第9章 第8話:礼拝堂跡
白鐘北礼拝堂跡へ入るかどうかは、朝食の前に一度決め、朝食の後にもう一度決めた。
決めた、というより、確認した。
行けるか。
戻れるか。
止まれるか。
誰かが無理をしていないか。
誰かが「行かなければならない」と思っていないか。
宿場の食堂の隅で、ユリウス・エインズワースは現地確認計画書を開いていた。
その横でエレオノーラ・ヴィンスフェルトが記録板を構えている。
ロウ教師は壁際に立ち、クラウス・ヴァイゼルは封印測定具の針を一つ一つ確認していた。
窓の外は朝の薄い光。
北西街道の空気は、王都の朝より少し冷たい。
アルト・レインフォードは左手首に触れた。
痛みはない。
熱もほとんどない。
声もない。
「痛みなし。熱ごく少し。声なし。現在地、北西宿場の食堂」
隣に座るリゼ・グレイスが頷く。
「確認しました」
リゼは昨日よりさらに静かだった。
灰銀の髪には青いリボン。
剣は腰ではなく、鞄の側面に布で包まれている。
最後の手段。
彼女はそれを今日も守っている。
だが、今日向かう場所は、これまでよりさらに深い。
灰銀突破点の石碑の奥。
王の血を、ここより先へ持ち込むな。
音、乱れる。
そう刻まれた石の先。
白鐘北礼拝堂跡。
リゼの戦時記録では、敵拠点跡、または敵支援施設跡として処理された可能性がある場所だった。
エリアナ・ルクス・ヴェルグラントは、香草袋を両手で包むように持っていた。
袋の紐は強く閉めすぎていない。
香りはほとんど外へ出ていない。
けれど、そこにあるだけで、彼女の手元が少し落ち着いて見える。
ミリア・ファルネーゼが、エリアナへ静かに声をかけた。
「状態は」
エリアナは一度、目を伏せる。
「身体異常なし。感情、怖さ。怒り。少し、期待もあります」
その言葉に、ミリアは小さく頷いた。
「期待も記録してよい?」
「はい」
エレオノーラが記録する。
エリアナは続けた。
「母の言葉に関わる場所かもしれないと思うと、怖いです。でも、何かが残っているかもしれないと思うと、見たいです」
リゼが静かに言った。
「本人意思、確認しました」
エリアナは頷く。
「はい。本人意思です」
ユリウスが計画書を読み上げる。
「本日の目的。白鐘北礼拝堂跡外部および入口部の確認。布掛け梁、灯皿棚、香草乾燥痕、焼け跡の有無を確認する。礼拝堂跡内部への立ち入りは、現地で安全確認後、短時間のみ。地下構造物を発見した場合、接近前に停止。開封しない。扉があっても開けない」
アルトの左手首が、最後の言葉に少し温かくなる。
「痛みなし。熱少し。声なし。“扉”で反応しました」
リゼがすぐに確認する。
「継続可能ですか」
「はい。声はありません」
クラウスが頷いた。
「今日の目的は、礼拝堂跡の“外と入口”だ。地下があっても、開けることは成果ではない」
カイ・ロックハートが保存食袋を抱えながら言う。
「見つけたら勝ち、じゃなくて、見つけても止まる、ですね」
ロウ教師が頷いた。
「そうだ」
「今日は、止まる練習が多いですね」
「確認は、半分以上が止まることだ」
カイは真剣に頷いた。
「はい」
出発前、全員が状態を確認した。
アルト。
「痛みなし。熱ごく少し。声なし。怖いですが、行きたいです。止まる条件も確認しました」
リゼ。
「身体異常なし。感情、緊張。白鐘北礼拝堂跡接近により戦時記憶接近の可能性あり。私は敵拠点跡としてではなく、礼拝堂跡として確認します。剣は最後の手段です」
エリアナ。
「身体異常なし。怖さ、怒り、期待。香草袋を持っています。記録ではなく、私のものとして」
ミリア。
「身体異常なし。全員の負荷が高いです。入口確認後、必ず休憩を入れましょう」
カイ。
「身体異常なし。馬車酔いなし。保存食数、良好。声量調整、継続。地下を見つけても突撃しません」
リゼが即座に頷く。
「重要です」
カイは少し緊張した顔で頷いた。
