が壁際で見る。


 カイは自分で続けた。


「近づけません。耳も手も。扉に」


 ロウ教師が頷く。


「よし」


 カイは少しだけ安心した顔をする。


「今日は、耳だけ突撃しない」


 ミリアが小さく笑った。


「良い言い方ね」


 リゼは真面目に頷いた。


「重要です」


 出発前の状態確認。


 アルト。


「痛みなし。熱なし。声なし。扉前の音が気になります。でも、聞くために近づきすぎません」


 リゼ。


「身体異常なし。感情、緊張。地下扉前確認を行います。扉を開けません。制圧しません。距離と退避を管理します」


 エリアナ。


「身体異常なし。怖さ、少し落ち着き。香草袋を持っています。今日は、扉前で開けません。置きません。ただ、持っています」


 ミリア。


「身体異常なし。全員の緊張は高いですが、昨日より言葉にできています。扉前滞在時間を短くしましょう」


 カイ。


「身体異常なし。馬車酔いなし。保存食数、良好。耳も手も突撃しません。あと、変な音がしても勝手に大声を出しません」


 リゼが頷く。


「非常に重要です」


 カイも頷いた。


「はい」


 宿を出る。


 空は薄く曇っていた。


 馬車で分岐まで行き、そこから徒歩で古道へ入る。


 白布の石柱は、今日も谷の入口で揺れている。


 こす。


 こす。


 布が石に触れる音。


 いつも聞いている音なのに、今日は少し違って聞こえた。


 昨日、地下扉の前で感じた音と似ている気がしたからだ。


 アルトの左手首が温かくなる。


「痛みなし。熱少し。声なし。白布確認。布擦れ音で少し反応しました」


 エリアナの香草袋から、かすかな香りが漏れる。


 熱が少し落ち着く。


 全員が白布に頭を下げる。


 触れない。


 ほどかない。


 声を落として、谷へ入る。


 鳴らさぬ谷の中は静かだった。


 足音が鈍く、風の音が遠い。


 だが、今日はその静けさの中に、薄い布がどこかで擦れているような感覚がある。


 実際に聞こえているのか。


 記憶がそう聞かせているのか。


 アルトにはまだわからない。


 だから、記録する。


「痛みなし。熱少し。声なし。布擦れに似た音感覚あり。場所不明」


 エレオノーラが記録する。


 灰銀突破点の石碑前で止まる。


 リゼが現在地を言う。


「鳴らさぬ谷奥部参道。王国軍戦功記録名、灰銀突破点。白鐘北礼拝堂跡前方。地下扉前音感覚確認へ向かっています。突破ではありません」


 エリアナが頷く。


「はい」


 石碑を通過する。


 礼拝堂跡へ向かう。


 布掛け梁。


 灯皿棚。


 香草痕。


 焦げ跡。


 奥の地下扉。


 入口前で、ユリウスが全員を止める。


「昨日と同じく段階確認。入口、三歩、五歩、八歩。扉前滞在は短く。音が確認された場合、扉へ近づかず、その場で記録する」


 クラウスが小さな測定具を取り出した。


 音を拾うためのものではない。


 空気の流れと封印反応の変化を見るための器具だ。


「これを床に置く。扉には触れない」


 リゼが足元と退避経路を確認する。


「退避経路、入口まで八歩。中央瓦礫へ近づきません。奥へ追加接近しません」


 エリアナが言った。


「私は、今日は七歩地点まで進みます。扉前までは行きません」


 リゼが頷く。


「本人意思、確認しました」


 アルトは左手首に触れる。


「僕は八歩地点まで行きます。扉には触れません。音がしても、追加で近づきません」


「本人意思、確認しました」


 内部へ入る。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 止まる。


 礼拝堂跡の空気は冷たい。


 昨日と同じ場所なのに、今日は音を探してしまう。


 それが少し怖い。


 探しすぎると、聞こえないものまで聞いてしまいそうだからだ。


 ミリアが低く言う。


「探しすぎないで。聞こえたら言う、でいいわ」


 アルトは頷いた。


「はい」


 五歩地点へ進む。


 扉が近づく。


 上部の文字が読める。


 孤独な音は、ここより先へ通すな。


 アルトの左手首が温かくなる。


「痛みなし。熱少し。声なし。五歩地点、継続可能」


 エリアナも言う。


「身体異常なし。怖いです。七歩まで進みます」


