第9章 第9話:孤独な音
孤独な音は、ここより先へ通すな。
その言葉は、まだ見つかっていない。
少なくとも、朝の時点では。
白鐘北礼拝堂跡の奥に見えた暗い縦影。
扉かもしれない。
地下へ続く入口かもしれない。
ただの崩落した壁の隙間かもしれない。
昨日は、そこで止まった。
近づかなかった。
開けなかった。
触れなかった。
それでよかった。
アルト・レインフォードは、宿場の食堂で記録表を見つめていた。
昨日の最後の行。
白鐘北礼拝堂跡。
怖い。
でも、呼ばれてはいない。
今日は戻れた。
その下に、空白がある。
今日、そこに何を書くことになるのかは、まだわからない。
左手首に触れる。
痛みはない。
熱もほとんどない。
声もない。
「痛みなし。熱ごく少し。声なし。現在地、北西宿場の食堂」
アルトが言うと、隣のリゼ・グレイスが頷いた。
「確認しました」
リゼは今朝も青いリボンで髪をまとめ、剣は鞄の側面に布で包んでいる。
最後の手段。
彼女はそれを毎朝、声に出して確認する。
「剣は携行します。最初に使うものではありません」
今日もそう言った。
その言葉は、彼女自身を戦場から戻すための手順にもなっている。
エリアナ・ルクス・ヴェルグラントは、香草袋を膝の上に置いていた。
昨日、礼拝堂跡で香りが強まったように感じた袋。
母の香草ではない。
母を思い出す香草。
記録ではなく、彼女のもの。
その扱いは、今朝も最初に確認された。
クラウス・ヴァイゼルが言った。
「香草袋の香りが白鐘関連反応と関係する可能性はある。ただし、王宮提出資料にはしない。現地で使用するかどうかはエリアナさん本人が決める」
エリアナは頷いた。
「はい。私が決めます」
ミリア・ファルネーゼが静かに微笑む。
「良好よ」
ユリウス・エインズワースは今日の計画を読み上げる。
「本日の目的。白鐘北礼拝堂跡入口部の再確認。奥部縦型構造影の目視確認。ただし、接近距離は昨日より二歩まで。扉と判断された場合も開けない。文字、刻印、布、灯皿、香草痕が確認された場合、接触前に停止。地下構造物の存在が確認されても、進入しない」
カイ・ロックハートが保存食袋を抱えながら、真剣に頷いた。
「見つけても止まる」
ロウ教師が言う。
「そうだ」
「開けたらわかる、は駄目」
「駄目だ」
「わかりました」
カイの声はいつもより小さい。
鳴らさぬ谷に入る前から、少しずつ声量を落としているらしい。
エレオノーラ・ヴィンスフェルトが記録する。
出発前の状態確認が始まった。
アルト。
「痛みなし。熱ごく少し。声なし。昨日の奥の暗い影が怖いです。でも、今日も確認したいです。開けるつもりはありません」
リゼ。
「身体異常なし。感情、緊張。白鐘北礼拝堂跡奥部接近により、戦時記憶および危険判断反応が出る可能性あり。私は制圧ではなく、確認と退避管理を行います」
エリアナ。
「身体異常なし。感情、怖さ、怒り、期待。香草袋を持っています。使うかどうかは、現地で判断します」
ミリア。
「身体異常なし。全員、昨日の疲労が少し残っています。今日の確認範囲を狭くする判断は適切だと思います」
カイ。
「身体異常なし。馬車酔いなし。保存食数、良好。今日も突撃しません。あと、暗い影に勝手に近づきません」
リゼが即座に頷く。
「重要です」
カイは少しだけ背筋を伸ばした。
「はい」
宿を出ると、空は薄く曇っていた。
昨日より光が弱い。
山の方角は白く霞んでいる。
馬車で分岐まで向かう間、アルトは左手首を何度か確認した。
痛みなし。
熱ごく少し。
声なし。
北西街道を何度も通るうちに、反応は少し落ち着いてきた。
だが、これは慣れなのか、安全なのか、まだわからない。
ロウ教師の言葉を思い出す。