「はい」
宿を出る。
馬車で分岐まで行き、そこから徒歩で古道へ入る。
もう何度も通った道なのに、今日は空気が違って感じられた。
白布の石柱が見える。
風に揺れている。
こす。
こす。
布が石に擦れる音。
アルトの左手首が温かくなる。
「痛みなし。熱少し。声なし。白布確認」
エリアナの香草袋から、ほんの少し香りが漏れた。
熱は少し落ち着く。
リゼは白布へ静かに頭を下げた。
全員も同じようにする。
触れない。
ほどかない。
声を落として入る。
谷へ入ると、音が遠くなった。
鳥の声が、薄い布の向こうから届くように聞こえる。
足音も、自分の足元ではなく少し後ろを歩いているように感じる。
カイは小さく言った。
「今日は、最初から耳が変です」
クラウスが頷く。
「記録する。体感の慣れではなく、場所の影響の可能性もある」
エレオノーラが記録する。
古い石段を上る。
昨日確認した灰銀突破点の石碑が見えてくる。
リゼの呼吸が少し変わった。
アルトはすぐに言う。
「リゼさん」
「はい」
「現在地」
「鳴らさぬ谷奥部参道。灰銀突破点石碑前方」
「名前」
「リゼ・グレイス」
「今は」
「王立学園の生徒。現地確認中です」
リゼは石碑を見る。
表に灰銀突破点。
裏に王の血を持ち込むな。
今日も、その前で止まる。
突破しない。
石碑へ一礼し、表も裏も無視せず通過する。
その先に、白鐘北礼拝堂跡があった。
最初に見えたのは、屋根ではなかった。
屋根はほとんど崩れている。
壁も、半分以上が失われていた。
木々の間に、灰白色の石壁が残っている。
入口らしき場所には、梁の一部が残り、その上に布を掛けていたような溝があった。
礼拝堂というより、廃墟。
だが、近づくにつれて、そこがただの廃墟ではないことがわかる。
壁の内側に、灯皿を置くための浅い棚。
柱の横に、布を吊るすための小さな穴。
風の通り道に沿って作られた細い窪み。
乾いた香草を置いたのか、焦げたような、甘く苦い匂いが石の近くにわずかに残っている。
エリアナの香草袋が、彼女の手の中でかすかに香った。
アルトの左手首が温かくなる。
痛みはない。
声もない。
「痛みなし。熱少し。声なし。礼拝堂跡視認で反応しました」
クラウスが測定具を見る。
「強い危険反応なし。古い封印反応が薄く残っている。入口部分は安定しているように見えるが、内部は未確認」
ユリウスが頷いた。
「入口前で停止。状態確認」
全員が止まる。
礼拝堂跡まで、あと十数歩。
アルトは左手首に触れた。
「痛みなし。熱少し。声なし。怖いです。でも、呼ばれている感じではありません」
リゼ。
「身体異常なし。感情、緊張。戦時記憶接近あり。私は、この場所を敵拠点跡として通過した可能性があります」
エリアナ。
「身体異常なし。感情、怖さ。怒り。期待。香草が少し強く香っています」
ミリア。
「身体異常なし。全員、声が小さくなっています。必要時は手信号を使いましょう」
カイ。
「身体異常なし。怖いです。大声は出しません。あと、ここは戦う場所に見えません」
その言葉に、エリアナがカイを見る。
カイは礼拝堂跡を見たまま続けた。
「うまく言えないですけど、ここ、誰かが何かを置いたり、干したり、灯したりしてた場所に見えます」
クラウスが静かに頷いた。
「悪くない。むしろ正確だ」
カイは少し驚いた顔をした。
「本当ですか」
「本当だ。ここには儀礼だけでなく、日常の手入れの痕跡がある」
エリアナの表情が少しだけ揺れた。
「日常」
ミリアが言う。
「祈りも、手入れがあるものね」
エリアナは香草袋を握りすぎないように、ゆっくり力を抜いた。
「はい」
ユリウスが判断する。
「入口部まで進む。内部にはまだ入らない。十歩ずつ確認」
全員が頷く。
一歩。
二歩。
石の匂いが強くなる。
三歩。
風が礼拝堂跡の中を抜け、低い音を出す。
四歩。
アルトの左手首が温かい。