 六歩。


 七歩。


 エリアナはそこで止まった。


 香草袋を持つ手が少し震えている。


 だが、彼女は自分で位置を決めた。


 リゼが記録するように言う。


「エリアナさん、七歩地点で停止。本人意思による距離設定」


 エレオノーラが記録する。


 アルトは八歩地点へ進む。


 扉前。


 昨日と同じ距離。


 石面は冷たく、静かだ。


 白鐘と蔦の刻み。


 布を掛ける溝。


 灯皿の窪み。


 香草穴。


 金属帯。


 封帯に破断はない。


 開けられた痕跡も、見えない。


 アルトの左手首が熱を持つ。


「痛みなし。熱中より弱い。声なし。八歩地点、扉前。継続可能」


 クラウスが測定具を床に置く。


「空気の流れは微弱。封印反応、安定」


 その時だった。


 こす。


 小さな音がした。


 入口の白布よりも、もっと深い音。


 布が石に触れる音に似ている。


 だが、外からではない。


 扉の奥から。


 あるいは、扉の内部の溝から。


 アルトの左手首が熱を持った。


「痛みなし。熱中。声なし。布擦れに似た音を確認。扉の奥、または扉内部からに感じます」


 全員が止まった。


 カイが入口外から息を呑む音だけが聞こえる。


 クラウスが測定具を見る。


「封印反応、わずかに変化。危険反応ではない。空気圧の変化か、内部機構か」


 こす。


 もう一度。


 布が擦れる音。


 エリアナが七歩地点で香草袋を握る。


「聞こえます」


 声が震えている。


「布の音に聞こえます」


 ミリアが確認する。


「状態は」


「身体異常なし。怖いです。でも、声ではありません。鐘でもありません」


 アルトも言った。


「声ではありません。鐘でもありません。布の奥の音です」


 リゼがすぐに記録するように言う。


「布の奥の音。声ではない。鐘ではない。接近しない」


 エレオノーラが記録する。


 クラウスは扉を見つめた。


「白鐘封の内部に、布状の遮音機構が残っている可能性がある。あるいは、かつて掛けられていた布の痕跡が、空気の流れで反応しているのかもしれない」


 アルトの左手首の熱が少し下がる。


「遮音機構」


 クラウスが頷く。


「音を響かせるためではなく、抑えるための機構だ」


 リゼが静かに言った。


「白鐘封は、増幅装置ではなく抑制装置である可能性が高まります」


 クラウスが頷く。


「そう言える。ただし、断定には追加確認が必要だ」


 エリアナが低く言った。


「鐘を鳴らさないための布」


「はい」


「声を奪うためではなく、届きすぎる音を抑えるため」


「その可能性があります」


 アルトは扉を見た。


 孤独な音は、ここより先へ通すな。


 布の奥の音。


 それは、呼ぶ音ではない。


 誘う音でもない。


 むしろ、何かを外へ出さないように、静かに動いている音のようだった。


「怖いです」


 アルトは言った。


「でも、呼ばれている感じではありません。止めている感じです」


 ミリアが頷く。


「記録しましょう」


 エレオノーラが記録する。


 その時、リゼが扉の右側の石枠へ視線を向けた。


「刻みがあります」


 クラウスが接触せずに光を当てる。


 扉右側の石枠。


 蔦の模様に紛れるように、細い刻線があった。


 自然の亀裂ではない。


 誰かが後から刻んだような線。


 リゼの目が細くなる。


「封信蔦に似ています」


 アルトの左手首が熱を持った。


「痛みなし。熱少し上昇。声なし。“封信蔦”で反応しました」


 エリアナの表情も硬くなる。


 封信蔦。


 学園の通信塔を歪め、声を奪い、届くはずの通信を乱した術式。


 本来の白鐘手順を歪めたものかもしれない術。


 クラウスは慎重に石枠を見る。


「これは封信蔦そのものではない」


 少し間を置いて、続けた。


「だが、同じ発想で作られている」


 空気が重くなる。


 カイが入口外から小さく言った。


「同じ発想って」


 クラウスは答える。


「白鐘の本来手順は、音を抑え、過剰な響きを防ぐものだった可能性がある。封信蔦は、その“抑える”を“届くべき声を塞ぐ”方向へ反転させた。今ここにある刻みは、白鐘手順に似た構造を持つが、少し外側から重ねられている」