慣れと無傷を混同するな。
アルトは記録表に書いた。
反応弱化。慣れか、安全か未確定。
隣でカイが覗き込む。
「難しいこと書いてるな」
「ロウ先生が言っていたので」
「あの先生の言葉、後から効いてくるよな」
「はい」
「焼き菓子みたいだな。噛んでから味が来る」
アルトは少し笑った。
「それは、たぶんカイさんだけの表現です」
「でも、わかるだろ」
「少し」
ミリアが向かいで微笑んだ。
リゼは窓の外を見ながら、そのやり取りを聞いていた。
エリアナも香草袋に触れたまま、ほんの少しだけ表情を緩めている。
分岐で馬車を降り、古道へ入る。
白布の石柱が見えてくる。
今日も布は揺れていた。
こす。
こす。
石に触れる小さな音。
アルトの左手首が温かくなる。
「痛みなし。熱少し。声なし。白布確認」
エリアナの香草袋が、わずかに香る。
熱が少し落ち着く。
全員が白布に頭を下げる。
触れない。
ほどかない。
声を落として、谷へ入る。
谷の中は、曇り空のせいか、昨日より暗く感じた。
両側の岩壁が、音を吸っている。
足音が鈍い。
風の流れも薄い。
カイは小声で言った。
「今日、もっと静かじゃないですか」
クラウスが測定具を見る。
「湿度と風向きの影響かもしれない。封印環境の残留反応は昨日と大きく変わらない」
エレオノーラが記録する。
古い石段を登る。
灰銀突破点の石碑が現れる。
表には王国軍の名。
裏には旧文字。
王の血を、ここより先へ持ち込むな。
音、乱れる。
今日も全員は石碑の前で止まった。
ユリウスが言う。
「ここで状態確認」
アルト。
「痛みなし。熱少し。声なし。石碑で反応あり。継続可能です」
リゼ。
「身体異常なし。感情、重い。石碑名に反応あり。現在地保持」
エリアナ。
「身体異常なし。怒り、怖さ。王の血という文字への不快感あり。継続可能です」
ミリア。
「身体異常なし。全員、声量維持できています」
カイ。
「身体異常なし。怖いけど大丈夫です。声量、低め」
ロウ教師が頷く。
「よし。通過しろ。突破ではない」
リゼが答える。
「通過します。突破しません」
石碑へ一礼し、その奥へ進む。
白鐘北礼拝堂跡が見える。
崩れた石壁。
半分焦げた梁。
灯皿棚。
香草痕。
奥の暗い縦影。
昨日と同じ場所。
だが、今日の目的は、その影を少しだけ確認することだった。
礼拝堂跡入口前で、再び停止。
クラウスが測定具を置く。
「入口部、昨日と同程度。強い危険反応なし。奥部には微弱な封印反応。銀環反応があるため、接近は段階的に」
ユリウスが頷く。
「昨日と同じく、内部左側三歩まで。その後、奥部縦型構造影を遠眼鏡で確認。追加接近は全員の状態確認後、最大二歩」
アルトの左手首が少し熱を持つ。
「痛みなし。熱少し。声なし。進めます」
リゼが言う。
「身体異常なし。退避経路確認済み。入口外にカイさんとミリアさん、内部三歩地点に私とアルトさん、エリアナさんは入口線上で停止を提案します」
エリアナがリゼを見る。
「私が中に入らない方がよいという判断ですか」
リゼはすぐに首を横に振った。
「いいえ。本人意思を確認します。香草袋の反応と、エリアナさんの負荷を考慮した提案です。入るかどうかは、本人意思です」
ミリアが頷く。
「良い言い方よ」
エリアナは少し考えた。
「今日は入口線上までにします。中には入りません。ただし、見ます」
リゼが頷く。
「本人意思、確認しました」
アルトは少し安心した。
誰かが勝手に決めたのではない。
エリアナが決めた。
自分の位置を。
自分の距離を。
それは、この場所ではとても大事だった。
内部へ入る。
一歩。
石の床は冷たい。
二歩。
空気が重くなる。
三歩。
昨日と同じ地点で止まる。