痛みはない。
五歩。
エリアナの香草袋から、乾いた甘さがわずかに漂う。
六歩。
リゼの視線が、入口の梁へ向かう。
七歩。
彼女の呼吸が少し乱れる。
アルトがすぐ声をかける。
「リゼさん」
「はい」
「現在地」
「白鐘北礼拝堂跡入口前」
「名前」
「リゼ・グレイス」
「今は」
「王立学園の生徒です。礼拝堂跡入口前で確認中」
リゼは自分で続けた。
「ここは敵拠点跡ではなく、白鐘北礼拝堂跡です。私は現在、その入口を確認しています」
ロウ教師が頷いた。
「よし」
十歩目で止まる。
礼拝堂跡の入口。
屋根は崩れているが、入口の左右に石柱が残っている。
石柱には、白布を掛けた跡があった。
入口の上部に、布を渡すための梁。
その梁は半分焦げている。
だが、完全には落ちていない。
クラウスが遠眼鏡で確認する。
「梁に布擦れ跡。白布または覆い布を掛けていた可能性が高い」
エレオノーラが記録する。
エリアナが小さく言った。
「鐘を覆う布」
クラウスが頷く。
「あるいは入口を覆う布。鐘が内部にあったなら、入口で音を外へ出さないための覆いかもしれない」
アルトの左手首が温かくなる。
「痛みなし。熱少し。声なし。“音を外へ出さない”で反応しました」
ミリアが確認する。
「怖い?」
「少し。でも、閉じ込める感じではありません」
クラウスが慎重に言った。
「白鐘の本来手順は、届きすぎる音を抑える、防護的なものだった可能性がある」
リゼが頷く。
「敵の通信遮断ではなく、防護」
「可能性だ」
「はい。記録します」
礼拝堂の入口から内部を覗く。
床は石。
中央部分は崩れた瓦礫で塞がれているが、左右には歩けそうな空間がある。
奥の壁に、半円形の窪み。
そこには何かが置かれていたのだろう。
鐘か。
布か。
灯皿か。
まだわからない。
右壁には、小さな棚が三段残っている。
その下に、黒い焦げ跡。
左壁には、細い紐を通すための穴が並ぶ。
床の一部には、乾いた植物の残骸のようなものが見えた。
エリアナの香草袋が、明らかに香った。
乾いた甘さ。
焼ける前の苦味。
アルトの左手首の熱が、少し落ち着く。
「痛みなし。熱少し低下。声なし。香草の香りで落ち着きました」
エリアナは自分の香草袋を見た。
「ここが、覚えているみたいです」
声は震えていた。
ミリアがそっと尋ねる。
「状態は」
「身体異常なし。感情、怖さ。泣きたいです。香草が、ここを知っているように感じます」
「記録していい?」
「はい。ただし、感情として」
エレオノーラが記録する。
クラウスはうなずいた。
「感情として記録する。同時に、香草袋の香りが強まった事実も記録する。原因は未確定」
エリアナは頷いた。
「はい」
ユリウスが判断する。
「入口から内部左側へ三歩だけ入る。中央瓦礫には近づかない。奥へは進まない」
アルトの左手首が少し熱を持つ。
「痛みなし。熱少し。声なし。内部へ入ることで反応しました。進めます」
リゼも言う。
「身体異常なし。進行可能。ただし、戦時記憶の接近あり」
ロウ教師が低く言う。
「進む前に言え。戦時中、ここを何として見た」
リゼは礼拝堂跡を見た。
崩れた壁。
焦げた梁。
灯皿棚。
香草の痕跡。
白布の溝。
そこに、別の記憶が重なる。
煙。
崩れた入口。
敵が潜む可能性。
資料処理。
敵拠点跡、確認。
通過。
危険なし。
次へ。
「敵拠点跡、または敵支援施設跡として処理した可能性があります」
声は静かだった。
「今は」
ロウ教師が問う。
リゼは息を吸う。
「白鐘北礼拝堂跡です。布、灯、香草、旧儀礼の痕跡があります。生活と祈りの場所であった可能性があります」
エリアナが小さく言った。
「戦うためだけの場所ではありませんでした」
リゼは頷く。
「はい」
その言葉を受け取ってから、三歩だけ内部へ入る。
一歩。
石の床は少し沈んでいる。
二歩。