 リゼが言った。


「敵は、抑える手順を、響かせる手順へ反転させています」


 クラウスが頷く。


「あるいは、抑える手順を、孤立させる手順へ反転させている」


 アルトは左手首を押さえた。


 痛みなし。


 熱少し。


 声なし。


 友達を近づけるな。


 扉へ来るな。


 鐘を鳴らすな。


 それらは守る言葉ではなく、孤立誘導だった可能性がある。


 今、その手口の痕跡が、扉の外側にある。


 白鐘本来の扉に、後から誰かが似た発想の刻みを重ねたのかもしれない。


「誰かが、ここに後から手を加えた可能性がありますか」


 アルトが聞くと、クラウスは頷いた。


「可能性がある。ただし、扉自体は未開封に見える。つまり、内部へ入らず、外側から手順をなぞった、または真似た可能性がある」


 エリアナが低く言った。


「中を知らずに、外側だけを使った」


「可能性です」


「白鐘の守る手順を、外側から歪めた」


「可能性です」


 リゼが扉を見る。


「封信蔦の原型、または類似思想がここにあります」


 クラウスが言う。


「“原型”とまでは言わない方がよい。だが、白鐘手順を理解した者、または部分的に利用した者が、同じ発想で術式を作った可能性が高い」


 ミリアが言った。


「だから、地下が未開封でも、白鐘の情報は外へ漏れていた可能性があるのね」


 クラウスは頷く。


「そうだ。内部を開けなくても、扉前の手順や石枠の刻み、外部資料、儀礼記録から十分な情報を得た者がいたのかもしれない」


 エリアナが香草袋を握る。


「では、母の手帳や誰かの記録が、使われたのかもしれない」


 誰も否定しなかった。


 リゼが静かに言った。


「個人記録が、封信蔦または孤立誘導の技術理解に使われた可能性があります」


 エリアナの顔色が変わった。


 ミリアがすぐに声をかける。


「状態は」


 エリアナは息を吸った。


「身体異常なし。強い怒り。怖さ。母の言葉が、誰かを一人にする術に使われたかもしれないと思いました」


 リゼがすぐに言う。


「断定しません」


「はい。断定しません」


 エリアナは扉を見る。


「でも、その可能性は消しません」


「はい」


 こす。


 また、布の奥の音がした。


 今度は少し小さかった。


 アルトの左手首は熱を持たなかった。


 不思議と、落ち着いていた。


「痛みなし。熱少し。声なし。布の音、三回目。怖さ低下。呼ばれていません」


 クラウスが測定具を見る。


「反応は安定。音の発生は、こちらの存在に対する応答というより、内部の空気変化か、古い機構の残留動作に見える」


 ユリウスが判断する。


「本日の目的は達した。追加確認なし。扉前から撤収する」


 アルトは頷いた。


「撤収に同意します」


 エリアナも言った。


「戻りたいです」


 リゼが即座に頷く。


「本人意思、確認しました。撤収します」


 八歩地点から戻る。


 七歩。


 六歩。


 五歩。


 三歩。


 入口外へ。


 外の空気に触れると、アルトの左手首の熱はさらに下がった。


「痛みなし。熱ごく少し。声なし。入口外へ戻りました」


 エリアナも息を吐いた。


「身体異常なし。疲労。怒りがあります。戻れてよかったです」


 リゼも言う。


「身体異常なし。退避完了。接触なし。開封なし」


 ミリアが頷く。


「良好よ。今日はここまで」


 礼拝堂跡から離れた参道脇で休憩を取る。


 カイが保存食の包みを取り出した。


 ミリアが尋ねる。


「名前は?」


 カイはかなり悩んだ。


 布の奥の音。


 抑える手順。


 孤立させる手順。


 白鐘の守りが歪められたかもしれないこと。


 やがて、彼は小さく言った。


「守る布を変な使い方にしない用」


 エリアナが目を伏せ、静かに頷いた。


「はい。今日は、それがよいです」


 リゼも言った。


「適切です」


 アルトも頷いた。


「僕も、それがいいです」


 カイは包みを開いた。


 小さな焼き菓子と、香草パンの欠け。


 アルトは成分を読み上げる。


「焼き菓子は小麦、卵、乳、林檎、杏。香草パンは小麦、卵、乳、蜂蜜、香草候補二、香草候補三。蜂蜜減量版。香草はエリアナさん調整です」


 エリアナが頷く。


「確認しました」


 香草パンを噛む。


 苦味がある。


 だが、今日はその苦味の奥に、乾いた布の匂いが混じるような気がした。


 アルトは左手首に触れる。


 痛みなし。


 熱なし。


 声なし。


 カイが小さく言った。


「布って、守るためにも使えるし、隠すためにも使えるんですね」


 ミリアが頷く。


「ええ」


「あと、声を優しく抑えるのと、声を奪うのは違う」


 クラウスが頷いた。


「とても重要だ」


 カイは少し驚いたが、今日は照れなかった。


「じゃあ、封信蔦って、声を奪う方なんですね」