奥の暗い影が見えた。
今日は、昨日より少しはっきり見える。
縦に長い石枠。
中央に暗い隙間。
その上部に、横長の石板。
扉、というより、封じられた入口。
地下か、奥室か。
アルトの左手首が熱を持つ。
「痛みなし。熱中より弱い。声なし。奥部縦型構造影で反応しました」
ミリアが入口外から確認する。
「続けられる?」
「はい。声はありません。怖いですが、戻れます」
クラウスが遠眼鏡を使う。
「石枠上部に文字がある。かなり摩耗している」
エレオノーラが少し位置を変え、記録用の写し板を準備する。
接近はまだしない。
見える範囲で読む。
クラウスが目を細めた。
「……孤……音……」
アルトの左手首が強く熱を持った。
痛みはない。
声はない。
だが、胸の奥が大きく震える。
「痛みなし。熱中。声なし。“孤”と“音”で反応しました」
リゼがすぐに言う。
「現在地」
「白鐘北礼拝堂跡内部三歩地点」
「名前」
「アルト・レインフォード」
「感情」
「怖いです。でも、聞けます」
クラウスは読み取りを続けた。
「孤独な……音は……ここより……先へ……通すな」
礼拝堂跡の中の空気が、止まったように感じた。
孤独な音は、ここより先へ通すな。
エリアナが入口線上で息を止める。
リゼの瞳が揺れる。
アルトは左手首を押さえた。
熱い。
でも痛みはない。
声もない。
ただ、その文字が、自分の中にあった言葉と重なる。
孤独な鍵ほどよく響く。
友達を近づけるな。
扉へ来るな。
鐘を鳴らすな。
孤独な音はよく響く。けれど、孤独なままでは砕ける。
アルトの息が少し乱れた。
リゼがすぐに一歩寄りすぎない距離で声をかける。
「アルトさん」
「はい」
「痛み」
「なし」
「熱」
「中」
「声」
「なし」
「現在地」
「白鐘北礼拝堂跡内部三歩地点」
「名前」
「アルト・レインフォード」
「同席者」
「リゼさん、ミリアさん、カイさん、エリアナさん、ユリウス先輩、エレオノーラ先輩、クラウスさん、ロウ先生」
「孤独ですか」
その問いに、アルトは息を吸った。
答えは、少し震えた。
「いいえ」
リゼは頷いた。
「確認しました」
エリアナが入口から静かに言った。
「孤独な音は、ここより先へ通すな」
声は小さい。
だが、確かに届く。
「母の言葉と、繋がります」
クラウスが頷く。
「“孤独な音はよく響く。けれど、孤独なままでは砕ける”。その系統の警告と見てよい可能性が高い」
アルトは左手首に触れたまま言った。
「ここは、僕を一人にして通す場所じゃなかったんですね」
誰もすぐには答えなかった。
その重さを、全員が受け取っている。
クラウスが慎重に言う。
「少なくとも、この文は“孤独な音”を通すな、と警告している。白鐘の封が孤独な反応を危険視していた可能性がある」
ミリアが入口から言った。
「つまり、友達を近づけるな、という声とは逆ね」
アルトの左手首がまた熱を持つ。
「痛みなし。熱中。声なし。“友達を近づけるな”を思い出しました。声ではありません」
リゼが言う。
「記憶として処理します。声ではありません」
「はい」
カイが入口外から、いつもより低く、それでもはっきり言った。
「じゃあ、その声、嘘じゃん」
ロウ教師が見る。
カイはすぐに言い直そうとして、しかし少し考えた。
「……嘘、というか、敵の方の言葉かもしれない、です」
ロウ教師が頷いた。
「よし」
カイは続けた。
「ここが“孤独な音を通すな”って言ってるなら、“友達を近づけるな”は、守る言葉じゃなくて、一人にする言葉かもしれない」
クラウスが頷く。
「その可能性は高まった。敵は白鐘の警告を反転して使っているのかもしれない」
リゼが静かに整理する。