内部の空気は外より冷たい。
三歩。
止まる。
声は、さらに遠くなる。
カイが入口外から小さく言った。
「声、聞こえますか」
アルトは振り返る。
「聞こえます。でも、遠いです」
カイの声は、すぐ後ろではなく、壁の奥を回って届くようだった。
クラウスが測定具を見る。
「反響が特殊だ。音の方向感覚がずれる。宿場の口伝と合う」
エレオノーラが記録する。
ミリアが入口から言った。
「声で確認しづらいなら、手信号も使いましょう」
リゼが頷き、手信号で返す。
良好。
内部左側の棚を見る。
小型灯皿を置くための棚のようだった。
上段には白っぽい粉。
中段には黒い焦げ跡。
下段には、乾いた植物の細い茎のようなものが残っている。
クラウスは触れない。
まず目視。
「灯皿棚。香草乾燥または保管痕の可能性。黒い焦げは、灯によるものか、後年の火災か、要確認」
エリアナが内部を見つめる。
「ここで、灯を置いた」
「可能性があります」
「香草も」
「可能性があります」
「白布も」
「可能性があります」
エリアナは目を閉じそうになった。
だが、閉じなかった。
「私は、ここを知りませんでした」
リゼが静かに言う。
「はい」
「でも、母の言葉は、ここを知っていたかもしれません」
「はい」
アルトは左手首に触れる。
痛みなし。
熱少し。
声なし。
礼拝堂跡は怖い。
だが、呼ばれている感じではない。
むしろ、静かにしていてほしい場所。
壊さないでほしい場所。
大声で入ってはいけない場所。
「怖いです」
アルトは言った。
「でも、ここは僕を呼んでいる感じではありません」
クラウスがすぐ記録を促すように頷いた。
「重要だ。銀環が反応しているが、誘引感はない」
エレオノーラが記録する。
リゼは内部の床を見た。
瓦礫の近くに、小さな焦げ跡がある。
ただの火災とは違う。
円形に近い。
何かを集めて焼いたような跡。
カイが入口からそれに気づいた。
「そこ、焦げてませんか」
クラウスが視線を向ける。
「確かに」
ユリウスがすぐに止める。
「近づかない。確認は目視のみ」
クラウスは距離を保ったまま見る。
「焦げ跡。戦闘火災か、儀礼火か、資料焼却かは不明」
エリアナの肩がわずかに震える。
「資料焼却」
ミリアがすぐに声をかける。
「状態は」
「身体異常なし。感情、怖いです。母の手帳もここで焼かれたかもしれない、と考えました」
空気が止まる。
エリアナはすぐに自分で続けた。
「断定しません」
リゼが静かに頷く。
「はい」
「誰かの手帳が、ここで焼かれた可能性があります。母のものかもしれません。そうでないかもしれません」
エレオノーラが記録する。
ミリアが言う。
「言い直せたわ」
「はい」
エリアナは香草袋を握る。
「でも、怖いです」
「それも記録するわ」
リゼは焦げ跡を見た。
「私は、戦時中、焼け跡を敵資料処理跡として見た可能性があります」
エリアナがリゼを見る。
「はい」
「今は、誰かの記録、手帳、儀礼記録、または別の資料が焼かれた可能性として確認します」
「はい」
カイが小さく言った。
「燃えたって、誰かがいなくなるみたいで嫌ですね」
ロウ教師が入口で頷く。
「そうだ。燃やすことは、片づけではないことがある」
カイは唇を結んだ。
「はい」
クラウスが慎重に言う。
「焦げ跡は、今日の段階では採取しない。資料焼却の可能性があるなら、準備なしに触れるべきではない」
ユリウスも頷く。
「同意する。位置と状態を記録。採取は後日、必要準備の上で」
アルトはほっとした。
開けない。
触れない。
拾わない。
それはもどかしいが、ここでは正しい気がした。
礼拝堂跡の奥へ視線を向けると、瓦礫の向こうに、暗い縦の影が見えた。
扉かもしれない。
地下への入口かもしれない。
あるいは、ただの崩れた壁の隙間かもしれない。
アルトの左手首が、急に熱を持った。
痛みはない。
だが、これまでより強い。