 クラウスは慎重に答える。


「少なくとも、学園で確認された封信蔦は、届くべき声を遮断し、情報を歪めた。白鐘本来の“過剰な響きを抑える”手順とは目的が違う」


 リゼが言った。


「静かにすることと、声を奪うことは違います」


 アルトはその言葉に反応した。


 自分が以前言った言葉だ。


 エリアナも静かに頷く。


「はい。違います」


 リゼは続けた。


「白鐘封は、静かにするための手順であった可能性があります。敵は、それを声を奪う手順へ反転させた可能性があります」


 アルトは左手首に触れた。


「僕を一人にする声も、その反転かもしれません」


 ミリアが頷く。


「ええ」


 カイが言う。


「だから、近くにいる」


 アルトは頷いた。


「はい」


 休憩後、ユリウスが本日の確認を整理した。


「地下扉前で布擦れに似た音を確認。声ではない。鐘ではない。扉内部または扉周辺の遮音機構由来の可能性。扉右側石枠に封信蔦に類似する発想の刻みを確認。ただし封信蔦そのものではない。白鐘手順が外部から転用、反転された可能性。開封なし。接触なし。撤収完了」


 エレオノーラが記録を読み返す。


 クラウスが追加した。


「重要なのは、地下が未開封に見える一方で、外側の手順や記録から白鐘の知識が利用された可能性がある点だ。つまり、地下を開けた者がいなくても、白鐘の技術が歪められた可能性がある」


 エリアナが言った。


「誰かの記録が、扉を開けずに使われた」


 クラウスは頷く。


「可能性です」


「はい。可能性として記録してください」


 エレオノーラが記録する。


 帰り道、灰銀突破点の石碑の前で、リゼは立ち止まった。


「私は、白鐘封が増幅装置ではなく抑制装置である可能性を確認しました」


 エリアナが頷く。


「はい」


「敵は、その抑制手順を、孤立または声の遮断へ反転させた可能性があります」


「はい」


「私は、抑えることと奪うことを混同しません」


 エリアナは静かに答えた。


「はい」


 谷を出ると、音が戻った。


 鳥の声が近い。


 風が木々を揺らす音がはっきり聞こえる。


 アルトはその音を聞いて、少し安心した。


 声が届く。


 音が戻る。


 それは当たり前ではなかった。


 宿へ戻ると、エレオノーラが記録を整理した。


 白鐘北礼拝堂跡地下扉前音感覚確認。


 布擦れ音三回確認。


 声・鐘ではない。


 遮音機構可能性。


 石枠外側に封信蔦類似発想の刻線。


 封信蔦そのものではない。


 白鐘本来手順の外部転用・反転可能性。


 開封なし。


 接触なし。


 アルトはその記録を見て、少しだけ息を吐いた。


 開けなかった。


 今日も。


 それでも、わかったことがある。


 開けることだけが、知ることではない。


 夕食後、五人は食堂の隅で状態確認をした。


 アルト。


「痛みなし。熱なし。声なし。布の奥の音は怖かったですが、呼ばれている感じではありませんでした。声を奪うことと静かにすることは違うと確認しました」


 リゼ。


「身体異常なし。疲労あり。感情、重い。白鐘封は抑制手順であり、敵はそれを孤立誘導または遮断へ反転させた可能性を確認しました。混同しません」


 エリアナ。


「身体異常なし。疲労あり。怒り、怖さ。母の言葉や誰かの記録が歪められた可能性に怒っています。断定しませんが、消しません」


 ミリア。


「身体異常なし。全員、今日も扉前で止まれました。音を聞いても近づきませんでした。良好です」


 カイ。


「身体異常なし。馬車酔いなし。保存食数、減少。守る布を変な使い方にしない用、残りなしです」


 リゼが頷いた。


「使用、適切でした」


 カイは少しだけ笑った。


 アルトは記録表を開く。


 布の奥の音。


 声ではない。


 鐘ではない。


 呼ばれていない。


 抑える手順。


 声を奪う手順ではない。


 封信蔦に似た発想の刻み。


 白鐘本来手順の反転可能性。


 静かにすることと、声を奪うことは違う。


 そう書いてから、左手首に触れる。


 痛みなし。


 熱なし。


 声なし。


 宿の外では、夜が降りていた。


 鳴らさぬ谷は暗く、白鐘北礼拝堂跡も見えない。


 地下扉の向こうで、まだ布が擦れているのかどうかもわからない。


 だが、アルトの耳には、その音が少し残っていた。


 こす。


 こす。


 呼ぶ音ではない。


 拒む音でもない。


 何かを静かに守ろうとする音。


 そして、その守るための静けさを、誰かが奪うための静けさへ変えようとした可能性。


 アルトは最後に、記録表へもう一行を書いた。


 僕は、静かにされることと、黙らされることを分けます。


 左手首は、何も返さなかった。


 それが今夜は、少しだけ安心だった。


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