「友達を近づけるな、扉へ来るな、鐘を鳴らすな。これらの声は、アルトさんを守る警告ではなく、孤立誘導である可能性があります」
アルトはその言葉を聞き、胸の中で何かがほどけるのを感じた。
同時に、怖くもなった。
あの声を、ずっと警告だと思っていた。
友達を守るために、自分が離れなければならないのだと、どこかで思っていた。
でも、もし逆なら。
自分を孤独な音にするための言葉だったなら。
「僕は」
声が震える。
ミリアが言う。
「ゆっくりでいいわ」
アルトは頷いた。
「僕は、友達を近づけるな、が怖かったです。みんなを危険にするから、離れなきゃいけないのかと思いました」
リゼが静かに聞いている。
エリアナも。
カイも。
「でも、ここは、孤独な音を通すなって言っています」
アルトは左手首を押さえた。
「だったら、僕は一人にならない方がいいのかもしれません」
カイがすぐに言った。
「じゃあ俺たち、近くにいた方がいいじゃん」
その言葉が、礼拝堂跡の静けさの中で妙にはっきり響いた。
大声ではない。
でも、届いた。
アルトの左手首の熱が、少し下がった。
「痛みなし。熱少し低下。声なし。カイさんの言葉で落ち着きました」
カイの目が丸くなる。
「俺の言葉で?」
「はい」
カイは少し照れたように、でも真面目に頷いた。
「じゃあ、近くにいます」
ミリアが微笑む。
「ええ。近くにいるわ」
リゼも言った。
「私も近くにいます。ただし、本人意思と安全距離を確認します」
アルトは小さく笑いそうになった。
「はい」
エリアナが入口線上で言った。
「孤独な音は、よく響く。けれど、孤独なままでは砕ける」
彼女の母の言葉。
ここで聞くと、別の意味を持った。
孤独な音を利用するのではない。
砕けないように、通さない。
白鐘の封は、アルトを閉じ込めるためではなく、孤独な反応を防ぐためのものだった可能性がある。
アルトはその可能性を、ゆっくり受け取った。
怖い。
でも、少しだけ救いもある。
クラウスが言った。
「追加接近はしない方がよい。文字は読めた。今日の目的は達した」
ユリウスが即座に頷く。
「同意する。扉前へは近づかない。内部確認終了。全員、入口外へ戻る」
アルトは少しだけ奥の石枠を見た。
暗い。
文字だけが、かろうじて読める。
孤独な音は、ここより先へ通すな。
扉は、開けない。
近づきすぎない。
戻る。
三歩を戻る。
二歩。
一歩。
入口外へ。
外の空気に触れた瞬間、左手首の熱が少し下がった。
「痛みなし。熱少し低下。声なし。入口外へ戻りました」
リゼも言う。
「身体異常なし。現在地保持。内部三歩で戻りました」
エリアナは香草袋を握っていた。
「身体異常なし。感情、怖さ。少し、安心もあります」
ミリアが頷く。
「安心も記録していい?」
「はい」
エレオノーラが記録する。
礼拝堂跡から少し離れた参道脇で休憩を取る。
カイが包みを取り出した。
ミリアが尋ねる。
「名前は?」
カイは即答しなかった。
今日の言葉は重い。
孤独な音。
友達を近づけるな。
近くにいた方がいい。
しばらく考えてから、彼は言った。
「一人にしない方がいい用」
アルトの胸が熱くなった。
左手首ではない。
胸の奥。
リゼが静かに頷く。
「適切です」
エリアナも言った。
「はい。今日は、それがよいです」
ミリアが微笑む。
「私もそう思うわ」
カイは包みを開いた。
小さな焼き菓子と、香草パンの欠け。
アルトは成分を読み上げようとして、少し声が詰まった。
ミリアが優しく待つ。
アルトは息を整えてから言った。
「焼き菓子は小麦、卵、乳、林檎、杏。香草パンは小麦、卵、乳、蜂蜜、香草候補二、香草候補三。蜂蜜減量版。香草はエリアナさん調整です」
エリアナが頷く。
「確認しました」