「痛みなし。熱中。声なし。奥の暗い影で反応しました」
全員が止まった。
ミリアが言う。
「接近しない」
ユリウスも即座に頷く。
「その場で停止。奥へは進まない」
クラウスが遠眼鏡を使う。
「奥壁の崩落部に、縦型の構造物が見える。扉かどうかは不明。ただし、反応があるなら今日は近づかない」
ロウ教師が低く言った。
「見つけたら止まる」
カイが小声で繰り返す。
「見つけたら止まる」
アルトは左手首を押さえた。
熱はある。
声はない。
けれど、奥の暗がりを見ていると、胸の奥に小さな不安が生まれる。
扉へ来るな。
その記憶が、声ではなく、言葉として戻る。
「声はありません。でも、“扉へ来るな”を思い出しました」
リゼがすぐに言う。
「現在地」
「白鐘北礼拝堂跡入口内部、左側三歩地点」
「名前」
「アルト・レインフォード」
「感情」
「怖いです。でも、戻れます」
ミリアが頷く。
「戻りましょう」
ユリウスも即決した。
「本日の内部確認は終了。全員、入口外へ戻る」
リゼはすぐに頷いた。
「了解しました」
誰も奥へ進まない。
誰も、もう少しだけ、と言わない。
三歩分を戻る。
三歩。
二歩。
一歩。
入口外へ出ると、空気が少しだけ軽くなった。
アルトの左手首の熱も少し下がる。
「痛みなし。熱少し低下。声なし。入口外へ戻って落ち着きました」
エリアナも息を吐いた。
「身体異常なし。疲労。怖かったです」
リゼが言った。
「身体異常なし。戦時記憶接近あり。現在地保持。戻れました」
ミリアが静かに頷く。
「良好よ。とても良好」
礼拝堂跡の外で、全員は休憩を取った。
石碑からも礼拝堂からも少し離れた、参道脇の平らな場所。
カイが包みを出す。
ミリアが尋ねた。
「名前は?」
カイは礼拝堂跡を見て、長く考えた。
敵拠点跡ではない。
灯皿。
香草。
白布。
焦げ跡。
奥の暗い影。
見つけたら止まる。
やがて、彼は小さく言った。
「敵拠点じゃなくて、誰かが灯りを置いた場所用」
エリアナの瞳が揺れた。
リゼも静かに頷く。
「適切です」
アルトも言った。
「僕も、それがいいです」
カイは包みを開いた。
小さな焼き菓子と、香草パンの欠け。
今日の香草パンは、なぜか香りが強く感じられた。
礼拝堂跡の空気が、まだ鼻の奥に残っているからかもしれない。
アルトは成分を読み上げる。
「焼き菓子は小麦、卵、乳、林檎、杏。香草パンは小麦、卵、乳、蜂蜜、香草候補二、香草候補三。蜂蜜減量版。香草はエリアナさん調整です」
エリアナが頷いた。
「確認しました」
五人は、静かに食べた。
礼拝堂跡を見ながら。
石壁の崩れた影。
布を掛ける梁。
灯皿棚。
焦げ跡。
奥の暗い縦影。
アルトの左手首はまだ少し温かい。
だが、痛みはない。
声もない。
エリアナは香草パンをゆっくり噛み、言った。
「ここは、戦うためだけの場所ではありませんでした」
リゼが頷く。
「はい」
「誰かが灯りを置いて、香草を乾かして、布を掛けた場所でした」
「はい」
「焦げ跡があります」
「はい」
「誰かの記録が焼かれた可能性があります」
「はい」
「それを、敵資料処理だけにしないでください」
リゼは深く頷いた。
「はい。しません」
アルトも言った。
「僕も、記録します」
ミリアが微笑む。
「ええ」
休憩後、ユリウスが本日の確認をまとめた。
「白鐘北礼拝堂跡外部および入口部を確認。布掛け梁、灯皿棚、香草痕の可能性、焦げ跡、奥部縦型構造影を確認。内部は左側三歩まで。地下構造物の可能性あり。ただし、接近せず、開封せず。焦げ跡は資料焼却の可能性を含むが、未確認。採取なし」
エレオノーラが記録を読み返す。
クラウスが追加する。
「銀環反応は、礼拝堂跡視認、音を外へ出さない構造説明、奥部縦型構造影で確認。ただし誘引感なし。香草袋接近時、熱が低下する傾向あり。心理的安定か儀礼的相性かは未確定」