香草パンを噛む。
苦味。
甘さ。
遠くから近づいてくる香り。
今日は、その香りが少しだけ人の声に近かった。
エリアナが言った。
「母の言葉は、アルトさんを一人にするためのものではなかったと思います」
アルトは頷いた。
「はい」
「孤独な音を通すな、というのは、孤独なまま奥へ行かせないためかもしれません」
「はい」
「私も、そう思いたいです」
リゼが静かに言った。
「敵は、白鐘本来の警告を反転させている可能性があります」
クラウスが頷く。
「封信蔦も同じ発想かもしれない。本来、届きすぎる音を抑え、境界を守る手順を、届くべき声を奪う術式に変えた。今回の“友達を近づけるな”も、孤独化のために警告を偽装した可能性がある」
アルトは左手首に触れた。
「僕は、それを信じそうになっていました」
ミリアが言う。
「怖い声は、信じてしまうことがあるわ」
カイが頷いた。
「だから、項目に書いたんだろ。友達を遠ざける声って」
アルトは記録表を開いた。
出発前に作った欄。
友人を遠ざける声・記憶。
声か、記憶か。
反応時の本人意思。
近くにいてほしい人。
距離を取りたい人。
停止希望。
報告先。
アルトはそこに書いた。
今日の確認。
友達を近づけるな、は守る声ではなく孤立誘導の可能性。
近くにいてほしい人。
みんな。
書いてから、少し恥ずかしくなった。
カイが覗き込もうとしたので、アルトは紙を少し隠す。
「見ないでください」
「え、気になる」
「今は駄目です」
ミリアが笑う。
「本人意思よ、カイ君」
「はい。見ません」
そのやり取りに、アルトの左手首の熱がさらに下がった。
「痛みなし。熱少し低下。声なし。会話で落ち着きました」
リゼが頷く。
「友人会話、安定要素として記録可能です」
ミリアが微笑む。
「記録名が硬いわね」
「改善します」
カイが言う。
「一人にしない雑談」
リゼは真面目に頷いた。
「有効です」
エリアナが小さく笑った。
とても小さな笑い。
それでも、礼拝堂跡の近くでは貴重な音だった。
休憩後、ユリウスが本日の確認事項を整理した。
「白鐘北礼拝堂跡奥部縦型構造影上部の旧文字を確認。“孤独な音は、ここより先へ通すな”。構造物自体には接近せず。開封なし。銀環反応は熱中、痛みなし、声なし。友達を近づけるな、という過去の声は孤立誘導の可能性が高まった。白鐘の本来手順は、孤独な反応を防ぐ防護であった可能性」
エレオノーラが記録を読み返す。
クラウスが追加する。
「断定は避ける。ただし、王の血を持ち込むな、音乱れる、孤独な音を通すな。この三つは同じ警告体系に属する可能性がある」
エリアナが言う。
「母の言葉も、そこに入る可能性があります」
「はい」
リゼは静かに言った。
「私は、アルトさんを孤独な音にしません」
アルトがリゼを見る。
リゼは続けた。
「守るために離すことが、常に適切とは限りません。距離を置く場合も、本人意思と安全条件を確認します。敵の孤立誘導と混同しません」
ミリアが頷く。
「良好よ」
カイが言う。
「つまり、勝手に一人にしない」
「はい」
「あと、自分から一人になるって言った時も、理由を確認する」
アルトは少し驚いてカイを見る。
カイは真面目だった。
「アルトが“みんな危ないから離れて”って言ったら、それが本当に本人意思なのか、変な声に引っ張られてるのか確認する」
リゼが頷く。
「重要です」
アルトは少しだけ目を伏せた。
「お願いします」
カイは力強く頷いた。
「おう」
声が少し大きくなりかけて、すぐに小さくした。
「……おう」
その様子に、また小さな笑いが生まれた。
帰り道、礼拝堂跡へ全員が静かに頭を下げた。
扉らしき奥の構造には近づかなかった。