エリアナが静かに言う。
「香草袋は、私のものです」
クラウスがすぐに頷く。
「はい。王宮提出資料にはしません」
ミリアも言う。
「学園内記録でも、扱いは慎重にしましょう」
エレオノーラが記録する。
リゼは礼拝堂跡へ一礼した。
エリアナも、それに続いた。
アルトも。
ミリア、カイ、ユリウス、エレオノーラ、クラウス、ロウ教師も。
誰も、大きな声を出さない。
誰も、奥へ急がない。
来た道を戻る。
石碑の前を通る。
灰銀突破点。
その文字を横目に、リゼは立ち止まらず、しかし無視もしなかった。
通過する前に、小さく言った。
「私は、ここを敵拠点跡としてだけ見ません」
エリアナが後ろから言う。
「はい」
「白鐘北礼拝堂跡として記録します」
「はい」
谷を出ると、音が戻る。
鳥の声が近くなる。
カイが小さく息を吐いた。
「今日は、戻れてよかった」
ロウ教師が頷く。
「それが成果だ」
カイは少し驚いたように見る。
「戻るのが成果」
「そうだ」
「じゃあ、今日はかなり成果あります」
「その通りだ」
カイは少しだけ嬉しそうだった。
宿へ戻る頃には、夕方の色が山の端ににじんでいた。
食堂に入ると、温かいスープの匂いがした。
それだけで、全員の肩が少し落ちる。
安全な場所の匂い。
戻ってきたことを身体に知らせる匂い。
夕食後、五人は食堂の隅で状態確認をした。
アルト。
「痛みなし。熱少し。声なし。奥の暗い影で怖くなりました。でも、戻れました」
リゼ。
「身体異常なし。疲労あり。感情、重い。白鐘北礼拝堂跡を敵拠点跡としてだけ扱わないと確認しました。内部三歩で戻れました」
エリアナ。
「身体異常なし。疲労あり。感情、怖さ。怒り。期待。泣きたい気持ちがまだあります。でも、戻れました」
ミリア。
「身体異常なし。全員、止まって戻れました。とても良好です」
カイ。
「身体異常なし。馬車酔いなし。声量、通常に戻りつつあります。敵拠点じゃなくて誰かが灯りを置いた場所用、残り少しです」
リゼが頷く。
「配分、良好です」
エリアナが香草袋を手に持った。
袋からは、もうほとんど香りは出ていない。
それでも、彼女はそれを大切に持っている。
「母の香草ではありません」
彼女は静かに言った。
「母を思い出す香草です」
ミリアが頷く。
「ええ」
「でも、今日、礼拝堂跡が少し香りを返したように感じました」
クラウスが慎重に言う。
「感情として記録します。現象としては、香草袋の香りが強まった可能性。原因未確定」
エリアナは頷いた。
「はい」
アルトは左手首に触れた。
痛みなし。
熱少し。
声なし。
白鐘北礼拝堂跡は、怖かった。
しかし、そこはアルトを呼ぶ場所ではなかった。
灯りを置いた場所。
布を掛けた場所。
香草を乾かした場所。
誰かが何かを守ろうとした場所。
そして、何かが焼けたかもしれない場所。
奥には、暗い影があった。
扉かもしれない。
地下へ続く入口かもしれない。
今日は近づかなかった。
それでよかった。
リゼは食堂の窓の外を見ていた。
「私は、今日、礼拝堂跡から戻りました」
エリアナが頷く。
「はい」
「突破しませんでした」
「はい」
「敵拠点跡として制圧しませんでした」
「はい」
「三歩で戻りました」
エリアナは少しだけ目を伏せた。
「それで、よかったです」
リゼは静かに頷いた。
「はい」
宿の外では、夜が降りている。
鳴らさぬ谷は、もう闇の中だ。
白布は見えない。
石碑も見えない。
礼拝堂跡も見えない。
けれど、アルトの耳には、まだあの場所の静けさが残っていた。
声ではない。
鐘でもない。
布と灯と香草の記憶が、壊れた石の間で息をしているような静けさ。
そして、その奥の暗い影が、まだ開けられないまま、沈黙している。
アルトは記録表に最後の一行を書いた。
白鐘北礼拝堂跡。
怖い。
でも、呼ばれてはいない。
今日は戻れた。