石碑の前を通る時、リゼは表の「灰銀突破点」を見て、次に裏の旧文字を見た。
そして、短く言った。
「私の英雄譚は、孤独な音を理解していませんでした」
エリアナが頷く。
「はい」
「これから確認します」
「はい」
谷を出ると、音が戻った。
鳥の声が近い。
風の音がはっきりする。
カイが小さく、しかし少し明るい声で言った。
「外の音、今日はありがたいな」
クラウスが頷く。
「良い感想だ」
カイは目を丸くする。
「今日、褒められる日ですか」
ロウ教師が言う。
「調子に乗るな」
「はい」
馬車へ戻ると、全員の肩が少しだけ落ちた。
宿場へ戻る道で、アルトは窓の外を見ていた。
左手首は落ち着いている。
痛みなし。
熱ごく少し。
声なし。
ただ、胸の中には、あの言葉が残っている。
孤独な音は、ここより先へ通すな。
その言葉は、自分を拒むものではないのかもしれない。
孤独なまま通さない。
孤独にしない。
そういう意味かもしれない。
宿に戻った後、夕食の前に状態確認が行われた。
アルト。
「痛みなし。熱ごく少し。声なし。孤独な音という文字は怖かったです。でも、友達を近づけるな、が守る声ではない可能性が見えました。少し安心しています」
リゼ。
「身体異常なし。疲労あり。感情、重い。アルトさんを孤独な音にしないことを確認しました。敵の孤立誘導と守るための距離を混同しません」
エリアナ。
「身体異常なし。疲労あり。感情、怖さ、少し安心。母の言葉が、孤独にするためではなく守るための警告だった可能性を確認しました」
ミリア。
「身体異常なし。全員、今日も止まって戻れました。会話で落ち着く場面がありました」
カイ。
「身体異常なし。馬車酔いなし。声量、通常へ戻し中。一人にしない方がいい用、残り少しです」
リゼが頷いた。
「配分、良好です」
夕食後、カイは残り少ない包みを開いた。
ミリアが聞く。
「同じ名前?」
カイは頷く。
「今日は、もう一回これで」
一人にしない方がいい用。
アルトはその名前を聞いて、少しだけ目元が熱くなった。
泣くほどではない。
でも、胸が揺れた。
成分表を読む。
「焼き菓子は小麦、卵、乳、林檎、杏。香草パンは小麦、卵、乳、蜂蜜、香草候補二、香草候補三。蜂蜜減量版。香草はエリアナさん調整です」
エリアナが頷く。
「確認しました」
香草パンを食べる。
苦味と甘さ。
それから、香り。
宿場の食堂にいるのに、礼拝堂跡の静けさが少し戻ってくる。
けれど、今は一人ではない。
リゼがいる。
ミリアがいる。
カイがいる。
エリアナがいる。
大人たちもいる。
アルトは記録表の最後に書いた。
孤独な音は、ここより先へ通すな。
友達を近づけるな、は孤立誘導の可能性。
僕は孤独な音にはなりません。
そして、少し迷ってから、もう一行書いた。
近くにいてほしい人。
みんな。
今度は、紙を隠さなかった。
カイがちらりと見て、何も言わずに頷いた。
ミリアも微笑んだ。
リゼは真面目に頷く。
「本人意思、確認しました」
エリアナが静かに言った。
「孤独なままでは、砕けます」
アルトは頷いた。
「はい」
「でも、今は孤独ではありません」
アルトは左手首に触れた。
痛みなし。
熱なし。
声なし。
「はい。僕は、孤独ではありません」
宿の外では、夜が降りている。
鳴らさぬ谷は暗い。
白鐘北礼拝堂跡も、灰銀突破点の石碑も、奥の扉らしき影も、今は見えない。
けれど、見えない場所から何かが呼んでいる感じはしなかった。
むしろ、静かに閉じている。
孤独な音を通さないために。
誰かを一人にしないために。
アルトは最後にもう一度、左手首を確認した。
痛みなし。
熱なし。
声なし。
その静けさは、昨日より少しだけ怖くなかった。




